家督を譲らず駿府今川館に居座り続けた小鹿範満、円満院・足利潤童子の敵討ちとして足利茶々丸を切腹に追い込んだ北条早雲一元化
御教書は出た。然し館は空かなかった──
駿府今川館の急襲から堀越御所の夜襲までを一元化。
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本書について
西暦1,476年4月29日、今川義忠が横地城(現在の静岡県菊川市東横地)・勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)を落として凱旋している最中、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて横地氏・勝間田氏の残党に討たれ、戦死した。其の後、家督相続を巡って、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と今川氏親が対立する。小鹿は太田道灌と扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行し、氏親は北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下へ身を寄せた——本書は、此の家督争いから、西暦1,498年9月頃の深根城での足利茶々丸の切腹までを、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,476年5月頃、太田道灌が上杉定正の命により、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。上杉政憲もまた足利政知の命を受け、300名の兵と共に駿河国へ入った。太田は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)に、上杉は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣する。此処へ、室町幕府の意向を受けた北条早雲が駿河国へ下向した。今川氏親が成人する迄は小鹿範満が家督を代行する——其の案によって、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦が成った。
西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、足利義政名義で今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられる。然し小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。書面は出た。館は空かなかったのである。
同じ年の7月頃、足利政知が足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させた。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、参男で義澄の同母弟である足利潤童子を後継者に定める。上杉政憲は茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。もっとも西暦1,485年の時点でも、足利政知の家督継承者は足利茶々丸の儘であった為、足利義澄は天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町付近)の跡取りとなる事が決まっていた。
西暦1,486年8月25日、上杉定正が太田道灌を扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招く。太田の功績を妬み、謀反の疑いを掛けての招きであった。定正の配下曽我兵庫が、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な太田を襲う。太田は「当方滅亡」と言って絶命した。背景には、第11代山内上杉家当主上杉顕定が定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた事、そして太田自身も、自らの働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは自分のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった事がある。
西暦1,487年頃、足利政知が足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉した。代わりに参男足利潤童子を後嗣とする。そして同年11月24日、北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に駿府今川館の小鹿範満を急襲した。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害する。此れにより小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川は其の後元服し、自身の叔父である北条を後見役として、領国経営を進めた。西暦1,476年の対立から、十一年余であった。
西暦1,491年5月11日、足利政知が病死する。足利茶々丸は其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。同年8月6日、茶々丸は足利政知の側室円満院と足利潤童子を殺害する。茶々丸は正室の子であり、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言する。
西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院と足利潤童子の敵討ちとして、茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じた。北条は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るって足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事、そして堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴んで、内部工作を行なう。同年10月頃、北条は自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付けて、500名の軍勢で出陣した。
同年11月19日頃、北条早雲率いる軍は、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は上杉顕定や、上杉を支持する伊豆国人等と共に応戦した。然し北条が戦いを優位に進め、茶々丸は堀越御所を捨てて守山(現在の静岡県伊豆の国市中條付近)方面へ逃亡する。北条は韮山城(現在の静岡県伊豆の国市韮山)を居城に定めた。そして西暦1,498年9月頃、北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方へ引き渡された上で、深根城(現在の静岡県下田市堀之内)にて切腹した。館を明けぬ男を急襲し、御所の主を追い詰めた二十二年——本書は、其の全過程を一冊に束ねている。
登場人物
- 北条早雲 本書の中心人物。西暦1,476年5月頃、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、浅間神社での和睦を成立させた。西暦1,480年2月1日には工作によって足利義政名義の御教書を出させ、西暦1,487年11月24日、駿府今川館の小鹿範満を急襲して自害に追い込む。西暦1,493年には足利義澄の命を受けて堀越御所を夜襲し、西暦1,498年9月頃、下田を攻めて足利茶々丸を深根城での切腹に追い込んだ。
- 今川義忠 西暦1,476年4月29日、横地城・勝間田城を落として凱旋している最中、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて横地氏・勝間田氏の残党に討たれ戦死した。其の死が、小鹿範満と今川氏親の家督相続争いを招いた、本書の起点である。
- 小鹿範満 小鹿範頼の嫡男。西暦1,476年、今川義忠の死後の家督相続を今川氏親と争い、太田道灌・扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行した。西暦1,480年2月1日に今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられた後も家督を譲らず、駿府今川館に居座り続ける。西暦1,487年11月24日、北条早雲の急襲を受け、小鹿範慶と共に自害した。
- 小鹿範頼 小鹿範満・小鹿範慶の父。西暦1,487年11月24日、其の二人の子が駿府今川館にて自害し、小鹿今川家は断絶した。
- 小鹿範慶 小鹿範頼の弐男で、小鹿範満の弟。西暦1,487年11月24日、北条早雲の急襲によって追い詰められ、兄範満と共に自害した。
- 今川氏親 今川義忠の子。西暦1,476年の家督相続争いに際しては北川殿と共に小川城主長谷川正宣の下へ身を寄せた。西暦1,487年11月24日の小鹿範満の自害により家督を相続し、元服の後は叔父の北条早雲を後見役として領国経営を進めた。西暦1,493年10月頃には、茶々丸征伐に向かう北条へ援軍を送っている。
- 北川殿 今川氏親の母。西暦1,476年の家督相続争いでは氏親と共に小川城主長谷川正宣の下へ身を寄せた。西暦1,487年11月24日の駿府今川館急襲は、北川殿が北条早雲に助力を要請した事に始まる。
- 長谷川正宣 小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主。西暦1,476年の家督相続争いに際し、北川殿と今川氏親を自らの下に迎え入れた。
- 太田道灌 扇谷上杉家の重臣。西暦1,476年、小鹿範満の家督代行を支援し、5月頃には上杉定正の命により300名の兵を率いて駿河国へ出陣、八幡山城に布陣した。西暦1,486年8月25日、糟屋館に招かれ、上杉定正の配下曽我兵庫に襲われて「当方滅亡」と言い残して絶命した。
- 上杉定正 扇谷上杉家の当主。西暦1,476年5月頃に太田道灌へ駿河国出陣を命じた。西暦1,486年8月25日には、太田の功績を妬み謀反の疑いを掛けて糟屋館に招き、配下の曽我兵庫に襲わせて之を討った。西暦1,493年10月頃には、足利茶々丸征伐に向かう北条早雲へ援軍を送っている。
- 曽我兵庫 上杉定正の配下。西暦1,486年8月25日、糟屋館にて、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な太田道灌を襲った。
- 上杉顕定 第11代山内上杉家当主。上杉定正に対し「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言し、西暦1,486年8月25日の太田道灌暗殺の一因を作った。西暦1,493年11月19日頃の堀越御所夜襲では、足利茶々丸と共に北条早雲勢に応戦している。
- 上杉政憲 西暦1,476年5月頃、足利政知の命により300名の兵を率いて駿河国へ入り、狐ヶ崎に布陣した。西暦1,480年7月頃、足利茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。
- 足利政知 堀越公方。西暦1,480年7月頃に足利義澄を上洛させて足利義政と対面させ、嫡男足利茶々丸を廃嫡して参男足利潤童子を後継者に定めた。西暦1,487年頃には茶々丸を素行不良を理由に改めて廃嫡し、土牢へ幽閉している。西暦1,491年5月11日に病死した。
- 足利茶々丸 足利政知の嫡男で、正室の子。西暦1,480年7月頃と西暦1,487年頃の二度にわたって廃嫡され、土牢に幽閉された。西暦1,491年5月11日、政知の病死のどさくさに紛れて脱出し、8月6日に円満院・足利潤童子を殺害して武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言する。西暦1,493年11月19日頃に堀越御所を追われ、西暦1,498年9月頃、深根城にて切腹した。
- 足利潤童子 足利政知の参男で、円満院の子。足利義澄の同母弟にあたる。西暦1,480年7月頃と西暦1,487年頃、廃嫡された足利茶々丸に代わって後継者・後嗣に定められた。西暦1,491年8月6日、茶々丸に殺害された。
- 円満院 足利政知の側室で、足利義澄・足利潤童子の母。西暦1,491年8月6日、足利茶々丸に潤童子と共に殺害された。西暦1,493年7月頃の足利義澄による茶々丸征伐命令は、円満院と潤童子の敵討ちとして発せられている。
- 足利義澄 足利政知の弐男で、円満院の子。西暦1,480年7月頃に上洛して足利義政と対面した。西暦1,485年の時点では天龍寺香厳院の跡取りとなる事が決まっていた。西暦1,493年7月頃、母円満院と弟足利潤童子の敵討ちとして、北条早雲に足利茶々丸の征伐を命じた。
- 足利義政 室町幕府将軍。西暦1,480年2月1日、北条早雲の工作により、其の名義で今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられた。同年7月頃には、足利政知が上洛させた足利義澄と対面している。
- 足利義尚 室町幕府将軍。西暦1,487年11月24日、北川殿の要請を受けた北条早雲による駿府今川館急襲に、承認を与えた。
- 葛山氏 西暦1,493年10月頃、興国寺城で足利茶々丸征伐の作戦を練る北条早雲に対し、今川氏親・上杉定正と共に援軍を送った。
本書が記録する出来事
- 塩買坂での今川義忠の戦死と家督争い 西暦1,476年4月29日。今川義忠が横地城・勝間田城を落として凱旋する最中、塩買坂にて横地氏・勝間田氏の残党に討たれ戦死した。以後、小鹿範頼の嫡男小鹿範満と今川氏親が家督相続を巡って対立し、小鹿は太田道灌・扇谷上杉家の支援で家督を代行、氏親は北川殿と共に小川城主長谷川正宣の下へ身を寄せた。
- 駿河国への出陣と浅間神社の和睦 西暦1,476年5月頃。太田道灌が上杉定正の命で300名を率いて駿河国へ出陣し八幡山城に、上杉政憲が足利政知の命で300名と共に狐ヶ崎に布陣した。室町幕府の意向を受けて下向した北条早雲により、今川氏親の成人まで小鹿範満が家督を代行する案で、浅間神社にて和睦が成立した。
- 御教書の発出と駿府今川館への居座り 西暦1,480年2月1日。北条早雲の工作により、足利義政名義で今川氏親の家督継承を約束する御教書が発せられた。然し小鹿範満は家督を譲らず、駿府今川館に居座り続けた。本書の題名が指す場面の一つである。
- 足利茶々丸の廃嫡と上杉政憲の自害 西暦1,480年7月頃。足利政知が足利義澄を上洛させて足利義政と対面させ、嫡男足利茶々丸を廃嫡して、参男で義澄の同母弟である足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、自害した。
- 足利義澄の天龍寺香厳院跡取り決定 西暦1,485年。此の年の時点でも足利政知の家督継承者は足利茶々丸の儘であった為、足利義澄は天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町付近)の跡取りとなる事が決まっていた。
- 糟屋館における太田道灌の暗殺 西暦1,486年8月25日。上杉定正が、功績を妬み謀反の疑いを掛けて太田道灌を糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招き、配下の曽我兵庫が入浴後の無防備な太田を襲った。太田は「当方滅亡」と言って絶命する。第11代山内上杉家当主上杉顕定の讒言と、太田自身が定正の意見を軽んじていた事が背景にあった。
- 足利茶々丸の再廃嫡と土牢幽閉 西暦1,487年頃。足利政知が足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉した。代わりに参男足利潤童子を後嗣としている。
- 駿府今川館の急襲と小鹿範満の自害 西暦1,487年11月24日。北川殿の助力要請を受け足利義尚の承認を得た北条早雲が、同志と共に駿府今川館の小鹿範満を急襲した。範満は小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害し、小鹿今川家は断絶。今川氏親が家督を相続し、元服後は叔父の北条を後見役として領国経営を進めた。
- 足利政知の病死と茶々丸の脱出 西暦1,491年5月11日。足利政知が病死し、足利茶々丸は其のどさくさに紛れて土牢から脱出した。
- 円満院・足利潤童子の殺害と堀越公方の宣言 西暦1,491年8月6日。足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と足利潤童子を殺害した。茶々丸は正室の子であり、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子である。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。
- 足利義澄による茶々丸征伐の命と内部工作 西暦1,493年7月頃。足利義澄が、円満院と足利潤童子の敵討ちとして、茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に征伐を命じた。北条は下調べを行い、茶々丸が堀越公方の重臣達と上手くいっておらず領民が疲弊している事や、堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴んで内部工作を行なった。
- 興国寺城での作戦と500名の出陣 西暦1,493年10月頃。北条早雲が居城の興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練り、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
- 堀越御所の夜襲と韮山城の居城化 西暦1,493年11月19日頃。北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲した。足利茶々丸は上杉顕定や伊豆国人等と応戦したが、北条が戦いを優位に進め、茶々丸は御所を捨てて守山(現在の静岡県伊豆の国市中條付近)方面へ逃亡。北条は韮山城(現在の静岡県伊豆の国市韮山)を居城に定めた。
- 下田攻撃と深根城における足利茶々丸の切腹 西暦1,498年9月頃。北条早雲が下田を攻撃した。足利茶々丸は身柄を武田方から北条方へ引き渡された上で、深根城(現在の静岡県下田市堀之内)にて切腹した。本書の終点である。
塩買坂の戦死から、韮山城、そして深根城の切腹へ──
北条早雲の二十二年の全過程を一元化。
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