電子書籍「勧修寺に散った逸見繁経、普甲寺の乱戦で負けたと誤認し、九日城に退却して物笑いとなった垣屋出雲守一元化」の表紙

勧修寺に散った逸見繁経、
普甲寺の乱戦で負けたと誤認し、
九日城に退却して物笑いとなった
垣屋出雲守一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年6月27日〜1,471年6月20日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
最新更新日
西暦2,026年8月11日

山科郷の襲撃・勧修寺200名の討死・丹後国の天竺賢実討ち取り・富辺羅山の挟み撃ち・普甲寺の誤認退却──
武田と山名・垣屋・一色が交錯した4年間の丹後国・但馬国戦線を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,467年6月27日、山名宗全が分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏が之に呼応した。応仁の乱の始まりである。本書は、京都市街を舞台とする大乱の陰で四年に亙って続いた、もう一つの戦線——若狭武田氏と一色氏が丹後国守護職を奪い合い、山名頼忠と垣屋氏が但馬国九日城を巡って攻防を繰り返した戦線——を、年月日単位で一元化した記録である。表題に掲げた二人、勧修寺の防衛線で200名と共に散った逸見繁経と、普甲寺の乱戦で勝っていながら負けたと思い込んで退却した垣屋出雲守は、其の戦線の両端に立つ。

まず京都東部が動く。西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲い、両名を退けた。同年7月頃には武田信賢勢が吉田神社(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)に兵を展開し、8月23日、若狭武田氏被官の逸見繁経率いる軍が東山に出陣する。同月31日、逸見は山科郷・勧修寺(現在の京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町)から深草(現在の京都府京都市伏見区)に掛けてを襲撃した。翌西暦1,469年1月31日には西軍が山科を襲うが、武田信賢は山科郷民と協力して之を退けている。

戦線は丹後国へ移る。西暦1,469年1月頃、足利義政は御料所である丹後国与謝郡(現在の京都府与謝郡伊根町・与謝野町、現在の京都府宮津市・京丹後市・福知山市)の分郡守護に摂津之親を任じ、摂津は第19代室町幕府丹後国守護に就任した。同じ頃、間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の門四郎家国が李氏朝鮮に派遣されている。然し同年5月頃、武田信賢が足利義政から丹後国を与えられて第20代室町幕府丹後国守護となり、分郡守護は摂津之親の後任として細川政国に移った。同年5月12日、逸見真正が粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせ、之を受けて細川政国も天竺賢実率いる軍を差し向ける。細川勢は優位に戦いを進めて一色氏の勢力を宮津湾や府中(現在の京都府宮津市)に追い込むが、丹後国守護代の延永直信率いる軍が必死の防戦に努めた。同年6月頃、観音寺城に派遣されていた多賀高忠に代わって京都の東口の確保を命じられた武田信賢は、瓜生山(現在の京都府京都市左京区一乗寺松原町)に北白川城を築かせている。

西暦1,469年9月頃、延永直信率いる軍は、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋宗忠の息子垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守の援軍と共に、普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣した。そして細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討ち取る。同年9月8日には武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆が丹後国へ攻め入るが、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が之をも退けた。丹後国の門は、二度に亙って閉ざされた事になる。

そして勧修寺が燃える。西暦1,470年7月頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)を拠点に、武田国信・多賀高忠と其の被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦った。同年8月15日、勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が西軍の襲撃を受け、逸見を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。翌16日には西軍が醍醐寺(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)の東軍を破り、醍醐寺と民家を焼失させている。同年10月頃、武田信賢率いる軍は如意ヶ嶽城に集結して体制の立て直しを行うが、此の頃から両軍で寝返りが横行し始めた。西暦1,471年2月頃、武田元綱が毛利豊元の誘いに乗って大内政弘に与し、西軍へ寝返る。若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国も、大内を始めとする西軍に押されていた。

最後の舞台は但馬国である。西暦1,471年4月13日、山名頼忠が円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城(現在の兵庫県豊岡市九日市上町)に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃した。垣屋は山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、居留守役として在城していた。宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付けた垣屋平右衛門尉が奈佐等を富辺羅山(現在の兵庫県豊岡市戸牧)に追い崩し、其の敗報を聞いた山名は敗走、最終的に奈佐氏は滅びる。同月21日には垣屋宗忠が普甲寺にて武田氏・天竺氏と交戦した。

同月23日、九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が再び九日城を攻める。山名に味方した奈佐太郎は富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにした。然し垣屋氏は富辺羅山を集中的に攻めて之を破り、山名は退却する。平右衛門尉と出雲守は反撃に転じ、山名を普甲寺に押し返して武田信賢・天竺賢実を破った。此の普甲寺の戦は乱戦となる。出雲守は、戦線が勝っていたにも拘らず負けたと思い、戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった——勝敗を見誤った一人の武将の退却が、其の儘書名に残った所以である。九日城には、山名宗全が家臣であった宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。同年6月20日、京都の東口を担い丹後国守護職を背負った武田信賢が病死する。本書は、此の日を以て筆を擱く。


主要登場人物

  • 逸見繁経 本書の中心人物の一人。若狭武田氏被官。西暦1,468年8月23日に東山へ出陣し、同月31日、山科郷・勧修寺から深草に掛けてを襲撃した。西暦1,469年9月8日には粟屋元隆と共に丹後国へ攻め入るが延永直信に退けられ、西暦1,470年8月15日、勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた所を西軍に襲撃され、200名と共に討たれた。勧修寺は燃やされた。
  • 垣屋出雲守 本書のもう一人の中心人物。山名宗全方の但馬国国人。西暦1,469年9月頃、普甲寺で垣屋平右衛門尉と共に細川勝元方の天竺賢実を討ち取る働きを見せた。然し西暦1,471年4月23日の普甲寺の乱戦では、戦線が勝っていたにも拘らず負けたと思い、戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。
  • 垣屋平右衛門尉 垣屋宗忠の息子。西暦1,469年9月頃、山名宗全の命で但馬国から駆け付けて普甲寺に布陣し、天竺賢実を討ち取った。西暦1,471年4月13日には宵田城から駆け付けて奈佐等を富辺羅山に追い崩し、同月23日には垣屋出雲守と共に山名頼忠を普甲寺へ押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。
  • 垣屋宗忠 山名宗全の家臣。西暦1,471年4月13日、九日城に居留守役として在城し、山名宗全の孫亀石丸を養育していた所を山名頼忠に攻撃された。同月21日には普甲寺で武田氏・天竺氏と交戦している。
  • 武田信賢 若狭武田氏当主。武田信繁の弐男。西暦1,469年1月31日に西軍の山科襲撃を山科郷民と協力して退け、同年5月頃、足利義政から丹後国を与えられて第20代室町幕府丹後国守護に就任した。同年6月頃には京都の東口の確保を命じられ、瓜生山に北白川城を築かせた。西暦1,471年4月23日の普甲寺の乱戦で天竺賢実と共に破られ、同年6月20日に病死した。本書の終点に立つ人物。
  • 武田国信 武田信繁の参男。西暦1,470年7月頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城を拠点に、多賀と共に山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦った。
  • 武田元綱 武田信繁の四男。西暦1,471年2月頃、毛利豊元の誘いに乗って大内政弘に与し、西軍に寝返った。此の頃、若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。
  • 逸見真正 若狭武田氏被官。西暦1,469年5月12日、粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国に討ち入らせ、細川政国による天竺賢実の派遣を引き出した。
  • 粟屋賢家 若狭武田氏被官。西暦1,469年5月12日、逸見真正の指令により、温品氏・青江氏と共に丹後国へ討ち入った。
  • 粟屋元隆 若狭武田氏被官。西暦1,469年9月8日、逸見繁経と共に丹後国へ攻め入るが、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信に退けられた。
  • 天竺賢実 細川勝元方の武将。西暦1,469年5月、細川政国の派遣を受けて丹後国へ討ち入り、一色氏の勢力を宮津湾や府中へ追い込んだ。然し同年9月頃、普甲寺で延永直信・垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守の連合軍と交戦して討たれた。
  • 延永直信 一色氏被官で丹後国守護代。西暦1,469年5月以降、逸見真正・細川政国による丹後国侵攻に対して必死の防戦に努めた。同年9月頃には山名宗全の援軍と共に普甲寺に布陣して天竺賢実を討ち、同月8日には武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆をも退けている。
  • 一色信長 一色氏の武将。西暦1,471年4月23日、垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守の支援を受けた。一色氏は丹後国守護職を武田信賢に奪われ、細川政国が差し向けた天竺賢実率いる軍に宮津湾や府中まで追い込まれたが、被官の丹後国守護代延永直信が之を支えた。
  • 細川政国 西暦1,469年5月頃、摂津之親の後任として丹後国与謝郡の分郡守護に任じられ、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。
  • 摂津之親 西暦1,469年1月頃、足利義政から御料所である丹後国与謝郡の分郡守護に任じられ、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。同年5月頃、分郡守護職は細川政国に移った。
  • 足利義政 第8代室町幕府将軍。西暦1,469年1月頃に摂津之親を丹後国与謝郡の分郡守護に任じ、同年5月頃には武田信賢に丹後国を与えて第20代室町幕府丹後国守護に据えた。
  • 山名宗全 西軍総大将。西暦1,467年6月27日に分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏を呼応させた。西暦1,469年9月頃には但馬国から垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を丹後国普甲寺へ送り込んでいる。後に九日城で、家臣であった垣屋宗忠と共に孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
  • 山名是豊 山名一族。息子の山名頼忠を、西暦1,469年5月4日および西暦1,471年4月13日・23日の九日城攻撃に送り出した。
  • 山名頼忠 山名是豊の息子。西暦1,469年5月4日に九日城を攻め、西暦1,471年4月13日には円山川東岸に布陣して奈佐太郎の支援を受け、九日城の垣屋宗忠を攻撃した。同月23日にも九日城を攻めるが、垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守の反撃に遭って普甲寺まで押し返された。
  • 奈佐太郎 山名頼忠に味方した但馬国の武将。西暦1,471年4月13日に富辺羅山で垣屋平右衛門尉に追い崩され、同月23日には富辺羅山に布陣して垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにするが、垣屋氏の集中攻撃に破られた。最終的に奈佐氏は滅びた。
  • 朝倉孝景 西暦1,468年4月13日、赤松政則・武田信賢の布陣する醍醐・山科を襲撃し、両名を退却させた。
  • 赤松政則 西暦1,468年4月13日、武田信賢と共に醍醐・山科に布陣していた所を朝倉孝景率いる軍に襲撃され、退却した。
  • 多賀高忠 侍所所司代。西暦1,469年6月頃、観音寺城への派遣を解かれ、京都の東口の確保は武田信賢に委ねられた。西暦1,470年7月頃からは自らが築城させた如意ヶ嶽城を拠点に、武田国信と共に山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦った。
  • 毛利豊元 西暦1,471年2月頃、武田元綱を誘って大内政弘に与えさせ、若狭武田氏の安芸国分郡守護体制を内側から切り崩した。
  • 大内政弘 西軍の主力。西暦1,471年2月頃、毛利豊元の誘いを通じて武田元綱を西軍へ取り込み、若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国への圧力を強めた。
  • 門四郎家国 間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の人物。西暦1,469年1月頃、李氏朝鮮に派遣された。
  • 亀王丸 山名宗全の孫。九日城で垣屋宗忠と共に養育された。西暦1,471年4月13日の記述では亀石丸とも記される、戦線の奥に置かれた山名家の次代。

戦線と拠点の系譜

  • 山名宗全の分国動員 西暦1,467年6月27日、山名宗全が分国の兵を招集し、垣屋氏・田結庄氏・八木氏が呼応した。本書が記録する四年間の戦線は、此処から始まる。
  • 醍醐・山科の襲撃 西暦1,468年4月13日、朝倉孝景率いる軍が、赤松政則・武田信賢の布陣する醍醐(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町付近)・山科を襲撃し、両名を退却させた。
  • 山科郷・勧修寺から深草への襲撃 西暦1,468年8月23日に東山へ出陣した逸見繁経率いる軍が、同月31日、山科郷・勧修寺(現在の京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町)から深草(現在の京都府京都市伏見区)に掛けてを襲撃した。
  • 丹後国守護職の交替 西暦1,469年1月頃、足利義政が丹後国与謝郡の分郡守護に摂津之親を任じ、摂津は第19代室町幕府丹後国守護に就任した。同年5月頃、武田信賢が丹後国を与えられて第20代室町幕府丹後国守護となり、分郡守護は細川政国へ移った。
  • 丹後国への討ち入り 西暦1,469年5月12日、逸見真正が粟屋賢家・温品氏・青江氏を丹後国へ討ち入らせ、細川政国も天竺賢実率いる軍を差し向けた。細川勢は一色氏を宮津湾や府中(現在の京都府宮津市)へ追い込むが、丹後国守護代の延永直信率いる軍が必死の防戦に努めた。
  • 北白川城 西暦1,469年6月頃、観音寺城に派遣された多賀高忠に代わって京都の東口の確保を命じられた武田信賢が、瓜生山(現在の京都府京都市左京区一乗寺松原町)に築かせた城。
  • 普甲寺の布陣と天竺賢実討ち取り 西暦1,469年9月頃、延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守と共に普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣し、細川勝元方の天竺賢実等と交戦して天竺を討った。同月8日には武田信賢勢の逸見繁経・粟屋元隆の丹後国侵攻も退けられた。
  • 如意ヶ嶽城 多賀高忠が築城させた城(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)。西暦1,470年7月頃から2ヶ月程、武田国信・多賀高忠と其の被官が此処を拠点に山科や勧修寺へ出陣した。同年10月頃には武田信賢率いる軍が集結して体制を立て直したが、此の頃から両軍で寝返りが横行し始めた。
  • 勧修寺の落城 西暦1,470年8月15日、勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が西軍の襲撃を受け、逸見を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。翌16日には西軍が醍醐寺(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)の東軍を破り、醍醐寺と民家を焼失させた。
  • 九日城の攻防 現在の兵庫県豊岡市九日市上町にあった城。西暦1,469年5月4日に山名頼忠が攻め、西暦1,471年4月13日にも円山川東岸から攻撃を受けた。垣屋宗忠が山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ居留守役として在城し、後には山名宗全自身が家臣宗忠と共に孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
  • 富辺羅山の攻防 現在の兵庫県豊岡市戸牧。西暦1,471年4月13日、宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付けた垣屋平右衛門尉が奈佐等を此処に追い崩し、山名頼忠は敗走、奈佐氏は滅びた。同月23日には奈佐太郎が此処に布陣して垣屋平右衛門尉・垣屋出雲守を挟み撃ちにするが、垣屋氏の集中攻撃に破られた。
  • 普甲寺の乱戦 西暦1,471年4月23日、垣屋平右衛門尉と垣屋出雲守が反撃に転じて山名頼忠を普甲寺へ押し返し、武田信賢・天竺賢実を破った。然し此の戦は乱戦となり、垣屋出雲守は戦線が勝っていたにも拘らず負けたと思い、戦線を離脱して九日城へ退却し、物笑いとなった。本書の書名が指す一幕。

山科郷の襲撃・勧修寺200名の討死・丹後国の天竺賢実討ち取り・富辺羅山の挟み撃ち・普甲寺の誤認退却──
応仁の乱の周辺戦線を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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