山荘造営の一環で
創始された慈照寺、
東求堂の襖絵の十僧図を
描いた狩野正信一元化
襖10枚の画題が定まるまでに、一年半を要した──
東求堂の十僧図と慈照寺創始の八年を一元化。
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本書について
西暦1,482年2月21日、足利義政が命じた山荘造営が、浄土寺(現在の京都府京都市左京区浄土寺地区)にて着手された。応仁の乱が京都を焼いてから十数年、其の乱の只中に在った将軍が、東山の地に己の隠居所を建て始めたのである。本書は、此の着手を起点として、東求堂の襖10枚の画題が定まるまでの一年半に及ぶ協議と、山荘が慈照寺として創始されるまでの八年を、年月日単位で一元化した記録である。
同年7月28日、足利義政は足利義尚に政務を譲る意思を表明する。翌西暦1,483年7月31日には、完成したばかりの「東山殿常御所」に移り、日野富子と別居した。足利は依然として実権を握り続け、確執は続く。西暦1,485年5月22日、亀泉集証が、山荘造営の一環として本年完成した「西指庵」に入り、「今日、初めて西指庵に入り、其れを見たが、正に天下の奇観である」と記した。本年は、西指庵の他に超然亭・浴室も完成している。
西暦1,485年12月1日、山荘造営の一環で、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題としては十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は、五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。同月6日、阿弥陀の周囲を十僧が囲撓し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事となり、襖の画面と同じ寸法の紙が狩野に渡された。足利義政は亀泉集証に対し、夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良いので、1枚描く様指示している。
同月8日、狩野正信が2幅の草案を提出する。其の際、狩野は「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と意見を述べた。更に、足利家所蔵の馬遠・李龍眠の絵を画様の参考に借りたい旨、及び図様の手本として九品曼荼羅を取り寄せて欲しい旨を要望する。同月30日、狩野の下に、足利家の御倉に所蔵されていた李龍眠筆の文殊維摩の画本1幅と、李迪筆の牛の画本2幅が届けられた。狩野の要望が通った形である。翌西暦1,486年1月6日、狩野は九品曼荼羅を大慈院(現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町)へ返却した。
西暦1,486年1月19日、相阿弥が草案を作る為の紙を持って亀泉集証の下を訪れ、翌20日、其の紙が狩野正信の下に届けられる。23日には、亀泉集証・横川景三・相阿弥・狩野正信の四名が十僧の画様に就いて協議した。2月2日、足利義政に十僧の草案が提出されると、足利は幾つか注文を付け、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様、相阿弥に命じる。21日、足利は十僧の草案10幅を狩野正信に返却し、更に、此の襖絵が設置される建設途中の自身の持仏堂「東求堂」を狩野に見せる様命じた。24日、狩野正信と亀泉集証は東求堂を拝見する。3月4日、狩野は新たな十僧の草案を、返却された草案10幅と併せて提出し、足利は検討に入った。17日には狩野が亀泉集証に十楽に就いて相談している。此の時には、十僧だけで無く、十楽の案も浮上していた。亀泉は、同席した横川景三・桃源瑞仙から意見を受けている。18日、足利義政が十僧の図様は画一的で変化に乏しいと意見し、そして19日、東求堂の襖絵は十僧に決定された。
西暦1,486年4月28日、狩野正信が完成した十僧10枚を足利義政に提出する。足利は満足し、俸給1,000疋を狩野に支給した。同年、東求堂が完成する。東求堂内の書院は「同仁斎」と名付けられ、茶室の源流となった。西暦1,487年には山荘造営の一環として東山殿会所・弄清亭が造営され、西暦1,489年4月2日には「東山殿(現在の京都府京都市左京区銀閣寺町)」が上棟される。西暦1,490年1月7日、足利義政が病死した。足利義視は其の後の法事の席で、兄弟の仲は元々良かったが人の言動で疎遠になった、美濃国で或る僧を出世させる様要望した際に周囲の僧達が反対したが義政は「義視の言う事だから」と反対を押し切った、之を聞いて頷き一笑した——という主旨の発言をしている。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。同年3月頃、東山殿が完成し、東山山荘全体を寺として「慈照院」と名付けられる。そして同年4月頃、足利義政の菩提を弔う為に、東山殿は「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始された。本書は、其の八年の全過程を一冊に束ねている。
登場人物
- 狩野正信 本書の中心人物。西暦1,485年12月6日、東求堂の襖10枚の制作を任され、襖の画面と同じ寸法の紙を渡された。同月8日には2幅の草案を提出し、西指庵の画様が既に馬遠様である事を理由に李龍眠様を進言。更に足利家所蔵の絵の貸与と九品曼荼羅の取り寄せを要望し、何れも容れられた。翌西暦1,486年2月24日には建設途中の東求堂を拝見し、4月28日に完成した十僧10枚を提出、俸給1,000疋を支給された。
- 足利義政 西暦1,482年2月21日、浄土寺にて山荘造営を着手させた。同年7月28日に足利義尚への政務移譲の意思を表明し、翌年7月31日には東山殿常御所へ移って日野富子と別居するも、実権は握り続けた。襖絵については、画題の相談から筆様の指示、草案への注文、老子青牛図の取り出し、画一的で変化に乏しいという指摘まで、細部に至るまで関与している。西暦1,490年1月7日に病死し、遺言により遺骨は西指庵に納められた。
- 亀泉集証 西暦1,485年5月22日、完成した西指庵に初めて入り「正に天下の奇観である」と記した。同年12月には足利義政から横川景三と画題を相談する様命じられ、狩野正信への筆様の指示も伝えている。翌西暦1,486年1月23日の四者協議に加わり、2月24日には狩野と共に建設途中の東求堂を拝見。3月17日には狩野から十楽に就いて相談を受け、横川景三・桃源瑞仙の意見を取り次いだ。
- 横川景三 五山文学で一番の碩学。西暦1,485年12月1日、阿弥陀に関する10の機縁は無いかという画題の相談相手として、足利義政から名指しされた。翌西暦1,486年1月23日の十僧の画様の協議に加わり、3月17日には十楽案に就いて亀泉集証へ意見を述べている。
- 相阿弥 西暦1,486年1月19日、草案を作る為の紙を持って亀泉集証の下を訪れ、翌20日に其の紙が狩野正信へ届けられた。同月23日の四者協議に加わり、2月2日には足利義政から、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様命じられている。
- 桃源瑞仙 西暦1,486年3月17日、狩野正信が亀泉集証に十楽に就いて相談した際、横川景三と共に同席して意見を述べた。十僧か十楽かを巡る議論の一角を担った人物。
- 日野富子 足利義政の正室。西暦1,483年7月31日、義政が完成したばかりの東山殿常御所へ移った事で別居となった。義政は依然として実権を握り続け、確執は続いた。
- 足利義尚 西暦1,482年7月28日、足利義政から政務を譲る意思を表明された。然し義政は其の後も実権を握り続けている。
- 足利義視 足利義政の弟。西暦1,490年1月7日の義政の病死の後、法事の席で、兄弟の仲は元々良かったが人の言動で疎遠になった、美濃国で或る僧の出世を要望した際、周囲の僧達の反対を義政が「義視の言う事だから」と押し切った、之を聞いて頷き一笑した——という主旨の発言をした。
本書が記録する出来事
- 山荘造営の着手 西暦1,482年2月21日、足利義政が命じた山荘造営が、浄土寺(現在の京都府京都市左京区浄土寺地区)にて着手される。八年後に慈照寺となる東山山荘の、最初の一日。本書の起点。
- 足利義尚への政務移譲表明 西暦1,482年7月28日、足利義政が足利義尚に政務を譲る意思を表明した。然し実際には、其の後も義政は実権を握り続ける。
- 東山殿常御所への移居と別居 西暦1,483年7月31日、足利義政が完成したばかりの「東山殿常御所」に移り、日野富子と別居する。足利は依然として実権を握り続け、確執は続いた。
- 西指庵・超然亭・浴室の完成 西暦1,485年、山荘造営の一環として西指庵・超然亭・浴室が完成する。同年5月22日、西指庵に入った亀泉集証は「今日、初めて西指庵に入り、其れを見たが、正に天下の奇観である」と記した。
- 持仏堂の襖10枚の決定と画題の探索 西暦1,485年12月1日、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題として十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。
- 十僧図の採用と狩野正信への発注 西暦1,485年12月6日、阿弥陀の周囲を十僧が囲撓し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事となり、襖の画面と同じ寸法の紙が渡された。足利義政は、夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良いので1枚描く様指示している。
- 狩野正信の草案提出と李龍眠様の進言 西暦1,485年12月8日、狩野正信が2幅の草案を提出し「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と意見を述べた。更に足利家所蔵の馬遠・李龍眠の絵の貸与と、図様の手本としての九品曼荼羅の取り寄せを要望している。
- 足利家御倉からの画本の貸与 西暦1,485年12月30日、狩野正信の下に、足利家の御倉に所蔵されていた李龍眠筆の文殊維摩の画本1幅と、李迪筆の牛の画本2幅が届けられる。狩野の要望が通った形であった。翌西暦1,486年1月6日、狩野は九品曼荼羅を大慈院(現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町)へ返却している。
- 四者協議と老子青牛図 西暦1,486年1月19日、相阿弥が草案用の紙を持って亀泉集証を訪れ、翌20日に狩野正信へ届けられる。23日、亀泉集証・横川景三・相阿弥・狩野正信の四名が十僧の画様に就いて協議した。2月2日、足利義政は提出された草案に注文を付け、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様、相阿弥に命じている。
- 建設途中の東求堂の拝見 西暦1,486年2月21日、足利義政が十僧の草案10幅を狩野正信に返却し、此の襖絵が設置される建設途中の持仏堂「東求堂」を狩野に見せる様命じた。24日、狩野正信と亀泉集証が東求堂を拝見する。3月4日、狩野は新たな草案を返却分と併せて提出した。
- 十楽案の浮上 西暦1,486年3月17日、狩野正信が亀泉集証に十楽に就いて相談する。此の時には、十僧だけで無く十楽の案も浮上していた。亀泉は、同席した横川景三・桃源瑞仙から意見を受けている。
- 画一的との指摘と十僧の決定 西暦1,486年3月18日、足利義政が十僧の図様は画一的で変化に乏しいと意見する。そして翌19日、東求堂の襖絵は十僧に決定された。画題の検討開始から、実に一年半近くを経ての決着である。
- 十僧10枚の完成と俸給1,000疋 西暦1,486年4月28日、狩野正信が完成した十僧10枚を足利義政に提出する。足利は満足し、俸給1,000疋を狩野に支給した。書名に刻まれた十僧図の完成。
- 東求堂の完成と同仁斎 西暦1,486年、東求堂が完成する。東求堂内の書院は「同仁斎」と名付けられ、茶室の源流となった。
- 東山殿会所・弄清亭の造営と東山殿の上棟 西暦1,487年、山荘造営の一環として東山殿会所・弄清亭が造営される。西暦1,489年4月2日には「東山殿(現在の京都府京都市左京区銀閣寺町)」が上棟された。
- 足利義政の病死と西指庵への納骨 西暦1,490年1月7日、足利義政が病死する。足利義視は法事の席で、兄弟の仲は元々良かったが人の言動で疎遠になった、美濃国で或る僧の出世を要望した際に義政が周囲の反対を「義視の言う事だから」と押し切った、之を聞いて頷き一笑した——と述べた。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。
- 慈照院から慈照寺へ 西暦1,490年3月頃、東山殿が完成し、東山山荘全体を寺として「慈照院」と名付けられる。そして同年4月頃、足利義政の菩提を弔う為に、東山殿は「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始された。本書の到達点。
浄土寺の鍬入れから、同仁斎の完成、そして慈照寺へ──
足利義政の東山山荘造営の全過程を一元化。
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