河野通春一元化
湯築城を追われ、港山城に籠城する──
河野通春の生誕から病没迄を一元化。
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本書について
西暦1,421年頃、河野通元の嫡男河野通春が生誕する。本書は、此の生誕から、度重なる征伐、伊予国守護への就任と罷免、大内政弘率いる軍への参加を経て、西暦1,482年8月28日に河野通春が居城の港山城にて病没する迄を一元化した記録である。
西暦1,441年8月14日頃、河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて遅参した事を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始する。西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,451年7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。又、益田兼堯は吉田(現在の愛媛県宇和島市)で、吉川三郎・周布次郎は鐘挊尾・味酒(現在の愛媛県松山市)にて戦功を挙げた。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。重見通実は、宇和郡の大野氏と喜多郡の森山氏の連合体制が出来上がった旨を、小早川盛景等に伝えた。9月14日、重見通実が、杉原伯耆守・小早川盛景の2名に対し、河野通春征伐の為の合力を依頼する。
西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城(現在の愛媛県伊予市大平)にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。11月20日、河野通春が、浄寂寺(現在の愛媛県今治市五十嵐)に対する、諸給人の干渉及び段銭等の課役を停止する。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、足利義政の慰留により、思い留まった。6月21日、細川勝元が、村上吉資に対し、河野通春の伊予国への帰国の際に援助した事を賞する御教書を発する。
西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。西暦1,460年1月11日、河野通春が、足利義持の年忌法要の費用40貫文を負担する。西暦1,461年1月頃、河野教通が、室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙し、最後に近年の河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ、河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する主旨の申状を提出する。
西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、山間部や島嶼部の高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)に退却した。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、河野通春に同情したり、細川の介入を嫌って河野通春方に寝返る地元の国人衆が続出した。西暦1,464年12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。又此の日、室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わし、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。
西暦1,465年3月13日、河野通春と、河野教通の弟河野通生の2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。5月13日、室町幕府が、細川勝元等が「河野通春の不義が露顕した」として、河野通春征伐を申し出た事に関し、協議する。5月25日、河野通春征伐の為に伊予国に下向していた細川賢氏が、観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に禁制を掲げる。7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。同時に勝元は、室町幕府に、近国守護へ其の主旨の御教書を出す様要請した。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。此の頃、山名是豊も、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。又7月頃、大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)にて自害する。又7月頃、土佐国一方守護代細川持益が、河野通春に降伏する。
西暦1,465年9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勢と対峙した。9月15日、細川勝元が、伊予国の在地領主である大野氏に、河野通春征伐を命じる。9月23日、大内教弘が、興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。10月頃、細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野通春の軍に加わっていた。河野通春は、大内教弘の援軍を受けて、細川勝元方の兵を退けた。10月17日、細川勝元が、河野通春征伐に関し、毛利豊元に支援を求める。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。12月頃、細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平の2名に書簡を送り、援軍を依頼する。
西暦1,466年10月30日頃、室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野通春の支援を止める様、第18代相国寺鹿苑院(現在の京都府京都市上京区相国寺門前町)僧録龍崗真圭に説得させる。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内政弘の本隊は海路で、野上(現在の山口県周南市)・柳井(現在の山口県)・屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)・室津(現在の兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した。8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。細川勝元は、後花園上皇・後土御門天皇の2名に花の御所への動座を求めた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。
西暦1,468年1月17日、河野通春が、摂津国を進発するに当たり、東寺に祈祷を依頼する。6月8日、河野通春が、東寺に温泉郡味酒郷(現在の愛媛県松山市味酒町)内上方地頭職を安堵する。12月頃、河野通春が、河野教通に、「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。西暦1,469年6月13日、西幕府が、大野氏・河野通春に対し、河野通秋・河野通光の2名の征伐を命じる御教書を発する。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
西暦1,474年2月8日、河野道直が、忽那通光に対し、國永の所領・湯築(現在の愛媛県松山市道後公園周辺)を宛行う。4月15日、忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。12月頃、河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。西暦1,478年1月15日、河野通春が、三島神社に禁制を掲げる。11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。大内政弘は、呉・能美(現在の広島県江田島市)・蒲刈(現在の広島県呉市)に援軍を送らせた。
西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。西暦1,482年8月28日、河野通春が、居城の港山城にて病没する。河野通春の生誕から、度重なる征伐、伊予国守護への就任と罷免、大内政弘率いる軍への参加を経て、居城の港山城での病没に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 河野通春 西暦1,421年頃、河野通元の嫡男河野通春が生誕する。西暦1,441年8月14日頃、河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて遅参した事を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始する。西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城を捨て、山間部や島嶼部の高縄山・港山城・忽那諸島・来島に退却した。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勢と対峙した。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。10月頃、細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野通春の軍に加わっていた。河野通春は、大内教弘の援軍を受けて、細川勝元方の兵を退けた。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で兵庫津に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。西暦1,468年12月頃、河野通春が、河野教通に、「西軍へご同心頂けるのでしょうか」等の主旨の書簡を送る。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。12月頃、河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。西暦1,482年8月28日、河野通春が、居城の港山城にて病没する。
- 河野通元 西暦1,421年頃、河野通元の嫡男河野通春が生誕する。
- 河野教通 西暦1,441年8月14日頃、河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて遅参した事を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始する。西暦1,451年7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。西暦1,461年1月頃、河野教通が、室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙し、最後に近年の河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ、河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する主旨の申状を提出する。西暦1,462年11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里付近にて、細川成之の軍勢に合流する。西暦1,465年3月13日、河野通春と、河野教通の弟河野通生の2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勢と対峙した。西暦1,468年12月頃、河野通春が、河野教通に、「西軍へご同心頂けるのでしょうか」等の主旨の書簡を送る。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。
- 河野通生 西暦1,465年3月13日、河野通春と、河野教通の弟河野通生の2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勢と対峙した。西暦1,474年4月15日、忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。河野通生は、神途城に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。
- 河野通秋・河野通光 西暦1,469年6月13日、西幕府が、大野氏・河野通春に対し、河野通秋・河野通光の2名の征伐を命じる御教書を発する。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡にて交戦する。
- 河野道直 西暦1,474年2月8日、河野道直が、忽那通光に対し、國永の所領・湯築を宛行う。
- 細川勝元 西暦1,449年2月頃、河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、足利義政の慰留により、思い留まった。6月21日、細川勝元が、村上吉資に対し、河野通春の伊予国への帰国の際に援助した事を賞する御教書を発する。西暦1,456年2月5日、室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。西暦1,465年5月13日、室町幕府が、細川勝元等が「河野通春の不義が露顕した」として、河野通春征伐を申し出た事に関し、協議する。7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。同時に勝元は、室町幕府に、近国守護へ其の主旨の御教書を出す様要請した。9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。9月15日、細川勝元が、伊予国の在地領主である大野氏に、河野通春征伐を命じる。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。10月頃、細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野通春の軍に加わっていた。河野通春は、大内教弘の援軍を受けて、細川勝元方の兵を退けた。10月17日、細川勝元が、河野通春征伐に関し、毛利豊元に支援を求める。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。12月頃、細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平の2名に書簡を送り、援軍を依頼する。西暦1,467年8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で兵庫津に入る。細川勝元は、後花園上皇・後土御門天皇の2名に花の御所への動座を求めた。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。
- 細川成之 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。11月頃、河野教通率いる軍が、桜三里付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。西暦1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、河野通春に同情したり、細川の介入を嫌って河野通春方に寝返る地元の国人衆が続出した。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。
- 細川賢氏 西暦1,465年5月25日、河野通春征伐の為に伊予国に下向していた細川賢氏が、観念寺に禁制を掲げる。7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。
- 細川持益 西暦1,465年7月頃、土佐国一方守護代細川持益が、河野通春に降伏する。
- 細川義春 西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。
- 大内教弘 西暦1,464年12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。又此の日、室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わし、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。又7月頃、大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺にて自害する。9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。10月頃、細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野通春の軍に加わっていた。河野通春は、大内教弘の援軍を受けて、細川勝元方の兵を退けた。
- 大内政弘 西暦1,465年9月23日、大内教弘が、興居島にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。10月頃、細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野通春の軍に加わっていた。河野通春は、大内教弘の援軍を受けて、細川勝元方の兵を退けた。西暦1,466年10月30日頃、室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野通春の支援を止める様、第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に説得させる。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内政弘の本隊は海路で、野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した。8月19日、大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で兵庫津に入る。9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡に移り本陣とした。西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。西暦1,478年11月20日、河野通春・河野通秋の2名が、和気郡にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。大内政弘は、呉・能美・蒲刈に援軍を送らせた。
- 足利義政 西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、足利義政の慰留により、細川勝元は思い留まった。西暦1,473年12月11日、河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
- 足利義尚 西暦1,477年5月31日、河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
- 足利義持 西暦1,460年1月11日、河野通春が、足利義持の年忌法要の費用40貫文を負担する。
- 畠山政長 西暦1,464年12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。又此の日、室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わし、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。
- 山名是豊 西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。此の頃、山名是豊も、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。
- 陶弘房・陶弘護 西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。
- 村上吉資 西暦1,453年6月頃、細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。6月21日、細川勝元が、村上吉資に対し、河野通春の伊予国への帰国の際に援助した事を賞する御教書を発する。
- 忽那通光 西暦1,474年2月8日、河野道直が、忽那通光に対し、國永の所領・湯築を宛行う。4月15日、忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。
- 新開遠江守 西暦1,465年9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。
- 龍崗真圭 西暦1,466年10月30日頃、室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野通春の支援を止める様、第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に説得させる。
- 承勲 西暦1,464年12月11日、畠山政長が、第19代管領に就任する。又此の日、室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わし、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。
- 板坂三位 西暦1,465年7月頃、室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。
- 宇都宮安綱 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。
- 小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎 西暦1,451年7月頃、河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。又、益田兼堯は吉田で、吉川三郎・周布次郎は鐘挊尾・味酒にて戦功を挙げた。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。重見通実は、宇和郡の大野氏と喜多郡の森山氏の連合体制が出来上がった旨を、小早川盛景等に伝えた。9月14日、重見通実が、杉原伯耆守・小早川盛景の2名に対し、河野通春征伐の為の合力を依頼する。
- 吉川経信 西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。
- 毛利豊元・毛利煕元・小早川煕平 西暦1,465年10月17日、細川勝元が、河野通春征伐に関し、毛利豊元に支援を求める。10月29日、細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。12月頃、細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平の2名に書簡を送り、援軍を依頼する。
- 大野氏・森山氏・重見氏 西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が、森山城にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。西暦1,465年9月頃、細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。9月15日、細川勝元が、伊予国の在地領主である大野氏に、河野通春征伐を命じる。西暦1,469年6月13日、西幕府が、大野氏・河野通春に対し、河野通秋・河野通光の2名の征伐を命じる御教書を発する。
- 赤松政則 西暦1,467年9月8日、大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。
- 南宮内少輔・得能三郎 西暦1,465年7月頃、大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺にて自害する。
- 浅海氏・村上氏・忽那氏 西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。河野通生は、神途城に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。
本書が記録する出来事
- 河野通春の生誕(1,421年頃) 河野通元の嫡男河野通春が生誕する。
- 河野通春の征伐の開始(1,441年8月14日頃) 河野教通が、室町幕府の命を受けて、嘉吉の乱での赤松家征伐に於いて遅参した事を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始する。
- 河野通春の伊予国守護就任(1,449年2月頃) 河野通春が、細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任する。
- 城郭20ヶ所余の奪取(1,451年7月頃) 河野教通が、小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、河野通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景は連携して、通春方の抵抗勢力を制圧した。又、益田兼堯は吉田(現在の愛媛県宇和島市)で、吉川三郎・周布次郎は鐘挊尾・味酒(現在の愛媛県松山市)にて戦功を挙げた。教通は、小早川盛景の尽力に対して謝意を表し、其の功績を室町幕府に報告した。重見通実は、宇和郡の大野氏と喜多郡の森山氏の連合体制が出来上がった旨を、小早川盛景等に伝えた。
- 重見通実による合力の依頼(1,451年9月14日) 重見通実が、杉原伯耆守・小早川盛景の2名に対し、河野通春征伐の為の合力を依頼する。
- 森山氏の挙兵(1,452年11月頃) 河野通春方の森山氏が、森山城(現在の愛媛県伊予市大平)にて挙兵する。室町幕府は、吉川経信に、伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じた。
- 浄寂寺への課役の停止(1,452年11月20日) 河野通春が、浄寂寺(現在の愛媛県今治市五十嵐)に対する、諸給人の干渉及び段銭等の課役を停止する。
- 河野通春の伊予国守護への改補(1,453年6月頃) 細川勝元が、足利義政の意向を聞かず、御教書・奉書を偽造して、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補する。其の後河野通春は、京都から伊予国へ帰国したが、其の際、村上吉資が河野通春を援助した。細川勝元の此の行動は、足利義政との対立を生み、細川勝元は管領職を辞任しようとした。然し、足利義政の慰留により、思い留まった。
- 村上吉資を賞する御教書(1,453年6月21日) 細川勝元が、村上吉資に対し、河野通春の伊予国への帰国の際に援助した事を賞する御教書を発する。
- 河野通春の伊予国守護職の罷免(1,456年2月5日) 室町幕府が、河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。此れにより細川勝元は、土佐国守護職との兼任となり、又、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。
- 足利義持の年忌法要の費用の負担(1,460年1月11日) 河野通春が、足利義持の年忌法要の費用40貫文を負担する。
- 河野教通の申状の提出(1,461年1月頃) 河野教通が、室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙し、最後に近年の河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ、河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する主旨の申状を提出する。
- 細川成之率いる軍の進軍(1,462年6月頃) 細川成之率いる軍が、河野通春征伐の為、渡海して東予から進軍する。同時に、南予の宇都宮安綱も北上した。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、山間部や島嶼部の高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城(現在の愛媛県松山市港山)・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)に退却した。
- 河野教通率いる軍の合流(1,462年11月頃) 河野教通率いる軍が、桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近にて、細川成之の軍勢に合流する。包囲網を敷かれ窮地に立たされた河野通春は、海賊衆に細川成之率いる軍の補給路を断たせ、難を逃れた。
- 国人衆の寝返り(1,463年) 此の年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けるも、河野通春に同情したり、細川の介入を嫌って河野通春方に寝返る地元の国人衆が続出した。
- 畠山政長の管領就任(1,464年12月11日) 畠山政長が、第19代管領に就任する。又此の日、室町幕府は、相国寺の僧承勲を遣わし、大内教弘に、河野通春征伐を命じた。
- 善応寺への寄進(1,465年3月13日) 河野通春と、河野教通の弟河野通生の2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。
- 河野通春征伐の申し出に関する協議(1,465年5月13日) 室町幕府が、細川勝元等が「河野通春の不義が露顕した」として、河野通春征伐を申し出た事に関し、協議する。
- 細川賢氏の禁制(1,465年5月25日) 河野通春征伐の為に伊予国に下向していた細川賢氏が、観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に禁制を掲げる。
- 近国の諸将への河野通春征伐の命令(1,465年7月頃) 室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。同時に勝元は、室町幕府に、近国守護へ其の主旨の御教書を出す様要請した。又此の頃、河野通春征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内教弘は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内教弘は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野通春を支援した。此の頃、山名是豊も、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。
- 禅城寺での自害(1,465年7月頃) 大内教弘に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎の2名等が、禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)にて自害する。
- 細川持益の降伏(1,465年7月頃) 土佐国一方守護代細川持益が、河野通春に降伏する。
- 河野通春の湯築城からの追放(1,465年9月頃) 細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、大野氏・森山氏・重見氏に、河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勢と対峙した。
- 大野氏への河野通春征伐の命令(1,465年9月15日) 細川勝元が、伊予国の在地領主である大野氏に、河野通春征伐を命じる。
- 大内教弘の病没(1,465年9月23日) 大内教弘が、興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。
- 伊予国での交戦(1,465年10月頃) 細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野通春の軍に加わっていた。河野通春は、大内教弘の援軍を受けて、細川勝元方の兵を退けた。
- 毛利豊元への支援の要請(1,465年10月17日) 細川勝元が、河野通春征伐に関し、毛利豊元に支援を求める。
- 毛利豊元への出兵と援軍の派遣の要請(1,465年10月29日) 細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。
- 毛利煕元・小早川煕平への援軍の依頼(1,465年12月頃) 細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平の2名に書簡を送り、援軍を依頼する。
- 大内政弘への説得(1,466年10月30日頃) 室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野通春の支援を止める様、第18代相国寺鹿苑院(現在の京都府京都市上京区相国寺門前町)僧録龍崗真圭に説得させる。
- 大内政弘の山口出発(1,467年6月11日) 大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房の2名も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内政弘の本隊は海路で、野上(現在の山口県周南市)・柳井(現在の山口県)・屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)・室津(現在の兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した。
- 大内政弘率いる軍の兵庫津入り(1,467年8月19日) 大内政弘率いる軍が、20,000~30,000名の軍勢で兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000~3,000名は河野通春が率いていた。細川勝元は、後花園上皇・後土御門天皇の2名に花の御所への動座を求めた。
- 大物浦での交戦(1,467年9月8日) 大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内政弘率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。
- 東寺への祈祷の依頼(1,468年1月17日) 河野通春が、摂津国を進発するに当たり、東寺に祈祷を依頼する。
- 味酒郷内上方地頭職の安堵(1,468年6月8日) 河野通春が、東寺に温泉郡味酒郷(現在の愛媛県松山市味酒町)内上方地頭職を安堵する。
- 河野教通への書簡(1,468年12月頃) 河野通春が、河野教通に、「応仁の乱は延々と続くと思いますが、西軍へご同心頂けるのでしょうか。先年大内方からも依頼が有った筈ですが、其の後お返事を頂いておりません。足利義政殿・足利義視殿の双方が将軍となられた今、其の命令には変わりはありません。此度の摂津国の合戦により、私は守護に補任されましたが、家名を上げる上では、私と教通殿の何方がなっても同じだと思います」という主旨の書簡を送る。
- 河野通秋・河野通光の征伐を命じる御教書(1,469年6月13日) 西幕府が、大野氏・河野通春に対し、河野通秋・河野通光の2名の征伐を命じる御教書を発する。
- 河野教通による補任状の受け取り(1,473年12月11日) 河野教通が、足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取る。此れにより河野教通は、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
- 忽那通光への宛行(1,474年2月8日) 河野道直が、忽那通光に対し、國永の所領・湯築(現在の愛媛県松山市道後公園周辺)を宛行う。
- 忽那通光の訪問(1,474年4月15日) 忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那通光は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。
- 河野通春の東軍への帰順(1,477年5月31日) 河野通春が、東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付ける。
- 河野通春の伊予国への帰国(1,477年12月頃) 河野通春が、陣所を引き払って伊予国へ帰国する。又此の頃河野通春は、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。
- 三島神社への禁制(1,478年1月15日) 河野通春が、三島神社に禁制を掲げる。
- 和気郡での交戦(1,478年11月20日) 河野通春・河野通秋の2名が、和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦する。通春は、大内政弘に支援を求めた。大内政弘は、呉・能美(現在の広島県江田島市)・蒲刈(現在の広島県呉市)に援軍を送らせた。
- 細川義春率いる軍の侵攻(1,479年) 細川成之の弐男細川義春率いる軍が、阿波国から伊予国に侵攻する。此れを受けて河野通春・河野教通の2名は、一時和睦した。河野通生は、神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じた。又、村上氏・忽那氏等の水軍が、細川義春率いる軍の水軍の補給路や退路を断ち、此れにより細川義春は、諸城の攻略を果たせない儘、阿波国へ潰走した。其の後、通春と教通は再び争う事となった。
- 河野通春の病没(1,482年8月28日) 河野通春が、居城の港山城にて病没する。本書の年表の最後の項目である。
大内政弘率いる軍と共に、大物浦へ──
予州家当主河野通春の全過程を一元化。
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