多久宗時に自害を勧められた
少弐政資
一元化
西暦1,497年5月21日、専称寺の境内──
匿いを拒んで自害を勧めたのは、政資の側室の父であった。
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本書について
西暦1,496年12月26日、少弐政資は大友政親・大友親治の援軍を伴って筑前国へ侵攻した。大内家の領地を攻撃し、旧領を回復する為である。第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城(現在の佐賀県唐津市山本)主留守氏を追放し、飯盛山城(現在の福岡県福津市内殿)・高鳥居城(現在の福岡県糟屋郡篠栗町若杉)等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃する。此の侵攻から五ヶ月と経たぬ内に、少弐家の当主と其の二人の子は悉く死ぬ事になる——本書は、其の五ヶ月を年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,497年1月頃、大内義興が室町幕府から少弐家の征伐を命じられた。侵攻を受けた側の私戦ではなく、幕命を帯びた征伐である。同月16日、義興は陶興房を大将に据え、吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏等、20,000騎余を率いて九州へ向けて出陣した。
西暦1,497年4月頃、大内義興率いる軍が筑前国へ侵攻する。同月15日、少弐政資の息子少弐高経は、大内勢が博多に到着して陣を固めようとした隙を突き、奇襲を掛けて先鋒の杉興正を討ち取った。緒戦の一手は少弐方に入ったのである。然し直ぐに二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺(現在の福岡県福岡市博多区御供所町)にて、少弐政資・大友政親・大友親治率いる軍と大内率いる軍との戦闘となった。陶を先鋒とする圧倒的な兵力の前に、少弐・大友父子率いる軍は撃破され、太宰府方面へ敗走する。
17日、退却中であった少弐・大友父子率いる軍は、追撃して来た大内義興率いる軍と、筑紫村(現在の福岡県筑紫野市)にて戦闘となる。結果は二日前と同じであった。少弐方の国人河津氏等が守備する高鳥居城も落城し、少弐・大友父子は肥前国へ逃亡する。大内の軍勢は50,000騎余まで膨れ上がり、勢いに乗って筥崎宮(現在の福岡県福岡市東区箱崎)付近まで進軍した。18日頃、政資と高経は相談の上、軍を二手に分ける。政資は岩門城(現在の福岡県那珂川市山田)に籠城し、高経は勝尾城(現在の佐賀県鳥栖市牛原町)に入って、大内勢を待ち構えた。
19日頃、大内義興は太宰府を本陣とし、陶弾正忠に兵20,000名を付けて岩門城へ、陶興房・右田弘詮に兵20,000名を付けて勝尾城へ差し向ける。20日頃、岩門城が落ちた。少弐家10名余が討死し、雑兵も大半が討たれる中、政資は密かに城を出て、千葉胤資の居る晴気城(現在の佐賀県小城市小城町畑田)へ逃れる。25日には朝日山城(現在の佐賀県鳥栖市村田町)が攻略され、26日頃には勝尾城の城兵も討ち負けて、少弐高経は勢福寺城(現在の佐賀県神埼市神埼町城原)へ落ち延びた。
西暦1,497年5月5日頃、第13代江上家当主で勢福寺城主の江上興種が、大内義興方と内通する。高経は之を把握して江上を勢福寺城から追放したが、裏切りの傷は塞がらず、城は陶興房・右田弘詮率いる軍によって容易く落とされた。10日頃、高経は晴気城へ入り、父政資と合流する。15日、千葉興常勢等の大内義興方が晴気城を攻撃した。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、政資に対し、政資の側室の父である梶峰城(現在の佐賀県多久市多久町)主多久宗時を頼る様申し出る。16日には政資の居城小城城が包囲され、18日、一旦山口へ戻っていた大内義興は、周防国の一宮玉祖神社(現在の山口県防府市切畑)から二宮出雲神社・三宮仁壁神社・四宮赤田神社・五宮朝田神社までを参詣して戦勝を祈願し、神馬を寄進した上で、小城城を囲む自軍へ帰還した。
20日の夜、千葉胤資は少弐政資・其の嫡男少弐頼隆・少弐高経の三名を晴気城から逃した。同じ日、小城城が落城する。翌21日、頼隆は千葉興常勢に討たれ、胤資は晴気城から打って出て討死し、晴気城もまた落ちた。そして同じ21日、少弐政資は梶峰城に到着する。匿って欲しい——政資は多久宗時に其の旨を伝えた。宗時は大内義興方の追撃を恐れて之を拒み、自害を勧めた。頼った相手は、自身の側室の父である。政資は専称寺(現在の佐賀県多久市多久町)の境内で切腹した。23日、落ち延びる途上、市の川(現在の佐賀県小城市牛津町地区)で追手に追い付かれた高経も、最早逃れ得ぬと考え、市の川の山中にて切腹する。
同じ5月頃、大内義興は千葉興常を肥前国守護代に任じた。降伏して来た筑紫満門には三根郡(現在の佐賀県三養基郡上峰町・みやき町)と神埼郡(現在の佐賀県佐賀市・神埼市・神埼郡吉野ヶ里町)の守備を命じ、東尚盛には佐賀郡(現在の佐賀県佐賀市)を与え、陶弾正忠を博多に配置して、義興は山口へ帰陣する。そして朝廷から太宰少弐に任じられた。少弐——名族が代々名乗り、家の名にまでした其の官職が、少弐家を滅ぼした男へ渡ったのである。本書は、筑前国への侵攻から此の任官までを、一冊に束ねている。
登場人物
- 少弐政資 本書の中心人物。西暦1,496年12月26日、大友政親・大友親治の援軍を伴って筑前国へ侵攻し、大内家の領地を攻撃して旧領回復を狙った。西暦1,497年4月20日頃に岩門城を追われて晴気城へ逃れ、5月21日、側室の父である梶峰城主多久宗時に匿いを求めるも拒まれ、自害を勧められて専称寺の境内で切腹した。
- 多久宗時 梶峰城(現在の佐賀県多久市多久町)主で、少弐政資の側室の父。西暦1,497年5月21日、梶峰城へ到着した政資から匿って欲しい旨を伝えられたが、大内義興方の追撃を恐れて之を拒否し、自害を勧めた。本書の題名が指す人物である。
- 少弐高経 少弐政資の息子。西暦1,497年4月15日、大内勢が博多で陣を固めようとした隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取った。4月18日頃に勝尾城へ入り、落城後は勢福寺城、次いで晴気城へ移って父と合流。5月23日、落ち延びる途上の市の川で追手に追い付かれ、山中にて切腹した。
- 少弐頼隆 少弐政資の嫡男。西暦1,497年5月20日の夜、千葉胤資によって政資・高経と共に晴気城から逃されたが、翌21日、千葉興常勢に討たれた。
- 大内義興 西暦1,497年1月頃、室町幕府から少弐家の征伐を命じられ、同月16日に20,000騎余を率いて九州へ出陣した。4月に筑前国へ侵攻して聖福寺・筑紫村で少弐・大友父子を破り、太宰府を本陣として岩門城・勝尾城へ兵を差し向ける。5月には小城城を包囲し、山口へ帰陣した後、朝廷から太宰少弐に任じられた。
- 陶興房 大内義興の出陣に際して大将を務めた武将。西暦1,497年4月15日の聖福寺の戦いでは二陣として入れ替わり、先鋒となって少弐・大友父子率いる軍を撃破した。4月19日頃からは右田弘詮と共に兵20,000名を率いて勝尾城を攻め、5月5日頃には勢福寺城をも落とした。
- 陶弾正忠 大内義興方の武将。西暦1,497年4月19日頃、兵20,000名を率いて岩門城へ差し向けられ、20日頃に之を落城させた。5月頃、大内義興によって博多に配置された。
- 右田弘詮 大内義興方の武将。西暦1,497年4月19日頃から陶興房と共に兵20,000名を率いて勝尾城を攻め、26日頃に城兵を討ち破った。5月5日頃には勢福寺城の攻略にも加わっている。
- 杉興正 大内義興率いる軍の先鋒。西暦1,497年4月15日、博多に到着して陣を固めようとした所を少弐高経の奇襲を受け、討ち取られた。
- 熊谷膳直 大内義興の出陣に加わった武将。西暦1,497年4月15日の聖福寺の戦いでは、陶興房と共に二陣として入れ替わり、少弐・大友父子率いる軍との戦闘に臨んだ。
- 大友政親 西暦1,496年12月26日の少弐政資による筑前国侵攻に、大友親治と共に援軍として加わった。西暦1,497年4月15日の聖福寺、17日の筑紫村と続けて大内勢に敗れ、肥前国へ逃亡した。
- 大友親治 西暦1,496年12月26日の筑前国侵攻に大友政親と共に援軍として加わり、西暦1,497年4月15日の聖福寺・17日の筑紫村の戦闘を少弐政資と共に戦って敗れ、肥前国へ逃亡した。
- 千葉胤資 晴気城(現在の佐賀県小城市小城町畑田)主。西暦1,497年4月20日頃、岩門城を脱した少弐政資を迎え入れた。5月15日の大内方の攻撃に際しては、防ぎ切れないと考えて政資に多久宗時を頼る様申し出る。20日夜に政資・頼隆・高経の三名を城から逃し、翌21日、自らは晴気城から打って出て討死した。
- 千葉興常 大内義興方。西暦1,497年5月15日に晴気城を攻撃し、21日には逃れた少弐頼隆を討った。同月、大内義興によって肥前国守護代に任じられている。
- 江上興種 第13代江上家当主で、勢福寺城(現在の佐賀県神埼市神埼町城原)主。西暦1,497年5月5日頃に大内義興方と内通し、之を把握した少弐高経によって城から追放された。此の裏切りにより、勢福寺城は陶興房・右田弘詮率いる軍に容易く落とされた。
- 筑紫満門 西暦1,497年5月頃、東尚盛等と共に大内義興に降伏した。義興からは、三根郡(現在の佐賀県三養基郡上峰町・みやき町)と神埼郡(現在の佐賀県佐賀市・神埼市・神埼郡吉野ヶ里町)の守備を命じられている。
- 東尚盛 西暦1,497年5月頃、筑紫満門等と共に大内義興に降伏した。義興からは佐賀郡(現在の佐賀県佐賀市)を与えられている。
- 河津氏 筑前国人衆。西暦1,496年12月26日、飯盛山城・高鳥居城等で少弐政資率いる軍を相手に防戦した。後に少弐方となり、西暦1,497年4月17日、守備していた高鳥居城を大内勢に落とされた。
- 宗像氏佐 第72代宗像大宮司。西暦1,496年12月26日、其の下に在った重代の宝物が、筑前国へ侵攻した少弐政資率いる軍に強奪された。
- 留守氏 肥前国青山城(現在の佐賀県唐津市山本)主。西暦1,496年12月26日、筑前国へ侵攻した少弐政資率いる軍によって追放された。
本書が記録する出来事
- 筑前国への侵攻と旧領回復の企て 西暦1,496年12月26日。少弐政資が大友政親・大友親治の援軍を伴って筑前国へ侵攻し、大内家の領地を攻撃した。第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城主留守氏を追放。飯盛山城・高鳥居城等で防戦する河津氏等の筑前国人衆をも攻撃した、本書の起点である。
- 室町幕府による少弐家征伐の命 西暦1,497年1月頃。大内義興が、室町幕府から少弐家の征伐を命じられた。以後の戦は、幕命を帯びた征伐として進む事になる。
- 大内義興の九州出陣 西暦1,497年1月16日。大内義興が、陶興房(大将)・吉見頼興・熊谷膳直・小早川弘平・仁保護郷・杉弘依・内藤氏等を始めとする20,000騎余を率いて、九州へ向けて出陣した。
- 聖福寺の戦い 西暦1,497年4月15日。少弐高経が、博多に到着して陣を固めようとした大内勢の隙を突いて奇襲し、先鋒の杉興正を討ち取る。然し二陣の陶興房・熊谷膳直等が入れ替わり、聖福寺にて少弐政資・大友政親・大友親治率いる軍を撃破した。少弐・大友父子は太宰府方面へ敗走した。
- 筑紫村の戦いと高鳥居城の落城 西暦1,497年4月17日。退却中の少弐・大友父子率いる軍が、追撃して来た大内勢と筑紫村で戦闘となり、二日前と同じく敗れた。河津氏等の守備する高鳥居城も落城し、少弐・大友父子は肥前国へ逃亡。大内の軍勢は50,000騎余まで膨れ上がり、筥崎宮付近まで進軍した。
- 岩門城・勝尾城への分兵 西暦1,497年4月18日頃。少弐政資と少弐高経が相談の上、軍を二手に分けた。政資は岩門城に籠城し、高経は勝尾城に入って、大内義興勢を待ち構えた。
- 太宰府本陣からの二方面攻撃 西暦1,497年4月19日頃。大内義興が太宰府を本陣とし、陶弾正忠に兵20,000名を付けて岩門城へ、陶興房・右田弘詮に兵20,000名を付けて勝尾城へ差し向けた。
- 岩門城の落城 西暦1,497年4月20日頃。陶弾正忠率いる軍の攻撃により岩門城が落城し、少弐家10名余が討死、雑兵も大半が討たれた。少弐政資は密かに城を出て、千葉胤資の居る晴気城へ逃亡した。
- 朝日山城の攻略 西暦1,497年4月25日。大内義興率いる軍が、朝日山城(現在の佐賀県鳥栖市村田町)を攻撃し、之を攻略した。
- 勝尾城の落城 西暦1,497年4月26日頃。陶興房・右田弘詮率いる軍の攻撃により勝尾城の城兵が討ち負け、少弐高経は勢福寺城へ落ち延びた。
- 江上興種の内通と勢福寺城の落城 西暦1,497年5月5日頃。勢福寺城主江上興種が大内義興方と内通し、之を把握した少弐高経に城から追放された。裏切りにより勢福寺城は陶興房・右田弘詮率いる軍に容易く落とされ、高経は晴気城へ向かった。
- 晴気城への攻撃と多久宗時を頼る進言 西暦1,497年5月15日。千葉興常勢等の大内義興方が晴気城を攻撃する。千葉胤資は防ぎ切れないと考え、政資の側室の父である梶峰城主多久宗時を頼る様、少弐政資に申し出た。
- 小城城の包囲と周防五社の戦勝祈願 西暦1,497年5月16日〜18日。大内義興率いる軍が少弐政資の居城小城城を包囲。18日、一旦山口に戻っていた義興は周防国の一宮玉祖神社・二宮出雲神社・三宮仁壁神社・四宮赤田神社・五宮朝田神社に参詣して戦勝を祈願し、神馬を寄進して包囲中の自軍へ帰還した。
- 小城城の落城と三名の脱出 西暦1,497年5月20日。夜、千葉胤資が少弐政資・其の嫡男少弐頼隆・少弐高経の三名を晴気城から逃した。同じ日、小城城が落城している。
- 少弐頼隆と千葉胤資の死 西暦1,497年5月21日。少弐頼隆が千葉興常勢に討たれた。同じ日、千葉胤資は晴気城から打って出るも討死し、其の後晴気城は落城した。
- 梶峰城の拒絶と専称寺の切腹 西暦1,497年5月21日。少弐政資が梶峰城に到着し、多久宗時に匿って欲しい旨を伝えた。大内義興方の追撃を恐れた多久は之を拒否し、自害を勧める。政資は専称寺(現在の佐賀県多久市多久町)の境内で切腹した。本書の題名が指す場面である。
- 市の川の切腹 西暦1,497年5月23日。落ち延びる途上、市の川(現在の佐賀県小城市牛津町地区)で追手に追い付かれた少弐高経が、最早逃れ得ぬと考え、市の川の山中にて切腹した。
- 肥前国守護代の任命と降伏者の処遇 西暦1,497年5月頃。大内義興が千葉興常を肥前国守護代に任じた。降伏した筑紫満門には三根郡と神埼郡の守備を命じ、東尚盛には佐賀郡を与え、陶弾正忠を博多に配置して山口へ帰陣した。
- 大内義興の太宰少弐任官 西暦1,497年5月頃。大内義興が、朝廷から太宰少弐に任じられた。少弐家が代々名乗り、家の名にまでした官職が、少弐家を滅ぼした男へ渡った、本書の終点である。
筑前国への侵攻から、梶峰城の拒絶と太宰少弐の任官へ──
少弐家最後の五ヶ月の全過程を一元化。
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