加賀一向一揆の緒戦・
富樫政親の
高尾城籠城戦一元化
一揆方の包囲から、自害と落城へ──
富樫政親の高尾城籠城戦を一元化。
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本書について
西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本(現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本)へ向けて出陣する。其の際、着飾った足利義尚を一目見ようと見物人が集まった。兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清・田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・伊勢又六・吉田源四郎・岩室弥四郎の諸将も加わった。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。此の際加賀国守護代山川高藤は、富樫政親の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。等持院は此れに反発し、山川高藤と繋がりの有る等持院の人間が減免を請うた。結果、15貫200文を納めた他は免除された。本書は、此の足利義尚の坂本への出陣から、富樫政親の帰国と高尾城への入城、富樫泰高率いる一揆方による高尾城の包囲の開始、倶利伽羅峠での遊佐氏・神保氏率いる軍の敗北、富樫泰高率いる一揆方による高尾城の攻撃、山川高藤の裏切りと高尾城からの脱出を経て、西暦1,488年7月17日に富樫政親が自害し、高尾城が落城する迄を一元化した記録である。
西暦1,487年10月10日、細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清・仁木貞長・細川元治・伊勢貞陸・安富氏・上原氏・物部氏等の率いる軍が、六角氏の要衝である伊庭氏の拠点である八幡山(現在の滋賀県近江八幡市南津田町)・九里氏の拠点である金剛寺(現在の滋賀県近江八幡市)を攻撃する。伊庭氏・九里氏は逃亡し、室町幕府軍は此れ等を陥落させた。次に室町幕府軍は、観音寺城攻略を目指した。
西暦1,488年1月頃、西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。富樫政親は、高尾城を修築して戦いに備えた。2月25日、越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。松坂信遠は討ち取られた。3月頃、山川高藤が、越中国からの援軍を迎える為1,500名を率いて高尾城を出陣する。然し、一揆方の馬飼氏・浦上氏の夜襲を受け、高尾城に戻った。6月頃、富樫政親に討たれた、本願寺門徒を味方に付けていた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立された富樫泰高率いる本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始する。
西暦1,488年7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。7月9日、一揆方が、大乗寺(現在の石川県金沢市長坂町)に本陣を構え、高尾城の包囲を本格化させる。富樫政親は高尾城から出て、打って出た。然し、一揆方を破る事は出来なかった。7月13日、富樫政親の救援に向かっていた遊佐氏・神保氏率いる2,000名の軍が、倶利伽羅峠(現在の石川県河北郡津幡町・富山県小矢部市)にて一揆方に敗れる。又此の日、畠山義統が富樫政親へ差し向けた援軍が、河北郡黒津船地内(現在の石川県河北郡内灘町宮坂)にて本願寺門徒に敗れる。又此の日、富樫政親方の将本郷春親が、本願寺門徒等の一揆方に高尾城の包囲を解く様促すが、失敗する。其の後、富樫方と一揆方で小競り合いが発生した。
西暦1,488年7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。富樫政親率いる1,500名の軍は、大手門は松山左近、搦手の額谷口は森宗三郎を其々守将とし、斎藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八等が将兵を指揮した。政親方の本郷春親は、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻め、河合藤左衛門を討とうとした。然し河合藤左衛門は先陣には居らず、代わりに伊藤久内が本郷春親を捕縛した。其処に、春親の息子本郷松千代丸が攻め出て伊藤久内を斬殺したが、木村八郎九郎と組み打ち、木村八郎九郎に捕縛された。政親方の小川隼人成定は、寺井豊後の部隊を攻撃し、寺井豊後の息子を斬殺した後丘に登って休憩していた所、矢の雨を浴び、斬首された。昼に休戦したが、政親の軍は本郷春親・額景春・額親家・林正蔵坊・正蔵坊の弟林六郎二郎・高尾若狭守・槻橋弥次郎・斎藤彦八郎・安江・安江三郎・宇佐美八郎左衛門・山田弥五郎・広瀬源左衛門・広瀬又七・徳光次郎・松本新五郎・阿曽孫六・霜田伊豆坊・奈良与八郎・松原彦四郎・多田源六・石田帯刀・和田次郎三郎・越前国の溝口兄弟・越前国の一木兄弟・松千代丸・板倉喜内・森勝介・岡豊後守・佐々木志摩助・柏原与市・古沢勘七・同朋衆の知阿弥を始めとする200名余の戦死者を出した。政親の家臣57名や城兵達は、高尾城からの脱出を始めた。又此の日、山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺(現在の石川県金沢市玉川町)と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川高藤の妹おわんが、一揆方の安吉城(現在の石川県白山市安吉町)主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。又山川高藤自身も、政親を裏切り高尾城から脱出した。
西暦1,488年7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺(現在の石川県白山市吉野付近)に幽閉された。其の後山川高藤は、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野(現在の福井県)へ向かった。更に、政親の後を追って、宮永八郎三郎・勝見与四郎・福光弥三郎・那波氏・吉田氏・小河氏・白河氏・進藤氏・黒川氏・興津屋五郎・谷屋入道・徳光西坊林・金子氏・田上入道・八屋藤左衛門入道・立入加賀入道・長田三郎左衛門・宮永左京進・沢奈井彦八郎・安江和泉守・神戸七郎・御園筑前守・御園五郎・槻橋豊前守・槻橋近江守・槻橋三郎左衛門・槻橋式部丞・槻橋弥六・槻橋弥次郎・槻橋三位坊・山川又次郎・本郷春興坊・本郷駿河守も自害した。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。足利義尚の坂本への出陣から、富樫政親の帰国と高尾城への入城、富樫泰高率いる一揆方による高尾城の包囲の開始、倶利伽羅峠での遊佐氏・神保氏率いる軍の敗北、富樫泰高率いる一揆方による高尾城の攻撃、山川高藤の裏切りと高尾城からの脱出を経て、富樫政親の自害と高尾城の落城に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 富樫政親 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。此の際加賀国守護代山川高藤は、富樫政親の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。10月10日、細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清・仁木貞長・細川元治・伊勢貞陸・安富氏・上原氏・物部氏等の率いる軍が、六角氏の要衝である伊庭氏の拠点である八幡山・九里氏の拠点である金剛寺を攻撃する。伊庭氏・九里氏は逃亡し、室町幕府軍は此れ等を陥落させた。西暦1,488年1月頃、西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。富樫政親は、高尾城を修築して戦いに備えた。2月25日、越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。松坂信遠は討ち取られた。6月頃、富樫政親に討たれた、本願寺門徒を味方に付けていた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立された富樫泰高率いる本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始する。7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。7月9日、一揆方が、大乗寺に本陣を構え、高尾城の包囲を本格化させる。富樫政親は高尾城から出て、打って出た。然し、一揆方を破る事は出来なかった。7月13日、富樫政親の救援に向かっていた遊佐氏・神保氏率いる2,000名の軍が、倶利伽羅峠にて一揆方に敗れる。又此の日、畠山義統が富樫政親へ差し向けた援軍が、河北郡黒津船地内にて本願寺門徒に敗れる。7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。富樫政親率いる1,500名の軍は、大手門は松山左近、搦手の額谷口は森宗三郎を其々守将とし、斎藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八等が将兵を指揮した。昼に休戦したが、政親の軍は本郷春親・額景春・額親家・林正蔵坊・正蔵坊の弟林六郎二郎・高尾若狭守・槻橋弥次郎・斎藤彦八郎・安江・安江三郎・宇佐美八郎左衛門・山田弥五郎・広瀬源左衛門・広瀬又七・徳光次郎・松本新五郎・阿曽孫六・霜田伊豆坊・奈良与八郎・松原彦四郎・多田源六・石田帯刀・和田次郎三郎・越前国の溝口兄弟・越前国の一木兄弟・松千代丸・板倉喜内・森勝介・岡豊後守・佐々木志摩助・柏原与市・古沢勘七・同朋衆の知阿弥を始めとする200名余の戦死者を出した。政親の家臣57名や城兵達は、高尾城からの脱出を始めた。又此の日、山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川高藤の妹おわんが、一揆方の安吉城主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。又山川高藤自身も、政親を裏切り高尾城から脱出した。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。更に、政親の後を追って、宮永八郎三郎・勝見与四郎・福光弥三郎・那波氏・吉田氏・小河氏・白河氏・進藤氏・黒川氏・興津屋五郎・谷屋入道・徳光西坊林・金子氏・田上入道・八屋藤左衛門入道・立入加賀入道・長田三郎左衛門・宮永左京進・沢奈井彦八郎・安江和泉守・神戸七郎・御園筑前守・御園五郎・槻橋豊前守・槻橋近江守・槻橋三郎左衛門・槻橋式部丞・槻橋弥六・槻橋弥次郎・槻橋三位坊・山川又次郎・本郷春興坊・本郷駿河守も自害した。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。
- 富樫家延 西暦1,488年7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。
- 富樫泰高 西暦1,488年6月頃、富樫政親に討たれた、本願寺門徒を味方に付けていた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立された富樫泰高率いる本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始する。7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。
- 富樫幸千代 西暦1,488年6月頃、富樫政親に討たれた、本願寺門徒を味方に付けていた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立された富樫泰高率いる本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始する。
- 山川高藤 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。此の際加賀国守護代山川高藤は、富樫政親の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。等持院は此れに反発し、山川高藤と繋がりの有る等持院の人間が減免を請うた。結果、等持院は15貫200文を納めた他は免除された。西暦1,488年1月頃、西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。3月頃、山川高藤が、越中国からの援軍を迎える為1,500名を率いて高尾城を出陣する。然し、一揆方の馬飼氏・浦上氏の夜襲を受け、高尾城に戻った。7月15日、山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川高藤の妹おわんが、一揆方の安吉城主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。又山川高藤自身も、政親を裏切り高尾城から脱出した。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺に幽閉された。其の後山川高藤は、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野へ向かった。
- 巴 西暦1,488年7月15日、山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川高藤の妹おわんが、一揆方の安吉城主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。
- おわん・大窪家長 西暦1,488年7月15日、山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川高藤の妹おわんが、一揆方の安吉城主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。
- 本郷春親 西暦1,488年7月13日、富樫政親方の将本郷春親が、本願寺門徒等の一揆方に高尾城の包囲を解く様促すが、失敗する。其の後、富樫方と一揆方で小競り合いが発生した。7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。政親方の本郷春親は、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻め、河合藤左衛門を討とうとした。然し河合藤左衛門は先陣には居らず、代わりに伊藤久内が本郷春親を捕縛した。其処に、春親の息子本郷松千代丸が攻め出て伊藤久内を斬殺したが、木村八郎九郎と組み打ち、木村八郎九郎に捕縛された。昼に休戦したが、政親の軍は本郷春親・額景春・額親家・林正蔵坊・正蔵坊の弟林六郎二郎・高尾若狭守・槻橋弥次郎・斎藤彦八郎・安江・安江三郎・宇佐美八郎左衛門・山田弥五郎・広瀬源左衛門・広瀬又七・徳光次郎・松本新五郎・阿曽孫六・霜田伊豆坊・奈良与八郎・松原彦四郎・多田源六・石田帯刀・和田次郎三郎・越前国の溝口兄弟・越前国の一木兄弟・松千代丸・板倉喜内・森勝介・岡豊後守・佐々木志摩助・柏原与市・古沢勘七・同朋衆の知阿弥を始めとする200名余の戦死者を出した。
- 本郷松千代丸 西暦1,488年7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。政親方の本郷春親は、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻め、河合藤左衛門を討とうとした。然し河合藤左衛門は先陣には居らず、代わりに伊藤久内が本郷春親を捕縛した。其処に、春親の息子本郷松千代丸が攻め出て伊藤久内を斬殺したが、木村八郎九郎と組み打ち、木村八郎九郎に捕縛された。昼に休戦したが、政親の軍は本郷春親・額景春・額親家・林正蔵坊・正蔵坊の弟林六郎二郎・高尾若狭守・槻橋弥次郎・斎藤彦八郎・安江・安江三郎・宇佐美八郎左衛門・山田弥五郎・広瀬源左衛門・広瀬又七・徳光次郎・松本新五郎・阿曽孫六・霜田伊豆坊・奈良与八郎・松原彦四郎・多田源六・石田帯刀・和田次郎三郎・越前国の溝口兄弟・越前国の一木兄弟・松千代丸・板倉喜内・森勝介・岡豊後守・佐々木志摩助・柏原与市・古沢勘七・同朋衆の知阿弥を始めとする200名余の戦死者を出した。
- 小川隼人成定 西暦1,488年7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。政親方の小川隼人成定は、寺井豊後の部隊を攻撃し、寺井豊後の息子を斬殺した後丘に登って休憩していた所、矢の雨を浴び、斬首された。
- 松山左近・森宗三郎 西暦1,488年7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。富樫政親率いる1,500名の軍は、大手門は松山左近、搦手の額谷口は森宗三郎を其々守将とし、斎藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八等が将兵を指揮した。
- 斎藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八 西暦1,488年7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。富樫政親率いる1,500名の軍は、大手門は松山左近、搦手の額谷口は森宗三郎を其々守将とし、斎藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八等が将兵を指揮した。
- 松坂信遠 西暦1,488年2月25日、越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。松坂信遠は討ち取られた。
- 今江兼治 西暦1,488年2月25日、越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。松坂信遠は討ち取られた。
- 河合藤左衛門・伊藤久内・木村八郎九郎・寺井豊後 西暦1,488年7月15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。政親方の本郷春親は、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻め、河合藤左衛門を討とうとした。然し河合藤左衛門は先陣には居らず、代わりに伊藤久内が本郷春親を捕縛した。其処に、春親の息子本郷松千代丸が攻め出て伊藤久内を斬殺したが、木村八郎九郎と組み打ち、木村八郎九郎に捕縛された。政親方の小川隼人成定は、寺井豊後の部隊を攻撃し、寺井豊後の息子を斬殺した後丘に登って休憩していた所、矢の雨を浴び、斬首された。
- 三池掃部 西暦1,488年7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺に幽閉された。
- 足利義尚 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。其の際、着飾った足利義尚を一目見ようと見物人が集まった。兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清・田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・伊勢又六・吉田源四郎・岩室弥四郎の諸将も加わった。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。西暦1,488年7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。
- 蓮如 西暦1,488年7月17日、富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。
- 朝倉孝景 西暦1,488年2月25日、越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。7月5日、足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。
- 畠山義統 西暦1,488年7月13日、畠山義統が富樫政親へ差し向けた援軍が、河北郡黒津船地内にて本願寺門徒に敗れる。
- 六角高頼 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。
- 細川政元 西暦1,487年9月28日、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。10月10日、細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清・仁木貞長・細川元治・伊勢貞陸・安富氏・上原氏・物部氏等の率いる軍が、六角氏の要衝である伊庭氏の拠点である八幡山・九里氏の拠点である金剛寺を攻撃する。伊庭氏・九里氏は逃亡し、室町幕府軍は此れ等を陥落させた。次に室町幕府軍は、観音寺城攻略を目指した。
本書が記録する出来事
- 足利義尚の坂本への出陣(1,487年9月28日) 香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本(現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本)へ向けて出陣する。其の際、着飾った足利義尚を一目見ようと見物人が集まった。兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清・田中兵衛尉・土肥刑部少輔・大原政重・大原尚親・伊勢又六・吉田源四郎・岩室弥四郎の諸将も加わった。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・山名氏・一色氏・富樫政親・京極氏・武田国信等と合流した。此の際加賀国守護代山川高藤は、富樫政親の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。等持院は此れに反発し、山川高藤と繋がりの有る等持院の人間が減免を請うた。結果、15貫200文を納めた他は免除された。
- 細川政元等の率いる軍による八幡山・金剛寺の攻撃(1,487年10月10日) 細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清・仁木貞長・細川元治・伊勢貞陸・安富氏・上原氏・物部氏等の率いる軍が、六角氏の要衝である伊庭氏の拠点である八幡山(現在の滋賀県近江八幡市南津田町)・九里氏の拠点である金剛寺(現在の滋賀県近江八幡市)を攻撃する。伊庭氏・九里氏は逃亡し、室町幕府軍は此れ等を陥落させた。次に室町幕府軍は、観音寺城攻略を目指した。
- 富樫政親の帰国と高尾城への入城(1,488年1月頃) 西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫政親は帰国し、高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)に入る。一揆方は、富樫政親の家老山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫政親は受け入れなかった。富樫政親は、高尾城を修築して戦いに備えた。
- 今江兼治率いる加賀国江沼郡の軍勢による槻津上野の松坂信遠への攻撃(1,488年2月25日) 越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。松坂信遠は討ち取られた。
- 山川高藤の高尾城からの出陣と一揆方の夜襲(1,488年3月頃) 山川高藤が、越中国からの援軍を迎える為1,500名を率いて高尾城を出陣する。然し、一揆方の馬飼氏・浦上氏の夜襲を受け、高尾城に戻った。
- 富樫泰高率いる一揆方による高尾城の包囲の開始(1,488年6月頃) 富樫政親に討たれた、本願寺門徒を味方に付けていた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立された富樫泰高率いる本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始する。
- 足利義尚による朝倉孝景等への援軍の派遣の命令(1,488年7月5日) 足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉孝景は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。
- 一揆方による大乗寺への本陣の設置(1,488年7月9日) 一揆方が、大乗寺(現在の石川県金沢市長坂町)に本陣を構え、高尾城の包囲を本格化させる。富樫政親は高尾城から出て、打って出た。然し、一揆方を破る事は出来なかった。
- 遊佐氏・神保氏率いる軍の倶利伽羅峠での敗北(1,488年7月13日) 富樫政親の救援に向かっていた遊佐氏・神保氏率いる2,000名の軍が、倶利伽羅峠(現在の石川県河北郡津幡町・富山県小矢部市)にて一揆方に敗れる。
- 畠山義統の差し向けた援軍の河北郡黒津船地内での敗北(1,488年7月13日) 畠山義統が富樫政親へ差し向けた援軍が、河北郡黒津船地内(現在の石川県河北郡内灘町宮坂)にて本願寺門徒に敗れる。
- 本郷春親による一揆方への包囲解除の働き掛け(1,488年7月13日) 富樫政親方の将本郷春親が、本願寺門徒等の一揆方に高尾城の包囲を解く様促すが、失敗する。其の後、富樫方と一揆方で小競り合いが発生した。
- 富樫泰高率いる一揆方による高尾城の攻撃(1,488年7月15日) 6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。富樫政親率いる1,500名の軍は、大手門は松山左近、搦手の額谷口は森宗三郎を其々守将とし、斎藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八等が将兵を指揮した。政親方の本郷春親は、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻め、河合藤左衛門を討とうとした。然し河合藤左衛門は先陣には居らず、代わりに伊藤久内が本郷春親を捕縛した。其処に、春親の息子本郷松千代丸が攻め出て伊藤久内を斬殺したが、木村八郎九郎と組み打ち、木村八郎九郎に捕縛された。政親方の小川隼人成定は、寺井豊後の部隊を攻撃し、寺井豊後の息子を斬殺した後丘に登って休憩していた所、矢の雨を浴び、斬首された。昼に休戦したが、政親の軍は本郷春親・額景春・額親家・林正蔵坊・正蔵坊の弟林六郎二郎・高尾若狭守・槻橋弥次郎・斎藤彦八郎・安江・安江三郎・宇佐美八郎左衛門・山田弥五郎・広瀬源左衛門・広瀬又七・徳光次郎・松本新五郎・阿曽孫六・霜田伊豆坊・奈良与八郎・松原彦四郎・多田源六・石田帯刀・和田次郎三郎・越前国の溝口兄弟・越前国の一木兄弟・松千代丸・板倉喜内・森勝介・岡豊後守・佐々木志摩助・柏原与市・古沢勘七・同朋衆の知阿弥を始めとする200名余の戦死者を出した。政親の家臣57名や城兵達は、高尾城からの脱出を始めた。
- 山川高藤による巴の高尾城からの脱出(1,488年7月15日) 山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺(現在の石川県金沢市玉川町)と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川高藤の妹おわんが、一揆方の安吉城(現在の石川県白山市安吉町)主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。又山川高藤自身も、政親を裏切り高尾城から脱出した。
- 富樫政親の自害と高尾城の落城(1,488年7月17日) 富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺(現在の石川県白山市吉野付近)に幽閉された。其の後山川高藤は、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野(現在の福井県)へ向かった。更に、政親の後を追って、宮永八郎三郎・勝見与四郎・福光弥三郎・那波氏・吉田氏・小河氏・白河氏・進藤氏・黒川氏・興津屋五郎・谷屋入道・徳光西坊林・金子氏・田上入道・八屋藤左衛門入道・立入加賀入道・長田三郎左衛門・宮永左京進・沢奈井彦八郎・安江和泉守・神戸七郎・御園筑前守・御園五郎・槻橋豊前守・槻橋近江守・槻橋三郎左衛門・槻橋式部丞・槻橋弥六・槻橋弥次郎・槻橋三位坊・山川又次郎・本郷春興坊・本郷駿河守も自害した。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。本書の年表の最後の項目である。
坂本への出陣から、高尾城の落城へ──
其の全過程を一元化。
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