河野通春一元化
嘉吉の乱の遅参を咎めた征伐・細川勝元の支援と守護補任・二度の罷免・湯築城の放棄と港山城への籠城・大内教弘の突然の支援転向・大物浦での細川勝元と赤松政則の撃破・東軍帰順と第18代伊予国守護就任・細川義春の侵攻と一時和睦──
予州家当主が伊予国を争った61年を一本の時系列に貫く。
JPY 200(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,421年頃、河野通元の嫡男として河野通春が生誕した。本書は、此の生誕から、西暦1,482年8月28日に通春が居城の港山城(現在の愛媛県松山市港山)で病没するまでの約61年間を、年月日単位で一元化した記録である。伊予国守護職を巡って河野氏宗家の河野教通と争い、細川勝元に据えられては罷免され、征伐の軍を差し向けられては瀬戸内の水軍と山間部に拠って凌ぎ、遂には応仁の乱の西軍として京都まで上った——予州家当主の生涯が、此処に一本の時系列として並ぶ。
西暦1,441年8月14日頃、河野教通が室町幕府の命を受け、嘉吉の乱での赤松家征伐に遅参した事を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始する。然し西暦1,449年2月頃、通春は細川勝元の支援を受けて第11代室町幕府伊予国守護に就任した。西暦1,451年7月頃、河野教通は小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取する。益田は吉田(現在の愛媛県宇和島市)で、吉川・周布は鐘挊尾・味酒(現在の愛媛県松山市)で戦功を挙げた。同年9月14日には重見通実が杉原伯耆守・小早川盛景に合力を依頼している。西暦1,452年11月頃には通春方の森山氏が森山城(現在の愛媛県伊予市大平)で挙兵し、室町幕府は吉川経信に征伐を命じた。同月20日、通春は浄寂寺(現在の愛媛県今治市五十嵐)に対する諸給人の干渉及び段銭等の課役を停止している。
西暦1,453年6月頃、細川勝元が足利義政の意向を聞かぬ儘、通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補した。通春は京都から伊予国へ帰国し、其の際は村上吉資が援助している。此の独断は足利との対立を生み、細川は管領職を辞任しようとしたが、足利の慰留により思い留まった。然し西暦1,456年2月5日、室町幕府は通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元自身を第14代室町幕府伊予国守護に任命する。細川は土佐国守護職との兼任となり、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。西暦1,460年1月11日、通春は足利義持の年忌法要の費用40貫文を負担している。西暦1,461年1月頃、河野教通は室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙した上で、近年の通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する申状を提出した。
西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が河野通春征伐の為に渡海して東予から進軍し、同時に南予の宇都宮安綱も北上する。圧倒的な兵力差を前に、通春は一旦湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)へ退却した。同年11月頃には河野教通率いる軍が桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近で細川成之の軍勢に合流し、包囲網に窮した通春は、海賊衆に補給路を断たせて難を逃れる。西暦1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けたが、通春に同情したり細川の介入を嫌って河野方に寝返る地元の国人衆が続出した。西暦1,464年12月11日、畠山政長が第19代管領に就任した同日、室町幕府は相国寺の僧承勲を遣わせ、大内教弘に通春の征伐を命じている。
西暦1,465年、包囲は最も厳しくなり、そして裏返る。3月13日、通春と河野教通の弟河野通生が土居家分の地頭職を善応寺に寄進。5月13日、室町幕府は細川勝元等が「河野通春の不義が露顕した」として征伐を申し出た事を協議し、25日には伊予国へ下向していた細川賢氏が観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に禁制を掲げた。7月頃、幕府は細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に征伐を命じる。同じ頃、幕命を受けた大内教弘率いる軍が伊予国へ入った。途上で病に罹った大内は、室町幕府から派遣された板坂三位の治療を受け、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如として通春を支援する。之に呼応した通春方の南宮内少輔・得能三郎等は禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)で自害し、土佐国一方守護代細川持益は通春に降伏した。
同年9月頃、細川勝元は讃岐国・土佐国の国人領主等を通じて伊予国へ影響力を及ぼし、大野氏・森山氏・重見氏に通春を圧迫させて湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。通春は港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がって細川勢と対峙した。9月23日、大内教弘が興居島(現在の愛媛県松山市)で病没し、大内政弘が家督を継ぐ。政弘も通春を支援し、室町幕府と対峙した。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語ったという。10月頃、細川勝元方の兵が伊予国へ進軍して通春率いる軍と交戦するが、通春は大内教弘の援軍を受けて之を退けた。10月17日・29日、細川勝元は毛利豊元に支援を求め、味方の新開遠江守等が戦死した旨を伝えて出兵を要請する。12月頃には、通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平にも援軍を依頼した。西暦1,466年10月30日頃、幕府は通春の孤立を意図し、第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に、大内政弘へ支援を止める様説得させている。
西暦1,467年6月11日、大内政弘が周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発した。其の中には河野通春と陶弘房が居た。8月19日、大内率いる軍は20,000~30,000名で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000~3,000名は通春が率いていた。9月8日、大内政弘は河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂で上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦して撃破する。此の戦闘で通春等は戦功を挙げた。大内率いる軍は尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣した。西暦1,468年1月17日、通春は摂津国を進発するに当たり東寺に祈祷を依頼し、6月8日には東寺に温泉郡味酒郷(現在の愛媛県松山市味酒町)内上方地頭職を安堵している。同年12月頃、通春は河野教通へ書簡を送り、西軍への同心を促した——家名を上げる上では、私と教通殿の何方が守護になっても同じだと思います、と。
西暦1,473年12月11日、河野教通が足利義政からの補任状を受け取り、第17代室町幕府伊予国守護に就任する。西暦1,477年5月31日、通春は東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付けた。同年12月頃、陣所を引き払って伊予国へ帰国し、第18代室町幕府伊予国守護に任じられる。西暦1,478年1月15日には三島神社に禁制を掲げ、11月20日には和気郡(現在の愛媛県松山市)で河野通秋と交戦、大内政弘に支援を求めて呉・能美・蒲刈から援軍を得た。西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が阿波国から伊予国へ侵攻すると、通春と河野教通は一時和睦する。河野通生が神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じ、村上氏・忽那氏等の水軍が細川方の補給路や退路を断った為、細川は諸城の攻略を果たせぬ儘、阿波国へ潰走した。然し其の後、通春と教通は再び争う事となる。西暦1,482年8月28日、河野通春は居城の港山城にて病没した。本書は、此の日を以て筆を擱く。
主要登場人物
- 河野通春 本書の中心人物。河野通元の嫡男で、予州家当主。西暦1,421年頃に生誕し、西暦1,449年2月頃に細川勝元の支援で第11代室町幕府伊予国守護に就任した。西暦1,453年6月頃に第13代伊予国守護へ改補されるが、西暦1,456年2月5日に罷免される。西暦1,462年には細川成之の進軍を受けて湯築城を捨て、港山城等へ退却。西暦1,467年からは応仁の乱の西軍として大内政弘と共に上洛し、大物浦で戦功を挙げた。西暦1,477年に東軍へ下って第18代室町幕府伊予国守護に任じられ、西暦1,482年8月28日、居城の港山城にて病没した。
- 河野通元 河野通春の父。通春は其の嫡男として西暦1,421年頃に生誕した。
- 河野教通 河野氏宗家の当主で、通春の生涯を通じての対抗者。西暦1,441年8月14日頃、嘉吉の乱での赤松家征伐に遅参した事を理由に、室町幕府の命を受けて通春の征伐を開始した。西暦1,451年7月頃には諸将の支援を得て城郭20ヶ所余を奪取し、西暦1,461年1月頃には伊予国守護職と御恩地の返還を求める申状を提出。西暦1,473年12月11日に第17代室町幕府伊予国守護へ就任した。西暦1,479年には細川義春の侵攻を受けて通春と一時和睦したが、其の後再び争う事となった。
- 河野通生 河野教通の弟。西暦1,465年3月13日、通春と共に土居家分の地頭職を善応寺に寄進した。同年9月頃、教通の留守の為に伊予国に居た所を通春と繋がり、細川勢と対峙している。西暦1,479年には神途城に籠城して指揮を取った。
- 河野通秋・河野通光 西暦1,469年6月13日、西幕府が大野氏・河野通春に対して征伐を命じる御教書を発した両名。河野通秋は西暦1,478年11月20日、和気郡で通春と交戦した。
- 河野道直 西暦1,474年2月8日、忽那通光に國永の所領と湯築(現在の愛媛県松山市道後公園周辺)を宛行った。
- 細川勝元 通春の運命を二度反転させた人物。西暦1,449年2月頃に通春の第11代伊予国守護就任を支援し、西暦1,453年6月頃には足利義政の意向を聞かぬ儘、第13代伊予国守護として改補した。之による足利との対立で管領職を辞任しようとしたが慰留されている。然し西暦1,456年2月5日には通春が罷免され、自らが第14代伊予国守護に任じられた。西暦1,465年には近国の諸将や毛利豊元・毛利煕元・小早川煕平へ征伐の支援を求め、大内教弘の死去を伝え聞いて「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。
- 細川成之 西暦1,462年6月頃、河野通春征伐の為に渡海して東予から進軍した。同年11月頃には桜三里付近で河野教通の軍勢と合流している。西暦1,463年には被官達が伊予国に駐留し続けたが、通春に同情したり介入を嫌って寝返る国人衆が続出した。西暦1,465年7月頃にも征伐を命じられている。
- 細川賢氏 西暦1,465年5月25日、河野通春征伐の為に伊予国へ下向し、観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に禁制を掲げた。同年7月頃には細川成之と共に征伐を命じられている。
- 細川持益 土佐国一方守護代。西暦1,465年7月頃、河野通春に降伏した。
- 細川義春 細川成之の弐男。西暦1,479年、阿波国から伊予国へ侵攻したが、河野通春と河野教通の一時和睦を招き、村上氏・忽那氏等の水軍に補給路や退路を断たれて、諸城の攻略を果たせぬ儘阿波国へ潰走した。
- 大内教弘 西暦1,464年12月11日、室町幕府から河野通春征伐を命じられた。伊予国へ向かう途上で病に罹り板坂三位の治療を受け、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如通春を支援する。西暦1,465年9月23日、興居島にて病没した。
- 大内政弘 大内教弘の跡を継ぎ、父と同じく河野通春を支援して室町幕府と対峙した。西暦1,466年10月30日頃には龍崗真圭による説得を受けている。西暦1,467年6月11日に8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発し、同年9月8日には瀬戸内水軍を率いて大物浦で細川勝元・赤松政則の軍を撃破した。西暦1,477年5月31日には東軍に内通しており、通春の東軍帰順を仲介している。
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。西暦1,453年6月頃、細川勝元が意向を聞かず河野通春を第13代伊予国守護に改補した事で細川と対立したが、辞任しようとした細川を慰留した。西暦1,473年12月11日には河野教通に伊予国守護職の補任状を与えている。
- 足利義尚 西暦1,477年5月31日、東軍に下った河野通春の安堵を与えた。
- 足利義持 西暦1,460年1月11日、河野通春が其の年忌法要の費用40貫文を負担した。
- 畠山政長 第19代管領。西暦1,464年12月11日に就任し、同日、室町幕府は大内教弘に河野通春征伐を命じた。
- 山名是豊 西暦1,465年7月頃、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。
- 陶弘房・陶弘護 陶弘房は西暦1,467年6月11日、河野通春と共に大内政弘の軍中に在って山口を出発した。家の事は陶弘護に任せていた。
- 村上吉資 西暦1,453年6月頃、京都から伊予国へ帰国する河野通春を援助した。同月21日、細川勝元から其の功を賞する御教書を受けている。
- 忽那通光 西暦1,474年2月8日、河野道直から國永の所領と湯築を宛行われた。同年4月15日には3通の書簡を持参して河野通生の下を訪れ、河野通久自筆である事の証明が出された。
- 新開遠江守 土佐国守護代。西暦1,465年9月頃、細川勝元の圧迫により河野通春が追われた湯築城へ入城した。同年10月29日、細川勝元は毛利豊元に、通春との戦闘中に新開等が戦死した旨を伝えている。
- 龍崗真圭 第18代相国寺鹿苑院僧録。西暦1,466年10月30日頃、河野通春の孤立を意図した室町幕府により、大内政弘へ支援を止める様説得する役を担わされた。
- 承勲 相国寺の僧。西暦1,464年12月11日、室町幕府から遣わされ、大内教弘に河野通春征伐を伝えた。
- 板坂三位 室町幕府から派遣され、伊予国へ向かう途上で病に罹った大内教弘の治療に当たった。
- 宇都宮安綱 南予の勢力。西暦1,462年6月頃、細川成之の東予からの進軍と同時に北上し、河野通春を挟撃する形となった。
- 小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎 西暦1,451年7月頃、河野教通による城郭20ヶ所余の奪取を支援した面々。小早川・重見・森山氏・竹原は連携して通春方の抵抗勢力を制圧し、益田は吉田(現在の愛媛県宇和島市)で、吉川・周布は鐘挊尾・味酒(現在の愛媛県松山市)で戦功を挙げた。重見通実は同年9月14日、杉原伯耆守・小早川盛景に合力を依頼している。
- 吉川経信 西暦1,452年11月頃、室町幕府から伊予国へ発向し、河野教通を支援する形で森山氏を征伐する様命じられた。
- 毛利豊元・毛利煕元・小早川煕平 西暦1,465年10月17日・29日、細川勝元が毛利豊元に河野通春征伐の支援と出兵を求めた。同年12月頃には通春の勢力が衰退しない為、重ねて毛利煕元・小早川煕平にも援軍が依頼された。
- 大野氏・森山氏・重見氏 西暦1,465年9月頃、細川勝元の影響を受けて河野通春に反抗し、通春を湯築城から追い払った。同月15日には細川勝元が大野氏に直接征伐を命じている。西暦1,469年6月13日には、西幕府が大野氏・通春に河野通秋・河野通光の征伐を命じた。
- 赤松政則 西暦1,467年9月8日、細川勝元と共に大物浦で大内政弘率いる瀬戸内水軍の上陸を阻止しようとしたが、撃破された。
- 南宮内少輔・得能三郎 河野通春方。西暦1,465年7月頃、大内教弘に呼応し、禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)にて自害した。
- 浅海氏・村上氏・忽那氏 西暦1,479年、細川義春の侵攻に際し、浅海氏等は神途城に籠城する河野通生の下へ馳せ参じた。村上氏・忽那氏等の水軍は細川方の水軍の補給路や退路を断ち、細川を阿波国へ潰走させた。
河野通春を巡る出来事と拠点の系譜
- 河野通春の生誕 西暦1,421年頃、河野通元の嫡男として河野通春が生誕した。本書の起点。
- 嘉吉の乱の遅参を理由とする征伐 西暦1,441年8月14日頃、河野教通が室町幕府の命を受け、嘉吉の乱での赤松家征伐に遅参した事を理由に、予州家当主河野通春の征伐を開始した。
- 第11代伊予国守護就任 西暦1,449年2月頃、河野通春が細川勝元の支援を受け、第11代室町幕府伊予国守護に就任した。
- 城郭20ヶ所余の奪取 西暦1,451年7月頃、河野教通が小早川盛景・重見通実・森山氏・竹原盛景・益田兼堯・吉川三郎・周布次郎の支援により、通春に呼応した城郭20ヶ所余を奪取した。同年9月14日には重見通実が杉原伯耆守・小早川盛景に合力を依頼している。
- 森山城の挙兵と浄寂寺への課役停止 西暦1,452年11月頃、河野通春方の森山氏が森山城(現在の愛媛県伊予市大平)で挙兵し、室町幕府は吉川経信に征伐を命じた。同月20日、通春は浄寂寺(現在の愛媛県今治市五十嵐)に対する諸給人の干渉及び段銭等の課役を停止している。
- 第13代伊予国守護への改補 西暦1,453年6月頃、細川勝元が足利義政の意向を聞かぬ儘、河野通春を第13代室町幕府伊予国守護として改補した。通春の帰国を援助した村上吉資には、同月21日に賞する御教書が発せられている。細川の独断は足利との対立を生み、細川は管領職を辞任しようとしたが慰留された。
- 伊予国守護職の罷免 西暦1,456年2月5日、室町幕府が河野通春の伊予国守護職を罷免し、細川勝元を第14代室町幕府伊予国守護に任命した。細川は土佐国守護職との兼任となり、予州家が河野氏宗家に対して優勢となった。
- 河野教通の申状 西暦1,461年1月頃、河野教通が室町幕府に対し、古代以来の先祖の勲功を列挙した上で、河野通春が細川勝元によって伊予国守護に据えられ河野家の家督を継いだ不慮の儀を嘆き、伊予国守護職と御恩地の返還を要求する申状を提出した。
- 湯築城の放棄と退却 西暦1,462年6月頃、細川成之率いる軍が東予から進軍し、南予の宇都宮安綱も北上する。圧倒的な兵力差を前に、河野通春は湯築城(現在の愛媛県松山市道後公園)を一旦捨て、高縄山(現在の愛媛県松山市猿川)・港山城・忽那諸島・来島(現在の愛媛県今治市来島小島)へ退却した。
- 桜三里での合流と補給路の遮断 西暦1,462年11月頃、河野教通率いる軍が桜三里(現在の愛媛県東温市河之内周辺)付近で細川成之の軍勢に合流した。包囲網に窮した河野通春は、海賊衆に細川率いる軍の補給路を断たせて難を逃れた。
- 国人衆の寝返り 西暦1,463年、細川成之の被官達が伊予国に駐留し続けたが、河野通春に同情したり細川の介入を嫌って河野方へ寝返る地元の国人衆が続出した。
- 大内教弘への征伐命令と支援転向 西暦1,464年12月11日、畠山政長の第19代管領就任と同日、室町幕府が相国寺の僧承勲を遣わせて大内教弘に河野通春征伐を命じた。西暦1,465年7月頃に伊予国へ入った大内は、途上の病を板坂三位に治療され、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如通春を支援する。之に呼応した南宮内少輔・得能三郎等は禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)で自害し、土佐国一方守護代細川持益は通春に降伏した。
- 湯築城からの追放と港山城籠城 西暦1,465年9月頃、細川勝元が讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、大野氏・森山氏・重見氏に河野通春を圧迫させて湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させた。通春は港山城に籠城し、伊予国に居た河野通生と繋がって細川勢と対峙した。
- 大内教弘の病没と大内政弘の家督相続 西暦1,465年9月23日、大内教弘が興居島(現在の愛媛県松山市)で病没し、大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援して室町幕府と対峙する。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。
- 細川勝元の援軍要請 西暦1,465年10月頃、細川勝元方の兵が伊予国へ進軍したが、河野通春は大内教弘の援軍を受けて之を退けた。同月17日・29日、細川勝元は毛利豊元に支援と出兵を求め、新開遠江守等の戦死を伝えている。12月頃には重ねて毛利煕元・小早川煕平にも援軍を依頼した。
- 大内政弘への説得 西暦1,466年10月30日頃、室町幕府が河野通春の孤立を意図し、第18代相国寺鹿苑院(現在の京都府京都市上京区相国寺門前町)僧録龍崗真圭に、大内政弘へ支援を止める様説得させた。
- 山口出発と上洛 西暦1,467年6月11日、大内政弘が周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発。其の中には河野通春と陶弘房が居た。8月19日、20,000~30,000名で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入り、此の内2,000~3,000名を通春が率いていた。
- 大物浦の戦 西暦1,467年9月8日、大内政弘が河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂で上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦して撃破した。此の戦闘で河野通春等は戦功を挙げている。大内率いる軍は尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣した。
- 東寺への祈祷依頼と地頭職安堵 西暦1,468年1月17日、河野通春が摂津国を進発するに当たり東寺に祈祷を依頼した。同年6月8日には東寺に温泉郡味酒郷(現在の愛媛県松山市味酒町)内上方地頭職を安堵している。
- 河野教通への西軍同心の書簡 西暦1,468年12月頃、河野通春が河野教通へ書簡を送り、西軍への同心を促した。摂津国の合戦により自身が守護に補任された事を伝えつつ、家名を上げる上では何方が守護になっても同じだと記している。
- 河野教通の第17代伊予国守護就任 西暦1,473年12月11日、河野教通が足利義政からの伊予国守護職の補任状を受け取り、第17代室町幕府伊予国守護に就任した。
- 東軍帰順と第18代伊予国守護就任 西暦1,477年5月31日、河野通春が東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に下り、足利義尚の安堵を取り付けた。同年12月頃、陣所を引き払って伊予国へ帰国し、第18代室町幕府伊予国守護に任じられた。
- 和気郡での交戦 西暦1,478年1月15日、河野通春が三島神社に禁制を掲げた。同年11月20日には和気郡(現在の愛媛県松山市)で河野通秋と交戦し、大内政弘に支援を求めて呉・能美(現在の広島県江田島市)・蒲刈(現在の広島県呉市)から援軍を得た。
- 細川義春の侵攻と一時和睦 西暦1,479年、細川成之の弐男細川義春率いる軍が阿波国から伊予国へ侵攻し、河野通春と河野教通は一時和睦した。河野通生が神途城(現在の愛媛県松山市猿川)に籠城して指揮を取り、浅海氏等が馳せ参じ、村上氏・忽那氏等の水軍が細川方の補給路や退路を断った為、細川は諸城の攻略を果たせぬ儘阿波国へ潰走した。然し其の後、通春と教通は再び争う事となった。
- 港山城での病没 西暦1,482年8月28日、河野通春が居城の港山城(現在の愛媛県松山市港山)にて病没した。本書の終着点。
湯築城から港山城へ、そして瀬戸内を越えて京都へ──
河野通春の生誕から病没までの61年を一冊に。
JPY 200(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。