電子書籍「陶弘護一元化」の表紙

陶弘護一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,455年10月13日〜1,482年6月13日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年11月15日

陶弘房嫡男弘護の生誕・龍文寺受衣・父の京都死去と第8代陶家当主就任・周防国守護代就任・大内教幸の乱鎮圧・鞍掛山の戦い・江良城の戦い・嘉年城攻略・長門国阿武郡の戦い・尾張権守任命・元山城の戦いと吉見領没収・覗山城での少弐政尚対陣・筑前国守護代兼務・大内政弘との義兄弟契り・太宰府の戦いと仁保弘名梟首・伊勢神宮参詣・小笠原元長師事・大内館に於ける吉見信頼による刺殺──
大内家臣陶家を率いた27年を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1,455年10月13日、第7代陶家当主陶弘房と仁保盛郷の娘との間に陶弘護が生誕した日から、西暦1,482年6月13日、弘護が大内館での宴会にて吉見信頼に吉見家の家宝の短刀である鵜噬で刺殺された日まで。本書は、陶家第8代当主陶弘護の生涯——陶弘房嫡男としての生誕、龍文寺第3世住職器之為璠よりの受衣と法名「孝勲」・号「忠建」、京都陣中での陶弘房死去と大内政弘の命による加冠及び「弘」の字授与による第8代陶家当主就任、周防国守護代就任、大内政弘の留守中に周防国奪取を意図した大内教幸の赤間関挙兵と内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼の参加、益田兼堯・益田貞兼との誓書交換による同盟、鞍掛山の戦い・江良城の戦いに於ける大内教幸軍撃破、吉見信頼率いる軍の嘉年城包囲の迎撃と攻略、長門国阿武郡の戦いに於ける大内教幸の豊前国馬ヶ岳敗走と仁保盛安の厳島神領逃走、大内政弘による戦功を称えての尾張権守任命、元山城の戦いに於ける吉見信頼敗退と吉賀・長野・北九州所領の益田貞兼及び大内家臣への転付、少弐政尚率いる4,000名との覗山城対陣、筑前国守護代兼務就任、柳井津での大内政弘出迎えと富田保屋敷での饗応による義兄弟契り、吉見信頼の謝罪和睦と大内政弘による容認、大内政弘の豊前国・筑前国遠征に於ける先駆け、太宰府に於ける少弐政資撃破と彦山座主頼有の計略による仁保弘名捕縛と其の首級の博多土井町称名寺門前3日間梟首、弟右田弘詮への筑前国守護代譲渡、伊勢神宮参詣、小笠原元長への師事による弓術奥義習得、大内館に於ける吉見信頼の鵜噬による刺殺と長門国守護代内藤弘矩の即座の斬殺迄の約27年間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,455年10月13日、第7代陶家当主陶弘房と仁保盛郷の娘との間に陶弘護が生誕した。1,467年6月11日、大内政弘が周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い山口を出発し、此の中には河野通春と陶弘房も居た。陶弘房は家の事を弘護に任せており、大内本隊は海路で野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した。同年9月20日、弘護は龍文寺にて第3世住職器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称した。1,469年1月6日、陶弘房が京都の陣営にて死去した。大内政弘は京都にて従軍していた為、此の伱に豊前国・筑後国の賊徒等が蜂起した。其の後弘護は大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服し、第8代陶家当主に就任した。1,470年、弘護は周防国守護代に就任した。

西暦1,470年3月、大内教幸が大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関にて内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵した。大内教幸は百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶は応じなかった。同月11日、内藤弘矩の兄内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で、京都に居る吉見信頼に「足利義政に忠節を致せという細川勝元の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい」との書簡を送った。同年9月1日、弘護は益田兼堯・益田貞兼父子に大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送った。1,471年1月13日、弘護率いる軍が鞍掛山にて大内教幸率いる軍を破り、教幸は残党を引き連れ大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野へ敗走した。同月19日、弘護率いる軍は江良城にて大内教幸の残党を破った。教幸は其の後も吉見信頼の助けを借りて兵を集め長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた弘護が此れを防ぎ、教幸率いる軍は潰走した。

西暦1,471年12月13日、陶弘護が再度益田貞兼に誓書を送り大内政弘方として同盟を結んだ。1,472年1月、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍し、吉見は大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始したが、陶弘護が此れを迎撃した。同月17日、弘護は吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼が高津城等の諸城を攻略した事、自身の軍による嘉年城攻略を京都の大内政弘宛に戦況報告として書簡を送った。同年2月5日、弘護率いる軍が長門国阿武郡にて大内教幸率いる軍を破り、教幸は豊前国へ敗走し馬ヶ岳に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する計画を立てた。1,474年、大内政弘が陶弘護の功績を称え尾張権守に任じた。1,476年1月、吉見信頼が元山城を攻撃したが陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われ益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。

西暦1,476年6月、少弐政尚が旧領回復の為、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率い豊前国に入り、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城を築いて対陣し合戦となり、大内方が60名・少弐方が6名の戦死者を出したが勝負は付かなかった。1,478年、陶弘護が筑前国守護代に就任し周防国守護代職と兼務する事となった。同年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国し、弘護は柳井津にて出迎え富田保の自身の屋敷で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、両者は義兄弟の契りを交わした。陶は夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。同年4月、吉見信頼が大内政弘に謝罪し和睦を求め、大内は此れを認めた。大内は陶弘護に筑前国を任せ、陶は忠節を尽くした。同年10月、大内政弘が豊前国・筑前国へ遠征を行い、陶弘護は先駆けとして戦った。同月20日、大内政弘率いる軍が太宰府にて少弐政資率いる軍を破り、少弐達は散り散りとなり、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有及び頼有の息子帥律師等が大内の下に祝言を述べる為にやって来た。同月28日から3日間、弘護は頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町の称名寺の門前に梟首した。

西暦1,480年1月、陶弘護が筑前国守護代職を自身の弟右田弘詮に譲った。1,481年、弘護が伊勢神宮を参詣し、同年10月に周防国へ帰国した。1,482年4月、小笠原元長が大内政弘に拝謁した際、陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し奥義を学んだ。同年6月13日、吉見信頼が大内館での宴会にて陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺した。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は直様吉見を斬殺した。吉見頼興は陶家の報復を予見し吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった、本書の終結点。


登場人物

  • 陶弘護 陶弘房の嫡男で陶家第8代当主。西暦1,455年10月13日に生誕、1,467年9月20日に龍文寺で器之為璠より受衣し法名孝勲・号忠建を称した。1,469年1月6日の父死去後、大内政弘の加冠を受けて第8代陶家当主に就任。1,470年に周防国守護代就任、同年以降大内教幸の乱に際し鞍掛山・江良城・嘉年城・長門国阿武郡で教幸軍を撃破。1,474年に尾張権守任命、1,476年1月の元山城の戦いで吉見信頼を破りその所領を没収、同年6月には覗山城で少弐政尚と対陣。1,478年に筑前国守護代兼務就任、大内政弘と義兄弟の契りを交わした。太宰府の戦いで先駆けとして戦い仁保弘名の首級を梟首、1,480年1月に筑前国守護代職を弟右田弘詮に譲り、1,481年に伊勢神宮参詣、1,482年4月に小笠原元長に師事し弓術奥義を習得。1,482年6月13日、大内館の宴会にて吉見信頼に鵜噬で刺殺された、本書の主人公。
  • 陶弘房 陶家第7代当主、弘護の父。西暦1,467年6月11日、大内政弘の山口出発に従って従軍し、家の事は弘護に任せた。1,469年1月6日、京都の陣営にて死去した、本書の発端の父。
  • 仁保盛郷の娘 陶弘房の正室、陶弘護の母。西暦1,455年10月13日に弘護を儲けた、本書の発端の母。
  • 器之為璠 龍文寺第3世住職。西暦1,467年9月20日、陶弘護に受衣し、法名「孝勲」・号「忠建」を授けた、本書の弘護精神形成の師。
  • 大内政弘 大内家当主。西暦1,467年6月11日に周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発し京都へ従軍、1,469年の陶弘房死去後は陶弘護に加冠し「弘」の字を授けて第8代陶家当主とし、1,474年には弘護の功績を称え尾張権守に任じた。1,478年1月26日に周防国へ帰国した際には柳井津で弘護の出迎えを受け富田保屋敷で饗応され義兄弟の契りを交わした。同年10月の豊前国・筑前国遠征を率いて太宰府で少弐政資を破った、本書の弘護の主君。
  • 大内教幸 西暦1,470年3月、大内政弘の留守中に周防国奪取を意図し長門国赤間関にて内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵、陶弘護をも誘ったが応じられなかった。1,471年1月13日に鞍掛山で陶軍に敗れ津和野へ敗走、同月19日に江良城で残党を破られ、長門国阿武郡攻撃も陶に防がれ潰走。1,472年2月5日に長門国阿武郡で再び陶軍に破れ豊前国馬ヶ岳へ敗走、同年3月4日に没落した、本書の弘護の主要な戦の相手。
  • 加嘉丸 大内政弘の息子。西暦1,470年3月11日、内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護等の連署書簡で、大内教幸の代わりに奉公させる者として名が挙げられた、本書の大内教幸の乱に於ける代替当主候補。
  • 吉見信頼 大内家の家臣。西暦1,470年3月、赤間関にて大内教幸と共に挙兵、1,471年1月に津和野へ敗走してきた教幸を匿い、1,472年1月には嘉年城へ進軍して陶弘護と戦い敗退。1,476年1月には元山城を攻撃するも陶に敗れ吉賀・長野・北九州の所領を没収された。1,478年4月に大内政弘に謝罪し和睦を結んだが、1,482年6月13日、大内館の宴会で陶弘護を吉見家家宝の短刀鵜噬で刺殺し、直後に内藤弘矩に斬殺された、本書の弘護を刺殺した宿敵。
  • 吉見頼興 西暦1,482年6月13日、吉見信頼による陶弘護刺殺後、陶家の報復を予見して吉見家の書物を処分した人物。報復は行われなかった、本書の弘護刺殺後の吉見家当主。
  • 益田兼堯 西暦1,470年9月1日、嫡男貞兼と共に陶弘護から大内政弘に与する誓書を受け取った人物。陶弘護の正室は益田兼堯の娘であった、本書の弘護の岳父。
  • 益田貞兼 益田兼堯の嫡男。西暦1,470年9月1日の誓書、1,471年12月13日の再度の誓書により陶弘護と大内政弘方として同盟を結んだ。1,472年1月に高津城等の諸城を攻略し、1,476年1月の吉見信頼敗退後は没収された吉賀・長野・北九州の所領の一部を得た、本書の弘護と益田家の同盟者。
  • 内藤武盛 内藤弘矩の兄。西暦1,470年3月の大内教幸挙兵に参加したが、同月11日の吉見信頼宛連署書簡にも名を連ね、大内政弘への一味同心を表明した、本書の大内教幸の乱初期の情勢変遷者。
  • 内藤弘矩 大内義興の家臣で長門国守護代。西暦1,482年6月13日、大内館の宴会で陶弘護を刺殺した吉見信頼を直様斬殺した、本書の弘護刺殺直後の報復者。
  • 仁保盛安 西暦1,470年3月、大内教幸と共に赤間関で挙兵した一人。1,472年2月5日の長門国阿武郡の戦い後は厳島神領に逃れ、安芸武田家の分領の伴に退く積もりで国衆と計略の最中であった。吉見信頼宛の書簡で玖珂郡山代・佐波郡得地への加勢を計画していた、本書の大内教幸の乱の残党。
  • 仁保弘名 西暦1,478年10月、彦山座主頼有の計略により捕らえられた人物。同月28日から3日間、其の首級が博多土井町称名寺の門前に陶弘護によって梟首された、本書の太宰府の戦い後の処刑対象。
  • 周布和兼 西暦1,470年3月、大内教幸の赤間関挙兵に参加した一人、本書の大内教幸の乱の参加者。
  • 豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄 西暦1,470年3月11日、内藤武盛・陶弘護と共に連署で京都の吉見信頼に大内政弘への一味同心を表明する書簡を送った5名、本書の大内教幸の乱初期に陶と共に大内支持を表明した国衆。
  • 河野通春 西暦1,467年6月11日、大内政弘の山口出発に従って従軍した人物、本書の大内政弘と共に上洛した将。
  • 細川勝元 西暦1,470年3月11日付連署書簡に於いて、足利義政への忠節を致せとの書簡を発した人物として名が出る、本書の大内教幸の乱期の中央に於ける東軍首魁。
  • 足利義政 室町幕府第8代将軍。西暦1,470年3月11日付連署書簡に於いて、細川勝元を介して忠節を求められる存在として名が出る、本書の大内教幸の乱期の公方。
  • 右田弘詮 陶弘護の弟。西暦1,480年1月、弘護から筑前国守護代職を譲られた、本書の筑前国守護代職の継承者。
  • 右田弘量 馬ヶ岳城城督。西暦1,478年10月20日の太宰府に於ける少弐政資撃破後、大内政弘の下に祝言を述べる為にやって来た人物の一人、本書の太宰府の戦い後の来賀者。
  • 少弐政尚 西暦1,476年6月、旧領回復の為に宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率いて豊前国に入り、馬ヶ岳城・岩石城等に籠城した人物。陶弘護率いる3,000名と覗山城にて対陣、合戦となり、大内方60名・少弐方6名の戦死者を出したが勝負は付かなかった、本書の覗山城対陣の相手。
  • 少弐政資 西暦1,478年10月20日、太宰府にて大内政弘率いる軍に敗れ、少弐達は散り散りとなった、本書の太宰府の戦いの敗将。
  • 宗職盛・宗国久 西暦1,476年6月、少弐政尚が豊前国に入った際、4,000名の兵の中に居た2名、本書の覗山城対陣に於ける少弐方の主要武将。
  • 城井俊明・佐田忠景・仲間盛秀・周防国分寺住持 西暦1,478年10月20日の太宰府に於ける少弐政資撃破後、大内政弘の下に祝言を述べる為にやって来た人間等。本書の太宰府の戦い後の来賀者。
  • 彦山座主頼有と帥律師 頼有は彦山座主で、息子は帥律師。西暦1,478年10月20日の太宰府に於ける少弐政資撃破後、大内政弘の下に祝言を述べる為にやって来た親子。頼有は計略によって仁保弘名を捕縛させ、陶弘護による同月28日からの称名寺門前3日間梟首の契機を作った、本書の仁保弘名捕縛の策謀者。
  • 小笠原元長 西暦1,482年4月、大内政弘に拝謁した際、陶弘護から「天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として師事された人物、本書の弘護最晩年の弓術の師。
  • 大内義興 西暦1,482年6月13日の陶弘護刺殺時、其の家臣である内藤弘矩(長門国守護代)が直様吉見信頼を斬殺した、本書の弘護終焉時の主家当主。

主要な地名・拠点

  • 龍文寺 現在の山口県周南市長穂門前。西暦1,467年9月20日、陶弘護が第3世住職器之為璠より受衣し、法名「孝勲」・号「忠建」を授かった寺院、本書の弘護精神形成の地。
  • 赤間関 現在の山口県下関市赤間町。西暦1,470年3月、大内教幸が内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に大内政弘の留守中に周防国奪取を意図して挙兵した地、本書の大内教幸の乱の発火点。
  • 鞍掛山 現在の山口県岩国市玖珂町。西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が大内教幸率いる軍を破った戦場、本書の大内教幸の乱鎮圧緒戦の地。
  • 津和野 現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂。西暦1,471年1月13日の鞍掛山敗戦後、大内教幸が大内家家臣吉見信頼を頼って残党と共に敗走した地、本書の大内教幸敗走の地。
  • 江良城 現在の山口県萩市吉部上。西暦1,471年1月19日、陶弘護率いる軍が大内教幸の残党を破った城、本書の大内教幸の乱鎮圧第2戦の地。
  • 嘉年城 現在の山口県山口市阿東嘉年下。西暦1,472年1月、吉見信頼率いる軍が進軍し、同月17日に吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による包囲を経て、陶弘護自身の軍による攻略の対象となった城、本書の長門国西部情勢の要地。
  • 高津城 現在の島根県益田市高津町上市。西暦1,472年1月17日付戦況報告に於いて、益田貞兼が攻略した諸城の一つとして挙げられた城、本書の益田貞兼の戦功の地。
  • 長門国阿武郡 現在の山口県阿武郡阿武町。西暦1,471年1月19日の江良城敗戦後に大内教幸が吉見信頼の助けで攻撃した地であり、大内政弘の母の命により陶弘護が砦を築いて防いだ。1,472年2月5日にも弘護率いる軍が大内教幸率いる軍を破り、教幸は豊前国馬ヶ岳へ敗走した、本書の大内教幸の乱終盤の戦場。
  • 馬ヶ岳・馬ヶ岳城 現在の福岡県行橋市大谷。西暦1,472年2月5日の長門国阿武郡敗戦後に大内教幸が入った豊前国の地であり、1,476年6月には少弐政尚率いる4,000名が古城に籠城し陶弘護率いる3,000名と対陣する舞台の一部となった、本書の豊前国に於ける敗将集結の地。
  • 覗山城 現在の福岡県行橋市稲童。西暦1,476年6月、陶弘護が兵3,000名を率いて築き、少弐政尚率いる4,000名と対陣した城。合戦では大内方60名・少弐方6名の戦死者を出したが勝負は付かなかった、本書の少弐政尚対陣の地。
  • 元山城 現在の山口県山口市阿東徳佐下。西暦1,476年1月、吉見信頼が攻撃したが陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を没収される契機となった城、本書の吉見信頼没落の戦場。
  • 吉賀・長野・北九州 吉賀は現在の島根県鹿足郡、長野は現在の島根県益田市。西暦1,476年1月の元山城敗戦により、吉見信頼から没収され益田貞兼や大内家の家臣に当てられた3ヶ所の所領、本書の吉見信頼没落の代償。
  • 太宰府 西暦1,478年10月20日、大内政弘率いる軍が少弐政資率いる軍を破った地。陶弘護は先駆けとして戦い、少弐達は散り散りとなった、本書の大内・陶連合の決定的勝利の地。
  • 博多土井町称名寺 現在の福岡県福岡市博多区店屋町。西暦1,478年10月28日から3日間、彦山座主頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級が、其の門前に陶弘護によって梟首された寺院、本書の敵将首級梟首の地。
  • 柳井津・富田保 柳井津は現在の山口県柳井市、富田保は現在の山口県周南市富田。西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国した際に陶弘護が柳井津で出迎え、富田保の自身の屋敷で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し両者は義兄弟の契りを交わした、本書の弘護と大内政弘の関係の絶頂の地。
  • 伊勢神宮 西暦1,481年、陶弘護が参詣した神社、本書の弘護晩年の参詣地。
  • 大内館 現在の山口県山口市大殿大路。西暦1,482年6月13日、宴会に於いて陶弘護が吉見信頼に吉見家の家宝の短刀である鵜噬で刺殺された地、本書の終焉の地。

主要な事件・出来事

  • 陶弘護の生誕 西暦1,455年10月13日、第7代陶家当主陶弘房と仁保盛郷の娘との間に陶弘護が生誕した、本書の発端。
  • 龍文寺に於ける受衣 西暦1,467年9月20日、陶弘護が龍文寺にて第3世住職器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称した、本書の弘護の精神的出発点。
  • 父陶弘房の死去と第8代陶家当主就任 西暦1,469年1月6日、陶弘房が京都の陣営にて死去した。大内政弘は京都にて従軍していた為、其の伱に豊前国・筑後国の賊徒等が蜂起した。其の後陶弘護は大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服、第8代陶家当主に就任した、本書の家督継承。
  • 周防国守護代就任 西暦1,470年、陶弘護が周防国守護代に就任した、本書の公職就任の始まり。
  • 大内教幸の赤間関挙兵 西暦1,470年3月、大内教幸が大内政弘の留守中に周防国奪取を意図し、長門国赤間関にて内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼と共に挙兵した。大内教幸は百計を巡らせて陶弘護も誘ったが、陶は応じなかった、本書の大内教幸の乱の発端。
  • 京都吉見信頼宛連署書簡 西暦1,470年3月11日、内藤武盛・豊田元秀・杉重隆・杉弘重・二保武安・間田弘縄・陶弘護が連署で京都の吉見信頼に「大内教幸殿は老齢である為大内殿の息子加嘉丸を奉公させる事で大内殿に一味同心したので、細川勝元殿を介して公方の私信と室町幕府の安堵状を頂きたい」との書簡を送った、本書の大内教幸の乱初期の情勢工作。
  • 益田父子との誓書交換 西暦1,470年9月1日、陶弘護が益田兼堯・益田貞兼父子に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし疎意の無い事を誓う誓書を送った。1,471年12月13日には再度益田貞兼に誓書を送り同盟を結んだ、本書の益田家との同盟の基礎。
  • 鞍掛山の戦い 西暦1,471年1月13日、陶弘護率いる軍が鞍掛山にて大内教幸率いる軍を破り、教幸は残党を引き連れ大内家家臣吉見信頼を頼って津和野へ敗走した、本書の大内教幸の乱鎮圧緒戦の勝利。
  • 江良城の戦い 西暦1,471年1月19日、陶弘護率いる軍が江良城にて大内教幸の残党を破った。教幸は其の後も吉見信頼の助けを借りて兵を集め長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた弘護が此れを防ぎ、教幸率いる軍は潰走した、本書の大内教幸の乱第2戦の勝利。
  • 嘉年城を巡る攻防 西暦1,472年1月、吉見信頼率いる軍が嘉年城に進軍し大内教幸に長門国西部諸城攻略を行わせる形で攻撃を開始したが、陶弘護が迎撃。同月17日付戦況報告では吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲、益田貞兼による高津城等攻略、弘護軍による嘉年城攻略が京都の大内政弘に伝えられた、本書の大内教幸の乱中盤の戦況。
  • 長門国阿武郡の戦い 西暦1,472年2月5日、陶弘護率いる軍が長門国阿武郡にて大内教幸率いる軍を破った。教幸は豊前国へ敗走し馬ヶ岳に入り、仁保盛安も厳島神領に逃れ玖珂郡山代・佐波郡得地への加勢を計画した、本書の大内教幸の乱終盤の決定的勝利。
  • 尾張権守任命 西暦1,474年、大内政弘が陶弘護の功績を称え尾張権守に任じた、本書の弘護の戦功が公的に認められた瞬間。
  • 元山城の戦いと吉見信頼領の没収 西暦1,476年1月、吉見信頼が元山城を攻撃したが陶弘護に敗れ、吉賀・長野・北九州の所領を奪われ益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが合戦には至らず、陶の正室は益田兼堯の娘であったが益田家と吉見家は犬猿の仲であった、本書の吉見家没落の始まり。
  • 覗山城に於ける少弐政尚との対陣 西暦1,476年6月、少弐政尚が旧領回復の為、宗職盛・宗国久を始めとする4,000名の兵を率いて豊前国に入り馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城。陶弘護は兵3,000名を率いて覗山城を築いて対陣し、合戦で大内方60名・少弐方6名の戦死者を出したが勝負は付かなかった、本書の少弐方との最初の本格対峙。
  • 筑前国守護代兼務就任 西暦1,478年、陶弘護が筑前国守護代に就任し周防国守護代職と兼務する事となった、本書の弘護の権力拡大。
  • 大内政弘との義兄弟契り 西暦1,478年1月26日、大内政弘が周防国へ帰国し、陶弘護は柳井津にて出迎え富田保の自身の屋敷で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し両者は義兄弟の契りを交わした。陶は夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した、本書の弘護と大内政弘の主従関係の絶頂。
  • 吉見信頼の謝罪和睦 西暦1,478年4月、吉見信頼が大内政弘に謝罪し和睦を求め、大内は此れを認めた。大内は陶弘護に筑前国を任せ、陶は忠節を尽くした、本書の一時的な吉見との和解。
  • 太宰府の戦い 西暦1,478年10月、大内政弘が豊前国・筑前国へ遠征を行い陶弘護は先駆けとして戦った。同月20日、大内政弘率いる軍が太宰府にて少弐政資率いる軍を破り、少弐達は散り散りとなった。其の後城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有及び頼有の息子帥律師等が大内の下に祝言を述べる為にやって来た、本書の大内・陶連合の決定的勝利。
  • 仁保弘名首級の称名寺門前梟首 西暦1,478年10月28日から3日間、彦山座主頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、陶弘護が博多土井町の称名寺の門前に梟首した、本書の太宰府の戦い後の処罰。
  • 筑前国守護代職の右田弘詮への譲渡 西暦1,480年1月、陶弘護が筑前国守護代職を自身の弟右田弘詮に譲った、本書の権力整理の節目。
  • 伊勢神宮参詣 西暦1,481年、陶弘護が伊勢神宮を参詣し、同年10月に周防国へ帰国した、本書の弘護晩年の精神的営み。
  • 小笠原元長への師事 西暦1,482年4月、小笠原元長が大内政弘に拝謁した際、陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し奥義を学んだ、本書の弘護最晩年の修養。
  • 吉見信頼による刺殺 西暦1,482年6月13日、吉見信頼が大内館での宴会にて陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺した。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は直様吉見を斬殺した。吉見頼興は陶家の報復を予見し吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった、本書の終結点。

陶弘房嫡男弘護の生誕・龍文寺受衣・父の京都死去と第8代陶家当主就任・周防国守護代就任・大内教幸の赤間関挙兵への非同調・鞍掛山の戦い・江良城の戦い・嘉年城攻略・長門国阿武郡の戦い・尾張権守任命・元山城の戦いと吉見領没収・覗山城での少弐政尚対陣・筑前国守護代兼務・柳井津出迎えと大内政弘との義兄弟契り・吉見信頼の謝罪和睦・太宰府の戦い先駆け・仁保弘名首級梟首・右田弘詮への筑前守護代譲渡・伊勢神宮参詣・小笠原元長師事・大内館での吉見信頼による鵜噬刺殺と内藤弘矩の斬殺──
大内家臣陶家を率いた27年を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。