電子書籍「伊勢貞親の勧誘工作が実り、朝倉孝景が息子の朝倉氏景と共に東軍に寝返る一元化」の表紙

伊勢貞親の
勧誘工作が実り、
朝倉孝景が
息子の朝倉氏景と共に
東軍に寝返る一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年2月22日〜1,471年7月11日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
8ページ
文字数
3,983字
最新更新日
西暦2,026年10月6日

伊勢貞親の勧誘から、御内書へ──
朝倉孝景の寝返りを一元化。

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本書について

西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。本書は、此の畠山義就による上御霊神社の襲撃から、西軍による相国寺の襲撃、朝倉孝景による骨皮道賢の斬首、伊勢貞親による朝倉孝景の東軍への勧誘、朝倉孝景の越前国への下向、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する足利義政の御内書・管領副状の送付を経て、西暦1,471年7月11日に朝倉氏景が越前国に入る迄を一元化した記録である。

西暦1,467年2月25日、朝倉孝景が、在洛する斯波持種と、持種の息子斯波義孝の2名を襲撃し、追放する。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。東軍は細川勝元・足利義視・畠山政長・斯波義敏・武田信繁の弐男武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則、西軍は山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼の陣容であった。

西暦1,467年6月27日、東軍と西軍が、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通(現在の京都府京都市上京区の中立売通)を進んで迂回して斯波義廉率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川勝久は、此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込んだ。戦闘は翌日の18時迄続いた。最終的に行願寺(現在の京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)・知恩寺(現在の京都府京都市左京区田中門前町)や民家等が焼失した。

西暦1,467年7月14日、斯波義廉が、東軍への降参条件として、朝倉孝景の首級を要求する。7月15日、武田信賢率いる軍が、二条通(現在の京都府京都市中京区)に下る途上、朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られる。8月10日、武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。然し数名が朝倉孝景勢に討たれた。

西暦1,467年10月16日早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭元明・浦上則宗の2名の布陣していた南禅寺山(現在の京都府京都市左京区南禅寺南禅寺山町付近)に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。此の戦いにより、南禅寺・青蓮院(現在の京都府京都市東山区粟田口三条坊町)が灰燼に帰した。秋庭元明・浦上則宗の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内政弘率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡(現在の京都府京都市山科区)から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。三番手として、遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。然し東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ、此れを退けた。次に、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。

西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路(現在の京都府京都市の烏丸通)・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。三条坊門殿は、伊勢国の住人関民部少輔と、備前国の住人松田次郎左衛門尉の2名が500騎余で守備していた。然し、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田次郎左衛門尉は討たれ、関民部少輔は相国寺に退却した。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路(現在の京都府京都市北区出雲路立テ本町)に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は、総力を挙げて白兵戦を展開した。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内政弘率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、国信・赤松政則の2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。然し東軍は、相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉孝景・大内政弘が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色義直・六角高頼も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西軍は、討ち取った首級を8輌もの車に載せ、意気揚々と自陣に帰還した。一方足利義政は、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。

西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の2名が布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。又此の日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。多勢に無勢で、敗北を悟った骨皮道賢は、女装して板輿に乗り、逃走を図った。然し見破られ、朝倉孝景が骨皮道賢を斬首し、稲荷山に火を放った。骨皮道賢の首級は三条河原(現在の京都府京都市中京区大橋町)に梟首され、「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」(昨日まで稲荷山で威張り散らして暴れ廻っていた道賢が、今日は骨と皮になって殺されてしまった。折角女装までして可愛かったのに、お気の毒様)という落首が張り出された。かはゆきは「哀れ」「可愛い」の2つの意味が掛かっている。6月12日、斯波義敏の軍勢が、朝倉孝景勢を越前国から追い出す。

西暦1,468年9月19日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。此の書簡を読んだ朝倉孝景は、目を疑った。以降足利義政は、細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を行なった。11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。西暦1,469年1月24日、数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。

西暦1,469年3月12日、足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。足利義政は深町久清の知行の安堵を約束した。6月30日、朝倉孝景が、深町久清に加勢を依頼する。朝倉孝景は深町久清に、知行の安堵を約束した。8月9日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「『貴方の側に参じて忠誠を尽くすべき』とのご意向を述べられ、実に立派な事でございます。では、御内書を書いて下さい」という主旨の書簡を送る。

西暦1,470年1月10日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利義政は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉孝景を信用していなかった。此の時越前国の内外は、西軍が大勢を占めていた。朝倉孝景は、合戦を仕掛けて敗北すれば、東軍の情勢が悪化する為、表向きは西軍に従いながらも、越前国坂北郡(現在の福井県あわら市・坂井市三国町・丸岡町地区)の深町氏等の有力国人や大寺社を味方に勧誘する等して、合戦の準備を進めた。9月15日、朝倉孝景が、坂井郡河口荘本庄郷(現在の福井県あわら市)・大口郷(現在の福井県あわら市)の済物を押領する。

西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられる。6月9日、朝倉孝景宛に、足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡と、足利義政による、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状が送付される。6月26日夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。6月27日、朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉氏景は、御剣を拝領した。7月11日、朝倉氏景が越前国に入る。若狭国を経由したが、越前国下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。畠山義就による上御霊神社の襲撃から、西軍による相国寺の襲撃、朝倉孝景による骨皮道賢の斬首、伊勢貞親による朝倉孝景の東軍への勧誘、朝倉孝景の越前国への下向、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する足利義政の御内書・管領副状の送付を経て、朝倉氏景の越前国入りに至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 朝倉孝景 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。2月25日、朝倉孝景が、在洛する斯波持種と、持種の息子斯波義孝の2名を襲撃し、追放する。6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、京極持清は朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。7月15日、武田信賢率いる軍が、二条通に下る途上、朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られる。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉孝景・大内政弘が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色義直・六角高頼も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の2名が布陣する醍醐・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。又此の日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。多勢に無勢で、敗北を悟った骨皮道賢は、女装して板輿に乗り、逃走を図った。然し見破られ、朝倉孝景が骨皮道賢を斬首し、稲荷山に火を放った。6月12日、斯波義敏の軍勢が、朝倉孝景勢を越前国から追い出す。9月19日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。此の書簡を読んだ朝倉孝景は、目を疑った。11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。西暦1,469年1月24日、数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。6月30日、朝倉孝景が、深町久清に加勢を依頼する。朝倉孝景は深町久清に、知行の安堵を約束した。8月9日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「『貴方の側に参じて忠誠を尽くすべき』とのご意向を述べられ、実に立派な事でございます。では、御内書を書いて下さい」という主旨の書簡を送る。西暦1,470年1月10日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利義政は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉孝景を信用していなかった。此の時越前国の内外は、西軍が大勢を占めていた。朝倉孝景は、合戦を仕掛けて敗北すれば、東軍の情勢が悪化する為、表向きは西軍に従いながらも、越前国坂北郡の深町氏等の有力国人や大寺社を味方に勧誘する等して、合戦の準備を進めた。9月15日、朝倉孝景が、坂井郡河口荘本庄郷・大口郷の済物を押領する。西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院門主政覚に伝えられる。6月9日、朝倉孝景宛に、足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡と、足利義政による、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状が送付される。
  • 朝倉氏景 西暦1,468年11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院門主政覚に伝えられる。6月9日、朝倉孝景宛に、足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡と、足利義政による、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状が送付される。6月26日夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。6月27日、朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉氏景は、御剣を拝領した。7月11日、朝倉氏景が越前国に入る。若狭国を経由したが、越前国下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。
  • 朝倉経景 西暦1,468年11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。
  • 朝倉景冬 西暦1,468年11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。
  • 朝倉光玖 西暦1,468年11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。
  • 伊勢貞親 西暦1,468年9月19日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。此の書簡を読んだ朝倉孝景は、目を疑った。以降足利義政は、細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を行なった。西暦1,469年8月9日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「『貴方の側に参じて忠誠を尽くすべき』とのご意向を述べられ、実に立派な事でございます。では、御内書を書いて下さい」という主旨の書簡を送る。西暦1,470年1月10日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利義政は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉孝景を信用していなかった。
  • 足利義政 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。一方足利義政は、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。西暦1,468年9月19日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。以降足利義政は、細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を行なった。西暦1,469年3月12日、足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。足利義政は深町久清の知行の安堵を約束した。西暦1,470年1月10日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利義政は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉孝景を信用していなかった。西暦1,471年6月9日、朝倉孝景宛に、足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡と、足利義政による、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状が送付される。6月27日、朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉氏景は、御剣を拝領した。
  • 細川勝元 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。西暦1,468年9月19日、伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。以降足利義政は、細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を行なった。西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院門主政覚に伝えられる。6月9日、朝倉孝景宛に、足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡と、足利義政による、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状が送付される。
  • 細川成之 西暦1,467年6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。自邸で抵抗していた細川勝久は、此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込んだ。西暦1,471年6月26日夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。
  • 斯波義廉 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、京極持清は朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通を進んで迂回して斯波義廉率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。7月14日、斯波義廉が、東軍への降参条件として、朝倉孝景の首級を要求する。8月10日、武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。然し数名が朝倉孝景勢に討たれた。西暦1,468年4月13日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。西暦1,469年3月12日、足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院門主政覚に伝えられる。
  • 斯波義敏 西暦1,468年6月12日、斯波義敏の軍勢が、朝倉孝景勢を越前国から追い出す。11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。西暦1,469年1月24日、数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院門主政覚に伝えられる。
  • 山名宗全 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。10月16日早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭元明・浦上則宗の2名の布陣していた南禅寺山に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。秋庭元明・浦上則宗の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内政弘率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。西暦1,468年4月13日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。
  • 山名政豊 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。
  • 畠山義就 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。西暦1,468年4月13日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。
  • 畠山政長 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。
  • 畠山義統 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。
  • 足利義視 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。東軍は細川勝元・足利義視・畠山政長・斯波義敏・武田信繁の弐男武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則、西軍は山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼の陣容であった。
  • 武田信賢 西暦1,467年7月15日、武田信賢率いる軍が、二条通に下る途上、朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られる。8月10日、武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。然し数名が朝倉孝景勢に討たれた。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路に退却した。西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の2名が布陣する醍醐・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。
  • 武田国信 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内政弘率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、国信・赤松政則の2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。
  • 赤松政則 西暦1,467年6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、京極持清は朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通を進んで迂回して斯波義廉率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内政弘率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、国信・赤松政則の2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の2名が布陣する醍醐・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。
  • 京極持清 西暦1,467年6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路に退却した。
  • 大内政弘 西暦1,467年10月16日早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭元明・浦上則宗の2名の布陣していた南禅寺山に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。秋庭元明・浦上則宗の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内政弘率いる軍を退けた。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内政弘率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、国信・赤松政則の2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。然し東軍は、相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉孝景・大内政弘が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色義直・六角高頼も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西暦1,468年4月13日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。
  • 一色義直 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉孝景・大内政弘が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色義直・六角高頼も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。
  • 土岐成頼 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。
  • 六角高頼 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉孝景・大内政弘が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色義直・六角高頼も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。
  • 甲斐敏光 西暦1,467年6月頃、細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。東軍は細川勝元・足利義視・畠山政長・斯波義敏・武田信繁の弐男武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則、西軍は山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼の陣容であった。6月27日、東軍と西軍が、一条大宮にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、京極持清は朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通を進んで迂回して斯波義廉率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。
  • 骨皮道賢 西暦1,468年4月13日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。多勢に無勢で、敗北を悟った骨皮道賢は、女装して板輿に乗り、逃走を図った。然し見破られ、朝倉孝景が骨皮道賢を斬首し、稲荷山に火を放った。骨皮道賢の首級は三条河原に梟首され、「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」(昨日まで稲荷山で威張り散らして暴れ廻っていた道賢が、今日は骨と皮になって殺されてしまった。折角女装までして可愛かったのに、お気の毒様)という落首が張り出された。かはゆきは「哀れ」「可愛い」の2つの意味が掛かっている。
  • 深町久清 西暦1,469年3月12日、足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。足利義政は深町久清の知行の安堵を約束した。6月30日、朝倉孝景が、深町久清に加勢を依頼する。朝倉孝景は深町久清に、知行の安堵を約束した。
  • 秋庭元明 西暦1,467年10月16日早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭元明・浦上則宗の2名の布陣していた南禅寺山に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。此の戦いにより、南禅寺・青蓮院が灰燼に帰した。秋庭元明・浦上則宗の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内政弘率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。三番手として、遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。然し東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ、此れを退けた。次に、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。
  • 浦上則宗 西暦1,467年10月16日早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭元明・浦上則宗の2名の布陣していた南禅寺山に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。此の戦いにより、南禅寺・青蓮院が灰燼に帰した。秋庭元明・浦上則宗の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内政弘率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。三番手として、遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。然し東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ、此れを退けた。次に、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。
  • 安富元綱 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。
  • 細川勝之 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。
  • 斯波持種・斯波義孝 西暦1,467年2月25日、朝倉孝景が、在洛する斯波持種と、持種の息子斯波義孝の2名を襲撃し、追放する。
  • 関民部少輔・松田次郎左衛門尉 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。三条坊門殿は、伊勢国の住人関民部少輔と、備前国の住人松田次郎左衛門尉の2名が500騎余で守備していた。然し、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田次郎左衛門尉は討たれ、関民部少輔は相国寺に退却した。

本書が記録する出来事

  • 畠山義就による上御霊神社の襲撃(1,467年2月22日) 早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。
  • 朝倉孝景による斯波持種・斯波義孝の襲撃(1,467年2月25日) 朝倉孝景が、在洛する斯波持種と、持種の息子斯波義孝の2名を襲撃し、追放する。
  • 細川勝元による諸大名への上洛の要請(1,467年6月頃) 細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川勝元の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。東軍は細川勝元・足利義視・畠山政長・斯波義敏・武田信繁の弐男武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則、西軍は山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼の陣容であった。
  • 一条大宮での東軍と西軍の市街戦(1,467年6月27日) 東軍と西軍が、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川勝久の救援に向かい、一条通を西進して斯波義廉率いる軍を襲撃した。然し、朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通(現在の京都府京都市上京区の中立売通)を進んで迂回して斯波義廉率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川勝久は、此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込んだ。戦闘は翌日の18時迄続いた。最終的に行願寺(現在の京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)・知恩寺(現在の京都府京都市左京区田中門前町)や民家等が焼失した。
  • 斯波義廉による朝倉孝景の首級の要求(1,467年7月14日) 斯波義廉が、東軍への降参条件として、朝倉孝景の首級を要求する。
  • 二条通に下る武田信賢率いる軍への朝倉孝景勢の待ち伏せ(1,467年7月15日) 武田信賢率いる軍が、二条通(現在の京都府京都市中京区)に下る途上、朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られる。
  • 武田信賢率いる軍による斯波義廉の屋敷の襲撃(1,467年8月10日) 武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。然し数名が朝倉孝景勢に討たれた。
  • 大内政弘率いる軍による南禅寺山への攻撃(1,467年10月16日) 早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭元明・浦上則宗の2名の布陣していた南禅寺山(現在の京都府京都市左京区南禅寺南禅寺山町付近)に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。此の戦いにより、南禅寺・青蓮院(現在の京都府京都市東山区粟田口三条坊町)が灰燼に帰した。秋庭元明・浦上則宗の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内政弘率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡(現在の京都府京都市山科区)から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。三番手として、遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。然し東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ、此れを退けた。次に、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。
  • 西軍による相国寺の襲撃(1,467年10月30日) 畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路(現在の京都府京都市の烏丸通)・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信が率いる3,000騎が迎え撃った。三条坊門殿は、伊勢国の住人関民部少輔と、備前国の住人松田次郎左衛門尉の2名が500騎余で守備していた。然し、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田次郎左衛門尉は討たれ、関民部少輔は相国寺に退却した。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路(現在の京都府京都市北区出雲路立テ本町)に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は、総力を挙げて白兵戦を展開した。勝之・元綱と、元綱の弟安富盛継の3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。次に、大内政弘・土岐成頼が総門を攻め立てた。然し、浦上則宗等の奮戦により、大内政弘の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内政弘率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、国信・赤松政則の2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。然し東軍は、相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉孝景・大内政弘が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色義直・六角高頼も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西軍は、討ち取った首級を8輌もの車に載せ、意気揚々と自陣に帰還した。一方足利義政は、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。
  • 朝倉孝景率いる軍による醍醐・山科の襲撃(1,468年4月13日) 朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の2名が布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。
  • 山名宗全等が率いる軍による稲荷山の襲撃と、朝倉孝景による骨皮道賢の斬首(1,468年4月13日) 山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘が率いる30,000名の軍が、骨皮道賢の布陣していた稲荷山を包囲し、襲撃する。多勢に無勢で、敗北を悟った骨皮道賢は、女装して板輿に乗り、逃走を図った。然し見破られ、朝倉孝景が骨皮道賢を斬首し、稲荷山に火を放った。骨皮道賢の首級は三条河原(現在の京都府京都市中京区大橋町)に梟首され、「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」(昨日まで稲荷山で威張り散らして暴れ廻っていた道賢が、今日は骨と皮になって殺されてしまった。折角女装までして可愛かったのに、お気の毒様)という落首が張り出された。かはゆきは「哀れ」「可愛い」の2つの意味が掛かっている。
  • 斯波義敏の軍勢による朝倉孝景勢の越前国からの追放(1,468年6月12日) 斯波義敏の軍勢が、朝倉孝景勢を越前国から追い出す。
  • 伊勢貞親による朝倉孝景の東軍への勧誘(1,468年9月19日) 伊勢貞親が朝倉孝景に対し、東軍に勧誘する書簡を送る。此の書簡を読んだ朝倉孝景は、目を疑った。以降足利義政は、細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を行なった。
  • 朝倉孝景の越前国への下向(1,468年11月28日) 斯波義敏が越前国を略掌握し、斯波義廉が苦境に立たされる中、東軍の働き掛けにより、朝倉孝景が、自身の嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、自身の弟朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖の3名と共に、越前国へ下向する。此れは義敏に反撃する為と周囲は理解していた。
  • 朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報(1,469年1月24日) 数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。
  • 足利義政による深町久清への斯波義廉の討伐の命令(1,469年3月12日) 足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。足利義政は深町久清の知行の安堵を約束した。
  • 朝倉孝景による深町久清への加勢の依頼(1,469年6月30日) 朝倉孝景が、深町久清に加勢を依頼する。朝倉孝景は深町久清に、知行の安堵を約束した。
  • 伊勢貞親による朝倉孝景への書簡の送付(1,469年8月9日) 伊勢貞親が朝倉孝景に対し「『貴方の側に参じて忠誠を尽くすべき』とのご意向を述べられ、実に立派な事でございます。では、御内書を書いて下さい」という主旨の書簡を送る。
  • 伊勢貞親による朝倉孝景への戦功の要求(1,470年1月10日) 伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利義政は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉孝景を信用していなかった。此の時越前国の内外は、西軍が大勢を占めていた。朝倉孝景は、合戦を仕掛けて敗北すれば、東軍の情勢が悪化する為、表向きは西軍に従いながらも、越前国坂北郡(現在の福井県あわら市・坂井市三国町・丸岡町地区)の深町氏等の有力国人や大寺社を味方に勧誘する等して、合戦の準備を進めた。
  • 朝倉孝景による河口荘本庄郷・大口郷の済物の押領(1,470年9月15日) 朝倉孝景が、坂井郡河口荘本庄郷(現在の福井県あわら市)・大口郷(現在の福井県あわら市)の済物を押領する。
  • 細川勝元方による朝倉孝景の東軍への参仕の伝達(1,471年3月20日) 細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられる。
  • 朝倉孝景宛の書簡・御内書・管領副状の送付(1,471年6月9日) 朝倉孝景宛に、足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡と、足利義政による、朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状が送付される。
  • 朝倉氏景の細川成之の屋敷への参上(1,471年6月26日) 夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。
  • 朝倉氏景の足利義政への謁見(1,471年6月27日) 朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉氏景は、御剣を拝領した。
  • 朝倉氏景の越前国入り(1,471年7月11日) 朝倉氏景が越前国に入る。若狭国を経由したが、越前国下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。本書の年表の最後の項目である。

上御霊神社の襲撃から、越前国へ──
其の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。