大友政親一元化
嫡男と対立し、舟木地蔵院で果てる──
大友政親の誕生から切腹迄を一元化。
151円(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,444年、大友親繁が第15代大友家当主となる。此の年、大友親繁は、大友親隆の娘を正室として迎えた。又此の年、大友親繁と大友親隆の娘の間に、大友政親が産まれた。本書は、此の大友政親の誕生から、大友義右への家督の譲渡、大友義右との対立を経て、西暦1,496年7月20日に大友政親が舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる迄を一元化した記録である。
西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・大友政親父子は、豊前国・筑前国・肥前国に侵攻を開始した。又、足利義政は大友親繁に、長門国・周防国にも侵入する様命じた。西暦1,476年9月頃、室町幕府が、大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。西暦1,477年、足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の守護に任じる。5月9日、室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。西暦1,478年1月18日、大友政親が、以下の内容を記す。「当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった。内藤氏に与した族は遺恨を止めたが、九州大乱の元になりかねない。」
西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。西暦1,487年、大友政親・大友義右が和解する。義右は、大内家から大友家に帰還した。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時、政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。
西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪(現在の京都府京田辺市薪地区)に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)衆等も参陣した。義稙は此の日、八幡(現在の京都府)まで進軍し、善法律寺(現在の京都府八幡市八幡馬場)に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。又此の日、筒井は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵した筒井の後見人の成身院順盛は、越智・古市方の小城を次々と落城させた。更に、京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田(現在の奈良県大和郡山市)から長安寺(現在の奈良県大和郡山市)に進軍し、十市郷(現在の奈良県橿原市)まで攻勢を掛け矢木市(現在の奈良県橿原市)を焼き払った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。
西暦1,493年10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集めた。九州の大友政親等の遠方の大名も、足利義稙を支持した。西暦1,494年6月頃、大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内(現在の大分県大分市)に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。10月20日、足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。6月13日、大友政親が、筑前国へ逐電する。6月23日、大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。7月7日、大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。7月頃、大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。7月20日、大友政親が、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。大友政親の誕生から、大友義右との対立と和解、舟木地蔵院への幽閉を経て、切腹に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 大友政親 西暦1,444年、大友親繁と大友親隆の娘の間に産まれる。西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・大友政親父子は、豊前国・筑前国・肥前国に侵攻を開始した。西暦1,477年、足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の守護に任じる。西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌い、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。西暦1,485年、大友政親・大友義右が対立する。西暦1,487年、大友義右と和解する。西暦1,489年、異母弟の日田親胤が肥後国にて謀反を起こす。此の時、政親は上洛中であった。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城に移り挙兵する。足利義稙は、足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、大友政親等が呼応した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。6月13日、筑前国へ逐電する。6月23日、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。7月20日、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。
- 大友親繁 西暦1,444年、第15代大友家当主となる。此の年、大友親隆の娘を正室として迎えた。又此の年、大友親繁と大友親隆の娘の間に、大友政親が産まれた。西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・大友政親父子は、豊前国・筑前国・肥前国に侵攻を開始した。又、足利義政は大友親繁に、長門国・周防国にも侵入する様命じた。
- 大友親隆の娘 西暦1,444年、大友親繁が、大友親隆の娘を正室として迎えた。又此の年、大友親繁と大友親隆の娘の間に、大友政親が産まれた。
- 大友義右 大友政親の嫡男。西暦1,484年、大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。西暦1,485年、大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。西暦1,487年、大友政親と和解し、大内家から大友家に帰還した。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。西暦1,494年6月頃、大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内に侵攻する。大友義右を追放するのが、田原親宗の狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。7月7日、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。
- 大友親治 大友親繁の五男。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時、政親は上洛中であった。此れは、大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。
- 日田親胤 大友政親の異母弟。西暦1,489年、肥後国にて謀反を起こす。此の時、政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧された。間も無くして、大聖院宗心が大友義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。
- 大聖院宗心 大友親綱の六男。西暦1,485年、大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧された。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。
- 大友親綱 西暦1,485年、大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親・義右が対立する。
- 田原親宗 大友政親派の重臣で筑後国詰郡代。西暦1,494年6月頃、府内(現在の大分県大分市)に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。
- 市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎 西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。
- 大内教弘 西暦1,485年、大友政親・大友義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。
- 大内政弘 西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。西暦1,477年5月9日、室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。西暦1,485年、大友政親・大友義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。大内政弘・大内義興等も参陣した。
- 大内教幸 西暦1,476年9月頃、室町幕府が、大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。西暦1,477年5月9日、室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。
- 大内義興 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。大内政弘・大内義興等も参陣した。西暦1,496年6月23日、大友政親が、立花山城を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、大友政親は赤間関に流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。7月頃、大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。
- 杉信濃守 大内義興の家臣。西暦1,496年6月23日、大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、大友政親は赤間関に流され、杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。
- 内藤藤左衛門尉 西暦1,476年9月頃、室町幕府が、大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。
- 仁保盛安 西暦1,476年9月頃、室町幕府が、大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。西暦1,478年1月18日、大友政親が、「当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった」と記す。
- 足利義政 西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・大友政親父子は、豊前国・筑前国・肥前国に侵攻を開始した。又、足利義政は大友親繁に、長門国・周防国にも侵入する様命じた。西暦1,477年、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の守護に任じる。
- 足利義稙 西暦1,493年3月3日、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。此の日、八幡まで進軍し、善法律寺に布陣した。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集めた。九州の大友政親等の遠方の大名も、足利義稙を支持した。西暦1,494年10月20日、放生津城に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であった。
- 足利義澄 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城に移り挙兵する。足利義稙は、足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。
- 細川勝元 西暦1,468年11月頃、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・大友政親父子は、豊前国・筑前国・肥前国に侵攻を開始した。
- 細川政元 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城に移り挙兵する。足利義稙は、足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。
- 少弐家 西暦1,478年1月18日、大友政親が、「当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった」と記す。西暦1,496年、大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であった。
- 畠山義豊 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。
- 畠山政長 西暦1,493年3月3日、足利義稙が、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順等も参陣した。
- 畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰 西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義稙は、足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
本書が記録する出来事
- 大友親繁の当主就任と大友政親の誕生(1,444年) 大友親繁が第15代大友家当主となる。此の年、大友親繁は、大友親隆の娘を正室として迎えた。又此の年、大友親繁と大友親隆の娘の間に、大友政親が産まれた。
- 細川勝元のお触れ(1,468年11月頃) 細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・大友政親父子は、豊前国・筑前国・肥前国に侵攻を開始した。又、足利義政は大友親繁に、長門国・周防国にも侵入する様命じた。
- 和睦の命令(1,476年9月頃) 室町幕府が、大友政親・大内教幸に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。
- 家督継承の承認と守護任命(1,477年) 足利義政が、大友政親の家督継承を正式に認め、大友政親を豊後国・筑後国の守護に任じる。
- 室町幕府の命(1,477年5月9日) 室町幕府が、大友政親等に対し、大内政弘が先年の下知状を持って、大内教幸が周防国・長門国へ渡海するので協力せよとのお触れを出しているので、此れを止めて上洛させよとの命を下す。
- 大友政親の記録(1,478年1月18日) 大友政親が、以下の内容を記す。「当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった。内藤氏に与した族は遺恨を止めたが、九州大乱の元になりかねない。」
- 大友義右への家督の譲渡(1,484年) 大内家の干渉を受ける事を嫌った大友政親が、自身の嫡男大友義右に家督を譲る。此れにより義右は、第17代大友家当主に就任した。
- 大友政親・大友義右の対立(1,485年) 大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。
- 大友政親・大友義右の和解(1,487年) 大友政親・大友義右が和解する。義右は、大内家から大友家に帰還した。
- 日田親胤の謀反(1,489年) 大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時、政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。
- 畠山義豊征伐の為の出陣(1,493年3月3日) 足利義稙が、畠山義豊配下の越智家栄・古市澄胤が寺社本所領を侵略しているとの理由により、畠山義豊征伐の為出陣する。畠山政長(先陣、牧(現在の京都府久世郡久御山町御牧地区)に布陣)・畠山政長の嫡男畠山尚順・畠山政近・斯波義寛(後陣、薪(現在の京都府京田辺市薪地区)に布陣)・赤松政則(山崎に布陣)・大内政弘・大内義興・武田元信(薪に布陣)・土岐成頼・葉室光忠(先陣)・細川義春(後陣)・根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)衆等も参陣した。義稙は此の日、八幡(現在の京都府)まで進軍し、善法律寺(現在の京都府八幡市八幡馬場)に布陣した。細川政元は、義豊は、畠山義就と異なり、室町幕府に対して表立って敵対的な行動は取っていなかったとして反対し、出陣しなかった。然し、出陣前の祝宴では義稙を饗応した。伊勢貞宗も反対に回った。又此の日、筒井は、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を落城させた。又、義稙に呼応して福住から筒井党を率いて挙兵した筒井の後見人の成身院順盛は、越智・古市方の小城を次々と落城させた。更に、京都に亡命していた十市遠清も義稙に呼応し、矢田(現在の奈良県大和郡山市)から長安寺(現在の奈良県大和郡山市)に進軍し、十市郷(現在の奈良県橿原市)まで攻勢を掛け矢木市(現在の奈良県橿原市)を焼き払った。対立する大友政親・大友義右に於いては、政親が足利義澄を支持し、義右は義稙を支持した。
- 足利義稙勢の勝利(1,493年10月11日頃) 越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利義稙は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集めた。九州の大友政親等の遠方の大名も、足利義稙を支持した。
- 田原親宗の府内侵攻(1,494年6月頃) 大友政親派の重臣で筑後国詰郡代の田原親宗が、府内(現在の大分県大分市)に侵攻する。大友義右を追放するのが狙いであった。然し義右は此れを撃破し、田原親宗は敗走した。
- 放生津城での挙兵(1,494年10月20日) 足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
- 大友政親・大友義右の不和(1,496年) 大友政親・大友義右の不和が再び表面化する。原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは大聖院宗心・市河親清・内宮内助・田北七郎兵衛・田原中務丞・小原新四郎の工作によって引き起こされた。
- 筑前国への逐電(1,496年6月13日) 大友政親が、筑前国へ逐電する。
- 豊後国臼杵からの出航(1,496年6月23日) 大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指し、豊後国臼杵から出航する。然し、船は遭難し、赤間関に流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。
- 大友義右の病死(1,496年7月7日) 大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。
- 大内義興の派兵(1,496年7月頃) 大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。
- 大友政親の切腹(1,496年7月20日) 大友政親が、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。本書の年表の最後の項目である。
大友政親、家督の譲渡から幽閉と切腹へ──
嫡男大友義右との対立を一元化。
151円(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。