家督を譲らず駿府今川館に
居座り続けた小鹿範満、
円満院・足利潤童子の
敵討ちとして足利茶々丸を
切腹に追い込んだ
北条早雲一元化
駿府今川館の急襲から、堀越御所へ──
足利茶々丸の切腹迄を一元化。
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本書について
西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城(現在の静岡県菊川市東横地)・勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)を落として凱旋している最中に、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。氏親は、北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。本書は、此の今川義忠の戦死から、駿府今川館への小鹿範満の居座り、北条早雲による駿府今川館の急襲、足利茶々丸による円満院・足利潤童子の殺害、北条早雲による堀越御所の夜襲を経て、西暦1,498年9月頃の北条早雲による下田への攻撃と、深根城での足利茶々丸の切腹に至る迄を一元化した記録である。
西暦1,476年5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)、上杉政憲は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣した。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は、茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。
西暦1,485年の時点で、足利義澄は、足利政知の家督継承者が足利茶々丸の儘であった為、天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町付近)の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。
西暦1,487年頃、足利政知が、足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに政知は、自身の参男足利潤童子を後嗣とした。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。
西暦1,491年5月11日、足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。8月6日、足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と、足利潤童子の2名を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。
西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。北条早雲は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るい、足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴み、内部工作を行なった。10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。11月19日頃、北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は、上杉顕定や、上杉顕定を支持する伊豆国人等と共に応戦した。北条早雲は戦いを優位に進め、足利茶々丸は堀越御所を捨て、守山(現在の静岡県伊豆の国市中條付近)方面に逃亡した。北条早雲は、韮山城(現在の静岡県伊豆の国市韮山)を居城に定めた。
西暦1,498年9月頃、北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城(現在の静岡県下田市堀之内)にて切腹した。今川義忠の戦死から、駿府今川館への小鹿範満の居座り、北条早雲による駿府今川館の急襲、足利茶々丸による円満院・足利潤童子の殺害、北条早雲による堀越御所の夜襲を経て、深根城での足利茶々丸の切腹に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 北条早雲 西暦1,476年5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。北条早雲は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るい、足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所の内情を掴み、内部工作を行なった。10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。11月19日頃、北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は、上杉顕定や、上杉顕定を支持する伊豆国人等と共に応戦した。北条早雲は戦いを優位に進め、足利茶々丸は堀越御所を捨て、守山方面に逃亡した。北条早雲は、韮山城を居城に定めた。西暦1,498年9月頃、北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城にて切腹した。
- 今川義忠 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。
- 小鹿範満 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。
- 小鹿範頼 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。
- 小鹿範慶 西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。
- 今川氏親 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。氏親は、北川殿と共に、小川城主長谷川正宣の下に身を寄せた。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社にて和睦した。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 北川殿 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。氏親は、北川殿と共に、小川城主長谷川正宣の下に身を寄せた。西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。
- 長谷川正宣 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。氏親は、北川殿と共に、小川城主長谷川正宣の下に身を寄せた。
- 太田道灌 西暦1,476年4月29日、今川義忠が、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中に、塩買坂にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城、上杉政憲は狐ヶ崎に布陣した。西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。
- 上杉定正 西暦1,476年5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 曽我兵庫 西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。
- 上杉顕定 西暦1,486年8月25日、上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館に招く。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。西暦1,493年11月19日頃、北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は、上杉顕定や、上杉顕定を支持する伊豆国人等と共に応戦した。
- 上杉政憲 西暦1,476年5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城、上杉政憲は狐ヶ崎に布陣した。西暦1,480年7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は、茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。
- 足利政知 西暦1,476年5月頃、太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。西暦1,480年7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は、茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。西暦1,485年の時点で、足利義澄は、足利政知の家督継承者が足利茶々丸の儘であった為、天龍寺香厳院の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,487年頃、足利政知が、足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに政知は、自身の参男足利潤童子を後嗣とした。西暦1,491年5月11日、足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。
- 足利茶々丸 西暦1,480年7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は、茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。西暦1,485年の時点で、足利義澄は、足利政知の家督継承者が足利茶々丸の儘であった為、天龍寺香厳院の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,487年頃、足利政知が、足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに政知は、自身の参男足利潤童子を後嗣とした。西暦1,491年5月11日、足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。8月6日、足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と、足利潤童子の2名を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。北条早雲は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るい、足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所の内情を掴み、内部工作を行なった。11月19日頃、北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は、上杉顕定や、上杉顕定を支持する伊豆国人等と共に応戦した。北条早雲は戦いを優位に進め、足利茶々丸は堀越御所を捨て、守山方面に逃亡した。北条早雲は、韮山城を居城に定めた。西暦1,498年9月頃、北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城にて切腹した。
- 足利潤童子 西暦1,480年7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。西暦1,487年頃、足利政知が、足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに政知は、自身の参男足利潤童子を後嗣とした。西暦1,491年8月6日、足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と、足利潤童子の2名を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 円満院 西暦1,491年8月6日、足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と、足利潤童子の2名を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。
- 足利義澄 西暦1,480年7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。西暦1,485年の時点で、足利義澄は、足利政知の家督継承者が足利茶々丸の儘であった為、天龍寺香厳院の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,491年8月6日、足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と、足利潤童子の2名を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。
- 足利義政 西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。7月頃、足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。
- 足利義尚 西暦1,487年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。
- 葛山氏 西暦1,493年10月頃、北条早雲が、自身の居城である興国寺城にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
本書が記録する出来事
- 今川義忠の戦死(1,476年4月29日) 今川義忠が、横地城(現在の静岡県菊川市東横地)・勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)を落として凱旋している最中に、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。其の後、家督相続を巡り、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と、今川氏親の2名が対立した。小鹿範満は、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。氏親は、北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。
- 太田道灌の駿河国への出陣(1,476年5月頃) 太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田道灌は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)、上杉政憲は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣した。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦した。
- 今川氏親の家督継承を約束する御教書(1,480年2月1日) 北条早雲の工作により、足利義政名義の、今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し、小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。
- 足利義澄の上洛と足利義政との対面(1,480年7月頃) 足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は、茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。
- 足利義澄の天龍寺香厳院跡取り(1,485年) 此の年の時点で、足利義澄は、足利政知の家督継承者が足利茶々丸の儘であった為、天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町付近)の跡取りとなる事が決まっていた。
- 太田道灌の糟屋館への招致(1,486年8月25日) 上杉定正が、太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招く。定正は、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至った。そして、定正の配下曽我兵庫が、太田道灌が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田道灌は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。又太田道灌は、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは私のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。
- 足利茶々丸の廃嫡と幽閉(1,487年頃) 足利政知が、足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに政知は、自身の参男足利潤童子を後嗣とした。
- 駿府今川館の急襲(1,487年11月24日) 北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川氏親は其の後元服し、自身の叔父である北条早雲を後見役として、領国経営を進めた。
- 足利政知の病死(1,491年5月11日) 足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。
- 円満院・足利潤童子の殺害(1,491年8月6日) 足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と、足利潤童子の2名を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。
- 足利茶々丸征伐の命令(1,493年7月頃) 足利義澄が、円満院・足利潤童子の2名の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。北条早雲は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るい、足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴み、内部工作を行なった。
- 興国寺城での作戦立案(1,493年10月頃) 北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして北条早雲は、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 堀越御所の夜襲(1,493年11月19日頃) 北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は、上杉顕定や、上杉顕定を支持する伊豆国人等と共に応戦した。北条早雲は戦いを優位に進め、足利茶々丸は堀越御所を捨て、守山(現在の静岡県伊豆の国市中條付近)方面に逃亡した。北条早雲は、韮山城(現在の静岡県伊豆の国市韮山)を居城に定めた。
- 下田への攻撃(1,498年9月頃) 北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城(現在の静岡県下田市堀之内)にて切腹した。本書の年表の最後の項目である。
今川義忠の戦死から、深根城へ──
小鹿範満と北条早雲を一元化。
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