電子書籍「大友政親一元化」の表紙

大友政親一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,444年〜1,496年7月20日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
13ページ
最新更新日
西暦2,026年8月11日

九州三ヶ国侵攻・豊後国と筑後国の守護任命・義右への家督譲渡・大聖院宗心の離間工作・日田親胤の謀反と讒言・足利義稙と義澄を巡る父子分裂・田原親宗の府内侵攻失敗・筑前国逐電と船の遭難・舟木地蔵院幽閉・毒殺の噂と切腹──
大友家第16代当主が歩んだ52年を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,444年、大友親繁が第15代大友家当主となり、同年、大友親隆の娘を正室に迎えた。二人の間に産まれたのが、後の大友家第16代当主・大友政親である。本書は、此の生誕の年から、西暦1,496年7月20日に政親が舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)で切腹に追い込まれるまでの約52年間を、年月日単位で一元化した記録である。九州の一大名として幕府と大内家の間を渡り歩き、最後は実の息子との対立の果てに、家臣18名を道連れとして果てた男の生涯が、此処に一本の時系列として並ぶ。

西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出した。之を受けて大友親繁・大友政親の父子は、豊前国・筑前国・肥前国への侵攻を開始する。足利義政は更に親繁へ、長門国・周防国にも侵入する様命じた。応仁の乱の対立構図が、そのまま九州の国境線へ持ち込まれた形である。西暦1,476年9月頃には、室町幕府が大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国で合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じた。

西暦1,477年、足利義政は大友政親の家督継承を正式に認め、政親を豊後国・筑後国の守護に任じる。同年5月9日には、大内政弘が先年の下知状を持って大内教幸の周防国・長門国への渡海に協力せよとのお触れを出している事について、幕府が政親等に之を止めて上洛させよと命じた。翌西暦1,478年1月18日、政親は筆を執る——当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった。内藤氏に与した族は遺恨を止めたが、九州大乱の元になりかねない、と。調停者としての政親の目に映った、九州の不穏がそこに記されている。

西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った政親は、自身の嫡男大友義右に家督を譲った。義右は第17代大友家当主となる。然し翌西暦1,485年、大友親綱の六男・大聖院宗心が政親と義右の離間を図って工作していた事、そして大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、父子は対立した。義右は叔父の大内政弘の下へ逐電する。政親の正室は大内教弘の娘であり、大内家は敵であると同時に姻戚でもあった。西暦1,487年に二人は和解し、義右は大友家へ帰還している。

西暦1,489年、政親の異母弟である日田親胤が肥後国で謀反を起こした。政親は折悪しく上洛中であり、大友親繁の五男・大友親治が之を鎮圧して政親・義右を助ける。間も無く、大聖院宗心が義右の下へやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。之を信じた義右は激怒し、父子は再び対立する。西暦1,493年3月3日、足利義稙が畠山義豊征伐の為に出陣した折、対立する父子の立場は中央政局にも及んだ——政親は足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。同年10月11日頃、越中国の足利義稙勢が細川政元の派遣した軍勢を破って越中国全域を掌握すると、九州の政親等の遠方の大名も義稙を支持する様になる。

西暦1,494年6月頃、政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、大友義右を追放する狙いで府内(現在の大分県大分市)に侵攻した。然し義右は之を撃破し、田原は敗走する。同年10月20日、足利義稙が放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移って挙兵し、足利義澄・細川政元の打倒を宣言して全国の諸将へ檄を飛ばすと、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰と共に政親も呼応した。西暦1,496年、少弐家と大内家の争いへの対処、足利義稙の催促に如何に応じるかを巡って、父子の不和は再び表面化する。大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作が、其の背後にあった。

そして終わりは慌ただしく訪れる。西暦1,496年6月13日、大友政親は筑前国へ逐電した。同月23日、北九州の大内領へ侵攻すべく挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指して豊後国臼杵から出航する。然し船は遭難して赤間関へ流され、大内義興の家臣・杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。7月7日、大友義右が後継者の居ない儘病死する。此の際、政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。同月、大内義興は其の話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。7月20日、大友政親は舟木地蔵院にて切腹に追い込まれ、伴衆18名も後を追って自害した。本書は、此の日を以て筆を擱く。


主要登場人物

  • 大友政親 本書の中心人物。大友親繁の嫡男で、大友家第16代当主。西暦1,444年に生誕し、西暦1,468年11月頃から父と共に豊前国・筑前国・肥前国へ侵攻。西暦1,477年に足利義政から家督継承を正式に認められ、豊後国・筑後国の守護に任じられた。西暦1,484年に大内家の干渉を嫌って嫡男義右へ家督を譲るが、以後は離間工作と讒言により義右との対立を繰り返す。西暦1,496年6月13日に筑前国へ逐電し、同月23日に立花山城を目指して臼杵を出航するも船が遭難、赤間関で捕えられて舟木地蔵院に幽閉され、同年7月20日に切腹に追い込まれた。
  • 大友親繁 大友家第15代当主で、政親の父。西暦1,444年に当主となり、同年、大友親隆の娘を正室に迎えて政親を儲けた。西暦1,468年11月頃、細川勝元のお触れと足利義政の命を受けて、政親と共に豊前国・筑前国・肥前国及び長門国・周防国への侵攻を開始した。
  • 大友親隆の娘 西暦1,444年、大友親繁の正室として迎えられ、同年、政親を産んだ。本書の起点に立つ母。
  • 大友義右 大友政親の嫡男で、大友家第17代当主。西暦1,484年、大内家の干渉を嫌った政親から家督を譲られた。西暦1,485年に大聖院宗心の離間工作と大内家の干渉により政親と対立し、叔父の大内政弘の下へ逐電。西暦1,487年に和解して帰還するが、西暦1,489年には宗心の讒言を信じて再び対立した。西暦1,493年には父が足利義澄を支持する中で足利義稙を支持し、西暦1,494年6月頃には田原親宗の府内侵攻を撃破している。西暦1,496年7月7日、後継者の居ない儘病死し、政親による毒殺との噂が流れた。
  • 大友親治 大友親繁の五男。西暦1,489年、政親が上洛中であった折に日田親胤が肥後国で起こした謀反を鎮圧し、政親と大友義右を助けた。
  • 日田親胤 大友政親の異母弟。西暦1,489年、政親が上洛中であった折に肥後国で謀反を起こしたが、大友親治に鎮圧された。此の謀反は、後に大聖院宗心の讒言の材料とされた。
  • 大聖院宗心 大友親綱の六男。西暦1,485年に大友政親・大友義右の離間を図って工作し、父子対立の一因となった。西暦1,489年には日田親胤の謀反鎮圧の後に義右の下へやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言し、義右を激怒させて再対立を招いた。西暦1,496年にも父子の不和を再燃させる工作の中心にいた、本書を通して離間を仕掛け続けた人物。
  • 大友親綱 大聖院宗心の父。宗心は其の六男として本書に現れる。
  • 田原親宗 大友政親派の重臣で、筑後国詰郡代。西暦1,494年6月頃、大友義右を追放する狙いで府内(現在の大分県大分市)へ侵攻したが、義右に撃破されて敗走した。
  • 市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎 西暦1,496年、大聖院宗心と共に、大友政親・大友義右の不和を再び表面化させる工作を行った5名。
  • 大内教弘 大内家当主で、大友政親の岳父。政親の正室は大内教弘の娘であり、大友家と大内家は敵対しつつ姻戚関係にもあった。
  • 大内政弘 大内家当主で、大友義右の叔父。西暦1,468年11月頃、細川勝元が其の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第充て行う旨のお触れを出した事から、大友父子の九州侵攻の対象となった。西暦1,477年5月9日には、先年の下知状を持って大内教幸の周防国・長門国への渡海に協力せよとのお触れを出している。西暦1,485年、政親と対立した義右が身を寄せた先でもある。
  • 大内教幸 西暦1,476年9月頃、室町幕府から大友政親と共に、内藤藤左衛門尉・仁保盛安の豊前国での合戦を止めさせ和睦させる様命じられた。西暦1,477年5月9日には、大内政弘の下知状を持って周防国・長門国へ渡海しようとしていた。
  • 大内義興 大内家当主。西暦1,496年6月23日、遭難して赤間関へ流れ着いた大友政親を、家臣の杉信濃守に捕えさせて舟木地蔵院に幽閉した。同年7月頃、政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向けた。
  • 杉信濃守 大内義興の家臣。西暦1,496年6月23日、赤間関に流れ着いた大友政親を捕え、舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉した。
  • 内藤藤左衛門尉 西暦1,476年9月頃、仁保盛安と豊前国で合戦していた人物。室町幕府は大友政親・大内教幸に、之を止めさせて和睦させる様命じた。西暦1,478年1月18日の政親の記録では、内藤氏に与した族は遺恨を止めたとされる。
  • 仁保盛安 西暦1,476年9月頃、内藤藤左衛門尉と豊前国で合戦していた人物。政親の調停により合戦は止んだが、其の後に少弐方によって殺害され、国中が正体無き成り行きとなった。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。西暦1,468年11月頃、大友親繁に長門国・周防国への侵入を命じた。西暦1,477年には大友政親の家督継承を正式に認め、豊後国・筑後国の守護に任じている。
  • 足利義稙 第10代室町幕府征夷大将軍。西暦1,493年3月3日に畠山義豊征伐の為出陣し、大友義右が之を支持した。同年10月11日頃、越中国で細川政元の派遣した軍勢を破って越中国全域を掌握すると、九州の大友政親等の遠方の大名も支持へ回る。西暦1,494年10月20日には放生津城に移って挙兵し、足利義澄・細川政元の打倒を宣言、政親も之に呼応した。
  • 足利義澄 第11代室町幕府征夷大将軍。西暦1,493年、対立する父子のうち大友政親が支持した。西暦1,494年10月20日、足利義稙の放生津城挙兵による打倒宣言の対象となった。
  • 細川勝元 西暦1,468年11月頃、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出し、大友父子による九州三ヶ国侵攻の契機を作った。
  • 細川政元 西暦1,493年10月11日頃、越中国へ派遣した軍勢が足利義稙勢に破られた。西暦1,494年10月20日には、足利義稙の放生津城挙兵による打倒宣言の対象となった。
  • 少弐家 西暦1,478年1月18日の大友政親の記録に現れる勢力。政親の調停で合戦が止んだ後に仁保盛安を殺害し、国中を正体無き成り行きへ導いた。西暦1,496年の父子不和の再燃も、少弐家と大内家の争いへの対処が争点の一つであった。
  • 畠山義豊 西暦1,493年3月3日、配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、足利義稙の征伐の対象となった。
  • 畠山政長 西暦1,493年3月3日の畠山義豊征伐に先陣として参陣し、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣した。嫡男の畠山尚順も参陣している。
  • 畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰 西暦1,494年10月20日、足利義稙の放生津城での挙兵に、大友政親と共に呼応した諸将。

大友政親を巡る出来事と拠点の系譜

  • 大友政親の生誕 西暦1,444年、大友親繁が第15代大友家当主となり、同年、大友親隆の娘を正室に迎えた。二人の間に産まれたのが大友政親である。本書の起点。
  • 豊前国・筑前国・肥前国への侵攻開始 西暦1,468年11月頃、細川勝元が大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出した。之を受けて大友親繁・大友政親父子が三ヶ国への侵攻を開始し、足利義政は更に親繁へ長門国・周防国への侵入も命じた。
  • 内藤・仁保合戦の調停命令 西暦1,476年9月頃、室町幕府が大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国で合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じた。
  • 豊後国・筑後国の守護任命 西暦1,477年、足利義政が大友政親の家督継承を正式に認め、豊後国・筑後国の守護に任じた。大友家の本領を政親が正式に背負う事となった一年。
  • 大内教幸の渡海への対応命令 西暦1,477年5月9日、室町幕府が大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って大内教幸の周防国・長門国への渡海に協力せよとのお触れを出しているので、之を止めて上洛させよとの命を下した。
  • 仁保盛安の殺害と九州大乱の危惧 西暦1,478年1月18日、大友政親が記す——当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった。内藤氏に与した族は遺恨を止めたが、九州大乱の元になりかねない、と。
  • 大友義右への家督譲渡 西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、嫡男の大友義右へ家督を譲り、義右が第17代大友家当主に就任した。
  • 離間工作と義右の逐電 西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心による離間工作と、大内家の干渉が続いた事から政親は義右を疎ましく感じる様になり、父子は対立。義右は叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は大内教弘の娘であった。
  • 政親・義右の和解 西暦1,487年、大友政親と大友義右が和解し、義右は大内家から大友家へ帰還した。
  • 日田親胤の謀反と讒言 西暦1,489年、政親の異母弟日田親胤が肥後国で謀反を起こす。政親は上洛中であり、大友親繁の五男大友親治が鎮圧した。間も無く大聖院宗心が義右の下へやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言し、之を信じた義右は激怒して政親と再び対立した。
  • 足利義稙・義澄を巡る父子の支持分裂 西暦1,493年3月3日、足利義稙が畠山義豊征伐の為出陣した折、対立する父子のうち政親は足利義澄を、義右は義稙を支持した。同年10月11日頃、越中国の足利義稙勢が細川政元の派遣した軍勢を破って越中国全域を掌握すると、九州の政親等の遠方の大名も義稙を支持する様になる。
  • 田原親宗の府内侵攻失敗 西暦1,494年6月頃、政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、大友義右を追放する狙いで府内(現在の大分県大分市)へ侵攻したが、義右に撃破されて敗走した。
  • 放生津城の挙兵への呼応 西暦1,494年10月20日、足利義稙が放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移って挙兵し、足利義澄・細川政元の打倒を宣言して全国の諸将へ檄を飛ばす。畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰と共に、大友政親も呼応した。
  • 父子の不和の再燃 西暦1,496年、少弐家と大内家の争いへの対処や足利義稙の催促への応じ方を巡って、大友政親・大友義右の不和が再び表面化した。大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作が背後にあった。
  • 筑前国逐電と臼杵からの出航 西暦1,496年6月13日、大友政親が筑前国へ逐電。同月23日、北九州の大内領侵攻の為に挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指して豊後国臼杵から出航した。
  • 船の遭難と舟木地蔵院への幽閉 西暦1,496年6月23日、政親の船は遭難して赤間関へ流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。
  • 大友義右の急死と毒殺の噂 西暦1,496年7月7日、大友義右が後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。同月、大内義興は其の話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向けた。
  • 舟木地蔵院での切腹 西暦1,496年7月20日、大友政親が舟木地蔵院にて切腹に追い込まれ、伴衆18名も後を追って自害した。本書の終着点。

豊後国府内から筑前国へ、そして舟木地蔵院へ──
大友政親の生誕から切腹までの52年を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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