電子書籍「北条早雲の伊豆討ち入り、神国大和の荘園が畠山尚順に切り取られ怒りを露わにする尋尊一元化」の表紙

北条早雲の伊豆討ち入り、
神国大和の荘園が
畠山尚順に切り取られ
怒りを露わにする尋尊一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,487年頃〜1,498年9月頃
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
10ページ
文字数
2,853字
最新更新日
西暦2,026年10月3日

堀越御所の夜襲から、深根城の切腹へ──
北条早雲の伊豆討ち入りを一元化。

157円(税込)

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本書について

西暦1,487年頃、初代堀越公方足利政知が、自身の嫡男足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに後嗣とされたのは、政知の参男足利潤童子であった。本書は、此の足利茶々丸の廃嫡から、西暦1,498年9月頃の北条早雲による下田攻撃と、茶々丸の深根城(現在の静岡県下田市堀之内)での切腹迄を一元化した記録である。

西暦1,491年5月11日、足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。8月6日、茶々丸は、政知の側室円満院と足利潤童子を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。

西暦1,493年7月頃、足利義澄が、円満院と足利潤童子の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。北条は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るい、足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴み、内部工作を行なった。10月頃、北条は、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。11月19日頃、北条早雲率いる軍は、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。茶々丸は、上杉顕定や上杉を支持する伊豆国人等と共に応戦した。北条は戦いを優位に進め、茶々丸は堀越御所を捨て、守山(現在の静岡県伊豆の国市中條付近)方面に逃亡した。北条は、韮山城(現在の静岡県伊豆の国市韮山)を居城に定めた。

同じ西暦1,493年の4月頃、伊勢貞陸が第31代室町幕府山城国守護に就任する。7月頃には、越智家栄が、細川政元方に味方した功により伊賀守に任じられた。10月17日、伊勢貞陸によって、古市澄胤が綴喜郡・相楽郡の守護代に任じられる。此れによって古市は、山城国を攻撃する大義名分を得た。10月21日、古市は山城国への侵攻を開始する。越智氏と古市氏の不和により、古市氏の単独侵攻となった。10月27日、古市は、惣国の解体と守護による統治に反対する山城国人衆の籠城する稲八妻城(現在の京都府相楽郡精華町北稲八間城山付近)を陥落させた。

西暦1,494年、越智家栄が修理大夫に任じられる。11月頃、細川義春が、山城国人衆を味方に付け、伊勢貞陸を山城国守護職から追い落とそうとする。細川政元は此れを認めなかったが、古市氏による南山城支配が揺らぎ始めた。12月25日、細川政元に山城国守護職就任を阻まれ怒った細川義春が、阿波国に向けて京都を出発する。西暦1,495年1月17日、細川義春は病死した。12月頃、畠山義豊の家臣である遊佐弥六が、山城国守護を名乗り南山城に進駐する。第20世大乗院門主尋尊は、此の遊佐の行動を、古市氏を援護する為ではないかと推測した。西暦1,496年9月、細川政元が、赤沢朝経を南山城へ派遣し、畠山氏・古市氏に対して圧力を掛けた。11月頃、畠山氏・古市氏は南山城から撤退する。

西暦1,497年8月頃、畠山義豊の家臣団である遊佐家・誉田家に内紛が発生する。畠山尚順は此れに乗じ、河内国に進軍し、筒井党の成身院順盛・筒井順賢も尚順に呼応して、大和国に帰還した後に挙兵した。此れに十市遠治も加わった。10月頃、尚順は、遊佐家・誉田家が対立しているのを好機と捉え、河内国奪回の為挙兵する。此れを受けて細川政元は、赤沢朝経を南山城に派遣し、古市澄胤に代わる守護代とした。11月頃、筒井党・古市家・越智家は、各地で合戦に及んでいた。今市(現在の奈良県奈良市)の越智氏代官や堤家は敗走し、越智党の主要国人達である小泉家・竜田家も自焼没落した。此れにより筒井家は、西暦1,477年に畠山義就によって奪われた大和国の本領を奪還した。

西暦1,497年11月1日、十市遠治が越智郷(現在の奈良県高市郡高取町)を攻撃し、周囲を焼き払った。11月2日、畠山尚順が高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を落城させ、河内国の大半を奪回する。此れを受けて畠山義豊は山城国へ逃亡し、足利義澄は、湯河家・玉置家・山本家の奉公衆に対して、尚順を攻撃する様御内書を発した。然し湯河氏は、畠山方であった為御内書を無視した。同じ11月2日、成身院順盛が越智郷に侵攻する。越智家栄は、自身が関所を持つ壺阪峠(現在の奈良県高市郡高取町)近くの壷阪寺(現在の奈良県高市郡高取町壷阪)に、嫡男越智家令と共に逃れ、約700名と共に立て籠もって対抗した。越智郷は戦火に包まれた。11月10日、越智家栄率いる軍の食糧が尽きる。其れでも越智は応戦した。此の時点で、離脱者が出た事により、越智家を含む約300名に数を減らしていた。其の内約200名は女性・子供であった。11月13日、十市遠治が壷阪寺を攻撃するが、越智家栄・家令は此れに応戦し、退けた。十市は、成身院順盛・畠山尚順に援軍を要請した。壷阪寺は、三重塔を除く、堂塔の大半が焼失した。

西暦1,497年11月17日、畠山尚順率いる軍が、十市遠治率いる軍に合流する。畠山は、万歳平城(現在の奈良県大和高田市市場付近)に布陣した。此れを受けて家栄・家令は吉野に逃亡した。万歳氏の所領を奪取した畠山は、其れを自身の馬廻衆に恩賞として与えた。大和国の荘園が他国の衆に与えられたのは此れが初めてで、興福寺は大変な衝撃を受けた。西暦1,498年3月頃、興福寺の学侶・六方衆の集会が開かれ、畠山尚順が自身の馬廻衆に万歳氏から奪った所領を与えた件に就いて議題に挙がる。尋尊は「神国大和に武家の家臣が領地を持つなど前代未聞だ」と怒りを込めて記した。

西暦1,498年9月11日、南海トラフを震源とする明応地震が発生する。被害は会津から京都まで広範囲に及び、推定マグニチュードは8.2~8.4であった。特に東海道一帯で甚大な被害を出し、5,000名以上が死亡した。大半は津波による犠牲者であった。北条早雲は救済の為、駿河国清水から西伊豆へ向かった。9月頃、北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城にて切腹した。足利茶々丸の廃嫡から、稲八妻城の陥落、堀越御所の夜襲、高屋城の落城、壷阪寺の攻防、興福寺の集会と尋尊の怒り、明応地震を経て、深根城での切腹に至る迄——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 北条早雲 西暦1,493年7月頃、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲は、足利義澄から茶々丸征伐を命じられる。下調べを行って堀越御所の内情を掴み、内部工作を行なった。10月頃、自身の居城である興国寺城にて作戦を練り、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、500名の軍勢で出陣する。11月19日頃、堀越御所を夜襲し、戦いを優位に進める。北条は、韮山城を居城に定めた。1,498年9月11日に明応地震が発生する。北条は救済の為、駿河国清水から西伊豆へ向かった。9月頃、下田を攻撃する。
  • 尋尊 第20世大乗院門主。西暦1,495年12月頃に南山城に進駐した遊佐弥六の行動を、古市氏を援護する為ではないかと推測した。1,498年3月頃、興福寺の学侶・六方衆の集会が開かれ、畠山尚順が自身の馬廻衆に万歳氏から奪った所領を与えた件に就いて議題に挙がる。尋尊は「神国大和に武家の家臣が領地を持つなど前代未聞だ」と怒りを込めて記した。
  • 足利茶々丸 足利政知の嫡男で、正室の子。西暦1,487年頃、素行不良を理由に廃嫡され、土牢に幽閉された。1,491年5月11日に政知が病死すると、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出する。8月6日、円満院と足利潤童子を殺害する。武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。1,493年11月19日頃、北条早雲率いる軍の夜襲を受け、上杉顕定や上杉を支持する伊豆国人等と共に応戦したが、堀越御所を捨て、守山方面に逃亡した。1,498年9月頃、北条早雲が下田を攻撃する。茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城にて切腹した。
  • 足利政知 初代堀越公方。西暦1,487年頃、自身の嫡男足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに自身の参男足利潤童子を後嗣とした。1,491年5月11日に病死した。
  • 足利潤童子 足利政知の参男で、円満院の子。西暦1,487年頃、足利茶々丸に代わって政知の後嗣とされた。1,491年8月6日、円満院と共に茶々丸に殺害された。北条早雲は、潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付けて出陣している。
  • 円満院 足利政知の側室で、足利義澄と足利潤童子の母。西暦1,491年8月6日、潤童子と共に足利茶々丸に殺害された。1,493年7月頃、足利義澄は、円満院と潤童子の敵討ちとして、北条早雲に茶々丸征伐を命じている。
  • 足利義澄 足利政知の弐男で、円満院の子。西暦1,493年7月頃、円満院と足利潤童子の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じた。1,497年11月2日の畠山尚順による高屋城の落城を受けて、湯河家・玉置家・山本家の奉公衆に対して、尚順を攻撃する様御内書を発したが、湯河氏は畠山方であった為、御内書を無視した。
  • 今川氏親 西暦1,493年10月頃、足利茶々丸征伐の為に出陣する北条早雲に、葛山氏・上杉定正と共に援軍を送った。
  • 上杉定正 西暦1,493年10月頃、足利茶々丸征伐の為に出陣する北条早雲に、今川氏親・葛山氏と共に援軍を送った。
  • 上杉顕定 西暦1,493年11月19日頃、北条早雲率いる軍が堀越御所を夜襲した際、足利茶々丸や上杉を支持する伊豆国人等と共に応戦した。
  • 畠山尚順 西暦1,497年8月頃、畠山義豊の家臣団である遊佐家・誉田家に内紛が発生する。尚順は此れに乗じ、河内国に進軍した。10月頃、遊佐家・誉田家が対立しているのを好機と捉え、河内国奪回の為挙兵する。11月2日、高屋城を落城させ、河内国の大半を奪回した。11月17日、十市遠治率いる軍に合流する。尚順は、万歳平城に布陣した。万歳氏の所領を奪取した尚順は、其れを自身の馬廻衆に恩賞として与えた。大和国の荘園が他国の衆に与えられたのは此れが初めてで、興福寺は大変な衝撃を受けた。
  • 畠山義豊 西暦1,495年12月頃、家臣の遊佐弥六が、山城国守護を名乗り南山城に進駐する。1,497年8月頃には、家臣団である遊佐家・誉田家に内紛が発生した。1,497年11月2日の畠山尚順による高屋城の落城を受けて、山城国へ逃亡した。
  • 細川政元 西暦1,493年7月頃、越智家栄が、細川政元方に味方した功により伊賀守に任じられる。1,494年11月頃、細川義春が伊勢貞陸を山城国守護職から追い落とそうとすると、此れを認めなかった。1,496年9月、赤沢朝経を南山城へ派遣し、畠山氏・古市氏に対して圧力を掛けた。1,497年10月頃に畠山尚順が河内国奪回の為挙兵すると、此れを受けて、赤沢を南山城に派遣し、古市澄胤に代わる守護代とした。
  • 細川義春 西暦1,494年11月頃、山城国人衆を味方に付け、伊勢貞陸を山城国守護職から追い落とそうとするが、細川政元は此れを認めなかった。12月25日、細川政元に山城国守護職就任を阻まれ怒った義春は、阿波国に向けて京都を出発する。1,495年1月17日に病死した。
  • 伊勢貞陸 西暦1,493年4月頃、第31代室町幕府山城国守護に就任する。10月17日、古市澄胤を綴喜郡・相楽郡の守護代に任じた。1,494年11月頃には、細川義春が、山城国人衆を味方に付け、貞陸を山城国守護職から追い落とそうとするが、細川政元は此れを認めなかった。
  • 古市澄胤 西暦1,493年10月17日、伊勢貞陸によって綴喜郡・相楽郡の守護代に任じられ、山城国を攻撃する大義名分を得た。10月21日、山城国への侵攻を開始する。越智氏と古市氏の不和により、古市氏の単独侵攻となった。10月27日、惣国の解体と守護による統治に反対する山城国人衆の籠城する稲八妻城を陥落させる。1,497年10月頃の畠山尚順の挙兵を受けて、細川政元は、赤沢朝経を古市澄胤に代わる守護代とした。
  • 赤沢朝経 西暦1,496年9月、細川政元によって南山城へ派遣され、畠山氏・古市氏に対して圧力が掛けられた。1,497年10月頃の畠山尚順の挙兵を受けて、細川政元によって再び南山城に派遣され、古市澄胤に代わる守護代とされた。
  • 越智家栄 西暦1,493年7月頃、細川政元方に味方した功により伊賀守に任じられる。1,494年、修理大夫に任じられた。1,497年11月2日、成身院順盛が越智郷に侵攻する。家栄は、自身が関所を持つ壺阪峠近くの壷阪寺に、嫡男越智家令と共に逃れ、約700名と共に立て籠もって対抗した。11月10日、家栄率いる軍の食糧が尽きたが、其れでも越智は応戦した。11月13日、十市遠治の攻撃に家令と共に応戦し、退けた。11月17日、畠山尚順率いる軍が十市遠治率いる軍に合流する。畠山は、万歳平城に布陣した。此れを受けて家栄・家令は吉野に逃亡した。
  • 成身院順盛 筒井党の一人。畠山尚順に呼応して、筒井順賢と共に大和国に帰還した後に挙兵した。西暦1,497年11月2日、越智郷に侵攻する。11月13日に壷阪寺を攻撃した十市遠治から、畠山尚順と共に援軍を要請された。
  • 十市遠治 畠山尚順に呼応した成身院順盛・筒井順賢の挙兵に加わった。西暦1,497年11月1日、越智郷を攻撃し、周囲を焼き払った。11月13日には壷阪寺を攻撃するが、越智家栄・家令は此れに応戦し、退けた。十市は、成身院順盛・畠山尚順に援軍を要請した。11月17日、畠山尚順率いる軍が、十市遠治率いる軍に合流した。

本書が記録する出来事

  • 足利茶々丸の廃嫡(1,487年頃) 初代堀越公方足利政知が、嫡男足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに参男足利潤童子を後嗣とした。
  • 足利政知の病死(1,491年5月11日) 足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。
  • 円満院・足利潤童子の殺害(1,491年8月6日) 足利茶々丸が、足利政知の側室円満院と足利潤童子を殺害する。茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。
  • 伊勢貞陸の山城国守護就任(1,493年4月頃) 伊勢貞陸が、第31代室町幕府山城国守護に就任する。
  • 茶々丸征伐の命令(1,493年7月頃) 足利義澄が、円満院・足利潤童子の敵討ちとして、足利茶々丸の近くに城を持つ北条早雲に対し、茶々丸征伐を命じる。北条は下調べを行い、茶々丸が横暴を振るい、足利政知の時からの堀越公方の重臣達と上手くいっておらず、領民が疲弊している事や、堀越御所(現在の静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内)の内情を掴み、内部工作を行なった。
  • 北条早雲の出陣(1,493年10月頃) 北条早雲が、自身の居城である興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)にて足利茶々丸征伐の作戦を練る。そして、今川氏親・葛山氏・上杉定正からの援軍を得て、足利潤童子を支持していた伊豆国人を味方に付け、500名の軍勢で出陣した。
  • 古市澄胤の山城国侵攻(1,493年10月) 10月17日、伊勢貞陸によって、古市澄胤が綴喜郡・相楽郡の守護代に任じられ、山城国を攻撃する大義名分を得た。10月21日、古市は山城国への侵攻を開始する。越智氏と古市氏の不和により、古市氏の単独侵攻となった。10月27日、古市は、惣国の解体と守護による統治に反対する山城国人衆の籠城する稲八妻城(現在の京都府相楽郡精華町北稲八間城山付近)を陥落させた。
  • 堀越御所の夜襲(1,493年11月19日頃) 北条早雲率いる軍が、伊豆国の兵が手薄になるタイミングを計って堀越御所を夜襲する。足利茶々丸は、上杉顕定や上杉を支持する伊豆国人等と共に応戦した。北条は戦いを優位に進め、茶々丸は堀越御所を捨て、守山(現在の静岡県伊豆の国市中條付近)方面に逃亡した。北条は、韮山城(現在の静岡県伊豆の国市韮山)を居城に定めた。
  • 細川義春と山城国守護職(1,494年11月頃) 細川義春が、山城国人衆を味方に付け、伊勢貞陸を山城国守護職から追い落とそうとする。細川政元は此れを認めなかったが、古市氏による南山城支配が揺らぎ始めた。
  • 遊佐弥六の南山城進駐(1,495年12月頃) 畠山義豊の家臣である遊佐弥六が、山城国守護を名乗り南山城に進駐する。第20世大乗院門主尋尊は、此の遊佐の行動を、古市氏を援護する為ではないかと推測した。
  • 赤沢朝経の南山城派遣(1,496年9月) 細川政元が、赤沢朝経を南山城へ派遣し、畠山氏・古市氏に対して圧力を掛けた。
  • 畠山氏・古市氏の南山城撤退(1,496年11月頃) 畠山氏・古市氏が、南山城から撤退する。
  • 遊佐家・誉田家の内紛(1,497年8月頃) 畠山義豊の家臣団である遊佐家・誉田家に内紛が発生する。畠山尚順は此れに乗じ、河内国に進軍し、筒井党の成身院順盛・筒井順賢も尚順に呼応して、大和国に帰還した後に挙兵した。此れに十市遠治も加わった。
  • 畠山尚順の挙兵(1,497年10月頃) 畠山尚順が、河内国奪回の為挙兵する。畠山は、遊佐家・誉田家が対立しているのを好機と捉え挙兵に踏み切った。此れを受けて細川政元は、赤沢朝経を南山城に派遣し、古市澄胤に代わる守護代とした。
  • 各地の合戦と筒井家の本領奪還(1,497年11月頃) 筒井党・古市家・越智家が、各地で合戦に及んでいた。今市(現在の奈良県奈良市)の越智氏代官や堤家は敗走し、越智党の主要国人達である小泉家・竜田家も自焼没落した。此れにより筒井家は、西暦1,477年に畠山義就によって奪われた大和国の本領を奪還した。
  • 越智郷と壷阪寺の攻防(1,497年11月) 11月1日、十市遠治が越智郷(現在の奈良県高市郡高取町)を攻撃し、周囲を焼き払った。11月2日、成身院順盛が越智郷に侵攻する。越智家栄は、自身が関所を持つ壺阪峠(現在の奈良県高市郡高取町)近くの壷阪寺(現在の奈良県高市郡高取町壷阪)に、嫡男越智家令と共に逃れ、約700名と共に立て籠もって対抗した。越智郷は戦火に包まれた。11月10日、越智家栄率いる軍の食糧が尽きるが、其れでも越智は応戦した。此の時点で、離脱者が出た事により、越智家を含む約300名に数を減らしていた。其の内約200名は女性・子供であった。11月13日、十市遠治が壷阪寺を攻撃するが、越智家栄・家令は此れに応戦し、退けた。十市は、成身院順盛・畠山尚順に援軍を要請した。壷阪寺は、三重塔を除く、堂塔の大半が焼失した。
  • 高屋城の落城(1,497年11月2日) 畠山尚順が、高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を落城させる。此れにより尚順は、河内国の大半を奪回した。此れを受けて畠山義豊は山城国へ逃亡し、足利義澄は、湯河家・玉置家・山本家の奉公衆に対して、尚順を攻撃する様御内書を発した。然し湯河氏は、畠山方であった為御内書を無視した。
  • 畠山尚順の合流(1,497年11月17日) 畠山尚順率いる軍が、十市遠治率いる軍に合流する。畠山は、万歳平城(現在の奈良県大和高田市市場付近)に布陣した。此れを受けて家栄・家令は吉野に逃亡した。万歳氏の所領を奪取した畠山は、其れを自身の馬廻衆に恩賞として与えた。大和国の荘園が他国の衆に与えられたのは此れが初めてで、興福寺は大変な衝撃を受けた。
  • 興福寺の学侶・六方衆の集会(1,498年3月頃) 興福寺の学侶・六方衆の集会が開かれ、畠山尚順が自身の馬廻衆に万歳氏から奪った所領を与えた件に就いて議題に挙がる。尋尊は「神国大和に武家の家臣が領地を持つなど前代未聞だ」と怒りを込めて記した。
  • 明応地震(1,498年9月11日) 南海トラフを震源とする明応地震が発生する。被害は会津から京都まで広範囲に及び、推定マグニチュードは8.2~8.4であった。特に東海道一帯で甚大な被害を出し、5,000名以上が死亡した。大半は津波による犠牲者であった。北条早雲は救済の為、駿河国清水から西伊豆へ向かった。
  • 北条早雲の下田攻撃(1,498年9月頃) 北条早雲が下田を攻撃する。足利茶々丸は、身柄を武田方から北条方に引き渡された上で、深根城(現在の静岡県下田市堀之内)にて切腹した。本書の年表の最後の項目である。

万歳氏の所領が、馬廻衆に与えられた──
神国大和の荘園と尋尊の怒りを一元化。

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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