日野富子の仲介による
3度目の和睦で
漸く応仁の乱は
終結した一元化
交渉は幾度も不調に終わった──
日野富子の仲介に至る迄を一元化。
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本書について
西暦1,467年3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し失敗に終わった。本書は、此の足利義視による和睦の呼び掛けから、後花園上皇による両軍和睦の為の院宣の発給、細川勝元・山名宗全による和睦交渉の開始、山名宗全と細川勝元の死去、細川政元・山名政豊の単独の和睦、足利義政による大内政弘への和睦を求める書簡の送付、日野富子の仲介による両軍の和睦を経て、西暦1,477年6月13日に足利義視が大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う迄を一元化した記録である。
西暦1,467年6月29日、足利義政が両軍に対し、停戦して和睦する様命じる。此れにより両者痛み分けとなったものの、足利義政と花の御所を押さえた東軍が優位となった状態で停戦となった。10月30日、後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。然し細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。
西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。2月23日の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。又6月頃、山名宗全が切腹を試みるが、未遂に終わる。9月頃、山名宗全が、家督を山名政豊に譲り、隠居する。
西暦1,473年4月15日、山名宗全が病死する。其の後西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。5月9日、細川勝元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。6月6日、細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。
西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。7月頃、斎藤妙椿が、数千騎を率いて丹後国に入り、調定の末和解させる。此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤妙椿の反対により実現しなかった。
西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。足利義視による和睦の呼び掛けから、後花園上皇による両軍和睦の為の院宣の発給、細川勝元・山名宗全による和睦交渉の開始、山名宗全と細川勝元の死去、細川政元・山名政豊の単独の和睦、足利義政による大内政弘への和睦を求める書簡の送付、日野富子の仲介による両軍の和睦を経て、足利義視による日野富子への和睦の仲介料の支払いに至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 日野富子 西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。
- 細川勝元 西暦1,467年10月30日、後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。然し細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。西暦1,473年5月9日、細川勝元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。6月6日、細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。
- 山名宗全 西暦1,467年10月30日、後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。然し細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。又6月頃、山名宗全が切腹を試みるが、未遂に終わる。9月頃、山名宗全が、家督を山名政豊に譲り、隠居する。西暦1,473年4月15日、山名宗全が病死する。其の後西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。
- 細川政元 西暦1,472年6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。西暦1,473年6月6日、細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
- 山名政豊 西暦1,472年9月頃、山名宗全が、家督を山名政豊に譲り、隠居する。西暦1,473年4月15日、山名宗全が病死する。其の後西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。5月9日、細川勝元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
- 足利義政 西暦1,467年6月29日、足利義政が両軍に対し、停戦して和睦する様命じる。此れにより両者痛み分けとなったものの、足利義政と花の御所を押さえた東軍が優位となった状態で停戦となった。西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。
- 足利義視 西暦1,467年3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し失敗に終わった。西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。
- 大内政弘 西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。西暦1,476年10月1日、足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。西暦1,477年6月13日、足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。
- 畠山義就 西暦1,467年3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し、此の呼び掛けは失敗に終わった。西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。西暦1,473年5月9日、細川勝元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。
- 畠山政長 西暦1,467年3月29日、足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し、此の呼び掛けは失敗に終わった。
- 赤松政則 西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。
- 武田国信 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。
- 斎藤妙椿 西暦1,474年7月頃、斎藤妙椿が、数千騎を率いて丹後国に入り、調定の末和解させる。此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤妙椿の反対により実現しなかった。
- 後花園上皇 西暦1,467年10月30日、後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。然し細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。
- 一色義直 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。
- 一色義春 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。
- 春林寺殿 西暦1,472年6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。
- 細川勝之 西暦1,472年6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。
- 西陣南帝 西暦1,473年4月15日、山名宗全が病死する。其の後西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。
- 山名熙貴 西暦1,472年6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。
本書が記録する出来事
- 足利義視による畠山政長・畠山義就両陣営への和睦の呼び掛け(1,467年3月29日) 足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。然し失敗に終わった。
- 足利義政による両軍への停戦と和睦の命令(1,467年6月29日) 足利義政が両軍に対し、停戦して和睦する様命じる。此れにより両者痛み分けとなったものの、足利義政と花の御所を押さえた東軍が優位となった状態で停戦となった。
- 後花園上皇による両軍和睦の為の院宣の発給(1,467年10月30日) 後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。然し細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。
- 細川勝元・山名宗全による和睦交渉の開始(1,472年2月23日) 細川勝元・山名宗全の2名による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名が反対し、不調に終わった。
- 細川勝元による細川政元への家督の継承の意向の表明(1,472年6月頃) 細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、細川勝元には、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。
- 山名宗全の切腹の未遂(1,472年6月頃) 山名宗全が切腹を試みるが、未遂に終わる。
- 山名宗全の山名政豊への家督の譲渡と隠居(1,472年9月頃) 山名宗全が、家督を山名政豊に譲り、隠居する。
- 山名宗全の病死(1,473年4月15日) 山名宗全が病死する。其の後西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。
- 細川勝元・山名政豊による和睦交渉(1,473年5月9日) 細川勝元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。
- 細川勝元の死去(1,473年6月6日) 細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。
- 細川政元・山名政豊による和睦交渉(1,474年2月頃) 細川政元・山名政豊の2名が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則と、西軍の畠山義就・大内政弘の3名は反対し、不調に終わった。
- 細川政元・山名政豊の単独の和睦(1,474年4月19日) 細川政元・山名政豊の2名が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田国信に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
- 斎藤妙椿の丹後国入り(1,474年7月頃) 斎藤妙椿が、数千騎を率いて丹後国に入り、調定の末和解させる。此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤妙椿の反対により実現しなかった。
- 足利義政による大内政弘への和睦を求める書簡の送付(1,476年10月1日) 足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内政弘は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内政弘の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内政弘赦免の条件であった。
- 足利義視による足利義政への書簡の送付と両軍の和睦(1,477年1月5日) 足利義視が足利義政に対し、他意の無い事を伝える書簡を送る。斯うして、義視は義政に恭順を誓った。義政は、義視の罪を不問に付す、という主旨の返答をし、日野富子の仲介によって両軍は和睦した。
- 足利義視による日野富子への和睦の仲介料の支払い(1,477年6月13日) 足利義視が、大内政弘経由で日野富子へ和睦の仲介料を支払う。本書の年表の最後の項目である。
和睦の呼び掛けから、乱の終結へ──
其の全過程を一元化。
134円(税込)
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