電子書籍「明応の政変一元化」の表紙

明応の政変一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,490年5月16日〜1,493年6月15日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
7ページ
文字数
3,043字
最新更新日
西暦2,026年10月6日

細川政元の挙兵から、正覚寺城の落城へ──
足利義稙が龍安寺に幽閉される迄を一元化。

161円(税込)

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本書について

西暦1,490年5月16日、日野富子が、小川殿を足利義稙の従兄弟の足利義澄に与える事を決定する。此れにより、日野富子が細川政元と内談して足利義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。本書は、此の噂から、畠山義豊征伐の為の足利義稙の出陣、細川政元の挙兵、正覚寺城の落城を経て、西暦1,493年6月15日に足利義稙が龍安寺に幽閉される迄を一元化した記録である。

西暦1,491年1月21日、畠山義就が死去する。西暦1,492年2月25日、細川政元が、畠山義豊の使者と接触する。西暦1,493年2月頃、畠山政長が、自身と敵対する第17代室町幕府河内国守護畠山義豊の征伐を足利義稙に依頼する。政長は、畠山義就の死を河内国奪回の機会と捉えていた。

西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪(現在の京都府京田辺市薪地区)に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)衆等も参陣した。義稙は此の日、八幡(現在の京都府)まで進軍し、善法律寺(現在の京都府八幡市八幡馬場)に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。又此の日、筒井党は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵した筒井順賢の後見人の成身院順盛は、越智・古市方の小城を次々と落城させた。更に、京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田(現在の奈良県大和郡山市)から長安寺(現在の奈良県大和郡山市)に進軍し、十市郷(現在の奈良県橿原市)まで攻勢を掛け矢木市(現在の奈良県橿原市)を焼き払った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。

西暦1,493年3月12日、足利義稙率いる軍が、正覚寺城(現在の大阪府大阪市平野区加美正覚寺)に布陣する。3月14日、足利義稙方の斎藤氏が、畠山義豊方との合戦の末、藤井寺に打ち入る。3月17日頃、十市遠清が、越智家栄方の反撃に遭い、宇陀(現在の奈良県)に敗走する。4月1日頃、足利義稙率いる軍が、野崎城(現在の大阪府大東市野崎)・犬田城(現在の大阪府枚方市印田町)を征圧する。4月6日、細川政元の密使が、越智家栄の下を訪れる。細川政元のクーデター計画を知った越智家栄・古市澄胤は喜んだ。4月9日頃、足利義稙方が、雪宮城(現在の大阪府羽曳野市軽里付近)を落城させる。城衆4名を殺害した。4月12日、足利義稙方と畠山義豊方の合戦が発生し、畠山義豊方の拠点である誉田城・道明寺(現在の大阪府藤井寺市)が焼ける。畠山義豊は、自身の軍勢を高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)に引き入れた。4月15日頃、足利義稙率いる軍が、畠山義豊の居城である高屋城を包囲し、攻撃を開始する。4月16日の時点で、足利義稙率いる軍の配置は、足利義稙(正覚寺)・畠山政長(行基の宮(現在の大阪府羽曳野市古市の白鳥神社付近))・畠山尚順(大田若林(現在の大阪府羽曳野市)・野遠(現在の大阪府堺市北区)・野々瀬(現在の大阪府松原市北新町の布忍神社付近)、越中国・安芸国・石見国の衆を率いた)・遊佐長直(藤井寺)・斎藤・紀伊国の衆(藤井寺の西の野)・斯波義寛(国府(現在の大阪府藤井寺市))・大内政弘(丹下(現在の大阪府大阪市平野区長吉長原付近))・赤松政則(南庄(現在の大阪府堺市堺区))・武田元信(八尾)であった。

西暦1,493年5月7日夜、細川政元が、遊初軒(現在の京都府京都市上京区)に足利義澄を迎え入れて保護した上で、挙兵する。更に細川政元は、足利義澄を征夷大将軍として擁立する事と、畠山政長の河内国守護職を罷免する事の2点を発表した。5月8日、細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。三宝院・曇花院(現在の京都府京都市右京区嵯峨北堀町)・慈照寺等が破壊された。又、日野富子は細川政元支持を表明し、義稙に付いていた諸将は、足利義澄に従う様記した伊勢貞宗の密書を受け取った。5月10日、斯波義寛・武田元信・細川尚春率いる軍が堺に入り、細川政元に付く。5月13日、足利義澄が還俗する。又此の日、赤松政則・細川義春が誉田城に入り、細川政元に付く。5月16日頃、細川政元が、細川元治・丹波国守護代上原元秀・安富元家を足利義稙・畠山政長征伐の為、河内国に派遣する。

5月21日、畠山政長方の籠城していた廿山城(現在の大阪府富田林市)が落城する。又5月21日頃、大和国の畠山政長方の国人である筒井氏・十市氏・箸尾氏が、相次いで自焼没落する。筒井氏は、筒井城(現在の奈良県大和郡山市筒井町)を自焼し、東山内(現在の奈良県山辺郡山添村・宇陀郡曽爾村・宇陀郡御杖村・宇陀市・奈良市柳生町・生駒市東山町・桜井市)へ没落した。十市氏は、十市城(現在の奈良県橿原市十市町)を自焼し、東山内へ没落した。箸尾氏は、箸尾城(現在の奈良県北葛城郡広陵町弁財天)を自焼し、多武峰へ没落した。又5月21日から2日間、藤井寺にて、足利義稙方と細川政元方の間で戦闘となる。結果、上原元秀・安富元家は畠山尚順を破った。尚順は、正覚寺城へ退却し、足利義稙・畠山政長・遊佐長直等と合流した。6月3日、根来寺衆を率いる足利義稙方の斎藤氏が、正覚寺城に到着する。正覚寺城南口に構えていた安富元家方の誉田氏は、直様斎藤氏の下へ向かった。6月5日、赤松政則率いる軍が、堺付近にて根来寺衆を破る。又6月5日頃、上原元秀率いる軍が、天王寺から正覚寺城の西に進軍し、足利義稙方と合戦する。其の後、上原元秀は、天王寺木村邊に戻り、逗留した。6月6日、細川政元が派遣した畠山義豊・赤松政則率いる40,000名の軍勢が、畠山政長等が籠城する足利義稙の本陣である正覚寺城を包囲する。又此の日、上原元秀が、畠山義豊から河内国17ヶ所を拝領する。

6月8日夕方、畠山義豊・赤松政則率いる軍が、正覚寺城に総攻撃を仕掛ける。6月9日、正覚寺城が落城する。畠山政長は、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。政長の部下の越中衆も後に続いた。尚順は虎口を脱出し、紀伊国で再挙を図る事となった。遊佐長直は討ち取られ、足利義稙・葉室光忠は捕縛され、上原元秀に降伏した。越中国の神保家・椎名家は、此の政変により打撃を受けた。6月13日、上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。6月15日、上原元秀が、足利義稙を伴い京都へ帰還する。此の際、足利義稙は、古い板輿に乗せられ、6名の近臣を付ける事しか許されなかった。そして足利義稙は、多数の見物人の居る中で、龍安寺(現在の京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町)に幽閉された。小川殿の譲渡の決定から、足利義稙の出陣、細川政元の挙兵、正覚寺城の落城を経て、龍安寺への幽閉に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 足利義稙 西暦1,490年5月16日、日野富子が、小川殿を足利義稙の従兄弟の足利義澄に与える事を決定する。西暦1,493年2月頃、畠山政長が、畠山義豊の征伐を足利義稙に依頼する。3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。義稙は此の日、八幡まで進軍し、善法律寺に布陣した。3月12日、足利義稙率いる軍が、正覚寺城に布陣する。4月15日頃、足利義稙率いる軍が、畠山義豊の居城である高屋城を包囲し、攻撃を開始する。5月7日夜、細川政元が、足利義澄を迎え入れて保護した上で、挙兵する。5月8日、細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。6月6日、細川政元が派遣した畠山義豊・赤松政則率いる40,000名の軍勢が、足利義稙の本陣である正覚寺城を包囲する。6月9日、正覚寺城が落城する。足利義稙・葉室光忠は捕縛され、上原元秀に降伏した。6月15日、上原元秀が、足利義稙を伴い京都へ帰還する。此の際、足利義稙は、古い板輿に乗せられ、6名の近臣を付ける事しか許されなかった。そして足利義稙は、多数の見物人の居る中で、龍安寺に幽閉された。
  • 細川政元 西暦1,490年5月16日、日野富子が、小川殿を足利義澄に与える事を決定する。此れにより、日野富子が細川政元と内談して足利義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。西暦1,492年2月25日、細川政元が、畠山義豊の使者と接触する。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。4月6日、細川政元の密使が、越智家栄の下を訪れる。5月7日夜、細川政元が、遊初軒に足利義澄を迎え入れて保護した上で、挙兵する。更に、足利義澄を征夷大将軍として擁立する事と、畠山政長の河内国守護職を罷免する事の2点を発表した。5月8日、細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。5月16日頃、細川政元が、細川元治・上原元秀・安富元家を足利義稙・畠山政長征伐の為、河内国に派遣する。6月13日、上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。
  • 足利義澄 足利義稙の従兄弟。西暦1,490年5月16日、日野富子が、小川殿を足利義澄に与える事を決定する。此れにより、日野富子が細川政元と内談して足利義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。西暦1,493年5月7日夜、細川政元が、遊初軒に足利義澄を迎え入れて保護した上で、挙兵する。更に細川政元は、足利義澄を征夷大将軍として擁立する事等を発表した。5月8日、細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。又、義稙に付いていた諸将は、足利義澄に従う様記した伊勢貞宗の密書を受け取った。5月13日、足利義澄が還俗する。
  • 日野富子 西暦1,490年5月16日、小川殿を足利義稙の従兄弟の足利義澄に与える事を決定する。此れにより、日野富子が細川政元と内談して足利義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。西暦1,493年5月8日、細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。又、日野富子は細川政元支持を表明した。
  • 畠山政長 西暦1,493年2月頃、自身と敵対する第17代室町幕府河内国守護畠山義豊の征伐を足利義稙に依頼する。政長は、畠山義就の死を河内国奪回の機会と捉えていた。3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長は、先陣として牧に布陣して参陣した。4月16日の時点で、畠山政長は行基の宮に配置されていた。5月7日夜、細川政元が挙兵し、畠山政長の河内国守護職を罷免する事等を発表した。6月6日、細川政元が派遣した畠山義豊・赤松政則率いる40,000名の軍勢が、畠山政長等が籠城する正覚寺城を包囲する。6月9日、正覚寺城が落城する。畠山政長は、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。政長の部下の越中衆も後に続いた。
  • 畠山尚順 畠山政長の嫡男。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山尚順等も参陣した。4月16日の時点で、畠山尚順は大田若林・野遠・野々瀬に配置され、越中国・安芸国・石見国の衆を率いた。5月21日から2日間、藤井寺にて、足利義稙方と細川政元方の間で戦闘となる。結果、上原元秀・安富元家は畠山尚順を破った。尚順は、正覚寺城へ退却し、足利義稙・畠山政長・遊佐長直等と合流した。6月9日、正覚寺城が落城する。畠山政長は、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。尚順は虎口を脱出し、紀伊国で再挙を図る事となった。
  • 畠山義豊 第17代室町幕府河内国守護。西暦1,492年2月25日、細川政元が、畠山義豊の使者と接触する。西暦1,493年2月頃、畠山政長が、畠山義豊の征伐を足利義稙に依頼する。3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。4月12日、足利義稙方と畠山義豊方の合戦が発生し、畠山義豊方の拠点である誉田城・道明寺が焼ける。畠山義豊は、自身の軍勢を高屋城に引き入れた。4月15日頃、足利義稙率いる軍が、畠山義豊の居城である高屋城を包囲し、攻撃を開始する。6月6日、細川政元が派遣した畠山義豊・赤松政則率いる40,000名の軍勢が、正覚寺城を包囲する。又此の日、上原元秀が、畠山義豊から河内国17ヶ所を拝領する。6月8日夕方、畠山義豊・赤松政則率いる軍が、正覚寺城に総攻撃を仕掛ける。
  • 畠山義就 西暦1,491年1月21日、死去する。西暦1,493年2月頃、畠山政長が、畠山義豊の征伐を足利義稙に依頼する。政長は、畠山義就の死を河内国奪回の機会と捉えていた。3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。
  • 畠山政近 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政近等も参陣した。
  • 伊勢貞宗 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。細川政元は反対し、出陣しなかった。伊勢貞宗も反対に回った。5月8日、細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。又、義稙に付いていた諸将は、足利義澄に従う様記した伊勢貞宗の密書を受け取った。
  • 葉室光忠 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。葉室光忠は、先陣として参陣した。6月9日、正覚寺城が落城する。足利義稙・葉室光忠は捕縛され、上原元秀に降伏した。6月13日、上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。
  • 遊佐長直 西暦1,493年4月16日の時点で、足利義稙率いる軍の中で、遊佐長直は藤井寺に配置されていた。5月21日から2日間、藤井寺にて、足利義稙方と細川政元方の間で戦闘となる。結果、上原元秀・安富元家は畠山尚順を破った。尚順は、正覚寺城へ退却し、足利義稙・畠山政長・遊佐長直等と合流した。6月9日、正覚寺城が落城する。遊佐長直は討ち取られた。
  • 上原元秀 丹波国守護代。西暦1,493年5月16日頃、細川政元が、細川元治・上原元秀・安富元家を足利義稙・畠山政長征伐の為、河内国に派遣する。5月21日から2日間、藤井寺にて、足利義稙方と細川政元方の間で戦闘となる。結果、上原元秀・安富元家は畠山尚順を破った。6月5日頃、上原元秀率いる軍が、天王寺から正覚寺城の西に進軍し、足利義稙方と合戦する。其の後、上原元秀は、天王寺木村邊に戻り、逗留した。6月6日、畠山義豊から河内国17ヶ所を拝領する。6月9日、正覚寺城が落城する。足利義稙・葉室光忠は捕縛され、上原元秀に降伏した。6月13日、上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。6月15日、上原元秀が、足利義稙を伴い京都へ帰還する。
  • 安富元家 西暦1,493年5月16日頃、細川政元が、細川元治・上原元秀・安富元家を足利義稙・畠山政長征伐の為、河内国に派遣する。5月21日から2日間、藤井寺にて、足利義稙方と細川政元方の間で戦闘となる。結果、上原元秀・安富元家は畠山尚順を破った。6月3日、根来寺衆を率いる足利義稙方の斎藤氏が、正覚寺城に到着する。正覚寺城南口に構えていた安富元家方の誉田氏は、直様斎藤氏の下へ向かった。
  • 細川元治 西暦1,493年5月16日頃、細川政元が、細川元治・上原元秀・安富元家を足利義稙・畠山政長征伐の為、河内国に派遣する。
  • 細川義春 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。細川義春は、後陣として参陣した。5月13日、赤松政則・細川義春が誉田城に入り、細川政元に付く。
  • 細川尚春 西暦1,493年5月10日、斯波義寛・武田元信・細川尚春率いる軍が堺に入り、細川政元に付く。
  • 赤松政則 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。赤松政則は、山崎に布陣して参陣した。4月16日の時点で、赤松政則は南庄に配置されていた。5月13日、赤松政則・細川義春が誉田城に入り、細川政元に付く。6月5日、赤松政則率いる軍が、堺付近にて根来寺衆を破る。6月6日、細川政元が派遣した畠山義豊・赤松政則率いる40,000名の軍勢が、正覚寺城を包囲する。6月8日夕方、畠山義豊・赤松政則率いる軍が、正覚寺城に総攻撃を仕掛ける。
  • 斯波義寛 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。斯波義寛は、後陣として薪に布陣して参陣した。4月16日の時点で、斯波義寛は国府に配置されていた。5月10日、斯波義寛・武田元信・細川尚春率いる軍が堺に入り、細川政元に付く。
  • 武田元信 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。武田元信は、薪に布陣して参陣した。4月16日の時点で、武田元信は八尾に配置されていた。5月10日、斯波義寛・武田元信・細川尚春率いる軍が堺に入り、細川政元に付く。
  • 大内政弘・大内義興 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。大内政弘・大内義興等も参陣した。4月16日の時点で、大内政弘は丹下に配置されていた。
  • 土岐成頼 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。土岐成頼等も参陣した。
  • 越智家栄 畠山義豊配下。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。又、筒井順賢の後見人の成身院順盛は、越智・古市方の小城を次々と落城させた。3月17日頃、十市遠清が、越智家栄方の反撃に遭い、宇陀に敗走する。4月6日、細川政元の密使が、越智家栄の下を訪れる。細川政元のクーデター計画を知った越智家栄・古市澄胤は喜んだ。
  • 古市澄胤 畠山義豊配下。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。4月6日、細川政元の密使が、越智家栄の下を訪れる。細川政元のクーデター計画を知った越智家栄・古市澄胤は喜んだ。
  • 筒井氏・成身院順盛 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。又此の日、筒井党は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵した筒井順賢の後見人の成身院順盛は、越智家栄・古市澄胤方の小城を次々と落城させた。5月21日頃、大和国の畠山政長方の国人である筒井氏は、筒井城を自焼し、東山内へ没落した。
  • 十市遠清 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田から長安寺に進軍し、十市郷まで攻勢を掛け矢木市を焼き払った。3月17日頃、越智家栄方の反撃に遭い、宇陀(現在の奈良県)に敗走する。5月21日頃、大和国の畠山政長方の国人である十市氏は、十市城を自焼し、東山内へ没落した。
  • 箸尾氏 西暦1,493年5月21日頃、大和国の畠山政長方の国人である箸尾氏が、箸尾城(現在の奈良県北葛城郡広陵町弁財天)を自焼し、多武峰へ没落した。
  • 斎藤氏・根来寺衆 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。根来寺衆等も参陣した。3月14日、足利義稙方の斎藤氏が、畠山義豊方との合戦の末、藤井寺に打ち入る。4月16日の時点で、斎藤・紀伊国の衆は藤井寺の西の野に配置されていた。6月3日、根来寺衆を率いる足利義稙方の斎藤氏が、正覚寺城に到着する。6月5日、赤松政則率いる軍が、堺付近にて根来寺衆を破る。
  • 誉田氏 安富元家方。西暦1,493年6月3日、根来寺衆を率いる足利義稙方の斎藤氏が、正覚寺城に到着する。正覚寺城南口に構えていた安富元家方の誉田氏は、直様斎藤氏の下へ向かった。
  • 大友政親・大友義右 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。
  • 神保家・椎名家 西暦1,493年6月9日、正覚寺城が落城する。越中国の神保家・椎名家は、此の政変により打撃を受けた。

本書が記録する出来事

  • 小川殿の譲渡の決定(1,490年5月16日) 日野富子が、小川殿を足利義稙の従兄弟の足利義澄に与える事を決定する。此れにより、日野富子が細川政元と内談して足利義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。
  • 畠山義就の死去(1,491年1月21日) 畠山義就が死去する。
  • 畠山義豊の使者との接触(1,492年2月25日) 細川政元が、畠山義豊の使者と接触する。
  • 畠山義豊征伐の依頼(1,493年2月頃) 畠山政長が、自身と敵対する第17代室町幕府河内国守護畠山義豊の征伐を足利義稙に依頼する。政長は、畠山義就の死を河内国奪回の機会と捉えていた。
  • 足利義稙の出陣(1,493年3月3日) 足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪(現在の京都府京田辺市薪地区)に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)衆等も参陣した。義稙は此の日、八幡(現在の京都府)まで進軍し、善法律寺(現在の京都府八幡市八幡馬場)に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。又此の日、筒井党は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵した筒井順賢の後見人の成身院順盛は、越智・古市方の小城を次々と落城させた。更に、京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田(現在の奈良県大和郡山市)から長安寺(現在の奈良県大和郡山市)に進軍し、十市郷(現在の奈良県橿原市)まで攻勢を掛け矢木市(現在の奈良県橿原市)を焼き払った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。
  • 正覚寺城への布陣(1,493年3月12日) 足利義稙率いる軍が、正覚寺城(現在の大阪府大阪市平野区加美正覚寺)に布陣する。
  • 藤井寺への打ち入り(1,493年3月14日) 足利義稙方の斎藤氏が、畠山義豊方との合戦の末、藤井寺に打ち入る。
  • 十市遠清の敗走(1,493年3月17日頃) 十市遠清が、越智家栄方の反撃に遭い、宇陀(現在の奈良県)に敗走する。
  • 野崎城・犬田城の征圧(1,493年4月1日頃) 足利義稙率いる軍が、野崎城(現在の大阪府大東市野崎)・犬田城(現在の大阪府枚方市印田町)を征圧する。
  • 細川政元の密使の訪問(1,493年4月6日) 細川政元の密使が、越智家栄の下を訪れる。細川政元のクーデター計画を知った越智家栄・古市澄胤は喜んだ。
  • 雪宮城の落城(1,493年4月9日頃) 足利義稙方が、雪宮城(現在の大阪府羽曳野市軽里付近)を落城させる。城衆4名を殺害した。
  • 誉田城・道明寺の炎上(1,493年4月12日) 足利義稙方と畠山義豊方の合戦が発生し、畠山義豊方の拠点である誉田城・道明寺(現在の大阪府藤井寺市)が焼ける。畠山義豊は、自身の軍勢を高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)に引き入れた。
  • 高屋城の包囲(1,493年4月15日頃) 足利義稙率いる軍が、畠山義豊の居城である高屋城を包囲し、攻撃を開始する。
  • 足利義稙率いる軍の配置(1,493年4月16日) 此の日の時点で、足利義稙率いる軍の配置は、足利義稙(正覚寺)・畠山政長(行基の宮(現在の大阪府羽曳野市古市の白鳥神社付近))・畠山尚順(大田若林(現在の大阪府羽曳野市)・野遠(現在の大阪府堺市北区)・野々瀬(現在の大阪府松原市北新町の布忍神社付近)、越中国・安芸国・石見国の衆を率いた)・遊佐長直(藤井寺)・斎藤・紀伊国の衆(藤井寺の西の野)・斯波義寛(国府(現在の大阪府藤井寺市))・大内政弘(丹下(現在の大阪府大阪市平野区長吉長原付近))・赤松政則(南庄(現在の大阪府堺市堺区))・武田元信(八尾)であった。
  • 細川政元の挙兵(1,493年5月7日) 夜、細川政元が、遊初軒(現在の京都府京都市上京区)に足利義澄を迎え入れて保護した上で、挙兵する。更に細川政元は、足利義澄を征夷大将軍として擁立する事と、畠山政長の河内国守護職を罷免する事の2点を発表した。
  • 足利義稙の屋敷や寺院の襲撃(1,493年5月8日) 細川政元率いる軍が、足利義稙の屋敷や寺院を襲撃する。三宝院・曇花院(現在の京都府京都市右京区嵯峨北堀町)・慈照寺等が破壊された。又、日野富子は細川政元支持を表明し、義稙に付いていた諸将は、足利義澄に従う様記した伊勢貞宗の密書を受け取った。
  • 斯波義寛等の堺入り(1,493年5月10日) 斯波義寛・武田元信・細川尚春率いる軍が堺に入り、細川政元に付く。
  • 足利義澄の還俗(1,493年5月13日) 足利義澄が還俗する。
  • 赤松政則・細川義春の誉田城入り(1,493年5月13日) 赤松政則・細川義春が誉田城に入り、細川政元に付く。
  • 河内国への派遣(1,493年5月16日頃) 細川政元が、細川元治・丹波国守護代上原元秀・安富元家を足利義稙・畠山政長征伐の為、河内国に派遣する。
  • 廿山城の落城(1,493年5月21日) 畠山政長方の籠城していた廿山城(現在の大阪府富田林市)が落城する。
  • 大和国の国人の自焼没落(1,493年5月21日頃) 大和国の畠山政長方の国人である筒井氏・十市氏・箸尾氏が、相次いで自焼没落する。筒井氏は、筒井城(現在の奈良県大和郡山市筒井町)を自焼し、東山内(現在の奈良県山辺郡山添村・宇陀郡曽爾村・宇陀郡御杖村・宇陀市・奈良市柳生町・生駒市東山町・桜井市)へ没落した。十市氏は、十市城(現在の奈良県橿原市十市町)を自焼し、東山内へ没落した。箸尾氏は、箸尾城(現在の奈良県北葛城郡広陵町弁財天)を自焼し、多武峰へ没落した。
  • 藤井寺での戦闘(1,493年5月21日) 此の日から2日間、藤井寺にて、足利義稙方と細川政元方の間で戦闘となる。結果、上原元秀・安富元家は畠山尚順を破った。尚順は、正覚寺城へ退却し、足利義稙・畠山政長・遊佐長直等と合流した。
  • 斎藤氏の正覚寺城到着(1,493年6月3日) 根来寺衆を率いる足利義稙方の斎藤氏が、正覚寺城に到着する。正覚寺城南口に構えていた安富元家方の誉田氏は、直様斎藤氏の下へ向かった。
  • 根来寺衆の敗北(1,493年6月5日) 赤松政則率いる軍が、堺付近にて根来寺衆を破る。
  • 正覚寺城の西での合戦(1,493年6月5日頃) 上原元秀率いる軍が、天王寺から正覚寺城の西に進軍し、足利義稙方と合戦する。其の後、上原元秀は、天王寺木村邊に戻り、逗留した。
  • 正覚寺城の包囲(1,493年6月6日) 細川政元が派遣した畠山義豊・赤松政則率いる40,000名の軍勢が、畠山政長等が籠城する足利義稙の本陣である正覚寺城を包囲する。
  • 河内国17ヶ所の拝領(1,493年6月6日) 上原元秀が、畠山義豊から河内国17ヶ所を拝領する。
  • 正覚寺城への総攻撃(1,493年6月8日) 夕方、畠山義豊・赤松政則率いる軍が、正覚寺城に総攻撃を仕掛ける。
  • 正覚寺城の落城(1,493年6月9日) 正覚寺城が落城する。畠山政長は、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。政長の部下の越中衆も後に続いた。尚順は虎口を脱出し、紀伊国で再挙を図る事となった。遊佐長直は討ち取られ、足利義稙・葉室光忠は捕縛され、上原元秀に降伏した。越中国の神保家・椎名家は、此の政変により打撃を受けた。
  • 葉室光忠の処刑(1,493年6月13日) 上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。
  • 上原元秀の京都への帰還(1,493年6月15日) 上原元秀が、足利義稙を伴い京都へ帰還する。此の際、足利義稙は、古い板輿に乗せられ、6名の近臣を付ける事しか許されなかった。そして足利義稙は、多数の見物人の居る中で、龍安寺(現在の京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町)に幽閉された。本書の年表の最後の項目である。

擁立の噂から、龍安寺への幽閉へ──
明応の政変の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。