小早川弘景の高山城攻城・
細川政元・山名政豊が
和睦するも戦いは続く一元化
本書について
西暦1468年、小早川弘景が安芸国沼田荘高山城を攻撃した日から、西暦1475年5月26日、宮元信・宮盛忠の調停を受けて西軍が高山城から撤退した日まで。本書は、応仁の乱の主戦場である京都市街戦と並行して、安芸国・備後国の沼田荘高山城を舞台に小早川一族同士の内訌として展開された地方戦線と、京都での3度の和睦交渉(1472年・1473年・1474年)及び1474年4月19日の細川政元・山名政豊単独和睦が、地方の戦いを終わらせる契機にならなかった構図を、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。京都で和睦の橋が架けられ、東陣から山名陣を通って北野天満宮に参詣する者や下京から東陣へ物を売る商人が往来を始めた裏で、安芸国備後国では小早川弘景率いる西軍が高山城を更に攻め立て、小早川元平が遂に沼田荘熊井田本郷・安直本郷・梨子羽郷の割譲を呑むに至った、京都と地方の戦いの解離を浮き彫りにする物語です。
西暦1468年の小早川弘景による沼田荘高山城攻撃に始まり、西暦1472年2月23日の細川勝元・山名宗全の第1次和睦交渉が赤松政則・畠山義就・大内政弘の反対で不調に終わる遠景、同年6月の細川勝元の髷落としと山名家の血を引く細川政元への家督譲渡意向、西暦1473年1月1日の小早川煕平死去と足利義視による煕平所領の小早川弘景への下賜、同年4月15日の山名宗全病死と西陣南帝の追放、同年5月9日の細川勝元・山名政豊の第2次和睦交渉が畠山義就の反対で不調、同年6月6日の細川勝元死去、同年10月21日の小早川弘景の高山城出発、同年11月22日の東軍の沼田小早川方浦平五の高山城討死、同年11月26日の小早川元平への室町幕府命による西軍成敗指令と続いていきます。京都の和睦交渉が両総大将の相次ぐ死で動揺する中、地方では小早川弘景が一族の所領を確保すべく着実に攻勢を強める対比です。
西暦1474年2月の細川政元・山名政豊の交渉も再び赤松政則・畠山義就・大内政弘の反対で不調に終わるも、同年2月12日に足利義視が小早川煕平の遺産を正式に小早川弘景へ委ね、同年4月18日には備後国・安芸国の国人に高山城攻めの合力を命じます。同年4月19日、武田国信の仲介で細川政元・山名政豊が単独和睦を成立させ、東陣と山名陣を隔てる空堀に橋が架けられ往来が始まりました。然し高山城戦線は止まらず、西暦1475年1月25日に高山城は小早川弘景率いる西軍の攻撃により落城寸前となり、足利義政が小早川元平の急ぎ帰国・毛利豊元の再招集・小早川敬平の京都帰還を命じ、近隣豪族に敬平への合力を御教書で指示。同年2月18日の毛利豊元再招集、同年4月7日の備後国交戦と毛利豊元家臣国司有純による情勢報告、同年4月10日の沼田荘真良・本郷での交戦、同年4月26日時点での西軍包囲継続、同年5月3日の山名是豊への小早川元平合力命令、同年5月6日の細川政国による備前国・備中国被官への合力命令、同年5月9日の高山城麓での交戦を経て、同年5月15日、小早川元平が遂に西軍が提示した沼田荘熊井田本郷・安直本郷・梨子羽郷の割譲案を呑み、同年5月23日に宮元信・宮盛忠の調停により西軍が包囲を解き庄元資以下の東軍も撤退、同年5月26日に西軍が高山城から撤退するまで。京都の和睦から13ヶ月後、地方は所領の割譲という形で漸く戦闘を止めた、本書はその約7年5箇月間の連動を一冊に束ねた書です。
主要登場人物
- 小早川弘景 西軍方の小早川。1468年から沼田荘高山城を攻撃。1473年1月1日の小早川煕平死去後、足利義視から煕平所領の下賜を受け、1474年2月12日に正式に遺産を委ねられ、1473年10月21日に高山城へ出発、1475年1月25日に高山城を落城寸前まで追い込み、同年5月15日に小早川元平から沼田荘熊井田本郷・安直本郷・梨子羽郷の割譲を引き出した、本書の主人公。
- 小早川元平 沼田小早川氏当主・東軍。1473年11月26日に室町幕府の命で領内の西軍成敗を担い、1475年1月25日の高山城落城寸前を受けて足利義政から急ぎ帰国を命じられ、同年5月15日に西軍提示の沼田荘熊井田本郷・安直本郷・梨子羽郷の割譲案を呑むことで包囲解除に至った、本書を通じて守勢に立たされ続けた領主。
- 小早川煕平 小早川一族。1473年1月1日に死去し、足利義視が其の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。煕平の遺産が高山城攻防の動因の一つとなった。
- 小早川敬平 小早川一族。1475年1月25日の高山城落城寸前を受けて京都から戻り、足利義政の御教書により近隣豪族の合力を集めて東軍立て直しに貢献した。
- 毛利豊元 安芸国の国人。1475年1月25日と同年2月18日の足利義政による再招集を受け、同年4月7日の備後国交戦時に家臣国司有純を遣わせて情勢報告させた、東軍立て直しの主要勢力。
- 国司有純 毛利豊元の家臣。1475年4月7日の備後国交戦時に毛利の命で情勢報告を担い、地方戦線の情報を中央に伝える役割を果たした。
- 浦平五 東軍の沼田小早川方の武将。1473年11月22日に高山城にて討死した、本書を通じて記録される高山城防衛戦の象徴的死者。
- 庄元資 東軍方の武将。1475年5月23日の宮元信・宮盛忠による調停を受けて、配下と共に高山城周辺から撤退した。
- 宮元信 1475年5月23日に宮盛忠と共に高山城を巡る西軍の包囲解除を調停した武将。両軍の撤退を実現させた地方の仲裁者。
- 宮盛忠 1475年5月23日に宮元信と共に調停を行った武将。安芸国備後国の戦線を漸く閉じる役割を担った。
- 山名是豊 山名一族で東軍。1475年5月3日に室町幕府から重ねて小早川元平への合力を命じられ、地方の戦線立て直しに動員された。
- 細川政国 細川一族。1475年5月6日に室町幕府の命により備前国・備中国の被官等に小早川元平への合力を命じる役を担った、東軍動員ネットワークの結節点。
- 細川勝元 東軍総大将。管領。1472年2月23日に山名宗全との第1次和睦交渉を行うも不調、同年6月に髷落とし・隠居姿勢を見せ細川政元への家督譲渡意向を示し、1473年5月9日の山名政豊との第2次交渉も不調、同年6月6日に死去した、本書の遠景に位置する応仁の乱本戦の主役。
- 山名宗全 西軍総大将。1472年2月23日の和睦交渉を経て、1473年4月15日に病死。死と同時に西陣南帝が西軍諸将によって追放された、和睦への動きの一つの転機となる人物。
- 細川政元 細川勝元の長男。母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿。1473年6月以降、父勝元の死を受けて和睦交渉を引き継ぎ、1474年4月19日に武田国信仲介で山名政豊との単独和睦を成立させた。
- 山名政豊 山名宗全の隠居後に家督を継承。1473年5月9日から細川勝元と、勝元死後は細川政元と和睦交渉を続け、1474年4月19日に武田国信仲介で単独和睦を成立させた。
- 武田国信 武田信繁の参男。1474年4月19日の細川政元・山名政豊単独和睦を仲介。一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し丹後国守護職を一色義春に返付するという条件を提示した。
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。1475年1月25日の高山城落城寸前を受けて、小早川元平の急ぎ帰国・毛利豊元の再招集・小早川敬平の京都帰還を命じ、近隣豪族へ御教書で合力を指示し、東軍を盛り返させた。
- 足利義視 足利義政の弟。1473年1月1日に小早川煕平死去を受けて其の所領を小早川弘景に与える御内書を発し、1474年2月12日に正式に遺産を委ね、同年4月18日に備後国・安芸国の国人に高山城攻めの合力を命じた、西幕府側から小早川弘景の攻勢を支えた将。