上杉定正
一元化
西暦1,486年8月25日、糟屋館の風呂場──
名軍師を斬った男が、三度の勝利の果てに落馬して死ぬ迄。
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本書について
西暦1,443年、上杉持朝の参男として上杉定正が生誕した。参男である。家督を継ぐ立場ではなかった男が、やがて第11代扇谷上杉家当主となり、自家を躍進させた名将を風呂場で斬らせ、宗家である山内上杉家を三度破り、そして荒川を渡ろうとして馬から落ちて死ぬ——本書は、其の生誕から西暦1,494年11月2日までを、年月日単位で一元化した記録である。
定正が記録の上に現れる最初の場面は、西暦1,467年2月22日である。早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全、そして宗全の命を受けた山名政豊も加勢し、細川勝元は此の段階では動かず静観する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末に上御霊神社の拝殿へ放火し、細川の屋敷へ退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失う。此の合戦の後も奮戦した神保長誠に対し、其の武勇を激賞したのが、上杉定正であった。
西暦1,473年12月13日、第10代扇谷上杉家当主上杉政真が、五十子(現在の埼玉県本庄市)にて戦死する。政真には子供が居なかった為、太田道灌や重臣達が評議した結果、政真の叔父である上杉定正を当主に迎える事となった。斯うして定正は、第11代扇谷上杉家当主に就任する。
西暦1,486年8月25日、上杉定正は太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招いた。太田の功績を妬み、謀反の疑いを掛けての招きである。定正の配下曽我兵庫が、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な太田を襲った。太田は「当方滅亡」と言って絶命する。背景には、第11代山内上杉家当主上杉顕定が定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた事、そして太田自身も、自らの働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった事がある。
西暦1,487年頃、定正は太田道灌の息子太田資康を江戸城から追放し、自ら江戸城を占拠した。資康は山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付く。父を殺した主家の当主から離れ、其の讒言者の下へ走ったのである。
西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃した。守備していた定正の弟上杉朝昌は応戦するも落城し、大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走する。顕定は糟屋館へと向かった。同じ日、川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から200騎余で駆け付けた定正率いる軍が、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)にて顕定率いる軍と交戦する。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末に辛うじて之を破った。
同年7月頃、上杉顕定と其の養子上杉憲房が、定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。之を受けた定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春・上杉朝昌の弐男で自身の養子である上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣した。26日の朝、両軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺(現在の埼玉県比企郡嵐山町平澤)に布陣していた山内上杉軍から逆落としに攻撃を掛けられ崩された。然し長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を定正が高台から味方に指図して突き崩させる。更に長尾は藤田三郎勢をも破り、扇谷上杉軍が勝利した。此の戦での戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲になっている。
同年12月17日、定正は足利政氏・長尾景春に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍した。之を知った山内上杉軍は上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原(現在の埼玉県大里郡寄居町今市)に3,000名余で布陣する。夕方、両軍が交戦した。之を不安に思った長尾が定正に相談すると、定正は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示する。夜、長尾が其の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力で劣っていたにも拘らず撃破した。山内上杉軍は鉢形城へ敗走し、其の後も後方の支援を受けて城を保持し続ける。軈て、三度山内上杉軍を破った定正は驕り始めた。太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始める。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を送る程であった。
西暦1,493年10月頃、北条早雲が自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏、そして上杉定正からの援軍を得て、500名の軍勢で出陣した。定正と早雲の結び付きは、此処に始まっている。
西暦1,494年9月14日、定正は山内上杉家の上杉顕実の守備する関戸城(現在の東京都多摩市桜ヶ丘)を攻撃し、陥落させた。翌15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。10月27日、早雲は定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城の攻撃を意図し、武蔵国高見原(現在の埼玉県比企郡小川町高見)に出陣する。30日頃、定正と早雲は、上杉顕定と荒川を挟んで高見原にて対陣した。
そして西暦1,494年11月2日、上杉定正は荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。定正には嫡子が居らず、後継には、生前に養子となっていた弟上杉朝昌の息子上杉朝良が家督を継いだ。太田道灌を斬り、上杉顕定を三度破った男の最期は、合戦でも謀殺でもなく、川であった。本書は、生誕から此の落馬までを一冊に束ねている。
登場人物
- 上杉定正 本書の中心人物。西暦1,443年、上杉持朝の参男として生誕した。西暦1,473年12月13日の上杉政真の戦死を受け、第11代扇谷上杉家当主に就任。西暦1,486年8月25日に太田道灌を糟屋館で暗殺し、西暦1,488年には実蒔原・須賀谷原・高見原で上杉顕定を三度破った。西暦1,494年11月2日、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去した。
- 上杉持朝 上杉定正の父。西暦1,443年、参男として定正を儲けた。
- 上杉政真 第10代扇谷上杉家当主。西暦1,473年12月13日、五十子(現在の埼玉県本庄市)にて戦死した。子供が居なかった為、太田道灌や重臣達の評議により、叔父の上杉定正が当主に迎えられた。
- 太田道灌 扇谷上杉家の重臣。上杉政真の戦死後、重臣達と評議して上杉定正を当主に迎えた。西暦1,486年8月25日、功績を妬まれ謀反の疑いを掛けられて糟屋館に招かれ、入浴後に曽我兵庫の襲撃を受けて「当方滅亡」と言い絶命した。自らの働きが正当に評価されていないと溢し、定正の意見を軽んじていた事も背景にある。
- 太田資康 太田道灌の息子。西暦1,487年頃、上杉定正によって江戸城から追放された。山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いている。
- 上杉顕定 第11代山内上杉家当主。上杉定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言し、太田道灌暗殺の一因を作った。西暦1,488年3月18日に七沢城を落として糟屋館へ向かうも実蒔原で定正に敗れ、7月26日の須賀谷原、12月17日の高見原でも敗れて鉢形城へ退いた。西暦1,494年10月30日頃には荒川を挟んで定正と対陣している。
- 上杉憲房 上杉顕定の養子。西暦1,488年7月頃、顕定と共に2,000名の軍勢を率い、上杉定正の居る川越城を攻める為に鉢形城から出陣した。
- 上杉朝昌 上杉定正の弟。西暦1,488年3月18日、七沢城を守備して上杉顕定率いる軍に応戦したが落城し、大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走した。其の息子上杉朝良は定正の養子となり、家督を継いでいる。
- 上杉朝良 上杉朝昌の弐男で、上杉定正の養子。西暦1,488年7月26日の須賀谷原の戦いでは扇谷上杉軍の先陣を切り、山内上杉軍の逆落としに崩された。西暦1,494年11月2日の定正の死去により、嫡子の無かった定正の家督を継いだ。
- 上杉房定 西暦1,488年12月17日、上杉定正の進軍を知った山内上杉軍から援軍を求められた。之により山内上杉軍は、鉢形城から程近い高見原に3,000名余で布陣している。
- 上杉顕実 山内上杉家の人物。西暦1,494年9月14日、其の守備する関戸城(現在の東京都多摩市桜ヶ丘)が上杉定正の攻撃を受け、陥落した。
- 長尾景春 西暦1,488年7月頃、足利政氏・上杉朝良と共に上杉定正の下へ加わり、須賀谷原に布陣した。26日の戦いでは横槍を入れて山内上杉軍を浮き足立たせ、藤田三郎勢をも破っている。12月17日の高見原では、定正の指示通り夜に攻撃を仕掛け、兵力で劣りながら山内上杉軍を撃破した。
- 足利政氏 第2代古河公方。西暦1,488年7月頃、上杉定正の求めに応じて長尾景春等と共に須賀谷原へ布陣し、12月17日の高見原の戦いにも援軍として加わった。
- 曽我兵庫 上杉定正の配下。西暦1,486年8月25日、糟屋館にて、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な太田道灌を襲った。
- 藤田三郎 山内上杉軍の武将。西暦1,488年7月26日の須賀谷原の戦いにて、長尾景春率いる部隊に破られた。
- 大森氏頼 小田原城主で扇谷上杉家方。西暦1,494年9月15日に死去した。此の頃、上杉定正は北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。
- 北条早雲 西暦1,493年10月頃、興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、上杉定正等からの援軍を得て出陣した。西暦1,494年には定正に相模国・武蔵国へ招き入れられ、10月27日には定正の援軍として武蔵国高見原へ出陣。30日頃に上杉顕定と対陣したが、11月2日の定正の死去を受けて退却した。
- 今川氏親 西暦1,493年10月頃、足利茶々丸征伐に向かう北条早雲に対し、葛山氏・上杉定正と共に援軍を送った。
- 葛山氏 西暦1,493年10月頃、足利茶々丸征伐に向かう北条早雲に対し、今川氏親・上杉定正と共に援軍を送った。
- 神保長誠 西暦1,467年2月22日の上御霊神社の合戦の後も奮戦し、上杉定正から其の武勇を激賞された。
- 畠山政長 西暦1,467年2月22日、上御霊神社に布陣していた所を畠山義就に襲撃され、丸一日の合戦の末、拝殿に放火して細川勝元の屋敷へ退却した。
- 畠山義就 西暦1,467年2月22日早朝、兵3,000名余を率いて上御霊神社の畠山政長を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は静観した。
本書が記録する出来事
- 上杉定正の生誕 西暦1,443年。上杉持朝の参男として、上杉定正が生誕した。本書の起点である。
- 上御霊神社の合戦と神保長誠の激賞 西暦1,467年2月22日。早朝、畠山義就が兵3,000名余で上御霊神社の畠山政長を襲撃し、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢、細川勝元は静観した。政長は拝殿に放火して細川の屋敷へ退却する。合戦後も奮戦した神保長誠に対し、上杉定正が其の武勇を激賞した。
- 上杉政真の戦死と扇谷上杉家当主就任 西暦1,473年12月13日。第10代扇谷上杉家当主上杉政真が五十子(現在の埼玉県本庄市)にて戦死した。政真に子供が居なかった為、太田道灌や重臣達の評議により、叔父の上杉定正が第11代扇谷上杉家当主に就任した。
- 糟屋館における太田道灌の暗殺 西暦1,486年8月25日。上杉定正が、功績を妬み謀反の疑いを掛けて太田道灌を糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招き、配下の曽我兵庫が入浴後の無防備な太田を襲った。太田は「当方滅亡」と言って絶命する。上杉顕定の讒言と、太田自身が定正の意見を軽んじていた事が背景にあった。
- 太田資康の江戸城追放 西暦1,487年頃。上杉定正が太田資康を江戸城から追放し、自ら江戸城を占拠した。資康は山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。
- 七沢城の落城 西暦1,488年3月18日。上杉顕定率いる軍が七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃した。守備していた上杉定正の弟上杉朝昌は応戦するも落城し、大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走。顕定は糟屋館へと向かった。
- 実蒔原の戦い 西暦1,488年3月18日。川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から200騎余で駆け付けた上杉定正率いる軍が、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)にて上杉顕定率いる軍と交戦した。地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず激戦の末に辛うじて之を破った。
- 川越城攻めの出陣と須賀谷原への布陣 西暦1,488年7月頃。上杉顕定と其の養子上杉憲房が、定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣した。定正は足利政氏・長尾景春・上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣した。
- 須賀谷原の戦い 西暦1,488年7月26日。朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦した。先陣を切った上杉朝良は平澤寺に布陣した山内上杉軍の逆落としに崩されるも、長尾景春の横槍で山内が浮き足立ち、上杉定正が高台から指図して突き崩させる。長尾は藤田三郎勢をも破り、扇谷上杉軍が勝利した。戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲となった。
- 高見原の戦いと離反の兆し 西暦1,488年12月17日。上杉定正が足利政氏・長尾景春に援軍を求め2,000騎で進軍し、山内上杉軍は上杉房定に援軍を求めて高見原(現在の埼玉県大里郡寄居町今市)に3,000名余で布陣した。定正は旗指物が動かなくなり休息を取り始めた時に攻撃する様指示し、夜、長尾が之を実行して撃破する。三度破った定正は驕り始め、太田道灌暗殺への疑問も相俟って離反する武将が出始めた。
- 足利茶々丸征伐への援軍 西暦1,493年10月頃。北条早雲が興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 関戸城の攻略 西暦1,494年9月14日。上杉定正が、山内上杉家の上杉顕実の守備する関戸城(現在の東京都多摩市桜ヶ丘)を攻撃し、陥落させた。
- 大森氏頼の死去と北条早雲の招き入れ 西暦1,494年9月15日。小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去した。此の頃、上杉定正は北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。
- 高見原への出陣と荒川を挟んだ対陣 西暦1,494年10月27日〜30日頃。北条早雲が上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城の攻撃を意図し、武蔵国高見原(現在の埼玉県比企郡小川町高見)に出陣した。30日頃、定正と早雲は上杉顕定と荒川を挟んで高見原にて対陣した。
- 荒川渡河中の落馬死と家督の継承 西暦1,494年11月2日。上杉定正が、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去した。北条早雲は退却する。定正には嫡子が居らず、生前に養子となっていた弟上杉朝昌の息子上杉朝良が家督を継いだ。本書の終点である。
生誕から実蒔原・須賀谷原・高見原、そして荒川へ──
上杉定正の五十一年の全過程を一元化。
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