電子書籍「山荘造営の一環で創始された慈照寺、東求堂の襖絵の十僧図を描いた狩野正信一元化」の表紙

山荘造営の一環で
創始された慈照寺、
東求堂の襖絵の十僧図を
描いた狩野正信一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,482年2月21日〜1,490年4月頃
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,026年1月7日

山荘造営着手・東山殿常御所入りと日野富子別居・西指庵の天下の奇観・十僧図発注・狩野正信の李龍眠様提案・李龍眠と李迪の参照画本・四者協議・李龍眠老子青牛図参照・東求堂拝見・十僧と十楽の岐路・十僧図完成と俸給1000疋・東求堂と同仁斎完成・東山殿上棟・足利義政病死と西指庵への遺骨納入・慈照寺創始──
東山文化の創造と慈照寺成立の8年2箇月を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1482年2月21日、足利義政が命じた山荘造営が浄土寺にて着手された日から、西暦1490年4月、足利義政の菩提を弔う為に東山殿が「慈照寺」として禅寺に改められ相国寺の末寺として創始された日まで。本書は、応仁の乱の煙が未だ漂う京都で、政務を嫡男足利義尚に譲った将軍が、東山の地に己の理想の山荘を営むという8年2箇月の文化的営為を、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。中心に据えられるのは、阿弥陀仏を安置する持仏堂「東求堂」の襖絵10枚の制作プロセス——狩野正信という一人の絵師が、亀泉集証・横川景三・相阿弥・桃源瑞仙等の知識人や同朋衆と協議を重ね、御倉から取り出された李龍眠・李迪の宋元画を眺め、十牛図でも十楽でもなく十僧という画題に辿り着くまでの、3箇月半に及ぶ知的格闘の記録です。其の襖絵が完成した部屋の隣に在る書院こそ、後世「同仁斎」と呼ばれ茶室の源流となった、四畳半の小さな空間でした。戦乱の世の只中で、一国の文化が密やかに胎動していく現場の縮図を浮き彫りにします。

西暦1482年2月21日の浄土寺での山荘造営着手、同年7月28日の足利義尚への政務譲与表明、西暦1483年7月31日の完成したばかりの「東山殿常御所」への移住と日野富子との別居を経て、西暦1485年5月22日には亀泉集証が完成した「西指庵」に入り「正に天下の奇観である」と書き留めました。同年には超然亭・浴室も完成。同年12月1日、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚の制作が決定し、当初は十牛図が画題候補に挙がりましたが「阿弥陀に関する10の機縁はないか」という問いから、足利義政は五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様亀泉集証に命じました。同年12月6日、阿弥陀の周囲を十僧が囲撓し各々宝樹下に座す図柄が採用され、狩野正信が1枚を担当する事に。同年12月8日、狩野は2幅の草案を提出し「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と進言、御倉所蔵の馬遠・李龍眠絵の参照と、九品曼荼羅の取り寄せを要望しました。同年12月30日、狩野の下に李龍眠筆文殊維摩画本1幅・李迪筆牛画本2幅が届けられ、要望が通りました。

西暦1486年1月6日に九品曼荼羅を大慈院に返却、1月19日には相阿弥が亀泉集証に草案用の紙を持参、1月23日には亀泉集証・横川景三・相阿弥・狩野正信の四者で十僧の画様を協議、2月2日に草案が足利義政に提出されると義政は李龍眠の老子青牛図を取り出す様相阿弥に命じました。2月21日には草案10幅が狩野に返却されて建設途中の東求堂の拝見が命じられ、2月24日に狩野と亀泉が東求堂を拝見、3月4日に新たな草案を提出。3月17日には桃源瑞仙も加わって十楽案が浮上しますが、3月18日に足利義政が「画一的で変化に乏しい」と意見した翌3月19日に十僧で決定。同年4月28日、狩野正信が完成した十僧10枚を提出すると義政は満足し、俸給1,000疋が支給されました。同年中に東求堂が完成し、書院は「同仁斎」と名付けられて茶室の源流となります。西暦1487年に東山殿会所・弄清亭が造営され、西暦1489年4月2日に東山殿が上棟。然し西暦1490年1月7日、足利義政は山荘の完成を待たずに病死。法事の席で足利義視は「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった」と語り、義政の遺言で遺骨は西指庵に納められました。西暦1490年3月、東山殿が完成して全体が寺となり「慈照院」と命名され、4月には義政の菩提を弔う為に「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始されたのです。応仁の乱の灰の中から生まれた東山文化の魂を、一冊に束ねた書です。


主要登場人物

  • 狩野正信 室町幕府御用絵師。1485年12月6日に阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚の中の1枚を描く事を命じられた事で本書に登場、12月8日には2幅の草案を提出し「李龍眠様が良いのではないか」と進言、御倉所蔵の馬遠・李龍眠絵の参照や九品曼荼羅の取り寄せを要望した。1486年1月23日の四者協議、2月24日の東求堂拝見、3月17日の十楽案協議を経て、3月19日に十僧決定後の4月28日に完成した10枚を提出して足利義政から俸給1,000疋を支給された、本書の主人公にして東求堂襖絵の作者。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。1482年2月21日に山荘造営に着手、同年7月28日に足利義尚に政務譲与の意思を表明、1483年7月31日に「東山殿常御所」入りで日野富子と別居、1485年12月から狩野正信への十僧図発注、1486年4月28日に完成した十僧10枚に俸給1,000疋を支給、1490年1月7日に山荘の完成を待たずに病死した。遺言により遺骨は西指庵に納められた、本書の山荘造営と襖絵発注の主導者。
  • 亀泉集証 山荘造営における取次役・現場責任者。1485年5月22日に完成した西指庵に入り「正に天下の奇観である」と記録、1485年12月の十僧図発注時には足利義政から横川景三との相談を命じられ、1486年1月23日には狩野正信・横川景三・相阿弥との四者協議に参加、2月24日には狩野と東求堂を拝見、3月17日には狩野から十楽案の相談を受けた、本書の制作プロセスを記録し続けた中継者。
  • 横川景三 五山文学で一番の碩学。1485年12月の十僧図発注時に足利義政から相談相手として指名され亀泉集証から相談を受け、1486年1月23日の四者協議に参加、3月17日には桃源瑞仙と共に亀泉に十楽案について意見を述べた、画題決定の知的支柱。
  • 相阿弥 室町幕府の同朋衆。1486年1月19日に亀泉集証の下に草案を作る為の紙を持参し、1月20日に其の紙を狩野正信の下へ届けた。1月23日の四者協議に参加し、2月2日には足利義政の命で李龍眠の老子青牛図を取り出した、画道の実務を担った同朋衆。
  • 桃源瑞仙 五山の禅僧。1486年3月17日、横川景三と共に亀泉集証に十楽案について意見を述べた、十僧と十楽の岐路に立ち会った第二の知的支柱。
  • 足利義尚 第9代室町幕府征夷大将軍。1482年7月28日に足利義政から政務譲与の意思を表明された、本書冒頭で政治の継承を受けた義政の嫡男。義政が東山に山荘を構える時間を作る前提となった存在。
  • 日野富子 足利義政の正室。1483年7月31日、義政が完成した「東山殿常御所」に移った際に別居となり、其の後も義政の山荘造営の影で確執が続いた、義政の文化的隠遁の影で疎遠となった妻。
  • 足利義視 足利義政の弟。1490年1月7日の義政病死後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。しかし義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った」と語り、頷いて一笑した、義政との兄弟愛を法事の席で公にした弟。
  • 李龍眠 北宋末の文人画家。狩野正信が1485年12月8日の進言で「李龍眠様が良いのではないか」と推した画家。1485年12月30日に文殊維摩画本1幅が御倉から狩野の下へ届けられ、1486年2月2日には足利義政が老子青牛図を取り出す様命じた、十僧図の画様の核を成した参照画家。
  • 馬遠 南宋画院の代表的画家。1485年12月6日に足利義政が狩野正信に対して「夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良い」と指示した際の選択肢の一つ。但し既に西指庵の画様が馬遠様であった為、十僧図では狩野が李龍眠様を推した、本書冒頭で参照候補から外れた画家。
  • 夏珪 南宋画院の代表的画家。1485年12月6日に足利義政が狩野正信に対して馬遠と並べて筆様の選択肢として挙げた、馬遠と並ぶ十僧図の参照候補として最初に名を挙げられた画家。
  • 李迪 南宋の画家。1485年12月30日に牛画本2幅が御倉から狩野正信の下へ届けられた、十僧図の動物表現の参照画家として李龍眠と並んで取り寄せられた画家。

山荘造営着手・東山殿常御所入りと日野富子別居・西指庵の天下の奇観・十僧図発注・狩野正信の李龍眠様提案・李龍眠と李迪の参照画本・四者協議・李龍眠老子青牛図参照・東求堂拝見・十僧と十楽の岐路・十僧図完成と俸給1000疋・東求堂と同仁斎完成・東山殿上棟・足利義政病死と西指庵への遺骨納入・慈照寺創始──
東山文化の創造と慈照寺成立の8年2箇月を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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