椿城の防衛に成功した
大井信達、
今川氏親と
武田信虎の和睦を
成立させた
連歌師宗長一元化
椿城の深田から、宗長の斡旋へ──
大井信達と宗長を一元化。
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本書について
西暦1,515年、椿城(現在の山梨県南アルプス市上野)主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。本書は、此の大井信達と今川氏親の連携から、椿城での武田信虎率いる軍の大敗、万力での今川氏親勢による武田信虎率いる軍の撃破、小林道光による吉田城の落城、宗長の斡旋による今川氏親と武田信虎の和睦を経て、西暦1,517年4月23日に武田信虎が一蓮寺領を安堵する迄を一元化した記録である。
西暦1,515年11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田信虎は、恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)へ逃亡した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城(現在の山梨県甲府市上曽根町)に布陣した。
西暦1,516年10月23日、今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。円楽寺(現在の山梨県甲府市右左口町)・大蔵経寺(現在の山梨県笛吹市石和町松本)・普賢寺(現在の山梨県山梨市北の大井俣窪八幡神社)等が焼失した。そして今川勢は、万力(現在の山梨県山梨市)にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。武田信虎は、恵林寺へ敗走した。11月頃、武田信虎が、川田館(現在の山梨県甲府市川田町)に帰還する。
西暦1,517年1月18日、今川氏親勢が、都留郡の西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。1月21日、武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城(現在の山梨県富士吉田市上吉田東)の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に逃れて越年した。1月22日、小林道光・小林昌喜の2名が、新倉(現在の山梨県富士吉田市)に進軍する。1月23日、小林道光が、吉田城を攻撃する。2月2日、吉田城の今川氏親勢が、撤退を始める。
西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月17日、小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。武田信虎は、川田館に帰還した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
西暦1,517年3月23日、勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。3月30日、武田信虎が、広厳院(現在の山梨県笛吹市一宮町金沢)と其の末寺に禁制を与える。4月頃、今川氏親が、駿河国へ帰国する。4月23日、武田信虎が、一蓮寺(現在の山梨県甲府市太田町)領を安堵する。大井信達と今川氏親の連携から、椿城での武田信虎率いる軍の大敗、万力での今川氏親勢による武田信虎率いる軍の撃破、小林道光による吉田城の落城、宗長の斡旋による今川氏親と武田信虎の和睦を経て、武田信虎による一蓮寺領の安堵に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 大井信達 西暦1,515年、椿城主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。西暦1,517年2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後宗長は、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。
- 今川氏親 西暦1,515年、椿城主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城に布陣した。西暦1,516年10月23日、今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。そして今川勢は、万力にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。西暦1,517年1月18日、今川氏親勢が、都留郡の西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後宗長は、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。3月23日、勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。4月頃、今川氏親が、駿河国へ帰国する。
- 武田信虎 西暦1,515年11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田信虎は、恵林寺へ逃亡した。西暦1,516年10月23日、今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。そして今川勢は、万力にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。武田信虎は、恵林寺へ敗走した。11月頃、武田信虎が、川田館に帰還する。西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後宗長は、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。武田信虎は、川田館に帰還した。3月30日、武田信虎が、広厳院と其の末寺に禁制を与える。4月23日、武田信虎が、一蓮寺領を安堵する。
- 宗長 西暦1,517年2月12日、今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。
- 小林道光 西暦1,517年1月21日、武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城の今川氏親勢と交戦する。1月22日、小林道光・小林昌喜の2名が、新倉に進軍する。1月23日、小林道光が、吉田城を攻撃する。2月17日、小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。
- 小林昌喜 西暦1,517年1月21日、武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島に逃れて越年した。1月22日、小林道光・小林昌喜の2名が、新倉に進軍する。
- 大井の方 西暦1,517年2月18日、宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後宗長は、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。
- 小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎 西暦1,515年11月22日、武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。
- 西海右近進・西海平八郎 西暦1,517年1月18日、今川氏親勢が、都留郡の西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。
本書が記録する出来事
- 大井信達と今川氏親の連携(1,515年) 椿城(現在の山梨県南アルプス市上野)主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。
- 武田信虎率いる軍による椿城の攻撃(1,515年11月22日) 武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田信虎率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、小山田大和守・今井信房・於曽備州・板垣伯耆守・飯富道悦・飯富源四郎・甘利衆を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田信虎は、恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)へ逃亡した。今川氏親は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城(現在の山梨県甲府市上曽根町)に布陣した。
- 今川氏親勢による甲斐国中への放火(1,516年10月23日) 今川氏親勢が、甲斐国中に火を掛ける。円楽寺(現在の山梨県甲府市右左口町)・大蔵経寺(現在の山梨県笛吹市石和町松本)・普賢寺(現在の山梨県山梨市北の大井俣窪八幡神社)等が焼失した。そして今川勢は、万力(現在の山梨県山梨市)にて、武田信虎率いる軍と交戦し、此れを破った。武田信虎は、恵林寺へ敗走した。
- 武田信虎の川田館への帰還(1,516年11月頃) 武田信虎が、川田館(現在の山梨県甲府市川田町)に帰還する。
- 今川氏親勢による西海右近進・西海平八郎等の討ち取り(1,517年1月18日) 今川氏親勢が、都留郡の西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。
- 小林昌喜の出陣(1,517年1月21日) 武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城(現在の山梨県富士吉田市上吉田東)の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に逃れて越年した。
- 小林道光・小林昌喜の新倉への進軍(1,517年1月22日) 小林道光・小林昌喜の2名が、新倉(現在の山梨県富士吉田市)に進軍する。
- 小林道光による吉田城の攻撃(1,517年1月23日) 小林道光が、吉田城を攻撃する。
- 吉田城の今川氏親勢の撤退の開始(1,517年2月2日) 吉田城の今川氏親勢が、撤退を始める。
- 今川氏親による宗長への和睦の斡旋の依頼(1,517年2月12日) 今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川氏親は、宗長を武田信虎の下に遣わせた。
- 小林道光による吉田城の落城(1,517年2月17日) 小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。
- 宗長の甲府への到着(1,517年2月18日) 宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田信虎の正室として差し出した。武田信虎は、川田館に帰還した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
- 勝山城の今川氏親勢の駿河国への帰国(1,517年3月23日) 勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。
- 武田信虎による広厳院への禁制(1,517年3月30日) 武田信虎が、広厳院(現在の山梨県笛吹市一宮町金沢)と其の末寺に禁制を与える。
- 今川氏親の駿河国への帰国(1,517年4月頃) 今川氏親が、駿河国へ帰国する。
- 武田信虎による一蓮寺領の安堵(1,517年4月23日) 武田信虎が、一蓮寺(現在の山梨県甲府市太田町)領を安堵する。本書の年表の最後の項目である。
万力の戦いから、吉田城の落城へ──
其の全過程を一元化。
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