大内教幸の乱・
大内山口館事件一元化
本書について
西暦1470年3月、大内教幸が大内政弘の応仁の乱在京中の留守を狙い、長門国赤間関にて内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と挙兵し周防国奪取を意図した日から、西暦1495年3月24日、大内義興が大内政弘の屋敷にて内藤弘矩を殺害し、同日陶弘護の嫡男陶武護の讒言により内藤弘和も殺害された日まで。本書は、応仁の乱中に勃発した大内家分国を引き裂く内乱「大内教幸の乱」と、其の主役として大内政弘の留守を守り抜き義兄弟の契りまで交わした陶弘護が、皮肉にも10年後の大内館宴会で吉見家家宝の短刀「鵜噬」によって暗殺された「大内山口館事件」、そして其の事件の余波として13年後に内藤弘矩誅殺へと繋がる血塗られた連鎖を、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。陶弘護を軸とする大内家家臣団の栄光と悲劇を、約25年間に亙って追跡しています。
西暦1470年3月の長門国赤間関での大内教幸挙兵に対し、教幸は百計を巡らせて陶弘護も誘ったが陶は応じず、足利義政が大友親繁・益田兼堯に教幸援助を命じる構図が形成されます。同年3月11日、内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護による京都の吉見信頼宛連署書簡で「大内教幸は老齢のため息子加嘉丸を奉公させる」との一味同心が示され、同年5月26日に仁保十郎、同年6月18日に仁保弘有・大内武治の東軍寝返り、同年9月1日の陶弘護による益田兼堯・益田貞兼への大内政弘忠誠誓書、同年12月12日の大内教幸の安芸国出発を経て、西暦1471年1月13日、陶弘護率いる軍が鞍掛山にて大内教幸を破り津和野へ敗走させ、同年1月19日には江良城で残党を撃破。教幸は吉見信頼の助けで兵を集め長門国阿武郡を攻撃するも、大内政弘の母の命で築かれた砦により陶に防がれ潰走。西暦1472年1月の吉見信頼による嘉年城進軍を陶が迎撃、同年2月5日に長門国阿武郡で陶が再度大内教幸を破り豊前国馬ヶ岳へ敗走させ、同年3月4日に教幸は没落。仁保盛安は厳島神領に逃れ、安芸武田家分領の伴へ退こうとする中、陶弘護は益田貞兼との同盟書を1471年12月13日と1472年2月11日に重ねて送り、西国の防衛線を固めました。
西暦1476年1月の吉見信頼による元山城攻撃を陶弘護が撃退し、吉賀・長野・北九州の所領を吉見から奪い益田貞兼や大内家の家臣に分配。陶の正室は益田兼堯の娘で、益田家と吉見家は犬猿の仲という構図が示されます。西暦1478年1月26日、応仁の乱終結を受けた大内政弘の周防国帰国時、陶弘護は柳井津で出迎え富田保の自邸で饗応、大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し義兄弟の契りを交わしました。同年4月の吉見信頼の謝罪・和睦許容、同年10月の豊前国・筑前国遠征と陶弘護の先駆け、同年10月20日の太宰府での少弐政資撃破、同年10月28日からの彦山座主頼有の計略により捕らえた仁保弘名首級の博多土井町称名寺前での3日間梟首、同年12月26日の大内教幸への豊前国守護職下賜と少弐氏との対立継続、西暦1480年1月の陶弘護による筑前国守護代職の弟右田弘詮への譲渡、西暦1481年の伊勢神宮参詣と周防国帰国、西暦1482年4月の陶弘護による小笠原元長への弓馬術師事と「武は弓矢を以って要とする」との発言を経て、同年6月13日、吉見信頼が大内館の宴会にて吉見家の家宝の短刀「鵜噬」を用いて陶弘護を刺殺。長門国守護代内藤弘矩が直ちに吉見を斬殺し、吉見頼興は陶家の報復を予見して書物を処分するも報復は行われず。そして西暦1495年3月24日、大内義興が大内政弘の屋敷で内藤弘矩を殺害、嫡男内藤弘和も殺害されました。これは陶弘護の嫡男陶武護による「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」との讒言が原因で、後に義興は真相を暴いて武護を誅殺。陶弘護を巡る忠勤と背信、そして血の連鎖を一冊に束ねた書です。
主要登場人物
- 陶弘護 大内家筆頭家臣。1471年1月13日の鞍掛山、同年1月19日の江良城、1472年2月5日の長門国阿武郡で大内教幸率いる軍を撃破。1478年1月26日に大内政弘から義兄弟の契りを交わされ、同年10月20日太宰府での少弐政資撃破に先駆けで貢献。1482年6月13日、大内館の宴会で吉見信頼に短刀「鵜噬」で刺殺された、本書の主役。
- 大内政弘 大内家当主。応仁の乱で在京中の留守を狙った大内教幸の挙兵に直面、陶弘護の活躍で分国を死守。1478年1月26日の周防国帰国時に陶を義兄弟と認め、1478年10月の豊前国・筑前国遠征で少弐政資を撃破して西国の覇権を確立した。
- 大内教幸 大内政弘の親類。1470年3月に長門国赤間関で内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵し周防国奪取を意図。1471年1月の鞍掛山で陶弘護に敗れて以降連敗、1472年3月4日に没落。1478年12月26日に豊前国守護職を与えられたが、少弐氏との対立を解消できなかった、本書の発端を成す反逆者。
- 大内義興 大内政弘の後継者。1495年3月24日に大内政弘の屋敷で内藤弘矩を殺害し、内藤弘和も殺害させた。後に陶武護の讒言を見抜き武護を誅殺した、本書の終末を担う当主。
- 大内武治 1470年6月18日に仁保弘有と共に大内政弘に背いて東軍に寝返った、大内一族からの離反者。
- 大内高弘 1495年3月24日の内藤弘矩誅殺事件で、陶武護の讒言により「擁立が画策された」とされた人物。事件の引き金となった大内一族の象徴的存在。
- 加嘉丸 大内教幸の息子。1470年3月11日の連署書簡で「教幸が老齢のため奉公させる」名目で言及され、教幸の挙兵の正当化の材料に使われた。
- 陶武護 陶弘護の嫡男。1495年3月24日に内藤弘矩・内藤弘和殺害の引き金となった「内藤弘矩が大内高弘擁立を画策」との讒言を大内義興に注進したが、後に真相が暴かれて義興に誅殺された、本書の終末を担う父の影を継いだ人物。
- 右田弘詮 陶弘護の弟。1480年1月に陶から筑前国守護代職を譲られ、大内家の九州統治の一翼を担った。
- 内藤武盛 内藤弘矩の兄。1470年3月の大内教幸挙兵に参加、同年3月11日の吉見信頼宛連署書簡の筆頭署名者として、教幸方の立場を表明した。
- 内藤弘矩 大内義興家臣で長門国守護代。1482年6月13日、陶弘護を刺殺した吉見信頼を直ちに斬殺。1495年3月24日、陶武護の讒言により大内政弘の屋敷で大内義興に殺害された、本書を貫く「即時の正義」と「終末の悲劇」を体現する人物。
- 内藤弘和 内藤弘矩の嫡男。1495年3月24日、父弘矩殺害と同日に大内義興の差し向けた兵に殺害された。
- 吉見信頼 石見吉見家当主。1470年3月の大内教幸挙兵に参加、津和野へ敗走した教幸を匿い、1472年1月の嘉年城進軍、1476年1月の元山城攻撃で陶弘護に敗れて吉賀・長野・北九州の所領を奪われた。1482年6月、弟頼興に家督を譲った後、同年6月13日に大内館の宴会で吉見家家宝の短刀「鵜噬」で陶弘護を刺殺、内藤弘矩に即座に斬殺された、本書の中核となる凶刃。
- 吉見頼興 吉見信頼の弟。1482年6月に第9代石見吉見家当主に就任し大内政弘に拝謁。兄の陶弘護刺殺後、陶家の報復を予見して吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。
- 仁保盛安 大内政弘の家臣で筑前国守護代。1470年3月の大内教幸挙兵に参加、1472年2月の陶弘護の長門国阿武郡撃破後、厳島神領に逃れたが容れられず、安芸武田家分領の伴へ退こうとした。
- 仁保十郎 仁保盛安の息子。1470年5月26日に大内政弘の陣営から東軍に寝返り、同年7月10日に奈良経由で西下、1471年4月に東福寺の東軍陣中に加わった後、大内家領国を経由して大内教幸と合流した。
- 仁保弘有 仁保家の総領。1470年6月18日に安芸国西条衆を率いて大内武治と共に大内政弘に背き東軍に寝返った、大内家にとって深刻な離反者。
- 仁保弘名 仁保盛安の息子。彦山座主頼有の計略により捕らえられ、1478年10月28日から3日間、博多土井町の称名寺門前に首級を梟首された、大内家の見せしめとなった人物。
- 周布和兼 1470年3月の長門国赤間関での大内教幸挙兵に参加した周布家の人物。
- 益田兼堯 1470年3月に足利義政から大友親繁と共に大内教幸援助を命じられたが、陶弘護の正室の父であり、同年9月1日に陶から大内政弘忠誠の誓書を受け取って大内方として行動した。
- 益田貞兼 益田兼堯の嫡男。1471年12月13日と1472年2月11日に陶弘護から同盟誓書を受け取り、1472年1月の吉見信頼嘉年城進軍時に高津城等の諸城を攻略、1476年1月に陶が吉見から奪った吉賀・長野等の所領を分配された、陶の最も信頼できる戦友。
- 小笠原元長 小笠原流弓馬術の宗家。1482年4月に大内政弘に拝謁、陶弘護が「天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とする」として師事し、奥義を学んだ。
- 少弐政資 少弐家当主。1478年10月20日に太宰府で大内政弘率いる軍に敗れ、勢力を散り散りにされた。豊前国守護職を巡って大内教幸と競望し、大内家との対立を継続した。
- 少弐政尚 1476年6月に旧領回復のため宗職盛・宗国久を始めとする4,000名を率い豊前国に侵攻、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城。陶弘護が3,000名で覗山城を築いて対陣し、勝負つかずの合戦となった。
- 大友親繁 1470年3月に足利義政から益田兼堯と共に大内教幸援助を命じられた。1478年12月26日に豊前国守護職を大内教幸に奪われ、少弐政資を支援した結果、少弐氏とも不仲になった。
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。1470年3月に大友親繁・益田兼堯に大内教幸援助を命じ、1476年9月7日に大内教幸への豊前国停戦を命じる等、大内家の内乱を巡って度々命令を下した。