電子書籍「小早川弘景の高山城攻城、細川政元・山名政豊が和睦するも戦いは続く一元化」の表紙

小早川弘景の高山城攻城、
細川政元・山名政豊が
和睦するも戦いは続く一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,468年〜1,475年5月26日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
文字数
1,749字
最新更新日
西暦2,026年10月5日

和睦が成っても、高山城の戦いは続く──
沼田荘高山城を巡る攻防の全過程を一元化。

135円(税込)

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本書について

西暦1,468年、小早川弘景が沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃する。本書は、此の高山城の攻撃から、度重なる和睦交渉と細川政元・山名政豊の単独和睦を経て、西暦1,475年5月26日に西軍が高山城から撤退する迄を一元化した記録である。

西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。6月頃、細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。

西暦1,473年1月1日、小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。4月15日、山名宗全が病死する。其の後、西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。5月9日、細川勝元・山名政豊が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。6月6日、細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。

西暦1,473年10月21日、小早川弘景が、高山城へ向けて出発する。11月22日、東軍の沼田小早川方の浦平五が、高山城にて討死する。11月26日、小早川元平が、室町幕府の命により、西軍に与する者を成敗し、領内に陣取る近国の兵を退散させる。

西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘は反対し、不調に終わった。2月12日、足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。4月18日、足利義視が、備後国・安芸国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。4月19日、細川政元・山名政豊が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。

西暦1,475年1月25日頃、高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。此れを受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させた。又足利は、再度毛利豊元を呼び寄せた。小早川敬平も京都から戻って来た。足利は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じた。此れによって東軍は盛り返した。2月18日、室町幕府が、再度毛利豊元を招く。4月7日、両軍が備後国で交戦する。毛利豊元は、自身の家臣である国司有純を遣わせ、情勢を報告させた。4月10日、両軍が沼田荘真良(現在の広島県三原市高坂町)・沼田荘本郷(現在の広島県三原市)にて交戦する。4月26日頃、西軍は、高山城の包囲を続けていた。

5月3日、室町幕府が、重ねて山名是豊に小早川元平への合力を命じる。5月6日、細川政国が、室町幕府の命により、備前国・備中国の被官等に、小早川元平への合力を命じる。5月9日、両軍が、高山城の麓で交戦する。5月15日、小早川元平が、西軍が提示した高山城の包囲を解く条件である、沼田荘熊井田本郷(現在の広島県三原市沼田西町松江)・沼田荘安直本郷(現在の広島県三原市沼田西町納所・小原・松江・惣定一帯)・沼田荘梨子羽郷(現在の広島県三原市本郷地区)の割譲案を呑む。5月23日、西軍が、宮元信・宮盛忠の調停により、高山城の包囲を解き始める。又、庄元資以下の東軍も撤退した。5月26日、西軍が高山城から撤退する。高山城の攻撃から、度重なる和睦交渉、空堀に架けられた橋、割譲案の受諾を経て、西軍の撤退に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 小早川弘景 西暦1,468年、沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃する。西暦1,473年1月1日、小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。10月21日、弘景は、高山城へ向けて出発する。西暦1,474年2月12日、足利義視から小早川煕平の遺産を委ねられる。西暦1,475年1月25日頃、高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。
  • 小早川元平 西暦1,473年11月26日、室町幕府の命により、西軍に与する者を成敗し、領内に陣取る近国の兵を退散させる。西暦1,475年1月25日頃、高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。此れを受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させた。5月3日、室町幕府が、重ねて山名是豊に小早川元平への合力を命じる。5月6日、細川政国が、室町幕府の命により、備前国・備中国の被官等に、小早川元平への合力を命じる。5月15日、元平は、西軍が提示した高山城の包囲を解く条件である、沼田荘熊井田本郷・沼田荘安直本郷・沼田荘梨子羽郷の割譲案を呑む。
  • 小早川煕平 西暦1,473年1月1日、死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。西暦1,474年2月12日、足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。
  • 小早川敬平 西暦1,475年1月25日頃、高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。此れを受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させた。又足利は、再度毛利豊元を呼び寄せた。小早川敬平も京都から戻って来た。足利は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じた。此れによって東軍は盛り返した。
  • 細川勝元 西暦1,472年2月23日、山名宗全との和睦交渉が開始される。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。6月頃、勝元は、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。西暦1,473年5月9日、勝元は、山名政豊と和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。6月6日、勝元は死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。
  • 細川政元 細川勝元の長男。母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿。西暦1,472年6月頃、細川勝元が、政元に家督を継がせる意向を示す。山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。西暦1,473年6月6日、細川勝元が死去する。和睦交渉は政元が引き継いだ。西暦1,474年2月頃、政元は、山名政豊と和睦交渉を行う。然し、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。4月19日、政元は、武田国信の仲介により、山名政豊と単独で和睦する。
  • 山名宗全 西暦1,472年2月23日、細川勝元との和睦交渉が開始される。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。西暦1,473年4月15日、宗全は病死する。其の後、西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。
  • 山名政豊 西暦1,473年4月15日、山名宗全が病死する。其の後、西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。5月9日、政豊は、細川勝元と和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。西暦1,474年2月頃、政豊は、細川政元と和睦交渉を行う。然し、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。4月19日、政豊は、武田国信の仲介により、細川政元と単独で和睦する。
  • 赤松政則 西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全による和睦交渉が開始される。東軍の赤松政則は、西軍の畠山義就・大内政弘と共に反対し、交渉は不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊が和睦交渉を行う。此処でも赤松は、畠山義就・大内政弘と共に反対し、交渉は不調に終わった。
  • 畠山義就 西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全による和睦交渉が開始される。西軍の畠山義就は、同じく西軍の大内政弘、東軍の赤松政則と共に反対し、交渉は不調に終わった。西暦1,473年5月9日、細川勝元・山名政豊が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊が和睦交渉を行う。此処でも畠山は、赤松政則・大内政弘と共に反対し、交渉は不調に終わった。
  • 大内政弘 西暦1,472年2月23日、細川勝元・山名宗全による和睦交渉が開始される。西軍の大内政弘は、同じく西軍の畠山義就、東軍の赤松政則と共に反対し、交渉は不調に終わった。西暦1,474年2月頃、細川政元・山名政豊が和睦交渉を行う。此処でも大内は、赤松政則・畠山義就と共に反対し、交渉は不調に終わった。
  • 武田国信 西暦1,474年4月19日、細川政元・山名政豊が単独で和睦する。武田は、其の仲介を務めた。武田に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。
  • 足利義視 西暦1,473年1月1日、小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。西暦1,474年2月12日、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。4月18日、備後国・安芸国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。
  • 足利義政 西暦1,475年1月25日頃、高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。此れを受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させた。又足利は、再度毛利豊元を呼び寄せた。小早川敬平も京都から戻って来た。足利は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じた。此れによって東軍は盛り返した。
  • 毛利豊元 西暦1,475年1月25日頃、高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。毛利豊元は、足利義政に再度呼び寄せられた。2月18日、室町幕府に再度招かれる。4月7日、両軍が備後国で交戦する。毛利は、自身の家臣である国司有純を遣わせ、情勢を報告させた。
  • 国司有純 毛利豊元の家臣。西暦1,475年4月7日、両軍が備後国で交戦する。毛利豊元に遣わされ、情勢を報告した。
  • 山名是豊 西暦1,475年5月3日、室町幕府から、重ねて小早川元平への合力を命じられる。
  • 細川政国 西暦1,475年5月6日、室町幕府の命により、備前国・備中国の被官等に、小早川元平への合力を命じる。
  • 宮元信 西暦1,475年5月23日、宮元信・宮盛忠の調停により、西軍が高山城の包囲を解き始める。
  • 宮盛忠 西暦1,475年5月23日、宮元信・宮盛忠の調停により、西軍が高山城の包囲を解き始める。又、庄元資以下の東軍も撤退した。
  • 浦平五 東軍の沼田小早川方。西暦1,473年11月22日、高山城にて討死する。
  • 庄元資 西暦1,475年5月23日、宮元信・宮盛忠の調停により、西軍が高山城の包囲を解き始める。又、庄元資以下の東軍も撤退した。
  • 春林寺殿 細川勝元の長男細川政元の母。山名宗全の養女で、山名熙貴の娘。西暦1,472年6月頃、細川勝元が、政元に家督を継がせる意向を示す。山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。

本書が記録する出来事

  • 高山城の攻撃(1,468年) 小早川弘景が沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃する。
  • 細川勝元・山名宗全の和睦交渉(1,472年2月23日) 細川勝元・山名宗全による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わった。
  • 細川勝元の隠居の姿勢(1,472年6月頃) 細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の長男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。
  • 小早川煕平の死去(1,473年1月1日) 小早川煕平が死去する。此れを受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。
  • 山名宗全の病死(1,473年4月15日) 山名宗全が病死する。其の後、西陣南帝は、西軍諸将によって追放された。和睦交渉は、山名政豊が引き継いだ。
  • 細川勝元・山名政豊の和睦交渉(1,473年5月9日) 細川勝元・山名政豊が和睦交渉を行う。然し、畠山義就が承知せず不調に終わった。
  • 細川勝元の死去(1,473年6月6日) 細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。
  • 小早川弘景の出発(1,473年10月21日) 小早川弘景が、高山城へ向けて出発する。
  • 浦平五の討死(1,473年11月22日) 東軍の沼田小早川方の浦平五が、高山城にて討死する。
  • 西軍に与する者の成敗(1,473年11月26日) 小早川元平が、室町幕府の命により、西軍に与する者を成敗し、領内に陣取る近国の兵を退散させる。
  • 細川政元・山名政豊の和睦交渉(1,474年2月頃) 細川政元・山名政豊が和睦交渉を行う。然し、此処でも東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘は反対し、不調に終わった。
  • 小早川煕平の遺産の委任(1,474年2月12日) 足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。
  • 高山城攻めの合力の命令(1,474年4月18日) 足利義視が、備後国・安芸国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。
  • 細川政元・山名政豊の単独和睦(1,474年4月19日) 細川政元・山名政豊が単独で和睦する。仲介を務めたのは武田国信であった。武田に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又此の日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
  • 高山城の落城寸前(1,475年1月25日頃) 高山城が、小早川弘景率いる西軍の攻撃により、落城寸前となる。此れを受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させた。又足利は、再度毛利豊元を呼び寄せた。小早川敬平も京都から戻って来た。足利は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じた。此れによって東軍は盛り返した。
  • 毛利豊元の招請(1,475年2月18日) 室町幕府が、再度毛利豊元を招く。
  • 備後国での交戦(1,475年4月7日) 両軍が備後国で交戦する。毛利豊元は、自身の家臣である国司有純を遣わせ、情勢を報告させた。
  • 沼田荘真良・沼田荘本郷での交戦(1,475年4月10日) 両軍が沼田荘真良(現在の広島県三原市高坂町)・沼田荘本郷(現在の広島県三原市)にて交戦する。
  • 高山城の包囲の継続(1,475年4月26日頃) 此の時点で西軍は、高山城の包囲を続けていた。
  • 山名是豊に命じられた小早川元平への合力(1,475年5月3日) 室町幕府が、重ねて山名是豊に小早川元平への合力を命じる。
  • 細川政国による合力の命令(1,475年5月6日) 細川政国が、室町幕府の命により、備前国・備中国の被官等に、小早川元平への合力を命じる。
  • 高山城の麓での交戦(1,475年5月9日) 両軍が、高山城の麓で交戦する。
  • 割譲案の受諾(1,475年5月15日) 小早川元平が、西軍が提示した高山城の包囲を解く条件である、沼田荘熊井田本郷(現在の広島県三原市沼田西町松江)・沼田荘安直本郷(現在の広島県三原市沼田西町納所・小原・松江・惣定一帯)・沼田荘梨子羽郷(現在の広島県三原市本郷地区)の割譲案を呑む。
  • 宮元信・宮盛忠の調停(1,475年5月23日) 西軍が、宮元信・宮盛忠の調停により、高山城の包囲を解き始める。又、庄元資以下の東軍も撤退した。
  • 西軍の撤退(1,475年5月26日) 西軍が高山城から撤退する。本書の年表の最後の項目である。

不調に終わった和睦交渉から、西軍の撤退へ──
高山城を巡る攻防と和睦の全過程を一元化。

135円(税込)

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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