上杉定正一元化
上杉持朝参男定正の生誕・御霊合戦神保長誠激賞・上杉政真五十子戦死後の第11代扇谷上杉家当主就任・糟屋館に於ける太田道灌謀殺・太田資康江戸城追放・七沢城攻撃と実蒔原の戦い・須賀谷原の戦い・高見原の戦い・驕りと離反者発生・北条早雲の足利茶々丸征伐援軍・荒川落馬死去──
関東の扇谷上杉家を率いた51年を一本の時系列に貫く。
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西暦1,443年、上杉持朝の参男として上杉定正が生誕した日から、西暦1,494年11月2日、定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去した日まで。本書は、扇谷上杉家第11代当主上杉定正の生涯——持朝参男としての生誕、応仁の乱に於ける御霊合戦での神保長誠奮戦への武勇激賞、上杉政真の五十子戦死と太田道灌・重臣達の評議による第11代扇谷上杉家当主就任、扇谷上杉家本拠糟屋館への太田道灌招致と配下曽我兵庫による謀殺、第11代山内上杉家当主上杉顕定による讒言と太田道灌の傲慢を背景とする暗殺事件、太田資康の江戸城追放と定正による江戸城占拠、上杉顕定率いる軍による七沢城攻撃と上杉朝昌の大庭城敗走、実蒔原の戦いに於ける地形熟知による寡兵での顕定軍撃破、上杉顕定・養子上杉憲房率いる2,000名の鉢形城出陣と定正の第2代古河公方足利政氏・長尾景春・養子上杉朝良との須賀谷原布陣、平澤寺からの逆落とし攻撃と長尾景春の横槍・定正の高台指揮・藤田三郎勢撃破による須賀谷原の戦い勝利、高見原の戦いに於ける長尾景春の風上夜襲と山内上杉軍の鉢形城敗走、三度の勝利後の驕りと太田道灌暗殺への部下疑問視による離反者発生、北条早雲の足利茶々丸征伐に於ける援軍派遣、荒川渡河中の落馬死去迄の約51年間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1,443年、上杉持朝の参男として上杉定正が生誕した。1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は此の段階では動かず静観した。政長は持ち堪えられず丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し細川の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し細川は面目を失った。神保長誠は其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が五十子にて戦死した。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を扇谷上杉家当主に迎える事になった。此れにより定正は第11代扇谷上杉家当主に就任した。
西暦1,486年8月25日、上杉定正が太田道灌を扇谷上杉家本拠の糟屋館に招いた。定正は太田の功績を妬み謀反の疑いを掛けて招くに至り、配下曽我兵庫が太田が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田は「当方滅亡」と言って絶命した。背景には、第11代山内上杉家当主上杉顕定が定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた事、又太田自身が自らの働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは自分のお蔭だとして憚らず定正の意見を軽んじる始末であった事が有った。1,487年、定正は太田資康を江戸城から追放し江戸城を占拠した。太田は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。
西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が七沢城を攻撃した。七沢城を守備していた上杉定正の弟上杉朝昌が応戦するも落城し、朝昌は大庭城へ敗走、顕定は糟屋館へと向かった。同日、上杉顕定率いる軍は200騎余で川越城から駆け付けた上杉定正率いる軍と実蒔原で交戦した。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず激戦の末辛うじて顕定率いる軍を破った。
西暦1,488年7月、上杉顕定と顕定の養子上杉憲房が、定正の居る川越城を攻める為2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣した。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春・上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原付近に布陣した。同月26日朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦した。扇谷上杉軍は上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を定正が高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾率いる部隊は山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。此の戦での戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲になった。同年12月17日、定正は足利政氏・長尾景春に援軍を求め2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍した。此れを知った山内上杉軍は上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原に3,000名余で布陣した。夕方、高見原にて両軍が交戦した。此れを不安に思った長尾は定正に相談し、定正は鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり休息を取り始めた時に攻撃する様指示した。夜、長尾が定正の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。山内上杉軍は鉢形城に敗走した。其の後も山内上杉軍は後方の支援を受けて鉢形城を保持し続けた。軈て、三度山内上杉軍を破った定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を定正に送る程であった。
西暦1,493年10月、北条早雲が自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。1,494年11月2日、上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去、本書の終結点。
登場人物
- 上杉定正 上杉持朝の参男で第11代扇谷上杉家当主。西暦1,443年に生誕、1,467年2月22日の御霊合戦では神保長誠の武勇を激賞、1,473年12月13日の上杉政真戦死を受けて太田道灌や重臣達の評議により第11代扇谷上杉家当主に就任。1,486年8月25日に糟屋館で太田道灌を謀殺、1,487年には太田資康を江戸城から追放し江戸城を占拠。1,488年以降、上杉顕定との長享の乱を戦い、実蒔原の戦い・須賀谷原の戦い・高見原の戦いと三度に亙って山内上杉軍を破った。三度の勝利後は驕りと太田道灌暗殺への疑問視から離反者が発生。1,493年10月、北条早雲の足利茶々丸征伐に援軍を派遣。1,494年11月2日、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去、本書の主人公。
- 上杉持朝 定正の父。西暦1,443年、参男として定正を儲けた、本書の発端の父。
- 上杉政真 第10代扇谷上杉家当主、定正の甥。西暦1,473年12月13日、五十子にて戦死した。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達の評議により叔父の定正が当主に迎えられ、定正が第11代扇谷上杉家当主に就任する契機となった、本書の家督継承の起点となった先代当主。
- 上杉朝昌 定正の弟。西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍の七沢城攻撃に際し守備に当たり応戦したが落城、大庭城へ敗走した、本書の長享の乱初戦の守備指揮官。
- 上杉朝良 上杉朝昌の弐男で定正の養子。西暦1,488年7月、定正と共に須賀谷原に布陣、同月26日の須賀谷原の戦いでは扇谷上杉軍の先陣を切って山内上杉軍の逆落とし攻撃で一旦崩されたが、長尾景春の横槍と定正の指揮により持ち直した、本書の須賀谷原の戦い先陣指揮官。
- 上杉顕定 第11代山内上杉家当主。西暦1,486年、定正に太田道灌謀殺の教唆となる「太田はお前の首を狙っているぞ」との讒言を行った人物。1,487年に甲斐国へ逃れて来た太田資康を受け入れ、1,488年3月18日に七沢城攻撃・実蒔原での交戦、同年7月には養子憲房と共に川越城攻撃の為鉢形城から2,000名で出陣、同年12月17日には高見原で房定に援軍を求めて3,000名余で布陣して定正と戦ったが、須賀谷原・高見原の戦いでいずれも敗れた、本書の定正の宿敵。
- 上杉憲房 上杉顕定の養子。西暦1,488年7月、顕定と共に2,000名の軍勢を率い鉢形城から川越城攻めに出陣した、本書の山内上杉軍副将格。
- 上杉房定 西暦1,488年12月17日、高見原の戦いに際し山内上杉軍から援軍を求められた人物、本書の山内上杉軍援軍要請の対象。
- 太田道灌 扇谷上杉家重臣。西暦1,473年12月13日、上杉政真戦死後の評議で定正を第11代扇谷上杉家当主に迎える事を決めた一人。しかし1,486年8月25日、糟屋館に招かれ入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を曽我兵庫に襲われ「当方滅亡」と言い残して絶命した。背景には上杉顕定の讒言、及び太田自身が自らの功績を高言して定正の意見を軽んじた事が有った、本書の定正最大の犠牲者。
- 太田資康 太田道灌の息子。西暦1,487年、定正により江戸城から追放され、山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れて上杉顕定に付いた、本書の長享の乱発端となった父の遺児。
- 曽我兵庫 上杉定正配下。西暦1,486年8月25日、定正の命を受けて糟屋館で入浴後の太田道灌を襲い暗殺した実行犯、本書の太田謀殺の実行者。
- 神保長誠 西暦1,467年2月22日の御霊合戦に於ける奮戦者。其の武勇を定正に激賞された、本書の応仁期定正が高く評価した武将。
- 足利政氏 第2代古河公方。西暦1,488年7月、定正と共に須賀谷原に布陣、同年12月17日にも援軍を求められて高見原の戦いに関わった、本書の関東戦線に於ける定正の同盟者。
- 長尾景春 西暦1,488年7月、定正と共に須賀谷原に布陣、同月26日の須賀谷原の戦いでは山内上杉軍に横槍を入れて藤田三郎勢を破った。同年12月17日の高見原の戦いでも定正と共に進軍、夕方の交戦で不安を感じて定正に相談した結果、定正の指示通り夜に風上から攻撃して山内上杉軍を撃破した、本書の長享の乱扇谷上杉軍の主力武将。
- 藤田三郎 西暦1,488年7月26日、須賀谷原の戦いに於ける山内上杉軍の一部将。長尾景春率いる部隊に破られた、本書の須賀谷原の戦い山内上杉軍の敗将。
- 北条早雲 西暦1,493年10月、居城の興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏・定正からの援軍を得て500名の軍勢で出陣した人物、本書の定正晩年の援軍相手。
- 今川氏親・葛山氏 西暦1,493年10月、北条早雲の足利茶々丸征伐に際し、定正と共に援軍を派遣した2勢力、本書の足利茶々丸征伐共同援軍派遣者。
- 足利茶々丸・足利潤童子 茶々丸は西暦1,493年10月、北条早雲の征伐対象となった人物。潤童子は同時期に伊豆国人の支持を受けていた人物で、此の支持を得た伊豆国人が北条早雲の味方となった、本書の伊豆国に於ける征伐対象と対抗勢力。
- 畠山義就・畠山政長・朝倉孝景・山名宗全・山名政豊・細川勝元・足利義視 西暦1,467年2月22日の御霊合戦の関係者。畠山義就が政長の布陣する上御霊神社を襲撃、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全命令で加勢)が義就に加勢、細川勝元は静観、足利義視は義就を支援した、本書の定正が神保長誠を激賞するに至った御霊合戦の主要登場人物群。
主要な地名・拠点
- 糟屋館 現在の神奈川県伊勢原市上粕屋。扇谷上杉家の本拠。西暦1,486年8月25日、定正が太田道灌を招き曽我兵庫に謀殺させた地。1,488年3月18日には七沢城落城後の上杉顕定の進軍先にもなった、本書の扇谷上杉家の中枢と太田暗殺の現場。
- 江戸城 西暦1,487年、定正が太田資康を追放して占拠した城。太田道灌が築いた城であり、其の追放により太田家は山内上杉家へ走った、本書の長享の乱発端の地。
- 川越城 現在の埼玉県川越市郭町。西暦1,488年3月18日、定正が200騎余で実蒔原へ駆け付けた出発地。同年7月には上杉顕定・憲房による川越城攻めの標的となった、本書の扇谷上杉軍の拠点。
- 鉢形城 山内上杉軍の拠点。西暦1,488年7月、顕定・憲房が2,000名を率いて出陣した地。同年12月17日の高見原の戦い後も、山内上杉軍が後方の支援を受けて保持し続けた、本書の山内上杉軍の根拠地。
- 七沢城・大庭城 七沢城は現在の神奈川県厚木市七沢、西暦1,488年3月18日に上杉顕定率いる軍の攻撃を受けて上杉朝昌の応戦にも拘らず落城した。大庭城は神奈川県藤沢市大庭、七沢城落城後の朝昌の敗走先、本書の長享の乱初戦の城。
- 実蒔原 現在の神奈川県伊勢原市日向。西暦1,488年3月18日、七沢城落城後の同日、川越城から駆け付けた定正率いる軍と顕定率いる軍が交戦した地。定正軍は其の地形を熟知しており、寡兵にも拘らず激戦の末辛うじて顕定軍を破った、本書の長享の乱緒戦の戦場。
- 須賀谷原・平澤寺 須賀谷原は現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷、西暦1,488年7月、定正が足利政氏・長尾景春・上杉朝良と共に700騎余で布陣した地。平澤寺は埼玉県比企郡嵐山町平澤、同月26日の戦いで山内上杉軍が台地に布陣し扇谷上杉軍に逆落としに攻撃を掛けた地。戦死者700名余・馬数百頭の犠牲を出した須賀谷原の戦いの舞台、本書の長享の乱中盤の大規模会戦地。
- 高見原 現在の埼玉県大里郡寄居町今市。鉢形城から程近い地。西暦1,488年12月17日、山内上杉軍が上杉房定に援軍を求め3,000名余で布陣、夕方の交戦から長尾景春の風上夜襲により兵力劣勢の扇谷上杉軍が山内上杉軍を撃破した戦場、本書の長享の乱終盤の決戦地。
- 五十子 現在の埼玉県本庄市。西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が戦死した地、本書の定正当主就任の契機となった地。
- 上御霊神社 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余で畠山政長を襲撃した地。神保長誠が其の後奮戦し、定正から武勇を激賞された、本書の御霊合戦の舞台。
- 興国寺城 現在の静岡県沼津市根古屋。北条早雲の居城。西暦1,493年10月、早雲が足利茶々丸征伐の作戦を練った地、本書の定正援軍の出撃準備地。
- 伊豆国・甲斐国 伊豆国は西暦1,493年10月、北条早雲の足利茶々丸征伐の舞台であり足利潤童子を支持した国人が早雲の味方となった地。甲斐国は1,487年、江戸城を追放された太田資康が山内上杉家を頼って逃れた地、本書の周辺勢力圏の要地。
- 荒川 西暦1,494年11月2日、上杉定正が渡河しようとした際に落馬して死去した川、本書の終焉の地。
主要な事件・出来事
- 上杉定正の生誕 西暦1,443年、上杉持朝の参男として上杉定正が生誕した、本書の発端。
- 御霊合戦と神保長誠への武勇激賞 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は静観、政長は拝殿に放火して細川の屋敷に退却し、足利義視は義就を支援した。神保長誠は其の後奮戦し、定正に其の武勇を激賞された、本書の応仁期定正登場の場面。
- 上杉政真戦死と定正の第11代扇谷上杉家当主就任 西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が五十子にて戦死した。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である定正を扇谷上杉家当主に迎える事になり、定正は第11代扇谷上杉家当主に就任した、本書の家督継承。
- 太田道灌の糟屋館謀殺 西暦1,486年8月25日、定正が太田道灌を扇谷上杉家本拠の糟屋館に招いた。定正は太田の功績を妬み謀反の疑いを掛けて招き、配下曽我兵庫が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な太田を襲い、太田は「当方滅亡」と言って絶命した。背景には上杉顕定による「太田はお前の首を狙っているぞ」との讒言、及び太田自身が自らの功績を高言して定正の意見を軽んじた事が有った、本書の転換点となる暗殺事件。
- 太田資康の江戸城追放と定正の江戸城占拠 西暦1,487年、定正が太田資康を江戸城から追放し江戸城を占拠した。太田は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた、本書の長享の乱発端となった一連の行動。
- 七沢城攻撃と実蒔原の戦い 西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が七沢城を攻撃し、守備していた上杉朝昌が応戦するも落城し朝昌は大庭城へ敗走、顕定は糟屋館へと向かった。同日、川越城から200騎余で駆け付けた定正率いる軍が実蒔原で顕定率いる軍と交戦し、実蒔原の地形を熟知していた定正軍は寡兵にも拘らず激戦の末辛うじて顕定軍を破った、本書の長享の乱初戦。
- 須賀谷原の戦い 西暦1,488年7月、上杉顕定・憲房が2,000名で鉢形城から出陣し川越城を攻めようとした。定正は足利政氏・長尾景春・上杉朝良と共に700騎余で須賀谷原に布陣、同月26日朝に交戦した。扇谷上杉軍は上杉朝良が先陣を切り、平澤寺に布陣した山内上杉軍に逆落としで崩されたが、長尾景春の横槍で山内上杉軍が浮き足立ち、定正が高台から指図して突き崩させ、更に長尾が藤田三郎勢を破って扇谷上杉軍が勝利した。戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲となった、本書の長享の乱中盤の大規模会戦。
- 高見原の戦い 西暦1,488年12月17日、定正が足利政氏・長尾景春に援軍を求め2,000騎で山内上杉軍攻撃の為進軍した。此れを知った山内上杉軍は上杉房定に援軍を求め鉢形城から程近い高見原に3,000名余で布陣、夕方交戦した。不安を感じた長尾景春が定正に相談し、定正の「山内上杉軍の旗指物が動かなくなり休息を取り始めた時に攻撃せよ」との指示通りに夜、長尾が風上から攻撃して兵力劣勢にも拘らず撃破、山内上杉軍は鉢形城に敗走した。其の後も山内上杉軍は後方の支援を受けて鉢形城を保持し続けた、本書の長享の乱終盤の決戦。
- 定正の驕りと離反者の発生 三度山内上杉軍を破った定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を定正に送る程であった、本書の定正威信の綻び。
- 北条早雲の足利茶々丸征伐に於ける援軍派遣 西暦1,493年10月、北条早雲が自身の居城興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏・定正からの援軍を得て足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した、本書の定正晩年の対外援軍。
- 上杉定正の死去 西暦1,494年11月2日、上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去した、本書の終結点。
上杉持朝参男定正の生誕・御霊合戦神保長誠激賞・上杉政真五十子戦死後の第11代扇谷上杉家当主就任・糟屋館に於ける太田道灌謀殺・太田資康江戸城追放と定正江戸城占拠・七沢城攻撃と上杉朝昌大庭城敗走・実蒔原の戦い・須賀谷原の戦い・高見原の戦い・驕りと離反者発生・北条早雲の足利茶々丸征伐援軍派遣・荒川落馬死去──
関東扇谷上杉家を率いた51年を一冊に。
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