電子書籍「細川澄之と石川直経による安良山城の偽装落城、細川政元暗殺一元化」の表紙

細川澄之と石川直経による
安良山城の偽装落城、
細川政元暗殺一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,495年1月16日〜1,507年8月4日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
16ページ
最新更新日
西暦2,026年8月10日

西暦1,507年7月8日、落ちなかった城が「落ちた」と触れ回られた──
其の二十四日後、細川政元は湯殿で殺された。

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本書について

西暦1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であった。然し加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利は花の御所で1日中待たされ、儀は同月23日へ延期される。同日5時、漸く元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任した。細川政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利に代わって政務を担う。烏帽子一つを拒んだ此の男が、以後十二年に亙って幕政の中心に居座り、そして自邸の湯殿で殺される。本書は、細川政元という異物が幕府を握り、崩れ落ちるまでの十二年半を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,499年12月頃、越前国府中(現在の福井県越前市国府)から出陣した足利義稙は坂本に布陣した。南方からの畠山尚順の軍と連携し、京都の細川政元・足利義澄方を挟撃して上洛を狙う算段であった。然し同月24日、六角高頼が坂本にて奇襲攻撃を仕掛け、足利は敗れて比叡山に逃れる。翌西暦1,500年1月30日、足利義稙は楊井津(現在の山口県柳井市)へ下向し、2月1日に乗福寺(現在の山口県山口市大内御堀)へ入った。同年4月3日、大内義興は大内氏館(現在の山口県山口市大殿大路)にて、25献・2供御・4御台・御菓子から成る32膳という壮大な饗応で足利を迎える。刺身鯉子付・菱喰の皮入り・海老の舟盛から、氷羹・冷製海鞘・海豚の御汁まで——本書は其の献立を一品残らず収めている。同年10月22日には後土御門天皇が清涼殿の黒戸御所(現在の京都府京都市上京区京都御苑)にて崩御し、11月16日、後柏原天皇が第104代天皇として践祚した。

西暦1,501年2月17日頃、細川政元が出仕しなくなり、足利義澄との不和が表面化し始める。3月6日には安富元家の宿所へ赴いて隠居を宣言し、慰留の使者に対しては領国に下向すると言い放った。同月27日、政元は丹波国神吉(現在の京都府南丹市八木町神吉)へ下向し、其の後槇島城に入る。5月10日、足利義澄自らが槇島城を訪ねて説得し、政元は漸く隠居を撤回した。7月1日、即位礼を望む後柏原天皇に対して政元は、儀式を行っても実質が伴わなければ人々は天皇と認めないだろう、即位礼を行わずとも自分は後柏原殿を天皇と認めている、末代となった今、即位式を執り行うのは不相応である——という主旨の発言をする。当時の朝廷は財政難で、儀式を行う余裕が無かった。

西暦1,502年8月14日、足利義澄が従四位下に叙され、参議兼左近衛中将に任じられる。返礼として朝廷に拝賀を行おうとするが、細川政元は、自分は常に足利殿を征夷大将軍と理解しているので官位は意味を持たない、幾ら昇進しても周囲が命令を聞かねば何の意味も無い——と言って反対し、実現しなかった。細川の周囲の公武の者も皆、細川に同意している。9月5日、足利義澄は細川政元との対立を理由に隠居を宣言し、金龍寺(現在の京都府京都市左京区岩倉地区)へ逐電した。翌6日、細川政元と伊勢貞宗が金龍寺を訪れるが、足利は面会を拒否し、細川に5ヶ条、伊勢に7ヶ条の要求を突き付ける。細川への5ヶ条には、武田元信の相伴衆への登用、足利義稙の異母弟・義忠の殺害、後柏原天皇の即位礼費用の負担、内裏の警護強化、足利家の財政支援が並んだ。細川・伊勢は之を部分的に受け入れる。翌7日、義忠が足利義澄の見舞いの為に金龍寺を訪れると、足利は面会を拒み、細川政元は義忠を自身の屋敷へ呼び出して捕縛させ、柳本家の家臣と香西元長等により斬殺させた。

西暦1,503年1月23日、足利義澄は足利義稙の死を願う自筆の願文を石清水八幡宮に奉納する。分裂した足利家を認めず、義稙を今出川姓で呼んだ。同年8月22日、安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が細川政元の命により殺害され、安富は之を不服として伿世する。後任の兵庫津代官には赤沢朝経が就任した。同年11月5日に政元が上洛すると、以降、家臣を遠ざける等、其の言動に異常が見られる様になる。翌西暦1,504年1月10日、新年の参賀式の宴の後、細川政元は召し出されて天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の、非常に稀な事であった。政元は御礼に万疋を進上している。

西暦1,506年、戦線は一気に広がった。2月頃、赤沢朝経が河内国にて畠山義英・畠山尚順を破り、高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を占領する。5月19日、細川政元は武田元信からの要請を受けて、細川澄之を総大将とし細川政賢・香西元長を従えた軍を丹後国へ派遣した。此の頃、政元は丹後国守護職を澄之に、摂津国守護職を細川澄元に譲り、澄之は第17代室町幕府丹波国守護、澄元は第19代室町幕府摂津国守護に其々就任している。6月頃、澄之・政賢・元長の軍は、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の攻城を開始した。8月頃、赤沢朝経は古市澄胤の手引きにより大和国へ侵攻し、法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払って寺社勢力を制圧する。9月3日、筒井順賢は赤沢の主力が大和国南部へ進出した伱を突いて古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲し、古市澄胤・古市胤盛を破って郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を奪回したが、同月11日、古市胤盛が数千名の兵を率いて郡山城を包囲・陥落させた。同月23日には、細川澄之の最大の支持者である香西元長が政元に背いて京都で蜂起し、幕府は大和国に居た三好之長を呼び戻して鎮圧させている。

西暦1,506年10月16日頃の時点で、細川澄之・細川政賢・香西元長の軍は安良山城を落とす事が出来ていなかった。翌西暦1,507年5月頃、細川政元は羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)へ巡礼に行くと言い出して京都を出発し、丹波国を経由して若狭国に入ったが、驚いた武田元信に中止させられる。6月5日、政元率いる軍は武田の援軍として戦闘に加わるも、細川澄元・三好之長と共に即座に帰京した。其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かったのである。7月5日、政元は京都に入る。同月8日、山城を攻めていた細川澄之率いる軍が、安良山城主・石川直経と講和した。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げ、京都に戻ったのである。書名に刻まれた此の偽りの勝報から二十四日後——8月1日、細川政元は自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行っている最中に、竹田孫七・福井四郎の二名によって殺害された。暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは香西元長と薬師寺長忠である。翌2日、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠が細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃し、三好は澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)へ逃れ、其の後山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延びた。3日、政元横死の報が丹後国の赤沢朝経勢に齎され、朝経は一色義有と和睦する。訃報を知った石川直経等は挙兵し、普甲谷(現在の京都府宮津市小田)で合戦に及んだ。そして4日、宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)へ退いた赤沢朝経は退路を塞がれ、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃する。武田元信率いる軍も、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出して若狭国・丹波国へ退却した。偽りの落城が、一つの権力の本物の崩壊を引き寄せたのである。本書は、其の十二年半の全過程を一冊に束ねている。


登場人物

  • 細川政元 本書の中心人物。西暦1,495年1月、足利義澄の元服の加冠役でありながら烏帽子を被る事を嫌がり、儀を延期させた。同月23日に第29代管領へ就任し、伊勢貞宗と共に若年の足利に代わって政務を担う。西暦1,501年以降は出仕停止・隠居宣言・後柏原天皇の即位礼への反対・足利義澄の官位昇進への反対を重ね、西暦1,503年11月の上洛以降は家臣を遠ざける等の異常な言動が見られる様になった。西暦1,507年8月1日、自邸の湯殿で魔法を修する為と称して行水中に殺害される。
  • 細川澄之 細川政元の養子。西暦1,506年5月19日、丹後国へ派遣された軍の総大将となり、同じ頃、政元から丹後国守護職を譲られて第17代室町幕府丹波国守護に就任した。6月頃から石川直経の安良山城を攻めるも落とせず、西暦1,507年7月8日に石川と講和した上で、落城したと触れ回って兵を引き上げる。政元暗殺の翌日には香西元長・薬師寺長忠と共に細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃した。書名に其の名が刻まれる。
  • 石川直経 安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の城主。西暦1,506年6月頃から細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍と内藤貞正・波多野元清等の丹波勢による攻城を受けたが、一年以上に亙って落ちなかった。西暦1,507年7月8日、細川澄之と講和し、偽装落城の一方の当事者となる。政元暗殺の報を知った後の8月3日頃には挙兵し、普甲谷で合戦に及んだ。
  • 香西元長 細川澄之の最大の支持者。西暦1,502年9月7日には柳本家の家臣等と共に義忠を斬殺した。西暦1,506年5月19日には丹後国派遣軍に加わり安良山城の攻城に参加するが、同年9月23日、細川政元に背いて京都で蜂起する。西暦1,507年8月1日の政元暗殺を薬師寺長忠と共に企て、竹田孫七・福井四郎を唆した張本人。
  • 薬師寺長忠 西暦1,506年5月13日、細川澄元が1,000名超の兵を率いて上洛した際に同行した。西暦1,507年8月1日の細川政元暗殺を香西元長と共に企て、竹田孫七・福井四郎を唆した。翌2日には細川澄之・香西元長と共に細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃している。
  • 竹田孫七 西暦1,507年8月1日、自邸の湯殿で行水中の細川政元を、福井四郎と共に殺害した実行者の一人。香西元長と薬師寺長忠に唆されての凶行であった。
  • 福井四郎 西暦1,507年8月1日、竹田孫七と共に細川政元を殺害した実行者の一人。細川が魔法を修する為と称して行水を行っている最中の出来事であった。
  • 足利義澄 第11代室町幕府征夷大将軍。西暦1,495年1月23日、将軍宣下により就任した。西暦1,501年5月10日には槇島城に細川政元を訪ねて隠居を撤回させたが、西暦1,502年9月5日には自身が隠居を宣言して金龍寺へ逐電し、細川に5ヶ条・伊勢貞宗に7ヶ条の要求を突き付ける。西暦1,503年1月23日には足利義稙の死を願う自筆の願文を石清水八幡宮に奉納した。西暦1,506年11月17日には細川高国と共に、阿波国へ向かおうとする政元を説得して中止させている。
  • 足利義稙 越中公方を経て西国に拠った将軍。西暦1,499年12月頃、越前国府中から出陣して坂本に布陣し、畠山尚順の軍と連携して京都を挟撃する算段を立てたが、同月24日の六角高頼の奇襲に敗れて比叡山へ逃れた。西暦1,500年には楊井津・乗福寺を経て、4月3日に大内義興から32膳の饗応を受けている。
  • 細川澄元 細川政元の養子。西暦1,506年5月13日、1,000名超の兵を率い薬師寺長忠等と共に上洛した。同月19日頃、政元から摂津国守護職を譲られて第19代室町幕府摂津国守護に就任する。同年6月頃には三好之長と共に丹後国へ派遣された。西暦1,507年8月2日、細川澄之等の攻撃を受け、三好に守られて青地城へ逃れた。
  • 三好之長 西暦1,506年3月13日に上洛し、同年6月頃には細川澄元と共に丹後国へ派遣された。同年9月23日の香西元長の蜂起に際しては、大和国から呼び戻されて鎮圧に当たっている。西暦1,507年8月2日、細川澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)へ逃れ、其の後は山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、在地勢力と近江国人衆を取り込んだ。
  • 赤沢朝経 西暦1,503年8月22日、高橋光正の後任として兵庫津代官に就任した。西暦1,506年2月頃には河内国で畠山義英・畠山尚順を破って高屋城を占領し、同年8月頃には古市澄胤の手引きで大和国へ侵攻して法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払う。同月29日には戒重城を陥落させた。西暦1,507年8月3日に細川政元横死の報を受けて一色義有と和睦するも、翌4日、宮津城へ退いた所で退路を塞がれ、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。
  • 武田元信 若狭国の大名。西暦1,506年5月頃に中山寺(現在の福井県大飯郡高浜町中山)で戦勝祈願を行い、同年7月頃には細川政元から丹後国侵攻を許可する御内書を得て府中城に布陣した。同年10月10日には細川澄之勢と共に如願寺近くの山城を夜襲し一色勢を破る。西暦1,507年5月頃には政元の羽黒山巡礼を中止させたが、政元暗殺後の8月4日、粟屋親栄・古市胤盛を含む数百名の戦死者を出して若狭国・丹波国へ退却した。
  • 一色義有 丹後国の大名。居城の今熊野城(現在の京都府宮津市中野)は赤沢朝経・武田元信勢の攻撃を受けながら西暦1,506年10月16日頃の時点でも持ち堪えていた。西暦1,507年8月3日、細川政元横死の報を受けた赤沢朝経と和睦する。
  • 細川政賢 西暦1,506年5月19日、細川澄之を総大将とする丹後国派遣軍に香西元長と共に加わり、6月頃から石川直経の安良山城の攻城に当たった。同年10月16日頃の時点でも城は落ちていない。
  • 伊勢貞宗 政所執事。西暦1,495年1月23日の足利義澄の将軍就任に伴い、第29代管領の細川政元と共に若年の足利に代わって政務を担った。西暦1,502年9月6日、細川政元と共に金龍寺の足利義澄を訪ねるが面会を拒否され、政所の会計の透明化・家臣団の再編・所領争いの仲裁・軍事支援の強化・朝廷との連携・義稙派の監視・細川の行動監視という7ヶ条の要求を突き付けられた。
  • 義忠 足利義稙の異母弟。西暦1,502年9月6日、足利義澄が細川政元に突き付けた5ヶ条の要求の中に其の殺害が含まれていた。翌7日、足利義澄の見舞いの為に金龍寺を訪れたが面会を拒まれ、細川政元に屋敷へ呼び出されて捕縛され、柳本家の家臣と香西元長等により斬殺された。
  • 大内義興 周防国の大名。西暦1,500年4月3日、大内氏館(現在の山口県山口市大殿大路)にて、25献・2供御・4御台・御菓子から成る32膳という壮大な饗応で足利義稙を迎えた。本書は其の献立を一品残らず収めている。
  • 六角高頼 近江国の大名。西暦1,499年12月24日、坂本に布陣していた足利義稙率いる軍へ奇襲攻撃を仕掛け、之を破った。足利は比叡山へ逃れ、上洛の算段は潰えた。
  • 後柏原天皇 第104代天皇。西暦1,500年11月16日に践祚した。即位礼を望んだが、西暦1,501年7月1日、細川政元から即位礼は不相応であるという主旨の発言を受ける。当時の朝廷は財政難で、儀式を行う余裕が無かった。
  • 安富元家 西暦1,501年3月6日、其の宿所にて細川政元が隠居を宣言した。西暦1,503年8月22日、与力で兵庫津代官の高橋光正が政元の命により殺害されると、之を不服として伿世した。
  • 古市澄胤 大和国の国人。西暦1,506年8月頃、赤沢朝経の大和国侵攻を手引きした。同年9月3日、筒井順賢率いる軍の古市郷急襲を受け、息子の古市胤盛と共に破れ、古市郷を焼き払われた。
  • 古市胤盛 古市澄胤の息子。西暦1,506年9月3日に筒井順賢に破れるも、同月11日には数千名の兵を率いて郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を包囲・陥落させた。西暦1,507年8月4日、武田元信勢の退却に際して粟屋親栄と共に戦死している。
  • 筒井順賢 西暦1,506年9月3日、赤沢朝経の主力が大和国南部へ進出した伱を突いて古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲し、古市澄胤・古市胤盛を破った。古市郷を焼き払った後、郡山城を奪回している。

本書が記録する出来事

  • 烏帽子を嫌がった加冠役と足利義澄の将軍就任 西暦1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀は、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為に延期となり、足利は花の御所で1日中待たされた。同月23日5時に改めて執り行われ、将軍宣下により足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任。細川政元は第29代管領となり、政所執事の伊勢貞宗と共に政務を担った。本書の起点。
  • 坂本の奇襲と足利義稙の西下 西暦1,499年12月頃、越前国府中から出陣した足利義稙が坂本に布陣し、畠山尚順の軍と連携した京都挟撃を狙う。然し同月24日、六角高頼の奇襲に敗れて比叡山へ逃れ、翌西暦1,500年1月30日に楊井津(現在の山口県柳井市)へ下向、2月1日に乗福寺へ入った。
  • 大内義興の32膳饗応 西暦1,500年4月3日、大内義興が大内氏館にて足利義稙を32膳(25献+2供御+4御台+御菓子)で饗応した。刺身鯉子付・菱喰の皮入り・海老の舟盛から、氷羹・冷製海鞘・海豚の御汁まで、本書は其の献立を一品残らず収録する。
  • 後土御門天皇の崩御と後柏原天皇の践祚 西暦1,500年10月22日、後土御門天皇が清涼殿の黒戸御所(現在の京都府京都市上京区京都御苑)にて崩御。同年11月16日、後柏原天皇が第104代天皇として践祚した。
  • 細川政元の出仕停止と隠居宣言 西暦1,501年2月17日頃、細川政元が出仕しなくなり足利義澄との不和が表面化する。3月6日には安富元家の宿所で隠居を宣言し、慰留の使者に領国下向を言い放った。同月27日に丹波国神吉へ下向して槇島城に入り、5月10日、足利義澄自らの説得を受けて隠居を撤回した。
  • 即位礼への反対 西暦1,501年7月1日、即位礼を望む後柏原天皇に対し、細川政元は、儀式を行っても実質が伴わなければ人々は天皇と認めない、即位礼を行わずとも自分は後柏原殿を天皇と認めている、末代となった今は不相応である、という主旨の発言をする。当時の朝廷は財政難であった。
  • 官位昇進への反対と足利義澄の逐電 西暦1,502年8月14日、足利義澄が従四位下に叙され参議兼左近衛中将に任じられるも、細川政元は、常に足利殿を征夷大将軍と理解しているので官位は意味を持たないと反対し、朝廷への拝賀は実現しなかった。周囲の公武の者も皆細川に同意する。9月5日、足利義澄は隠居を宣言し金龍寺へ逐電した。
  • 5ヶ条・7ヶ条の要求と義忠の斬殺 西暦1,502年9月6日、金龍寺の足利義澄は細川政元・伊勢貞宗の面会を拒み、細川に5ヶ条、伊勢に7ヶ条の要求を突き付けた。翌7日、見舞いに訪れた足利義稙の異母弟・義忠は面会を拒まれ、細川政元に屋敷へ呼び出されて捕縛され、柳本家の家臣と香西元長等により斬殺された。
  • 足利義稙の死を願う願文 西暦1,503年1月23日、足利義澄が足利義稙の死を願う自筆の願文を石清水八幡宮に奉納する。義澄は分裂した足利家を認めず、義稙を今出川姓で呼んだ。
  • 高橋光正の殺害と細川政元の異常 西暦1,503年8月22日、安富元家の与力で兵庫津代官の高橋光正が細川政元の命により殺害され、安富は不服として伿世、後任に赤沢朝経が就いた。同年11月5日に政元が上洛して以降、家臣を遠ざける等、其の言動に異常が見られる様になる。
  • 天盃の拝領 西暦1,504年1月10日、新年の参賀式の宴の後、細川政元が召し出されて天盃を拝領した。西暦1,439年の細川持之以来の非常に稀な事であり、政元は御礼に万疋を進上している。
  • 丹後国出兵と守護職の分与 西暦1,506年5月19日、細川政元が武田元信の要請を受け、細川澄之を総大将に細川政賢・香西元長を従えた軍を丹後国へ派遣する。此の頃、丹後国守護職を澄之に、摂津国守護職を細川澄元に譲り、澄之は第17代丹波国守護、澄元は第19代摂津国守護に就任した。6月頃には澄元・三好之長率いる軍も派遣される。
  • 安良山城の攻城 西暦1,506年6月頃、細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍が、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の攻城を開始した。同年10月16日頃の時点でも、城は落ちていない。
  • 赤沢朝経の大和国侵攻と寺社の焼き討ち 西暦1,506年8月頃、赤沢朝経が古市澄胤の手引きにより大和国へ侵攻し、法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払って寺社勢力を制圧する。同月29日には戒重城を陥落させ、十市遠治・箸尾為国は多武峰を防衛拠点として抵抗を続けた。
  • 郡山城の争奪と香西元長の蜂起 西暦1,506年9月3日、筒井順賢が古市郷を急襲して古市澄胤・古市胤盛を破り、郡山城を奪回。同月11日には古市胤盛が数千名の兵で郡山城を包囲・陥落させた。同月23日、細川澄之の最大の支持者である香西元長が細川政元に背いて京都で蜂起し、大和国から呼び戻された三好之長が鎮圧に当たった。
  • 羽黒山巡礼と戦意なき出陣 西暦1,507年5月頃、細川政元が羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)へ巡礼に行くと言い出して京都を出発し、丹波国を経由して若狭国に入るが、驚いた武田元信に中止させられる。6月5日には武田の援軍として戦闘に加わるも、細川澄元・三好之長と共に即座に帰京した。行軍の途上に陸奥国へ下向すると言い出す等、戦意は低かった。
  • 安良山城の偽装落城 西暦1,507年7月8日、山城を攻めていた細川澄之率いる軍が安良山城主・石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げ京都に戻った。此の時点でも府中では、今熊野城の一色義有本隊と阿弥陀ヶ峰城の延永春信勢を武田元信・赤沢朝経勢が包囲していた。書名に刻まれた一幕。
  • 湯殿の暗殺 西暦1,507年8月1日、細川政元が自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行っている最中に、竹田孫七・福井四郎の二名によって殺害される。暗殺を企て、両名を唆したのは香西元長と薬師寺長忠であった。偽りの勝報から二十四日後の出来事。
  • 澄元・三好之長の逃亡と赤沢朝経の自刃 西暦1,507年8月2日、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠が細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃し、三好は澄元を守って青地城へ逃れ、山中為俊を頼って甲賀郡へ落ち延びた。3日には政元横死の報が丹後国に届き、赤沢朝経は一色義有と和睦、石川直経等は挙兵して普甲谷で合戦に及ぶ。4日、宮津城へ退いた赤沢は退路を塞がれ文殊堂にて自刃し、武田元信勢も数百名の戦死者を出して退却した。本書の到達点。

烏帽子を嫌がった加冠役から、湯殿の惨劇、そして文殊堂の自刃へ──
細川政元が幕政に君臨し崩れ落ちるまでの十二年半を一元化。

JPY 200(税込)

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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