電子書籍「細川澄之と石川直経による安良山城の偽装落城、細川政元暗殺一元化」の表紙

細川澄之と石川直経による
安良山城の偽装落城、
細川政元暗殺一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,495年1月16日〜1,507年8月4日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
16ページ
文字数
5,517字
最新更新日
西暦2,026年10月3日

安良山城は陥落したと触れ回られた──
細川澄之と石川直経の偽装落城を一元化。

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本書について

西暦1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利義澄は花の御所で1日中待たされ、1月23日に延期となった。そして1月23日の5時、足利義澄の元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。細川政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。本書は、此の足利義澄の元服の儀から、細川澄之と石川直経による安良山城の偽装落城、細川政元の暗殺を経て、西暦1,507年8月4日の赤沢朝経の宮津城への退却と、文殊堂での自刃迄を一元化した記録である。

西暦1,498年9月12日、六角氏が、芦浦観音寺(現在の滋賀県草津市芦浦町)に毎月の代参と坂本への御用を命じるに当たり、諸関奉行・志那渡(現在の滋賀県草津市志那町付近)宛の過所を発給する。西暦1,499年12月頃、足利義稙が、越前国府中(現在の福井県越前市国府)から出陣する。其の後、足利義稙は坂本に布陣した。南方からの畠山尚順の軍と連携して、京都の細川政元・足利義澄方を挟撃し、上洛を狙う算段を立てていた。12月24日、六角高頼が坂本にて、足利義稙率いる軍に奇襲攻撃を仕掛ける。足利義稙は敗れ、比叡山に逃れた。

西暦1,500年1月30日、足利義稙が、楊井津(現在の山口県柳井市)に下向する。2月1日、足利義稙は乗福寺(現在の山口県山口市大内御堀)に入る。4月3日、大内義興が、大内氏館(現在の山口県山口市大殿大路)にて、足利義稙を32膳(25献+2供御+4御台+御菓子)で饗応する。初献の「きそく」「雑煮」「五種盛り」に始まり、廿五献の「しとと焼」に至る迄、本書には其の献立が収められている。10月22日、後土御門天皇が、清涼殿の黒戸御所(現在の京都府京都市上京区京都御苑)にて崩御する。11月16日、後柏原天皇が、第104代天皇として践祚する。

西暦1,501年2月17日頃、細川政元が出仕しなくなり、細川と足利義澄の不和が表面化し始める。其の後、細川は出仕を再開したものの、足利義澄との溝は埋まらなかった。3月6日、細川政元が、安富元家の宿所に赴き、隠居を宣言する。細川は其処に留まった。足利義澄は慰留の使者を遣わせたが、細川は領国に下向すると言い放った。3月27日、細川政元が、丹波国神吉(現在の京都府南丹市八木町神吉)へ下向する。其の後、細川は槇島城に入った。5月10日、足利義澄が、槇島城に居る細川政元を訪ね、説得する。細川は隠居を撤回した。7月1日、細川政元が、即位礼を望んでいる後柏原天皇に対し、即位礼を執り行うのは無益であり、即位礼を行わずとも自身は後柏原殿を天皇と認めている、末代となった今、即位式を執り行うのは不相応であるという主旨の発言をする。此の時の朝廷は財政難で、儀式を行う余裕が無かった。

西暦1,502年8月14日、足利義澄が従四位下に叙される。又足利義澄は、参議兼左近衛中将に任じられた。足利義澄は其の後、返礼として朝廷に拝賀を行おうとするも、細川政元が、参議兼左近衛中将に昇進する事は無益であり、自身は常に足利殿を征夷大将軍と理解しているので官位は意味を持たないと言って反対し、実現しなかった。細川の周囲の公武の者も皆、細川に同意した。8月23日、足利義澄が、石清水八幡宮の籤によって改名を行う。9月5日、足利義澄が、細川政元との対立を理由に隠居を宣言する。足利義澄は、金龍寺(現在の京都府京都市左京区岩倉地区)に逐電した。9月6日、細川政元・伊勢貞宗が、金龍寺に居る足利義澄の下を訪れる。然し、足利義澄は面会を拒否し、代わりに細川に5ヶ条、伊勢に7ヶ条の要求を突き付けた。細川に対する5ヶ条は、武田元信の相伴衆への登用、足利義稙の異母弟義忠の殺害、後柏原天皇の即位礼の費用を負担する事、内裏の警護を強化する事、足利家の財政支援であった。細川・伊勢は此れを部分的に受け入れた。9月7日、義忠が、足利義澄の見舞いの為、金龍寺を訪れる。然し足利義澄は義忠と会う事を拒否した。細川政元は、義忠を自身の屋敷に呼び出し、捕縛させた。そして、柳本家の家臣・香西元長等により、義忠は斬殺された。

西暦1,503年1月23日、足利義澄が、足利義稙の死を願う自筆の願文を、石清水八幡宮に奉納する。義澄は、分裂した足利家を認めず、義稙を今出川姓で呼んだ。3月24日、足利義澄が真木島(現在の京都府宇治市)に下向し、細川政元の饗応を受けた。3月27日、足利義澄が帰洛する。8月22日、安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が、細川政元の命により殺害される。安富は此れを不服とし、遁世した。後任として赤沢朝経が、兵庫津代官に就任した。11月5日、細川政元が上洛する。以降、家臣を遠ざける等、細川の言動に異常が見られる様になった。西暦1,504年1月10日、足利義澄が、新年の参賀式の為参内する。宴の後、細川政元は召し出されて、天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の、非常に稀な事であった。政元は御礼に、万疋を進上した。

西暦1,506年2月頃、赤沢朝経が、河内国にて、畠山義英・畠山尚順を破り、高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を占領する。3月13日、三好之長が上洛する。4月頃、丹後国にて、武田氏が丹後国に侵攻するのではないかとの噂が出る。5月頃、武田元信が、中山寺(現在の福井県大飯郡高浜町中山)にて、戦勝祈願を行う。5月13日、細川澄元が、1,000名超の兵を率い、薬師寺長忠等と共に上洛する。5月19日、細川政元が、武田元信からの要請を受けて、細川澄之(総大将)・細川政賢・香西元長率いる軍を丹後国へ派遣する。又此の頃、政元は細川澄元に摂津国守護職を譲り、澄之は第17代室町幕府丹波国守護、澄元は第19代室町幕府摂津国守護に其々就任した。6月頃、細川政元が、細川澄元・三好之長率いる軍を、丹後国へ派遣する。又、細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍が、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の攻城を開始する。7月頃、細川政元が、武田元信に、丹後国侵攻を許可する御内書を下す。其の後、武田は丹後国に入り、府中城(現在の京都府宮津市府中)に布陣した。

西暦1,506年8月頃、赤沢朝経が、古市澄胤の手引きにより、大和国に侵攻を開始する。法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払い、寺社勢力を制圧した。8月29日、赤沢朝経が戒重城(現在の奈良県桜井市戒重)を陥落させる。此の時点で十市遠治・箸尾為国は、多武峰を防衛拠点として抵抗を続けた。9月頃、畠山尚順・畠山義英が反細川政元の姿勢を鮮明にし、大和国で兵を招集する。此れを受けて室町幕府は、赤沢朝経に大和国に侵攻させる。赤沢長経も、養父である朝経に同行した。9月3日、筒井順賢率いる軍が、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突き、古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲し、古市澄胤・澄胤の息子古市胤盛を破る。筒井勢は、古市郷を焼き払った後、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を奪回した。9月8日、大和国衆が続々と郡山城に入城する。伊賀国衆も参陣し、赤沢朝経に対する防衛体制を整えた。9月11日、古市胤盛が、数千名の兵を率い、郡山城を包囲・陥落させる。

西暦1,506年9月23日、細川澄之の最大の支持者である香西元長が、細川政元に背き、京都にて蜂起する。此れを受けて室町幕府は、大和国に居た三好之長を呼び戻し、鎮圧させた。10月10日、武田元信率いる軍が、援軍として迎えた第17代丹波国守護細川澄之勢と共に如願寺(現在の京都府宮津市宮町)近くの山城を夜襲する。結果、一色勢を破った。10月16日頃の時点で、細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍は、安良山城を落とす事が出来ていなかった。又、一色義有の居城である今熊野城(現在の京都府宮津市中野)、延永春信の居城である阿弥陀ヶ峰城(現在の京都府宮津市成相寺付近)も、赤沢朝経・武田元信勢から攻撃を受けるが、持ち堪えていた。11月17日、細川政元が、阿波国へ向かう為、京都から堺に移動する。然し、足利義澄・細川高国の説得により、阿波国へ入るのは中止となった。

西暦1,507年5月頃、細川政元が、羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)に巡礼に行くと言い出し、京都を出発する。丹波国を経由して若狭国に入ったが、此れに驚いた武田元信が、羽黒山巡礼を中止させた。又5月頃、細川政元・赤沢朝経を始めとする武田元信の援軍が、丹後国へ下る。6月5日、細川政元率いる軍が、武田元信の援軍として戦闘に加わる。然し政元は、細川澄元・三好之長と共に、即座に帰京した。其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かった。7月5日、細川政元が京都に入る。7月8日、細川澄之率いる軍が、安良山城主石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げて京都に戻った。但此の時点で、府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)では、依然として今熊野城の一色義有本隊・阿弥陀ヶ峰城の延永春信勢を武田元信・赤沢朝経勢が包囲している状態であった。

西暦1,507年8月1日、細川政元が、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、竹田孫七・福井四郎によって殺害される。此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは、香西元長・薬師寺長忠であった。8月2日、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠が、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃する。三好は、細川澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)に逃れ、其の後、山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、山中の下で、在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んだ。8月3日、細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た細川政元勢の赤沢朝経・赤沢長経・古市胤盛・粟屋親栄に齎される。朝経は、一色義有と和睦した。又此の頃、細川政元が殺害された事を知った石川直経等が挙兵し、普甲谷(現在の京都府宮津市小田)で合戦を行った。8月4日、赤沢朝経が宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退く。退路を塞がれた赤沢は、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。又武田元信率いる軍は、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。足利義澄の元服の儀から、細川政元の隠居の宣言と撤回、丹後国・大和国への出兵、安良山城の偽装落城、細川政元の暗殺を経て、赤沢朝経の自刃に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 細川政元 本書の中心人物。西暦1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀の加冠役であったが、烏帽子を被る事を嫌がった為、儀は1月23日に延期となった。1月23日、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。1,501年2月17日頃に出仕しなくなり、3月6日には安富元家の宿所に赴き、隠居を宣言する。5月10日、槇島城を訪ねた足利義澄に説得され、隠居を撤回した。7月1日、即位礼を望んでいる後柏原天皇に対し、即位礼を執り行うのは無益であるという主旨の発言をする。1,503年11月5日に上洛して以降、家臣を遠ざける等、言動に異常が見られる様になった。1,507年8月1日、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、竹田孫七・福井四郎によって殺害された。
  • 細川澄之 西暦1,506年5月19日、武田元信からの要請を受けた細川政元により、総大将として、細川政賢・香西元長と共に丹後国へ派遣される。又此の頃、第17代室町幕府丹波国守護に就任した。6月頃、澄之・細川政賢・香西元長率いる軍が、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城の攻城を開始する。10月10日、武田元信率いる軍が、援軍として迎えた細川澄之勢と共に、如願寺近くの山城を夜襲し、一色勢を破った。10月16日頃の時点で、澄之等の軍は、安良山城を落とす事が出来ていなかった。1,507年7月8日、安良山城主石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げて京都に戻った。8月2日、香西元長・薬師寺長忠と共に、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃した。
  • 石川直経 安良山城主。西暦1,506年6月頃、居城の安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)が、細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍と内藤貞正・波多野元清等の丹波勢による攻城を受ける。10月16日頃の時点で、澄之等の軍は安良山城を落とす事が出来ていなかった。1,507年7月8日、細川澄之率いる軍と講和した。細川政元が殺害された事を知ると、石川直経等は挙兵し、普甲谷(現在の京都府宮津市小田)で合戦を行った。
  • 香西元長 細川澄之の最大の支持者。西暦1,502年9月7日、柳本家の家臣等と共に義忠を斬殺した。1,506年5月19日、細川澄之・細川政賢と共に、丹後国へ派遣される。6月頃、澄之・政賢と共に率いる軍で、安良山城の攻城を開始した。9月23日、細川政元に背き、京都にて蜂起する。此れを受けて室町幕府は、大和国に居た三好之長を呼び戻し、鎮圧させた。香西元長は、1,507年8月1日の細川政元の暗殺を、薬師寺長忠と共に企て、竹田孫七・福井四郎を唆した。8月2日、細川澄之・薬師寺長忠と共に、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃した。
  • 薬師寺長忠 西暦1,506年5月13日、1,000名超の兵を率いて上洛した細川澄元に同行した。1,507年8月1日の細川政元の暗殺を、香西元長と共に企て、竹田孫七・福井四郎を唆した。8月2日、細川澄之・香西元長と共に、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃した。
  • 竹田孫七 西暦1,507年8月1日、細川政元の屋敷の湯殿にて行水を行なっている最中の政元を、福井四郎と共に殺害した。此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは、香西元長・薬師寺長忠であった。
  • 福井四郎 西暦1,507年8月1日、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中の細川政元を、竹田孫七と共に殺害した。
  • 足利義澄 第11代室町幕府征夷大将軍。西暦1,495年1月16日に予定されていた元服の儀は、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、1月23日に延期となった。1月23日の5時、元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。1,501年5月10日、槇島城に居る細川政元を訪ね、説得する。細川は隠居を撤回した。1,502年8月14日、足利義澄は従四位下に叙され、又参議兼左近衛中将に任じられた。其の後、返礼として朝廷に拝賀を行おうとするも、細川政元の反対に遭い、実現しなかった。9月5日、細川政元との対立を理由に隠居を宣言する。足利義澄は、金龍寺に逐電した。9月6日、訪れた細川政元・伊勢貞宗との面会を拒否し、細川に5ヶ条、伊勢に7ヶ条の要求を突き付けた。1,503年1月23日、足利義稙の死を願う自筆の願文を、石清水八幡宮に奉納した。
  • 足利義稙 西暦1,499年12月頃、越前国府中から出陣する。其の後、坂本に布陣した。南方からの畠山尚順の軍と連携して、京都の細川政元・足利義澄方を挟撃し、上洛を狙う算段を立てていた。12月24日、坂本にて六角高頼の奇襲攻撃を受けて敗れ、比叡山に逃れた。1,500年1月30日に楊井津に下向し、2月1日に乗福寺に入る。4月3日、大内義興から、大内氏館にて32膳の饗応を受けた。
  • 細川澄元 西暦1,506年5月13日、1,000名超の兵を率い、薬師寺長忠等と共に上洛する。5月19日、細川政元が細川澄之等率いる軍を丹後国へ派遣する。又此の頃、澄元は政元から摂津国守護職を譲られ、第19代室町幕府摂津国守護に就任した。6月頃、三好之長と共に率いる軍で、丹後国へ派遣される。1,507年6月5日、細川政元率いる軍が、武田元信の援軍として戦闘に加わる。然し政元は、澄元・三好之長と共に、即座に帰京した。8月2日、澄元は、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠に屋敷を攻撃され、三好之長に守られて青地城に逃れた。
  • 三好之長 西暦1,506年3月13日に上洛する。6月頃、細川澄元と共に率いる軍で、丹後国へ派遣される。9月23日に香西元長が京都にて蜂起すると、室町幕府は此れを受けて、大和国に居た三好之長を呼び戻し、鎮圧させた。1,507年8月2日、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠に屋敷を攻撃され、細川澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)に逃れた。其の後、山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、山中の下で、在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んだ。
  • 赤沢朝経 西暦1,503年8月22日に細川政元の命により殺害された高橋光正の後任として、兵庫津代官に就任した。1,506年2月頃、河内国にて、畠山義英・畠山尚順を破り、高屋城を占領する。8月頃、古市澄胤の手引きにより、大和国に侵攻を開始し、法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払い、寺社勢力を制圧した。8月29日、戒重城を陥落させる。1,507年8月3日、細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た朝経等に齎される。朝経は、一色義有と和睦した。8月4日、宮津城に退く。退路を塞がれた赤沢は、文殊堂にて自刃した。
  • 武田元信 西暦1,506年5月頃、中山寺(現在の福井県大飯郡高浜町中山)にて、戦勝祈願を行う。5月19日、細川政元は、武田元信からの要請を受けて、丹後国へ軍を派遣した。7月頃、細川政元から、丹後国侵攻を許可する御内書を下される。其の後、丹後国に入り、府中城に布陣した。10月10日、援軍として迎えた細川澄之勢と共に、如願寺近くの山城を夜襲し、一色勢を破った。1,507年5月頃、羽黒山に巡礼に行くと言い出して若狭国に入った細川政元に驚き、羽黒山巡礼を中止させた。8月4日、武田元信率いる軍は、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。
  • 一色義有 居城は今熊野城(現在の京都府宮津市中野)。西暦1,506年10月10日、武田元信率いる軍と細川澄之勢の夜襲により、一色勢が破られる。10月16日頃の時点で、今熊野城は、赤沢朝経・武田元信勢から攻撃を受けるが、持ち堪えていた。1,507年7月8日の時点でも、府中では、今熊野城の一色義有本隊が、武田元信・赤沢朝経勢に包囲されている状態であった。8月3日、細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た赤沢朝経等に齎される。朝経は、一色義有と和睦した。
  • 細川政賢 西暦1,506年5月19日、細川澄之・香西元長と共に、丹後国へ派遣される。6月頃、澄之・香西元長と共に率いる軍で、安良山城の攻城を開始した。10月16日頃の時点で、安良山城を落とす事が出来ていなかった。
  • 伊勢貞宗 政所執事。西暦1,495年1月23日、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。伊勢は、第29代管領に就任した細川政元と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。1,502年9月6日、細川政元と共に、金龍寺に居る足利義澄の下を訪れる。然し、足利義澄は面会を拒否し、伊勢には、政所の会計の透明化・家臣団の再編・所領争いの仲裁・軍事支援の強化・朝廷との連携・義稙派の監視・細川の行動監視の7ヶ条の要求を突き付けた。細川・伊勢は此れを部分的に受け入れた。
  • 義忠 足利義稙の異母弟。西暦1,502年9月6日、足利義澄が細川政元に突き付けた5ヶ条の要求の中に、義忠の殺害が含まれていた。9月7日、足利義澄の見舞いの為、金龍寺を訪れるが、足利義澄は義忠と会う事を拒否した。細川政元は、義忠を自身の屋敷に呼び出し、捕縛させた。そして、柳本家の家臣・香西元長等により、義忠は斬殺された。
  • 大内義興 西暦1,500年4月3日、大内氏館(現在の山口県山口市大殿大路)にて、足利義稙を32膳(25献+2供御+4御台+御菓子)で饗応した。本書には其の献立が収められている。
  • 六角高頼 西暦1,499年12月24日、坂本にて、足利義稙率いる軍に奇襲攻撃を仕掛けた。足利義稙は敗れ、比叡山に逃れた。
  • 後柏原天皇 西暦1,500年11月16日、第104代天皇として践祚する。1,501年7月1日、即位礼を望んでいたが、細川政元から、即位礼を執り行うのは無益であるという主旨の発言を受けた。此の時の朝廷は財政難で、儀式を行う余裕が無かった。
  • 安富元家 西暦1,501年3月6日、細川政元が、安富元家の宿所に赴き、隠居を宣言する。1,503年8月22日、安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が、細川政元の命により殺害される。安富は此れを不服とし、遁世した。
  • 古市澄胤 西暦1,506年8月頃、赤沢朝経の大和国侵攻を手引きした。9月3日、筒井順賢率いる軍に古市郷を急襲され、息子の古市胤盛と共に敗れた。
  • 古市胤盛 古市澄胤の息子。西暦1,506年9月3日、筒井順賢率いる軍に、古市澄胤と共に敗れる。9月11日、数千名の兵を率い、郡山城を包囲・陥落させた。1,507年8月3日、細川政元が殺害されたとの情報が、丹後国に居た古市胤盛等に齎される。8月4日、武田元信率いる軍は、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出した。
  • 筒井順賢 西暦1,506年9月3日、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突き、古市郷を急襲し、古市澄胤・古市胤盛を破る。筒井勢は、古市郷を焼き払った後、郡山城を奪回した。

本書が記録する出来事

  • 足利義澄の元服の延期(1,495年1月16日) 足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利義澄は花の御所で1日中待たされ、1月23日に延期となった。
  • 足利義澄の元服と将軍就任(1,495年1月23日) 5時、足利義澄の元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。細川政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。
  • 足利義稙の出陣(1,499年12月頃) 足利義稙が、越前国府中(現在の福井県越前市国府)から出陣する。其の後、足利義稙は坂本に布陣した。南方からの畠山尚順の軍と連携して、京都の細川政元・足利義澄方を挟撃し、上洛を狙う算段を立てていた。
  • 坂本での奇襲(1,499年12月24日) 六角高頼が坂本にて、足利義稙率いる軍に奇襲攻撃を仕掛ける。足利義稙は敗れ、比叡山に逃れた。
  • 大内義興の饗応(1,500年4月3日) 大内義興が、大内氏館(現在の山口県山口市大殿大路)にて、足利義稙を32膳(25献+2供御+4御台+御菓子)で饗応する。初献の「きそく」「雑煮」「五種盛り」に始まり、廿五献の「しとと焼」に至る迄、本書には其の献立が収められている。
  • 後柏原天皇の践祚(1,500年11月16日) 後柏原天皇が、第104代天皇として践祚する。
  • 細川政元の不出仕(1,501年2月17日頃) 此の頃、細川政元が出仕しなくなり、細川と足利義澄の不和が表面化し始める。其の後、細川は出仕を再開したものの、足利義澄との溝は埋まらなかった。
  • 細川政元の隠居宣言(1,501年3月6日) 細川政元が、安富元家の宿所に赴き、隠居を宣言する。細川は其処に留まった。足利義澄は慰留の使者を遣わせたが、細川は領国に下向すると言い放った。
  • 即位礼への反対(1,501年7月1日) 細川政元が、即位礼を望んでいる後柏原天皇に対し「朝廷に於いて即位礼を執り行うのは無益な事です。仮令儀式を行っても、実質が伴わなければ、人々は天皇として認めないでしょう。即位礼を行わずとも、私は後柏原殿を天皇と認めています。従って、末代となった今、即位式を執り行うのは不相応な事です。手続きを進めようとしても、結局は無駄に終わるでしょう」という主旨の発言をする。此の時の朝廷は財政難で、儀式を行う余裕が無かった。
  • 足利義澄の叙位任官(1,502年8月14日) 足利義澄が従四位下に叙される。又足利義澄は、参議兼左近衛中将に任じられた。足利義澄は其の後、返礼として朝廷に拝賀を行おうとするも、細川政元が「参議兼左近衛中将に昇進する事は無益です。私は常に足利殿を征夷大将軍と理解しているので、官位は意味を持ちません。幾ら昇進しても、周囲が命令を聞かねば何の意味も無い。暫くは、今の官位の儘で良いでしょう」と言って反対し、実現しなかった。細川の周囲の公武の者も皆、細川に同意した。
  • 足利義澄の隠居宣言と逐電(1,502年9月5日) 足利義澄が、細川政元との対立を理由に隠居を宣言する。足利義澄は、金龍寺(現在の京都府京都市左京区岩倉地区)に逐電した。
  • 5ヶ条・7ヶ条の要求(1,502年9月6日) 細川政元・伊勢貞宗が、金龍寺に居る足利義澄の下を訪れる。然し、足利義澄は面会を拒否し、代わりに細川に5ヶ条、伊勢に7ヶ条の要求を突き付けた。細川に対する5ヶ条は、武田元信の相伴衆への登用、足利義稙の異母弟義忠の殺害、後柏原天皇の即位礼の費用を負担する事、内裏の警護を強化する事、足利家の財政支援であり、伊勢に対する7ヶ条は、政所の会計の透明化、家臣団の再編、所領争いの仲裁、軍事支援の強化、朝廷との連携、義稙派の監視、細川の行動監視であった。細川・伊勢は此れを部分的に受け入れた。
  • 義忠の斬殺(1,502年9月7日) 義忠が、足利義澄の見舞いの為、金龍寺を訪れる。然し足利義澄は義忠と会う事を拒否した。細川政元は、義忠を自身の屋敷に呼び出し、捕縛させた。そして、柳本家の家臣・香西元長等により、義忠は斬殺された。
  • 足利義稙の死を願う願文(1,503年1月23日) 足利義澄が、足利義稙の死を願う自筆の願文を、石清水八幡宮に奉納する。義澄は、分裂した足利家を認めず、義稙を今出川姓で呼んだ。
  • 高橋光正の殺害(1,503年8月22日) 安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が、細川政元の命により殺害される。安富は此れを不服とし、遁世した。後任として赤沢朝経が、兵庫津代官に就任した。
  • 天盃の拝領(1,504年1月10日) 足利義澄が、新年の参賀式の為参内する。宴の後、細川政元は召し出されて、天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の、非常に稀な事であった。政元は御礼に、万疋を進上した。
  • 高屋城の占領(1,506年2月頃) 赤沢朝経が、河内国にて、畠山義英・畠山尚順を破り、高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を占領する。
  • 丹後国への派遣(1,506年5月19日) 細川政元が、武田元信からの要請を受けて、細川澄之(総大将)・細川政賢・香西元長率いる軍を丹後国へ派遣する。又此の頃、政元は細川澄元に摂津国守護職を譲り、澄之は第17代室町幕府丹波国守護、澄元は第19代室町幕府摂津国守護に其々就任した。
  • 安良山城の攻城開始(1,506年6月頃) 細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍が、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の攻城を開始する。
  • 赤沢朝経の大和国侵攻(1,506年8月頃) 赤沢朝経が、古市澄胤の手引きにより、大和国に侵攻を開始する。法華寺(現在の奈良県奈良市法華寺町)・正暦寺(現在の奈良県奈良市菩提山町)・多武峰妙楽寺(現在の奈良県桜井市多武峰)・龍門寺(現在の奈良県吉野郡吉野町山口)を焼き払い、寺社勢力を制圧した。
  • 郡山城の争奪(1,506年9月) 9月3日、筒井順賢率いる軍が、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突き、古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲し、古市澄胤・澄胤の息子古市胤盛を破る。筒井勢は、古市郷を焼き払った後、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を奪回した。9月8日、大和国衆が続々と郡山城に入城する。伊賀国衆も参陣し、赤沢朝経に対する防衛体制を整えた。9月11日、古市胤盛が、数千名の兵を率い、郡山城を包囲・陥落させた。
  • 香西元長の蜂起(1,506年9月23日) 細川澄之の最大の支持者である香西元長が、細川政元に背き、京都にて蜂起する。此れを受けて室町幕府は、大和国に居た三好之長を呼び戻し、鎮圧させた。
  • 如願寺近くの山城の夜襲(1,506年10月10日) 武田元信率いる軍が、援軍として迎えた第17代丹波国守護細川澄之勢と共に如願寺(現在の京都府宮津市宮町)近くの山城を夜襲する。結果、一色勢を破った。
  • 羽黒山巡礼の中止(1,507年5月頃) 細川政元が、羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)に巡礼に行くと言い出し、京都を出発する。丹波国を経由して若狭国に入ったが、此れに驚いた武田元信が、羽黒山巡礼を中止させた。
  • 石川直経との講和と偽装落城(1,507年7月8日) 細川澄之率いる軍が、安良山城主石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げて京都に戻った。但此の時点で、府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)では、依然として今熊野城の一色義有本隊・阿弥陀ヶ峰城の延永春信勢を武田元信・赤沢朝経勢が包囲している状態であった。
  • 細川政元の暗殺(1,507年8月1日) 細川政元が、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、竹田孫七・福井四郎によって殺害される。此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは、香西元長・薬師寺長忠であった。
  • 細川澄元・三好之長の屋敷への攻撃(1,507年8月2日) 細川澄之・香西元長・薬師寺長忠が、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃する。三好は、細川澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)に逃れ、其の後、山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、山中の下で、在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んだ。
  • 赤沢朝経の自刃(1,507年8月4日) 赤沢朝経が宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退く。退路を塞がれた赤沢は、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。又武田元信率いる軍は、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。本書の年表の最後の項目である。

烏帽子を嫌がった加冠役は、湯殿で殺された──
細川政元の暗殺と其の後を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。