神保長誠一元化
西暦1,467年2月21日、上御霊神社への布陣を献じた男は──
やがて越中の放生津に、将軍そのものを迎え入れた。
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本書について
西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去した。其の後継には、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の三名の支持により、畠山政長が立つ。三名は以後、政長に従順し仕えた——本書は、此の擁立から西暦1,501年12月28日の病没までを、年月日単位で一元化した神保長誠の記録である。長誠は畠山政長の被官でありながら、応仁の乱の口火となった布陣を主君に献策し、越中国の守護代となって国を実効支配し、遂には京都を追われた征夷大将軍其の人を自らの本拠へ迎え入れる事になる。
西暦1,467年2月9日、足利義政が畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた。政長は之を拒否し、神保長誠等と共に自邸の防衛を強化する。同じ日、足利義政は山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が之を饗応した。将軍は、義就・山名を支持する姿勢を示したのである。
同月21日の深夜、畠山政長は春日万里小路の自邸を焼き払った。そして神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率いて、上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣する。屋敷を捨てて神社に陣を布くという此の一手を進言したのが、長誠であった。翌22日の早朝、畠山義就が兵3,000名余を率いて上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全、そして宗全の命を受けた山名政豊も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観している。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末に上御霊神社の拝殿へ放火し、細川の屋敷へ退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失う。神保長誠は其の後も奮戦し、上杉定正から其の武勇を激賞された。
西暦1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。之を受けた神保長誠は、300名余を率いて越中国へ帰国し、鎮定した。同じ年、長誠は射水郡・婦負郡の守護代に就任する。更に越中国射水郡倉垣荘(現在の富山県射水市・富山市)等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。京都で主君を守る被官から、越中に自らの地盤を築く守護代へ——長誠の重心は、此処で確かに移っている。
西暦1,493年2月頃、神保長誠は中風を患い、越中国にて療養を強いられていた。其の身で迎えたのが、同年8月11日の夜である。嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配によって上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出した。足利は近江国を経由して越中国へ下向し、放生津(現在の富山県射水市)にて長誠に迎えられる。長誠は同地の正光寺を改装して将軍の御座所とした。斯うして足利が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれる。越中の守護代の館が、幕府其の物になったのである。
以降、神保長誠は細川政元方の畠山基家による越中国侵攻を何度も撃退して軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都へ送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。武と財の双方を用いた、長い工作である。西暦1,497年7月29日、足利義稙と細川政元の間で和平交渉が開始された。足利側は神保長誠を中心に交渉を進め、長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として数千貫を各方面に散蒔いている。
そして西暦1,501年12月28日、神保長誠は越中国にて病没した。主君の後継擁立に加わった西暦1,459年10月頃から、四十二年余。将軍を迎えた放生津の地で、其の生涯は閉じられた。本書は、畠山政久の死から此の病没までを、一冊に束ねている。
登場人物
- 神保長誠 本書の中心人物。西暦1,459年10月頃、遊佐長直・成身院光宣と共に畠山政長を後継に擁立した。西暦1,467年2月21日には上御霊神社への布陣を政長に助言し、翌日の合戦で奮戦して上杉定正に武勇を激賞される。西暦1,472年に射水郡・婦負郡の守護代となり、西暦1,493年には放生津に足利義稙を迎えて「越中公方」を成立させた。西暦1,501年12月28日、越中国にて病没。
- 畠山政久 西暦1,459年10月頃に死去した畠山家の当主。其の死が、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣による畠山政長の擁立を招いた、本書の起点である。
- 畠山政長 西暦1,459年10月頃、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の支持を受けて畠山家の後継となった。西暦1,467年2月9日に足利義政から管領職を罷免され、屋敷の明け渡しを命じられるも拒否。21日深夜に自邸を焼き払い、神保長誠の助言によって上御霊神社に布陣したが、翌日の合戦に敗れて細川勝元の屋敷へ退却した。
- 畠山義就 畠山政長と家督を争った人物。西暦1,467年2月9日、足利義政から春日万里小路の屋敷を明け渡される立場となり、同日は山名宗全邸の酒宴で将軍を饗応した。22日早朝には兵3,000名余を率いて上御霊神社の政長を襲撃し、之を破っている。
- 畠山基家 細川政元方の武将。足利義稙が越中公方を樹立して以降、越中国へ何度も侵攻したが、其の都度神保長誠に撃退された。
- 遊佐長直 西暦1,459年10月頃、神保長誠・成身院光宣と共に畠山政長を後継に支持し、以後政長に従順し仕えた。
- 成身院光宣 西暦1,459年10月頃、遊佐長直・神保長誠と共に畠山政長を後継に支持した。西暦1,467年2月21日深夜には、政長が上御霊神社へ率いた2,000名の兵の中に加わっている。
- 足利義政 室町幕府将軍。西暦1,467年2月9日、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた。同日は山名宗全の屋敷の酒宴に出席して義就の饗応を受け、義就・山名を支持する姿勢を示した。
- 足利義視 西暦1,467年2月22日の上御霊神社の合戦において、畠山義就を支援した。之により細川勝元は面目を失っている。
- 足利義稙 室町幕府将軍。西暦1,493年8月11日の夜、嵐の中を数名の近臣と共に、神保長誠の配下の手配によって上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出した。近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて長誠に迎えられ、正光寺を御座所とする「越中公方」を樹立。西暦1,497年7月29日には細川政元との和平交渉を開始した。
- 細川勝元 西暦1,467年2月22日の上御霊神社の合戦では動かず、静観した。敗れた畠山政長は、細川の屋敷へ退却している。足利義視が義就を支援した事により、細川は面目を失った。
- 細川政元 足利義稙と対立した細川家の当主。其の方に属する畠山基家は越中国へ何度も侵攻し、神保長誠に撃退された。西暦1,497年7月29日、足利義稙との間で和平交渉が開始されている。
- 山名宗全 西暦1,467年2月9日、自身の屋敷の酒宴に足利義政を迎え、畠山義就の饗応を受けた。22日早朝の上御霊神社襲撃では義就に加勢し、山名政豊にも加勢を命じている。
- 山名政豊 西暦1,467年2月22日、山名宗全の命により、上御霊神社の畠山政長を襲撃する畠山義就に加勢した。
- 朝倉孝景 西暦1,467年2月22日早朝、上御霊神社に布陣する畠山政長を襲撃した畠山義就に加勢した。
- 上杉定正 西暦1,467年2月22日の上御霊神社の合戦の後、奮戦した神保長誠の武勇を激賞した人物である。
- 上原元秀 西暦1,493年8月11日の夜、其の屋敷に置かれていた足利義稙が、神保長誠の配下の手配によって脱走し、京都を脱出した。
- 鞍川氏 神保家の家老格で、氷見を本拠とした。西暦1,472年、能登畠山家に影響され畠山義就方に呼応する動きを見せたが、300名余を率いて越中国へ帰国した神保長誠に鎮定された。
- 倉川兵庫助 神保長誠の家臣。西暦1,497年7月29日に開始された足利義稙と細川政元の和平交渉に際して上洛し、工作費として数千貫を各方面に散蒔いた。
本書が記録する出来事
- 畠山政久の死去と畠山政長の擁立 西暦1,459年10月頃。畠山政久が死去し、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の三名の支持によって畠山政長が後継となった。三名は以後、政長に従順し仕えた、本書の起点である。
- 管領職の罷免と屋敷明け渡しの命 西暦1,467年2月9日。足利義政が畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じた。政長は之を拒否し、神保長誠等と共に自邸の防衛を強化。同日、足利義政は山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就の饗応を受けて義就・山名を支持する姿勢を示した。
- 自邸の焼却と上御霊神社への布陣 西暦1,467年2月21日。深夜、畠山政長が春日万里小路の自邸を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率いて上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣した。
- 上御霊神社の合戦 西暦1,467年2月22日。早朝、畠山義就が兵3,000名余を率いて上御霊神社を襲撃。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊が加勢し、細川勝元は静観した。畠山政長は丸一日の合戦の末に拝殿へ放火して細川の屋敷へ退却する。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。神保長誠は其の後も奮戦し、上杉定正に武勇を激賞された。
- 鞍川氏の鎮定と守護代就任 西暦1,472年。神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響されて畠山義就方に呼応する動きを見せた。神保長誠は300名余を率いて越中国へ帰国し之を鎮定、同年、射水郡・婦負郡の守護代に就任した。
- 寺社本所領の押領と勢力拡大 西暦1,472年。神保長誠が、越中国射水郡倉垣荘(現在の富山県射水市・富山市)等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。
- 中風の発症と越中国での療養 西暦1,493年2月頃。此の時点で神保長誠は中風を患い、越中国にて療養を強いられていた。
- 足利義稙の京都脱出 西暦1,493年8月11日。夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走して京都を脱出した。
- 放生津への下向と越中公方の樹立 西暦1,493年。京都を脱した足利義稙が近江国を経由して越中国へ下向し、放生津(現在の富山県射水市)にて神保長誠に迎えられた。長誠は同地の正光寺を改装して将軍の御座所とし、斯うして樹立された政権は「越中公方」と呼ばれた。
- 畠山基家の侵攻撃退と将軍復帰への尽力 西暦1,493年以降。神保長誠は細川政元方の畠山基家による越中国侵攻を何度も撃退して軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。
- 足利義稙と細川政元の和平交渉 西暦1,497年7月29日。足利義稙と細川政元の間で和平交渉が開始された。足利側は神保長誠を中心に交渉を進め、長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として数千貫を各方面に散蒔いた。
- 神保長誠の病没 西暦1,501年12月28日。神保長誠が、越中国にて病没した。本書の終点である。
畠山政長の擁立から、越中公方の樹立、そして病没へ──
神保長誠の四十二年の全過程を一元化。
JPY 200(税込)
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購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。