壬生晴富が憂えた風雨で
朽ちた文庫の惨状、
言語不明瞭で狂乱状態となった
壬生雅久が書筐の書物を
売り払う一元化
朽ちてゆく文庫と、売り払われた文書──
壬生晴富から壬生于恒迄の記録を一元化。
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本書について
西暦1,477年12月頃、壬生晴富が、以下の主旨の内容を記す。「西暦1,471年12月頃、足利義政殿に命じられて文庫の屋根を葺き替えたが、既に数年が経ち、大きく損傷し、度重なる雨により壁が雪崩て、其の状態は言葉にならない程酷いものである。戦乱後も平穏無事であったが、今後は湿損するであろう。」本書は、此の壬生晴富の記録から、文庫の屋根の修繕、壬生雅久による文庫の文書の売却を経て、西暦1,533年頃に壬生于恒が記した内容迄を一元化した記録である。
西暦1,490年12月18日、静円房・三郎五郎・七郎三郎が文庫の屋根の南側を葺く。翌日は北側を葺く予定であるとした。12月19日、文庫の屋根が葺かれる。12月21日、文庫の屋根に、前日に明静房が受け取りに行って持って来た粟田口(現在の京都府京都市東山区・左京区)から買い入れた瓦が載せられる。又、文庫内の棚等を修繕し、番匠が作業に来て、河原者は壁土を塗った。更に、南側の廂等の外側に在った竹垣等が破損していた為、此の日から茂加利を結び始めた。東側は元々茂加利であったが、結び直した。北側の棚も、柱や壁に垂木を入れて補強する為、棚を破却した。櫃も同様に破損していた為、此の日修理が為された。其の後、土が崩れ落ちていたので、土を補充した。文庫の南東や南廂の竹垣が朽ちて壊れ、櫃を十数個取り出した所、文書は湿って損傷していた。又此の年、宗祇・細川政元等の尽力により、葺と板戸の修繕が行われた。
西暦1,493年、使者が周防国の大内館に派遣される。使者は、文庫等が破損した件に就いて、大内義興に修繕費用の援助を依頼した。西暦1,494年3月5日、官務壬生晴富が、以下の主旨の内容を記す。「文庫の修繕を行うに当たり、従来は諸国からの段銭・棟別銭或いは御倉からの納銭・御物の寄付等によって、毎回厳重な対応が為されて来ました。然し近年、其の様な措置が十分に行われず、土壁が崩れ落ち、庫内の柱が腐って朽ち、外からも内からも透けて見える状態となり、文書は日を追う毎に朽ちて損傷していました。西暦1,494年2月20日に強風が吹き、仮屋が倒れてしまった為、風雨により益々漏湿が酷くなり、言葉に尽くせない程の惨状です。諸家の文籍は全て紛失し、文庫に残された物は天下の明鏡として備えておくべき物であったにも拘らず、此の様な事態に至って滅失してしまうのは、誠に嘆かわしい限りです。」西暦1,495年2月10日、台風により、文庫の仮屋が破損する。其の為、文書を雨や露から守る為の修繕が行われた。
西暦1,496年5月頃、壬生晴富が、以下の内容を記す。「文庫の破損と修理の件に就いて、近年資金不足の為、修繕を行う事が出来ず、日を追う毎に朽ちて損傷が進んでいます。此の為、後土御門天皇が足利義澄殿に勅命を出し、足利殿も費用の徴収を命じましたが、捻出する事は出来ませんでした。又、文庫の仮屋は先日の大風雨で破損した後、まだ修繕されていない為、漏湿が酷く、言葉に尽くせない程の惨状です。」其の翌日、壬生晴富が、清元定・波々伯部氏に、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。6月頃の時点で、まだ文庫の修繕が為されておらず、風雨による漏湿が酷い状態であった。9月18日、文庫の仮屋の葺き替えを行い、適切に取り計らう様指示が出る。9月20日、文庫の仮屋の葺き替えに関し、上葺が完了する。雨の中でも作業を行い、3日間で完了した。10月6日、壬生晴富が町広光に対し、文庫の漏湿に関し報告する。西暦1,497年4月頃、三条西実隆が、文庫の破損に就いて後土御門天皇に奏聞する。後土御門天皇は、修繕の詳細や方法に就いて尋ねる様指示した。三条西実隆は、内々に押小路師富経由で申し付けた。
西暦1,504年12月4日、病により言語不明瞭で狂乱状態となった壬生雅久が、文庫の文書を売り払う。書筐の中は、殆ど書物が残っていなかった。
西暦1,518年10月27日、壬生于恒が、以下の主旨の内容を記す。「山城国の壬生(現在の京都府京都市中京区)にて、東松軒と田地約991.74㎡に関する論争が起こる。此の田地は、文庫の境内の下地に該当する為、公物に準ずるべきである。結論として、其の下地から得た収益物を当方に返付させた上で、私は田地の知行をし、継続的に文庫の修繕に努める事を命じる奉書を賜った。」西暦1,521年3月20日、前年に官務に補任された壬生于恒が、以下の内容を記す。「伊勢神宮に於いて遷宮の沙汰が有り、内々に記録者や神事の担当者を選んだ。然し、御装束の本様が選定されたにも拘らず、記録が見当たらない。文庫が退転した為に紛失したのだろうか。只々神慮に委ねるばかりで有る。」西暦1,525年、壬生于恒が、以下の内容を記す。「石清水八幡宮の遷宮の日時を決める際、陣儀を行うか否かで、準拠する例は略有るものの、石清水八幡宮の文書のみ見つからなかった。此れは文書を紛失した為で、広橋守光殿に報告した。」
西暦1,533年頃、壬生于恒が、1つの事案に就いて相談するとして、新たに私邸を構える事、又文庫の修繕に準じる様仰せられた事に就いて、後奈良天皇のご慈悲が有るとはいえ、京都の混乱により、此の件を放置する事は出来ない状況であり、2年1ヶ月が過ぎ、漸く太平の世となった今、ご裁断を賜りたいとの主旨の内容を記す。又、動乱の最中に文書が雑然とし、放置されている状態である事、蓬屋が川勝寺口の戦いによって破壊され、其の後様々な場所で寄宿や術策に手を尽くしたが、全て尽きてしまった事、阿保今雄以来の奉公を続ける様命じられ、益々家業に励むのが相応しいと考えている事も記している。壬生晴富が記した文庫の損傷から、文庫の屋根の修繕と壬生雅久による文庫の文書の売却を経て、壬生于恒が記した文書の紛失と蓬屋の破壊に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 壬生晴富 西暦1,477年12月頃、西暦1,471年12月頃に足利義政に命じられて文庫の屋根を葺き替えたが、既に数年が経ち、大きく損傷し、度重なる雨により壁が雪崩て、其の状態は言葉にならない程酷いものであるとの主旨の内容を記す。西暦1,494年3月5日、官務壬生晴富は、文庫の修繕の為の措置が近年十分に行われず、土壁が崩れ落ち、庫内の柱が腐って朽ちたとし、西暦1,494年2月20日に強風が吹き、仮屋が倒れてしまった為、風雨により益々漏湿が酷くなり、言葉に尽くせない程の惨状であるとの主旨の内容を記す。西暦1,496年5月頃、近年資金不足の為、文庫の修繕を行う事が出来ないと記す。其の翌日、清元定・波々伯部氏に、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。10月6日、町広光に対し、文庫の漏湿に関し報告する。
- 壬生雅久 西暦1,504年12月4日、病により言語不明瞭で狂乱状態となった壬生雅久が、文庫の文書を売り払う。書筐の中は、殆ど書物が残っていなかった。
- 壬生于恒 西暦1,518年10月27日、山城国の壬生(現在の京都府京都市中京区)にて、東松軒と田地約991.74㎡に関する論争が起こり、其の下地から得た収益物を自らの側に返付させた上で、田地の知行をし、継続的に文庫の修繕に努める事を命じる奉書を賜ったとの主旨の内容を記す。西暦1,521年3月20日、前年に官務に補任された壬生于恒は、伊勢神宮に於いて遷宮の沙汰が有ったが、御装束の本様が選定されたにも拘らず、記録が見当たらず、文庫が退転した為に紛失したのだろうかと記す。西暦1,525年、石清水八幡宮の遷宮の日時を決める際、石清水八幡宮の文書のみ見つからず、此れは文書を紛失した為で、広橋守光に報告したと記す。西暦1,533年頃、新たに私邸を構える事、又文庫の修繕に準じる様仰せられた事に就いて、京都の混乱により、此の件を放置する事は出来ない状況であり、2年1ヶ月が過ぎ、漸く太平の世となった今、ご裁断を賜りたいとの主旨の内容を記す。蓬屋が川勝寺口の戦いによって破壊された事も記している。
- 足利義政 西暦1,477年12月頃、壬生晴富が、西暦1,471年12月頃に足利義政に命じられて文庫の屋根を葺き替えたが、既に数年が経ち、大きく損傷したとの主旨の内容を記す。
- 足利義澄 西暦1,496年5月頃、壬生晴富が、文庫の修繕の資金不足の為、後土御門天皇が足利義澄に勅命を出し、足利義澄も費用の徴収を命じたが、捻出する事は出来なかったと記す。
- 後土御門天皇 西暦1,496年5月頃、壬生晴富が、文庫の修繕の資金不足の為、後土御門天皇が足利義澄に勅命を出したと記す。西暦1,497年4月頃、三条西実隆が、文庫の破損に就いて後土御門天皇に奏聞する。後土御門天皇は、修繕の詳細や方法に就いて尋ねる様指示した。
- 後奈良天皇 西暦1,533年頃、壬生于恒が、新たに私邸を構える事、又文庫の修繕に準じる様仰せられた事に就いて、後奈良天皇のご慈悲が有るとはいえ、京都の混乱により、此の件を放置する事は出来ない状況であるとの主旨の内容を記す。
- 大内義興 西暦1,493年、使者が周防国の大内館に派遣される。使者は、文庫等が破損した件に就いて、大内義興に修繕費用の援助を依頼した。
- 細川政元 西暦1,490年、宗祇・細川政元等の尽力により、文庫の葺と板戸の修繕が行われた。
- 宗祇 西暦1,490年、宗祇・細川政元等の尽力により、文庫の葺と板戸の修繕が行われた。
- 三条西実隆 西暦1,497年4月頃、文庫の破損に就いて後土御門天皇に奏聞する。後土御門天皇は、修繕の詳細や方法に就いて尋ねる様指示した。三条西実隆は、内々に押小路師富経由で申し付けた。
- 押小路師富 西暦1,497年4月頃、三条西実隆が、文庫の破損に就いて後土御門天皇に奏聞する。後土御門天皇は、修繕の詳細や方法に就いて尋ねる様指示した。三条西実隆は、内々に押小路師富経由で申し付けた。
- 町広光 西暦1,496年10月6日、壬生晴富が町広光に対し、文庫の漏湿に関し報告する。
- 広橋守光 西暦1,525年、壬生于恒が、石清水八幡宮の遷宮の日時を決める際、石清水八幡宮の文書のみ見つからず、此れは文書を紛失した為で、広橋守光に報告したと記す。
- 東松軒 西暦1,518年10月27日、壬生于恒が、山城国の壬生(現在の京都府京都市中京区)にて、東松軒と田地約991.74㎡に関する論争が起こったとの主旨の内容を記す。
- 清元定 西暦1,496年5月頃、壬生晴富が、文庫の破損と修理の件に就いて記した翌日、清元定・波々伯部氏に、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。
- 波々伯部氏 西暦1,496年5月頃、壬生晴富が、文庫の破損と修理の件に就いて記した翌日、清元定・波々伯部氏に、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。
- 静円房 西暦1,490年12月18日、静円房・三郎五郎・七郎三郎が文庫の屋根の南側を葺く。翌日は北側を葺く予定であるとした。
- 三郎五郎 西暦1,490年12月18日、静円房・三郎五郎・七郎三郎が文庫の屋根の南側を葺く。翌日は北側を葺く予定であるとした。
- 七郎三郎 西暦1,490年12月18日、静円房・三郎五郎・七郎三郎が文庫の屋根の南側を葺く。翌日は北側を葺く予定であるとした。
- 明静房 西暦1,490年12月21日、文庫の屋根に、前日に明静房が受け取りに行って持って来た粟田口(現在の京都府京都市東山区・左京区)から買い入れた瓦が載せられる。
- 阿保今雄 西暦1,533年頃、壬生于恒が、阿保今雄以来の奉公を続ける様命じられたとの主旨の内容を記す。
本書が記録する出来事
- 文庫の損傷に就いての記録(1,477年12月頃) 壬生晴富が、以下の主旨の内容を記す。「西暦1,471年12月頃、足利義政殿に命じられて文庫の屋根を葺き替えたが、既に数年が経ち、大きく損傷し、度重なる雨により壁が雪崩て、其の状態は言葉にならない程酷いものである。戦乱後も平穏無事であったが、今後は湿損するであろう。」
- 南側の屋根葺き(1,490年12月18日) 静円房・三郎五郎・七郎三郎が文庫の屋根の南側を葺く。翌日は北側を葺く予定であるとした。
- 文庫の屋根葺き(1,490年12月19日) 文庫の屋根が葺かれる。
- 屋根への瓦の設置(1,490年12月21日) 文庫の屋根に、前日に明静房が受け取りに行って持って来た粟田口(現在の京都府京都市東山区・左京区)から買い入れた瓦が載せられる。又、文庫内の棚等を修繕し、番匠が作業に来て、河原者は壁土を塗った。更に、南側の廂等の外側に在った竹垣等が破損していた為、此の日から茂加利を結び始めた。東側は元々茂加利であったが、結び直した。北側の棚も、柱や壁に垂木を入れて補強する為、棚を破却した。櫃も同様に破損していた為、此の日修理が為された。其の後、土が崩れ落ちていたので、土を補充した。文庫の南東や南廂の竹垣が朽ちて壊れ、櫃を十数個取り出した所、文書は湿って損傷していた。又此の年、宗祇・細川政元等の尽力により、葺と板戸の修繕が行われた。
- 大内館への使者の派遣(1,493年) 使者が周防国の大内館に派遣される。使者は、文庫等が破損した件に就いて、大内義興に修繕費用の援助を依頼した。
- 文庫の惨状に就いての記録(1,494年3月5日) 官務壬生晴富が、以下の主旨の内容を記す。「文庫の修繕を行うに当たり、従来は諸国からの段銭・棟別銭或いは御倉からの納銭・御物の寄付等によって、毎回厳重な対応が為されて来ました。然し近年、其の様な措置が十分に行われず、土壁が崩れ落ち、庫内の柱が腐って朽ち、外からも内からも透けて見える状態となり、文書は日を追う毎に朽ちて損傷していました。西暦1,494年2月20日に強風が吹き、仮屋が倒れてしまった為、風雨により益々漏湿が酷くなり、言葉に尽くせない程の惨状です。諸家の文籍は全て紛失し、文庫に残された物は天下の明鏡として備えておくべき物であったにも拘らず、此の様な事態に至って滅失してしまうのは、誠に嘆かわしい限りです。」
- 台風による仮屋の破損(1,495年2月10日) 台風により、文庫の仮屋が破損する。其の為、文書を雨や露から守る為の修繕が行われた。
- 資金不足に就いての記録(1,496年5月頃) 壬生晴富が、以下の内容を記す。「文庫の破損と修理の件に就いて、近年資金不足の為、修繕を行う事が出来ず、日を追う毎に朽ちて損傷が進んでいます。此の為、後土御門天皇が足利義澄殿に勅命を出し、足利殿も費用の徴収を命じましたが、捻出する事は出来ませんでした。又、文庫の仮屋は先日の大風雨で破損した後、まだ修繕されていない為、漏湿が酷く、言葉に尽くせない程の惨状です。」
- 屋根の葺き替えの申し付け(1,496年5月頃) 壬生晴富が、文庫の破損と修理の件に就いて記した翌日、清元定・波々伯部氏に、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。
- 風雨による漏湿(1,496年6月頃) 此の時点でまだ文庫の修繕が為されておらず、風雨による漏湿が酷い状態であった。
- 仮屋の葺き替えの指示(1,496年9月18日) 文庫の仮屋の葺き替えを行い、適切に取り計らう様指示が出る。
- 上葺の完了(1,496年9月20日) 文庫の仮屋の葺き替えに関し、上葺が完了する。雨の中でも作業を行い、3日間で完了した。
- 町広光への報告(1,496年10月6日) 壬生晴富が町広光に対し、文庫の漏湿に関し報告する。
- 三条西実隆の奏聞(1,497年4月頃) 三条西実隆が、文庫の破損に就いて後土御門天皇に奏聞する。後土御門天皇は、修繕の詳細や方法に就いて尋ねる様指示した。三条西実隆は、内々に押小路師富経由で申し付けた。
- 文庫の文書の売却(1,504年12月4日) 病により言語不明瞭で狂乱状態となった壬生雅久が、文庫の文書を売り払う。書筐の中は、殆ど書物が残っていなかった。
- 田地に関する論争の記録(1,518年10月27日) 壬生于恒が、以下の主旨の内容を記す。「山城国の壬生(現在の京都府京都市中京区)にて、東松軒と田地約991.74㎡に関する論争が起こる。此の田地は、文庫の境内の下地に該当する為、公物に準ずるべきである。結論として、其の下地から得た収益物を当方に返付させた上で、私は田地の知行をし、継続的に文庫の修繕に努める事を命じる奉書を賜った。」
- 伊勢神宮の遷宮に就いての記録(1,521年3月20日) 前年に官務に補任された壬生于恒が、以下の内容を記す。「伊勢神宮に於いて遷宮の沙汰が有り、内々に記録者や神事の担当者を選んだ。然し、御装束の本様が選定されたにも拘らず、記録が見当たらない。文庫が退転した為に紛失したのだろうか。只々神慮に委ねるばかりで有る。」
- 石清水八幡宮の遷宮に就いての記録(1,525年) 壬生于恒が、以下の内容を記す。「石清水八幡宮の遷宮の日時を決める際、陣儀を行うか否かで、準拠する例は略有るものの、石清水八幡宮の文書のみ見つからなかった。此れは文書を紛失した為で、広橋守光殿に報告した。」
- 壬生于恒の相談(1,533年頃) 壬生于恒が、1つの事案に就いて相談するとして、新たに私邸を構える事、又文庫の修繕に準じる様仰せられた事に就いて、後奈良天皇のご慈悲が有るとはいえ、京都の混乱により、此の件を放置する事は出来ない状況であり、2年1ヶ月が過ぎ、漸く太平の世となった今、ご裁断を賜りたいとの主旨の内容を記す。又、動乱の最中に文書が雑然とし、放置されている状態である事、蓬屋が川勝寺口の戦いによって破壊され、其の後様々な場所で寄宿や術策に手を尽くしたが、全て尽きてしまった事、阿保今雄以来の奉公を続ける様命じられ、益々家業に励むのが相応しいと考えている事も記している。本書の年表の最後の項目である。
屋根の葺き替えから、文書の紛失へ──
文庫の修繕と惨状の全過程を一元化。
151円(税込)
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