大内義興の傀儡である
大聖院宗心の
離間工作により
引き裂かれた
大友政親・大友義右父子の
親子関係一元化
大聖院宗心の工作から、父子の死へ──
引き裂かれた親子関係を一元化。
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本書について
西暦1,473年、大友親繁が隠居し、自身の嫡男大友政親に家督を譲る。此れにより政親は、足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任した。本書は、此の大友親繁の隠居から、大友政親による大友義右への家督の譲渡、大聖院宗心の離間工作と大内家の干渉による大友政親・大友義右の対立、大聖院宗心の讒言による再対立、大友政親の赤間関への漂着と舟木地蔵院への幽閉、大友義右の病死、大友政親の切腹を経て、西暦1,496年8月頃に大友親治が大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任する迄を一元化した記録である。
西暦1,477年、足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の2ヶ国の守護に任じる。西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。
西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。西暦1,487年、大友政親・大友義右の2名が和解する。義右は、大内家から大友家に帰還した。
西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。
西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪(現在の京都府京田辺市薪地区)に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)衆等も参陣した。義稙は此の日、八幡(現在の京都府)まで進軍し、善法律寺(現在の京都府八幡市八幡馬場)に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。此の日筒井は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、筒井の後見人の成身院順盛は、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵し、越智・古市方の小城を次々と落城させた。更に、京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田(現在の奈良県大和郡山市)から長安寺(現在の奈良県大和郡山市)に進軍し、十市郷(現在の奈良県橿原市)まで攻勢を掛け矢木市(現在の奈良県橿原市)を焼き払った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。
西暦1,493年10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集め、九州の大友政親等の遠方の大名からも支持された。12月22日、大友親繁が死去する。
西暦1,494年6月頃、大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内(現在の大分県大分市)に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。10月20日、足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の2名の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
西暦1,496年、大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。3月頃、大友義右は軍船の建造を進めていた。5月頃、大友義右が病を発症する。6月13日、大友政親が、筑前国へ逐電する。6月23日、大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大友政親は大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。
西暦1,496年7月7日、大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。7月頃、大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。7月20日、大友政親が、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。8月頃、大友親治率いる軍が、大友氏館(現在の大分県大分市顕徳町)にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。大友親繁の隠居から、大友政親による大友義右への家督の譲渡、大聖院宗心の離間工作と大内家の干渉による大友政親・大友義右の対立、大聖院宗心の讒言による再対立、大友政親の赤間関への漂着と舟木地蔵院への幽閉、大友義右の病死、大友政親の切腹を経て、大友親治の第18代大友家当主への就任に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 大友政親 西暦1,473年、大友親繁が隠居し、自身の嫡男大友政親に家督を譲る。此れにより政親は、足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任した。西暦1,477年、足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の2ヶ国の守護に任じる。西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。西暦1,487年、大友政親・大友義右の2名が和解する。義右は、大内家から大友家に帰還した。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集め、九州の大友政親等の遠方の大名からも支持された。西暦1,494年6月頃、大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内に侵攻する。此の侵攻は、大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。10月20日、足利義稙が、放生津城に移り挙兵する。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。6月13日、大友政親が、筑前国へ逐電する。6月23日、大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大友政親は大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。7月7日、大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。7月頃、大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。7月20日、大友政親が、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。
- 大友義右 西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。西暦1,487年、大友政親・大友義右の2名が和解する。義右は、大内家から大友家に帰還した。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。西暦1,494年6月頃、大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。3月頃、大友義右は軍船の建造を進めていた。5月頃、大友義右が病を発症する。7月7日、大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。7月頃、大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。
- 大聖院宗心 西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。8月頃、大友親治率いる軍が、大友氏館にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。
- 大内義興 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺衆等も参陣した。西暦1,496年6月23日、大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大友政親は大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。7月頃、大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。8月頃、大友親治率いる軍が、大友氏館にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。
- 大内政弘 西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺衆等も参陣した。
- 大内教弘 西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。
- 大友親繁 西暦1,473年、大友親繁が隠居し、自身の嫡男大友政親に家督を譲る。此れにより政親は、足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任した。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。西暦1,493年12月22日、大友親繁が死去する。
- 大友親治 西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。西暦1,496年8月頃、大友親治率いる軍が、大友氏館にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。
- 日田親胤 西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。
- 田原親宗 西暦1,494年6月頃、大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。
- 足利義政 西暦1,473年、大友親繁が隠居し、自身の嫡男大友政親に家督を譲る。此れにより政親は、足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任した。西暦1,477年、足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の2ヶ国の守護に任じる。
- 足利義稙 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。義稙は此の日、八幡まで進軍し、善法律寺に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集め、九州の大友政親等の遠方の大名からも支持された。西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の2名の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。
- 足利義澄 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の2名の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。
- 杉信濃守 西暦1,496年6月23日、大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大友政親は大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。
- 市河親清 西暦1,496年、大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。8月頃、大友親治率いる軍が、大友氏館にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。
- 朽網繁貞 西暦1,496年8月頃、大友親治率いる軍が、大友氏館にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。
本書が記録する出来事
- 大友親繁の隠居と大友政親への家督の譲渡(1,473年) 大友親繁が隠居し、自身の嫡男大友政親に家督を譲る。此れにより政親は、足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任した。
- 足利義政による大友政親の豊後国・筑後国の守護への任命(1,477年) 足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の2ヶ国の守護に任じる。
- 大友政親による大友義右への家督の譲渡(1,484年) 大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。
- 大友政親・大友義右の対立(1,485年) 大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。
- 大友政親・大友義右の和解(1,487年) 大友政親・大友義右の2名が和解する。義右は、大内家から大友家に帰還した。
- 日田親胤の肥後国での謀反(1,489年) 大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。
- 足利義稙による畠山義豊征伐の為の出陣(1,493年3月3日) 足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤の2名が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪(現在の京都府京田辺市薪地区)に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)衆等も参陣した。義稙は此の日、八幡(現在の京都府)まで進軍し、善法律寺(現在の京都府八幡市八幡馬場)に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。此の日筒井は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、筒井の後見人の成身院順盛は、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵し、越智・古市方の小城を次々と落城させた。更に、京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田(現在の奈良県大和郡山市)から長安寺(現在の奈良県大和郡山市)に進軍し、十市郷(現在の奈良県橿原市)まで攻勢を掛け矢木市(現在の奈良県橿原市)を焼き払った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。
- 越中国の足利義稙勢による細川政元の派遣した軍勢の撃破(1,493年10月11日頃) 越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集め、九州の大友政親等の遠方の大名からも支持された。
- 大友親繁の死去(1,493年12月22日) 大友親繁が死去する。
- 田原親宗の府内への侵攻(1,494年6月頃) 大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内(現在の大分県大分市)に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。
- 足利義稙の放生津城での挙兵(1,494年10月20日) 足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の2名の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
- 大友政親・大友義右の不和の再表面化(1,496年) 大友政親・大友義右の2名の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。
- 大友義右による軍船の建造(1,496年3月頃) 此の頃、大友義右は軍船の建造を進めていた。
- 大友義右の発病(1,496年5月頃) 大友義右が病を発症する。
- 大友政親の筑前国への逐電(1,496年6月13日) 大友政親が、筑前国へ逐電する。
- 大友政親の豊後国臼杵からの出航と舟木地蔵院への幽閉(1,496年6月23日) 大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大友政親は大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。
- 大友義右の病死(1,496年7月7日) 大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。
- 大内義興による大友政親征伐の兵の派遣(1,496年7月頃) 大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。
- 大友政親の舟木地蔵院での切腹(1,496年7月20日) 大友政親が、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。
- 大友親治率いる軍による市河親清・朽網繁貞等の鎮圧(1,496年8月頃) 大友親治率いる軍が、大友氏館(現在の大分県大分市顕徳町)にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧する。此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友親治は、大聖院宗心の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。本書の年表の最後の項目である。
大友親繁の隠居から、第18代当主へ──
大友親治の就任迄を一元化。
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