御霊・上京・東岩倉・三宝院・相国寺の戦い一元化
畠山義就5,000名の上洛と相国寺布陣・畠山政長管領罷免と御所巻失敗・神保長誠助言の上御霊神社布陣と御霊合戦・朝倉孝景の斯波親子追放・細川勝元の諸国派遣・東軍西軍構図成立・大内政弘8ヶ国数万の兵と瀬戸内海東上・実相院占拠と花の御所制圧・一条大宮市街戦・伊勢貞親上洛と足利義視東軍主将就任・後花園上皇出家意思と院宣・釘貫門事件と北畠教具による伊勢国丹生逗留・三宝院の戦いと武田元綱奮戦・土御門内裏占拠と80戸焼失・東岩倉南禅寺山四波撃退・相国寺一帯30,000名襲撃と細川勝之等戦死・畠山政長4,000名出撃と朝倉孝景の相国寺奪還──
応仁の乱初年10ヶ月を一本の時系列に貫く。
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西暦1,467年1月30日、畠山義就が山名宗全の支援の下5,000名を率いて上洛し大智院派の千本地蔵院滞在を経て相国寺に布陣し足利義政に圧力を掛けた日から、西暦1,467年10月31日、畠山政長が東軍の危機的状況を打開すべく4,000名を率いて花の御所の四足門から出撃して相国寺を一度掌握するも其の後朝倉孝景率いる軍によって相国寺を奪還された日まで。本書は、応仁の乱初年の主要5戦——御霊合戦・上京の戦い・東岩倉南禅寺山の戦い・三宝院の戦い・相国寺の戦い——に至る約10ヶ月間の軍事・政治情勢を、畠山義就の上洛と畠山政長の椀飯及び管領職罷免と春日万里小路屋敷明け渡し命令、斯波義廉の第20代管領就任、細川勝元・畠山政長の御所巻画策と細川正室春林寺殿による漏洩及び山名宗全率いる軍による花の御所先制制圧と後花園上皇・後土御門天皇の避難、畠山政長の自邸焼却と神保長誠助言に基づく2,000名上御霊神社布陣、畠山義就率いる3,000名余による襲撃と朝倉孝景・山名宗全・山名政豊加勢による政長の丸一日の合戦の末の拝殿放火と細川屋敷退却及び神保長誠の奮戦と上杉定正武勇激賞、朝倉孝景による斯波持種・斯波義孝親子追放、細川勝元の土岐政康伊勢国派遣・斯波義敏越前国派遣・宇野政秀播磨国派遣、諸大名への上洛要請と東軍西軍構図の成立、少弐教頼対馬宗氏動員による大内政弘領筑前国侵攻、大内政弘の周防国・長門国始め8ヶ国数万の兵を率いた河野通春・陶弘房合伴による山口出発と瀬戸内海東上、武田信賢・成身院光宣の実相院・正実坊占拠と一色義直屋敷襲撃による細川勝元の花の御所占拠及び足利義政保護と東軍大義名分獲得、一条大宮市街戦と斯波義廉・朝倉孝景・甲斐敏光率いる軍の細川勝久屋敷襲撃・京極持清救援と撃退及び赤松政則の迂回攻撃・行願寺知恩寺等焼失、伊勢貞親上洛と足利義視牙旗授与による東軍主将就任・山名家縁者追放・奉行衆殺害、飯尾為数暗殺と武田氏被官白井備中守討死、後花園上皇の伏見宮貞常親王宛出家意思書簡と停戦要請の細川勝元による無視、大内政弘の20,000〜30,000名の兵庫津入り及び尼崎焼き討ち・大物浦に於ける難波・水堂の交戦と細川勝元・赤松政則軍撃破・東寺布陣及び梶井門跡本陣化、1,467年9月8日夜の足利義視出発、同月21日の釘貫門事件と木造教親合伴による通過・近江国坂本石川次郎館での日野富子暇乞い及び北条早雲合伴の伊賀国経由伊勢国入り、同月29日三宝院の戦いと武田元綱奮戦・東軍敗戦による京都東北部封じ込め、10月4日の北畠教具による長谷寺出発と伊勢国丹生屋敷造営・足利義視逗留、10月11日の土御門内裏占拠と37戸の公家屋敷及び80戸の大名奉行衆宿所焼失、10月16日の東岩倉南禅寺山の戦いと秋庭元明・浦上則宗による大内政弘・山名宗全・遊佐誉田・甲斐朝倉四波攻撃撃退及び南禅寺・青蓮院灰燼、10月18日の後花園上皇の花の御所出家と西軍征伐綸旨拒否及び10月30日の天下静謐院宣、10月30日の相国寺一帯30,000名西軍襲撃と細川勝之・安富元綱・安富盛継戦死・相国寺僧内通放火と武田信賢・京極持清の出雲路退却・浦上則宗による花の御所侵入阻止と武田国信・赤松政則による相国寺仏殿焼け跡防戦・8輌に載せた首級奉還及び足利義政酒宴興じ、10月31日の畠山政長4,000名出撃と6,000名討ち取り及び朝倉孝景による相国寺奪還迄の、時系列で一元化した一冊である。
西暦1,467年1月30日、畠山義就が自身の陣営に加わった山名宗全の支援の下5,000名を率いて上洛し、大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した後、相国寺に布陣して第8代室町幕府征夷大将軍足利義政に圧力を掛けた。同年2月5日、畠山政長が椀飯を務めた。同月6日、足利義政が春日万里小路の畠山政長屋敷への御成を取り止め花の御所に畠山義就を招き、義就が圧力を掛けた結果であった。山名宗全の支持を失った政長は畠山家の家督を事実上奪われた。同月9日、足利義政が畠山政長の管領職を罷免し春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じ、政長は此れを拒否し神保長誠等と屋敷防衛を強化した。同日足利は山名宗全邸の酒宴に出席し義就が饗応した。同月12日、斯波義廉が第20代管領に就任し室町幕府が評定始を行った。同月15日、山名宗全が椀飯を務めた。同月19日、細川勝元と畠山政長が花の御所包囲の御所巻で足利義政に義就征伐命令を出させようと画策したが、細川正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、山名・畠山義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧し、内裏から後花園上皇と後土御門天皇を迎え入れ避難させる事に成功した。同月21日、足利義政が畠山家の争いは畠山家同士で決着する様両者に命じ、細川勝元に政長援助の中止を命じ、細川は義就による山名宗全援助の中止を条件に承諾して武士の風上にも置けないと批判された。同日深夜、畠山政長は春日万里小路の自邸を焼き払い、神保長誠の助言により自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い上御霊神社に布陣した。
西暦1,467年2月22日早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃し、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)が加勢した。細川勝元は此の段階では動かず静観した。政長は持ち堪えられず丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し細川の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。神保長誠は其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。同月25日、朝倉孝景が在洛する斯波持種・斯波義孝親子を襲撃し追放した。3月29日、足利義視が畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛けたが失敗に終わった。4月、細川勝元が土岐政康を第23代室町幕府伊勢国守護一色義直が統治する伊勢国へ派遣した。同月7日の節句に、山名宗全を始めとする諸大名が花の御所に参賀したが、細川勝元は欠席し、諸大名は細川が戦をする積もりと悟った。5月、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次ぎ、宇治川や淀川等の各地の橋を焼き四門を固めた。5月、少弐教頼が対馬の宗氏勢力等を動員し大内政弘領筑前国に侵攻した。同月、箱崎津寄住の藤原安直・藤原直吉が朝鮮人漂流民を送還する為朝鮮に使いを出した。同月30日、大内政弘が自身の味方の武士が箱崎津に到着した事を記した。
西暦1,467年6月、細川勝元が斯波義敏を第17代室町幕府越前国守護斯波義廉が統治する越前国へ派遣し、義敏は義廉方を圧迫した。同月、細川は赤松政則の家臣宇野政秀を播磨国へ派遣し、赤松は旧領であった播磨国・備前国・美作国に侵攻、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民の協力を得て数日で旧領を奪回した。同月、細川は諸大名に上洛を要請し、東軍(細川・足利義視・政長・斯波義敏・武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則)と西軍(山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼)の構図が成立した。同月、一色義直が武田信賢との確執及び若狭国・三河国復旧の目的から西軍に与した為、丹後国守護職・伊勢国守護職を罷免された。同月、山名宗全が大内政弘に出陣を要請した。同月4日から14日に掛けて、領地を巡って相論を起こしていた壬生晨照・大宮長興が担当奉行を通じて足利義政に証文等を提出し、足利は飯尾貞有の対応を不快とし壬生方の勝訴の裁許を下し、同月10日には御判御教書の発給が決定され、広慶院が日野富子に口添え依頼し諏方忠郷に言い付けて発給に至った。同月11日、大内政弘が周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発し、河野通春・陶弘房が中に居た。大内本隊は海路で野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した。同月21日、山名宗全が評定を開き五辻通大宮東に本陣を置き軍勢を招集した。同月22日、若狭国小浜の一色義直勢力を駆逐していた武田信賢が上洛、越前国の斯波義敏が攻め入ったとの報告に斯波義廉は困惑した。
西暦1,467年6月27日夜明け前、花の御所隣の一色義直屋敷襲撃を意図した武田信賢が実相院を、成身院光宣が一色の屋敷に隣接する土倉正実坊を占拠し、夜明け頃に足利義政を味方に付けるべく一色の屋敷を襲撃・占拠した。一色は直前に脱出したが屋敷は焼き払われた。此れが成功し、細川勝元は戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自身の屋敷に本陣を置いた。斯うして東軍は西軍征伐の大義名分を得た。西軍は実相院・正実坊の奪還を試みたが東軍の反撃により失敗し山名の屋敷付近まで退却した。同日、東軍と西軍が一条大宮にて市街戦を繰り広げ、斯波義廉が朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かい、京極持清が細川の救援に向かうも朝倉の反撃に遭って敗走、其の後赤松政則が一条通を南下し正親町通を進んで迂回して斯波率いる軍を襲撃し、斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川は此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込み、戦闘は翌日18時迄続き、行願寺・知恩寺等が焼失した。同日、山名宗全が分国の兵を招集し垣屋氏・田結庄氏・八木氏が呼応した。同月28日から翌日に掛けて、細川勝久・細川教春・細川成春の屋敷が炎上し、29日には足利義政が両軍に停戦命令を下した。7月、伊勢貞親が足利義政に呼び戻され伊勢国から上洛し、此れにより足利義視は孤立した。同月、足利義視が牙旗を下され東軍の主将となり東軍から山名家縁者追放・奉行衆殺害を行った。同月、古市胤栄が上洛し西軍に属した。同月4日、足利義政が細川勝元に足利将軍旗を与え、同月8日に祇園会が中止となった。同月12日、飯尾為数が西軍に通じたとして足利義視に暗殺され、両軍間で戦闘が発生し上京の多くが焼失した。同月14日、武田氏被官白井備中守が討死、同日斯波義廉が東軍への降参条件として朝倉孝景の首級を要求した。同月15日、武田信賢率いる軍が二条通に下る途上朝倉勢の待ち伏せに遭い約80名が討ち取られ、同日後花園上皇が伏見宮貞常親王に出家意思の書簡を送った。同月23日、西軍が金閣寺に布陣した。
西暦1,467年8月2日、武田信賢率いる軍が斯波義廉の屋敷を襲撃したが退却した。同月5日、後花園上皇が伏見宮貞常親王・第85代関白一条兼良を室町幕府に遣わせ停戦を要請したが細川勝元は無視した。同月8日、後花園上皇が足利満詮の息子義賢・正親町三条実雅を室町幕府に遣わせ再度停戦要請した。同月10日、武田信賢率いる軍が再度斯波義廉の屋敷を襲撃したが数名が朝倉孝景勢に討たれた。同月19日、大内政弘率いる軍が20,000〜30,000名の軍勢で播磨国兵庫津に入った。此の内2,000〜3,000名は河野通春が率いていた。細川勝元は後花園上皇・後土御門天皇に花の御所への動座を求めた。9月、細川勝元等が伊勢貞藤が西軍に与したとして室町幕府から追放した。同月5日、大内政弘が尼崎にて若衆が敵対した為焼き討ちにし現地住民を殺害した。同月8日、大内政弘が河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い大物浦の難波・水堂にて上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し撃破、河野通春等が戦功を挙げた。其の後大内率いる軍は尼崎を焼き払い10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し東寺に布陣、後に焼失した梶井門跡に移り本陣とした。同日夜、足利義視が出発した(足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛け)。同月20日、西軍が下京に火を放ち、大内政弘率いる軍が東寺に布陣した。同日、陶弘護が龍文寺にて第3世龍文寺住職器之より受衣し法名「孝勲」・号「忠建」を称した。同月21日、足利義視が伊勢国国司木造教親の陣所中山殿に入り、「北畠教具を頼りなさい」と助言を受け伊勢国への逃亡を決意、武者小路通・蛸薬師通・一条通を経由して釘貫門に至ったが東軍富樫政親の兵が守っていた為、木造が「三条公敦殿は病気で東山に居り足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」と告げたが富樫は不審がって開けず、木造の予てからの合伴で開門させた。足利は近江国坂本で石川次郎の館にて日野富子と暇乞いをし北条早雲を伴って伊賀国経由で伊勢国に入った。同日、大内政弘が上洛し畠山義就を始めとする西軍は勢い付いた。同月29日、武田信賢率いる軍が等持院に布陣する畠山義就勢に矢を射掛けたが反撃に遭い退却する途上で討たれ三宝院に駆け込み、畠山は追撃して三宝院を攻めた。武田元綱が奮戦したものの東軍は敗れ、畠山により三宝院に火を放たれ落とされ、東軍は京都東北部の隅に封じ込められる形となり追い込まれた。
西暦1,467年10月4日、北畠教具が足利義視を保護する為に長谷寺を出発し足利義視・北条早雲を迎え伊勢国丹生に屋敷を造り逗留させた。此の際武田信賢は足利義稙を守り西軍に送り届けた。同日、足利義政が畠山義就に停戦勧告を行ったが畠山は耳を貸さなかった。同月11日、畠山義就率いる軍が土御門内裏を占拠した。1,467年9月29日から同日迄の戦いで、近衛殿・鷹司殿・日野殿・花山院殿・広橋殿・西園寺殿を含む公家の屋敷37戸、吉良氏・大館氏・細川教春・飯尾之種を含む大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失し、下京の大半は西軍が制圧した形となった。同日、山名宗全率いる軍が細川勝元の屋敷を襲撃した。同月12日、細川勝元の家臣秋庭元明・赤松政則の家臣浦上則宗が上洛した。秋庭・浦上は細川の命により大内政弘率いる軍と摂津国で交戦したものの撤退し大内の後を追っての上洛であったが、此の時点で下京の大半が西軍に占拠されていた為東寺を経由して東に迂回した。同月14日、武田信賢率いる軍が畠山義就勢と交戦し武田側は24名の首を取られ、秋庭・浦上が南禅寺に布陣したが西軍に察知された。同月16日早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた秋庭・浦上の布陣していた南禅寺山に大内政弘率いる軍が攻撃を開始し、此の戦いで南禅寺・青蓮院が灰燼に帰した。秋庭・浦上の陣は俄仕立てで防御も不十分であったが摂津国での雪辱に燃え大石等を投げ落として防戦し大内率いる軍を退けた。次に山名宗全率いる軍が日ノ岡から攻め上ったが大石等を投げ落とされ退けられた。三番手として遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上ったが東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ退けた。次に四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。同月18日、後花園上皇が花の御所にて出家し、其の後室町幕府は後花園上皇に西軍征伐綸旨の発給を求めるも後花園上皇は断固として拒否した。同月29日、武田信賢が勝定院の陣所を畠山義就率いる軍に攻められ退却した。同日、南禅寺山を攻めていた西軍が攻撃を止めて洛中に戻り、秋庭・浦上は其の伱に北へ迂回して吉田山・上御霊神社を経由して東軍本陣と合流した。細川勝元・赤松政則は其々の家臣と再会出来た事を喜んだものの東軍の戦況は厳しく、花の御所や其れに隣接する相国寺・細川勝元の屋敷等の上京の拠点に押し込められた。
西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼率いる西軍30,000名程度の軍勢が朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して相国寺及び其の周辺を襲撃した。対する東軍は相国寺にて立て籠もって細川勝元の猶子細川勝之・細川勝元の重臣安富元綱・武田信繁の参男武田国信率いる3,000騎が迎え撃った。三条坊門殿は伊勢国の住人関民部少輔・備前国の住人松田次郎左衛門尉が500騎余で守備していたが、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ松田は討たれ関は相国寺に退却した。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み出雲路に退却した。火の手を見た西軍は一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は総力を挙げて白兵戦を展開した。勝之・元綱・元綱の弟安富盛継は配下500名と馬廻だけで総門を固め石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為東門へ向かい其処で配下の兵と共に戦死した。次に大内・土岐が総門を攻め立てたが、浦上則宗等の奮戦により大内の花の御所侵入は阻止された。其処で大内率いる軍は相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが武田国信・赤松政則等が防戦し西軍の侵入を阻止したものの、東軍は相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後時雨が降り火や煙が少し収まった頃、朝倉・大内が相国寺に陣取り攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色・六角も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西軍は討ち取った首級を8輌もの車に載せ意気揚々と自陣に帰還した。一方足利義政は日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。同日、後花園上皇が両軍和睦の為天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給し、更に両軍に勅使を派遣し和平せよと命じたが、細川勝元は天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし自軍を鼓舞した。同月31日、畠山政長が東軍の危機的状況を打開すべく4,000名の兵を率い花の御所の四足門から出撃し、室町通を上り東へ向かって相国寺の塔頭の1つである普廣院の焼け跡から西軍に突撃した。細川勝元からの援軍を東からの横槍として投入し、西軍は混乱状態に陥り6,000名が討たれ撤退し、特に一色義直の兵が相国寺内の蓮池の側で多数の戦死者を出した。西軍は此れ以上攻めるとなると花の御所が戦場となる事から諸将が躊躇い戦意が低かった事が敗因であった。斯うして畠山は相国寺を掌握したが、其の後朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還した。西軍は相国寺を占拠したものの東軍を攻め切れず決着の付かない儘戦闘は終了し、前日と併せて相国寺での戦いは双方に甚大な被害を齎した、本書の終結点。
登場人物
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。西暦1,467年1月30日の畠山義就上洛から10月30日の相国寺の戦い迄、御成取り止め・畠山政長管領罷免と春日万里小路屋敷明け渡し命令・両軍停戦命令・細川勝元への足利将軍旗授与・伊勢貞親呼び戻し・御判御教書発給決定・畠山義就への停戦勧告と、両軍の間を揺れ動きつつ戦局に巻き込まれ続けた人物。10月30日の相国寺の戦い真っ只中にも日野富子の避難勧告を聞かず、いつも通り酒宴に興じていた、本書の舞台の中心の公方。
- 足利義視 西暦1,467年2月22日の御霊合戦で畠山義就を支援し、3月29日には両陣営への和睦呼び掛けを試みるも失敗。7月には伊勢貞親上洛により孤立したが牙旗を下され東軍主将となり山名家縁者追放・奉行衆殺害を行った。7月12日には飯尾為数を西軍通敵として暗殺。9月8日夜に出発、同月21日に木造教親の中山殿に入り北畠教具を頼る助言を受け、武者小路通・蛸薬師通・一条通経由で釘貫門から木造の合伴により通過、近江国坂本で日野富子と暇乞いをし北条早雲を伴って伊賀国経由で伊勢国丹生へ入り、10月4日に北畠教具に保護され屋敷に逗留した、本書の応仁の乱開戦期を揺れ動いた将軍候補。
- 足利義尚・足利義稙 足利義尚は1,467年6月の東西両軍構図成立時に西軍に名を連ねた人物。足利義稙は10月4日の北畠教具による足利義視保護の際、武田信賢に守られ西軍に送り届けられた、本書の将軍家次代候補。
- 日野富子 西暦1,467年6月14日、広慶院の口添え依頼を受けて諏方忠郷に言い付け御判御教書発給に繋げた人物。同年9月21日、近江国坂本の石川次郎の館にてお忍びで足利義視と暇乞いをし、10月30日の相国寺の戦いでは足利義政に避難を勧めた、本書の戦局の陰に動いた将軍妻。
- 後花園上皇 西暦1,467年2月19日に花の御所先制制圧時に山名宗全等によって避難した上皇。同年7月15日に伏見宮貞常親王に出家意思の書簡を送り、8月5日には伏見宮貞常親王・一条兼良を、同月8日には足利満詮の息子義賢・正親町三条実雅を室町幕府に遣わせ停戦要請(いずれも細川勝元に無視された)。10月18日に花の御所にて出家し西軍征伐綸旨の発給を断固拒否、同月30日に両軍和睦の為の天下静謐院宣を寺社に発給し勅使を派遣したが細川勝元は従わなかった、本書の終盤の和平希求者。
- 後土御門天皇 第103代天皇。西暦1,467年2月19日の花の御所先制制圧時に後花園上皇と共に避難した。同年8月19日には大内政弘上洛を受けて細川勝元から花の御所への動座を求められた、本書の在位天皇。
- 伏見宮貞常親王・一条兼良・義賢・正親町三条実雅 伏見宮貞常親王は1,467年7月15日に後花園上皇から出家意思書簡を送られた人物、8月5日に一条兼良と共に停戦要請の使者に立った。一条兼良は第85代関白。義賢は足利満詮の息子で8月8日に正親町三条実雅と共に再度停戦要請の使者に立った、本書の上皇による停戦要請の使者達。
- 畠山政長・神保長誠 畠山政長は1,467年2月5日に椀飯、同月6日に足利義政の御成取り止めにより家督を事実上奪われ、同月9日に管領罷免、同月19日の細川勝元との御所巻画策が春林寺殿の漏洩により失敗。同月21日深夜に自邸を焼き払い神保長誠の助言により自身の一族・成身院光宣を含む2,000名を率いて上御霊神社に布陣、翌22日の御霊合戦で畠山義就3,000名余の襲撃に丸一日持ち堪えた末に拝殿放火・細川屋敷退却。10月31日には4,000名を率い花の御所四足門から出撃し室町通を上り相国寺普廣院焼け跡から西軍に突撃して6,000名を討ち取り一時相国寺を掌握した。神保長誠は政長の家臣で御霊合戦後に奮戦し上杉定正に武勇を激賞された、本書の政長方の中核。
- 畠山義就 西暦1,467年1月30日に山名宗全の支援の下5,000名を率いて上洛し大智院派千本地蔵院滞在を経て相国寺布陣・足利義政への圧力を加えた。同年2月22日早朝に3,000名余を率いて上御霊神社襲撃・御霊合戦、10月4日の足利義政停戦勧告にも耳を貸さず、同月11日には土御門内裏占拠、同月29日には武田信賢の勝定院陣所攻撃。同月30日の相国寺の戦いでは西軍30,000名の中核として襲撃、31日の畠山政長出撃では東軍に6,000名を討ち取られたが朝倉孝景による奪還で最終的に相国寺を確保した、本書の政長方の対抗者にして西軍の中心。
- 畠山義統 西暦1,467年10月30日、畠山義就等と共に西軍30,000名を率いて相国寺一帯を襲撃した一人、本書の相国寺の戦いの西軍主要将。
- 成身院光宣 西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長の2,000名上御霊神社布陣に加わった東軍系の人物。同年6月27日夜明け前、一色義直屋敷襲撃の為土倉正実坊を占拠した、本書の東軍初期の実力者。
- 細川勝元・春林寺殿 細川勝元は応仁の乱東軍の首魁。西暦1,467年2月19日に畠山政長と御所巻画策するも正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為失敗、2月21日に足利義政から政長援助中止を命じられ武士の風上にも置けないと批判された。2月22日の御霊合戦では動かず静観し政長に面目を失わせた。4月7日の節句参賀を欠席、6月には諸大名上洛要請で東軍陣営形成、同月27日夜明けの一色義直屋敷襲撃後に花の御所占拠と足利義政保護により大義名分獲得、同月28日に自邸炎上で阿波国守護細川成之の屋敷に逃走、7月4日に足利将軍旗授与、10月30日には相国寺の戦いと同日の後花園上皇による天下静謐院宣を「天下静謐とは山名宗全を討つ事」として自軍を鼓舞した、本書の東軍総帥。
- 細川勝之・安富元綱・安富盛継 勝之は細川勝元の猶子、元綱は細川勝元の重臣、盛継は元綱の弟。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、武田国信と共に3,000騎を率いて西軍30,000名の襲撃を迎え撃ち、配下500名と馬廻だけで総門を固め石橋から攻め入る大軍を7度退けたが東門から再度攻め込まれ3名共戦死、本書の相国寺の戦いに殉じた東軍の中核。
- 細川勝久・細川教春・細川成之・細川成春 細川勝久は1,467年6月の東軍参加者で同月27日に屋敷を斯波義廉・朝倉孝景・甲斐敏光に襲撃され勝元の救援失敗後に焼き払われ細川成之の屋敷に勝元と共に逃げ込む対象。教春・成春は6月28日から翌日に屋敷が炎上。成之は第8代室町幕府阿波国守護、成春は第8代室町幕府淡路国守護、本書の戦火に屋敷を失った細川一族。
- 秋庭元明・浦上則宗・宇野政秀 秋庭元明は細川勝元の家臣、浦上則宗は赤松政則の家臣。1,467年10月12日に上洛(摂津国で大内政弘と交戦後撤退)、同月14日に南禅寺布陣、同月16日の東岩倉南禅寺山の戦いで大内政弘・山名宗全・遊佐氏誉田氏・甲斐氏朝倉孝景の四波攻撃を大石や矢の雨で撃退、10月29日に吉田山・上御霊神社経由で東軍本陣と合流、10月30日の相国寺の戦いでは大内政弘の花の御所侵入阻止に奮戦した。宇野政秀は赤松政則の家臣で1,467年6月に細川勝元から播磨国派遣された、本書の東軍の奮戦者達。
- 山名宗全・山名政豊・垣屋氏・田結庄氏・八木氏 山名宗全は応仁の乱西軍の首魁。1,467年2月9日に足利義政を酒宴に迎え、同月15日に椀飯、同月19日の細川春林寺殿からの情報漏洩により花の御所先制制圧を主導、同月22日の御霊合戦に加勢、4月7日の節句に花の御所参賀、6月21日に五辻通大宮東に本陣設置と軍勢招集、同日分国の兵招集で垣屋氏・田結庄氏・八木氏を呼応させた、10月11日に細川勝元邸襲撃、10月16日の南禅寺山で秋庭浦上に撃退された、本書の西軍総帥。政豊は宗全の命により1,467年2月22日の御霊合戦に加勢した、本書の宗全の命に従った山名方の武将。
- 斯波義廉・斯波義敏・斯波持種・斯波義孝 義廉は1,467年2月12日に第20代管領就任、6月西軍構図に参加、同月22日に斯波義敏の越前国攻め入り報告に困惑、同月27日に朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久屋敷襲撃、7月14日に東軍降参条件として朝倉孝景の首級要求、8月2日と10日に武田信賢率いる軍の屋敷襲撃を受けた。義敏は1,467年6月東軍参加、同月細川勝元により越前国派遣され義廉方圧迫。持種は義廉方の人物、義孝は其の息子で、2月25日に朝倉孝景により親子追放された、本書の斯波家の分裂。
- 朝倉孝景・甲斐敏光 朝倉孝景は1,467年2月22日の御霊合戦に加勢し、2月25日に斯波持種・斯波義孝親子を追放、6月27日に斯波義廉と甲斐敏光率いる軍で細川勝久屋敷襲撃、7月14日に東軍から降参条件として首級要求され、7月15日に二条通で武田信賢率いる軍を待ち伏せして80名討死、10月16日の南禅寺山で甲斐氏と四番手として如意ヶ嶽から攻めるも石礫で退却、10月30日に相国寺で陣取り、10月31日の畠山政長出撃で東軍に相国寺奪還されるも其の後朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還した。甲斐敏光は1,467年6月西軍参加、6月27日の細川勝久屋敷襲撃・10月16日の南禅寺山攻めに参加した、本書の西軍の主要武闘派。
- 武田信賢・武田元綱・武田国信・白井備中守 信賢は武田信繁の弐男で1,467年6月東軍参加、同月22日に若狭国小浜の一色義直勢力駆逐後上洛、同月27日夜明けに実相院占拠と一色義直屋敷襲撃。7月15日に二条通で朝倉待ち伏せに遭い80名討死、8月2日と10日に斯波義廉屋敷襲撃、9月29日に等持院畠山義就勢に矢を射掛けるも反撃で三宝院の戦いに至り敗戦、10月4日に足利義稙を守り西軍に送り届け、10月14日に畠山義就勢と交戦し24名の首を取られた、10月30日の相国寺の戦いで高倉殿守備中に相国寺放火を誤認し出雲路退却。元綱は信繁の四男で9月29日の三宝院の戦いで奮戦した。国信は信繁の参男で10月30日の相国寺の戦いで3,000騎を率いて防戦し大内政弘の仏殿焼け跡攻撃を赤松政則と防いだ。白井備中守は武田氏被官で7月14日に討死した、本書の武田方の奮戦者達。
- 赤松政則 1,467年6月に細川勝元により家臣宇野政秀を播磨国派遣し旧領奪回、同月東軍構図に参加、6月27日の一条大宮市街戦で正親町通を迂回して斯波義廉襲撃、9月8日に細川勝元と共に難波・水堂で大内政弘率いる軍と交戦し撃破された、10月12日に家臣浦上則宗上洛、10月30日の相国寺の戦いで武田国信と相国寺仏殿焼け跡防戦、10月29日に家臣と再会し上京の拠点に押し込められた、本書の東軍の諸戦線主要者。
- 京極持清 1,467年6月東軍参加、同月27日の一条大宮市街戦で細川勝久救援に向かうも朝倉孝景反撃で敗走、10月30日の相国寺の戦いで足利義政邸烏丸殿を守備中に相国寺放火を誤認し武田信賢と出雲路退却した、本書の東軍の京都戦線参加者。
- 一色義直 第23代室町幕府伊勢国守護。1,467年4月に細川勝元が土岐政康を派遣した伊勢国の統治者。同年6月に武田信賢との確執及び若狭国・三河国復旧を目的に西軍参加し丹後国・伊勢国守護職罷免。6月27日夜明け頃に武田信賢・成身院光宣に屋敷襲撃され直前に脱出したが屋敷は焼き払われた。10月30日の相国寺の戦いで西軍30,000名中、戦闘に参加出来なかったが朝倉大内の後に続いた、10月31日の畠山政長出撃では蓮池の側で多数の戦死者を出した、本書の屋敷襲撃事件の当事者で西軍の一角。
- 土岐成頼・土岐政康 成頼は1,467年6月の東西両軍構図時西軍参加、10月30日の相国寺の戦いで大内と共に総門攻めに参加した。政康は4月に細川勝元から伊勢国一色義直領へ派遣された、本書の土岐家。
- 六角高頼・古市胤栄・遊佐氏・誉田氏 六角高頼は1,467年6月西軍参加、10月30日の相国寺の戦いに加わった。古市胤栄は7月上洛で西軍参加。遊佐氏・誉田氏は10月16日の南禅寺山で三番手として山科から攻め上ったが東軍の矢の雨で退けられた、本書の西軍補助者達。
- 大内政弘・河野通春・陶弘房・陶弘護 大内政弘は1,467年5月30日に味方武士の箱崎津到着記録、6月山名宗全から出陣要請を受け同月11日に周防国・長門国始め8ヶ国数万の兵を率い山口出発、海路で野上・柳井・屋代島・室津経由で瀬戸内海東上。8月19日に20,000〜30,000名で兵庫津到着、9月5日の尼崎焼き討ち、同月8日の大物浦・難波・水堂で細川勝元赤松政則の軍を撃破し10,000名の兵と2,000隻で上洛、同月21日上洛により西軍勢い付ける。10月16日の南禅寺山攻撃、10月30日の相国寺の戦いで総門攻めと仏殿焼け跡攻撃。河野通春は大内の合伴で1,467年6月11日山口出発、8月19日に2,000〜3,000名で兵庫津到着、9月8日の大物浦交戦で戦功を挙げた。陶弘房は大内の合伴で山口出発し家の事は陶弘護に任せた。陶弘護は9月20日に龍文寺で第3世住職器之より受衣し法名孝勲・号忠建を称した、本書の西部勢力の上洛。
- 少弐教頼・宗氏・藤原安直・藤原直吉 少弐教頼は1,467年5月に対馬の宗氏勢力等を動員し大内政弘領筑前国に侵攻した。藤原安直・藤原直吉は箱崎津寄住で朝鮮人漂流民を送還する為朝鮮に使いを出した、本書の九州・対馬情勢。
- 富樫政親・北条早雲 富樫政親は東軍。1,467年9月21日に釘貫門を守り、木造教親の「三条公敦殿は病気で東山に居り足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」との要求に不審がって開けなかったが合伴で開門された。北条早雲は9月21日の足利義視の近江国坂本から伊賀国経由伊勢国入りに合伴した、本書の釘貫門事件の東軍守備者と足利義視の同行者。
- 北畠教具・木造教親・三条公敦 北畠教具は伊勢国国司で軍事力・経済力を保持しつつ幕政に不干渉で中立の立場、和歌等の貴族的文化を持っていた。1,467年10月4日に長谷寺を出発し、足利義視・北条早雲を伊勢国丹生に屋敷を造営して逗留させた。木造教親は伊勢国国司で9月21日に中山殿に入った足利義視に北畠教具を頼る様助言し釘貫門で合伴により開門させた。三条公敦は「東山に居り病気である」と木造教親が開門の口実に用いた人物、本書の伊勢国逃亡の舞台装置となった伊勢国の3名。
- 伊勢貞親・伊勢貞藤 貞親は1,467年7月に足利義政に呼び戻され伊勢国から上洛、これにより足利義視は孤立した。9月8日夜に足利義視出発の切っ掛けも足利義政が貞親を呼び戻した事であった。貞藤は6月10日に御判奉行として御判御教書発給を管領を介さずに直接下される、9月に細川勝元等から西軍に与したとして室町幕府から追放された、本書の伊勢家の二人。
- 飯尾貞有・飯尾之種・飯尾為数・諏訪忠郷・壬生晨照・大宮長興・広慶院 飯尾貞有は1,467年6月5日に余酔で証文提出欠席、6月8日に大宮長興証文提出で足利義政に不快とされ壬生勝訴となった奉行。飯尾之種は10月11日の戦いで屋敷焼失。飯尾為数は7月12日に西軍通敵として足利義視に暗殺された。諏訪忠郷は壬生晨照の担当奉行で6月14日の御判御教書発給に日野富子から言い付けられた。壬生晨照は6月4日の訴人、大宮長興は論人で飯尾貞有が担当奉行。広慶院は6月14日に日野富子に口添え依頼した、本書の官僚・相論関係者。
主要な地名・拠点
- 千本地蔵院・相国寺 千本地蔵院は大智院派の管領する寺院、相国寺は現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町。西暦1,467年1月30日に畠山義就5,000名が上洛時に千本地蔵院滞在を経て相国寺布陣した地、10月30日に西軍30,000名が襲撃し細川勝之等が戦死・僧内通放火により落ちた地、10月31日に畠山政長4,000名の出撃で一度掌握され朝倉孝景軍に奪還された地、本書の表題5戦の最後を飾る戦場。
- 春日万里小路・花の御所 春日万里小路は現在の京都府京都市中京区坂本町・舟屋町付近の畠山政長屋敷所在地。花の御所は現在の京都府京都市上京区築山南半町付近の将軍邸。西暦1,467年2月6日に足利義政が政長屋敷への御成を取り止め、2月19日に山名宗全・畠山義就・斯波義廉が先制制圧し後花園上皇・後土御門天皇を避難させた、2月21日深夜に政長が焼き払った屋敷、6月27日の実相院占拠と一色義直屋敷襲撃の後に細川勝元が占拠して足利義政保護の場となった、10月18日に後花園上皇が出家した地、10月30〜31日の相国寺の戦いで東軍が押し込められた拠点、本書の政治的権力の中心。
- 上御霊神社 現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町。西暦1,467年2月21日深夜に畠山政長が2,000名の兵を率いて布陣し、翌22日早朝に畠山義就3,000名余の襲撃を受けた御霊合戦の舞台。政長は丸一日の合戦の末、拝殿に放火して細川屋敷に退却。10月29日には秋庭元明・浦上則宗が東軍本陣との合流路に使用した、本書の5戦の一つ御霊合戦の舞台。
- 五辻通大宮東・実相院・土倉正実坊 五辻通大宮東は現在の京都府京都市上京区観世町、山名宗全が1,467年6月21日に本陣を置いた地。実相院は現在の京都府京都市上京区実相院町で花の御所と山名宗全屋敷の中間に位置し、6月27日夜明け前に武田信賢が占拠した。土倉正実坊は実相院に近接し一色義直屋敷に隣接、6月27日に成身院光宣が占拠した、本書の一条大宮市街戦の前哨地。
- 一条大宮・一条通・正親町通 一条大宮は現在の京都府京都市上京区下石橋南半町、1,467年6月27日の東西両軍市街戦の舞台。一条通は京極持清が細川勝久救援で西進して斯波義廉襲撃に用いた通、正親町通は現在の京都府京都市上京区の中立売通で赤松政則が迂回攻撃に用いた通、本書の5戦の一つ上京の戦いの舞台。
- 行願寺・知恩寺 行願寺は現在の京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町、知恩寺は現在の京都府京都市左京区田中門前町。西暦1,467年6月27日の一条大宮市街戦で民家等と共に焼失した、本書の上京の戦いで灰燼に帰した寺院。
- 三宝院・等持院 三宝院は現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町、等持院は現在の京都府京都市北区等持院北町。西暦1,467年9月29日、武田信賢率いる軍が等持院の畠山義就勢に矢を射掛け反撃を受けて退却する途上で討たれ三宝院に駆け込んだ、畠山は追撃して三宝院を攻め武田元綱奮戦も東軍敗北で放火され落城した、本書の5戦の一つ三宝院の戦いの舞台。
- 兵庫津・尼崎・大物浦・難波・水堂 兵庫津は現在の兵庫県神戸市兵庫区、1,467年8月19日に大内政弘率いる20,000〜30,000名の軍勢が到着した地。尼崎は9月5日に大内が若衆敵対を理由に焼き討ちした地。大物浦の難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)・水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)は9月8日に大内が河野水軍・村上水軍・三島水軍を率い細川勝元・赤松政則の軍を撃破した地、本書の西部瀬戸内勢力上洛の要衝。
- 箱崎津 現在の福岡県福岡市東区箱崎。西暦1,467年5月、藤原安直・藤原直吉寄住の港で朝鮮人漂流民の送還使節発送地、同月30日に大内政弘が味方武士到着を記した、本書の筑前国の玄関。
- 東寺・梶井門跡 東寺は京都南部の大寺院で西暦1,467年9月8日・同月20日に大内政弘率いる軍が布陣した地、10月12日には秋庭元明・浦上則宗が下京西軍を避けて迂回した経由地。梶井門跡は現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近、後に焼失した大内政弘本陣、本書の大内上洛後の拠点。
- 釘貫門・武者小路通・蛸薬師通・一条通・中山殿 中山殿は木造教親の陣所。武者小路通は現在の京都府京都市上京区、蛸薬師通は同中京区、一条通は同右京区。釘貫門は東軍富樫政親の兵が守っていた門。西暦1,467年9月21日、足利義視が中山殿に入り木造の助言を受けて武者小路通・蛸薬師通・一条通経由で釘貫門へ、木造の合伴により通過した、本書の釘貫門事件の舞台。
- 近江国坂本・石川次郎館・伊賀国・伊勢国丹生・長谷寺 近江国坂本は現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本、石川次郎館は坂本内の邸宅で1,467年9月21日に足利義視が日野富子と暇乞いをした地。伊賀国は足利義視が伊勢国入りに経由した地。伊勢国丹生は現在の三重県多気郡多気町で10月4日に北畠教具が屋敷を造り足利義視・北条早雲を逗留させた地。長谷寺は現在の奈良県桜井市初瀬で10月4日に北畠教具が出発した地、本書の足利義視伊勢国逃亡の経路。
- 南禅寺・南禅寺山・青蓮院・日ノ岡・山科・如意ヶ嶽・吉田山 南禅寺は現在の京都府京都市左京区南禅寺福地町、南禅寺山は同南禅寺南禅寺山町付近、青蓮院は同東山区粟田口三条坊町。西暦1,467年10月14日に秋庭元明・浦上則宗が南禅寺布陣、同月16日の東岩倉南禅寺山の戦いで南禅寺・青蓮院が灰燼。日ノ岡は現在の京都府京都市山科区で山名宗全率いる軍が攻め上った地、山科は遊佐氏・誉田氏が攻め上った地、如意ヶ嶽は甲斐氏・朝倉孝景が下って攻め込んだ地、吉田山は現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町で10月29日に秋庭浦上が東軍本陣合流に経由した地、本書の5戦の一つ東岩倉の戦いの舞台。
- 土御門内裏 現在の京都府京都市上京区元浄花院町付近。西暦1,467年10月11日、畠山義就率いる軍が占拠した地、本書の9月29日から10月11日迄の戦いの頂点。
- 勝定院・三条坊門殿・高倉殿・烏丸殿・普廣院・烏丸小路・東洞院通・高倉通・出雲路 勝定院は現在の京都府京都市下京区七条御所ノ内本町で10月29日に武田信賢が畠山義就率いる軍に攻められ退却した陣所。三条坊門殿は関民部少輔・松田次郎左衛門尉が500騎余で守備した拠点、高倉殿は武田信賢が、烏丸殿は足利義政邸で京極持清が守備していた拠点、普廣院は相国寺の塔頭で10月31日に畠山政長が此の焼け跡から西軍に突撃した。烏丸小路・東洞院通・高倉通は10月30日に西軍30,000名が相国寺襲撃に用いた経路。出雲路は現在の京都府京都市北区出雲路立テ本町で武田信賢・京極持清が相国寺放火を誤認して退却した地、本書の相国寺の戦いの周辺拠点。
- 龍文寺 現在の山口県周南市長穂門前。西暦1,467年9月20日、陶弘護が第3世龍文寺住職器之より受衣し法名「孝勲」・号「忠建」を称した地、本書の大内方後方に於ける事件の地。
主要な事件・出来事
- 畠山義就5,000名の上洛と相国寺布陣 西暦1,467年1月30日、畠山義就が山名宗全の支援の下5,000名を率いて上洛し、大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した後相国寺に布陣して、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政に圧力を掛けた、本書の発端。
- 畠山政長の管領職罷免と屋敷明け渡し命令 西暦1,467年2月5日、畠山政長が椀飯を務めた。同月6日、足利義政が春日万里小路の畠山政長屋敷への御成を取り止め花の御所に畠山義就を招き政長は畠山家家督を事実上奪われた。同月9日、足利義政が畠山政長の管領職を罷免し春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じ、政長は拒否し神保長誠等と屋敷防衛を強化、足利は山名宗全邸酒宴に出席し義就が饗応した、本書の畠山家政変の核心。
- 斯波義廉の第20代管領就任 西暦1,467年2月12日、斯波義廉が第20代管領に就任し、同日室町幕府が評定始を行った、本書の管領交代と幕政始動。
- 御所巻画策の失敗と花の御所先制制圧 西暦1,467年2月19日、細川勝元と畠山政長が花の御所包囲の御所巻で足利義政に畠山義就征伐命令を出させようと画策したが、細川正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、山名・畠山義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧し、内裏から後花園上皇・後土御門天皇を迎え入れ避難させる事に成功した、本書の政変中の政変。
- 畠山家争いの畠山家同士決着命令 西暦1,467年2月21日、足利義政が畠山家の争いは畠山家同士で決着する様両者に命じ、細川勝元に政長援助中止を命じ、細川は義就の山名宗全援助中止を条件に承諾、武士の風上にも置けないと批判された、本書の細川の苦境。
- 御霊合戦 西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長が春日万里小路の自邸を焼き払い神保長誠の助言で自身の一族や成身院光宣を含む2,000名を率いて上御霊神社に布陣した。翌22日早朝、畠山義就が3,000名余を率いて上御霊神社を襲撃、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊(宗全の命により加勢)が加勢し、細川勝元は静観した。政長は丸一日の合戦の末、拝殿に放火して細川屋敷に退却。足利義視は義就を支援し細川は面目を失い、神保長誠は其の後奮戦し上杉定正に武勇を激賞された、本書の表題5戦の最初。
- 朝倉孝景による斯波持種・斯波義孝親子追放 西暦1,467年2月25日、朝倉孝景が在洛する斯波持種・義孝親子を襲撃し追放した、本書の斯波家内紛の朝倉孝景による執行。
- 細川勝元の諸国派遣 西暦1,467年4月、細川勝元が土岐政康を一色義直統治の伊勢国に派遣。6月、細川が斯波義敏を斯波義廉統治の越前国に派遣し義廉方を圧迫。同月、細川が赤松政則の家臣宇野政秀を播磨国に派遣し赤松は旧領播磨・備前・美作国に侵攻し数日で奪回した、本書の細川方の攻勢。
- 少弐教頼の大内政弘領筑前国侵攻 西暦1,467年5月、少弐教頼が対馬の宗氏勢力等を動員し大内政弘領筑前国に侵攻した、本書の九州戦線の発端。
- 東軍西軍構図の成立 西暦1,467年6月、細川勝元が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集した。東軍(細川・足利義視・政長・斯波義敏・武田信賢・成身院光宣・細川勝久・京極持清・赤松政則)と西軍(山名宗全・足利義尚・畠山義就・斯波義廉・一色義直・朝倉孝景・甲斐敏光・六角高頼・土岐成頼)の構図が成立した、本書の応仁の乱の正式開戦。
- 大内政弘の山口出発と瀬戸内海東上 西暦1,467年6月11日、大内政弘が周防国・長門国始め8ヶ国の数万の兵を率い河野通春・陶弘房を合伴して山口を出発した。大内本隊は海路で野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した、本書の西部勢力上洛の開始。
- 上京の戦い 西暦1,467年6月27日夜明け前、武田信賢が実相院を、成身院光宣が土倉正実坊を占拠し、夜明け頃に一色義直屋敷を襲撃・占拠、一色は直前に脱出したが屋敷は焼き払われた。此れが成功し細川勝元は戦火からの保護名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し自身の屋敷に本陣を置き、東軍は西軍征伐の大義名分を得た。同日、東軍と西軍が一条大宮にて市街戦を繰り広げ、斯波義廉・朝倉孝景・甲斐敏光率いる軍が細川勝久屋敷を襲撃、京極持清が救援に向かい朝倉反撃で敗走、赤松政則が正親町通経由で斯波を迂回攻撃し斯波達は退却、細川は自邸を焼き払って細川成之の屋敷に退却、戦闘は翌日18時迄続き行願寺・知恩寺等が焼失した。同月28日から翌日に掛け細川勝久・細川教春・細川成春の屋敷が炎上、29日に足利義政が両軍停戦命令、本書の表題5戦の一つ上京の戦い。
- 足利義視の東軍主将就任と飯尾為数暗殺 西暦1,467年7月、伊勢貞親が足利義政に呼び戻され伊勢国から上洛し足利義視は孤立、足利義視は牙旗を下され東軍主将となり東軍から山名家縁者を追放し奉行衆を殺害した。同月12日、飯尾為数が西軍通敵として足利義視に暗殺され、両軍の戦闘で上京の多くが焼失した、本書の東軍主将交代と粛清。
- 武田信賢の二条通待ち伏せ敗戦 西暦1,467年7月14日、武田氏被官白井備中守が討死、斯波義廉が東軍降参条件として朝倉孝景の首級を要求した。同月15日、武田信賢率いる軍が二条通に下る途上朝倉勢の待ち伏せに遭い約80名が討ち取られた、本書の朝倉孝景の武勇を示した伏撃戦。
- 後花園上皇の出家意思と停戦要請 西暦1,467年7月15日、後花園上皇が伏見宮貞常親王に出家意思の書簡を送った。8月5日に伏見宮貞常親王・一条兼良を、同月8日に足利満詮の息子義賢・正親町三条実雅を室町幕府に遣わせ停戦を要請したが細川勝元は無視した、本書の上皇による和平努力の発端。
- 大内政弘の兵庫津入りと大物浦上陸戦 西暦1,467年8月19日、大内政弘率いる軍が20,000〜30,000名で播磨国兵庫津に入り、内2,000〜3,000名を河野通春が率いていた。細川勝元は後花園上皇・後土御門天皇に花の御所動座を求めた。9月5日、大内が尼崎で若衆敵対理由の焼き討ち。9月8日、大内が河野・村上・三島水軍を率い大物浦の難波・水堂で細川勝元・赤松政則軍を撃破し河野通春等が戦功を挙げた。其の後大内は尼崎を焼き払い10,000名の兵と2,000隻で上洛し東寺に布陣、後に焼失した梶井門跡に本陣移転した、本書の西部勢力到着による戦局一変。
- 足利義視の出発と釘貫門事件 西暦1,467年9月8日夜、足利義視が出発した(切っ掛けは足利義政による伊勢貞親呼び戻し)。同月21日、足利義視が伊勢国国司木造教親の中山殿に入り北畠教具を頼る助言を受け伊勢国逃亡を決意、武者小路通・蛸薬師通・一条通経由で釘貫門へ至ったが東軍富樫政親の兵が守っていた為、木造が「三条公敦殿は病気で東山に居り足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」と告げたが富樫は不審がって開けず「伴が無い」と答え、木造は予ての合伴で開門させた。足利は近江国坂本で石川次郎館にて日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国経由で伊勢国に入った、本書の足利義視逃亡の中核事件。
- 三宝院の戦い 西暦1,467年9月29日、武田信賢率いる軍が等持院に布陣する畠山義就勢に矢を射掛けたが反撃に遭い退却する途上で討たれ三宝院に駆け込んだ、畠山は追撃して三宝院を攻め、武田元綱が奮戦したものの東軍は敗れ畠山により三宝院に火を放たれ落とされた。東軍は京都東北部の隅に封じ込められた形となり追い込まれた、本書の表題5戦の一つ三宝院の戦い。
- 北畠教具による足利義視保護と伊勢国丹生逗留 西暦1,467年10月4日、北畠教具が足利義視保護の為長谷寺を出発し、足利義視・北条早雲を迎え伊勢国丹生に屋敷を造営して逗留させた。此の際武田信賢は足利義稙を守り西軍に送り届けた、本書の足利義視伊勢国逃亡の完了。
- 土御門内裏占拠と80戸焼失 西暦1,467年10月11日、畠山義就率いる軍が土御門内裏を占拠した。同年9月29日から同日迄の戦いで、近衛殿・鷹司殿・日野殿・花山院殿・広橋殿・西園寺殿を含む公家屋敷37戸、吉良氏・大館氏・細川教春・飯尾之種を含む大名屋敷や奉行衆宿所80戸が焼失し、下京の大半は西軍が制圧した形となった、本書の京都大破壊の記録。
- 東岩倉・南禅寺山の戦い 西暦1,467年10月16日早朝、秋庭元明・浦上則宗が布陣していた南禅寺山に大内政弘率いる軍が攻撃を開始し、南禅寺・青蓮院が灰燼に帰した。秋庭・浦上の陣は俄仕立てで防御も不十分であったが摂津国での雪辱に燃え大石等を投げ落として防戦し大内を退けた。次に山名宗全率いる軍が日ノ岡から攻め上ったが大石等で退けられ、三番手として遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上ったが東軍が木々間や岩陰から矢の雨を浴びせ退けた、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが谷が深く充分戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した、本書の表題5戦の一つ東岩倉の戦い。
- 後花園上皇の出家と西軍征伐綸旨拒否 西暦1,467年10月18日、後花園上皇が花の御所にて出家し、其の後室町幕府が後花園上皇に西軍征伐綸旨の発給を求めるも後花園上皇は断固として拒否した、本書の上皇の静かな抵抗。
- 相国寺の戦い(10月30日) 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼率いる西軍30,000名が朝倉孝景等と合流し烏丸小路・東洞院通・高倉通経由で相国寺及び其の周辺を襲撃した。東軍は相国寺に立て籠もり細川勝之・安富元綱・武田国信率いる3,000騎が迎え撃った。三条坊門殿は関民部少輔・松田次郎左衛門尉500騎余で守備したが敗れ松田は討たれ関は相国寺退却。西軍に内通した相国寺僧が放火し武田信賢・京極持清は誤認して出雲路退却。東軍は総力白兵戦、勝之・元綱・安富盛継は配下500名と馬廻で総門を固め7度退けたが東門から再度攻め込まれ戦死した。大内・土岐の総門攻めは浦上則宗等が阻止、大内の相国寺仏殿焼け跡からの攻撃は武田国信・赤松政則が防戦、東軍は相国寺を放棄。時雨後、朝倉・大内が相国寺陣取り、一色・六角も続き相国寺一帯は西軍30,000名に押さえられた。西軍は8輌に首級を載せ自陣帰還。足利義政は日野富子の避難勧告を聞かず酒宴に興じていた。同日後花園上皇が天下静謐院宣を寺社に発給し勅使も派遣したが細川勝元は「天下静謐とは山名宗全を討つ事」として自軍鼓舞した、本書の表題5戦の一つ相国寺の戦い初日。
- 畠山政長出撃と朝倉孝景による相国寺奪還 西暦1,467年10月31日、畠山政長が東軍の危機的状況打開の為4,000名を率い花の御所四足門から出撃、室町通を上り東へ向かって相国寺普廣院焼け跡から西軍に突撃、細川勝元からの援軍を東からの横槍として投入し西軍は混乱状態に陥り6,000名が討たれ撤退、特に一色義直の兵は相国寺内の蓮池側で多数の戦死者を出した。西軍は花の御所が戦場となる事から諸将が躊躇い戦意が低かった。畠山は相国寺を掌握したが其の後朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還した。西軍は相国寺を占拠したものの東軍を攻め切れず決着の付かない儘戦闘は終了した、本書の終結点。
畠山義就5,000名上洛と相国寺布陣・畠山政長管領罷免と春日万里小路屋敷明け渡し命令・斯波義廉の第20代管領就任・御所巻画策失敗と花の御所先制制圧・御霊合戦に於ける神保長誠助言と畠山義就3,000名余襲撃・朝倉孝景の斯波親子追放・細川勝元の諸国派遣・東軍西軍構図成立・大内政弘の8ヶ国数万の兵と瀬戸内海東上・上京の戦いと一条大宮市街戦・細川各屋敷炎上・伊勢貞親上洛と足利義視東軍主将就任・後花園上皇出家意思書簡と停戦要請・大内政弘20,000〜30,000名兵庫津入り・大物浦での細川赤松撃破・釘貫門事件と足利義視伊勢国丹生逗留・三宝院の戦いと武田元綱奮戦・土御門内裏占拠と80戸焼失・東岩倉南禅寺山の戦いと秋庭浦上による四波撃退・南禅寺青蓮院灰燼・後花園上皇花の御所出家と西軍征伐綸旨拒否・相国寺一帯30,000名西軍襲撃と細川勝之安富元綱安富盛継戦死・相国寺僧内通放火・武田信賢京極持清出雲路退却・浦上則宗による花の御所侵入阻止・武田国信赤松政則の仏殿焼け跡防戦・8輌に載せた首級奉還・足利義政酒宴興じ・天下静謐院宣・畠山政長4,000名出撃と6,000名討ち取り・朝倉孝景による相国寺奪還──
応仁の乱初年10ヶ月を一冊に。
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