山荘造営の一環で
創始された慈照寺、
東求堂の襖絵の十僧図を
描いた狩野正信一元化
十牛図か、十僧か、十楽か──
東求堂の襖絵と慈照寺の創始を一元化。
140円(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,482年2月21日、足利義政が命じた山荘造営が、浄土寺(現在の京都府京都市左京区浄土寺地区)にて着手される。本書は、此の山荘造営の着手から、東求堂の襖絵を巡る協議を経て、西暦1,490年4月頃に東山殿が「慈照寺」として創始される迄を一元化した記録である。
西暦1,482年7月28日、足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。西暦1,483年7月31日、足利義政が、完成したばかりの「東山殿常御所」に移り、日野富子と別居する。足利は依然として実権を握り続け、確執は続いた。西暦1,485年5月22日、亀泉集証が、山荘造営の一環として本年完成した「西指庵」に入る。其の後、「今日、初めて西指庵に入り、其れを見たが、正に天下の奇観である」と記す。本年は、西指庵の他に、超然亭・浴室も完成した。
12月1日、足利義政が命じた山荘造営の一環で、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題として十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は、五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。12月6日、阿弥陀の周囲を十僧が囲繞し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事になり、襖の画面と同じ寸法の紙が狩野に渡された。足利義政は亀泉集証に対し、夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良いので、1枚描く様指示した。12月8日、狩野正信が、2幅の草案を提出する。其の際狩野は「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と意見を述べた。更に足利家所蔵の馬遠・李龍眠の絵を画様の参考に借りたい旨、及び図様の手本として、九品曼荼羅を取り寄せて欲しい旨を要望した。12月30日、狩野正信の下に、足利家の御倉に所蔵されていた李龍眠筆の文殊維摩の画本1幅・李迪筆の牛の画本2幅が届けられる。狩野の要望が通った形となった。
西暦1,486年1月6日、狩野正信が、九品曼荼羅を大慈院(現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町)に返却する。1月19日、相阿弥が、草案を作る為の紙を持って亀泉集証の下を訪れる。1月20日、相阿弥が亀泉集証の下に持参した草案用の紙が、狩野正信の下に届けられる。1月23日、亀泉集証・横川景三・相阿弥・狩野正信の4名が、十僧の画様に就いて協議する。2月2日、足利義政に対し、十僧の草案が提出される。足利は、幾つか注文を付け、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様、相阿弥に命じた。2月21日、足利義政が、十僧の草案10幅を狩野正信に返却する。更に足利は、此の襖絵が設置される建設途中の自身の持仏堂「東求堂」を、狩野に見せる様命じた。2月24日、狩野正信・亀泉集証が、東求堂を拝見する。
3月4日、狩野正信が、足利義政に新たな十僧の草案を、2月21日に足利から返却された草案10幅と併せて提出する。足利は検討に入った。3月17日、狩野正信が、亀泉集証に十楽に就いて相談する。此の時には、十僧だけで無く、十楽の案も浮上していた。亀泉は、同席した横川景三・桃源瑞仙から意見を受けた。3月18日、足利義政が、十僧の図様が画一的で変化に乏しいと意見する。3月19日、東求堂の襖絵が、十僧に決定される。4月28日、狩野正信が、完成した十僧10枚を足利義政に提出する。足利は満足し、俸給1,000疋を狩野に支給した。此の年、東求堂が完成する。東求堂内の書院は「同仁斎」と名付けられ、茶室の源流となった。
西暦1,487年、山荘造営の一環として、東山殿会所・弄清亭が造営される。西暦1,489年4月2日、山荘造営の一環である「東山殿(現在の京都府京都市左京区銀閣寺町)」が上棟される。西暦1,490年1月7日、足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。3月頃、東山殿が完成する。東山山荘全体を寺とし「慈照院」と名付けられた。4月頃、足利義政の菩提を弔う為に、東山殿は「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始される。山荘造営の着手から、東求堂の襖絵を巡る協議、十僧10枚の完成を経て、慈照寺の創始に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 狩野正信 西暦1,485年12月6日、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚の制作に関し、阿弥陀の周囲を十僧が囲繞し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事になり、襖の画面と同じ寸法の紙が狩野に渡された。12月8日、2幅の草案を提出する。其の際狩野は「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と意見を述べた。更に足利家所蔵の馬遠・李龍眠の絵を画様の参考に借りたい旨、及び図様の手本として、九品曼荼羅を取り寄せて欲しい旨を要望した。12月30日、狩野の下に、足利家の御倉に所蔵されていた李龍眠筆の文殊維摩の画本1幅・李迪筆の牛の画本2幅が届けられる。西暦1,486年1月6日、狩野は、九品曼荼羅を大慈院に返却する。1月23日、亀泉集証・横川景三・相阿弥と共に、十僧の画様に就いて協議する。2月21日、足利義政から十僧の草案10幅を返却される。2月24日、亀泉集証と共に、東求堂を拝見する。3月4日、新たな十僧の草案を、返却された草案10幅と併せて足利義政に提出する。3月17日、亀泉集証に十楽に就いて相談する。4月28日、完成した十僧10枚を足利義政に提出する。足利は満足し、俸給1,000疋を狩野に支給した。
- 足利義政 西暦1,482年2月21日、足利義政が命じた山荘造営が、浄土寺にて着手される。7月28日、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。西暦1,483年7月31日、足利義政が、完成したばかりの「東山殿常御所」に移り、日野富子と別居する。足利は依然として実権を握り続け、確執は続いた。西暦1,485年12月1日、持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題として十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は、横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。西暦1,486年2月2日、足利義政に対し、十僧の草案が提出される。足利は、幾つか注文を付け、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様、相阿弥に命じた。2月21日、十僧の草案10幅を狩野正信に返却する。更に足利は、建設途中の自身の持仏堂「東求堂」を、狩野に見せる様命じた。3月18日、足利義政が、十僧の図様が画一的で変化に乏しいと意見する。4月28日、狩野正信から完成した十僧10枚を提出される。足利は満足し、俸給1,000疋を狩野に支給した。西暦1,490年1月7日、足利義政が病死する。其の後、義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。
- 亀泉集証 西暦1,485年5月22日、山荘造営の一環として本年完成した「西指庵」に入る。其の後、「今日、初めて西指庵に入り、其れを見たが、正に天下の奇観である」と記す。12月1日、持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。足利義政は、五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。12月6日、阿弥陀の周囲を十僧が囲繞し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事になり、襖の画面と同じ寸法の紙が狩野に渡された。足利義政は亀泉集証に対し、夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良いので、1枚描く様指示した。西暦1,486年1月19日、相阿弥が、草案を作る為の紙を持って亀泉集証の下を訪れる。1月23日、亀泉は、横川景三・相阿弥・狩野正信と共に、十僧の画様に就いて協議する。2月24日、狩野正信と共に、東求堂を拝見する。3月17日、狩野正信から十楽に就いて相談される。亀泉は、同席した横川景三・桃源瑞仙から意見を受けた。
- 横川景三 五山文学で一番の碩学。西暦1,485年12月1日、持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題として十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は、横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。西暦1,486年1月23日、横川景三は、亀泉集証・相阿弥・狩野正信と共に、十僧の画様に就いて協議する。3月17日、狩野正信が、亀泉集証に十楽に就いて相談する。横川景三は、桃源瑞仙と共に同席し、亀泉に意見した。
- 相阿弥 西暦1,486年1月19日、草案を作る為の紙を持って亀泉集証の下を訪れる。1月20日、相阿弥が亀泉集証の下に持参した草案用の紙が、狩野正信の下に届けられる。1月23日、亀泉集証・横川景三・狩野正信と共に、十僧の画様に就いて協議する。2月2日、足利義政に十僧の草案が提出される。足利は、幾つか注文を付け、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様、相阿弥に命じた。
- 桃源瑞仙 西暦1,486年3月17日、狩野正信が、亀泉集証に十楽に就いて相談する。桃源瑞仙は、横川景三と共に同席し、亀泉に意見した。
- 日野富子 西暦1,483年7月31日、足利義政が、完成したばかりの「東山殿常御所」に移り、日野富子と別居する。足利は依然として実権を握り続け、確執は続いた。
- 足利義尚 西暦1,482年7月28日、足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。
- 足利義視 西暦1,490年1月7日、足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。
本書が記録する出来事
- 山荘造営の着手(1,482年2月21日) 足利義政が命じた山荘造営が、浄土寺(現在の京都府京都市左京区浄土寺地区)にて着手される。
- 足利義尚へ政務を譲る意思の表明(1,482年7月28日) 足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。
- 東山殿常御所への移居(1,483年7月31日) 足利義政が、完成したばかりの「東山殿常御所」に移り、日野富子と別居する。足利は依然として実権を握り続け、確執は続いた。
- 亀泉集証の西指庵入り(1,485年5月22日) 亀泉集証が、山荘造営の一環として本年完成した「西指庵」に入る。其の後、「今日、初めて西指庵に入り、其れを見たが、正に天下の奇観である」と記す。本年は、西指庵の他に、超然亭・浴室も完成した。
- 持仏堂の襖10枚の制作の決定(1,485年12月1日) 足利義政が命じた山荘造営の一環で、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題として十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は、五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。
- 十僧の図柄の採用(1,485年12月6日) 足利義政が命じた山荘造営に於ける、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚の制作に関し、阿弥陀の周囲を十僧が囲繞し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事になり、襖の画面と同じ寸法の紙が狩野に渡された。足利義政は亀泉集証に対し、夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良いので、1枚描く様指示した。
- 狩野正信の草案の提出(1,485年12月8日) 狩野正信が、2幅の草案を提出する。其の際狩野は「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と意見を述べた。更に足利家所蔵の馬遠・李龍眠の絵を画様の参考に借りたい旨、及び図様の手本として、九品曼荼羅を取り寄せて欲しい旨を要望した。
- 御倉の画本の到着(1,485年12月30日) 狩野正信の下に、足利家の御倉に所蔵されていた李龍眠筆の文殊維摩の画本1幅・李迪筆の牛の画本2幅が届けられる。狩野の要望が通った形となった。
- 九品曼荼羅の返却(1,486年1月6日) 狩野正信が、九品曼荼羅を大慈院(現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町)に返却する。
- 相阿弥の訪問(1,486年1月19日) 相阿弥が、草案を作る為の紙を持って亀泉集証の下を訪れる。
- 草案用の紙の到着(1,486年1月20日) 相阿弥が亀泉集証の下に持参した草案用の紙が、狩野正信の下に届けられる。
- 十僧の画様の協議(1,486年1月23日) 亀泉集証・横川景三・相阿弥・狩野正信の4名が、十僧の画様に就いて協議する。
- 十僧の草案の提出(1,486年2月2日) 足利義政に対し、十僧の草案が提出される。足利は、幾つか注文を付け、画本として李龍眠の老子青牛図を取り出す様、相阿弥に命じた。
- 草案10幅の返却(1,486年2月21日) 足利義政が、十僧の草案10幅を狩野正信に返却する。更に足利は、此の襖絵が設置される建設途中の自身の持仏堂「東求堂」を、狩野に見せる様命じた。
- 東求堂の拝見(1,486年2月24日) 狩野正信・亀泉集証が、東求堂を拝見する。
- 新たな草案の提出(1,486年3月4日) 狩野正信が、足利義政に新たな十僧の草案を、西暦1,486年2月21日に足利から返却された草案10幅と併せて提出する。足利は検討に入った。
- 十楽に就いての相談(1,486年3月17日) 狩野正信が、亀泉集証に十楽に就いて相談する。此の時には、十僧だけで無く、十楽の案も浮上していた。亀泉は、同席した横川景三・桃源瑞仙から意見を受けた。
- 足利義政の意見(1,486年3月18日) 足利義政が、十僧の図様が画一的で変化に乏しいと意見する。
- 十僧への決定(1,486年3月19日) 東求堂の襖絵が、十僧に決定される。
- 十僧10枚の提出(1,486年4月28日) 狩野正信が、完成した十僧10枚を足利義政に提出する。足利は満足し、俸給1,000疋を狩野に支給した。
- 東求堂の完成(1,486年) 東求堂が完成する。東求堂内の書院は「同仁斎」と名付けられ、茶室の源流となった。
- 東山殿会所・弄清亭の造営(1,487年) 山荘造営の一環として、東山殿会所・弄清亭が造営される。
- 東山殿の上棟(1,489年4月2日) 山荘造営の一環である「東山殿(現在の京都府京都市左京区銀閣寺町)」が上棟される。
- 足利義政の病死(1,490年1月7日) 足利義政が病死する。足利義視は、其の後の法事の席で「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった。美濃国で私は或る僧を出世させる様要望したが、周囲の僧達に反対された。然し義政殿が『義視の言う事だから』と反対を押し切った。私は此れを聞いて頷き、一笑した」という主旨の発言をした。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められた。
- 東山殿の完成(1,490年3月頃) 東山殿が完成する。東山山荘全体を寺とし「慈照院」と名付けられた。
- 慈照寺の創始(1,490年4月頃) 足利義政の菩提を弔う為に、東山殿は「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始される。本書の年表の最後の項目である。
浄土寺の山荘造営から、慈照寺の創始へ──
東求堂の襖絵を巡る全過程を一元化。
140円(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。