伊勢貞親の勧誘工作が実り、
朝倉孝景が息子の朝倉氏景と共に
東軍に寝返る一元化
西暦1,467年、上御霊神社に火が放たれた──
応仁の乱を戦い抜いた朝倉孝景の、西軍から東軍への約四年五ヶ月を一元化。
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本書について
西暦1,467年2月22日の早朝、畠山義就が兵3,000名余を率いて、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。此れに加勢したのが、山名宗全・山名政豊と、越前国の朝倉孝景である。細川勝元は此の段階では動かず静観し、持ち堪えられなかった政長は、丸一日の合戦の末に上御霊神社の拝殿へ放火して細川の屋敷に退却した。足利義教の拾男足利義視は義就を支援し、細川は面目を失う——本書は、応仁の乱の口火となった此の一戦を起点として、西軍の猛将として京都を戦い抜いた朝倉孝景が、やがて東軍へ寝返り、越前国守護の座を手にするまでの約四年五ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,467年6月頃、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集すると、両陣営の構図がはっきりした。細川の屋敷と花の御所を中心に京都北部から東に布陣したのが東軍、堀川西岸の山名宗全の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点としたのが西軍である。朝倉孝景は西軍に名を連ねた。同月27日、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)での市街戦では、斯波義廉が朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かい、救援に駆け付けた京極持清を反撃で敗走させている。赤松政則の迂回攻撃を受けて退却したものの、自邸で抵抗していた細川勝久は其れを焼き払って細川成之の屋敷へ逃げ込み、行願寺・知恩寺や民家までが焼失した。
朝倉の武名は、西軍の内側からも恐れられていた。同年7月14日、斯波義廉は東軍への降参条件として、自らが率いる朝倉孝景の首級を要求している。翌15日、二条通(現在の京都府京都市中京区)へ下る武田信賢率いる軍は朝倉勢の待ち伏せに遭い、約80名を討ち取られた。8月10日に武田が斯波義廉の屋敷を襲撃した際にも、数名が朝倉勢に討たれている。一方、同年10月16日の南禅寺山(現在の京都府京都市左京区南禅寺南禅寺山町付近)では、孤立した秋庭元明・浦上則宗の俄仕立ての陣に対し、大内政弘・山名宗全・遊佐氏と誉田氏に続く四番手として朝倉が甲斐氏と如意ヶ嶽から攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えぬ中、石礫を浴びて退却した。
同年10月30日、相国寺の戦いが起こる。畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼が率いる西軍30,000名程度の軍勢が朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して相国寺及び其の周辺を襲撃した。東軍は細川勝之・安富元綱・武田国信の3,000騎が立て籠もり、勝之・元綱・安富盛継は配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を7度退けたが、東門から攻め込まれ、其処で戦死する。西軍に内通した僧が相国寺に火を放つと、東軍は遂に相国寺を放棄せざるを得なくなった。時雨が火と煙を鎮めた頃、朝倉と大内が相国寺に陣取り、一帯は30,000名の西軍に押さえられる。西軍は討ち取った首級を8輌もの車に載せて意気揚々と帰還し、足利義政は日野富子の避難の勧めも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。
西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍は、赤松政則・武田信賢の布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲って退けた。同じ日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘の率いる30,000名が稲荷山を包囲する。多勢に無勢と敗北を悟った骨皮道賢は、女装して板輿に乗り逃走を図ったが見破られ、朝倉に斬首された。首級は三条河原(現在の京都府京都市中京区大橋町)に梟首され、「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」との落首が張り出される。「かはゆき」には「哀れ」と「可愛い」の二つの意味が掛けられていた。西軍の絶頂は、此処までであった。
同年6月12日、斯波義敏の軍勢が朝倉孝景勢を越前国から追い出す。そして9月19日、伊勢貞親から東軍へ勧誘する書簡が届いた。書簡を読んだ朝倉は、目を疑ったという。以降、足利義政は細川勝元と共に、西軍勢力の切り崩し工作を進めてゆく。11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握して斯波義廉が苦境に立たされる中、朝倉孝景は嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、弟の朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖と共に越前国へ下向した。周囲は義敏への反撃と理解していたが、西暦1,469年1月24日、数日前に朝倉が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。
然し朝倉は、容易には動かなかった。西暦1,469年3月12日、足利義政は越前国人深町久清に、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じ、知行の安堵を約束する。6月30日には朝倉自身も深町へ加勢を依頼した。8月9日、伊勢貞親は「忠誠を尽くすべきとのご意向を述べられ、実に立派な事」と書き送り、御内書を求める。西暦1,470年1月10日には「朝倉殿の注進の旨は京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」と督促した。御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉を、足利は信用していなかったのである。越前国の内外は西軍が大勢を占めており、敗北すれば東軍の情勢が悪化する。朝倉は表向き西軍に従いながら、越前国坂北郡(現在の福井県あわら市・坂井市三国町・丸岡町地区)の深町氏等の有力国人や大寺社を味方に勧誘し、9月15日には坂井郡河口荘本庄郷・大口郷(いずれも現在の福井県あわら市)の済物を押領して、合戦の準備を進めていた。
西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も越前国へ下向して斯波義敏の被官となった旨が、第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられる。6月9日、足利義政が朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する御内書と管領副状、及び其れを伝える細川勝元の書簡が朝倉宛に送付された。26日の夜、朝倉氏景は細川成之の屋敷に馳せ参じ、翌27日、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見して御剣を拝領する。7月11日、氏景は若狭国を経由して越前国に入った。下向の手配は、全て赤松氏被官中村三郎が行っている。伊勢貞親の一通の書簡に始まった勧誘工作が、二年九ヶ月を経て実を結んだ一部始終を、本書は一冊に束ねている。
主要登場人物
- 朝倉孝景 本書の中心人物。応仁の乱前半における西軍最強の将。西暦1,467年2月22日の上御霊神社襲撃に加勢して以来、一条大宮・二条通・南禅寺山・相国寺・稲荷山と京都を戦い抜き、骨皮道賢を斬首した。西暦1,468年に斯波義敏へ越前国を奪われた後、伊勢貞親の勧誘工作を受け入れ、西暦1,471年6月9日に第18代室町幕府越前国守護へ補任された。
- 朝倉氏景 朝倉孝景の嫡男。西暦1,468年11月28日の父の越前国下向後も、配下の兵と共に京都へ残った。西暦1,471年3月20日迄に越前国へ下向して斯波義敏の被官となり、同年6月26日夜に細川成之の屋敷へ馳せ参じ、翌27日に征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見して御剣を拝領。7月11日に越前国へ入った。
- 朝倉経景 朝倉孝景の弟。西暦1,468年11月28日、兄と朝倉景冬・朝倉光玖と共に越前国へ下向した。周囲は斯波義敏への反撃と理解していたが、実態は東軍への寝返りに向けた地歩固めであった。
- 朝倉景冬 朝倉孝景の弟。西暦1,468年11月28日の越前国下向に随行し、兄の越前国経略を支えた。
- 朝倉光玖 朝倉孝景の弟。西暦1,468年11月28日の越前国下向に随行した。朝倉家内部の結束を以って、深町氏等の越前国人との連携工作を下支えした。
- 伊勢貞親 本書の題号に名を残す人物。足利義政の側近として、西軍勢力の切り崩し工作の中枢を担った。西暦1,468年9月19日に朝倉孝景へ最初の勧誘書簡を送り、西暦1,469年8月9日には御内書を求め、西暦1,470年1月10日には「先ずは戦功を以って態度を示して下さい」と督促している。
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。細川勝元と共に西軍勢力の切り崩し工作を主導した。西暦1,469年3月12日に越前国人深町久清へ朝倉孝景に従う様命じ、西暦1,471年6月9日には朝倉を越前国守護に補任する御内書を発給した。相国寺の戦いの最中には、日野富子の避難の勧めも聞かず酒宴に興じていた。
- 細川勝元 東軍の総大将。西暦1,467年2月22日の上御霊神社襲撃では静観して面目を失い、同年6月頃に諸大名へ上洛を要請して東軍を形作った。西暦1,471年6月9日、朝倉孝景の東軍参仕と朝倉氏景の東軍帰属が明白となった事を受け、御内書発給を伝える書簡を朝倉へ送付した。
- 細川成之 第8代室町幕府阿波国守護。西暦1,467年6月27日の一条大宮の市街戦では、自邸を焼き払って退却した細川勝久の逃げ込み先となった。西暦1,471年6月26日夜には、朝倉氏景が東軍へ馳せ参じる場ともなった屋敷の主。
- 斯波義廉 第20代室町幕府管領。西軍。朝倉孝景を率いて細川勝久の屋敷を襲撃する一方、西暦1,467年7月14日には東軍への降参条件として朝倉の首級を要求した。越前国で斯波義敏に押されて苦境に立たされ、配下の朝倉に離反されてゆく。
- 斯波義敏 東軍。西暦1,468年6月12日に朝倉孝景勢を越前国から追い出し、同年11月28日迄に越前国を略掌握した。西暦1,469年1月24日には朝倉が降参したとの報が京都に齎され、後に朝倉氏景を被官としている。
- 山名宗全 西軍の総大将。西暦1,467年2月22日の上御霊神社襲撃では朝倉孝景・山名政豊を加勢に送り込んだ。同年10月16日の南禅寺山では二番手として日ノ岡から攻め上ったが大石を投げ落とされて退けられ、西暦1,468年4月13日には稲荷山包囲の30,000名を朝倉等と率いた。
- 山名政豊 西軍。西暦1,467年2月22日、山名宗全の命により、朝倉孝景等と共に上御霊神社の畠山政長を襲撃した。
- 畠山義就 西軍の主力。西暦1,467年2月22日に兵3,000名余を率いて上御霊神社を襲撃し、応仁の乱の口火を切った。相国寺の戦い・稲荷山の戦いでも朝倉孝景と軍事行動を共にしている。
- 畠山政長 東軍。前管領。西暦1,467年2月22日、上御霊神社で畠山義就・朝倉孝景等の襲撃を受け、丸一日戦った末に拝殿へ放火して細川の屋敷に退却した。
- 畠山義統 西軍。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、畠山義就・大内政弘等と共に30,000名程度の軍勢を率い、朝倉孝景と合流して相国寺一帯を襲撃した。
- 足利義視 足利義教の拾男。西暦1,467年2月22日の上御霊神社の戦いで畠山義就を支援した。後に東軍の陣容に名を連ねている。
- 武田信賢 東軍。武田信繁の弐男。西暦1,467年7月15日、二条通へ下る途上で朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い約80名を討ち取られ、同年8月10日の斯波義廉邸襲撃でも数名を討たれた。相国寺の戦いでは高倉殿を守備したが、寺の炎上を落城と誤認して出雲路へ退却している。
- 武田国信 東軍。武田信繁の参男。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで3,000騎の一角を担い、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込む大内政弘勢を、赤松政則と共に防いだ。
- 赤松政則 東軍。西暦1,467年6月27日の一条大宮の市街戦で、正親町通を進んで迂回し斯波義廉・朝倉孝景勢を襲撃して退却させた。相国寺の戦いでも西軍の侵入を阻止したが、西暦1,468年4月13日には朝倉の襲撃を受けて醍醐・山科から退却している。
- 京極持清 東軍。西暦1,467年6月27日の一条大宮の市街戦で細川勝久の救援に向かい、一条通を西進した所で朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。相国寺の戦いでは烏丸殿を守備していたが、出雲路へ退却している。
- 大内政弘 西軍の主力。西暦1,467年10月16日の南禅寺山の戦いで一番手として攻撃を開始し、同年10月30日の相国寺の戦いでは総門を攻め立てた。戦闘後は朝倉孝景と共に相国寺へ陣取っている。
- 一色義直 西軍。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで畠山義就・朝倉孝景等と共に30,000名程度の軍勢に加わり、攻め口が無く戦闘に参加出来ぬまま、戦闘後に相国寺へ陣取った。
- 土岐成頼 西軍。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、大内政弘と共に総門を攻め立てた。
- 六角高頼 西軍。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いに加わったが、攻め口が無く戦闘に参加出来ず、戦闘後に朝倉孝景・大内政弘に続いて相国寺へ陣取った。
- 甲斐敏光 西軍。西暦1,467年6月27日の一条大宮の市街戦で、斯波義廉・朝倉孝景と共に細川勝久の屋敷を襲撃した。同年10月16日の南禅寺山の戦いでは、朝倉と共に四番手として如意ヶ嶽から攻め込み、石礫を浴びて退却している。
- 骨皮道賢 東軍。西暦1,468年4月13日、山名宗全・朝倉孝景等の率いる30,000名に稲荷山を包囲され、敗北を悟って女装し板輿に乗って逃走を図ったが見破られ、朝倉に斬首された。首級は三条河原に梟首され、落首が張り出された。
- 深町久清 越前国人。坂北郡を本拠とする有力国人。西暦1,469年3月12日に足利義政から朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じられ、同年6月30日には朝倉自身から加勢を依頼された。いずれも知行の安堵が約束されている。
- 秋庭元明 東軍。西暦1,467年10月16日の南禅寺山の戦いで、浦上則宗と共に俄仕立ての陣を構えた。防御は不十分であったが摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として、大内政弘・山名宗全・遊佐氏誉田氏・甲斐氏朝倉孝景の四度の攻撃を退けた。
- 浦上則宗 東軍。秋庭元明と共に南禅寺山で孤立しながら、朝倉孝景の如意ヶ嶽からの攻撃を含む四度の攻撃を撃退した。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いでも奮戦し、大内政弘の花の御所侵入を阻止している。
- 安富元綱 細川勝元の重臣。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、細川勝之・弟の安富盛継と共に配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を7度退けた。東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、配下の兵と共に戦死した。
- 細川勝之 細川勝元の猶子。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで3,000騎を率いて立て籠もり、安富元綱・安富盛継と共に総門を守って戦死した。
- 斯波持種・斯波義孝 西暦1,467年2月25日、在洛していた所を朝倉孝景に襲撃され、追放された父子。
- 関民部少輔・松田次郎左衛門尉 西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、伊勢国・備前国の住人として三条坊門殿を500騎余で守備した2名。西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田は討たれ、関は相国寺へ退却した。
本書が記録する出来事
- 上御霊神社の戦い 西暦1,467年2月22日、本書が記録する攻防の起点。畠山義就の兵3,000名余に朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。政長は丸一日の合戦の末に拝殿へ放火して細川の屋敷へ退却し、静観していた細川勝元は面目を失った。
- 斯波持種・斯波義孝の追放 西暦1,467年2月25日、朝倉孝景が在洛していた斯波持種と其の息子斯波義孝を襲撃し、追放した。
- 東軍と西軍の成立 西暦1,467年6月頃、細川勝元の上洛要請に畠山政長等が参集し、両陣営の構図が定まった。細川の屋敷と花の御所を中心に京都北部から東に布陣したのが東軍、堀川西岸の山名宗全の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点としたのが西軍で、朝倉孝景は西軍に名を連ねた。
- 一条大宮の市街戦 西暦1,467年6月27日、斯波義廉が朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷を襲撃した。救援に向かった京極持清は朝倉の反撃で敗走し、赤松政則の迂回攻撃で西軍は退却。細川勝久は自邸を焼き払って細川成之の屋敷へ逃げ込み、行願寺・知恩寺や民家が焼失した。
- 朝倉孝景の首級の要求 西暦1,467年7月14日、斯波義廉が東軍への降参条件として、自らが率いる朝倉孝景の首級を要求した。
- 二条通の待ち伏せ 西暦1,467年7月15日、二条通(現在の京都府京都市中京区)へ下る途上の武田信賢率いる軍が朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られた。同年8月10日の斯波義廉邸襲撃でも、武田勢の数名が朝倉勢に討たれている。
- 南禅寺山の戦い 西暦1,467年10月16日、孤立した秋庭元明・浦上則宗の陣へ、大内政弘・山名宗全・遊佐氏誉田氏・甲斐氏朝倉孝景が四度にわたって攻め寄せた。俄仕立ての陣は大石と矢の雨で此れを凌ぎ切り、南禅寺と青蓮院が灰燼に帰した。
- 相国寺の戦い 西暦1,467年10月30日、西軍30,000名程度が朝倉孝景等と合流し相国寺一帯を襲撃した。細川勝之・安富元綱・安富盛継は総門を7度守り抜いた末に戦死。内通した僧の放火により東軍は相国寺を放棄し、朝倉と大内政弘が陣取って一帯を制した。
- 醍醐・山科の襲撃 西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が赤松政則・武田信賢の布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃し、両名を退却させた。
- 稲荷山の戦いと骨皮道賢の斬首 西暦1,468年4月13日、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘の率いる30,000名が稲荷山を包囲した。女装して逃走を図った骨皮道賢は見破られ、朝倉に斬首される。首級は三条河原に梟首され、「哀れ」と「可愛い」を掛けた落首が張り出された。
- 越前国からの追放 西暦1,468年6月12日、斯波義敏の軍勢が朝倉孝景勢を越前国から追い出した。京都で勝ち続けた朝倉が、本国を失った転機である。
- 伊勢貞親の勧誘書簡 西暦1,468年9月19日、伊勢貞親が朝倉孝景へ東軍に勧誘する書簡を送った。書簡を読んだ朝倉は目を疑ったという。以降、足利義政は細川勝元と共に西軍勢力の切り崩し工作を進めてゆく。
- 越前国への下向 西暦1,468年11月28日、斯波義敏が越前国を略掌握して斯波義廉が苦境に立たされる中、朝倉孝景が嫡男朝倉氏景と配下の兵を京都に残し、弟の朝倉経景・朝倉景冬・朝倉光玖と共に越前国へ下向した。周囲は義敏への反撃と理解していた。
- 斯波義敏への降参 西暦1,469年1月24日、数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎された。
- 深町久清への働き掛け 西暦1,469年3月12日、足利義政が越前国人深町久清に朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じ、知行の安堵を約束した。同年6月30日には朝倉自身も深町へ加勢を依頼し、同じく知行の安堵を約束している。
- 御内書を巡る往復 西暦1,469年8月9日、伊勢貞親が朝倉孝景へ御内書を求める書簡を送った。西暦1,470年1月10日には「朝倉殿の注進の旨は京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」と督促する。足利義政は、御内書や国拝領御判を受け取りながら合戦を行わない朝倉を信用していなかった。
- 越前国での調略と済物の押領 西暦1,470年、西軍が大勢を占める越前国で、朝倉孝景は表向き西軍に従いながら坂北郡(現在の福井県あわら市・坂井市三国町・丸岡町地区)の深町氏等の有力国人や大寺社を勧誘した。同年9月15日には坂井郡河口荘本庄郷・大口郷(いずれも現在の福井県あわら市)の済物を押領している。
- 寝返りの公然化 西暦1,471年3月20日、細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍へ参仕し、朝倉氏景も越前国へ下向して斯波義敏の被官となった旨が、第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられた。
- 越前国守護への補任 西暦1,471年6月9日、足利義政が朝倉孝景を第18代室町幕府越前国守護に補任する御内書と管領副状、及び其れを伝える細川勝元の書簡が朝倉宛に送付された。伊勢貞親の勧誘工作が実を結んだ到達点である。
- 朝倉氏景の謁見と越前国入り 西暦1,471年6月26日の夜、朝倉氏景が細川成之の屋敷へ馳せ参じ、翌27日に征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見して御剣を拝領した。7月11日、若狭国を経由して越前国へ入る。下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。本書が記録する最後の出来事である。
上御霊神社の奮戦から、越前国守護への補任へ──
伊勢貞親の勧誘工作と朝倉孝景の寝返りの全過程を一元化。
JPY 200(税込)
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