船田合戦
一元化
船田城と加納城、其の距離は数百m──
石丸利光と斎藤妙純の船田合戦を一元化。
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本書について
西暦1,495年1月5日、石丸利光が、瑞龍寺(現在の岐阜県岐阜市寺町)の僧悟渓宗頓を招いての大宝寺(現在の岐阜県岐阜市大宝町)の開堂式に出席予定であった持是院家の斎藤妙純を道中で暗殺しようと謀ったが、悪天候により延期されて失敗する。1月6日、石丸は、自身の居城である船田城(現在の岐阜県岐阜市水主町)で兵を招集し、加納城(現在の岐阜県岐阜市加納丸之内)に居る斎藤妙純を奇襲しようとしたが、西尾直教が斎藤に石丸の反逆を密告し、発覚する。本書は、此の斎藤妙純の暗殺の謀から、西暦1,496年7月頃に斎藤利藤が隠居させられる迄を一元化した記録である。
西暦1,495年1月15日、石丸利光が、土岐成頼に仲介を頼み、斎藤妙純と和睦する。西尾直教は追放された。然し其の後、斎藤は加納城の増強に努めた。加納城は、石丸の居る船田城と荒田川を挟んで数百mしか離れていなかった。5月5日、斎藤妙純の弟斎藤利綱が、正法寺(現在の岐阜県岐阜市薬師町)に入る。石丸利光の弟石丸利元も間道から正法寺に入り、北に斎藤軍、南に石丸軍という形で対陣した。5月25日、石丸利光が、惣領家の斎藤利藤の孫斎藤利春を船田城に迎え入れる。6月28日、斎藤利春が、風邪で急死する。6月30日、石丸利光が、斎藤利藤の末子日運を船田城に迎え入れる。7月3日、石丸利光が、土岐元頼を船田城に迎え入れる。
西暦1,495年7月6日、石丸利元が、正法寺の門東に柵を設置する。そして、加納城・川手城(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)の交通を遮断して周辺に放火し、商家を焼き払った。7月11日、西方寺(現在の岐阜県岐阜市加納新本町)に布陣していた石丸利光の一族である石丸利定が、先鋒として出陣し、斎藤妙純方の安養寺(現在の岐阜県岐阜市加納地区)を急襲する。其の後、利定率いる軍は、踵を東に向け加納城を包囲した。加納城を守備していた長井秀弘は城門を開いて迎撃したが、利定が敢えて城内に攻め込まなかった為、東門の周辺で激しい戦闘となった。利定率いる軍は、加納城の固い守りに苦戦し、利定は討死した。最終的に利定率いる軍は、500名余の死傷者を出して退却した。7月13日、石丸利定と共に出陣していた石丸利元が、船田城に帰還する。7月14日、斎藤妙純方の織田寛広の援軍約数千名が、安養寺の西南に布陣して睨みを利かせる。此れにより、斎藤方の勝利が確定的となった。
西暦1,495年7月22日、斎藤妙純が、西郡の土岐元頼方である古田氏征伐の為、自身の同母弟である斎藤利安・斎藤利綱率いる3,000名の軍勢を派遣する。石丸利光も、一族の石丸利信率いる1,000名の軍勢を派遣し、両軍が激突した。最終的に斎藤は56名の戦死者を出した。又、石丸勢は130名余の戦死者を出し、中之元城(現在の岐阜県揖斐郡大野町中之元)を守備していた古田勝信・古田信清も討たれ、斎藤方の勝利に終わった。7月28日、石丸利光が、船田城に火を放ち、六角高頼を頼って、500騎を連れて近江国に逃れる。其の後、石丸は伊庭貞隆の世話を受けた。10月頃、土岐成頼が、自身の嫡男である土岐政房に家督と美濃国守護職を譲り、剃髪して舎衛寺(現在の岐阜県岐阜市城田寺)に隠居する。
西暦1,496年5月頃、近江国に居た石丸利光が、細川政元に対し、兵糧代を頼んで室町幕府に支援を依頼する。5月3日、土岐政房が織田寛定征伐の為尾張国に布陣した隙を突いて、石丸利光の息子石丸利高が、細川政元・六角高頼・梅戸貞実等の支援を受けて、美濃国侵攻の為、伊勢国へ向けて出発する。利高は、利光の進軍中止の指示を拒否し、土岐元頼(総大将)・日運(副将)率いる2つの軍勢に分かれて進軍した。進軍ルートは、伊勢国・津島(現在の愛知県)・竹鼻(現在の岐阜県羽島市)・墨俣(現在の岐阜県大垣市)であった。5月22日、斎藤妙純の仲裁により、斎藤方の尾張国上四郡守護代織田家織田寛広と、石丸利光方の尾張国下四郡守護代織田家織田寛村が和睦する。
西暦1,496年6月20日、石丸利高率いる軍が、墨俣で待ち構えていた斎藤利綱率いる軍を破る。其の後、石丸率いる軍は北上し、城田寺城(現在の岐阜県岐阜市城田寺)へ向かった。土岐成頼は、城田寺城を開門し、石丸率いる軍は入城した。此れを受けて土岐政房は、斎藤妙純を城田寺城へ差し向けた。妙純は、朝倉貞景・京極高清に援軍を要請した。又6月20日、京極高清が、弥高山(現在の滋賀県米原市)に着陣する。京極は、浅井氏・三田村氏を鵜飼(現在の岐阜県岐阜市黒野)に派遣した。6月24日、斎藤妙純方の軍が、城田寺城包囲を意図し、長良川を渡る。6月24日頃、六角高頼率いる軍が、城田寺城へ救援に向かおうとするも、美濃国と伊勢国の国境を遮る京極高清率いる軍に敗れ、500名余を失う。6月25日、斎藤妙純方の軍が、城田寺城包囲を開始する。6月25日頃、梅戸貞実が、斎藤妙純方の長野氏の妨害により、美濃国へ行けず、石丸利光の救援に失敗する。6月27日、織田寛広が派遣した尾張国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わる。7月6日、朝倉貞景が派遣した越前国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わる。
西暦1,496年7月9日、敗北を悟った石丸利光が、自身の切腹と引き換えに土岐成頼・日運を助命する事を条件に降伏する旨の書簡を、斎藤妙純方に送る。斎藤方は此れを承諾した。利光は、籠城を主張する石丸利元を宥めた。7月10日、石丸利光が、石丸利元と共に自害する。又此の日、斎藤妙純方が城田寺城を奇襲した。7月26日、土岐政房の説得により、土岐成頼が城田寺城から出る。7月30日、城田寺城に火が掛けられる。此れを受けて、土岐元頼は自害した。7月頃、石丸利光方の敗北により、斎藤利藤が隠居させられる。斎藤妙純の暗殺の謀から、加納城の攻防、石丸利光の近江国への逃亡、石丸利高の美濃国侵攻、城田寺城の包囲を経て、斎藤利藤の隠居に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 石丸利光 本書の中心人物。居城は船田城(現在の岐阜県岐阜市水主町)。西暦1,495年1月5日、大宝寺の開堂式に出席予定であった斎藤妙純を道中で暗殺しようと謀ったが、悪天候により延期されて失敗する。1月6日、船田城で兵を招集し、加納城に居る斎藤妙純を奇襲しようとしたが、西尾直教の密告により発覚した。1月15日、土岐成頼に仲介を頼み、斎藤妙純と和睦する。5月25日に斎藤利春を、6月30日に日運を、7月3日に土岐元頼を、船田城に迎え入れた。7月28日、船田城に火を放ち、六角高頼を頼って、500騎を連れて近江国に逃れる。1,496年5月頃、細川政元に対し、兵糧代を頼んで室町幕府に支援を依頼した。7月9日、自身の切腹と引き換えに土岐成頼・日運を助命する事を条件に降伏する旨の書簡を、斎藤妙純方に送る。7月10日、石丸利元と共に自害した。
- 斎藤妙純 持是院家。西暦1,495年1月5日、石丸利光が、大宝寺の開堂式に出席予定であった斎藤妙純を道中で暗殺しようと謀ったが、悪天候により延期されて失敗する。1月6日、加納城に居た斎藤を石丸利光が奇襲しようとしたが、西尾直教が石丸の反逆を密告し、発覚した。1月15日、斎藤は、土岐成頼に仲介を頼んだ石丸利光と和睦する。然し其の後、加納城の増強に努めた。7月22日、西郡の土岐元頼方である古田氏征伐の為、自身の同母弟である斎藤利安・斎藤利綱率いる3,000名の軍勢を派遣する。1,496年5月22日、織田寛広と織田寛村の和睦を仲裁した。6月20日に墨俣で斎藤利綱率いる軍を破った石丸利高率いる軍が、其の後城田寺城に入城すると、妙純は土岐政房により城田寺城へ差し向けられた。妙純は、朝倉貞景・京極高清に援軍を要請した。
- 石丸利元 石丸利光の弟。西暦1,495年5月5日、間道から正法寺に入り、北に斎藤軍、南に石丸軍という形で、斎藤利綱と対陣した。7月6日、正法寺の門東に柵を設置する。そして、加納城・川手城の交通を遮断して周辺に放火し、商家を焼き払った。7月13日、石丸利定と共に出陣していた利元は、船田城に帰還する。1,496年7月9日、石丸利光が、斎藤妙純方に降伏する旨の書簡を送る。利光は、籠城を主張する利元を宥めた。7月10日、石丸利光と共に自害した。
- 石丸利定 石丸利光の一族。西暦1,495年7月11日、布陣していた西方寺から先鋒として出陣し、斎藤妙純方の安養寺を急襲する。其の後、利定率いる軍は、加納城を包囲した。利定が敢えて城内に攻め込まなかった為、東門の周辺で激しい戦闘となった。利定率いる軍は、加納城の固い守りに苦戦し、利定は討死した。
- 石丸利信 石丸利光の一族。西暦1,495年7月22日、石丸利光により、1,000名の軍勢を率いて派遣され、斎藤利安・斎藤利綱率いる3,000名の軍勢と激突した。石丸勢は130名余の戦死者を出し、斎藤方の勝利に終わった。
- 石丸利高 石丸利光の息子。西暦1,496年5月3日、土岐政房が織田寛定征伐の為尾張国に布陣した隙を突いて、細川政元・六角高頼・梅戸貞実等の支援を受けて、美濃国侵攻の為、伊勢国へ向けて出発する。利光の進軍中止の指示を拒否し、土岐元頼(総大将)・日運(副将)率いる2つの軍勢に分かれて進軍した。6月20日、墨俣で待ち構えていた斎藤利綱率いる軍を破る。其の後、利高率いる軍は北上して城田寺城へ向かい、土岐成頼の開門により入城した。
- 土岐成頼 西暦1,495年1月15日、石丸利光に仲介を頼まれ、石丸と斎藤妙純が和睦する。10月頃、土岐成頼が、自身の嫡男である土岐政房に家督と美濃国守護職を譲り、剃髪して舎衛寺に隠居する。1,496年6月20日に墨俣で斎藤利綱率いる軍を破った石丸利高率いる軍が、其の後城田寺城へ向かうと、成頼は城田寺城を開門し、入城させた。7月9日、石丸利光は、自身の切腹と引き換えに土岐成頼・日運を助命する事を条件に降伏する旨の書簡を、斎藤妙純方に送った。7月26日、土岐政房の説得により、土岐成頼が城田寺城から出る。
- 土岐政房 土岐成頼の嫡男。西暦1,495年10月頃、土岐成頼から家督と美濃国守護職を譲られた。1,496年5月3日、石丸利高が、土岐政房が織田寛定征伐の為尾張国に布陣した隙を突いて、美濃国侵攻の為に出発する。6月20日に墨俣で斎藤利綱率いる軍を破った石丸利高率いる軍が、其の後城田寺城に入城すると、此れを受けて政房は、斎藤妙純を城田寺城へ差し向けた。7月26日、土岐成頼を説得し、城田寺城から出させた。
- 土岐元頼 西暦1,495年7月3日、石丸利光に船田城に迎え入れられる。7月22日、斎藤妙純は、西郡の土岐元頼方である古田氏征伐の為、軍勢を派遣した。1,496年5月3日に出発した石丸利高率いる軍は、土岐元頼(総大将)・日運(副将)率いる2つの軍勢に分かれて進軍した。7月30日、城田寺城に火が掛けられる。此れを受けて、土岐元頼は自害した。
- 日運 斎藤利藤の末子。西暦1,495年6月30日、石丸利光に船田城に迎え入れられる。1,496年5月3日に出発した石丸利高率いる軍の、副将を務めた。7月9日、石丸利光は、自身の切腹と引き換えに土岐成頼・日運を助命する事を条件に降伏する旨の書簡を、斎藤妙純方に送った。斎藤方は此れを承諾した。
- 斎藤利藤 惣領家。西暦1,495年5月25日に孫の斎藤利春が、6月30日に末子の日運が、石丸利光に船田城に迎え入れられた。1,496年7月頃、石丸利光方の敗北により、斎藤利藤が隠居させられる。
- 斎藤利春 斎藤利藤の孫。西暦1,495年5月25日、石丸利光に船田城に迎え入れられる。6月28日、風邪で急死した。
- 斎藤利綱 斎藤妙純の弟。西暦1,495年5月5日、正法寺に入り、石丸利元と対陣した。7月22日、斎藤利安と共に、西郡の古田氏征伐の為に派遣された3,000名の軍勢を率いた。1,496年6月20日、墨俣で石丸利高率いる軍を待ち構えていたが、破られた。
- 斎藤利安 斎藤妙純の同母弟。西暦1,495年7月22日、斎藤利綱と共に、西郡の古田氏征伐の為に派遣された3,000名の軍勢を率い、石丸利信率いる1,000名の軍勢と激突した。斎藤方の勝利に終わった。
- 西尾直教 西暦1,495年1月6日、船田城で兵を招集し、加納城に居る斎藤妙純を奇襲しようとした石丸利光の反逆を、斎藤に密告した。1月15日、石丸利光と斎藤妙純が和睦する。西尾直教は追放された。
- 長井秀弘 加納城を守備していた人物。西暦1,495年7月11日に安養寺を急襲した石丸利定率いる軍が、其の後加納城を包囲すると、長井秀弘は城門を開いて迎撃した。利定が敢えて城内に攻め込まなかった為、東門の周辺で激しい戦闘となった。
- 織田寛広 斎藤方の尾張国上四郡守護代織田家。西暦1,495年7月14日、斎藤妙純方の織田寛広の援軍約数千名が、安養寺の西南に布陣して睨みを利かせる。此れにより、斎藤方の勝利が確定的となった。1,496年5月22日、斎藤妙純の仲裁により、織田寛村と和睦する。6月27日、織田寛広が派遣した尾張国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わった。
- 織田寛村 石丸利光方の尾張国下四郡守護代織田家。西暦1,496年5月22日、斎藤妙純の仲裁により、織田寛広と和睦した。
- 六角高頼 西暦1,495年7月28日、石丸利光は、六角高頼を頼って、500騎を連れて近江国に逃れた。1,496年5月3日、六角高頼は、石丸利高の美濃国侵攻を支援した。6月24日頃、六角高頼率いる軍が、城田寺城へ救援に向かおうとするも、美濃国と伊勢国の国境を遮る京極高清率いる軍に敗れ、500名余を失った。
- 伊庭貞隆 西暦1,495年7月28日に近江国に逃れた石丸利光は、其の後、伊庭貞隆の世話を受けた。
- 細川政元 西暦1,496年5月頃、近江国に居た石丸利光が、細川政元に対し、兵糧代を頼んで室町幕府に支援を依頼する。5月3日、細川政元は、石丸利高の美濃国侵攻を支援した。
- 梅戸貞実 西暦1,496年5月3日、石丸利高の美濃国侵攻を支援した。6月25日頃、梅戸貞実は、斎藤妙純方の長野氏の妨害により、美濃国へ行けず、石丸利光の救援に失敗した。
- 京極高清 西暦1,496年6月20日、弥高山(現在の滋賀県米原市)に着陣する。浅井氏・三田村氏を鵜飼(現在の岐阜県岐阜市黒野)に派遣した。斎藤妙純からは、朝倉貞景と共に援軍を要請されている。6月24日頃、美濃国と伊勢国の国境を遮る京極高清率いる軍が、城田寺城へ救援に向かおうとした六角高頼率いる軍を破った。
- 朝倉貞景 斎藤妙純から、京極高清と共に援軍を要請された。西暦1,496年7月6日、朝倉貞景が派遣した越前国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わった。
本書が記録する出来事
- 斎藤妙純の暗殺の謀(1,495年1月5日) 石丸利光が、瑞龍寺(現在の岐阜県岐阜市寺町)の僧悟渓宗頓を招いての大宝寺(現在の岐阜県岐阜市大宝町)の開堂式に出席予定であった持是院家の斎藤妙純を道中で暗殺しようと謀ったが、悪天候により延期されて失敗する。
- 石丸利光の反逆の発覚(1,495年1月6日) 石丸利光が、自身の居城である船田城(現在の岐阜県岐阜市水主町)で兵を招集し、加納城(現在の岐阜県岐阜市加納丸之内)に居る斎藤妙純を奇襲しようとしたが、西尾直教が斎藤に石丸の反逆を密告し、発覚する。
- 石丸利光と斎藤妙純の和睦(1,495年1月15日) 石丸利光が、土岐成頼に仲介を頼み、斎藤妙純と和睦する。西尾直教は追放された。然し其の後、斎藤は加納城の増強に努めた。加納城は、石丸の居る船田城と荒田川を挟んで数百mしか離れていなかった。
- 正法寺の対陣(1,495年5月5日) 斎藤妙純の弟斎藤利綱が、正法寺(現在の岐阜県岐阜市薬師町)に入る。石丸利光の弟石丸利元も間道から正法寺に入り、北に斎藤軍、南に石丸軍という形で対陣した。
- 正法寺の門東の柵(1,495年7月6日) 石丸利元が、正法寺の門東に柵を設置する。そして、加納城・川手城(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)の交通を遮断して周辺に放火し、商家を焼き払った。
- 安養寺の急襲(1,495年7月11日) 西方寺(現在の岐阜県岐阜市加納新本町)に布陣していた石丸利光の一族である石丸利定が、先鋒として出陣し、斎藤妙純方の安養寺(現在の岐阜県岐阜市加納地区)を急襲する。其の後、利定率いる軍は、踵を東に向け加納城を包囲した。加納城を守備していた長井秀弘は城門を開いて迎撃したが、利定が敢えて城内に攻め込まなかった為、東門の周辺で激しい戦闘となった。利定率いる軍は、加納城の固い守りに苦戦し、利定は討死した。最終的に利定率いる軍は、500名余の死傷者を出して退却した。
- 織田寛広の援軍(1,495年7月14日) 斎藤妙純方の織田寛広の援軍約数千名が、安養寺の西南に布陣して睨みを利かせる。此れにより、斎藤方の勝利が確定的となった。
- 古田氏征伐(1,495年7月22日) 斎藤妙純が、西郡の土岐元頼方である古田氏征伐の為、自身の同母弟である斎藤利安・斎藤利綱率いる3,000名の軍勢を派遣する。石丸利光も、一族の石丸利信率いる1,000名の軍勢を派遣し、両軍が激突した。最終的に斎藤は56名の戦死者を出した。又、石丸勢は130名余の戦死者を出し、中之元城(現在の岐阜県揖斐郡大野町中之元)を守備していた古田勝信・古田信清も討たれ、斎藤方の勝利に終わった。
- 船田城の放火と近江国への逃亡(1,495年7月28日) 石丸利光が、船田城に火を放ち、六角高頼を頼って、500騎を連れて近江国に逃れる。其の後、石丸は伊庭貞隆の世話を受けた。
- 土岐成頼の隠居(1,495年10月頃) 土岐成頼が、自身の嫡男である土岐政房に家督と美濃国守護職を譲り、剃髪して舎衛寺(現在の岐阜県岐阜市城田寺)に隠居する。
- 室町幕府への支援依頼(1,496年5月頃) 近江国に居た石丸利光が、細川政元に対し、兵糧代を頼んで室町幕府に支援を依頼する。
- 石丸利高の出発(1,496年5月3日) 土岐政房が織田寛定征伐の為尾張国に布陣した隙を突いて、石丸利光の息子石丸利高が、細川政元・六角高頼・梅戸貞実等の支援を受けて、美濃国侵攻の為、伊勢国へ向けて出発する。利高は、利光の進軍中止の指示を拒否し、土岐元頼(総大将)・日運(副将)率いる2つの軍勢に分かれて進軍した。進軍ルートは、伊勢国・津島(現在の愛知県)・竹鼻(現在の岐阜県羽島市)・墨俣(現在の岐阜県大垣市)であった。
- 織田寛広と織田寛村の和睦(1,496年5月22日) 斎藤妙純の仲裁により、斎藤方の尾張国上四郡守護代織田家織田寛広と、石丸利光方の尾張国下四郡守護代織田家織田寛村が和睦する。
- 墨俣の戦い(1,496年6月20日) 石丸利高率いる軍が、墨俣で待ち構えていた斎藤利綱率いる軍を破る。其の後、石丸率いる軍は北上し、城田寺城(現在の岐阜県岐阜市城田寺)へ向かった。土岐成頼は、城田寺城を開門し、石丸率いる軍は入城した。此れを受けて土岐政房は、斎藤妙純を城田寺城へ差し向けた。妙純は、朝倉貞景・京極高清に援軍を要請した。
- 京極高清の着陣(1,496年6月20日) 京極高清が、弥高山(現在の滋賀県米原市)に着陣する。京極は、浅井氏・三田村氏を鵜飼(現在の岐阜県岐阜市黒野)に派遣した。
- 城田寺城の包囲(1,496年6月) 6月24日、斎藤妙純方の軍が、城田寺城包囲を意図し、長良川を渡る。6月24日頃、六角高頼率いる軍が、城田寺城へ救援に向かおうとするも、美濃国と伊勢国の国境を遮る京極高清率いる軍に敗れ、500名余を失う。6月25日、斎藤妙純方の軍が、城田寺城包囲を開始する。6月25日頃、梅戸貞実が、斎藤妙純方の長野氏の妨害により、美濃国へ行けず、石丸利光の救援に失敗する。6月27日、織田寛広が派遣した尾張国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わった。
- 越前国の軍勢の到着(1,496年7月6日) 朝倉貞景が派遣した越前国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わる。
- 石丸利光の降伏の書簡(1,496年7月9日) 敗北を悟った石丸利光が、自身の切腹と引き換えに土岐成頼・日運を助命する事を条件に降伏する旨の書簡を、斎藤妙純方に送る。斎藤方は此れを承諾した。利光は、籠城を主張する石丸利元を宥めた。
- 石丸利光の自害(1,496年7月10日) 石丸利光が、石丸利元と共に自害する。又此の日、斎藤妙純方が城田寺城を奇襲した。
- 土岐成頼の退城(1,496年7月26日) 土岐政房の説得により、土岐成頼が城田寺城から出る。
- 城田寺城の炎上(1,496年7月30日) 城田寺城に火が掛けられる。此れを受けて、土岐元頼は自害した。
- 斎藤利藤の隠居(1,496年7月頃) 石丸利光方の敗北により、斎藤利藤が隠居させられる。本書の年表の最後の項目である。
大宝寺の開堂式から、城田寺城の炎上へ──
船田合戦の全過程を一元化。
149円(税込)
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