電子書籍「日野富子の仲介による3度目の和睦で、漸く応仁の乱は終結した一元化」の表紙

日野富子の仲介による3度目の和睦で、
漸く応仁の乱は終結した一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年3月29日〜1,477年6月13日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月30日

後花園上皇の院宣・細川勝元の髷落とし・山名宗全の切腹未遂・両総大将の死・日野富子の仲介料──
10年を要した応仁の乱終結を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1467年3月29日、足利義視が畠山政長・畠山義就両陣営に和睦を呼び掛けるも失敗に終わった日から、西暦1477年6月13日、足利義視が大内政弘経由で日野富子に和睦の仲介料を支払った日まで。本書は、応仁の乱勃発からわずか2ヶ月で始まった足利義視・足利義政・後花園上皇による初期の停戦試み、1472年の細川勝元・山名宗全による第1次和睦交渉、1473年の両総大将相次ぐ死後に引き継がれた細川勝元・山名政豊の第2次交渉、1474年の細川政元・山名政豊による武田国信仲介の単独和睦、そして1477年に日野富子の仲介で遂に成立した3度目の和睦まで、応仁の乱終結に至る10年3箇月間に亙る和睦交渉史を、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。

西暦1467年3月29日の足利義視による両畠山陣営への和睦呼び掛け失敗、同年6月29日の足利義政による停戦命令(東軍優位で痛み分け)、同年10月30日の後花園上皇による天下静謐の院宣と両軍勅使派遣に対し、細川勝元が「天下静謐とは山名宗全を討つ事」と応じて自軍を鼓舞し拒絶した序盤の破綻を経て、西暦1472年2月23日、細川勝元・山名宗全による第1次本格和睦交渉が開始されます。此の時点で東軍は大義名分・戦況共に優位に立ち、西軍の降伏で話が進んでいましたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し不調に終わりました。同年6月、細川勝元は細川勝之や家臣と共に髷を落として隠居姿勢を見せ、山名宗全の養女で山名熙貴の娘である春林寺殿を母に持つ長男細川政元に家督を継がせる意向を示します。山名家の血を引く政元に継承させる事で和睦を進める狙いでした。同月、山名宗全が切腹を試みて未遂に終わり、同年9月に家督を山名政豊に譲って隠居。西暦1473年4月15日に山名宗全が病死し、西陣南帝は西軍諸将によって追放、和睦交渉は山名政豊が引き継ぎます。同年5月9日の細川勝元・山名政豊による第2次交渉は畠山義就の承知せず不調、同年6月6日には細川勝元も死去し、交渉は細川政元が引き継ぐことになりました。

両総大将不在の新世代による交渉は、西暦1474年2月の細川政元・山名政豊の交渉でも再び赤松政則・畠山義就・大内政弘の反対で不調に終わりましたが、同年4月19日、武田国信の仲介により細川政元・山名政豊が単独和睦に踏み切ります。武田の条件は、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し丹後国守護職を一色義春へ返付するというもので、同日から細川家と山名家を隔てる空堀に橋が架けられ、東陣から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍勢力下の下京から東陣へ物を売る商人が往来を始めました。しかし同年7月、斎藤妙椿が数千騎を率いて丹後国に入り、一色義直と武田・細川の間を調定の末和解させた一方で、西軍諸将の和睦しようとする動きを反対して阻止。終結は更に先送りされます。西暦1476年10月1日、足利義政が大内政弘に和睦を求める書簡を送り、大内は日野富子の仲介の下で足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たりました。大内赦免の条件は、大内の手元に留め置かれていた室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しでした。そして西暦1477年1月5日、足利義視が足利義政に他意の無い事を伝える書簡を送って恭順を誓い、義政が義視の罪を不問に付すとの返答をし、日野富子の仲介によって両軍は遂に和睦。同年6月13日、足利義視が大内政弘経由で日野富子に和睦の仲介料を支払うことで、10年以上の紛糾を経た応仁の乱は名実共に終結しました。赤松・畠山・大内の反対で2度潰れた和睦を、両総大将の死と世代交代、そして日野富子の財政的影響力によって締め括った、一本の終結劇です。


主要登場人物

  • 日野富子 足利義政の正室。1476年の大内政弘赦免交渉から1477年1月5日の足利義視の恭順受け入れに至る最終調停を主導し、同年6月13日に足利義視から大内政弘経由で仲介料を受け取った、応仁の乱終結を成し遂げた本書の主役。
  • 細川勝元 東軍総大将。管領。1467年10月に後花園上皇の和睦院宣を「天下静謐とは山名宗全を討つ事」と拒絶。1472年2月23日から山名宗全との第1次和睦交渉を開始するも不調、同年6月には髷を落として隠居姿勢を見せ、1473年5月9日の山名政豊との第2次交渉も不調に終わり、同年6月6日に死去した。
  • 山名宗全 西軍総大将。1472年2月23日から細川勝元との第1次和睦交渉を行うも不調、同年6月には切腹を試み未遂に終わり、同年9月に家督を山名政豊に譲って隠居。1473年4月15日に病死し、死と共に西陣南帝が西軍諸将によって追放された。
  • 細川政元 細川勝元の長男。母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿。山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で和睦を進める狙いがあった。父の死後和睦交渉を引き継ぎ、1474年4月19日に武田国信仲介で山名政豊との単独和睦を成立させた。
  • 山名政豊 山名宗全の隠居後に家督を継承。1473年5月9日から細川勝元と、同年の勝元死後は細川政元と和睦交渉を続け、1474年4月19日に武田国信仲介で単独和睦を成立させた。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。1467年6月29日に両軍へ停戦命令を下すも実効なく、1476年10月1日に大内政弘に和睦書簡を送り、1477年1月5日には足利義視の恭順を受け入れて罪を不問に付した。
  • 足利義視 足利義政の弟。1467年3月29日に両畠山陣営へ和睦を呼び掛けるも失敗。1477年1月5日に義政に恭順を誓う書簡を送り、同年6月13日に大内政弘経由で日野富子へ仲介料を支払い、和睦を確定させた。
  • 大内政弘 西軍の主力。1472年と1474年の和睦に反対し続けた強硬派。1476年10月1日以降は日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たり、遣明船の唐荷引き渡しを条件に赦免された。
  • 畠山義就 西軍の主力。1472年・1473年・1474年の3度の和睦交渉全てに反対し続けた最後まで妥協しない強硬派で、最終和睦後も河内国へ下向して戦闘を継続した。
  • 赤松政則 東軍。1472年と1474年の和睦交渉に反対。西軍の降伏で進みかけた話を東軍側から潰した和睦阻害勢力の主要人物。
  • 武田国信 武田信繁の参男。1474年4月19日の細川政元・山名政豊による単独和睦を仲介。一色義直と戦って奪った丹後国の所領返還と丹後国守護職の一色義春への返付を条件として提示した。
  • 斎藤妙椿 1474年7月に数千騎を率いて丹後国に入り、一色義直と武田国信・細川政国の間を調定の末和解させる一方、西軍諸将の和睦しようとする動きを反対によって阻止した、終結を遅らせた人物。
  • 後花園上皇 1467年10月30日に両軍和睦のため天下静謐の祈りを命じる院宣を寺社に発給し、両軍に勅使を派遣して和平を命じた。しかし細川勝元の拒絶により実効を得られなかった。
  • 一色義直 西軍。丹後国守護職を罷免された後、1474年4月19日の細川政元・山名政豊の単独和睦で丹後国守護職が一色義春に返付され、武田国信・細川政国との確執が和睦条件の焦点となった。
  • 一色義春 1474年4月19日の細川政元・山名政豊の単独和睦により、武田国信の仲介条件として丹後国守護職を返付された人物。和睦成立の象徴的受益者。
  • 春林寺殿 山名宗全の養女で山名熙貴の娘。細川勝元の正室で細川政元の母。山名家の血を引く政元を通じて和睦を進めようとした細川勝元の狙いの鍵となった女性。
  • 細川勝之 細川勝元の猶子。1472年6月に勝元と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せる演出に加わった。
  • 西陣南帝 小倉宮の血を引く南朝皇胤。山名宗全に擁立されたが、1473年4月15日の宗全の病死を受けて西軍諸将によって追放された、和睦への動きの中で切り捨てられた存在。

後花園上皇の院宣・細川勝元の髷落とし・山名宗全の切腹未遂・両総大将の死・日野富子の仲介料──
10年を要した応仁の乱終結を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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