電子書籍「小早川弘景の高山城攻城、細川政元・山名政豊が和睦するも戦いは続く一元化」の表紙

小早川弘景の高山城攻城、
細川政元・山名政豊が
和睦するも戦いは続く一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,468年〜1,475年5月26日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
最新更新日
西暦2,026年8月10日

京都の空堀に橋が架かっても、安芸の城は落ちなかった──
高山城を巡る八年の攻防を一元化。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,468年、小早川弘景が沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃した。応仁の乱の本戦が京都を焼いていた頃、安芸国の沼田荘でも、同じ小早川の名を持つ者同士が城を挟んで対峙していたのである。本書は、此の攻撃を起点として、京都で幾度も試みられては潰えた和睦交渉と、其れが遂に成っても止まらなかった地方の戦いの八年を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,472年2月23日、細川勝元と山名宗全による和睦交渉が開始される。此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対し、不調に終わる。同年6月頃、細川勝元は細川勝之や家臣と共に髷を落として隠居の姿勢を見せ、長男の細川政元に家督を継がせる意向を示した。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘・春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で和睦を進める狙いが有ったのである。

西暦1,473年1月1日、小早川煕平が死去する。之を受けて足利義視は、煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。同年4月15日、山名宗全が病死する。其の後、西陣南帝は西軍諸将によって追放され、和睦交渉は山名政豊が引き継いだ。5月9日、細川勝元と山名政豊が和睦交渉を行うが、畠山義就が承知せず不調に終わる。そして6月6日、細川勝元が死去し、和睦交渉は細川政元が引き継いだ。東西の総帥が相次いで世を去っても、戦は終わらない。同年10月21日、小早川弘景は高山城へ向けて出発する。11月22日には東軍の沼田小早川方の浦平五が高山城にて討死し、26日、小早川元平が室町幕府の命により、西軍に与する者を成敗して領内に陣取る近国の兵を退散させた。

西暦1,474年2月頃、細川政元と山名政豊が和睦交渉を行うが、此処でも赤松政則・畠山義就・大内政弘が反対して不調に終わる。同月12日、足利義視は小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねた。4月18日には、備後国・安芸国の国人に対して高山城攻めの合力を命じている。そして翌19日、細川政元と山名政豊が単独で和睦した。仲介を務めたのは武田国信である。武田に突き付けられた和睦の条件の一つには、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。同日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始める。京都では、両家を隔てていた堀に橋が架かったのである。

然し安芸国では、戦いが続いていた。西暦1,475年1月25日頃、高山城が小早川弘景率いる西軍の攻撃により落城寸前となる。之を受けて足利義政は、領主の小早川元平を急ぎ帰国させ、再度毛利豊元を呼び寄せた。小早川敬平も京都から戻って来る。足利は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じた。之によって東軍は盛り返す。2月18日には室町幕府が再度毛利豊元を招き、4月7日に両軍が備後国で交戦すると、毛利は家臣の国司有純を遣わせて情勢を報告させている。10日には沼田荘真良(現在の広島県三原市高坂町)と沼田荘本郷(現在の広島県三原市)で交戦。26日頃の時点でも、西軍は高山城の包囲を続けていた。5月3日、幕府は重ねて山名是豊に小早川元平への合力を命じ、6日には細川政国が幕府の命により備前国・備中国の被官等に合力を命じる。9日には高山城の麓で交戦が起きた。

西暦1,475年5月15日、小早川元平は、西軍が提示した高山城の包囲を解く条件——沼田荘熊井田本郷(現在の広島県三原市沼田西町松江)・沼田荘安直本郷(現在の広島県三原市沼田西町納所・小原・松江・惣定一帯)・沼田荘梨子羽郷(現在の広島県三原市本郷地区)の割譲案を呑んだ。23日、西軍は宮元信・宮盛忠の調停により高山城の包囲を解き始め、庄元資以下の東軍も撤退する。そして26日、西軍が高山城から撤退した。京都で和睦の橋が架かってから一年余、荘園の一部を代償として、安芸の攻城戦も漸く終わったのである。本書は、此の八年の全過程を一冊に束ねている。


登場人物

  • 小早川弘景 本書の中心人物。西暦1,468年に沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃した。西暦1,473年1月1日の小早川煕平の死去に伴い、足利義視から煕平の所領を与える御内書を発せられ、翌西暦1,474年2月12日には遺産を委ねられる。同年10月21日に高山城へ向けて出発し、西暦1,475年1月25日頃には西軍を率いて城を落城寸前まで追い込んだ。
  • 小早川元平 高山城の領主。西暦1,473年11月26日、室町幕府の命により西軍に与する者を成敗し、領内に陣取る近国の兵を退散させた。西暦1,475年1月25日頃の落城寸前に際して足利義政に急ぎ帰国させられ、5月15日には包囲を解く条件として沼田荘熊井田本郷・安直本郷・梨子羽郷の割譲案を呑んだ。
  • 小早川煕平 西暦1,473年1月1日に死去した。之を受けて足利義視が、其の所領を小早川弘景に与える御内書を発し、翌西暦1,474年2月12日には遺産が弘景に委ねられる。其の死が、高山城を巡る争いを一段と加速させた。
  • 小早川敬平 西暦1,475年1月25日頃、高山城の落城寸前を受けて京都から戻って来た。足利義政は御教書を発し、近隣の豪族に敬平を助ける様命じている。之によって東軍は盛り返した。
  • 細川勝元 東軍の総帥。西暦1,472年2月23日に山名宗全との和睦交渉を開始するも、赤松政則・畠山義就・大内政弘の反対で不調に終わる。同年6月頃には細川勝之や家臣と共に髷を落として隠居の姿勢を見せ、山名家の血を引く長男の細川政元に家督を継がせる意向を示した。西暦1,473年5月9日には山名政豊とも交渉するが畠山義就が承知せず、同年6月6日に死去した。
  • 細川政元 細川勝元の長男。母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘・春林寺殿であり、山名家の血を引く事から和睦の要と目された。西暦1,473年6月6日の父の死により和睦交渉を引き継ぎ、翌西暦1,474年2月頃の交渉は不調に終わったものの、同年4月19日、武田国信の仲介により山名政豊と単独で和睦した。書名に其の名が刻まれる。
  • 山名宗全 西軍の総帥。西暦1,472年2月23日に細川勝元との和睦交渉を開始したが不調に終わる。西暦1,473年4月15日に病死し、其の後、西陣南帝は西軍諸将によって追放された。和睦交渉は山名政豊が引き継ぐ事となる。
  • 山名政豊 西暦1,473年4月15日の山名宗全の病死を受けて和睦交渉を引き継いだ。同年5月9日の細川勝元との交渉、西暦1,474年2月頃の細川政元との交渉は何れも不調に終わったが、同年4月19日、武田国信の仲介により細川政元と単独で和睦する。書名に其の名が刻まれる。
  • 赤松政則 東軍。西暦1,472年2月23日の細川勝元・山名宗全の和睦交渉、及び西暦1,474年2月頃の細川政元・山名政豊の交渉の何れにも反対し、不調に終わらせた三名の一人。東軍の側から講和を阻んだ人物。
  • 畠山義就 西軍。西暦1,472年2月23日と西暦1,474年2月頃の和睦交渉に反対し、西暦1,473年5月9日の細川勝元と山名政豊の交渉も承知せず不調に終わらせた。三度に亙って講和を退けた、最も一貫した反対者。
  • 大内政弘 西軍。西暦1,472年2月23日の細川勝元・山名宗全の和睦交渉、及び西暦1,474年2月頃の細川政元・山名政豊の交渉の何れにも反対し、不調に終わらせた三名の一人。
  • 武田国信 西暦1,474年4月19日、細川政元と山名政豊の単独和睦の仲介を務めた。武田が突き付けた和睦の条件の一つには、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。
  • 足利義視 西暦1,473年1月1日、小早川煕平の死去を受けて其の所領を小早川弘景に与える御内書を発した。西暦1,474年2月12日には煕平の遺産を弘景に委ね、同年4月18日には備後国・安芸国の国人に対して高山城攻めの合力を命じている。
  • 足利義政 西暦1,475年1月25日頃、高山城の落城寸前を受けて領主の小早川元平を急ぎ帰国させ、再度毛利豊元を呼び寄せた。京都から戻った小早川敬平については、御教書を発して近隣の豪族に助ける様命じている。之によって東軍は盛り返した。
  • 毛利豊元 西暦1,475年1月25日頃に足利義政から呼び寄せられ、2月18日には室町幕府が再度招いた。4月7日の備後国での交戦に際しては、家臣の国司有純を遣わせて情勢を報告させている。
  • 国司有純 毛利豊元の家臣。西暦1,475年4月7日、両軍が備後国で交戦した際に毛利から遣わされ、情勢を報告した。
  • 山名是豊 西暦1,475年5月3日、室町幕府から重ねて小早川元平への合力を命じられた。西軍の総帥を出した山名家にありながら、東軍側の高山城救援に動員された人物。
  • 細川政国 西暦1,475年5月6日、室町幕府の命により、備前国・備中国の被官等に対して小早川元平への合力を命じた。
  • 宮元信 西暦1,475年5月23日、宮盛忠と共に調停に当たり、西軍に高山城の包囲を解き始めさせた。八年に亙る攻防に幕を引いた調停者の一人。
  • 宮盛忠 西暦1,475年5月23日、宮元信と共に調停を行い、西軍の高山城包囲の解除を実現させた。同日、庄元資以下の東軍も撤退している。
  • 浦平五 東軍の沼田小早川方。西暦1,473年11月22日、高山城にて討死した。小早川弘景が高山城へ向けて出発した一ヶ月後の事であった。
  • 庄元資 東軍。西暦1,475年5月23日、宮元信・宮盛忠の調停により西軍が高山城の包囲を解き始めると、其の配下と共に撤退した。
  • 春林寺殿 細川政元の母。山名宗全の養女であり、山名熙貴の娘。山名家の血を引く政元に家督を継がせれば和睦が進むという、西暦1,472年6月頃の細川勝元の狙いの根拠となった存在。

本書が記録する出来事

  • 高山城攻撃の開始 西暦1,468年、小早川弘景が沼田荘高山城(現在の広島県三原市高坂町)を攻撃する。応仁の乱の本戦が京都を焼いていた頃、安芸国でも同じ小早川の名を持つ者同士が城を挟んで対峙していた。本書の起点。
  • 細川勝元・山名宗全の和睦交渉と三者の反対 西暦1,472年2月23日、細川勝元と山名宗全による和睦交渉が開始される。東軍は大義名分や戦況に於いて優位に立ち、西軍の降伏で話が進んでいたが、東軍の赤松政則、西軍の畠山義就・大内政弘が反対して不調に終わった。
  • 細川勝元の落髪と細川政元への家督 西暦1,472年6月頃、細川勝元が細川勝之や家臣と共に髷を落として隠居の姿勢を見せ、長男の細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘・春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に継がせる事で和睦を進める狙いが有った。
  • 小早川煕平の死去と遺産の帰趨 西暦1,473年1月1日、小早川煕平が死去する。足利義視は煕平の所領を小早川弘景に与える御内書を発し、翌西暦1,474年2月12日には遺産を弘景に委ねた。
  • 山名宗全の病死と交渉の継承 西暦1,473年4月15日、山名宗全が病死する。其の後、西陣南帝は西軍諸将によって追放され、和睦交渉は山名政豊が引き継いだ。5月9日には細川勝元と交渉を行うが、畠山義就が承知せず不調に終わる。
  • 細川勝元の死去 西暦1,473年6月6日、細川勝元が死去する。和睦交渉は細川政元が引き継いだ。東西の総帥が二ヶ月足らずの間に相次いで世を去っても、戦は終わらなかった。
  • 小早川弘景の高山城出発と浦平五の討死 西暦1,473年10月21日、小早川弘景が高山城へ向けて出発する。11月22日には東軍の沼田小早川方の浦平五が高山城にて討死した。26日、小早川元平が室町幕府の命により、西軍に与する者を成敗し、領内に陣取る近国の兵を退散させている。
  • 備後国・安芸国国人への合力命令 西暦1,474年4月18日、足利義視が備後国・安芸国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じた。翌日に京都で和睦が成る、其の前日の事である。
  • 細川政元・山名政豊の単独和睦と空堀の橋 西暦1,474年4月19日、武田国信の仲介により細川政元と山名政豊が単独で和睦する。条件の一つには、一色義直と戦って奪った丹後国の所領の返還と、丹後国守護職の一色義春への返付が有った。同日、両家を隔てる空堀に橋が架けられ、東陣から北野天満宮へ参詣する者や、下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
  • 高山城の落城寸前と東軍の盛り返し 西暦1,475年1月25日頃、高山城が小早川弘景率いる西軍の攻撃により落城寸前となる。足利義政は領主の小早川元平を急ぎ帰国させ、再度毛利豊元を呼び寄せた。京都から戻った小早川敬平については御教書を発して近隣の豪族に助ける様命じ、之によって東軍は盛り返した。
  • 備後国・沼田荘の交戦 西暦1,475年2月18日に室町幕府が再度毛利豊元を招き、4月7日には両軍が備後国で交戦。毛利は家臣の国司有純を遣わせて情勢を報告させた。10日には沼田荘真良(現在の広島県三原市高坂町)と沼田荘本郷(現在の広島県三原市)でも交戦し、26日頃の時点でも西軍は高山城の包囲を続けていた。
  • 幕府の重ねての合力命令 西暦1,475年5月3日、室町幕府が重ねて山名是豊に小早川元平への合力を命じる。6日には細川政国が幕府の命により、備前国・備中国の被官等へ合力を命じた。9日には両軍が高山城の麓で交戦している。
  • 沼田荘三郷の割譲 西暦1,475年5月15日、小早川元平が、西軍の提示した高山城の包囲を解く条件——沼田荘熊井田本郷(現在の広島県三原市沼田西町松江)・沼田荘安直本郷(現在の広島県三原市沼田西町納所・小原・松江・惣定一帯)・沼田荘梨子羽郷(現在の広島県三原市本郷地区)の割譲案を呑んだ。
  • 調停と西軍の撤退 西暦1,475年5月23日、西軍が宮元信・宮盛忠の調停により高山城の包囲を解き始め、庄元資以下の東軍も撤退する。そして26日、西軍が高山城から撤退した。京都で和睦の橋が架かってから一年余、荘園の一部を代償として攻城戦は終わる。本書の到達点。

度重なる和睦交渉の頓挫から、沼田荘三郷の割譲へ──
京都の講和と地方の戦の八年を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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