電子書籍「御霊・上京・東岩倉・三宝院・相国寺の戦い一元化」の表紙

御霊・上京・東岩倉・
三宝院・相国寺の戦い
一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,467年1月30日〜1,467年10月31日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
16ページ
最新更新日
西暦2,026年8月10日

西暦1,467年、上御霊神社の拝殿が焼かれた──
応仁の乱最初の十ヶ月、京都を焼いた五つの戦いを一元化。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,467年1月30日、畠山義就が、自身の陣営に加わった山名宗全の支援の下、5,000名を率いて上洛した。大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した後、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣し、第8代室町幕府征夷大将軍・足利義政に圧力を掛ける。此の年の十月末、其の同じ相国寺が、三万の西軍と三千の東軍が総力を挙げてぶつかる白兵戦の舞台となる。本書は、畠山義就の上洛を起点として、御霊・上京・東岩倉・三宝院・相国寺の五つの戦いが京都を焼いた十ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。

2月6日、足利義政は春日万里小路(現在の京都府京都市中京区坂本町・舟屋町付近)に所在する畠山政長の屋敷への御成を取り止め、花の御所(現在の京都府京都市上京区築山南半町付近)に畠山義就を招いた。義就が圧力を掛けた結果であり、山名宗全の支持を失った政長は、畠山家の家督を事実上奪われる。同月9日、足利は政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を義就に明け渡す様命じた。政長は之を拒否し、神保長誠等と共に屋敷の防衛を強化する。同日、足利は山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。義就・山名を支持する姿勢を、将軍自らが示したのである。12日、斯波義廉が第20代管領に就任した。

2月19日、細川勝元と畠山政長が御所巻を画策する。花の御所を包囲して威圧し、足利義政に畠山義就征伐の命令を出させる意図であった。然し其の計画を細川の正室・春林寺殿が山名宗全に漏らした為、山名・義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧し、内裏から後花園上皇と第103代天皇・後土御門天皇を迎え入れて避難させる事に成功する。同月21日、足利義政は畠山家の争いは畠山家同士で決着する様双方に命じ、細川勝元には政長への援助中止を命じた。細川は、義就による山名宗全の援助中止を条件に之を承諾したが、其の後、武士の風上にも置けないとして批判される。山名達は足利に政長・細川の追放を訴え、命令にも拘らず義就に加勢した。

同月21日深夜、畠山政長は春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率いて上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣した。翌22日早朝、畠山義就が3,000名余を率いて之を襲撃する。朝倉孝景・山名宗全・山名政豊も加勢したが、細川勝元は此の段階では動かず静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火して細川の屋敷へ退却する。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。神保長誠は其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞されている。

静観していた細川が、地方から動き始める。4月頃には土岐政康を一色義直の統治する伊勢国へ派遣し、5月頃には細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件を相次いで起こし、宇治川や淀川等の各地の橋を焼いて四門を固めた。6月頃、細川勝元は斯波義敏を斯波義廉の統治する越前国へ、赤松政則の家臣・宇野政秀を播磨国へ派遣する。赤松は旧領であった播磨国・備前国・美作国に侵攻させ、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民の協力を得て数日で旧領を奪回した。そして細川が諸大名に上洛を要請し、畠山政長等が参集すると、細川の屋敷と花の御所を中心に京都北部から東に布陣した細川方=東軍と、堀川西岸の山名宗全の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方=西軍という構図がはっきりする。山名宗全は大内政弘に出陣を要請し、6月11日、大内は周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発した。

6月27日夜明け前、武田信賢が花の御所と山名宗全の屋敷の中間に位置する実相院(現在の京都府京都市上京区実相院町)を、成身院光宣が之に近接し一色義直の屋敷に隣接する土倉正実坊を其々占拠する。そして夜明け頃、武田・成身院等は足利義政を味方に付ける事を意図して一色の屋敷を襲撃・占拠した。一色は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われる。之が成功すると細川勝元は、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自身の屋敷に本陣を置いた。斯うして東軍は、西軍征伐の大義名分を得たのである。同日、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)では市街戦が繰り広げられた。斯波義廉が朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷へ向かうと、京極持清が救援に一条通を西進して襲撃したが、朝倉の反撃に遭って敗走する。次いで赤松政則が一条通を南下し正親町通を進んで迂回し斯波勢を襲撃すると、疲弊していた斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川勝久は之を焼き払って退却し、細川成之の屋敷へ逃げ込む。戦闘は翌日18時迄続き、行願寺・知恩寺や民家等が焼失した。29日、足利義政は両軍に停戦と和睦を命じ、痛み分けながらも、足利と花の御所を押さえた東軍が優位な状態で停戦となる。

7月、伊勢貞親が足利義政に呼び戻されて伊勢国から上洛すると、足利義視は孤立した。義視は牙旗を下されて東軍の主将となり、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害する。8日には祇園会が中止となり、12日には飯尾為数が西軍に通じたとして義視に暗殺され、同日の戦闘で上京の多くが焼失した。15日、後花園上皇は伏見宮貞常親王へ書簡を送り、出家の意思を伝えている。此の様な大乱が起こり、いよいよ世俗との関わりを断とうと思う、後土御門天皇の始めに此の様な事が起こってしまい只々恥入っている——万が一漏れれば武家が止めるであろうから、呉々も内密に、と。

8月19日、大内政弘率いる20,000〜30,000名の軍勢が播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。9月8日、大内は河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の難波・水堂にて上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦して之を撃破した。其の後、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣する。同日夜、足利義視が出発した。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであり、此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始める。21日、義視は木造教親に警護されて京都を脱した。釘貫門を守る東軍の富樫政親の兵が不審がって開門を渋ると、木造は予てから準備していた合伴で門を開かせている。義視は近江国坂本(現在の滋賀県大津市坂本)の石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し伊勢国へ入った。

9月29日、武田信賢率いる軍が等持院(現在の京都府京都市北区等持院北町)に布陣する畠山義就勢に矢を射掛けるも反撃に遭い、退却の途中で討たれて三宝院(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)に駆け込んだ。畠山は追撃して三宝院を攻め、武田元綱の奮戦も及ばず東軍は敗れ、三宝院は火を放たれて落とされる。東軍は京都の東北部の隅に封じ込められた形となった。10月11日には畠山義就率いる軍が土御門内裏(現在の京都府京都市上京区元浄花院町付近)を占拠し、9月29日から此の日迄の戦いで、近衛殿・鷹司殿・日野殿・花山院殿・広橋殿・西園寺殿を含む公家の屋敷37戸と、吉良氏・大館氏等の大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失した。16日早朝には、東軍本体と連絡が取れず南禅寺山(現在の京都府京都市左京区南禅寺南禅寺山町付近)に孤立していた秋庭元明・浦上則宗の陣を、大内政弘率いる軍が攻撃する。俄仕立てで防御も不十分な陣であったが、両名は摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として大内を退けた。続く山名宗全、遊佐氏・誉田氏、甲斐氏・朝倉孝景の三波の攻撃も、矢の雨と石礫によって悉く退けられている。18日、後花園上皇が花の御所にて出家した。幕府は西軍征伐の綸旨の発給を求めたが、上皇は断固として拒否している。

そして10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼率いる西軍30,000名程度の軍勢が朝倉孝景等と合流し、烏丸小路・東洞院通・高倉通を経由して相国寺及び其の周辺を襲撃した。対する東軍は相国寺に立て籠もり、細川勝之・安富元綱・武田国信率いる3,000騎が迎え撃つ。西軍に内通した相国寺の僧が火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、相国寺が攻め落とされたと思い込んで出雲路へ退却してしまう。火の手を見た西軍が一斉に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は、総力を挙げて白兵戦を展開する。細川勝之・安富元綱・安富盛継の三名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を7度退けたが、東門から再度攻め込まれ、其処で配下の兵と共に戦死した。大内・土岐の総門攻めは浦上則宗等の奮戦によって阻まれ、相国寺仏殿の焼け跡からの侵入も武田国信・赤松政則が防いだが、東軍は相国寺を放棄せざるを得なくなる。時雨が降って火や煙が少し収まった頃、朝倉・大内が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色・六角も之に続いて、相国寺一帯は30,000名の西軍に押さえられた。西軍は討ち取った首級を8輌もの車に載せ、意気揚々と自陣へ帰還する。一方、足利義政は日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。

翌10月31日、畠山政長が東軍の危機的状況を打開すべく4,000名の兵を率い、花の御所の四足門から出撃する。四足門に面した室町通を上って東へ向かい、相国寺の塔頭の一つである普廣院の焼け跡から西軍に突撃した。細川勝元からの援軍を東からの横槍として投入すると西軍は混乱状態に陥り、6,000名が討たれて撤退する。特に一色義直の兵が、相国寺内の蓮池の側で多数の戦死者を出した。之以上攻めれば花の御所が戦場となる事から諸将が躊躇い、戦意が低かった事が敗因であった。斯うして畠山は相国寺を掌握したが、其の後、朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還する。西軍は相国寺を占拠したものの東軍を攻め切れず、決着の付かない儘、戦闘は終了した。前日と併せて、相国寺での戦いは双方に甚大な被害を齎したのである。本書は、此の十ヶ月の全過程を一冊に束ねている。


登場人物

  • 細川勝元 東軍の総帥。西暦1,467年2月19日に畠山政長と御所巻を画策するも、正室の春林寺殿が計画を山名宗全に漏らして失敗する。同月21日には足利義政から政長への援助中止を命じられ、承諾して武士の風上にも置けないと批判された。御霊合戦では静観したが、以後は各地へ人を派遣して包囲網を築く。6月27日、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、西軍征伐の大義名分を得た。10月30日には、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとして自軍を鼓舞している。
  • 山名宗全 西軍の総帥。西暦1,467年1月30日の畠山義就の上洛を支援し、2月19日には春林寺殿から御所巻の計画を知らされて先手を打ち、花の御所を制圧して後花園上皇・後土御門天皇を迎え入れた。6月21日には五辻通大宮東(現在の京都府京都市上京区観世町)に本陣を置いて軍勢を招集し、大内政弘に出陣を要請する。10月16日には南禅寺山の秋庭元明・浦上則宗の陣を日ノ岡から攻め上るも、大石を投げ落とされて退けられた。
  • 畠山義就 西暦1,467年1月30日、山名宗全の支援の下5,000名を率いて上洛し、相国寺に布陣して足利義政に圧力を掛けた。2月22日には3,000名余で上御霊神社の畠山政長を襲撃して勝利。9月29日には三宝院に駆け込んだ武田信賢勢を攻めて火を放ち、10月11日に土御門内裏を占拠、同月30日には相国寺襲撃の西軍を率いた。10月4日の足利義政の停戦勧告には耳を貸さなかった。
  • 畠山政長 西暦1,467年2月5日に椀飯を務めたが、同月6日に足利義政の御成を取り止められて家督を事実上奪われ、9日には管領職を罷免された。同月21日深夜、自邸を焼き払って2,000名と共に上御霊神社に布陣し、翌日の合戦に敗れる。10月31日には東軍の危機的状況を打開すべく4,000名で花の御所の四足門から出撃し、普廣院の焼け跡から突撃して西軍6,000名を討ち取った。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。西暦1,467年2月に畠山政長の管領職を罷免して畠山義就・山名宗全を支持する姿勢を示し、同月21日には畠山家の争いは畠山家同士で決着する様命じた。6月29日と10月4日に停戦を命じるも実らず、6月27日以降は細川勝元に保護される立場となる。10月30日の相国寺の戦いの最中、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。
  • 足利義視 足利義政の弟。御霊合戦では畠山義就を支援した。3月29日には両陣営に和睦を呼び掛けるも失敗する。7月、牙旗を下されて東軍の主将となり、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害。12日には飯尾為数を暗殺した。9月8日夜、伊勢貞親の呼び戻しを切っ掛けに出発し、21日、木造教親に警護されて京都を脱し、北条早雲を伴って伊勢国へ入った。
  • 斯波義廉 西暦1,467年2月12日、第20代管領に就任した。西軍の中核として6月27日に朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷を攻めるも退却。同月22日には越前国へ斯波義敏が攻め入ったとの報告を受けて困惑し、7月14日には東軍への降参条件として朝倉孝景の首級を要求した。
  • 朝倉孝景 西軍の主戦力。西暦1,467年2月22日の上御霊神社襲撃に加勢し、同月25日には在洛する斯波持種・斯波義孝を襲撃して追放した。6月27日には京極持清を反撃で敗走させ、7月15日には二条通へ下る武田信賢勢を待ち伏せて約80名を討ち取っている。10月30日には相国寺に陣取り、翌31日には畠山政長が掌握した相国寺を奪還した。
  • 大内政弘 周防国の大名。山名宗全の要請に応じ、西暦1,467年6月11日、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発した。9月8日、瀬戸内水軍を率いて大物浦の難波・水堂にて細川勝元・赤松政則の軍を撃破し、尼崎を焼き払って10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛、東寺に布陣する。10月16日には南禅寺山を攻め、30日には相国寺の総門と仏殿の焼け跡から攻め込んだ。
  • 武田信賢 東軍。西暦1,467年6月22日に若狭国小浜の一色義直の勢力を駆逐して上洛し、同月27日夜明け前に実相院を占拠して一色の屋敷を襲撃・焼き払った。7月15日には朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い約80名を失う。9月29日、等持院の畠山義就勢に矢を射掛けて反撃に遭い、三宝院へ駆け込んだ。10月30日には相国寺が落ちたと思い込んで出雲路へ退却している。
  • 赤松政則 東軍。西暦1,467年6月頃、細川勝元が派遣した家臣の宇野政秀により、旧領であった播磨国・備前国・美作国へ侵攻。旧臣・牢人・寺社・百姓・土民の協力を得て数日で旧領を奪回した。同月27日には正親町通を迂回して斯波義廉勢を襲撃し退却させ、10月30日の相国寺の戦いでは武田国信と共に仏殿の焼け跡からの西軍侵入を阻止した。
  • 浦上則宗 赤松政則の家臣。西暦1,467年10月12日、細川勝元の家臣・秋庭元明と共に上洛した。14日に南禅寺へ布陣し、16日には南禅寺山で孤立した儘、大内政弘・山名宗全・遊佐氏誉田氏・甲斐氏朝倉孝景の四波の攻撃を防ぎ切る。29日に東軍本陣と合流し、30日の相国寺の戦いでは大内の花の御所侵入を阻止した。
  • 秋庭元明 細川勝元の家臣。細川の命により大内政弘率いる軍と摂津国で交戦して撤退した後、西暦1,467年10月12日に浦上則宗と共に大内の後を追って上洛した。下京の大半が西軍に占拠されていた為、東寺を経由して東へ迂回する。16日の南禅寺山の攻防では、俄仕立ての陣で大石等を投げ落として防戦した。
  • 神保長誠 畠山政長の家臣。西暦1,467年2月9日に政長の屋敷の防衛を強化し、同月21日深夜には屋敷を焼き払って上御霊神社へ布陣する策を助言した。翌日の合戦の後も奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞されている。
  • 成身院光宣 東軍。西暦1,467年2月21日、畠山政長の率いる2,000名の兵に加わって上御霊神社に布陣した。6月27日夜明け前には実相院に近接し一色義直の屋敷に隣接する土倉正実坊を占拠し、武田信賢等と共に一色邸を襲撃・占拠した。
  • 後花園上皇 西暦1,467年2月19日、花の御所へ避難させられた。7月15日には伏見宮貞常親王へ出家の意思を伝える書簡を送り、8月5日と8日に停戦を要請するも細川勝元に無視される。10月18日、花の御所にて出家した。其の後、幕府から西軍征伐の綸旨の発給を求められるも断固として拒否し、30日には両軍和睦の為に天下静謐を祈れという主旨の院宣を寺社へ発給している。
  • 後土御門天皇 第103代天皇。西暦1,467年2月19日、山名宗全等が花の御所を制圧した際、後花園上皇と共に内裏から迎え入れられて避難した。8月19日には細川勝元から改めて花の御所への動座を求められている。
  • 日野富子 西暦1,467年6月14日には広慶院の依頼を受けて諏方忠郷に言い付け、御判御教書の発給に至らせた。9月21日には近江国坂本の石川次郎の館へお忍びで赴き、伊勢国へ向かう足利義視と暇乞いをしている。10月30日の相国寺の戦いでは足利義政に避難を勧めたが、聞き入れられなかった。
  • 一色義直 第23代室町幕府伊勢国守護。西暦1,467年6月頃、武田信賢との確執及び若狭国・三河国を復旧する目的から西軍に与した為、丹後国守護職・伊勢国守護職を罷免された。同月27日夜明け頃、屋敷を武田信賢・成身院光宣等に襲撃され、直前に脱出したものの屋敷は焼き払われる。10月31日には其の兵が相国寺内の蓮池の側で多数の戦死者を出した。
  • 京極持清 東軍。西暦1,467年6月27日、細川勝久の救援に向かって一条通を西進し斯波義廉率いる軍を襲撃したが、朝倉孝景の反撃に遭って敗走した。10月30日には足利義政邸である烏丸殿を守備していたが、相国寺が攻め落とされたと思い込んで出雲路へ退却している。
  • 細川勝之 細川勝元の猶子。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、安富元綱・武田国信と共に3,000騎を率いて西軍を迎え撃った。安富元綱・安富盛継と共に配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を7度退けたが、東門から再度攻め込まれ、東門にて配下の兵と共に戦死した。
  • 安富元綱 細川勝元の重臣。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、細川勝之・弟の安富盛継と共に総門を固め、大軍を7度退けた末に東門で戦死した。東軍が花の御所を背に総力を挙げた白兵戦を象徴する。
  • 武田国信 武田信繁の参男。西暦1,467年10月30日の相国寺の戦いで、細川勝之・安富元綱と共に3,000騎を率いて立て籠もった。相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだ大内政弘率いる軍を、赤松政則と共に防戦して侵入を阻止している。
  • 春林寺殿 細川勝元の正室。西暦1,467年2月19日、細川勝元と畠山政長が画策した御所巻の計画を山名宗全に漏らした。之により山名・畠山義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧し、東軍の目論見は覆る。
  • 木造教親 伊勢国国司。西暦1,467年9月21日、陣所の中山殿に入った足利義視に「北畠教具を頼りなさい」と助言し、其の脱出を警護した。釘貫門を守る富樫政親の兵が不審がって開門を渋ると、予てから準備していた合伴で門を開かせている。
  • 北条早雲 西暦1,467年9月21日、京都を脱した足利義視に伴われ、伊賀国を経由して伊勢国へ入った。10月4日には北畠教具に足利義視と共に迎えられ、伊勢国丹生(現在の三重県多気郡多気町)の屋敷に逗留する。
  • 伊勢貞親 西暦1,467年7月頃、足利義政に呼び戻されて伊勢国から上洛した。之により足利義視は孤立し、同年9月8日夜の出発の切っ掛けとなる。

本書が記録する出来事

  • 畠山義就の上洛と相国寺布陣 西暦1,467年1月30日、畠山義就が山名宗全の支援の下5,000名を率いて上洛。千本地蔵院に滞在した後、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣し、足利義政に圧力を掛けた。本書の起点であり、十ヶ月後の決戦の舞台となる場所。
  • 御成の取り止めと管領罷免 西暦1,467年2月6日、足利義政が畠山政長の屋敷への御成を取り止め、花の御所に畠山義就を招く。山名宗全の支持を失った政長は家督を事実上奪われた。同月9日には管領職を罷免され、屋敷を義就に明け渡す様命じられるが拒否。12日、斯波義廉が第20代管領に就任した。
  • 御所巻の露見と花の御所の制圧 西暦1,467年2月19日、細川勝元と畠山政長が花の御所を包囲して畠山義就征伐の命令を出させる御所巻を画策するも、細川の正室・春林寺殿が山名宗全に漏らした為、山名・義就・斯波義廉が先に花の御所を制圧。内裏から後花園上皇と後土御門天皇を迎え入れ、避難させる事に成功した。
  • 御霊合戦 西暦1,467年2月21日深夜、畠山政長が自邸を焼き払い、神保長誠の助言により2,000名の兵と上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣。翌22日早朝、畠山義就が3,000名余で襲撃し、朝倉孝景・山名宗全・山名政豊も加勢した。細川勝元は静観し、政長は丸一日の合戦の末に拝殿へ放火して退却した。
  • 東軍・西軍の成立 西暦1,467年6月頃、細川勝元が諸大名に上洛を要請し畠山政長等が参集。細川の屋敷と花の御所を中心に京都北部から東に布陣した細川方=東軍と、堀川西岸の山名宗全の屋敷と京都中央の斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方=西軍という構図がはっきりした。
  • 地方への飛び火 西暦1,467年4月頃に土岐政康が伊勢国へ、6月頃に斯波義敏が越前国へ、宇野政秀が播磨国へ、細川勝元によって派遣される。赤松政則は旧領の播磨国・備前国・美作国へ侵攻し、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民の協力で数日のうちに奪回した。5月頃には九州でも少弐教頼が大内政弘領の筑前国へ侵攻している。
  • 大内政弘の出陣 西暦1,467年6月11日、山名宗全の要請を受けた大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率いて山口を出発。河野通春・陶弘房も其の中に居た。本隊は海路で野上・柳井・屋代島・室津を経由して瀬戸内海を東上した。
  • 上京の戦い 西暦1,467年6月27日夜明け前、武田信賢が実相院を、成身院光宣が土倉正実坊を占拠し、夜明け頃に一色義直の屋敷を襲撃・占拠した。之を受けて細川勝元は、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自邸に本陣を置く。斯うして東軍は西軍征伐の大義名分を得た。
  • 一条大宮の市街戦 西暦1,467年6月27日、斯波義廉が朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川勝久の屋敷を攻め、救援の京極持清は朝倉の反撃で敗走。赤松政則が正親町通を迂回して斯波勢を退却させた。細川勝久は自邸を焼いて退却し、戦闘は翌日18時迄続いて行願寺・知恩寺や民家等が焼失した。29日、足利義政が停戦を命じる。
  • 祇園会の中止と飯尾為数の暗殺 西暦1,467年7月8日、祇園会が中止となる。12日には飯尾為数が西軍に通じたとして足利義視に暗殺され、同日の戦闘で上京の多くが焼失した。
  • 後花園上皇の出家の意思 西暦1,467年7月15日、後花園上皇が伏見宮貞常親王へ書簡を送り、出家の意思を伝えた。此の様な大乱が起こりいよいよ世俗との関わりを断とうと思う、後土御門天皇の始めに此の様な事が起こって只々恥入っている、万が一漏れれば武家が止めるであろうから内密に、という内容であった。
  • 大物浦の海戦と大内政弘の上洛 西暦1,467年9月8日、大内政弘が河野水軍・村上水軍・三島水軍等を率い、大物浦の難波・水堂にて上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍を撃破。尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛して東寺に布陣し、後に梶井門跡へ移って本陣とした。之により西軍は勢い付く。
  • 足利義視の出奔 西暦1,467年9月8日夜、伊勢貞親の呼び戻しを切っ掛けに足利義視が出発。21日、木造教親に警護されて釘貫門を合伴で開かせ京都を脱し、近江国坂本の石川次郎の館でお忍びの日野富子と暇乞いをして、北条早雲を伴い伊勢国へ入った。失望した足利義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始める。
  • 三宝院の戦い 西暦1,467年9月29日、武田信賢率いる軍が等持院の畠山義就勢に矢を射掛けて反撃に遭い、退却途中で討たれて三宝院(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)に駆け込む。畠山は追撃して三宝院を攻め、武田元綱の奮戦も及ばず東軍は敗れ、火を放たれて落とされた。東軍は京都の東北部の隅に封じ込められる。
  • 土御門内裏の占拠と公家屋敷の焼失 西暦1,467年10月11日、畠山義就率いる軍が土御門内裏(現在の京都府京都市上京区元浄花院町付近)を占拠。9月29日から此の日迄の戦いで、近衛殿・鷹司殿・日野殿・花山院殿・広橋殿・西園寺殿を含む公家の屋敷37戸と、大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失し、下京の大半は西軍が制圧した形となった。
  • 東岩倉・南禅寺山の攻防 西暦1,467年10月16日早朝、東軍本体と連絡が取れず南禅寺山に孤立していた秋庭元明・浦上則宗の陣を大内政弘率いる軍が攻撃。南禅寺・青蓮院が灰燼に帰した。俄仕立ての陣ながら両名は摂津国での雪辱に燃え、大石等で大内を退け、続く山名宗全、遊佐氏・誉田氏、甲斐氏・朝倉孝景の攻撃も矢の雨と石礫で悉く退けた。
  • 後花園上皇の出家と綸旨の拒否 西暦1,467年10月18日、後花園上皇が花の御所にて出家する。其の後、幕府は西軍征伐の綸旨の発給を求めたが、上皇は断固として拒否した。30日には両軍和睦の為、天下静謐を祈れという主旨の院宣を寺社へ発給し、両軍へ勅使を派遣して和平を命じている。
  • 相国寺の戦い 西暦1,467年10月30日、畠山義就・畠山義統・大内政弘・一色義直・土岐成頼・六角高頼率いる西軍30,000名程度が相国寺を襲撃。内通した僧が火を放つと、武田信賢と京極持清は落城と思い込んで退却した。細川勝之・安富元綱・安富盛継は配下500名と馬廻で総門を7度守り抜いた末に東門で戦死。東軍は相国寺を放棄し、一帯は西軍に押さえられた。
  • 畠山政長の逆襲と決着なき終幕 西暦1,467年10月31日、畠山政長が4,000名で花の御所の四足門から出撃し、普廣院の焼け跡から突撃。細川勝元の援軍を東からの横槍に投入して西軍6,000名を討ち取った。西軍は花の御所が戦場となる事を諸将が躊躇い戦意が低かった。政長は相国寺を掌握するも朝倉孝景が奪還し、決着の付かない儘、戦闘は終了する。本書の到達点。

御霊から上京、東岩倉、三宝院、そして相国寺へ──
細川勝元と山名宗全が京都を戦場に変えた十ヶ月を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。