電子書籍「大内教幸の乱・大内山口館事件一元化」の表紙

大内教幸の乱・
大内山口館事件一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,470年3月頃〜1,495年3月24日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
12ページ
文字数
3,809字
最新更新日
西暦2,026年10月6日

赤間関の挙兵から、大内館の宴会へ──
内藤弘矩が殺害される迄を一元化。

176円(税込)

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本書について

西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。大内教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶弘護は応じなかった。又3月頃、足利義政が、大友親繁・益田兼堯の2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。本書は、此の大内教幸の挙兵から、陶弘護による大内教幸の撃破、大内政弘の周防国への帰国、大内館での吉見信頼による陶弘護の刺殺を経て、西暦1,495年3月24日に大内義興が内藤弘矩を殺害する迄を一元化した記録である。

西暦1,470年3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に、「足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい」という主旨の書簡を送る。5月26日、大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返る。6月18日、仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条(現在の広島県東広島市西条地区)衆を率いて、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍に寝返る。7月10日、仁保十郎が、奈良を経由して西下する。9月1日、陶弘護が、益田兼堯と、兼堯の嫡男益田貞兼の2名に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。12月12日、大内教幸が、安芸国へ向けて出発する。

西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が、鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。大内教幸は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。1月19日、陶弘護率いる軍が、江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。4月頃、仁保十郎が、東福寺(現在の京都府京都市東山区本町)の東軍の陣中に加わる。其の後仁保十郎は西下し、大内家の領国を経由し大内教幸と合流した。12月13日、陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。

西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)に進軍する。吉見信頼は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。1月17日、陶弘護が、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼が高津城(現在の島根県益田市高津町上市)等の諸城を攻略、自身の軍による嘉年城攻略という内容の、京都の大内政弘宛の戦況報告の書簡を送る。2月5日、陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代(現在の山口県岩国市錦町・本郷町・美和町周辺)・佐波郡得地(現在の山口県山口市徳地地区)へ加勢する計画を立てた。

西暦1,472年2月11日、陶弘護が益田貞兼に、近況を伝える「大内教幸は西暦1,472年3月4日に没落し、仁保盛安は安芸国の厳島神社の神領地である宮内村(現在の広島県廿日市市)に逃れたが容れられず、安芸武田家の分領の伴(現在の広島県広島市安佐南区)に退く積もりで、現在国衆と申し合わせて、計略の最中である」「仁保から吉見信頼へ宛てた書簡を途中で奪い取ったが、其の書中に玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する事が書かれている。よって、益田殿の一層の奔走を祈る」「吉見信頼の分領並びに庄内郷(現在の山口県防府市牟礼)・黒谷郷(現在の山口県山口市徳地深谷付近)方面への発向計画はどうなっているのか。当方で得た情報によれば、吉見勢は山代及び地福(現在の山口県山口市阿東町大字地福上・大字地福下)方面への進出を企んでいる為、此れを牽制する為にも、背後から吉見領への進攻を急いで貰いたい」という主旨の内容を含む書簡を送る。

西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃する。然し吉見信頼は、陶弘護に敗れ、吉賀(現在の島根県鹿足郡)・長野(現在の島根県益田市)・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見信頼は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶弘護の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。6月頃、少弐政尚が、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。9月7日、室町幕府が、大内教幸に対し、豊前国での停戦を命じる。

西暦1,477年5月9日、室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。大内政弘は、陣所を引き払って伊予国へ向かった。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺(現在の岐阜県岐阜市茜部寺屋敷)に滞在した。西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津(現在の山口県柳井市)にて大内政弘を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成した。大内政弘は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内政弘と陶弘護は義兄弟の契りを交わした。陶弘護は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。

西暦1,478年4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内政弘は此れを認めた。大内政弘は、陶弘護に筑前国を任せ、陶弘護は忠節を尽くした。10月頃、大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。陶弘護は先駆けとして戦った。10月20日、大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。少弐達は散り散りとなった。此れを受けて、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有・頼有の息子帥律師を始めとする人間が、大内政弘の下に祝言を述べる為にやって来た。10月28日から3日間、陶弘護が、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首する。12月26日、大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられる。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は、少弐氏と不仲になった。

西暦1,480年1月頃、陶弘護が、筑前国守護代職を、自身の弟右田弘詮に譲る。西暦1,481年、陶弘護が、伊勢神宮を参詣する。10月頃、陶弘護が、周防国へ帰国する。西暦1,482年4月頃、小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原元長に師事し、奥義を学んだ。6月頃、吉見信頼が、自身の弟の吉見頼興に家督を譲る。此れにより頼興は、第9代石見吉見家当主となった。又此の頃信頼は、大内政弘に拝謁した。

西暦1,482年6月13日、吉見信頼が、大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見信頼を斬殺した。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。西暦1,483年4月15日、大内政弘が、伊勢神宮参詣者への餞別を禁止する。西暦1,495年3月24日、大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。大内教幸の挙兵から、陶弘護による大内教幸の撃破、大内政弘の周防国への帰国、大内館での吉見信頼による陶弘護の刺殺を経て、大内義興による内藤弘矩の殺害に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 陶弘護 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。大内教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶弘護は応じなかった。3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。9月1日、陶弘護が、益田兼堯と、兼堯の嫡男益田貞兼の2名に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が、鞍掛山にて、大内教幸率いる軍を破る。1月19日、陶弘護率いる軍が、江良城にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。12月13日、陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍する。吉見信頼は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。1月17日、陶弘護が、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼が高津城等の諸城を攻略、自身の軍による嘉年城攻略という内容の、京都の大内政弘宛の戦況報告の書簡を送る。2月5日、陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡にて、大内教幸率いる軍を破る。2月11日、陶弘護が益田貞兼に、近況を伝える書簡を送る。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城を攻撃する。然し吉見信頼は、陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。6月頃、少弐政尚が、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津にて大内政弘を出迎え、富田保の自身の屋敷で持て成した。大内政弘は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内政弘と陶弘護は義兄弟の契りを交わした。陶弘護は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内政弘は此れを認めた。大内政弘は、陶弘護に筑前国を任せ、陶弘護は忠節を尽くした。10月頃、大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。陶弘護は先駆けとして戦った。10月28日から3日間、陶弘護が、彦山座主頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町の称名寺の門前に梟首する。西暦1,480年1月頃、陶弘護が、筑前国守護代職を、自身の弟右田弘詮に譲る。西暦1,481年、陶弘護が、伊勢神宮を参詣する。10月頃、陶弘護が、周防国へ帰国する。西暦1,482年4月頃、小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原元長に師事し、奥義を学んだ。6月13日、吉見信頼が、大内館での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。
  • 大内政弘 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。5月26日、大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返る。6月18日、仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条衆を率いて、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍に寝返る。西暦1,477年5月9日、室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。12月16日、西軍の諸将が一斉に下国する。大内政弘は、陣所を引き払って伊予国へ向かった。西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津にて大内政弘を出迎え、富田保の自身の屋敷で持て成した。大内政弘は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内政弘と陶弘護は義兄弟の契りを交わした。4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内政弘は此れを認めた。大内政弘は、陶弘護に筑前国を任せ、陶弘護は忠節を尽くした。10月頃、大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。陶弘護は先駆けとして戦った。10月20日、大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。此れを受けて、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有・頼有の息子帥律師を始めとする人間が、大内政弘の下に祝言を述べる為にやって来た。西暦1,482年4月頃、小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。西暦1,483年4月15日、大内政弘が、伊勢神宮参詣者への餞別を禁止する。
  • 大内教幸 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。大内教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶弘護は応じなかった。又3月頃、足利義政が、大友親繁・益田兼堯の2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。12月12日、大内教幸が、安芸国へ向けて出発する。西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が、鞍掛山にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野へ敗走した。大内教幸は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。1月19日、陶弘護率いる軍が、江良城にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。4月頃、仁保十郎が、東福寺の東軍の陣中に加わる。其の後仁保十郎は西下し、大内家の領国を経由し大内教幸と合流した。西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍する。吉見信頼は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。2月5日、陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳に入った。西暦1,476年9月7日、室町幕府が、大内教幸に対し、豊前国での停戦を命じる。西暦1,477年5月9日、室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。西暦1,478年12月26日、大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられる。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。
  • 大内義興 西暦1,482年6月13日、吉見信頼が、大内館での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見信頼を斬殺した。西暦1,495年3月24日、大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。
  • 大内武治 西暦1,470年6月18日、仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条衆を率いて、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍に寝返る。
  • 大内高弘 西暦1,495年3月24日、大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。
  • 加嘉丸 西暦1,470年3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に、「足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい」という主旨の書簡を送る。
  • 陶武護 西暦1,495年3月24日、大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。
  • 右田弘詮 西暦1,480年1月頃、陶弘護が、筑前国守護代職を、自身の弟右田弘詮に譲る。
  • 内藤武盛 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。
  • 内藤弘矩 西暦1,470年3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。西暦1,482年6月13日、吉見信頼が、大内館での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見信頼を斬殺した。西暦1,495年3月24日、大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。
  • 内藤弘和 西暦1,495年3月24日、大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。
  • 吉見信頼 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が、鞍掛山にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野へ敗走した。1月19日、陶弘護率いる軍が、江良城にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍する。吉見信頼は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城を攻撃する。然し吉見信頼は、陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見信頼は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。西暦1,478年4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内政弘は此れを認めた。大内政弘は、陶弘護に筑前国を任せ、陶弘護は忠節を尽くした。西暦1,482年6月頃、吉見信頼が、自身の弟の吉見頼興に家督を譲る。又此の頃信頼は、大内政弘に拝謁した。6月13日、吉見信頼が、大内館での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見信頼を斬殺した。
  • 吉見頼興 西暦1,482年6月頃、吉見信頼が、自身の弟の吉見頼興に家督を譲る。此れにより頼興は、第9代石見吉見家当主となった。6月13日、吉見信頼が、大内館での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。
  • 仁保盛安 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。5月26日、大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返る。西暦1,472年2月5日、陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する計画を立てた。
  • 仁保十郎 西暦1,470年5月26日、大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返る。7月10日、仁保十郎が、奈良を経由して西下する。西暦1,471年4月頃、仁保十郎が、東福寺の東軍の陣中に加わる。其の後仁保十郎は西下し、大内家の領国を経由し大内教幸と合流した。
  • 仁保弘有 西暦1,470年6月18日、仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条衆を率いて、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍に寝返る。
  • 仁保弘名 西暦1,478年10月28日から3日間、陶弘護が、彦山座主頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町の称名寺の門前に梟首する。
  • 周布和兼 西暦1,470年3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。
  • 益田兼堯 西暦1,470年3月頃、足利義政が、大友親繁・益田兼堯の2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。9月1日、陶弘護が、益田兼堯と、兼堯の嫡男益田貞兼の2名に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城を攻撃する。陶弘護の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。
  • 益田貞兼 西暦1,470年9月1日、陶弘護が、益田兼堯と、兼堯の嫡男益田貞兼の2名に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。西暦1,471年12月13日、陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。西暦1,472年1月17日、陶弘護が、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼が高津城等の諸城を攻略、自身の軍による嘉年城攻略という内容の、京都の大内政弘宛の戦況報告の書簡を送る。2月11日、陶弘護が益田貞兼に、近況を伝える書簡を送る。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城を攻撃する。然し吉見信頼は、陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。
  • 小笠原元長 西暦1,482年4月頃、小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原元長に師事し、奥義を学んだ。
  • 少弐政資 西暦1,478年10月20日、大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。少弐達は散り散りとなった。12月26日、大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられる。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は、少弐氏と不仲になった。
  • 少弐政尚 西暦1,476年6月頃、少弐政尚が、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。
  • 大友親繁 西暦1,470年3月頃、足利義政が、大友親繁・益田兼堯の2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。西暦1,478年12月26日、大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられる。
  • 足利義政 西暦1,470年3月頃、足利義政が、大友親繁・益田兼堯の2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に、「足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい」という主旨の書簡を送る。

本書が記録する出来事

  • 大内教幸の挙兵(1,470年3月頃) 大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。大内教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶弘護は応じなかった。
  • 足利義政による大内教幸の援助の命令(1,470年3月頃) 足利義政が、大友親繁・益田兼堯の2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。
  • 吉見信頼への連署の書簡(1,470年3月11日) 内藤弘矩の兄内藤武盛と、豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に、「足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい」という主旨の書簡を送る。
  • 仁保十郎の東軍への寝返り(1,470年5月26日) 大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返る。
  • 仁保弘有の東軍への寝返り(1,470年6月18日) 仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条(現在の広島県東広島市西条地区)衆を率いて、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍に寝返る。
  • 仁保十郎の西下(1,470年7月10日) 仁保十郎が、奈良を経由して西下する。
  • 陶弘護による益田兼堯・益田貞兼への誓書(1,470年9月1日) 陶弘護が、益田兼堯と、兼堯の嫡男益田貞兼の2名に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。
  • 大内教幸の安芸国への出発(1,470年12月12日) 大内教幸が、安芸国へ向けて出発する。
  • 鞍掛山での大内教幸率いる軍の撃破(1,471年1月13日) 陶弘護率いる軍が、鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。大内教幸は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。
  • 江良城での大内教幸の残党の撃破(1,471年1月19日) 陶弘護率いる軍が、江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。
  • 仁保十郎の東軍の陣中への参加(1,471年4月頃) 仁保十郎が、東福寺(現在の京都府京都市東山区本町)の東軍の陣中に加わる。其の後仁保十郎は西下し、大内家の領国を経由し大内教幸と合流した。
  • 陶弘護による益田貞兼への再度の誓書(1,471年12月13日) 陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。
  • 吉見信頼率いる軍の嘉年城への進軍(1,472年1月頃) 吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)に進軍する。吉見信頼は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。
  • 陶弘護による大内政弘宛の戦況報告(1,472年1月17日) 陶弘護が、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼が高津城(現在の島根県益田市高津町上市)等の諸城を攻略、自身の軍による嘉年城攻略という内容の、京都の大内政弘宛の戦況報告の書簡を送る。
  • 長門国阿武郡での大内教幸率いる軍の撃破(1,472年2月5日) 陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代(現在の山口県岩国市錦町・本郷町・美和町周辺)・佐波郡得地(現在の山口県山口市徳地地区)へ加勢する計画を立てた。
  • 陶弘護による益田貞兼への近況の書簡(1,472年2月11日) 陶弘護が益田貞兼に、近況を伝える「大内教幸は西暦1,472年3月4日に没落し、仁保盛安は安芸国の厳島神社の神領地である宮内村(現在の広島県廿日市市)に逃れたが容れられず、安芸武田家の分領の伴(現在の広島県広島市安佐南区)に退く積もりで、現在国衆と申し合わせて、計略の最中である」「仁保から吉見信頼へ宛てた書簡を途中で奪い取ったが、其の書中に玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する事が書かれている。よって、益田殿の一層の奔走を祈る」「吉見信頼の分領並びに庄内郷(現在の山口県防府市牟礼)・黒谷郷(現在の山口県山口市徳地深谷付近)方面への発向計画はどうなっているのか。当方で得た情報によれば、吉見勢は山代及び地福(現在の山口県山口市阿東町大字地福上・大字地福下)方面への進出を企んでいる為、此れを牽制する為にも、背後から吉見領への進攻を急いで貰いたい」という主旨の内容を含む書簡を送る。
  • 吉見信頼による元山城への攻撃(1,476年1月頃) 吉見信頼が、元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃する。然し吉見信頼は、陶弘護に敗れ、吉賀(現在の島根県鹿足郡)・長野(現在の島根県益田市)・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見信頼は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶弘護の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。
  • 少弐政尚の豊前国入り(1,476年6月頃) 少弐政尚が、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。
  • 室町幕府による豊前国での停戦の命令(1,476年9月7日) 室町幕府が、大内教幸に対し、豊前国での停戦を命じる。
  • 室町幕府による大友政親等への命令(1,477年5月9日) 室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。
  • 西軍の諸将の下国(1,477年12月16日) 西軍の諸将が一斉に下国する。大内政弘は、陣所を引き払って伊予国へ向かった。足利義視も、自身の嫡男の足利義稙を伴い、美濃国の土岐成頼の下に亡命し、承隆寺(現在の岐阜県岐阜市茜部寺屋敷)に滞在した。
  • 大内政弘の周防国への帰国(1,478年1月26日) 大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津(現在の山口県柳井市)にて大内政弘を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成した。大内政弘は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内政弘と陶弘護は義兄弟の契りを交わした。陶弘護は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。
  • 吉見信頼の謝罪と和睦の要請(1,478年4月頃) 吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内政弘は此れを認めた。大内政弘は、陶弘護に筑前国を任せ、陶弘護は忠節を尽くした。
  • 大内政弘による豊前国・筑前国への遠征(1,478年10月頃) 大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。陶弘護は先駆けとして戦った。
  • 太宰府での少弐政資率いる軍の撃破(1,478年10月20日) 大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。少弐達は散り散りとなった。此れを受けて、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有・頼有の息子帥律師を始めとする人間が、大内政弘の下に祝言を述べる為にやって来た。
  • 仁保弘名の首級の梟首(1,478年10月28日) 此の日から3日間、陶弘護が、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首する。
  • 豊前国守護職の大内教幸への授与(1,478年12月26日) 大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられる。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は、少弐氏と不仲になった。
  • 筑前国守護代職の右田弘詮への譲渡(1,480年1月頃) 陶弘護が、筑前国守護代職を、自身の弟右田弘詮に譲る。
  • 陶弘護の伊勢神宮参詣(1,481年) 陶弘護が、伊勢神宮を参詣する。
  • 陶弘護の周防国への帰国(1,481年10月頃) 陶弘護が、周防国へ帰国する。
  • 小笠原元長の大内政弘への拝謁(1,482年4月頃) 小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原元長に師事し、奥義を学んだ。
  • 吉見頼興への家督の譲渡(1,482年6月頃) 吉見信頼が、自身の弟の吉見頼興に家督を譲る。此れにより頼興は、第9代石見吉見家当主となった。又此の頃信頼は、大内政弘に拝謁した。
  • 大内館での吉見信頼による陶弘護の刺殺(1,482年6月13日) 吉見信頼が、大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見信頼を斬殺した。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。
  • 大内政弘による伊勢神宮参詣者への餞別の禁止(1,483年4月15日) 大内政弘が、伊勢神宮参詣者への餞別を禁止する。
  • 大内義興による内藤弘矩の殺害(1,495年3月24日) 大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又此の日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。陶弘護の嫡男陶武護が、弘矩・弘和勢力の拡大を恐れ、「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。本書の年表の最後の項目である。

大内教幸の乱から、大内山口館事件へ──
其の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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