陶弘護一元化
大内教幸を破り、大内政弘と義兄弟に──
陶弘護の生誕から刺殺迄を一元化。
169円(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,455年10月13日、第7代陶家当主陶弘房と仁保盛郷の娘の間に、陶弘護が生誕する。本書は、此の陶弘護の生誕から、西暦1,482年6月13日に大内館での宴会にて吉見信頼に刺殺される迄を一元化した記録である。
西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内の本隊は海路で、野上(現在の山口県周南市)・柳井(現在の山口県)・屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)・室津(現在の兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した。9月20日、陶弘護が、龍文寺(現在の山口県周南市長穂門前)にて、第3世龍文寺住職器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称す。西暦1,469年1月6日、陶弘房が、京都の陣営にて死去する。大内政弘は京都にて従軍していた為、此の隙に豊前国・筑後国の賊徒等が蜂起した。其の後、陶弘護は、大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服した。斯うして弘護は、第8代陶家当主に就任した。
西暦1,470年、陶弘護が、周防国守護代に就任する。3月頃、大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶は応じなかった。3月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。「足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい。」という主旨の内容であった。9月1日、陶弘護が、益田兼堯・兼堯の嫡男益田貞兼に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。
西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が、鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて、大内教幸率いる軍を破る。教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。教幸は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。1月19日、陶弘護率いる軍が、江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。12月13日、陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。
西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)に進軍する。吉見は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。1月17日、陶弘護が、京都の大内政弘宛に、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼による高津城(現在の島根県益田市高津町上市)等の諸城の攻略、自身の軍による嘉年城攻略を伝える戦況報告の書簡を送る。2月5日、陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて、大内教幸率いる軍を破る。教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代(現在の山口県岩国市錦町・本郷町・美和町周辺)・佐波郡得地(現在の山口県山口市徳地地区)へ加勢する計画を立てた。2月11日、陶弘護が益田貞兼に、大内教幸の没落や仁保盛安の動向、仁保から吉見信頼へ宛てた書簡を途中で奪い取った事を伝え、背後から吉見領への進攻を急ぐ様求める書簡を送る。
西暦1,474年、大内政弘が、陶弘護の功績を称え、尾張権守に任じる。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃する。然し吉見は、陶弘護に敗れ、吉賀(現在の島根県鹿足郡)・長野(現在の島根県益田市)・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。6月頃、少弐政尚が、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。
西暦1,478年、陶弘護が、筑前国守護代に就任する。周防国守護代職と兼務する事となった。1月26日、大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津(現在の山口県柳井市)にて大内を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内と陶は義兄弟の契りを交わした。陶は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内は此れを認めた。大内は、陶弘護に筑前国を任せ、陶は忠節を尽くした。10月頃、大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。陶弘護は先駆けとして戦った。10月20日、大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。少弐達は散り散りとなった。此れを受けて、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有・頼有の息子帥律師を始めとする人間が、大内の下に祝言を述べる為にやって来た。10月28日から3日間、陶弘護が、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首する。
西暦1,480年1月頃、陶弘護が、筑前国守護代職を、自身の弟右田弘詮に譲る。西暦1,481年、陶弘護が、伊勢神宮を参詣する。10月頃、陶弘護が、周防国へ帰国する。西暦1,482年4月頃、小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し、奥義を学んだ。6月13日、吉見信頼が、大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見を斬殺した。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。龍文寺での受衣から、大内教幸の撃破、大内政弘との義兄弟の契りを経て、鵜噬による刺殺に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 陶弘護 西暦1,455年10月13日、第7代陶家当主陶弘房と仁保盛郷の娘の間に生誕する。西暦1,467年9月20日、龍文寺にて、第3世龍文寺住職器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称す。西暦1,469年1月6日、陶弘房が死去する。其の後、陶弘護は、大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服した。斯うして弘護は、第8代陶家当主に就任した。西暦1,470年、周防国守護代に就任する。3月頃、大内教幸が挙兵する。教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶弘護は応じなかった。西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が、鞍掛山にて、大内教幸率いる軍を破る。1月19日、江良城にて、大内教幸の残党を破る。西暦1,472年2月5日、長門国阿武郡にて、大内教幸率いる軍を破る。西暦1,474年、大内政弘から、功績を称えられ、尾張権守に任じられる。西暦1,478年、筑前国守護代に就任し、周防国守護代職と兼務する事となった。1月26日、周防国へ帰国した大内政弘を柳井津にて出迎え、富田保の自身の屋敷で持て成した。大内と陶は義兄弟の契りを交わした。西暦1,482年6月13日、陶弘護は、大内館での宴会にて、吉見信頼に、吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺される。
- 大内政弘 西暦1,467年6月11日、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。西暦1,469年1月6日、陶弘房が死去する。其の後、陶弘護は、大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服した。西暦1,474年、大内は、陶弘護の功績を称え、尾張権守に任じる。西暦1,478年1月26日、周防国へ帰国する。陶弘護に柳井津にて出迎えられ、富田保の陶の屋敷で持て成された。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内と陶は義兄弟の契りを交わした。4月頃、吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内は此れを認めた。大内は、陶弘護に筑前国を任せた。10月頃、大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。10月20日、大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。
- 陶弘房 第7代陶家当主。陶弘護の父。西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。陶弘房も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。西暦1,469年1月6日、弘房は、京都の陣営にて死去する。
- 大内教幸 西暦1,470年3月頃、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶は応じなかった。西暦1,471年1月13日、教幸率いる軍は、鞍掛山にて陶弘護率いる軍に敗れる。教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野へ敗走した。1月19日、江良城にて、陶弘護率いる軍に残党を破られる。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍する。吉見は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始した。2月5日、教幸率いる軍は、長門国阿武郡にて陶弘護率いる軍に敗れる。教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳に入った。
- 吉見信頼 大内家の家臣。西暦1,470年3月頃、大内教幸と共に、長門国赤間関にて挙兵する。3月11日、京都に居る吉見信頼に、内藤武盛・陶弘護等が連署で書簡を送る。西暦1,471年1月13日、吉見信頼は、鞍掛山で敗れた大内教幸に頼られる。西暦1,472年1月頃、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍する。吉見は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始した。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が、元山城を攻撃する。然し吉見は、陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われた。吉見は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。西暦1,478年4月頃、大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内は此れを認めた。西暦1,482年6月13日、吉見信頼は、大内館での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見を斬殺した。
- 益田兼堯 娘は陶弘護の正室。西暦1,470年9月1日、兼堯は、陶弘護から、嫡男の益田貞兼と共に、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送られる。益田家と吉見家は犬猿の仲であった。
- 益田貞兼 益田兼堯の嫡男。西暦1,470年9月1日、陶弘護から、父の益田兼堯と共に誓書を送られる。西暦1,471年12月13日、陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。西暦1,472年1月17日、陶弘護が大内政弘宛に送った戦況報告の書簡に、益田貞兼による高津城等の諸城の攻略が記される。2月11日、陶弘護から、背後から吉見領への進攻を急ぐ様求める書簡を送られる。西暦1,476年1月頃、吉見信頼が元山城を攻撃するも、陶弘護に敗れ、所領を奪われる。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。
- 仁保盛安 西暦1,470年3月頃、大内教幸と共に、長門国赤間関にて挙兵する。西暦1,472年2月5日、大内教幸率いる軍が、陶弘護率いる軍に敗れる。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する計画を立てた。2月11日、陶弘護が益田貞兼に送った書簡には、仁保盛安は安芸国の厳島神社の神領地である宮内村(現在の広島県廿日市市)に逃れたが容れられず、安芸武田家の分領の伴(現在の広島県広島市安佐南区)に退く積もりで、現在国衆と申し合わせて、計略の最中である事が記されている。
- 内藤武盛 内藤弘矩の兄。西暦1,470年3月頃、大内教幸と共に、長門国赤間関にて挙兵する。3月11日、武盛は、陶弘護等と連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。
- 内藤弘矩 内藤武盛の弟。大内義興の家臣で長門国守護代。西暦1,482年6月13日、大内館での宴会にて、吉見信頼が陶弘護を刺殺する。内藤弘矩は、直様吉見を斬殺した。
- 周布和兼 西暦1,470年3月頃、大内教幸と共に、長門国赤間関にて挙兵する。
- 器之為璠 第3世龍文寺住職。西暦1,467年9月20日、陶弘護が、龍文寺(現在の山口県周南市長穂門前)にて、器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称す。
- 少弐政尚 西暦1,476年6月頃、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。
- 少弐政資 西暦1,478年10月20日、大内政弘率いる軍に、太宰府にて敗れる。少弐達は散り散りとなった。
- 右田弘詮 陶弘護の弟。西暦1,480年1月頃、陶弘護から、筑前国守護代職を譲られる。
- 彦山座主頼有 西暦1,478年10月20日、大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。此れを受けて頼有は、息子の帥律師等と共に、大内の下に祝言を述べる為にやって来た。10月28日から3日間、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級が、陶弘護によって、博多土井町の称名寺の門前に梟首される。
- 仁保弘名 彦山座主頼有の計略により捕らえられる。西暦1,478年10月28日から3日間、陶弘護により、其の首級が博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首される。
- 小笠原元長 西暦1,482年4月頃、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は、「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し、奥義を学んだ。
- 吉見頼興 西暦1,482年6月13日、吉見信頼が、大内館での宴会にて陶弘護を刺殺し、内藤弘矩に斬殺される。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。
- 河野通春 西暦1,467年6月11日、大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春も、陶弘房と共に此の中に居た。
本書が記録する出来事
- 陶弘護の生誕(1,455年10月13日) 第7代陶家当主陶弘房と仁保盛郷の娘の間に、陶弘護が生誕する。
- 大内政弘の出発(1,467年6月11日) 大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。河野通春・陶弘房も此の中に居た。弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内の本隊は海路で、野上(現在の山口県周南市)・柳井(現在の山口県)・屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)・室津(現在の兵庫県たつの市)を経由して瀬戸内海を東上した。
- 龍文寺での受衣(1,467年9月20日) 陶弘護が、龍文寺(現在の山口県周南市長穂門前)にて、第3世龍文寺住職器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称す。
- 陶弘房の死去(1,469年1月6日) 陶弘房が、京都の陣営にて死去する。大内政弘は京都にて従軍していた為、此の隙に豊前国・筑後国の賊徒等が蜂起した。其の後、陶弘護は、大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服した。斯うして弘護は、第8代陶家当主に就任した。
- 周防国守護代就任(1,470年) 陶弘護が、周防国守護代に就任する。
- 大内教幸の挙兵(1,470年3月頃) 大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵する。教幸は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶は応じなかった。
- 吉見信頼への連署の書簡(1,470年3月11日) 内藤弘矩の兄内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。「足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい。」という主旨の内容であった。
- 益田兼堯・益田貞兼への誓書(1,470年9月1日) 陶弘護が、益田兼堯・兼堯の嫡男益田貞兼に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。
- 鞍掛山での戦い(1,471年1月13日) 陶弘護率いる軍が、鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて、大内教幸率いる軍を破る。教幸は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。教幸は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。
- 江良城での戦い(1,471年1月19日) 陶弘護率いる軍が、江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。
- 益田貞兼との同盟(1,471年12月13日) 陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。
- 嘉年城への進軍(1,472年1月頃) 吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)に進軍する。吉見は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。
- 大内政弘への戦況報告(1,472年1月17日) 陶弘護が、京都の大内政弘宛に、吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼による高津城(現在の島根県益田市高津町上市)等の諸城の攻略、自身の軍による嘉年城攻略を伝える戦況報告の書簡を送る。
- 長門国阿武郡での戦い(1,472年2月5日) 陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて、大内教幸率いる軍を破る。教幸は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代(現在の山口県岩国市錦町・本郷町・美和町周辺)・佐波郡得地(現在の山口県山口市徳地地区)へ加勢する計画を立てた。
- 益田貞兼への書簡(1,472年2月11日) 陶弘護が益田貞兼に、近況を伝える書簡を送る。大内教幸の没落と、仁保盛安が安芸国の厳島神社の神領地である宮内村(現在の広島県廿日市市)に逃れたが容れられず、安芸武田家の分領の伴(現在の広島県広島市安佐南区)に退く積もりで、国衆と申し合わせて計略の最中である事を伝えた。又、仁保から吉見信頼へ宛てた書簡を途中で奪い取り、其の書中に玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する事が書かれていたとして、益田の一層の奔走を祈った。更に、吉見信頼の分領並びに庄内郷(現在の山口県防府市牟礼)・黒谷郷(現在の山口県山口市徳地深谷付近)方面への発向計画を尋ね、吉見勢が山代及び地福(現在の山口県山口市阿東町大字地福上・大字地福下)方面への進出を企んでいる為、此れを牽制する為にも、背後から吉見領への進攻を急ぐ様求めた。
- 尾張権守への任官(1,474年) 大内政弘が、陶弘護の功績を称え、尾張権守に任じる。
- 元山城での戦い(1,476年1月頃) 吉見信頼が、元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃する。然し吉見は、陶弘護に敗れ、吉賀(現在の島根県鹿足郡)・長野(現在の島根県益田市)・北九州の所領を奪われた。其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。
- 少弐政尚の豊前国入り(1,476年6月頃) 少弐政尚が、旧領を回復すべく、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。
- 筑前国守護代就任(1,478年) 陶弘護が、筑前国守護代に就任する。周防国守護代職と兼務する事となった。
- 大内政弘の帰国(1,478年1月26日) 大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津(現在の山口県柳井市)にて大内を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内と陶は義兄弟の契りを交わした。陶は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。
- 吉見信頼の謝罪(1,478年4月頃) 吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内は此れを認めた。大内は、陶弘護に筑前国を任せ、陶は忠節を尽くした。
- 豊前国・筑前国への遠征(1,478年10月頃) 大内政弘が、豊前国・筑前国へ遠征を行う。陶弘護は先駆けとして戦った。
- 太宰府での戦い(1,478年10月20日) 大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。少弐達は散り散りとなった。此れを受けて、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有・頼有の息子帥律師を始めとする人間が、大内の下に祝言を述べる為にやって来た。
- 仁保弘名の梟首(1,478年10月28日) 此の日から3日間、陶弘護が、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首する。
- 筑前国守護代職の譲渡(1,480年1月頃) 陶弘護が、筑前国守護代職を、自身の弟右田弘詮に譲る。
- 伊勢神宮の参詣(1,481年) 陶弘護が、伊勢神宮を参詣する。
- 周防国への帰国(1,481年10月頃) 陶弘護が、周防国へ帰国する。
- 小笠原元長の拝謁(1,482年4月頃) 小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し、奥義を学んだ。
- 陶弘護の刺殺(1,482年6月13日) 吉見信頼が、大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見を斬殺した。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。本書の年表の最後の項目である。
龍文寺での受衣から、鵜噬による刺殺へ──
陶弘護の生涯の全過程を一元化。
169円(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。