電子書籍「勧修寺に散った逸見繁経・普甲寺の乱戦で、負けたと誤認し、九日城に退却して物笑いとなった垣屋出雲守一元化」の表紙

勧修寺に散った逸見繁経・
普甲寺の乱戦で、負けたと誤認し、
九日城に退却して物笑いとなった
垣屋出雲守一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年6月27日〜1,471年6月20日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月30日

山科郷の襲撃・勧修寺200名の討死・丹後国の天竺賢実討ち取り・富辺羅山の挟み撃ち・普甲寺の誤認退却──
武田と山名・垣屋・一色が交錯した4年間の丹後国・但馬国戦線を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1467年6月27日、山名宗全が応仁の乱の本格化を受けて分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏が呼応した日から、西暦1471年6月20日、京都の東口確保を担っていた武田信賢が病死した日まで。本書は、応仁の乱の主戦場である京都市街戦の陰で、若狭武田氏と一色義直を巡る丹後国守護職争奪戦、山名是豊・山名頼忠と垣屋宗忠・垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守の但馬国九日城を巡る攻防、そして武田信賢の被官として京都山科郷・勧修寺で奮戦した逸見繁経の戦闘から、勧修寺の防衛線で200名と共に散った最期、更には普甲寺の乱戦で戦線が勝っていたにも拘らず負けたと誤認し九日城に退却して物笑いとなった垣屋出雲守までを、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。

西暦1467年6月27日の山名宗全による分国動員と垣屋・田結庄・八木氏の呼応に始まり、西暦1468年4月13日に朝倉孝景が赤松政則・武田信賢の布陣する醍醐・山科を襲撃して退却させた前哨戦、同年7月23日の武田信賢勢による吉田神社展開、同年8月23日の若狭武田氏被官逸見繁経による東山出陣、同年8月31日の山科郷・勧修寺から深草に掛けての襲撃へと戦線が伸びていきます。西暦1469年1月、足利義政が摂津之親を丹後国与謝郡の分郡守護に任じて第19代室町幕府丹後国守護に据え、間人の門四郎家国を李氏朝鮮に派遣。同年1月31日に西軍の山科襲撃を武田信賢が山科郷民と協力して撃退、同年5月に武田信賢が足利義政から丹後国を与えられ第20代室町幕府丹後国守護に就任、摂津之親の後任として細川政国が分郡守護に任じられました。同年5月4日には山名是豊の息子山名頼忠が但馬国の九日城を攻撃し、同年5月12日に逸見真正が粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせ、細川政国も天竺賢実率いる軍を差し向けて一色氏を宮津湾や府中に追い込むも、丹後国守護代延永直信が必死の防戦に努めました。同年6月、観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり武田信賢が京都の東口確保を命じられ、瓜生山に北白川城を築城。同年9月、延永直信が山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守と共に普甲寺に布陣し、細川勝元方の天竺賢実を討ち取り、同年9月8日には武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆の丹後国侵攻を延永が再度退けました。

西暦1470年7月頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城を拠点に武田国信・多賀高忠及び被官が山科や勧修寺へ出陣して西軍と戦う中、同年8月15日、勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が西軍の襲撃を受け、逸見を始めとする200名が討たれて勧修寺は燃やされました。武田信賢の若狭武田氏被官として丹後国・京都東部の前線で奮戦し続けた逸見繁経の最期です。翌8月16日には西軍が醍醐寺の東軍を破って民家共々焼失させ、同年10月、武田信賢率いる軍が如意ヶ嶽城に集結して体制立て直しを図るも、両軍で寝返りが横行し始めます。西暦1471年2月には武田元綱が毛利豊元の誘いで大内政弘に与し西軍に寝返り、若狭武田氏の安芸国の分郡守護家が崩れる兆候を見せました。同年4月13日、山名頼忠が円山川東岸に布陣し奈佐太郎の支援を受けて九日城の垣屋宗忠を攻撃するも、宵田城から駆け付けた垣屋平右衛門尉が奈佐等を富辺羅山に追い崩し、敗報を聞いた山名頼忠は敗走、奈佐氏は滅亡。同年4月21日、垣屋宗忠が普甲寺で武田氏・天竺氏と交戦。同年4月23日、九日城の河向かいに布陣した山名頼忠が再度九日城を攻め、奈佐太郎が富辺羅山で垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにしようとしましたが、垣屋氏は富辺羅山を集中攻撃して破り、山名を普甲寺に押し返して武田信賢・天竺賢実を撃破。然し普甲寺の戦は乱戦となり、垣屋出雲守は戦線が勝っていたにも拘らず負けたと思い戦線を離脱し九日城に退却、物笑いとなりました。九日城には山名宗全が家臣垣屋宗忠と共に孫の亀王丸を養育しながら住み、同年6月20日に丹後国守護職を背負った武田信賢が病死するまで。応仁の乱の周辺戦線で交差した武田・一色・山名・垣屋の物語を、一冊に束ねた書です。


主要登場人物

  • 逸見繁経 若狭武田氏被官。1468年8月23日に東山に出陣、同月31日に山科郷・勧修寺から深草に掛けてを襲撃。1469年9月8日には粟屋元隆と共に丹後国へ攻め入るも延永直信に退けられ、1470年8月15日に勧修寺の防衛線で西軍の襲撃を受け、200名と共に討死し勧修寺は炎上した、本書の主人公の一人。
  • 垣屋出雲守 山名宗全方の但馬国国人。1469年9月に普甲寺で垣屋平右衛門尉と共に細川勝元方の天竺賢実を討ち取る活躍を見せたが、1471年4月23日の普甲寺の乱戦で戦線が勝っていたにも拘らず負けたと思い込んで戦線を離脱、九日城に退却して物笑いとなった、本書のもう一人の主人公。
  • 垣屋平右衛門尉 垣屋宗忠の息子。1469年9月に但馬国から駆け付けて普甲寺に布陣し天竺賢実を討ち取る。1471年4月13日に宵田城から駆け付けて奈佐太郎を富辺羅山に追い崩し、同4月23日には垣屋出雲守と共に山名頼忠を普甲寺に押し返し武田信賢・天竺賢実を破った。
  • 垣屋宗忠 山名宗全家臣。1471年4月13日時点で九日城に居留守役として在城し、山名宗全の孫亀石丸を養育。同4月21日には普甲寺で武田氏・天竺氏と交戦した。
  • 武田信賢 若狭武田氏当主。武田信繁の弐男。1469年5月に第20代室町幕府丹後国守護に就任、同年6月に瓜生山に北白川城を築城して京都東口を確保。1471年4月23日の普甲寺の乱戦で天竺賢実と共に垣屋平右衛門尉に破られ、同年6月20日に病死した、本書の戦線を背負った将。
  • 武田国信 武田信繁の参男。1470年7月頃から如意ヶ嶽城を拠点に多賀高忠と共に山科・勧修寺へ出陣し西軍と戦った。
  • 武田元綱 武田信繁の四男。1471年2月に毛利豊元の誘いに乗り大内政弘に与して西軍に寝返り、若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国の防衛線を瓦解させた。
  • 逸見真正 若狭武田氏被官。1469年5月12日に粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせ、細川政国の天竺賢実派遣を引き出した。
  • 粟屋賢家 若狭武田氏被官。1469年5月12日の逸見真正による丹後国討ち入り部隊の一員として、温品氏・青江氏と共に丹後国侵攻を担った。
  • 粟屋元隆 若狭武田氏被官。1469年9月8日に逸見繁経と共に丹後国へ攻め入るも、丹後国守護代延永直信に退けられた。
  • 天竺賢実 細川勝元方の武将。細川政国の派遣により1469年5月に丹後国へ討ち入るも、同年9月に普甲寺で延永直信・垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守の連合軍に討ち取られた。1471年4月21日・23日の普甲寺の戦いでは武田氏側として再登場し垣屋に破られた。
  • 延永直信 一色氏被官で丹後国守護代。1469年5月以降、逸見真正・細川政国の丹後国侵攻に対して必死の防戦に努め、同年9月に山名宗全の援軍と共に普甲寺で天竺賢実を討ち取り、同年9月8日にも武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆を退けた。
  • 一色義直 西軍。武田信賢に丹後国守護職を追われ、宮津湾や府中に追い込まれるも、被官延永直信の防戦と山名宗全の援軍により丹後国を死守し続けた。
  • 細川政国 1469年5月に摂津之親の後任として丹後国与謝郡の分郡守護に任じられ、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けて武田信賢の丹後国経略を支援した。
  • 摂津之親 1469年1月に足利義政から御料所である丹後国与謝郡の分郡守護に任じられ、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。同年5月に細川政国に分郡守護職を譲った。
  • 山名宗全 西軍総大将。1467年6月27日に分国の兵を招集して垣屋・田結庄・八木氏を呼応させ、1469年9月には但馬国から垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を丹後国普甲寺へ送り込んだ。後に九日城で家臣垣屋宗忠と共に孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
  • 山名是豊 山名一族で東軍寄りの立場。息子の山名頼忠を1469年5月4日と1471年4月13日・23日の九日城攻撃に派遣した。
  • 山名頼忠 山名是豊の息子。1469年5月4日と1471年4月13日・23日に九日城を攻撃し、奈佐太郎の支援を受けて垣屋宗忠・垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守と但馬国で激戦を繰り広げたが、垣屋氏に破られ続けた。
  • 奈佐太郎 山名頼忠に味方した但馬国国人。1471年4月13日に富辺羅山で垣屋平右衛門尉に追い崩され、同4月23日には富辺羅山に布陣して垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにしようとするも、垣屋氏の集中攻撃で破られ、最終的に奈佐氏は滅びた。
  • 多賀高忠 侍所所司代。1469年6月に観音寺城派遣を解かれた後の処遇として、1470年7月頃から如意ヶ嶽城を築城させ、武田国信と共に山科・勧修寺へ出陣し西軍と戦った。
  • 毛利豊元 1471年2月に武田元綱を誘って大内政弘に与えさせ、若狭武田氏の安芸国分郡守護体制を内側から切り崩した。
  • 大内政弘 西軍の主力。1471年2月に毛利豊元の誘いを通じて武田元綱を西軍に取り込み、若狭武田氏被官のいる安芸国・京都東部戦線への圧力を強めた。
  • 亀王丸 山名宗全の孫。九日城で垣屋宗忠に養育された、戦線の奥で守られていた次代を担う子。本書の戦闘の物語の傍らに置かれた、山名家の未来。

山科郷の襲撃・勧修寺200名の討死・丹後国の天竺賢実討ち取り・富辺羅山の挟み撃ち・普甲寺の誤認退却──
応仁の乱の周辺戦線を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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