電子書籍「南朝の末裔を天皇として擁立した山名宗全一元化」の表紙

南朝の末裔を天皇として
擁立した山名宗全一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,469年12月24日〜1,514年
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,026年1月3日

吉野・熊野の蜂起・北野天満宮松梅院の入御・安山院の行在所・山名宗全死後の追放・甲斐から奥州・伊豆国漂着・尾張国一宮の最期──
南朝最後の擁立とその45年に亙る漂泊を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1469年12月24日、南朝皇胤の末裔を称する兄弟が吉野(西陣南帝)と熊野(其の弟)の2ヶ所で蜂起した日から、西暦1514年、西陣南帝が尾張国一宮にて死去した日まで。本書は、応仁の乱において後土御門天皇・後花園上皇・足利義政を擁する東軍の権威に対抗するため、西軍の総大将山名宗全が、小倉宮の血を引く南朝皇胤「西陣南帝」を新天皇として擁立しようとした一連の政治劇と、其の擁立が山名の死と共に瓦解した後、天皇候補だった一人の南朝の血筋が、甲斐国・越後国・越中国・越前国・奥州・伊豆国・相模国を彷徨い、最終的に尾張国一宮で客死するまでの、約45年間に亙る漂泊の物語を、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。応仁の乱本戦の影で進行した、南北朝の最後の残響そのものを浮き彫りにします。

西暦1469年12月24日の南朝皇胤の末裔を称する兄弟による吉野・熊野での蜂起に始まり、西暦1470年4月1日の小倉宮の血を引く西陣南帝による紀伊国有田郡挙兵、同年4月9日の紀伊国海草郡藤白入りと郡民の大半の味方、同年4月30日の大和国入りを経て、同年6月10日に山名宗全を始めとする西軍諸将が西陣南帝を天皇に擁立し京都御所に迎え入れようとしているとの風聞が立ち始めます。山名は後土御門天皇・後花園上皇・足利義政を味方に付けている東軍の権威に対抗するため天皇擁立を画策していましたが、後南朝と所領が重なっていた畠山義就が反対。同年7月23日、足利義視を始めとする西軍諸将の説得により畠山義就が了承し、西暦1471年9月10日、西軍諸将の要請を受けた西陣南帝が北野天満宮松梅院に入り、天皇として擁立されました。山名宗全は自身の妹のいる西陣近くの比丘尼寺安山院を行在所とし西陣南帝を迎え、四条氏が奉仕。京都に二人の天皇が並び立った瞬間です。

然し西暦1472年、西陣南帝の天皇擁立に賛成していた足利義視が、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から反対に転じ、政治情勢が逆転していきます。西暦1473年4月15日、擁立の本人である山名宗全が病死すると、西陣南帝は西軍諸将によって追放されました。応仁の乱終結後の西暦1478年12月8日、西陣南帝は京都から東海を経由して甲斐国小石沢の観音寺に入り、西暦1479年8月6日に国人等に送られて越後国から越中国を経由し越前国北ノ庄に入った後、奥州へ下向して自身を「熊沢現覚坊」と称し身分を秘匿。約20年後の西暦1499年12月、西陣南帝が伊豆国三島に流れ着くと、同地に勢力を伸ばしつつあった北条早雲が西陣南帝を諌めて相模国に向かわせ、最終的に西暦1514年、尾張国一宮にて死去するまでに到る漂泊の45年。山名宗全の擁立画策に始まり、彼の死で支柱を失った南朝最後の天皇候補が、東国を彷徨いながら身分を熊沢現覚坊と偽って生き延び、北条早雲という戦国の風雲児に見送られ、尾張国の片隅で息を引き取るまで。応仁の乱が生んだ最も奇妙な皇位継承劇の全容を一冊に束ねた書です。


主要登場人物

  • 西陣南帝 小倉宮の血を引く南朝皇胤。1469年12月24日に弟と共に吉野で蜂起、1470年4月1日に紀伊国有田郡で挙兵し藤白入り・大和国入り。1471年9月10日に北野天満宮松梅院に入り、安山院を行在所として天皇擁立された。1473年4月15日の山名宗全死去で追放され、甲斐国・越前国・奥州・伊豆国・相模国を漂泊し、奥州では「熊沢現覚坊」と称し身分を秘匿。1514年に尾張国一宮で死去した、本書の主人公。
  • 山名宗全 西軍総大将。後土御門天皇・後花園上皇・足利義政を擁する東軍の権威に対抗するため、1470年6月10日の風聞段階から西陣南帝の天皇擁立を画策。1471年9月10日に自身の妹の居る西陣近くの安山院を行在所として西陣南帝を迎えた。1473年4月15日に病死し、其の死と共に西陣南帝の擁立は崩壊した、本書のもう一人の主人公。
  • 西陣南帝の弟 1469年12月24日に兄西陣南帝と同時に熊野にて蜂起した、もう一人の南朝皇胤の末裔を称する人物。後南朝の二箇所同時挙兵を成立させた。
  • 後土御門天皇 第103代天皇。山名宗全の西陣南帝擁立画策における対抗の対象。東軍が擁する正統権威の象徴で、京都御所に在位し続けた。
  • 後花園上皇 後土御門天皇の父。東軍の権威を支える上皇として、山名宗全の西陣南帝擁立画策の対抗の対象となった。
  • 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。後土御門天皇・後花園上皇と共に東軍の三本柱を成し、山名宗全はこの構図に対抗するため西陣南帝擁立を画策した。
  • 足利義視 足利義政の弟。1470年7月23日に畠山義就を説得して西陣南帝の天皇擁立を了承させたが、1472年には朝倉孝景の寝返りによる東軍盛り返しを受けて反対に転向。西陣南帝の運命を二度動かした人物。
  • 畠山義就 西軍の主力。後南朝と所領が重なっていた事から1470年6月の段階で西陣南帝の天皇擁立に反対するも、同年7月23日に足利義視等西軍諸将の説得により了承した、擁立の最大の障害から協力者へと転じた人物。
  • 山名政豊 山名宗全の家督継承者。1473年4月15日の宗全病死を受けて西軍を継承するも、宗全の死を機に他の西軍諸将と共に西陣南帝を追放した。
  • 朝倉孝景 西軍から東軍への寝返りで応仁の乱の流れを変えた将。1472年の彼の寝返りによる東軍盛り返しが、足利義視を西陣南帝擁立反対へ転向させる契機となり、間接的に西陣南帝の運命を狭めた。
  • 四条氏 公家。1471年9月10日の西陣南帝の安山院行在所での天皇擁立に際し奉仕した、西陣南帝の宮廷を実質的に成立させた家。
  • 北条早雲 戦国の風雲児。1499年12月、伊豆国三島に流れ着いた西陣南帝を諌めて相模国に向かわせた、漂泊の南朝皇胤を見送った最も有名な人物。応仁の乱の遺物と戦国の幕開けが交差した瞬間を象徴する。

吉野・熊野の蜂起・北野天満宮松梅院の入御・安山院の行在所・山名宗全死後の追放・甲斐から奥州・伊豆国漂着・尾張国一宮の最期──
南朝最後の擁立とその45年に亙る漂泊を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。