足利義稙の
上原元秀の屋敷からの脱走、
越中公方樹立、
そして朝倉貞景を頼り一乗谷へ
一元化
嵐の夜、足利義稙が屋敷から脱走した──
越中公方の樹立を一元化。
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本書について
西暦1,493年6月9日、正覚寺城が落城する。畠山政長は、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。尚順は虎口を脱出し、紀伊国で再挙を図る事となった。遊佐長直は討ち取られ、足利義稙と葉室光忠の2名は捕縛され、上原元秀に降伏した。本書は、此の正覚寺城の落城から、足利義稙の上原元秀の屋敷からの脱走、越中公方の樹立、そして朝倉貞景を頼っての一乗谷入りを経て、西暦1,498年11月9日に吉見義隆が越中国にて切腹する迄を一元化した記録である。
西暦1,493年6月13日、上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。6月15日、上原は足利義稙を伴い京都へ帰還する。此の際足利は、古い板輿に乗せられ、6名の近臣を付ける事しか許されなかった。そして足利は、多数の見物人の居る中で、龍安寺(現在の京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町)に幽閉された。6月19日の夜、足利の夕食に毒が盛られる。毒を盛らせたのは日野富子であった。食した足利は、苦悶の末、薬によって一命を取り留めた。7月1日、足利の身柄が、龍安寺から上原元秀の屋敷に移される。7月24日、細川政元等により、足利の小豆島への配流が決定された。
西暦1,493年8月11日の夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、上原元秀の屋敷から脱走する。其の後、足利は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津(現在の富山県射水市)にて神保長誠に迎えられた。神保は、同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集め、九州の大友政親等の遠方の大名も支持した。
西暦1,494年10月20日、足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。西暦1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利義澄は花の御所で1日中待たされ、1月23日に延期となった。そして1月23日の5時、足利義澄の元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。細川政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。
西暦1,497年7月29日頃、足利義稙と細川政元の間で和平交渉が開始される。足利側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。8月12日、倉川兵庫助が、細川政元の屋敷を訪れる。工作の甲斐有って倉川は、細川との和平交渉に漕ぎ着けた。其の後、吉見義隆も、足利義稙方として交渉に当たった。然し最終的に、細川政賢の反対に遭い、交渉は決裂した。
西暦1,498年3月頃、吉見義隆が活動を活発化させる。細川政元・畠山尚順の下に赴き、双方に対して和平交渉を重ねた。公家達は、足利義稙が京都に戻ると予測し、吉見に贈り物を送り、接近した。一方、足利方の和平反対派の種村視久は、家臣の杉川平左衛門を派遣して尋尊に足利の意向を伝え、交渉を妨害する工作を展開した。7月頃、吉見は和平を実現する事が出来ない儘、越中国へ帰国する。双方共に反対派の声を無視出来ず、細川政元側では、細川政賢が再び強く反対した。9月頃、足利義稙が改名を行う。10月頃、足利は、軍事協力の得られない越中国に見切りを付け、越前国の朝倉貞景を頼り、一乗谷に入る。此れにより、越中公方は事実上崩壊した。11月9日、吉見義隆が、越中国にて切腹する。吉見は、細川政元方と過度な接触を行なっていた事を理由に足利義稙から内通を疑われ、切腹に追い込まれた。正覚寺城の落城から、嵐の夜の脱走、越中公方の樹立、細川政元との和平交渉、一乗谷入りを経て、吉見義隆の切腹に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 足利義稙 本書の中心人物。西暦1,493年6月9日、正覚寺城の落城に際して捕縛され、上原元秀に降伏した。6月15日、上原に伴われて京都へ帰還し、龍安寺に幽閉される。6月19日の夜、日野富子の盛らせた毒を食し、苦悶の末、薬によって一命を取り留めた。7月24日、細川政元等により、小豆島への配流が決定される。8月11日の夜、嵐の中、数名の近臣を連れて上原元秀の屋敷から脱走した。其の後、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津にて神保長誠に迎えられる。足利が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。1,494年10月20日、放生津城に移り挙兵する。1,498年9月頃に改名を行い、10月頃、軍事協力の得られない越中国に見切りを付け、越前国の朝倉貞景を頼り、一乗谷に入った。
- 神保長誠 西暦1,493年8月11日の夜に上原元秀の屋敷から脱走した足利義稙を、其の後、放生津(現在の富山県射水市)にて迎えた。同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。1,497年7月29日頃に開始された足利義稙と細川政元の間の和平交渉では、足利側の中心として交渉を進めた。家臣の倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いている。
- 上原元秀 西暦1,493年6月9日、正覚寺城の落城に際して捕縛された足利義稙・葉室光忠の2名が、上原元秀に降伏した。6月13日、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。6月15日、足利義稙を伴い京都へ帰還した。7月1日、足利の身柄が、龍安寺から上原元秀の屋敷に移される。8月11日の夜、足利は嵐の中、上原元秀の屋敷から脱走した。
- 細川政元 西暦1,493年6月13日、上原元秀に命じて、葉室光忠を処刑させた。7月24日、細川政元等により、足利義稙の小豆島への配流が決定される。10月11日頃、細川政元の派遣した軍勢が、越中国の足利義稙勢に破られた。1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙から、足利義澄と共に打倒を宣言される。1,495年1月16日、足利義澄の元服の儀の加冠役であったが、烏帽子を被る事を嫌がった為、儀は1月23日に延期となった。1月23日、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。1,497年7月29日頃、足利義稙との間で和平交渉が開始される。
- 日野富子 西暦1,493年6月19日の夜、龍安寺に幽閉されていた足利義稙の夕食に、毒を盛らせた。食した足利は、苦悶の末、薬によって一命を取り留めた。
- 葉室光忠 西暦1,493年6月9日、正覚寺城の落城に際して、足利義稙と共に捕縛され、上原元秀に降伏した。6月13日、細川政元の命により、上原元秀に処刑された。
- 畠山政長 西暦1,493年6月9日、正覚寺城の落城に際して、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。
- 畠山尚順 西暦1,493年6月9日の正覚寺城の落城に際して、畠山政長に紀伊国へ逃され、虎口を脱出して、紀伊国で再挙を図る事となった。1,498年3月頃に活動を活発化させた吉見義隆が、細川政元と尚順の下に赴き、双方に対して和平交渉を重ねた。
- 遊佐長直 西暦1,493年6月9日、正覚寺城の落城に際して討ち取られた。
- 足利義澄 西暦1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙から、細川政元と共に打倒を宣言された。1,495年1月16日、元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、花の御所で1日中待たされ、1月23日に延期となった。1月23日の5時、元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、第11代室町幕府征夷大将軍に就任した。若年である足利義澄に代わり、細川政元と政所執事の伊勢貞宗が政務を担った。
- 朝倉貞景 西暦1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙に、畠山義統・上杉房定・富樫稙泰・大友政親と共に呼応した。1,498年10月頃、軍事協力の得られない越中国に見切りを付けた足利義稙が、越前国の朝倉貞景を頼り、一乗谷に入った。
- 畠山義統 西暦1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙に、朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親と共に呼応した。
- 上杉房定 西暦1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙に、畠山義統・朝倉貞景・富樫稙泰・大友政親と共に呼応した。
- 富樫稙泰 西暦1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙に、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・大友政親と共に呼応した。
- 大友政親 九州の遠方の大名。西暦1,493年10月11日頃、越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより、大友政親等の遠方の大名も足利を支持した。1,494年10月20日に放生津城に移り挙兵した足利義稙にも、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰と共に呼応している。
- 倉川兵庫助 神保長誠の家臣。西暦1,497年7月29日頃に開始された足利義稙と細川政元の間の和平交渉に際し、上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。8月12日、細川政元の屋敷を訪れる。工作の甲斐有って、細川との和平交渉に漕ぎ着けた。
- 吉見義隆 西暦1,497年8月12日、倉川兵庫助が細川政元との和平交渉に漕ぎ着けた。其の後、吉見義隆も、足利義稙方として交渉に当たった。1,498年3月頃、活動を活発化させる。細川政元・畠山尚順の下に赴き、双方に対して和平交渉を重ねた。公家達は、足利義稙が京都に戻ると予測し、吉見に贈り物を送り、接近した。7月頃、和平を実現する事が出来ない儘、越中国へ帰国する。11月9日、越中国にて切腹する。吉見は、細川政元方と過度な接触を行なっていた事を理由に足利義稙から内通を疑われ、切腹に追い込まれた。
- 細川政賢 西暦1,497年8月12日、倉川兵庫助が細川政元との和平交渉に漕ぎ着けた。其の後、吉見義隆も、足利義稙方として交渉に当たった。然し最終的に、細川政賢の反対に遭い、交渉は決裂した。1,498年7月頃、吉見義隆が和平を実現する事が出来ない儘、越中国へ帰国する。双方共に反対派の声を無視出来ず、細川政元側では、細川政賢が再び強く反対した。
- 種村視久 足利義稙方の和平反対派。西暦1,498年3月頃、吉見義隆が活動を活発化させる。種村は、家臣の杉川平左衛門を派遣して尋尊に足利義稙の意向を伝え、交渉を妨害する工作を展開した。
- 伊勢貞宗 政所執事。西暦1,495年1月23日、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。伊勢は、第29代管領に就任した細川政元と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。
本書が記録する出来事
- 正覚寺城の落城(1,493年6月9日) 正覚寺城が落城する。畠山政長は、畠山尚順を紀伊国へ逃した上で切腹した。尚順は虎口を脱出し、紀伊国で再挙を図る事となった。遊佐長直は討ち取られ、足利義稙・葉室光忠の2名は捕縛され、上原元秀に降伏した。
- 葉室光忠の処刑(1,493年6月13日) 上原元秀が、細川政元の命により、葉室光忠を処刑する。
- 京都への帰還と龍安寺への幽閉(1,493年6月15日) 上原元秀が、足利義稙を伴い京都へ帰還する。此の際足利は、古い板輿に乗せられ、6名の近臣を付ける事しか許されなかった。そして足利は、多数の見物人の居る中で、龍安寺(現在の京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町)に幽閉された。
- 日野富子の毒(1,493年6月19日) 夜、足利義稙の夕食に毒が盛られる。毒を盛らせたのは日野富子であった。食した足利は、苦悶の末、薬によって一命を取り留めた。
- 上原元秀の屋敷への移送(1,493年7月1日) 足利義稙の身柄が、龍安寺から上原元秀の屋敷に移される。
- 小豆島への配流の決定(1,493年7月24日) 細川政元等により、足利義稙の小豆島への配流が決定される。
- 上原元秀の屋敷からの脱走(1,493年8月11日) 夜、嵐の中、数名の近臣を連れた足利義稙が、上原元秀の屋敷から脱走する。其の後、足利は、近江国を経由して越中国へ下向し、放生津(現在の富山県射水市)にて神保長誠に迎えられた。神保は、同地の正光寺を改装し、将軍の御座所とした。斯うして足利が樹立した政権は「越中公方」と呼ばれた。
- 細川政元の派遣した軍勢の撃破(1,493年10月11日頃) 越中国の足利義稙勢が、細川政元の派遣した軍勢を破る。此れにより足利は、越中国全域を掌握し、周辺の諸将からの支持を集め、九州の大友政親等の遠方の大名も支持した。
- 放生津城での挙兵(1,494年10月20日) 足利義稙が、放生津城(現在の富山県射水市中新湊)に移り挙兵する。足利義澄・細川政元の打倒を宣言し、全国の諸将に檄を飛ばした。そして、畠山義統・朝倉貞景・上杉房定・富樫稙泰・大友政親が呼応した。
- 足利義澄の元服の延期(1,495年1月16日) 足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利義澄は花の御所で1日中待たされ、1月23日に延期となった。
- 足利義澄の元服と将軍就任(1,495年1月23日) 5時、足利義澄の元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。細川政元は第29代管領に就任し、政所執事の伊勢貞宗と共に、若年である足利義澄に代わり政務を担った。
- 和平交渉の開始(1,497年7月29日頃) 足利義稙と細川政元の間で和平交渉が開始される。足利側は、神保長誠を中心に交渉を進め、神保の家臣倉川兵庫助が上洛して、工作費として、数千貫を各方面に散蒔いた。
- 倉川兵庫助の細川政元の屋敷訪問(1,497年8月12日) 倉川兵庫助が、細川政元の屋敷を訪れる。工作の甲斐有って倉川は、細川との和平交渉に漕ぎ着けた。其の後、吉見義隆も、足利義稙方として交渉に当たった。然し最終的に、細川政賢の反対に遭い、交渉は決裂した。
- 吉見義隆の活動の活発化(1,498年3月頃) 吉見義隆が活動を活発化させる。細川政元・畠山尚順の下に赴き、双方に対して和平交渉を重ねた。公家達は、足利義稙が京都に戻ると予測し、吉見に贈り物を送り、接近した。一方、足利方の和平反対派の種村視久は、家臣の杉川平左衛門を派遣して尋尊に足利の意向を伝え、交渉を妨害する工作を展開した。
- 吉見義隆の帰国(1,498年7月頃) 吉見義隆が和平を実現する事が出来ない儘、越中国へ帰国する。双方共に反対派の声を無視出来ず、細川政元側では、細川政賢が再び強く反対した。
- 足利義稙の改名(1,498年9月頃) 足利義稙が改名を行う。
- 一乗谷入り(1,498年10月頃) 足利義稙が、軍事協力の得られない越中国に見切りを付け、越前国の朝倉貞景を頼り、一乗谷に入る。此れにより、越中公方は事実上崩壊した。
- 吉見義隆の切腹(1,498年11月9日) 吉見義隆が、越中国にて切腹する。吉見は、細川政元方と過度な接触を行なっていた事を理由に足利義稙から内通を疑われ、切腹に追い込まれた。本書の年表の最後の項目である。
細川政元との和平交渉から、一乗谷へ──
越中公方の事実上の崩壊を一元化。
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