電子書籍「大内教幸の乱・大内山口館事件一元化」の表紙

大内教幸の乱・
大内山口館事件一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,470年3月頃〜1,495年3月24日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
12ページ
最新更新日
西暦2,026年8月12日

主家の留守を突いた乱を鎮めた男は──
十年後、大内館の宴席で家宝の短刀に刺された。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて挙兵した。共に立ったのは内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼である。教幸は百計を巡らせて陶弘護をも誘ったが、陶は応じなかった。同じ頃、足利義政は大友親繁・益田兼堯に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じている——本書は、此の挙兵から西暦1,495年3月24日の内藤弘矩殺害までを、年月日単位で一元化した記録である。

同年3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄、そして陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼へ書簡を送る。足利義政に忠節を致せという細川勝元の書簡を頂いたが、大内教幸は老齢である為、其の息子加嘉丸を奉公させるという事で教幸に一味同心した、細川に之を取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい——という主旨であった。後に乱を鎮める陶弘護も、此の連署には名を連ねている。

寝返りが続いた。5月26日、大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、政弘の陣営を出て東軍に寝返る。6月18日には仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条(現在の広島県東広島市西条地区)衆を率い、大内武治と共に政弘に背いて東軍へ移った。7月10日、仁保十郎は奈良を経由して西下する。9月1日、陶弘護は益田兼堯と其の嫡男益田貞兼に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送った。そして12月12日、大内教幸が安芸国へ向けて出発する。

西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて大内教幸率いる軍を破った。教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走する。教幸は備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。19日、陶弘護率いる軍は江良城(現在の山口県萩市吉部上)でも残党を破る。教幸は其の後も吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護に防がれ、潰走した。4月頃には仁保十郎が東福寺(現在の京都府京都市東山区本町)の東軍の陣中に加わり、其の後西下して大内家の領国を経由し、教幸と合流している。12月13日、陶弘護は再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結んだ。

西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)に進軍する。吉見は大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が之を迎撃した。17日、陶弘護は京都の大内政弘宛に戦況報告の書簡を送る。吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼による高津城(現在の島根県益田市高津町上市)等の諸城の攻略、そして自軍による嘉年城攻略の三点であった。2月5日、陶弘護率いる軍が長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて教幸率いる軍を破る。教幸は豊前国へ敗走して馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入り、仁保盛安も厳島神領へ逃れて、玖珂郡山代(現在の山口県岩国市錦町・本郷町・美和町周辺)・佐波郡得地(現在の山口県山口市徳地地区)へ加勢する計画を立てた。

2月11日、陶弘護は益田貞兼へ近況を伝える書簡を送っている。大内教幸は3月4日に没落し、仁保盛安は厳島神社の神領地である宮内村(現在の広島県廿日市市)に逃れたが容れられず、安芸武田家の分領の伴(現在の広島県広島市安佐南区)へ退く積もりで、現在国衆と申し合わせて計略の最中である事。仁保から吉見信頼へ宛てた書簡を途中で奪い取った所、其の書中に玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する事が書かれていた事。そして、吉見信頼の分領並びに庄内郷(現在の山口県防府市牟礼)・黒谷郷(現在の山口県山口市徳地深谷付近)方面への発向計画はどうなっているのか、吉見勢は山代及び地福(現在の山口県山口市阿東町大字地福上・大字地福下)方面への進出を企んでいる為、之を牽制する為にも背後から吉見領への進攻を急いで貰いたい、という要請である。

西暦1,476年1月頃、吉見信頼が元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃するも、陶弘護に敗れ、吉賀(現在の島根県鹿足郡)・長野(現在の島根県益田市)・北九州の所領を奪われた。其の所領は益田貞兼や大内家の家臣に当てられている。吉見は其の後も長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。6月頃、少弐政尚が旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率いて豊前国に入り、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城する。陶弘護は兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣し、合戦となった。大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。9月7日、室町幕府は大内教幸に対し、豊前国での停戦を命じている。

西暦1,477年5月9日、室町幕府が大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、之を止めて上洛させよとの命を下す。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国した。大内政弘は陣所を引き払って伊予国へ向かい、足利義視も自身の嫡男足利義稙を伴って美濃国の土岐成頼の下へ亡命し、承隆寺(現在の岐阜県岐阜市茜部寺屋敷)に滞在する。西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国した。陶弘護は柳井津(現在の山口県柳井市)にて政弘を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成す。政弘は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、二人は義兄弟の契りを交わした。陶は、夜は政弘の寝所で控え、昼は饗応したという。

西暦1,478年4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。政弘は之を認めた。政弘は陶弘護に筑前国を任せ、陶は忠節を尽くす。10月頃には政弘が豊前国・筑前国へ遠征を行い、陶弘護は先駆けとして戦った。20日、大内政弘率いる軍は太宰府にて少弐政資率いる軍を破り、少弐達は散り散りとなる。之を受けて城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有・頼有の息子帥律師を始めとする人間が、大内の下へ祝言を述べに来た。28日からの三日間、陶弘護は頼有の計略によって捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首する。12月26日、大友親繁に与えられていた豊前国守護職が大内教幸に与えられた。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続する。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は、少弐氏と不仲になった。

西暦1,480年1月頃、陶弘護が筑前国守護代職を自身の弟右田弘詮に譲る。西暦1,481年には伊勢神宮を参詣し、10月頃に周防国へ帰国した。西暦1,482年4月頃、小笠原元長が大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し、奥義を学んだ。6月頃には吉見信頼が自身の弟の吉見頼興に家督を譲り、頼興は第9代石見吉見家当主となる。信頼も此の頃、大内政弘に拝謁していた。そして6月13日、吉見信頼は大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて陶弘護を刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩が、直様吉見を斬殺した。吉見頼興は陶家の報復を予見して吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。

西暦1,483年4月15日、大内政弘が伊勢神宮参詣者への餞別を禁止する。そして西暦1,495年3月24日、大内義興が内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害した。同日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵によって殺害される。弘矩・弘和勢力の拡大を恐れた陶弘護の嫡男陶武護が「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していたのである。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。大内館で陶弘護を刺した男を斬った内藤弘矩が、其の陶の子の讒言によって討たれる——本書は、赤間関の挙兵から此処までを、一冊に束ねている。


登場人物

  • 陶弘護 本書の中心人物。西暦1,470年3月頃、大内教幸の誘いに応じず大内政弘方に留まり、西暦1,471年1月13日の鞍掛山、19日の江良城、西暦1,472年2月5日の長門国阿武郡と続けて教幸率いる軍を破った。西暦1,478年1月26日には帰国した政弘を柳井津で出迎えて義兄弟の契りを交わす。西暦1,482年6月13日、大内館での宴会にて吉見信頼に短刀鵜噬で刺殺された。
  • 大内政弘 大内家の当主。西暦1,470年3月頃、其の留守を突いて大内教幸が挙兵した。応仁の乱では西軍に属し、西暦1,477年12月16日の諸将下国に際して陣所を引き払い伊予国へ。西暦1,478年1月26日に周防国へ帰国し、陶弘護に「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝して義兄弟の契りを交わした。
  • 大内教幸 西暦1,470年3月頃、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵した。陶弘護に鞍掛山・江良城・長門国阿武郡で連敗し、豊前国の馬ヶ岳へ敗走。西暦1,478年12月26日には豊前国守護職を与えられている。
  • 大内義興 西暦1,482年6月13日の大内館での事件当時、内藤弘矩を家臣に持っていた。西暦1,495年3月24日、陶武護の讒言を容れて内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害し、同日、弘矩の嫡男内藤弘和も兵を差し向けて殺害した。後に真相を暴き、武護を誅殺している。
  • 大内武治 西暦1,470年6月18日、仁保家の総領仁保弘有と共に大内政弘に背き、東軍へ寝返った。
  • 大内高弘 西暦1,495年3月24日、陶武護が「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と大内義興に讒言した際に、擁立の対象として名を挙げられた人物である。
  • 加嘉丸 大内教幸の息子。西暦1,470年3月11日の連署書簡において、教幸が老齢である為に代わって奉公させるという名目で名を挙げられ、内藤武盛等が教幸に一味同心する根拠とされた。
  • 陶武護 陶弘護の嫡男。内藤弘矩・内藤弘和の勢力拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と大内義興に讒言した。西暦1,495年3月24日の内藤父子殺害を招き、後に真相を暴いた義興によって誅殺された。
  • 右田弘詮 陶弘護の弟。西暦1,480年1月頃、兄から筑前国守護代職を譲られた。
  • 内藤武盛 内藤弘矩の兄。西暦1,470年3月頃、大内教幸の赤間関での挙兵に加わった。同年3月11日には、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護と連署で、京都の吉見信頼へ書簡を送っている。
  • 内藤弘矩 大内義興の家臣で、長門国守護代。西暦1,482年6月13日、大内館の宴会にて陶弘護を刺殺した吉見信頼を、直様斬殺した。西暦1,495年3月24日、陶武護の讒言を容れた大内義興によって、大内政弘の屋敷にて殺害された。
  • 内藤弘和 内藤弘矩の嫡男。西暦1,495年3月24日、父の殺害と同日に、大内義興の差し向けた兵によって殺害された。
  • 吉見信頼 大内家の家臣。西暦1,470年3月頃の大内教幸の挙兵に加わり、津和野へ敗走した教幸を庇護した。西暦1,472年1月頃には嘉年城へ進軍し、西暦1,476年1月頃の元山城攻撃では陶弘護に敗れて吉賀・長野・北九州の所領を奪われる。西暦1,478年4月頃に大内政弘へ謝罪して和睦するも、西暦1,482年6月13日、大内館の宴会で家宝の短刀鵜噬を用いて陶弘護を刺殺し、内藤弘矩に斬殺された。
  • 吉見頼興 吉見信頼の弟。西暦1,482年6月頃、兄から家督を譲られ、第9代石見吉見家当主となった。兄が陶弘護を刺殺した後は陶家の報復を予見して吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。
  • 仁保盛安 大内政弘の家臣で筑前国守護代。西暦1,470年3月頃の大内教幸の挙兵に加わった。西暦1,472年2月5日には厳島神領へ逃れ、玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する計画を立てたが、宮内村では容れられず、安芸武田家の分領である伴へ退く積もりであった事が、陶弘護の書簡に記されている。
  • 仁保十郎 仁保盛安の息子。西暦1,470年5月26日、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返り、7月10日に奈良を経由して西下した。西暦1,471年4月頃には東福寺の東軍の陣中に加わり、其の後西下して大内教幸と合流している。
  • 仁保弘有 仁保家の総領。西暦1,470年6月18日、安芸国西条衆を率い、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍へ寝返った。
  • 仁保弘名 西暦1,478年10月28日からの三日間、彦山座主頼有の計略によって捕らえられ、其の首級が陶弘護によって博多土井町の称名寺の門前に梟首された。
  • 周布和兼 西暦1,470年3月頃、長門国赤間関における大内教幸の挙兵に加わった。
  • 益田兼堯 西暦1,470年3月頃、足利義政から大友親繁と共に大内教幸の援助を命じられた。同年9月1日には嫡男益田貞兼と共に陶弘護から誓書を受けている。陶弘護の正室は兼堯の娘であった。
  • 益田貞兼 益田兼堯の嫡男。西暦1,470年9月1日と西暦1,471年12月13日の二度にわたって陶弘護から誓書を受け、大内政弘方として同盟を結んだ。西暦1,472年1月17日の戦況報告では、高津城等の諸城を攻略した事が記されている。
  • 小笠原元長 西暦1,482年4月頃、大内政弘に拝謁した。其の際、陶弘護から「天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として師と仰がれ、奥義を伝えた。
  • 少弐政資 西暦1,478年10月20日、太宰府にて大内政弘率いる軍に破られ、其の軍勢は散り散りとなった。政資を支援した大友氏は、此の頃少弐氏と不仲になっている。
  • 少弐政尚 西暦1,476年6月頃、旧領を回復すべく宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率いて豊前国に入り、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。兵3,000名を率いて覗山城を築いた陶弘護と対陣したが、勝負は付かなかった。
  • 大友親繁 西暦1,470年3月頃、足利義政から益田兼堯と共に大内教幸の援助を命じられた。西暦1,478年12月26日、其れまで与えられていた豊前国守護職が大内教幸に与えられている。
  • 足利義政 室町幕府将軍。西暦1,470年3月頃、大友親繁・益田兼堯に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じた。

本書が記録する出来事

  • 赤間関における大内教幸の挙兵 西暦1,470年3月頃。大内教幸が大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵した。百計を巡らせて陶弘護も誘ったが、陶は応じなかった。本書の起点である。
  • 足利義政による大内教幸援助の命 西暦1,470年3月頃。足利義政が大友親繁・益田兼堯に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じた。
  • 吉見信頼宛の連署書簡 西暦1,470年3月11日。内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都の吉見信頼へ書簡を送った。大内教幸は老齢である為に息子加嘉丸を奉公させるという事で教幸に一味同心したので、細川勝元に取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい、という主旨であった。
  • 仁保十郎・仁保弘有の東軍寝返り 西暦1,470年5月26日〜6月18日。筑前国守護代仁保盛安の息子仁保十郎が大内政弘の陣営を出て東軍に寝返り、次いで仁保家の総領仁保弘有が安芸国西条衆を率い、大内武治と共に政弘に背いて東軍へ移った。
  • 陶弘護から益田父子への誓書 西暦1,470年9月1日。陶弘護が益田兼堯・其の嫡男益田貞兼に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送った。西暦1,471年12月13日には再度貞兼へ誓書を送り、大内政弘方として同盟を結んでいる。
  • 鞍掛山の戦いと津和野への敗走 西暦1,471年1月13日。陶弘護率いる軍が鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて大内教幸率いる軍を破った。教幸は残党を引き連れ、吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。
  • 江良城の戦いと長門国阿武郡での潰走 西暦1,471年1月19日。陶弘護率いる軍が江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて大内教幸の残党を破った。教幸は其の後も吉見信頼の助けで兵を集めて長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護に防がれ、潰走した。
  • 嘉年城への進軍と戦況報告 西暦1,472年1月頃〜17日。吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)へ進軍し、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始、陶弘護が迎撃した。17日、陶は京都の大内政弘へ、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼による高津城等の攻略、自軍による嘉年城攻略を報じる書簡を送っている。
  • 長門国阿武郡の戦いと豊前国への敗走 西暦1,472年2月5日。陶弘護率いる軍が長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて大内教幸率いる軍を破った。教幸は豊前国へ敗走して馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入り、仁保盛安も厳島神領へ逃れて玖珂郡山代・佐波郡得地への加勢を計画した。
  • 益田貞兼宛の近況書簡と吉見領進攻の要請 西暦1,472年2月11日。陶弘護が益田貞兼へ書簡を送り、大内教幸が3月4日に没落する事、仁保盛安が宮内村に容れられず安芸武田家分領の伴へ退く積もりである事、仁保から吉見信頼宛の書簡を奪い取った事を伝え、吉見勢の山代・地福方面への進出を牽制する為、背後から吉見領への進攻を急ぐ様求めた。
  • 元山城の攻撃と吉見信頼の所領没収 西暦1,476年1月頃。吉見信頼が元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃したが陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われ、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も長門国へ軍勢を送って威嚇したが、合戦には至らなかった。
  • 少弐政尚の豊前国侵入と覗山城の対陣 西暦1,476年6月頃。少弐政尚が旧領回復の為、宗職盛・宗国久等4,000名を率いて豊前国に入り、馬ヶ岳城・岩石城等に籠城した。陶弘護は兵3,000名で覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣し、大内方60名・少弐方6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。9月7日には室町幕府が大内教幸に豊前国での停戦を命じている。
  • 西軍諸将の下国と大内政弘の帰国 西暦1,477年12月16日〜西暦1,478年1月26日。西軍の諸将が一斉に下国し、大内政弘は陣所を引き払って伊予国へ向かった。足利義視も嫡男足利義稙を伴って美濃国の土岐成頼の下へ亡命する。帰国した政弘を陶弘護が柳井津(現在の山口県柳井市)で出迎え、富田保の自邸で持て成し、二人は義兄弟の契りを交わした。
  • 吉見信頼の謝罪と和睦 西暦1,478年4月頃。吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求めた。政弘は之を認め、陶弘護には筑前国を任せている。
  • 太宰府の戦いと仁保弘名の梟首 西暦1,478年10月20日〜28日。大内政弘率いる軍が太宰府にて少弐政資率いる軍を破り、城井俊明・右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有等が祝言を述べに来た。28日からの三日間、陶弘護は頼有の計略で捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町の称名寺の門前に梟首した。
  • 豊前国守護職の授与と少弐家との対立継続 西暦1,478年12月26日。大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられた。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続する。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は少弐氏と不仲になった。
  • 筑前国守護代職の譲与と伊勢神宮参詣 西暦1,480年1月頃〜西暦1,481年10月頃。陶弘護が筑前国守護代職を弟の右田弘詮に譲った。西暦1,481年には伊勢神宮を参詣し、10月頃に周防国へ帰国している。
  • 小笠原元長への師事 西暦1,482年4月頃。小笠原元長が大内政弘に拝謁した際、陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする」として小笠原に師事し、奥義を学んだ。
  • 吉見家の家督譲与 西暦1,482年6月頃。吉見信頼が弟の吉見頼興に家督を譲り、頼興は第9代石見吉見家当主となった。又此の頃、信頼は大内政弘に拝謁している。
  • 大内館における陶弘護の刺殺 西暦1,482年6月13日。吉見信頼が大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて陶弘護を刺殺した。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩が直様吉見を斬殺する。吉見頼興は陶家の報復を予見して吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。本書の題名が指す事件である。
  • 伊勢神宮参詣者への餞別の禁止 西暦1,483年4月15日。大内政弘が、伊勢神宮参詣者への餞別を禁止した。
  • 内藤弘矩・内藤弘和の殺害と陶武護の誅殺 西暦1,495年3月24日。大内義興が内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害し、同日、弘矩の嫡男内藤弘和も義興の差し向けた兵に殺害された。弘矩・弘和の勢力拡大を恐れた陶弘護の嫡男陶武護が「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と讒言していた為である。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。本書の終点である。

赤間関の挙兵から、大内館の刺殺、そして内藤弘矩の死へ──
大内教幸の乱と大内山口館事件の全過程を一元化。

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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