電子書籍「神保長誠一元化」の表紙

神保長誠一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,459年10月頃〜1,501年12月28日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,026年1月28日

畠山政久死後の政長擁立・政長管領罷免と屋敷防衛・上御霊神社布陣助言・御霊合戦奮戦と上杉定正による武勇激賞・氷見の鞍川氏鎮定・射水郡婦負郡守護代就任・倉垣荘押領・中風療養・足利義稙の放生津奉迎と正光寺改装による越中公方樹立・畠山基家侵攻撃退・足利義稙細川政元和平交渉の中心・倉川兵庫助の上洛工作・越中国病没──
越中の守護代として畠山政長と足利義稙を支えた42年を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1,459年10月、畠山政久死去後の後継として神保長誠等が畠山政長を擁立した日から、西暦1,501年12月28日、神保長誠が越中国にて病没した日まで。本書は、神保長誠の事績——畠山政久死去後の遊佐長直・神保長誠・成身院光宣3名の支持による畠山政長擁立と3名の政長への従順奉公、足利義政による畠山政長の管領職罷免及び春日万里小路屋敷の畠山義就への明け渡し命令、政長の拒否と神保長誠等による自邸防衛強化、足利義政の山名宗全邸酒宴出席と義就・山名支持表明、神保長誠の助言に基づく政長屋敷焼却と一族・成身院光宣含む2,000名の上御霊神社布陣、畠山義就率いる兵3,000名余による上御霊神社襲撃と朝倉孝景・山名宗全・山名政豊の加勢・細川勝元の静観・政長の拝殿放火と細川屋敷退却・足利義視の義就支援による細川の面目失墜、神保長誠の奮戦と上杉定正による武勇激賞、1,472年の神保家家老格である氷見の鞍川氏の能登畠山家影響下での畠山義就方呼応に対する神保長誠の300名余率いての越中国帰国鎮定と射水郡・婦負郡守護代就任及び越中国射水郡倉垣荘等寺社本所領押領による勢力拡大、1,493年2月時点の中風発症と越中国療養、同年8月11日夜嵐の中での足利義稙の上原元秀屋敷脱出と近江国経由越中国放生津下向・神保長誠による奉迎及び正光寺改装による将軍御座所化と越中公方政権樹立、以降の細川政元方畠山基家の越中国侵攻の度重なる撃退と軍事力誇示・京都への金及び献上品送付による足利義稙征夷大将軍復帰への尽力、1,497年7月29日の足利義稙・細川政元間和平交渉開始と神保長誠中心の交渉推進・家臣倉川兵庫助の上洛及び数千貫の工作費各方面散蒔、越中国にての病没迄の約42年間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,459年10月、畠山政久が死去し、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣3名の支持により畠山政長が後継となった。遊佐・神保・成身院は、政長に従順し仕えた。1,467年2月9日、足利義政が畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。同日足利義政は山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利は義就・山名を支持する姿勢を示した。同月21日深夜、畠山政長は春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社に布陣した。

西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)が加勢した。細川勝元は此の段階では動かず静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し細川の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。神保長誠は其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せた。此れを受けて神保長誠は300名余を率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。同年神保は射水郡・婦負郡の守護代に就任し、又越中国射水郡倉垣荘等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。

西暦1,493年2月時点で神保長誠は中風を患い、越中国にて療養を強いられていた。同年8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により上原元秀の屋敷から脱走し京都を脱出した。其の後足利は近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられた。神保は同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。以降神保は細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利の征夷大将軍復帰に尽力した。

西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の間で和平交渉が開始された。足利側は神保長誠を中心に交渉を進め、神保の家臣倉川兵庫助が上洛して工作費として数千貫を各方面に散蒔いた。1,501年12月28日、神保長誠が越中国にて病没し、本書の終結点となった。


登場人物

  • 神保長誠 畠山政長に仕えた重臣で越中国守護代。西暦1,459年10月、遊佐長直・成身院光宣と共に畠山政長を後継に擁立し従順し仕えた。1,467年2月9日の政長管領罷免後は屋敷防衛を強化、同月21日深夜には政長に上御霊神社布陣を助言し、同月22日の御霊合戦で奮戦して上杉定正から武勇を激賞された。1,472年には氷見の鞍川氏の離反を300名余で鎮定し、射水郡・婦負郡守護代に就任、倉垣荘等の寺社本所領を押領して勢力を拡大した。1,493年2月時点で中風を患い越中国にて療養、同年8月11日夜には配下の手配で京都を脱出した足利義稙を放生津で迎え正光寺を将軍御座所に改装、越中公方政権樹立を支えた。以降は畠山基家の越中国侵攻を度々撃退し、金や献上品を京都に送り義稙の征夷大将軍復帰に尽力、1,497年7月29日の義稙・細川政元間の和平交渉では中心的役割を果たし、家臣倉川兵庫助を上洛させ数千貫の工作費を各方面に散蒔かせた。1,501年12月28日、越中国にて病没した、本書の主人公。
  • 畠山政久 畠山家の人物。西暦1,459年10月に死去し、後継問題を引き起こした、本書の発端。
  • 畠山政長 西暦1,459年10月、畠山政久死去後に遊佐長直・神保長誠・成身院光宣3名の支持を得て後継となった人物。1,467年2月9日に足利義政から管領職を罷免され春日万里小路屋敷の義就への明け渡しを命じられたが拒否し、神保長誠等と防衛を強化。同月21日深夜に自邸を焼き払い神保の助言で上御霊神社に布陣、同月22日の義就襲撃に丸一日持ち堪えた末に拝殿に放火して細川屋敷に退却した、本書の神保長誠が仕えた主君。
  • 畠山義就 畠山家の人物。西暦1,467年2月9日、足利義政から畠山政長の管領罷免と春日万里小路屋敷の明け渡しを受ける立場となり、同日山名宗全邸酒宴で足利義政を饗応した。同月22日早朝、兵3,000名余を率いて政長の布陣する上御霊神社を襲撃し、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊の加勢を得て政長を拝殿放火・細川屋敷退却に追い込んだ、本書の御霊合戦の攻撃側の当主。
  • 畠山基家 細川政元方の人物。西暦1,493年8月以降、越中国公方政権樹立後に越中国侵攻を何度も試みたが、神保長誠に悉く撃退された、本書の越中公方期の宿敵。
  • 能登畠山家 西暦1,472年、神保家家老格である氷見の鞍川氏に影響を与え、畠山義就方への呼応を促した勢力、本書の越中神保領の動揺源。
  • 遊佐長直 西暦1,459年10月の畠山政久死去後、神保長誠・成身院光宣と共に畠山政長を後継に擁立した3名の一人。政長に従順し仕えた、本書の畠山政長擁立の同志。
  • 成身院光宣 西暦1,459年10月の畠山政久死去後、遊佐長直・神保長誠と共に畠山政長を後継に擁立した3名の一人。1,467年2月21日深夜の畠山政長の上御霊神社布陣にも2,000名の兵の内の一員として加わった、本書の政長擁立と御霊合戦に於ける同盟者。
  • 足利義政 室町幕府第8代将軍。西暦1,467年2月9日、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた。同日、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し義就に饗応され、義就・山名を支持する姿勢を示した、本書の御霊合戦を招いた公方。
  • 足利義視 西暦1,467年2月22日の御霊合戦に於いて畠山義就を支援した人物。細川勝元は面目を失った、本書の御霊合戦期の幕政の一角。
  • 足利義稙 室町幕府第10代将軍。西暦1,493年8月11日夜、嵐の中数名の近臣を連れ、神保長誠の配下の手配により上原元秀の屋敷から脱走し京都を脱出、近江国経由で越中国放生津に下向し神保に迎えられ、正光寺を御座所とする越中公方政権を樹立した。1,497年7月29日には細川政元との和平交渉を開始し、神保を中心に交渉を進めさせた、本書の神保長誠が生涯晩期に奉じた将軍。
  • 細川勝元 西暦1,467年2月22日の御霊合戦に於いて、畠山義就の上御霊神社襲撃の段階では動かず静観した人物。畠山政長は合戦に持ち堪えられず細川の屋敷に退却したが、足利義視の義就支援により細川は面目を失った、本書の御霊合戦期の静観者。
  • 細川政元 畠山基家を越中国侵攻に差し向けた側の当事者。西暦1,497年7月29日には足利義稙との和平交渉の相手方となった、本書の越中公方期の中央に於ける敵対者。
  • 山名宗全 西暦1,467年2月9日、足利義政を自邸酒宴に迎え畠山義就に饗応させ、同月22日の御霊合戦では畠山義就に自身及び命を下した山名政豊を加勢させた、本書の御霊合戦の重要な義就支援者。
  • 山名政豊 西暦1,467年2月22日の御霊合戦に於いて、山名宗全の命により畠山義就に加勢した人物、本書の御霊合戦に於ける宗全配下の加勢者。
  • 朝倉孝景 西暦1,467年2月22日の御霊合戦に於いて、畠山義就の上御霊神社襲撃に加勢した人物、本書の御霊合戦の義就方加勢者。
  • 上杉定正 西暦1,467年2月22日の御霊合戦後、神保長誠の奮戦を目の当たりにして其の武勇を激賞した人物、本書の神保長誠の武勇を高く評価した武将。
  • 上原元秀 西暦1,493年8月11日夜、嵐の中、屋敷から足利義稙が神保長誠の配下の手配により脱走した人物、本書の足利義稙京都脱出の発地の屋敷主。
  • 氷見の鞍川氏 神保家の家老格。西暦1,472年、能登畠山家に影響され畠山義就方に呼応する動きを見せた為、神保長誠により300名余の軍で鎮定された、本書の神保長誠の内乱鎮定の対象。
  • 倉川兵庫助 神保長誠の家臣。西暦1,497年7月29日以降の足利義稙・細川政元間和平交渉に際し、神保の指示で上洛して工作費として数千貫を各方面に散蒔いた、本書の越中公方期和平交渉の実務家。

主要な地名・拠点

  • 春日万里小路 京都に於ける畠山政長の屋敷の所在地。西暦1,467年2月9日、足利義政が畠山政長の管領職を罷免し此の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた地。同月21日深夜、政長が神保長誠の助言を受けて屋敷を焼き払った、本書の御霊合戦の発端の地。
  • 上御霊神社 現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町。西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長が神保長誠の助言により自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率いて布陣した地。同月22日早朝、畠山義就率いる兵3,000名余による襲撃を受け、丸一日の合戦の末に政長は拝殿に放火し細川屋敷に退却した、本書の御霊合戦の舞台。
  • 越中国 神保長誠の本拠。西暦1,472年に氷見の鞍川氏の離反を鎮定し射水郡・婦負郡守護代に就任した地であり、1,493年2月時点の中風療養地、同年8月以降は足利義稙を迎えての越中公方政権樹立の地、1,501年12月28日の病没地、本書の終始を通じた神保長誠の主要活動圏。
  • 射水郡・婦負郡 西暦1,472年、氷見の鞍川氏を鎮定した後、神保長誠が守護代に就任した越中国の2郡、本書の神保勢力伸長の公的基盤。
  • 倉垣荘 現在の富山県射水市・富山市。西暦1,472年、神保長誠が押領した越中国射水郡の寺社本所領、本書の神保勢力拡大の実質的基盤。
  • 氷見 神保家の家老格鞍川氏の拠点。西暦1,472年、能登畠山家に影響されて畠山義就方に呼応する動きを見せ、神保長誠による鎮定対象となった、本書の越中神保領の動揺の起点。
  • 近江国 西暦1,493年8月11日、上原元秀の屋敷を脱出した足利義稙が越中国放生津下向の途上で経由した国、本書の足利義稙の京都脱出経路の中継地。
  • 放生津 現在の富山県射水市。西暦1,493年8月11日、京都を脱出した足利義稙が下向し神保長誠に迎えられた地。同地の正光寺が改装され将軍の御座所となり、越中公方政権の中心となった、本書の越中公方期の中枢。
  • 正光寺 越中国放生津の寺院。西暦1,493年8月以降、神保長誠の改装により足利義稙の将軍御座所となった、本書の越中公方政権の本拠。
  • 京都 室町幕府の中心地。西暦1,467年2月の御霊合戦の舞台であり、1,493年8月11日に足利義稙が脱出した地、1,497年7月29日以降の和平交渉に於ける倉川兵庫助の工作費散蒔の地、本書の中央政局の舞台。

主要な事件・出来事

  • 畠山政長の後継擁立 西暦1,459年10月、畠山政久が死去した後、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣3名の支持により畠山政長が後継となった。遊佐・神保・成身院は政長に従順し仕えた、本書の発端。
  • 畠山政長の管領職罷免と屋敷明け渡し命令 西暦1,467年2月9日、足利義政が畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。同日足利は山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利は義就・山名を支持する姿勢を示した、本書の御霊合戦に至る発火点。
  • 畠山政長の自邸焼却と上御霊神社布陣 西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長が春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率いて上御霊神社に布陣した、本書の神保長誠の戦略的助言の実行。
  • 御霊合戦と神保長誠の武勇激賞 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃した。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)が加勢し、細川勝元は此の段階では動かず静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し細川の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。神保長誠は其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された、本書の神保長誠の武名確立の場面。
  • 氷見の鞍川氏鎮定と射水郡・婦負郡守護代就任 西暦1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が能登畠山家に影響され畠山義就方に呼応する動きを見せた。此れを受けて神保長誠は300名余を率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。同年神保は射水郡・婦負郡の守護代に就任した、本書の越中に於ける公的勢力確立の節目。
  • 倉垣荘等寺社本所領の押領 西暦1,472年、神保長誠が越中国射水郡倉垣荘等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた、本書の神保実質的支配領域拡大の動き。
  • 中風発症と越中国療養 西暦1,493年2月時点で、神保長誠は中風を患い越中国にて療養を強いられていた、本書の神保長誠の健康上の転機。
  • 足利義稙の京都脱出と越中公方樹立 西暦1,493年8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が神保長誠の配下の手配により上原元秀の屋敷から脱走し京都を脱出した。其の後足利は近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられた。神保は同地の正光寺を改装し将軍の御座所とした。斯うして足利が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた、本書の神保長誠晩年の最重要事件。
  • 畠山基家の越中国侵攻撃退と義稙復帰支援 西暦1,493年8月以降、神保長誠は細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した、本書の越中公方期の神保の役割。
  • 足利義稙・細川政元和平交渉開始 西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の間で和平交渉が開始された。足利側は神保長誠を中心に交渉を進め、神保の家臣倉川兵庫助が上洛して工作費として数千貫を各方面に散蒔いた、本書の神保長誠の政治的中枢性の極点。
  • 神保長誠の病没 西暦1,501年12月28日、神保長誠が越中国にて病没した、本書の終結点。

遊佐長直成身院光宣と共にした畠山政長擁立・政長管領罷免と屋敷防衛・上御霊神社布陣助言・御霊合戦奮戦と上杉定正武勇激賞・氷見の鞍川氏鎮定・射水郡婦負郡守護代就任・倉垣荘寺社本所領押領・中風療養・嵐の夜の足利義稙京都脱出と放生津奉迎・正光寺改装による越中公方樹立・畠山基家侵攻撃退・義稙征夷大将軍復帰への献上品送付・足利義稙細川政元和平交渉の中心・倉川兵庫助の上洛と数千貫工作費散蒔・越中国病没──
越中の守護代として畠山政長と足利義稙を支えた42年を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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