河野教通一元化
西暦1,435年、父の討死が全ての始まりだった──
伊予国守護職を巡る河野教通六十五年の攻防を一元化。
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本書について
西暦1,435年7月24日、河野通久が大友持直征伐の最中に討死した。嫡男の河野教通は其の場で家督を継ぎ、第10代室町幕府伊予国守護に就任して河野氏宗家の当主となる。室町幕府は、父の討死の賞として、大友の闕所である豊後国臼杵荘(現在の大分県臼杵市・津久見市)を教通に与えた。本書は、此の家督相続を起点として、西暦1,500年2月19日に湯築城で病没する迄の六十五年を、年月日単位で一元化した記録である。
家督を継いだ教通は、幕府方の武将として畿内を転戦した。西暦1,438年12月に出仕の為上洛し、翌年5月10日には西園寺公広と共に細川持常率いる軍へ合流して吉野山に到着、越智維通征伐に加わる。此の時教通は、諸国の軍勢の間で喧嘩口論が有る故に厳重な注意を求める書簡と、吉野発向に就いて細川成之と協議せよという書簡を受け取っていた。西暦1,440年9月5日には、足利義教から反乱平定の軍功として近江国馬淵荘(現在の滋賀県近江八幡市)を与えられる。西暦1,441年7月28日には赤松満祐征伐の為に播磨国へ向かい、9月25日、山名持豊と共に城山城(現在の兵庫県たつの市新宮町下野田)を攻めた。満祐は嫡男赤松教康や赤松則繁を逃した上で、一族69名と共に自害している。
然し、教通の生涯を規定したのは畿内の戦ではなく、伊予国の内訌であった。西暦1,441年8月14日、教通は幕府の命を受け、嘉吉の乱での赤松家征伐に遅参した事を理由として、予州家当主河野通春の征伐を開始する。以後、伊予国守護職は両者の間を往復した。西暦1,450年2月7日、幕府は伊予国宇和郡等を教通に返付し、同年9月24日、足利義政は教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させる。幕府は吉川経信・小早川盛景・杉原伯耆守等に、伊予国へ渡って教通を支援する様命じ続けた。翌西暦1,451年、村上吉資を含む因島・来島・能島の村上三家が予州家方へ寝返ると、教通率いる軍は来島村上家の本拠地来島城(現在の愛媛県今治市来島)を攻めて落城させ、7月には小早川盛景・重見通実・益田兼堯等の支援を得て、通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪い返した。
西暦1,453年6月、事態は一変する。細川勝元が足利義政の意向を聞かぬまま御教書・奉書を偽造し、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補したのである。細川の此の行動は足利との対立を生み、細川は管領職を辞任しようとしたが、慰留により思い留まった。追い打ちを掛ける様に、西暦1,455年4月12日、教通の後ろ盾であった畠山持国が死去し、畠山家の権勢の衰退が顕著となる。西暦1,456年頃、教通は重見通実と共に野間郡菊万(現在の愛媛県今治市菊間町地区)へ逃れた。西暦1,461年1月、教通は幕府へ申状を提出し、古代以来の先祖の勲功を列挙した上で、伊予国守護職と御恩地である豊後国臼杵荘の返還を要求する。同年9月、大友親繁が其の要求を退ける様、幕府へ訴え出た。
西暦1,466年11月3日、武田元綱率いる軍が風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃し、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に2週間程の戦闘が続いた。教通は上洛していた為、弟の河野通生が風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努め、忽那通光と山崎城主東俊之が奮戦する。翌西暦1,467年9月8日、大内政弘は河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率いて大物浦に至り、上陸を阻もうとする細川勝元・赤松政則の軍を撃破した。大内は尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣し、後に梶井門跡を本陣とする。応仁の乱である。西暦1,468年12月、通春は教通へ書簡を送り、西軍への同心を促した上で、家名を上げる上では私と教通殿の何方がなっても同じだと書き送った。
西暦1,470年、教通は第9代李氏朝鮮国王成宗に対して使者を送る。西暦1,473年12月11日には東幕府から伊予国守護職の補任状を受け取り、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。晩年の記録は、寺社との関わりに満ちている。浦戸神社の造営、大山祇神社への馬の寄進、石手寺(現在の愛媛県松山市石手)の再興、国分寺(現在の愛媛県今治市国分)での飲酒の禁止、日尾八幡神社・善応寺・仙遊寺・性尋寺への禁制、観念寺(現在の愛媛県西条市上市)の壁書。西暦1,484年に出家し、西暦1,500年2月19日、湯築城にて病死した。守護職を巡って争い続けた六十五年の全軌跡を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 河野教通 本書の中心人物。西暦1,435年7月24日、父河野通久の討死により家督を継ぎ、第10代室町幕府伊予国守護に就任して河野氏宗家当主となった。予州家当主河野通春との抗争の中で守護職を追われ、又取り戻し、西暦1,473年12月11日には東幕府から補任状を受けて第17代室町幕府伊予国守護となる。西暦1,484年に出家し、西暦1,500年2月19日、湯築城にて病死した。
- 河野通久 教通の父。西暦1,435年7月24日、大友持直征伐の最中に戦死した。室町幕府は、其の討死の賞として、大友の闕所である豊後国臼杵荘(現在の大分県臼杵市・津久見市)を、家督を継いだ教通に与えている。
- 河野通春 予州家当主。西暦1,441年8月14日、嘉吉の乱での赤松家征伐に遅参した事を理由に、教通から征伐を受けた。西暦1,453年6月、細川勝元が御教書・奉書を偽造して第13代室町幕府伊予国守護に改補した人物であり、応仁の乱では摂津国へ向かい、西暦1,468年12月には教通へ西軍同心を促す書簡を送った。
- 細川勝元 管領。西暦1,453年6月、足利義政の意向を聞かず御教書・奉書を偽造して、河野通春を伊予国守護に据えた。此の行動は足利との対立を生み、細川は管領職を辞任しようとしたが、慰留により思い留まった。西暦1,467年9月8日、大物浦で大内政弘率いる瀬戸内水軍に敗れている。
- 畠山持国 河野教通の後ろ盾。西暦1,455年4月12日に死去し、家督は畠山義就が継いだ。持国の死去により畠山家の権勢の衰退が顕著となり、教通は伊予国での支えを失う事となった。
- 足利義教 室町幕府将軍。西暦1,440年9月5日、反乱の平定の軍功として、河野教通に近江国馬淵荘(現在の滋賀県近江八幡市)を与えた。
- 足利義政 室町幕府将軍。西暦1,450年8月20日に吉川経信へ、9月24日に小早川盛景へ、伊予国へ渡り河野教通を支援する様命じ、教通を第12代室町幕府伊予国守護として再任させた。西暦1,453年、細川勝元の守護職改補に反発するも、細川の管領辞任は慰留している。
- 村上吉資 来島村上家の武将。西暦1,449年7月に佐礼城(現在の愛媛県今治市玉川町別所)を攻略し、河野教通から戦功を賞された。然し西暦1,451年、因島・来島・能島の村上三家と共に予州家方へ寝返り、西暦1,453年には伊予国へ帰国する河野通春を援助している。
- 河野通生 教通の弟。西暦1,466年11月、教通が上洛していた間、風早郡・忽那島の水軍を指揮して武田元綱の襲撃を防ぎ、其の戦況を教通に報告した。西暦1,465年には河野通春と共に土居家分の地頭職を善応寺へ寄進し、応仁の乱では通春と共に摂津国へ向かっている。
- 忽那通光 忽那島の武将。西暦1,466年11月の恵良城での戦いに奮戦し、教通から感状と、出作(現在の愛媛県伊予郡松前町)・鹿子の所領を与えられた。西暦1,468年3月6日には兄忽那通賢の所領を継ぎ、忽那島の東浦検断職を安堵されている。
- 忽那通定 忽那島の武将。西暦1,444年6月5日、河野教通から四松之跡の名田職と、山崎・小淡・松前の3ヶ所の当知行を与えられた。同年10月には忽那島の東分検断職を安堵され、統治・裁判権の行使を認められている。
- 重見通実 河野教通方の武将。西暦1,451年7月、小早川盛景・森山氏・竹原盛景と連携して通春方の抵抗勢力を制圧し、宇和郡の大野氏と喜多郡の森山氏の連合体制が出来上がった旨を伝えた。西暦1,456年頃、教通と共に野間郡菊万(現在の愛媛県今治市菊間町地区)へ逃れている。
- 小早川盛景 安芸国の武将。西暦1,450年9月24日と西暦1,451年5月11日、室町幕府から伊予国へ渡って河野教通を支援する様命じられた。城郭20ヶ所余の奪取に尽力し、教通は其の尽力に謝意を表して功績を幕府へ報告している。
- 大内政弘 西暦1,467年9月8日、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率いて大物浦へ至り、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍を撃破した。其の後尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣し、後に梶井門跡を本陣としている。
- 大友親繁 豊後国の大名。西暦1,461年9月、河野教通による豊後国臼杵荘の返還要求を退けて自らの領知を認める様、室町幕府に訴えた。
- 西園寺公広 西暦1,439年5月10日の越智維通征伐、西暦1,441年7月28日の赤松満祐征伐と、河野教通と行動を共にして畿内へ出陣した武将。
- 武田元綱 西暦1,466年11月3日、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃した武将。戦闘は恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。
本書が記録する出来事
- 河野通久の討死と家督相続(西暦1,435年) 大友持直征伐の最中に河野通久が戦死し、嫡男河野教通が家督を継いで第10代室町幕府伊予国守護に就任した。室町幕府は討死の賞として、大友の闕所である豊後国臼杵荘を教通に与えている。本書の起点となる出来事。
- 越智維通征伐(西暦1,439年) 河野教通と西園寺公広が細川持常率いる軍に合流し、吉野山に到着した。最終的に越智維通の弟越智次郎は自決し、維通は討ち取られている。
- 嘉吉の乱と城山城攻め(西暦1,441年) 赤松満祐征伐の為、河野教通と西園寺公広等が播磨国へ出陣。9月25日、山名持豊と共に城山城を攻め、満祐は嫡男赤松教康や赤松則繁を逃した上で一族69名と共に自害した。
- 予州家河野通春の征伐開始(西暦1,441年) 嘉吉の乱での赤松家征伐に遅参した事を理由として、河野教通が室町幕府の命を受け、予州家当主河野通春の征伐を開始した。以後36年に及ぶ伊予国の内訌の始まり。
- 村上三家の離反と来島城の落城(西暦1,451年) 村上吉資を含む因島・来島・能島の村上三家が予州家方へ寝返り、河野教通率いる軍は来島村上家の本拠地来島城を攻撃して落城させた。同年7月には、通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取している。
- 御教書偽造による守護職改補(西暦1,453年) 細川勝元が足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して河野通春を第13代室町幕府伊予国守護に改補した。細川は足利との対立から管領職を辞任しようとしたが、慰留により思い留まっている。
- 畠山持国の死去(西暦1,455年) 河野教通の後ろ盾であった畠山持国が死去し、家督は畠山義就が継いだ。此れにより畠山家の権勢の衰退が顕著となり、翌年頃、教通は重見通実と共に野間郡菊万へ逃れる事となる。
- 伊予国守護職返還の申状(西暦1,461年) 河野教通が室町幕府へ申状を提出し、古代以来の先祖の勲功を列挙した上で、伊予国守護職と御恩地である豊後国臼杵荘の返還を要求した。同年9月、大友親繁が此の要求を退ける様訴え出ている。
- 恵良城の戦い(西暦1,466年) 武田元綱率いる軍が風早郡を襲撃し、恵良城を中心に2週間程の戦闘が続いた。上洛中の教通に代わり河野通生が水軍を指揮し、忽那通光と山崎城主東俊之が奮戦。教通は12月に忽那通光へ感状を与えた。
- 大物浦の戦いと応仁の乱(西暦1,467年) 大内政弘が河野水軍・村上水軍・三島水軍等を率い、難波・水堂にて細川勝元・赤松政則の軍を撃破。尼崎を焼き払った後、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣した。戦線は摂津国・丹波国・近江国へと広がってゆく。
- 西軍同心を促す書簡(西暦1,468年) 河野通春が河野教通へ書簡を送り、応仁の乱での西軍同心の可否を問うた。足利義政・足利義視の双方が将軍となった現状に触れ、家名を上げる上では自分と教通の何方が守護になっても同じだと書き送っている。
- 李氏朝鮮への遣使(西暦1,470年) 河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に対して使者を送った。
- 東幕府による守護職補任(西暦1,473年) 河野教通が東幕府からの伊予国守護職の補任状を受け取り、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
- 石手寺の再興(西暦1,480年〜1,481年) 河野教通が石手寺(現在の愛媛県松山市石手)の再興に着手し、翌年5月31日に造営が完了した。本堂・山門等が再建されている。
- 出家と湯築城での病死(西暦1,484年・西暦1,500年) 西暦1,484年に河野教通が出家。以後も国分寺・法華寺・仙遊寺・性尋寺・観念寺等への証判・禁制・安堵を重ね、西暦1,500年2月19日、湯築城にて病死した。
嘉吉の乱から応仁の乱、そして湯築城の終焉まで──
河野教通と予州家の抗争の全軌跡を一元化。
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