電子書籍「上杉定正一元化」の表紙

上杉定正一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,443年〜1,494年11月2日
ページ数
9ページ
文字数
2,407字
最新更新日
西暦2,026年10月6日

太田道灌の暗殺から、荒川の落馬へ──
上杉定正を一元化。

148円(税込)

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本書について

西暦1,443年、上杉持朝の参男上杉定正が生誕する。本書は、此の上杉定正の生誕から、上杉定正による太田道灌の暗殺、実蒔原・須賀谷原・高見原での上杉定正による山内上杉軍の撃破、関戸城の陥落を経て、西暦1,494年11月2日に上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する迄を一元化した記録である。

西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。

西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が、五十子(現在の埼玉県本庄市)にて戦死する。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を扇谷上杉家当主に迎える事になった。此れにより定正は、第11代扇谷上杉家当主に就任した。

西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。

西暦1,487年頃、上杉定正が、太田資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、太田資康は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が、七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃する。七沢城を守備していた上杉定正の弟上杉朝昌が応戦するも落城し、朝昌は大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走した。顕定は、糟屋館へと向かった。又此の日、上杉顕定率いる軍が、200騎余で川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から駆け付けた上杉定正率いる軍と、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)で交戦する。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定率いる軍を破った。

西暦1,488年7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣した。7月26日朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺(現在の埼玉県比企郡嵐山町平澤)に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾景春率いる部隊は、山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。此の戦での戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲になった。

西暦1,488年12月17日、上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。此れを知った山内上杉軍は、上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原(現在の埼玉県大里郡寄居町今市)に3,000名余で布陣した。夕方、高見原にて、山内上杉軍と扇谷上杉軍が交戦した。此れを不安に思った長尾景春は、上杉定正に相談した。上杉定正は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示した。夜、長尾景春が上杉定正の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。山内上杉軍は鉢形城に敗走した。其の後も山内上杉軍は、後方の支援を受けて、鉢形城を保持し続けた。軈て、三度山内上杉軍を破った上杉定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を上杉定正に送る程であった。

西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。

西暦1,494年9月14日、上杉定正が、山内上杉家の上杉顕実の守備する関戸城(現在の東京都多摩市桜ヶ丘)を攻撃する。関戸城は陥落した。9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃上杉定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。10月27日、北条早雲が、上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原(現在の埼玉県比企郡小川町高見)に出陣する。10月30日頃、上杉定正・北条早雲の2名が、上杉顕定と荒川を挟んで高見原で対陣する。

西暦1,494年11月2日、上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。定正の後継として、定正の生前に養子となっていた定正の弟上杉朝昌の息子である上杉朝良が家督を継いだ。定正には嫡子が居なかった。上杉定正の生誕から、上杉定正による太田道灌の暗殺、実蒔原・須賀谷原・高見原での上杉定正による山内上杉軍の撃破、関戸城の陥落を経て、荒川での上杉定正の落馬による死去に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 上杉定正 西暦1,443年、上杉持朝の参男上杉定正が生誕する。西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が、五十子にて戦死する。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を扇谷上杉家当主に迎える事になった。此れにより定正は、第11代扇谷上杉家当主に就任した。西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。西暦1,487年頃、上杉定正が、太田資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、太田資康は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が、200騎余で川越城から駆け付けた上杉定正率いる軍と、実蒔原で交戦する。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定率いる軍を破った。7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原付近に布陣した。7月26日朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾景春率いる部隊は、山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。12月17日、上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。夕方、高見原にて、山内上杉軍と扇谷上杉軍が交戦した。此れを不安に思った長尾景春は、上杉定正に相談した。上杉定正は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示した。夜、長尾景春が上杉定正の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。軈て、三度山内上杉軍を破った上杉定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。西暦1,494年9月14日、上杉定正が、山内上杉家の上杉顕実の守備する関戸城を攻撃する。関戸城は陥落した。9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃上杉定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。10月27日、北条早雲が、上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原に出陣する。10月30日頃、上杉定正・北条早雲の2名が、上杉顕定と荒川を挟んで高見原で対陣する。11月2日、上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。定正の後継として、定正の生前に養子となっていた定正の弟上杉朝昌の息子である上杉朝良が家督を継いだ。定正には嫡子が居なかった。
  • 上杉持朝 西暦1,443年、上杉持朝の参男上杉定正が生誕する。
  • 上杉政真 西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が、五十子にて戦死する。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を扇谷上杉家当主に迎える事になった。此れにより定正は、第11代扇谷上杉家当主に就任した。
  • 太田道灌 西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が、五十子にて戦死する。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を扇谷上杉家当主に迎える事になった。西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。西暦1,488年12月17日、上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。軈て、三度山内上杉軍を破った上杉定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。
  • 太田資康 西暦1,487年頃、上杉定正が、太田資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、太田資康は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。
  • 上杉顕定 西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。西暦1,487年頃、上杉定正が、太田資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、太田資康は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が、七沢城を攻撃する。七沢城を守備していた上杉定正の弟上杉朝昌が応戦するも落城し、朝昌は大庭城へ敗走した。顕定は、糟屋館へと向かった。又此の日、上杉顕定率いる軍が、200騎余で川越城から駆け付けた上杉定正率いる軍と、実蒔原で交戦する。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定率いる軍を破った。7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。西暦1,494年10月27日、北条早雲が、上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原に出陣する。10月30日頃、上杉定正・北条早雲の2名が、上杉顕定と荒川を挟んで高見原で対陣する。
  • 上杉憲房 西暦1,488年7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。
  • 上杉朝昌 西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が、七沢城を攻撃する。七沢城を守備していた上杉定正の弟上杉朝昌が応戦するも落城し、朝昌は大庭城へ敗走した。7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原付近に布陣した。西暦1,494年11月2日、上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。定正の後継として、定正の生前に養子となっていた定正の弟上杉朝昌の息子である上杉朝良が家督を継いだ。
  • 上杉朝良 西暦1,488年7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原付近に布陣した。7月26日朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。西暦1,494年11月2日、上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。定正の後継として、定正の生前に養子となっていた定正の弟上杉朝昌の息子である上杉朝良が家督を継いだ。定正には嫡子が居なかった。
  • 上杉房定 西暦1,488年12月17日、上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。此れを知った山内上杉軍は、上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原に3,000名余で布陣した。
  • 上杉顕実 西暦1,494年9月14日、上杉定正が、山内上杉家の上杉顕実の守備する関戸城を攻撃する。関戸城は陥落した。
  • 長尾景春 西暦1,488年7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原付近に布陣した。7月26日朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾景春率いる部隊は、山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。12月17日、上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。夕方、高見原にて、山内上杉軍と扇谷上杉軍が交戦した。此れを不安に思った長尾景春は、上杉定正に相談した。上杉定正は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示した。夜、長尾景春が上杉定正の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。
  • 足利政氏 西暦1,488年7月頃、上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原付近に布陣した。12月17日、上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。
  • 曽我兵庫 西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。
  • 藤田三郎 西暦1,488年7月26日朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾景春率いる部隊は、山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。
  • 大森氏頼 西暦1,494年9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃上杉定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。
  • 北条早雲 西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。西暦1,494年9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃上杉定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。10月27日、北条早雲が、上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原に出陣する。10月30日頃、上杉定正・北条早雲の2名が、上杉顕定と荒川を挟んで高見原で対陣する。11月2日、上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。
  • 今川氏親 西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
  • 葛山氏 西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
  • 神保長誠 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。
  • 畠山政長 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。
  • 畠山義就 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。

本書が記録する出来事

  • 上杉定正の生誕(1,443年) 上杉持朝の参男上杉定正が生誕する。
  • 畠山義就による上御霊神社の襲撃(1,467年2月22日) 早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。
  • 上杉政真の戦死(1,473年12月13日) 第10代扇谷上杉家当主上杉政真が、五十子(現在の埼玉県本庄市)にて戦死する。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を扇谷上杉家当主に迎える事になった。此れにより定正は、第11代扇谷上杉家当主に就任した。
  • 糟屋館への太田道灌の招きと曽我兵庫による襲撃(1,486年8月25日) 上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。
  • 上杉定正による太田資康の江戸城からの追放(1,487年頃) 上杉定正が、太田資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、太田資康は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。
  • 上杉顕定率いる軍による七沢城の攻撃(1,488年3月18日) 上杉顕定率いる軍が、七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃する。七沢城を守備していた上杉定正の弟上杉朝昌が応戦するも落城し、朝昌は大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走した。顕定は、糟屋館へと向かった。
  • 実蒔原での上杉顕定率いる軍と上杉定正率いる軍の交戦(1,488年3月18日) 上杉顕定率いる軍が、200騎余で川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から駆け付けた上杉定正率いる軍と、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)で交戦する。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定率いる軍を破った。
  • 上杉顕定・上杉憲房の鉢形城からの出陣(1,488年7月頃) 上杉顕定と、顕定の養子上杉憲房の2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春、及び上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣した。
  • 須賀谷原での山内上杉軍と扇谷上杉軍の交戦(1,488年7月26日) 朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺(現在の埼玉県比企郡嵐山町平澤)に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾景春率いる部隊は、山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。此の戦での戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲になった。
  • 山内上杉軍を攻撃する為の上杉定正の進軍(1,488年12月17日) 上杉定正が、足利政氏・長尾景春の2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。此れを知った山内上杉軍は、上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原(現在の埼玉県大里郡寄居町今市)に3,000名余で布陣した。夕方、高見原にて、山内上杉軍と扇谷上杉軍が交戦した。此れを不安に思った長尾景春は、上杉定正に相談した。上杉定正は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示した。夜、長尾景春が上杉定正の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。山内上杉軍は鉢形城に敗走した。其の後も山内上杉軍は、後方の支援を受けて、鉢形城を保持し続けた。軈て、三度山内上杉軍を破った上杉定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を上杉定正に送る程であった。
  • 北条早雲による足利茶々丸征伐の作戦(1,493年10月頃) 北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
  • 上杉定正による関戸城の攻撃(1,494年9月14日) 上杉定正が、山内上杉家の上杉顕実の守備する関戸城(現在の東京都多摩市桜ヶ丘)を攻撃する。関戸城は陥落した。
  • 大森氏頼の死去(1,494年9月15日) 小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃上杉定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。
  • 北条早雲の高見原への出陣(1,494年10月27日) 北条早雲が、上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原(現在の埼玉県比企郡小川町高見)に出陣する。
  • 荒川を挟んだ高見原での対陣(1,494年10月30日頃) 上杉定正・北条早雲の2名が、上杉顕定と荒川を挟んで高見原で対陣する。
  • 上杉定正の落馬による死去(1,494年11月2日) 上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。定正の後継として、定正の生前に養子となっていた定正の弟上杉朝昌の息子である上杉朝良が家督を継いだ。定正には嫡子が居なかった。本書の年表の最後の項目である。

生誕から、須賀谷原・高見原へ──
其の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。