電子書籍「応仁の乱一元化」の表紙

応仁の乱一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年1月30日〜1,478年1月26日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
36ページ
最新更新日
西暦2,026年8月12日

西暦1,467年、上御霊神社に火が放たれた──
京都を焼き尽くした十一年を、年月日単位で一元化。

JPY 400(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,467年1月30日、畠山義就が、自身の陣営に加わった山名宗全の支援の下、5,000名を率いて上洛した。大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した後、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣し、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政に圧力を掛ける。此の圧力が、十一年に及ぶ大乱の始まりであった——本書は、此の上洛から西暦1,478年1月26日の大内政弘の周防国帰国までを、年月日単位で一元化した記録である。

圧力は直ちに効いた。2月6日、足利義政は春日万里小路(現在の京都府京都市中京区坂本町・舟屋町付近)の畠山政長の屋敷への御成を取り止め、花の御所(現在の京都府京都市上京区築山南半町付近)に畠山義就を招く。山名宗全の支持を失った政長は、畠山家の家督を事実上奪われた。9日には政長の管領職が罷免され、屋敷を義就に明け渡す様命じられる。政長は之を拒否し、神保長誠等と共に自邸の防衛を強化した。同じ日、足利義政は山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就の饗応を受けている。12日、斯波義廉が第20代管領に就任した。

2月19日、細川勝元と畠山政長が御所巻を画策する。花の御所を包囲して威圧し、足利義政に畠山義就征伐の命令を出させる意図であった。然し其の計画を細川の正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、山名・義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧し、内裏から後花園上皇と第103代天皇後土御門天皇を迎え入れる事に成功する。21日、足利義政は畠山家の争いは畠山家同士で決着する様双方に命じ、細川勝元には政長の援助の中止を命じた。細川は義就による山名の援助中止を条件に承諾したが、其の後、武士の風上にも置けないとして批判される。山名達は命令に拘らず義就に加勢した。

同じ21日の深夜、畠山政長は春日万里小路の自邸を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率いて上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣した。翌22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率いて之を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全、そして宗全の命を受けた山名政豊も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観する。政長は丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火して細川の屋敷へ退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失う。神保長誠は其の後も奮戦し、上杉定正に武勇を激賞された。

細川勝元は、京都の外から手を打った。4月頃には土岐政康を一色義直の統治する伊勢国へ、6月頃には斯波義敏を斯波義廉の越前国へ、赤松政則の家臣宇野政秀を播磨国へ派遣する。赤松は旧領であった播磨国・備前国・美作国へ侵攻し、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民の協力を得て、数日で之を奪回した。5月頃には細川方の兵が山名方の年貢米を相次いで略奪し、宇治川や淀川等の橋を焼いて四門を固めている。そして6月頃、細川が諸大名に上洛を要請すると、細川の屋敷と花の御所を中心とする京都北部から東の細川方と、堀川西岸の山名邸と京都中央の斯波邸を拠点とする山名方の構図がはっきりした。前者が東軍、後者が西軍と呼ばれる。

6月11日、山名宗全の要請を受けた大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発した。河野通春・陶弘房も此の中に居る。弘房は、家の事を陶弘護に任せていた。6月27日の夜明け前、武田信賢が実相院を、成身院光宣が土倉正実坊を占拠し、夜明け頃に一色義直の屋敷を襲撃して焼き払う。之が成功すると、細川勝元は戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自身の屋敷に本陣を置いた。斯うして東軍は、西軍征伐の大義名分を得たのである。同じ日、一条大宮では市街戦が繰り広げられ、行願寺・知恩寺や民家が焼失した。

7月頃、足利義視が牙旗を下され東軍の主将となる。8日には祇園会が中止となった。8月19日、大内政弘率いる軍が20,000〜30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。9月8日、大内は河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦にて上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍を撃破した。其の後尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣する。同じ日の夜、足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事を切っ掛けとして、足利義視が出発した。21日、義視は伊勢国国司木造教親の警護の下、釘貫門を欺いて京都を脱し、近江国坂本にて日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊勢国へ入る。

西暦1,467年10月11日、畠山義就率いる軍が土御門内裏を占拠した。9月29日から此の日までの戦いで、近衛殿・鷹司殿・日野殿・花山院殿・広橋殿・西園寺殿を含む公家の屋敷37戸と、大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失している。16日には南禅寺山にて、孤立した秋庭元明・浦上則宗が、大内政弘・山名宗全・遊佐氏・誉田氏・甲斐氏・朝倉孝景の四波にわたる攻撃を、大石や矢を浴びせて悉く退けた。18日、後花園上皇が花の御所にて出家する。室町幕府は西軍征伐の綸旨の発給を求めたが、上皇は断固として拒否した。

10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼の率いる西軍30,000名程度が相国寺及び其の周辺を襲撃する。東軍は細川勝之・安富元綱・武田国信の率いる3,000騎で迎え撃った。西軍に内通した相国寺の僧が火を放つと、武田信賢と京極持清は相国寺が落ちたと思い込んで出雲路へ退却する。火の手を見た西軍が一斉に突入すると、隣は花の御所という後の無い東軍は総力を挙げて白兵戦を展開した。細川勝之・安富元綱・安富盛継の三名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を7度退けたが、東門から攻め込まれ、其処で配下と共に戦死する。翌31日、畠山政長が4,000名を率いて花の御所の四足門から出撃し、西軍6,000名を討って撤退させたが、其の後朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還した。決着は付かず、双方に甚大な被害だけが残った。

戦線は各地へ広がってゆく。西暦1,468年4月13日、細川勝元に金品で勧誘され下京の焼き討ちを担った骨皮道賢が、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘の30,000名に稲荷山を包囲され、女装しての逃走も見破られて朝倉に斬首された。其の首級は三条河原に梟首され、落首が張り出されている。同年、東軍・西軍による寺社と民家の焼き討ちは京都中に及び、吉田神社・青蓮院・聖護院・法勝寺・上御霊神社・泉涌寺・仁和寺・大覚寺・天龍寺が次々と灰になった。10月8日、足利義視が足利義政の説得により帰洛するも、日野勝光の排斥を訴えて容れられず、12月23日に有馬元家が殺害されると、身の危険を感じて延暦寺へ逃走する。

西暦1,469年1月7日、延暦寺に立ち寄っていた足利義視が山名宗全の屋敷に入った。西軍への寝返りである。勢い付いた西軍は、義視を将軍とする「西幕府」を形成した。1月6日には陶弘房が京都の陣営にて死去し、陶弘護が大内政弘の命で加冠して「弘」の字を貰い、第8代陶家当主に就任している。西暦1,470年6月10日頃には、山名宗全を始めとする西軍諸将が西陣南帝を天皇に擁立しようとしているとの風聞が立ち始め、翌年9月10日、西陣南帝は北野天満宮松梅院に入り、天皇として擁立された。一方、越前国では朝倉孝景の切り崩し工作が進み、西暦1,471年6月9日、朝倉は東軍として第18代室町幕府越前国守護に補任される。

西暦1,472年2月23日、細川勝元と山名宗全の間で和睦交渉が開始された。東軍が大義名分と戦況で優位に立ち、西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対して不調に終わる。6月頃、細川勝元は細川勝之や家臣と共に髷を落として隠居の姿勢を見せ、山名宗全の養女春林寺殿を母に持つ長男細川政元に家督を継がせる意向を示した。山名宗全は切腹を試みて未遂に終わり、9月頃に家督を山名政豊へ譲って隠居する。西暦1,473年4月15日に山名宗全が、6月6日に細川勝元が相次いで病死し、和睦交渉は山名政豊と細川政元が引き継いだ。同年、西陣南帝は西軍諸将によって追放されている。

西暦1,474年1月7日、足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲る。4月19日、武田国信の仲介により、細川政元と山名政豊が単独で和睦した。細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、下京から東陣へ物を売る商人が往来を始める。8月8日には山名政豊を始めとする西軍諸将が足利義尚に出仕し謁見し、足利義視の将軍擁立の姿勢を一変させた。之に畠山義就・土岐成頼・大内政弘が反発する。西暦1,476年10月1日、足利義政が大内政弘に和睦を求める書簡を送り、大内は日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。遣明船の唐荷引き渡しが赦免の条件であった。

西暦1,477年1月5日、足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政は其の罪を不問に付して、日野富子の仲介により両軍は和睦した。10月27日、畠山義就は河内国へ向けて京都を出発し、11月14日に若江城を落として河内国・大和国を略手中に収める。12月頃、室町幕府は大内政弘の周防国・長門国・豊前国・筑前国の守護職を承認し、日野富子は畠山義就に1,000貫文を貸し付けて撤退を促した。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。大内政弘は陣所を引き払って伊予国へ向かい、足利義視も嫡男足利義稙を伴って美濃国の土岐成頼の下へ亡命した。25日、室町幕府は天下静謐の祝宴を開催し、足利義政は東軍諸将と共に応仁の乱の終結を祝う。然し河内国・大和国の大半は畠山義就が押さえており、火種は燻ったままであった。

西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国した。陶弘護は柳井津(現在の山口県柳井市)にて之を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成す。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、二人は義兄弟の契りを交わした。陶は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応したという。畠山義就の上洛から十一年、京都は焼け、公家の屋敷も寺社も灰となり、将軍は代替わりし、東西の総大将は共に世を去っていた。本書は、其の十一年の全過程を一冊に束ねている。


登場人物

  • 細川勝元 東軍の総大将。西暦1,467年2月19日に畠山政長と御所巻を画策するも正室春林寺殿の密告で失敗し、22日の上御霊神社の合戦では静観した。6月27日に花の御所を占拠して足利義政を保護し、西軍征伐の大義名分を得る。西暦1,472年6月頃に髷を落として隠居の姿勢を見せ、西暦1,473年6月6日に死去した。
  • 山名宗全 西軍の総大将。西暦1,467年1月30日の畠山義就の上洛を支援し、2月19日には花の御所を先に制圧して後花園上皇・後土御門天皇を迎え入れた。6月11日には大内政弘に出陣を要請し、西陣南帝の天皇擁立をも画策する。西暦1,472年6月頃に切腹を試みて未遂に終わり、9月頃に家督を山名政豊へ譲って隠居、西暦1,473年4月15日に病死した。
  • 畠山政長 東軍の主要武将。西暦1,467年2月6日に山名宗全の支持を失って家督を事実上奪われ、9日には管領職を罷免された。21日深夜、神保長誠の助言により自邸を焼き払って上御霊神社に布陣し、翌日の合戦で敗れる。10月31日には4,000名を率いて花の御所の四足門から出撃し、相国寺の西軍6,000名を討って撤退させた。
  • 畠山義就 西軍の主要武将。西暦1,467年1月30日に5,000名を率いて上洛し足利義政に圧力を掛け、2月22日には3,000名余で上御霊神社の畠山政長を襲撃した。10月11日に土御門内裏を占拠し、和睦交渉には終始反対し続ける。西暦1,477年10月27日に河内国へ向けて京都を発ち、11月14日に若江城を落として河内国・大和国を略手中に収めた。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。西暦1,467年2月6日に畠山義就を花の御所へ招き、9日に畠山政長の管領職を罷免して、乱の直接の引き金を引いた。相国寺の戦いの最中も日野富子の避難勧告を聞かず酒宴に興じていたという。西暦1,474年1月7日、征夷大将軍職を足利義尚に譲った。
  • 足利義視 足利義政の弟。西暦1,467年2月22日の上御霊神社の合戦では畠山義就を支援し、7月に牙旗を下されて東軍の主将となる。9月8日夜に出発して伊勢国へ逃れ、西暦1,468年10月8日に帰洛するも、西暦1,469年1月7日に山名宗全の屋敷へ入って西軍に寝返り、「西幕府」の将軍となった。西暦1,477年1月5日に足利義政へ恭順を誓う。
  • 足利義尚 第9代室町幕府征夷大将軍。西暦1,467年6月頃の陣容では西軍に名を連ねていたが、西暦1,474年1月7日に足利義政から征夷大将軍職を譲られた。同年8月8日には山名政豊を始めとする西軍諸将の出仕・謁見を受けている。
  • 日野富子 足利義政の正室。西暦1,467年9月21日、近江国坂本にてお忍びで足利義視と暇乞いをした。西暦1,476年から翌年に掛けては大内政弘と足利義視の和睦を仲介し、西暦1,477年12月頃には畠山義就に1,000貫文を貸し付けて撤退を促した。
  • 斯波義廉 第20代管領。西暦1,467年2月12日に管領へ就任し、19日には山名宗全等と共に花の御所を制圧した。6月27日には朝倉孝景・甲斐敏光を率いて細川勝久の屋敷を攻めている。越前国では斯波義敏に押され、苦境に立たされた。
  • 斯波義敏 東軍の武将。西暦1,467年6月頃、細川勝元によって斯波義廉の統治する越前国へ派遣され、義廉方を圧迫した。西暦1,468年6月12日には朝倉孝景勢を越前国から追い出し、11月28日までに越前国を略掌握している。
  • 朝倉孝景 西暦1,467年2月22日の上御霊神社の合戦で畠山義就に加勢し、25日には斯波持種・斯波義孝を襲撃して追放した。西軍の主力として武田信賢勢を度々破り、西暦1,468年4月13日には骨皮道賢を斬首している。然し東軍の切り崩し工作に応じ、西暦1,471年6月9日、第18代室町幕府越前国守護に補任された。
  • 大内政弘 西軍の大将の一人。西暦1,467年6月11日、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発し、9月8日の大物浦の戦いで細川勝元・赤松政則の軍を撃破して上洛した。和睦には終始反対し続けたが、西暦1,477年12月頃に周防国・長門国・豊前国・筑前国の守護職を承認され、西暦1,478年1月26日に周防国へ帰国した。
  • 陶弘房 大内政弘に従い、西暦1,467年6月11日の山口出発に加わった。家の事は陶弘護に任せていた。西暦1,469年1月6日、京都の陣営にて死去した。
  • 陶弘護 陶弘房の子。西暦1,467年9月20日に龍文寺にて受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称した。西暦1,469年1月6日の父の死去を受け、大内政弘の命で加冠して「弘」の字を貰い、第8代陶家当主となる。西暦1,470年に周防国守護代に就任し、西暦1,471年1月13日には鞍掛山にて大内教幸率いる軍を破った。
  • 一色義直 西軍の武将。西暦1,467年6月頃、武田信賢との確執及び若狭国・三河国の復旧を目的として西軍に与し、丹後国守護職・伊勢国守護職を罷免された。同月27日には花の御所の隣の屋敷を武田信賢・成身院光宣に襲撃され、直前に脱出したものの屋敷を焼き払われている。
  • 武田信賢 東軍の武将。西暦1,467年6月22日に上洛し、27日には実相院を占拠して一色義直の屋敷を襲撃、東軍が大義名分を得る切っ掛けを作った。10月30日の相国寺の戦いでは高倉殿を守備したが、西軍が相国寺を落としたと思い込んで出雲路へ退却している。西暦1,471年6月20日に病死した。
  • 武田国信 武田信繁の参男。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いでは、細川勝之・安富元綱と共に3,000騎を率いて迎え撃ち、赤松政則と共に相国寺仏殿の焼け跡からの西軍の侵入を阻止した。西暦1,474年4月19日には、細川政元と山名政豊の単独和睦の仲介を務めている。
  • 赤松政則 東軍の武将。西暦1,467年6月頃、家臣宇野政秀の派遣により播磨国・備前国・美作国の旧領を数日で奪回した。同月27日には一条通を迂回して斯波義廉率いる軍を襲撃し、10月30日の相国寺の戦いでも防戦に加わる。和睦交渉には東軍側から反対し続けた。
  • 京極持清 東軍の武将。西暦1,467年6月27日、細川勝久の救援に向かって斯波義廉率いる軍を襲撃したが、朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。近江国では六角高頼方と繰り返し交戦し、西暦1,469年6月頃には第20代室町幕府近江国守護に据えられている。
  • 六角高頼 西軍の武将。近江国において京極持清・六角政堯と繰り返し争い、西暦1,469年6月頃には観音寺城を奪還して籠城した。西暦1,469年10月1日には多賀高忠に観音寺城を落とされ、追撃を受けている。
  • 骨皮道賢 侍所所司代多賀高忠配下の目付。細川勝元に金品で勧誘されて東軍に属し、西暦1,468年4月頃、300名余の足軽を率いて下京の焼き討ち作戦の為に稲荷山へ布陣した。4月13日、山名宗全等30,000名の軍に包囲され、女装しての逃走も見破られて朝倉孝景に斬首され、首級を三条河原に梟首された。
  • 伊勢貞親 西暦1,467年7月頃、足利義政に呼び戻されて伊勢国から上洛し、之により足利義視は孤立した。西暦1,468年9月19日には朝倉孝景へ東軍勧誘の書簡を送り、以後も繰り返し働き掛けて、西軍勢力の切り崩し工作を担った。
  • 神保長誠 畠山政長の被官。西暦1,467年2月9日に政長の自邸防衛を強化し、21日深夜には上御霊神社への布陣を助言した。翌日の合戦の後も奮戦し、上杉定正に武勇を激賞されている。西暦1,472年には越中国へ帰国して鞍川氏を鎮定し、射水郡・婦負郡の守護代に就任した。
  • 成身院光宣 西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長が上御霊神社へ率いた2,000名の兵に加わった。6月27日には土倉正実坊を占拠し、武田信賢と共に一色義直の屋敷を襲撃・占拠している。
  • 浦上則宗 赤松政則の家臣。西暦1,467年10月12日に秋庭元明と共に上洛し、14日に南禅寺へ布陣した。16日の南禅寺山の戦いでは、大内政弘・山名宗全・遊佐氏・誉田氏・甲斐氏・朝倉孝景の四波の攻撃を大石等で退ける。30日の相国寺の戦いでは、大内政弘の花の御所侵入を阻止した。
  • 秋庭元明 細川勝元の家臣。西暦1,467年10月12日に浦上則宗と共に上洛し、南禅寺山にて孤立しながらも西軍の攻撃を退けた。29日、西軍が洛中に戻った隙に北へ迂回し、吉田山・上御霊神社を経由して東軍本陣と合流している。
  • 河野通春 西暦1,467年6月11日の大内政弘の山口出発に加わり、9月8日の大物浦の戦いでは2,000〜3,000名を率いて戦功を挙げた。西暦1,477年5月31日、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付けた。
  • 河野教通 西暦1,468年12月頃、河野通春から西軍への同心を求める書簡を受け取った。西暦1,473年12月11日には東幕府から伊予国守護職の補任状を受け取り、第17代室町幕府伊予国守護に就任している。
  • 後花園上皇 西暦1,467年2月19日、山名宗全等の制圧した花の御所へ後土御門天皇と共に迎え入れられた。7月15日には伏見宮貞常親王に出家の意思を伝え、8月5日・8日に停戦を要請するも細川勝元に無視される。10月18日に花の御所にて出家し、西軍征伐の綸旨の発給は断固として拒否した。
  • 後土御門天皇 第103代天皇。西暦1,467年2月19日、山名宗全等の制圧した花の御所へ後花園上皇と共に迎え入れられた。西暦1,477年11月2日頃には、室町幕府の奏請を受けて畠山義就追討の綸旨を発している。
  • 西陣南帝 南朝皇胤の末裔を称し、西暦1,469年12月24日に弟と共に吉野・熊野で蜂起した。西暦1,470年6月10日頃から山名宗全等西軍諸将による天皇擁立が画策され、西暦1,471年9月10日に北野天満宮松梅院へ入って天皇として擁立された。西暦1,473年の山名宗全の病死後、西軍諸将によって追放された。
  • 山名政豊 西暦1,467年2月22日、山名宗全の命により上御霊神社の襲撃に加勢した。西暦1,472年9月頃に宗全から家督を譲られ、翌年の宗全の死後は和睦交渉を引き継ぐ。西暦1,474年4月19日に細川政元と単独で和睦し、5月1日には足利義尚に謁見して東幕府への帰参を認められた。
  • 細川政元 細川勝元の長男。母は山名宗全の養女春林寺殿であり、山名家の血を引く事から、和睦を進める狙いで西暦1,472年6月頃に家督継承の意向が示された。西暦1,473年6月6日の父の死去により和睦交渉を引き継ぎ、西暦1,474年4月19日、武田国信の仲介で山名政豊と単独和睦を果たした。
  • 春林寺殿 細川勝元の正室で、山名宗全の養女、山名熙貴の娘。西暦1,467年2月19日、細川勝元と畠山政長の御所巻の計画を山名宗全に漏らし、西軍による花の御所の先制制圧を招いた。細川政元の母である。
  • 土岐成頼 西軍の武将。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いでは大内政弘と共に総門を攻め立てた。西暦1,474年8月8日の西軍諸将の足利義尚への出仕には反発し、同月24日には屋敷を東軍に攻め落とされている。西暦1,477年12月頃、下国した足利義視・足利義稙を庇護した。
  • 北条早雲 西暦1,467年9月21日、伊勢国へ逃亡する足利義視に伴われて京都を発ち、10月4日、北畠教具によって伊勢国丹生に逗留させられた。西暦1,468年10月8日の足利義視の帰洛に際しては伊勢国に留まり、招聘を受けていた自身の妹北川殿の夫である今川義忠の下へ向かった。

本書が記録する出来事

  • 畠山義就の上洛と相国寺への布陣 西暦1,467年1月30日。畠山義就が、山名宗全の支援の下で5,000名を率いて上洛し、千本地蔵院に滞在した後、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣して足利義政に圧力を掛けた。本書の起点である。
  • 畠山政長の家督喪失と管領職罷免 西暦1,467年2月6日〜9日。足利義政が春日万里小路の畠山政長邸への御成を取り止めて花の御所に畠山義就を招き、山名宗全の支持を失った政長は家督を事実上奪われた。9日には管領職を罷免され、屋敷を義就に明け渡す様命じられたが、政長は神保長誠等と之を拒否した。12日、斯波義廉が第20代管領に就任している。
  • 御所巻の失敗と花の御所の制圧 西暦1,467年2月19日。細川勝元・畠山政長が花の御所を包囲して畠山義就征伐の命令を出させようと画策したが、細川の正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、山名・義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧し、内裏から後花園上皇と後土御門天皇を迎え入れた。
  • 自邸の焼却と上御霊神社への布陣 西暦1,467年2月21日。足利義政が畠山家の争いは畠山家同士で決着する様命じた同じ日の深夜、畠山政長が春日万里小路の自邸を焼き払い、神保長誠の助言によって、一族や成身院光宣を含む2,000名の兵と共に上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣した。
  • 上御霊神社の合戦 西暦1,467年2月22日。早朝、畠山義就が兵3,000名余で上御霊神社を襲撃し、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢した。細川勝元は静観する。畠山政長は丸一日の合戦の末、拝殿に放火して細川の屋敷へ退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失う。神保長誠は奮戦し、上杉定正に武勇を激賞された。
  • 細川勝元の各国工作と東西両軍の成立 西暦1,467年4月頃〜6月頃。細川勝元が土岐政康を伊勢国へ、斯波義敏を越前国へ、宇野政秀を播磨国へ派遣し、赤松政則は播磨国・備前国・美作国の旧領を数日で奪回した。6月頃に細川が諸大名の上洛を要請すると、細川方=東軍、山名方=西軍という構図がはっきりした。
  • 大内政弘の山口出発 西暦1,467年6月11日。山名宗全の要請を受けた大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発した。河野通春・陶弘房も此の中に居り、本隊は海路で瀬戸内海を東上した。
  • 一色義直邸の襲撃と花の御所の占拠 西暦1,467年6月27日。武田信賢が実相院を、成身院光宣が土倉正実坊を占拠し、夜明け頃に一色義直の屋敷を襲撃・焼き払った。之を受け細川勝元は、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、東軍は西軍征伐の大義名分を得た。同日、一条大宮では市街戦が繰り広げられた。
  • 足利義視の東軍主将就任と祇園会の中止 西暦1,467年7月頃。足利義視が牙旗を下され東軍の主将となり、東軍から山名家の縁者を追放した。同月8日には祇園会が中止となっている。
  • 大物浦の戦いと大内政弘の上洛 西暦1,467年9月8日。大内政弘が河野水軍・村上水軍・三島水軍等を率い、大物浦にて上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍を撃破した。其の後尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣。21日の大内の上洛により、西軍は勢い付いた。
  • 足利義視の伊勢国への逃亡 西暦1,467年9月8日〜21日。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事を切っ掛けに、足利義視が出発した。21日、伊勢国国司木造教親の警護の下で釘貫門を欺いて京都を脱し、近江国坂本にて日野富子と暇乞いをして、北条早雲を伴い伊勢国へ入った。
  • 土御門内裏の占拠と公家屋敷の焼失 西暦1,467年10月11日。畠山義就率いる軍が土御門内裏を占拠した。9月29日から此の日までの戦いで、近衛殿・鷹司殿・日野殿・花山院殿・広橋殿・西園寺殿を含む公家の屋敷37戸と、大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失し、下京の大半は西軍が制圧した形となった。
  • 南禅寺山の戦い 西暦1,467年10月16日。孤立していた秋庭元明・浦上則宗の陣に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始した。次いで山名宗全、遊佐氏・誉田氏、甲斐氏・朝倉孝景が四波にわたって攻め上ったが、秋庭・浦上は大石や矢を浴びせて悉く之を退けた。此の戦いにより南禅寺・青蓮院が灰燼に帰した。
  • 後花園上皇の出家と綸旨の拒否 西暦1,467年10月18日。後花園上皇が花の御所にて出家した。其の後室町幕府は西軍征伐の綸旨の発給を求めたが、上皇は断固として拒否している。
  • 相国寺の戦い 西暦1,467年10月30日〜31日。畠山義就・大内政弘等率いる西軍30,000名程度が相国寺を襲撃し、内通した僧の放火を機に突入した。細川勝之・安富元綱・安富盛継は総門で大軍を7度退けた末に戦死する。翌31日、畠山政長が4,000名で出撃して西軍6,000名を討ったが、朝倉孝景が相国寺を奪還し、決着は付かなかった。
  • 骨皮道賢の稲荷山での敗死 西暦1,468年4月13日。下京の焼き討ちを担った骨皮道賢が、山名宗全・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就・大内政弘率いる30,000名に稲荷山を包囲された。女装しての逃走も見破られ、朝倉に斬首されて三条河原に梟首され、落首が張り出された。
  • 京都の寺社と民家の焼失 西暦1,468年。両軍による焼き討ちが京都中に及び、吉田神社・浄蓮華院・青蓮院・聖護院・法勝寺・清閑寺・光明峯寺・上御霊神社・泉涌寺・妙法院・仁和寺・大覚寺・天龍寺・臨川寺・宝幢寺と民家が次々に焼失した。
  • 足利義視の帰洛と延暦寺への逃走 西暦1,468年10月8日〜12月26日。足利義視が足利義政の説得により帰洛したが、日野勝光の排斥を訴えて容れられず、12月23日に有馬元家が赤松政則によって殺害されると、身の危険を感じて延暦寺へ逃走した。
  • 足利義視の西軍寝返りと西幕府の形成 西暦1,469年1月7日。延暦寺に立ち寄っていた足利義視が山名宗全の屋敷に入り、西軍へ寝返った。勢い付いた西軍は、足利義視を将軍とする「西幕府」を形成した。
  • 陶弘房の死去と陶弘護の家督継承 西暦1,469年1月6日。陶弘房が京都の陣営にて死去した。其の後陶弘護は大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰って元服、第8代陶家当主に就任した。西暦1,470年には周防国守護代に就任している。
  • 西陣南帝の擁立 西暦1,470年6月10日頃〜西暦1,471年9月10日。山名宗全を始めとする西軍諸将が西陣南帝の天皇擁立を画策し、当初反対した畠山義就も了承。西暦1,471年9月10日、西陣南帝は北野天満宮松梅院に入り、天皇として擁立された。
  • 朝倉孝景の東軍帰属と越前国守護補任 西暦1,471年6月9日。伊勢貞親等の切り崩し工作に応じた朝倉孝景に対し、足利義政から第18代室町幕府越前国守護に補任する御内書・管領副状が発給された。之により東軍は勢いを取り戻してゆく。
  • 細川勝元と山名宗全の和睦交渉 西暦1,472年2月23日。細川勝元と山名宗全の間で和睦交渉が開始された。東軍が優位に立ち西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。
  • 両総大将の死去 西暦1,473年4月15日〜6月6日。山名宗全が病死し、次いで細川勝元が死去した。和睦交渉は山名政豊と細川政元が引き継ぐ。宗全の死後、西陣南帝は西軍諸将によって追放された。
  • 足利義尚の将軍就任 西暦1,474年1月7日。足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任された。3月20日には義政が花の御所を義尚に譲り、小川殿へ移っている。
  • 細川政元と山名政豊の単独和睦 西暦1,474年4月19日。武田国信の仲介により、細川政元と山名政豊が単独で和睦した。細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣から北野天満宮に参詣する者や、下京から東陣へ物を売る商人が往来を始めた。
  • 足利義視の恭順と両軍の和睦 西暦1,477年1月5日。足利義視が足利義政に他意の無い事を伝える書簡を送って恭順を誓い、義政は其の罪を不問に付した。日野富子の仲介によって、両軍は和睦した。
  • 畠山義就の河内国下向と若江城の落城 西暦1,477年10月27日〜11月14日。畠山義就が河内国へ向けて京都を出発し、越智氏・古市氏の加勢を得て客坊城・八尾城・誉田城・嶽山城を次々に攻略、14日に若江城を落として河内国・大和国を略手中に収めた。
  • 大内政弘の四ヶ国守護職承認と畠山義就への貸付 西暦1,477年12月頃。室町幕府が、遣明船の唐荷を納めた大内政弘に周防国・長門国・豊前国・筑前国の守護職を承認し、朝廷も官位を昇叙させた。日野富子の仲裁によるものである。又富子は、畠山義就に1,000貫文を貸し付けて撤退を促した。
  • 西軍諸将の一斉下国と天下静謐の祝宴 西暦1,477年12月16日〜25日。西軍の諸将が一斉に下国し、大内政弘は伊予国へ、足利義視は嫡男足利義稙を伴って美濃国の土岐成頼の下へ亡命した。25日、室町幕府は天下静謐の祝宴を開催したが、河内国・大和国の大半は畠山義就が押さえており、火種は燻ったままであった。
  • 大内政弘の帰国と義兄弟の契り 西暦1,478年1月26日。大内政弘が周防国へ帰国し、陶弘護が柳井津(現在の山口県柳井市)にて出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自邸で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、二人は義兄弟の契りを交わした。本書の終点である。

畠山義就の上洛から、相国寺の攻防、西軍諸将の下国へ──
応仁の乱の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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