電子書籍「勧修寺に散った逸見繁経、普甲寺の乱戦で負けたと誤認し、九日城に退却して物笑いとなった垣屋出雲守一元化」の表紙

勧修寺に散った逸見繁経、
普甲寺の乱戦で負けたと誤認し、
九日城に退却して物笑いとなった
垣屋出雲守一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年6月27日〜1,471年6月20日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
文字数
2,028字
最新更新日
西暦2,026年10月5日

勧修寺は燃やされ、普甲寺では乱戦となった──
山科・醍醐と丹後国を巡る戦いを一元化。

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本書について

西暦1,467年6月27日、山名宗全が、分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏が呼応する。本書は、此の分国の兵の招集から、逸見繁経率いる軍の東山への出陣、武田信賢の丹後国守護就任、丹後国への討ち入り、西軍による勧修寺の襲撃、普甲寺の乱戦を経て、西暦1,471年6月20日に武田信賢が病死する迄を一元化した記録である。

西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢が布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。7月23日頃、武田信賢勢が、吉田神社(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)に兵を展開する。8月23日、若狭武田氏被官逸見繁経率いる軍が、東山に出陣する。8月31日、逸見繁経率いる軍が、山科郷・勧修寺(現在の京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町)から深草(現在の京都府京都市伏見区)に掛けてを襲撃する。

西暦1,469年1月頃、足利義政が、御料所である丹後国与謝郡(現在の京都府与謝郡伊根町・与謝野町、現在の京都府宮津市・京丹後市・福知山市)の分郡守護に摂津之親を任じる。此れにより摂津之親は、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。又、間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の門四郎家国が、李氏朝鮮に派遣された。1月31日、西軍が山科を襲撃する。武田信賢は、山科郷民と協力して此れを退けた。5月頃、武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。同時に、摂津之親の後任として、細川政国が、丹後国与謝郡の分郡守護に任じられた。5月4日、山名是豊の息子の山名頼忠が、九日城(現在の兵庫県豊岡市九日市上町)を攻める。5月12日、逸見真正が、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中(現在の京都府宮津市)に追い込むが、丹後国守護代延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。6月頃、観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり、武田信賢に京都の東口の確保が命じられる。武田信賢は、瓜生山(現在の京都府京都市左京区一乗寺松原町)に北白川城を築かせた。

9月頃、延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣する。そして、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。9月8日、武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆が、丹後国へ攻め入る。然し、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。

西暦1,470年7月頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)を拠点に、武田国信・多賀高忠や被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦う。8月15日、勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が、西軍の襲撃を受ける。結果、逸見繁経を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。8月16日、西軍が、醍醐寺(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)の東軍を破り、醍醐寺・民家を焼失させる。10月頃、武田信賢率いる軍が、如意ヶ嶽城に集結し、体制の立て直しを行う。然し此の頃から両軍で、寝返りが横行し始めた。

西暦1,471年2月頃、武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃、若狭武田氏が分郡守護を務める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。4月13日、山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋宗忠は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、留守居役として在城していた。垣屋平右衛門尉が宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付け、奈佐等を富辺羅山(現在の兵庫県豊岡市戸牧)に追い崩した。其の敗報を聞いた山名頼忠は敗走した。4月21日、垣屋宗忠が、普甲寺にて武田氏・天竺氏と交戦する。

4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名頼忠は退却した。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。此の普甲寺の戦は乱戦となり、垣屋出雲守は、戦線では勝っていたにも拘らず、負けたと思い戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。九日城には、山名宗全が、家臣であった垣屋宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。6月20日、武田信賢が病死する。分国の兵の招集から、西軍による勧修寺の襲撃と、普甲寺の乱戦を経て、武田信賢の病死に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 逸見繁経 若狭武田氏被官。西暦1,468年8月23日、逸見繁経率いる軍が、東山に出陣する。8月31日、逸見繁経率いる軍が、山科郷・勧修寺から深草に掛けてを襲撃する。西暦1,469年9月8日、武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆が、丹後国へ攻め入る。然し、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。西暦1,470年8月15日、勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が、西軍の襲撃を受ける。結果、逸見繁経を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。
  • 垣屋出雲守 西暦1,469年9月頃、延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺に布陣する。そして、延永直信率いる軍は、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。西暦1,471年4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名頼忠は退却した。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。此の普甲寺の戦は乱戦となり、垣屋出雲守は、戦線では勝っていたにも拘らず、負けたと思い戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。
  • 垣屋平右衛門尉 垣屋宗忠の息子。西暦1,469年9月頃、延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺に布陣する。そして、延永直信率いる軍は、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。西暦1,471年4月13日、山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋平右衛門尉が宵田城から駆け付け、奈佐等を富辺羅山に追い崩した。4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名頼忠は退却した。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。
  • 垣屋宗忠 山名宗全の家臣。西暦1,471年4月13日、山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋宗忠は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、留守居役として在城していた。4月21日、垣屋宗忠は、普甲寺にて武田氏・天竺氏と交戦する。4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。九日城には、山名宗全が、家臣であった垣屋宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
  • 武田信賢 西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢が布陣する醍醐・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。7月23日頃、武田信賢勢が、吉田神社に兵を展開する。西暦1,469年1月31日、西軍が山科を襲撃する。武田信賢は、山科郷民と協力して此れを退けた。5月頃、武田信賢は、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。6月頃、観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり、武田信賢に京都の東口の確保が命じられる。武田信賢は、瓜生山に北白川城を築かせた。9月8日、武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆が、丹後国へ攻め入る。然し、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。西暦1,470年10月頃、武田信賢率いる軍が、如意ヶ嶽城に集結し、体制の立て直しを行う。西暦1,471年4月23日、山名頼忠が、九日城を攻める。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。6月20日、武田信賢が病死する。
  • 武田国信 西暦1,470年7月頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城を拠点に、武田国信・多賀高忠や被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦う。
  • 武田元綱 西暦1,471年2月頃、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃、若狭武田氏が分郡守護を務める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。
  • 逸見真正 西暦1,469年5月12日、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。
  • 粟屋賢家 西暦1,469年5月12日、逸見真正が、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。
  • 粟屋元隆 武田信賢勢。西暦1,469年9月8日、逸見繁経と共に丹後国へ攻め入る。然し、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。
  • 天竺賢実 細川勝元方。西暦1,469年5月12日、逸見真正が、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中に追い込むが、丹後国守護代延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。9月頃、延永直信率いる軍が、垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺に布陣する。そして、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。西暦1,471年4月23日、山名頼忠が、九日城を攻める。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。
  • 延永直信 一色氏被官で丹後国守護代。西暦1,469年5月12日、逸見真正が、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中に追い込むが、延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。9月頃、延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺に布陣する。そして、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。9月8日、武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆が、丹後国へ攻め入る。然し、延永直信が此れを退けた。
  • 一色信長 西暦1,471年4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。
  • 細川政国 西暦1,469年5月頃、武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。同時に、摂津之親の後任として、細川政国が、丹後国与謝郡の分郡守護に任じられた。5月12日、逸見真正が、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中に追い込むが、丹後国守護代延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。
  • 摂津之親 西暦1,469年1月頃、足利義政が、御料所である丹後国与謝郡の分郡守護に摂津之親を任じる。此れにより摂津之親は、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。5月頃、武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。同時に、摂津之親の後任として、細川政国が、丹後国与謝郡の分郡守護に任じられた。
  • 足利義政 西暦1,469年1月頃、御料所である丹後国与謝郡の分郡守護に摂津之親を任じる。5月頃、武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。
  • 山名宗全 西暦1,467年6月27日、分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏が呼応する。西暦1,469年9月頃、延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺に布陣する。西暦1,471年4月13日、山名頼忠が、九日城に居た垣屋宗忠を攻撃する。垣屋宗忠は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、留守居役として在城していた。4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。九日城には、山名宗全が、家臣であった垣屋宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
  • 山名是豊 西暦1,469年5月4日、山名是豊の息子の山名頼忠が、九日城を攻める。
  • 山名頼忠 山名是豊の息子。西暦1,469年5月4日、九日城を攻める。西暦1,471年4月13日、山名頼忠は、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋平右衛門尉が宵田城から駆け付け、奈佐等を富辺羅山に追い崩した。其の敗報を聞いた山名頼忠は敗走した。4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名頼忠は退却した。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返した。
  • 奈佐太郎 西暦1,471年4月13日、山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋平右衛門尉が宵田城から駆け付け、奈佐等を富辺羅山に追い崩した。4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った。最終的に奈佐氏は滅びた。
  • 朝倉孝景 西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢が布陣する醍醐・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。
  • 赤松政則 西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢が布陣する醍醐・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。
  • 多賀高忠 西暦1,469年6月頃、観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり、武田信賢に京都の東口の確保が命じられる。西暦1,470年7月頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城を拠点に、武田国信・多賀高忠や被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦う。
  • 毛利豊元 西暦1,471年2月頃、武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。
  • 大内政弘 西暦1,471年2月頃、武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃、若狭武田氏が分郡守護を務める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。
  • 門四郎家国 西暦1,469年1月頃、間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の門四郎家国が、李氏朝鮮に派遣された。
  • 亀王丸 山名宗全の孫。西暦1,471年4月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。九日城には、山名宗全が、家臣であった垣屋宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。

本書が記録する出来事

  • 分国の兵の招集(1,467年6月27日) 山名宗全が、分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏が呼応する。
  • 醍醐・山科の襲撃(1,468年4月13日) 朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢が布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃する。赤松政則・武田信賢は退却した。
  • 吉田神社への兵の展開(1,468年7月23日頃) 武田信賢勢が、吉田神社(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)に兵を展開する。
  • 東山への出陣(1,468年8月23日) 若狭武田氏被官逸見繁経率いる軍が、東山に出陣する。
  • 山科郷・勧修寺から深草に掛けての襲撃(1,468年8月31日) 逸見繁経率いる軍が、山科郷・勧修寺(現在の京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町)から深草(現在の京都府京都市伏見区)に掛けてを襲撃する。
  • 摂津之親の分郡守護任命(1,469年1月頃) 足利義政が、御料所である丹後国与謝郡(現在の京都府与謝郡伊根町・与謝野町、現在の京都府宮津市・京丹後市・福知山市)の分郡守護に摂津之親を任じる。此れにより摂津之親は、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。又、間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の門四郎家国が、李氏朝鮮に派遣された。
  • 西軍の山科襲撃(1,469年1月31日) 西軍が山科を襲撃する。武田信賢は、山科郷民と協力して此れを退けた。
  • 武田信賢の丹後国守護就任(1,469年5月頃) 武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。同時に、摂津之親の後任として、細川政国が、丹後国与謝郡の分郡守護に任じられた。
  • 山名頼忠の九日城攻め(1,469年5月4日) 山名是豊の息子の山名頼忠が、九日城(現在の兵庫県豊岡市九日市上町)を攻める。
  • 丹後国への討ち入り(1,469年5月12日) 逸見真正が、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせる。此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中(現在の京都府宮津市)に追い込むが、丹後国守護代延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。
  • 京都の東口の確保の命令(1,469年6月頃) 観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり、武田信賢に京都の東口の確保が命じられる。武田信賢は、瓜生山(現在の京都府京都市左京区一乗寺松原町)に北白川城を築かせた。
  • 普甲寺への布陣(1,469年9月頃) 延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守率いる援軍と共に、普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣する。そして、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。
  • 丹後国への攻め入り(1,469年9月8日) 武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆が、丹後国へ攻め入る。然し、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。
  • 山科・勧修寺への出陣(1,470年7月頃) 此の頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)を拠点に、武田国信・多賀高忠や被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦う。
  • 勧修寺の襲撃(1,470年8月15日) 勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が、西軍の襲撃を受ける。結果、逸見繁経を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。
  • 醍醐寺の焼失(1,470年8月16日) 西軍が、醍醐寺(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)の東軍を破り、醍醐寺・民家を焼失させる。
  • 如意ヶ嶽城への集結(1,470年10月頃) 武田信賢率いる軍が、如意ヶ嶽城に集結し、体制の立て直しを行う。然し此の頃から両軍で、寝返りが横行し始めた。
  • 武田元綱の寝返り(1,471年2月頃) 武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃、若狭武田氏が分郡守護を務める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。
  • 垣屋宗忠への攻撃(1,471年4月13日) 山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋宗忠は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、留守居役として在城していた。垣屋平右衛門尉が宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付け、奈佐等を富辺羅山(現在の兵庫県豊岡市戸牧)に追い崩した。其の敗報を聞いた山名頼忠は敗走した。最終的に奈佐氏は滅びた。
  • 普甲寺での交戦(1,471年4月21日) 垣屋宗忠が、普甲寺にて武田氏・天竺氏と交戦する。
  • 九日城への攻撃(1,471年4月23日) 九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名頼忠に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名頼忠は退却した。垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守は反撃に転じ、山名頼忠を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。此の普甲寺の戦は乱戦となり、垣屋出雲守は、戦線では勝っていたにも拘らず、負けたと思い戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。九日城には、山名宗全が、家臣であった垣屋宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
  • 武田信賢の病死(1,471年6月20日) 武田信賢が病死する。本書の年表の最後の項目である。

分国の兵の招集から、武田信賢の病死へ──
勧修寺・普甲寺・九日城の戦いを一元化。

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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