電子書籍「多久宗時に自害を勧められた少弐政資一元化」の表紙

多久宗時に
自害を勧められた
少弐政資一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,496年12月26日〜1,497年5月頃
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
文字数
2,366字
最新更新日
西暦2,026年10月6日

多久宗時に匿いを拒まれ、切腹する──
少弐政資と少弐家の征伐を一元化。

147円(税込)

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本書について

西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。大内家の領地を攻撃し、旧領回復を狙った。第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城(現在の佐賀県唐津市山本)主留守氏を追放した。更に少弐政資率いる軍は、飯盛山城(現在の福岡県福津市内殿)・高鳥居城(現在の福岡県糟屋郡篠栗町若杉)等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃した。本書は、此の筑前国への侵攻から、大内義興率いる軍の侵攻、岩門城・勢福寺城・小城城・晴気城の落城、多久宗時による匿いの拒否と少弐政資の切腹を経て、西暦1,497年5月頃に大内義興が朝廷から太宰少弐に任じられる迄を一元化した記録である。

西暦1,497年1月頃、大内義興が、室町幕府から少弐家の征伐を命じられる。1月16日、大内義興が、陶興房(大将)・吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏を始めとする20,000騎余を率いて、九州へ向けて出陣する。4月頃、大内義興率いる軍が、筑前国へ侵攻する。4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺(現在の福岡県福岡市博多区御供所町)にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。大内側は、陶興房が先鋒となり、圧倒的な兵力で攻勢を掛け、少弐・大友父子率いる軍を撃破した。少弐・大友父子率いる軍は、太宰府方面へ敗走した。

西暦1,497年4月17日、退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村(現在の福岡県筑紫野市)にて戦闘となる。大内義興率いる軍は、2日前と同じく少弐・大友父子率いる軍を破り、少弐方国人・河津氏等が守備する高鳥居城を落城させた。少弐・大友父子率いる軍は、肥前国へ逃亡した。大内義興の軍勢は50,000騎余まで膨れ上がり、勢いに乗って筥崎宮(現在の福岡県福岡市東区箱崎)付近まで進軍した。4月18日頃、少弐政資・少弐高経の2名が、相談の上、軍を二手に分ける。政資は岩門城(現在の福岡県那珂川市山田)に籠城し、高経も勝尾城(現在の佐賀県鳥栖市牛原町)に入って大内義興勢を待ち構えた。4月19日頃、大内義興が、太宰府を本陣とし、陶弾正忠(岩門城、兵20,000名)と、陶興房・右田弘詮(勝尾城、兵20,000名)の軍を差し向ける。4月20日頃、陶弾正忠率いる軍が、岩門城を攻撃する。少弐家10名余が討死し、雑兵も大半が討たれ、落城した。少弐政資は密かに岩門城から出て、千葉胤資の居る晴気城(現在の佐賀県小城市小城町畑田)へ逃亡した。

西暦1,497年4月25日、大内義興率いる軍が、朝日山城(現在の佐賀県鳥栖市村田町)を攻撃し、此れを攻略する。4月26日頃、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍が、勝尾城を攻撃する。守備していた城兵は討ち負け、少弐高経は勢福寺城(現在の佐賀県神埼市神埼町城原)へ落ち延びた。5月5日頃、第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。少弐高経は此れを把握すると、江上興種を勢福寺城から追放した。此の江上興種の裏切りにより、勢福寺城は、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍によって容易く落とされた。高経は、少弐政資の居る晴気城へ向かった。5月10日頃、少弐高経が、晴気城へ入り、少弐政資と合流する。

西暦1,497年5月15日、千葉興常勢等の大内義興方が、晴気城を攻撃する。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、少弐政資に、政資の側室の父である、梶峰城(現在の佐賀県多久市多久町)主多久宗時を頼る様申し出た。5月16日、大内義興率いる軍が、少弐政資の居城である小城城を包囲する。5月18日、一旦山口に戻っていた大内義興が、周防国の一宮の玉祖神社(現在の山口県防府市切畑)・二宮の出雲神社(現在の山口県山口市徳地堀)・三宮の仁壁神社(現在の山口県山口市三の宮)・四宮の赤田神社(現在の山口県山口市吉敷)・五宮の朝田神社(現在の山口県山口市矢原)に参詣して、戦勝祈願する。神馬の寄進も行い、其の後小城城を包囲している自軍へ帰還した。5月20日夜、千葉胤資が、少弐政資・政資の嫡男少弐頼隆・少弐高経の3名を晴気城から逃す。又此の日、小城城が落城する。

西暦1,497年5月21日、少弐頼隆が、千葉興常勢に討たれる。又此の日、千葉胤資が、晴気城から打って出るも、討死する。其の後晴気城は落城した。又此の日、少弐政資が、梶峰城に到着する。少弐政資は、多久宗時に匿って欲しい旨を伝えた。大内義興方の追撃を恐れた多久宗時は此れを拒否し、自害を勧めた。そして少弐政資は、専称寺(現在の佐賀県多久市多久町)境内で切腹した。5月23日、落ち延びる途上で追手に市の川(現在の佐賀県小城市牛津町地区)で追い付かれた少弐高経が、最早逃れ得ぬと考え、市の川の山中にて切腹する。

西暦1,497年5月頃、大内義興が、千葉興常を肥前国守護代に任じる。又5月頃、筑紫満門・東尚盛の2名等が、大内義興に降伏する。又5月頃、大内義興が、筑紫満門に三根郡(現在の佐賀県三養基郡上峰町・みやき町)と神埼郡(現在の佐賀県佐賀市・神埼市・神埼郡吉野ヶ里町)の守備を命じ、東尚盛に佐賀郡(現在の佐賀県佐賀市)を与え、陶弾正忠を博多に配置する処置を行い、山口に帰陣する。又5月頃、大内義興が、朝廷から太宰少弐に任じられる。少弐政資による筑前国への侵攻から、大内義興率いる軍の侵攻、岩門城・勢福寺城・小城城・晴気城の落城、多久宗時による匿いの拒否と少弐政資の切腹を経て、大内義興の太宰少弐への任官に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 少弐政資 西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。大内家の領地を攻撃し、旧領回復を狙った。第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城主留守氏を追放した。更に少弐政資率いる軍は、飯盛山城・高鳥居城等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃した。西暦1,497年4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。4月17日、退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村にて戦闘となる。少弐・大友父子率いる軍は、肥前国へ逃亡した。4月18日頃、少弐政資・少弐高経の2名が、相談の上、軍を二手に分ける。政資は岩門城に籠城し、高経も勝尾城に入って大内義興勢を待ち構えた。4月20日頃、陶弾正忠率いる軍が、岩門城を攻撃する。少弐家10名余が討死し、雑兵も大半が討たれ、落城した。少弐政資は密かに岩門城から出て、千葉胤資の居る晴気城へ逃亡した。5月10日頃、少弐高経が、晴気城へ入り、少弐政資と合流する。5月15日、千葉興常勢等の大内義興方が、晴気城を攻撃する。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、少弐政資に、政資の側室の父である、梶峰城主多久宗時を頼る様申し出た。5月16日、大内義興率いる軍が、少弐政資の居城である小城城を包囲する。5月20日夜、千葉胤資が、少弐政資・政資の嫡男少弐頼隆・少弐高経の3名を晴気城から逃す。5月21日、少弐政資が、梶峰城に到着する。少弐政資は、多久宗時に匿って欲しい旨を伝えた。大内義興方の追撃を恐れた多久宗時は此れを拒否し、自害を勧めた。そして少弐政資は、専称寺境内で切腹した。
  • 多久宗時 西暦1,497年5月15日、千葉興常勢等の大内義興方が、晴気城を攻撃する。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、少弐政資に、政資の側室の父である、梶峰城主多久宗時を頼る様申し出た。5月21日、少弐政資が、梶峰城に到着する。少弐政資は、多久宗時に匿って欲しい旨を伝えた。大内義興方の追撃を恐れた多久宗時は此れを拒否し、自害を勧めた。そして少弐政資は、専称寺境内で切腹した。
  • 少弐高経 西暦1,497年4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。4月18日頃、少弐政資・少弐高経の2名が、相談の上、軍を二手に分ける。政資は岩門城に籠城し、高経も勝尾城に入って大内義興勢を待ち構えた。4月26日頃、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍が、勝尾城を攻撃する。守備していた城兵は討ち負け、少弐高経は勢福寺城へ落ち延びた。5月5日頃、第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。少弐高経は此れを把握すると、江上興種を勢福寺城から追放した。此の江上興種の裏切りにより、勢福寺城は、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍によって容易く落とされた。高経は、少弐政資の居る晴気城へ向かった。5月10日頃、少弐高経が、晴気城へ入り、少弐政資と合流する。5月20日夜、千葉胤資が、少弐政資・政資の嫡男少弐頼隆・少弐高経の3名を晴気城から逃す。5月23日、落ち延びる途上で追手に市の川で追い付かれた少弐高経が、最早逃れ得ぬと考え、市の川の山中にて切腹する。
  • 少弐頼隆 西暦1,497年5月20日夜、千葉胤資が、少弐政資・政資の嫡男少弐頼隆・少弐高経の3名を晴気城から逃す。5月21日、少弐頼隆が、千葉興常勢に討たれる。
  • 大内義興 西暦1,497年1月頃、大内義興が、室町幕府から少弐家の征伐を命じられる。1月16日、大内義興が、陶興房(大将)・吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏を始めとする20,000騎余を率いて、九州へ向けて出陣する。4月頃、大内義興率いる軍が、筑前国へ侵攻する。4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。大内側は、陶興房が先鋒となり、圧倒的な兵力で攻勢を掛け、少弐・大友父子率いる軍を撃破した。少弐・大友父子率いる軍は、太宰府方面へ敗走した。4月17日、退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村にて戦闘となる。大内義興率いる軍は、2日前と同じく少弐・大友父子率いる軍を破り、少弐方国人・河津氏等が守備する高鳥居城を落城させた。大内義興の軍勢は50,000騎余まで膨れ上がり、勢いに乗って筥崎宮付近まで進軍した。4月19日頃、大内義興が、太宰府を本陣とし、陶弾正忠(岩門城、兵20,000名)と、陶興房・右田弘詮(勝尾城、兵20,000名)の軍を差し向ける。4月25日、大内義興率いる軍が、朝日山城を攻撃し、此れを攻略する。5月16日、大内義興率いる軍が、少弐政資の居城である小城城を包囲する。5月18日、一旦山口に戻っていた大内義興が、周防国の一宮の玉祖神社・二宮の出雲神社・三宮の仁壁神社・四宮の赤田神社・五宮の朝田神社に参詣して、戦勝祈願する。神馬の寄進も行い、其の後小城城を包囲している自軍へ帰還した。5月頃、大内義興が、千葉興常を肥前国守護代に任じる。又5月頃、筑紫満門・東尚盛の2名等が、大内義興に降伏する。又5月頃、大内義興が、筑紫満門に三根郡と神埼郡の守備を命じ、東尚盛に佐賀郡を与え、陶弾正忠を博多に配置する処置を行い、山口に帰陣する。又5月頃、大内義興が、朝廷から太宰少弐に任じられる。
  • 陶興房 西暦1,497年1月16日、大内義興が、陶興房(大将)・吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏を始めとする20,000騎余を率いて、九州へ向けて出陣する。4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。大内側は、陶興房が先鋒となり、圧倒的な兵力で攻勢を掛け、少弐・大友父子率いる軍を撃破した。少弐・大友父子率いる軍は、太宰府方面へ敗走した。4月19日頃、大内義興が、太宰府を本陣とし、陶弾正忠(岩門城、兵20,000名)と、陶興房・右田弘詮(勝尾城、兵20,000名)の軍を差し向ける。4月26日頃、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍が、勝尾城を攻撃する。守備していた城兵は討ち負け、少弐高経は勢福寺城へ落ち延びた。5月5日頃、第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。此の江上興種の裏切りにより、勢福寺城は、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍によって容易く落とされた。
  • 陶弾正忠 西暦1,497年4月19日頃、大内義興が、太宰府を本陣とし、陶弾正忠(岩門城、兵20,000名)と、陶興房・右田弘詮(勝尾城、兵20,000名)の軍を差し向ける。4月20日頃、陶弾正忠率いる軍が、岩門城を攻撃する。少弐家10名余が討死し、雑兵も大半が討たれ、落城した。5月頃、大内義興が、筑紫満門に三根郡と神埼郡の守備を命じ、東尚盛に佐賀郡を与え、陶弾正忠を博多に配置する処置を行い、山口に帰陣する。
  • 右田弘詮 西暦1,497年4月19日頃、大内義興が、太宰府を本陣とし、陶弾正忠(岩門城、兵20,000名)と、陶興房・右田弘詮(勝尾城、兵20,000名)の軍を差し向ける。4月26日頃、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍が、勝尾城を攻撃する。守備していた城兵は討ち負け、少弐高経は勢福寺城へ落ち延びた。5月5日頃、第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。此の江上興種の裏切りにより、勢福寺城は、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍によって容易く落とされた。
  • 杉興正 西暦1,497年4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。
  • 熊谷膳直 西暦1,497年1月16日、大内義興が、陶興房(大将)・吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏を始めとする20,000騎余を率いて、九州へ向けて出陣する。4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。
  • 大友政親 西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。西暦1,497年4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。大内側は、陶興房が先鋒となり、圧倒的な兵力で攻勢を掛け、少弐・大友父子率いる軍を撃破した。少弐・大友父子率いる軍は、太宰府方面へ敗走した。4月17日、退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村にて戦闘となる。大内義興率いる軍は、2日前と同じく少弐・大友父子率いる軍を破り、少弐方国人・河津氏等が守備する高鳥居城を落城させた。少弐・大友父子率いる軍は、肥前国へ逃亡した。
  • 大友親治 西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。西暦1,497年4月15日、少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。大内側は、陶興房が先鋒となり、圧倒的な兵力で攻勢を掛け、少弐・大友父子率いる軍を撃破した。少弐・大友父子率いる軍は、太宰府方面へ敗走した。4月17日、退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村にて戦闘となる。大内義興率いる軍は、2日前と同じく少弐・大友父子率いる軍を破り、少弐方国人・河津氏等が守備する高鳥居城を落城させた。少弐・大友父子率いる軍は、肥前国へ逃亡した。
  • 千葉胤資 西暦1,497年4月20日頃、陶弾正忠率いる軍が、岩門城を攻撃する。少弐政資は密かに岩門城から出て、千葉胤資の居る晴気城へ逃亡した。5月15日、千葉興常勢等の大内義興方が、晴気城を攻撃する。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、少弐政資に、政資の側室の父である、梶峰城主多久宗時を頼る様申し出た。5月20日夜、千葉胤資が、少弐政資・政資の嫡男少弐頼隆・少弐高経の3名を晴気城から逃す。5月21日、千葉胤資が、晴気城から打って出るも、討死する。其の後晴気城は落城した。
  • 千葉興常 西暦1,497年5月15日、千葉興常勢等の大内義興方が、晴気城を攻撃する。5月21日、少弐頼隆が、千葉興常勢に討たれる。5月頃、大内義興が、千葉興常を肥前国守護代に任じる。
  • 江上興種 西暦1,497年5月5日頃、第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。少弐高経は此れを把握すると、江上興種を勢福寺城から追放した。此の江上興種の裏切りにより、勢福寺城は、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍によって容易く落とされた。
  • 筑紫満門 西暦1,497年5月頃、筑紫満門・東尚盛の2名等が、大内義興に降伏する。又5月頃、大内義興が、筑紫満門に三根郡と神埼郡の守備を命じ、東尚盛に佐賀郡を与え、陶弾正忠を博多に配置する処置を行い、山口に帰陣する。
  • 東尚盛 西暦1,497年5月頃、筑紫満門・東尚盛の2名等が、大内義興に降伏する。又5月頃、大内義興が、筑紫満門に三根郡と神埼郡の守備を命じ、東尚盛に佐賀郡を与え、陶弾正忠を博多に配置する処置を行い、山口に帰陣する。
  • 河津氏 西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。更に少弐政資率いる軍は、飯盛山城・高鳥居城等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃した。西暦1,497年4月17日、退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村にて戦闘となる。大内義興率いる軍は、2日前と同じく少弐・大友父子率いる軍を破り、少弐方国人・河津氏等が守備する高鳥居城を落城させた。
  • 宗像氏佐 西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。少弐政資は、第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城主留守氏を追放した。
  • 留守氏 西暦1,496年12月26日、少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。少弐政資は、第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城主留守氏を追放した。

本書が記録する出来事

  • 少弐政資の筑前国への侵攻(1,496年12月26日) 少弐政資が、大友政親・大友親治の2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。大内家の領地を攻撃し、旧領回復を狙った。第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城(現在の佐賀県唐津市山本)主留守氏を追放した。更に少弐政資率いる軍は、飯盛山城(現在の福岡県福津市内殿)・高鳥居城(現在の福岡県糟屋郡篠栗町若杉)等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃した。
  • 少弐家の征伐の命令(1,497年1月頃) 大内義興が、室町幕府から少弐家の征伐を命じられる。
  • 大内義興の出陣(1,497年1月16日) 大内義興が、陶興房(大将)・吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏を始めとする20,000騎余を率いて、九州へ向けて出陣する。
  • 大内義興率いる軍の筑前国への侵攻(1,497年4月頃) 大内義興率いる軍が、筑前国へ侵攻する。
  • 少弐高経の奇襲(1,497年4月15日) 少弐政資の息子少弐高経が、大内義興率いる軍が博多に到着して陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し直ぐに、二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺(現在の福岡県福岡市博多区御供所町)にて、少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍と大内義興率いる軍の間で戦闘となった。大内側は、陶興房が先鋒となり、圧倒的な兵力で攻勢を掛け、少弐・大友父子率いる軍を撃破した。少弐・大友父子率いる軍は、太宰府方面へ敗走した。
  • 筑紫村での戦闘(1,497年4月17日) 退却中であった少弐政資・大友政親・大友親治の3名率いる軍が、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村(現在の福岡県筑紫野市)にて戦闘となる。大内義興率いる軍は、2日前と同じく少弐・大友父子率いる軍を破り、少弐方国人・河津氏等が守備する高鳥居城を落城させた。少弐・大友父子率いる軍は、肥前国へ逃亡した。大内義興の軍勢は50,000騎余まで膨れ上がり、勢いに乗って筥崎宮(現在の福岡県福岡市東区箱崎)付近まで進軍した。
  • 少弐政資・少弐高経による軍の二分(1,497年4月18日頃) 少弐政資・少弐高経の2名が、相談の上、軍を二手に分ける。政資は岩門城(現在の福岡県那珂川市山田)に籠城し、高経も勝尾城(現在の佐賀県鳥栖市牛原町)に入って大内義興勢を待ち構えた。
  • 岩門城・勝尾城への軍の差し向け(1,497年4月19日頃) 大内義興が、太宰府を本陣とし、陶弾正忠(岩門城、兵20,000名)と、陶興房・右田弘詮(勝尾城、兵20,000名)の軍を差し向ける。
  • 岩門城への攻撃(1,497年4月20日頃) 陶弾正忠率いる軍が、岩門城を攻撃する。少弐家10名余が討死し、雑兵も大半が討たれ、落城した。少弐政資は密かに岩門城から出て、千葉胤資の居る晴気城(現在の佐賀県小城市小城町畑田)へ逃亡した。
  • 朝日山城の攻略(1,497年4月25日) 大内義興率いる軍が、朝日山城(現在の佐賀県鳥栖市村田町)を攻撃し、此れを攻略する。
  • 勝尾城への攻撃(1,497年4月26日頃) 陶興房・右田弘詮の2名率いる軍が、勝尾城を攻撃する。守備していた城兵は討ち負け、少弐高経は勢福寺城(現在の佐賀県神埼市神埼町城原)へ落ち延びた。
  • 江上興種の内通(1,497年5月5日頃) 第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。少弐高経は此れを把握すると、江上興種を勢福寺城から追放した。此の江上興種の裏切りにより、勢福寺城は、陶興房・右田弘詮の2名率いる軍によって容易く落とされた。高経は、少弐政資の居る晴気城へ向かった。
  • 少弐高経と少弐政資の合流(1,497年5月10日頃) 少弐高経が、晴気城へ入り、少弐政資と合流する。
  • 晴気城への攻撃(1,497年5月15日) 千葉興常勢等の大内義興方が、晴気城を攻撃する。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、少弐政資に、政資の側室の父である、梶峰城(現在の佐賀県多久市多久町)主多久宗時を頼る様申し出た。
  • 小城城の包囲(1,497年5月16日) 大内義興率いる軍が、少弐政資の居城である小城城を包囲する。
  • 周防国の一宮から五宮への参詣(1,497年5月18日) 一旦山口に戻っていた大内義興が、周防国の一宮の玉祖神社(現在の山口県防府市切畑)・二宮の出雲神社(現在の山口県山口市徳地堀)・三宮の仁壁神社(現在の山口県山口市三の宮)・四宮の赤田神社(現在の山口県山口市吉敷)・五宮の朝田神社(現在の山口県山口市矢原)に参詣して、戦勝祈願する。神馬の寄進も行い、其の後小城城を包囲している自軍へ帰還した。
  • 晴気城からの3名の逃走(1,497年5月20日) 夜、千葉胤資が、少弐政資・政資の嫡男少弐頼隆・少弐高経の3名を晴気城から逃す。
  • 小城城の落城(1,497年5月20日) 小城城が落城する。
  • 少弐頼隆の死(1,497年5月21日) 少弐頼隆が、千葉興常勢に討たれる。
  • 千葉胤資の討死(1,497年5月21日) 千葉胤資が、晴気城から打って出るも、討死する。其の後晴気城は落城した。
  • 少弐政資の梶峰城への到着(1,497年5月21日) 少弐政資が、梶峰城に到着する。少弐政資は、多久宗時に匿って欲しい旨を伝えた。大内義興方の追撃を恐れた多久宗時は此れを拒否し、自害を勧めた。そして少弐政資は、専称寺(現在の佐賀県多久市多久町)境内で切腹した。
  • 少弐高経の切腹(1,497年5月23日) 落ち延びる途上で追手に市の川(現在の佐賀県小城市牛津町地区)で追い付かれた少弐高経が、最早逃れ得ぬと考え、市の川の山中にて切腹する。
  • 千葉興常の肥前国守護代任命(1,497年5月頃) 大内義興が、千葉興常を肥前国守護代に任じる。
  • 筑紫満門・東尚盛等の降伏(1,497年5月頃) 筑紫満門・東尚盛の2名等が、大内義興に降伏する。
  • 筑紫満門等への処置と山口への帰陣(1,497年5月頃) 大内義興が、筑紫満門に三根郡(現在の佐賀県三養基郡上峰町・みやき町)と神埼郡(現在の佐賀県佐賀市・神埼市・神埼郡吉野ヶ里町)の守備を命じ、東尚盛に佐賀郡(現在の佐賀県佐賀市)を与え、陶弾正忠を博多に配置する処置を行い、山口に帰陣する。
  • 大内義興の太宰少弐任官(1,497年5月頃) 大内義興が、朝廷から太宰少弐に任じられる。本書の年表の最後の項目である。

少弐政資の筑前国侵攻に始まる──
大内義興の太宰少弐任官迄を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。