電子書籍「神保長誠一元化」の表紙

神保長誠一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,459年10月頃〜1,501年12月28日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
7ページ
文字数
1,226字
最新更新日
西暦2,026年10月6日

上御霊神社布陣の助言から、放生津へ──
神保長誠の病没迄を一元化。

125円(税込)

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本書について

西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。遊佐長直・神保長誠・成身院光宣は、政長に従順に仕えた。本書は、此の畠山政久の死去から、上御霊神社への布陣、神保長誠の射水郡・婦負郡の守護代への就任、足利義稙の越中国への下向を経て、西暦1,501年12月28日に神保長誠が越中国にて病没する迄を一元化した記録である。

西暦1,467年2月9日、足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。又此の日、足利義政は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利義政は、義就・山名宗全を支持する姿勢を示した。2月21日深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣する。2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。

西暦1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。此れを受けて神保長誠は、300名余を率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。此の年、神保長誠は、射水郡・婦負郡の守護代に就任した。又神保長誠は、越中国射水郡倉垣荘(現在の富山県射水市・富山市)等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。西暦1,493年2月頃の時点で神保長誠は、中風を患い、越中国にて療養を強いられていた。8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。其の後足利義稙は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津(現在の富山県射水市)にて神保長誠に迎えられた。神保長誠は、同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利義稙が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。以降神保長誠は、細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し、軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。

西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の2名の間で和平交渉が開始される。足利義稙側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。西暦1,501年12月28日、神保長誠が、越中国にて病没する。畠山政久の死去から、上御霊神社への布陣、神保長誠の射水郡・婦負郡の守護代への就任、足利義稙の越中国への下向を経て、神保長誠の越中国での病没に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 神保長誠 西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。遊佐長直・神保長誠・成身院光宣は、政長に従順に仕えた。西暦1,467年2月9日、足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。2月21日深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社に布陣する。2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。西暦1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。此れを受けて神保長誠は、300名余を率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。此の年、神保長誠は、射水郡・婦負郡の守護代に就任した。又神保長誠は、越中国射水郡倉垣荘等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。西暦1,493年2月頃の時点で神保長誠は、中風を患い、越中国にて療養を強いられていた。8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。其の後足利義稙は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられた。神保長誠は、同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利義稙が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。以降神保長誠は、細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し、軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の2名の間で和平交渉が開始される。足利義稙側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。西暦1,501年12月28日、神保長誠が、越中国にて病没する。
  • 畠山政久 西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。
  • 畠山政長 西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。遊佐長直・神保長誠・成身院光宣は、政長に従順に仕えた。西暦1,467年2月9日、足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。2月21日深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社に布陣する。2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。
  • 畠山義就 西暦1,467年2月9日、足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。又此の日、足利義政は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利義政は、義就・山名宗全を支持する姿勢を示した。2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。西暦1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。
  • 畠山基家 西暦1,493年8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。其の後足利義稙は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられた。以降神保長誠は、細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し、軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。
  • 遊佐長直 西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。遊佐長直・神保長誠・成身院光宣は、政長に従順に仕えた。
  • 成身院光宣 西暦1,459年10月頃、畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。遊佐長直・神保長誠・成身院光宣は、政長に従順に仕えた。西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社に布陣する。
  • 足利義政 西暦1,467年2月9日、足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。又此の日、足利義政は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利義政は、義就・山名宗全を支持する姿勢を示した。
  • 足利義視 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。
  • 足利義稙 西暦1,493年8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。其の後足利義稙は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられた。神保長誠は、同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利義稙が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。以降神保長誠は、細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し、軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の2名の間で和平交渉が開始される。足利義稙側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。
  • 細川勝元 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。
  • 細川政元 西暦1,493年8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。其の後足利義稙は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられた。以降神保長誠は、細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し、軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の2名の間で和平交渉が開始される。足利義稙側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。
  • 山名宗全 西暦1,467年2月9日、足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。又此の日、足利義政は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利義政は、義就・山名宗全を支持する姿勢を示した。2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。
  • 山名政豊 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。
  • 朝倉孝景 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。
  • 上杉定正 西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。
  • 上原元秀 西暦1,493年8月11日夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。
  • 鞍川氏 西暦1,472年、神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。此れを受けて神保長誠は、300名余を率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。
  • 倉川兵庫助 西暦1,497年7月29日、足利義稙・細川政元の2名の間で和平交渉が開始される。足利義稙側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。

本書が記録する出来事

  • 畠山政久の死去(1,459年10月頃) 畠山政久が死去する。後継者は、遊佐長直・神保長誠・成身院光宣の3名の支持により、畠山政長となった。遊佐長直・神保長誠・成身院光宣は、政長に従順に仕えた。
  • 畠山政長の管領職の罷免(1,467年2月9日) 足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。又此の日、足利義政は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利義政は、義就・山名宗全を支持する姿勢を示した。
  • 上御霊神社への布陣(1,467年2月21日) 深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣する。
  • 上御霊神社の襲撃(1,467年2月22日) 早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)の3名も加勢した。細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川勝元の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川勝元は面目を失った。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。
  • 鞍川氏の畠山義就方への呼応の動き(1,472年) 神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。此れを受けて神保長誠は、300名余を率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。此の年、神保長誠は、射水郡・婦負郡の守護代に就任した。又神保長誠は、越中国射水郡倉垣荘(現在の富山県射水市・富山市)等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。
  • 神保長誠の療養(1,493年2月頃) 此の時点で神保長誠は、中風を患い、越中国にて療養を強いられていた。
  • 足利義稙の京都脱出(1,493年8月11日) 夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、神保長誠の配下の手配により、上原元秀の屋敷から脱走し、京都を脱出する。其の後足利義稙は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津(現在の富山県射水市)にて神保長誠に迎えられた。神保長誠は、同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利義稙が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。以降神保長誠は、細川政元方の畠山基家の越中国侵攻を何度も撃退し、軍事力を誇示する一方、金や献上品を京都に送り、足利義稙の征夷大将軍復帰に尽力した。
  • 和平交渉の開始(1,497年7月29日) 足利義稙・細川政元の2名の間で和平交渉が開始される。足利義稙側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保長誠の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。
  • 神保長誠の病没(1,501年12月28日) 神保長誠が、越中国にて病没する。本書の年表の最後の項目である。

畠山政長への支持から、越中公方へ──
神保長誠の全過程を一元化。

125円(税込)

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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