電子書籍「長享の乱一元化」の表紙

長享の乱一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,486年8月25日〜1,505年4月頃
ページ数
7ページ
文字数
3,428字
最新更新日
西暦2,026年10月3日

入浴後の無防備な所を、太田道灌は襲われた──
両上杉家が争った長享の乱を一元化。

169円(税込)

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本書について

西暦1,486年8月25日、上杉定正は太田道灌を、扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)に招いた。定正は、太田の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて招くに至ったのである。定正の配下曽我兵庫は、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な太田を襲い、太田は「当方滅亡」と言って絶命した。又、第11代山内上杉家当主上杉顕定は、定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。太田の方も、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは自分のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。本書は、此の太田道灌の暗殺から、西暦1,505年4月頃の川越城の包囲を経て、上杉朝興が第13代扇谷上杉家当主に就任する迄を一元化した記録である。

西暦1,486年9月頃、太田道灌の嫡男太田資康が江戸城に帰還し、家督を継承した。しかし西暦1,487年1月頃、上杉定正は資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、資康は山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。西暦1,488年3月頃、顕定は太田資康・三浦高救と共に、1,000騎で鉢形城(現在の埼玉県大里郡寄居町鉢形)から出陣する。第9代室町幕府越後国守護上杉房定は、嫡男で白井城(現在の群馬県渋川市白井)主の上杉定昌を通じて、顕定を支援していた。3月18日、顕定の軍は七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃する。七沢城を守備していた定正の弟上杉朝昌は応戦するも落城し、大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走した。顕定は糟屋館へと向かった。

同じ3月18日、上杉顕定率いる軍は、200騎余で川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から駆け付けた上杉定正率いる軍と、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)で交戦した。実蒔原の地形を熟知していた定正の軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定の軍を破る。5月5日、上杉定昌が従者と共に自害した。7月頃には、上杉顕定と顕定の養子上杉憲房が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。此れを受けて定正は、第2代古河公方足利政氏・長尾景春・上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良と共に、700騎余を率いて須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣した。16日、山内上杉方は、扇谷上杉方の防衛拠点の1つである武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町北吉見)を攻撃する。又、須賀谷原でも小規模な戦いが発生した。

26日の朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍は須賀谷原で交戦した。扇谷上杉軍は上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺(現在の埼玉県比企郡嵐山町平澤)に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられて崩される。しかし、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾の部隊は山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利する。此の戦での戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲になった。

12月17日、上杉定正は足利政氏・長尾景春に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍した。此れを知った山内上杉軍は、上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原に3,000名余で布陣する。夕方、高見原で山内上杉軍と扇谷上杉軍が交戦した。此れを不安に思った長尾が定正に相談すると、定正は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示する。夜、長尾は定正の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。山内上杉軍は鉢形城に敗走したが、其の後も後方の支援を受けて、鉢形城を保持し続ける。軈て、三度山内上杉軍を破った定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を定正に送る程であった。

西暦1,494年9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去した。此の頃上杉定正は、北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。10月22日には、扇谷上杉家方の三崎城(現在の神奈川県三浦市城山町)主三浦時高が死去する。其の後相模三浦家は家督争いの混乱に陥り、最終的に三浦義同が第11代相模三浦家当主に就任する事になる。27日、北条早雲は上杉定正の援軍として、上杉顕定の本拠である鉢形城の攻撃を意図し、武蔵国高見原に出陣する。30日頃、定正と北条は、上杉顕定と荒川を挟んで高見原で対陣した。11月2日、定正は荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。定正には嫡子が居らず、定正の後継として、定正の生前に養子となっていた定正の弟上杉朝昌の息子上杉朝良が家督を継いだ。

西暦1,504年9月29日、上杉顕定が上戸(現在の埼玉県川越市)に着陣した。其の後、顕定は川越城を攻撃したが、落とせなかった。此の頃、山内上杉軍は白井城・鉢形城・上戸の出城に拠点を持ち、扇谷上杉軍に対抗していた。10月頃、顕定は目標を江戸城に変え、仙波(現在の埼玉県川越市小仙波町周辺)から進軍して、白子(現在の埼玉県和光市)に布陣する。此れを受けて上杉朝良は、韮山城に居た北条早雲と、今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園)に居た今川氏親に救援を求めた。10月22日、朝良に呼応した北条早雲が稲毛(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸・宿河原・生田・菅稲田堤・枡形周辺)に到着し、其の後、枡形山(現在の神奈川県川崎市多摩区枡形)に布陣する。元々扇谷上杉家は、江戸城の他にも初沢城(現在の東京都八王子市初沢町)に拠点を持っていたが、其れ等の中間地点である枡形山に北条が進出し、川越城を含めて、山内上杉軍が包囲される形となった。其の為顕定は江戸城攻撃を中止し、扇谷上杉軍の手薄な多摩川上流から相模国に進出しようとして、立河原(現在の東京都立川市柴崎町)に布陣した。

10月27日から4日間、今川氏親率いる軍が、続々と枡形山に到着する。11月2日、上杉朝良・北条早雲・今川氏親率いる軍は枡形山を出発し、3日の12時頃、立河原に到着した。其の後、山内上杉軍と交戦し、広い範囲での激しい戦闘となる。山内上杉軍は2,000騎余を失い、夕方には敗北が決定的となった。夜、上杉顕定は鉢形城に敗走する。12月頃、北条早雲と今川氏親は帰還の為鎌倉に向かい、其の後、熱海で静養し、韮山城で法要を行った。そして今川は北条と別れ、今川館へと帰還した。12月頃には又、第10代室町幕府越後国守護上杉房能が、兄である上杉顕定の敗戦を聞き、越後国守護代長尾能景率いる援軍を鉢形城に差し向ける。其の後長尾は、顕定と合流した。同じく12月頃、上杉顕定率いる山内上杉軍は、北条早雲・今川氏親の帰還によって守備が手薄となった川越城を攻撃し、扇谷上杉軍を追い払って、立河原付近を押さえた。

西暦1,505年1月頃、上杉顕定と長尾能景率いる軍は初沢城を落城させる。1月31日には、両名率いる軍が真田城(現在の神奈川県平塚市真田)を落城させた。此れは、小田原城-川越城の北条家と扇谷上杉家の同盟ラインを崩すのを狙ってのものであり、目的を達成した。4月頃、顕定率いる軍は川越城を包囲する。上杉朝良は降伏し、川越城は開城した。顕定は、朝良を出家させて菅谷館(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)に幽閉し、家督を上杉朝興に譲らせて扇谷上杉家当主とする事を、扇谷上杉家の家臣達に強要した。此れにより朝興は、第13代扇谷上杉家当主に就任した——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 上杉定正 西暦1,486年8月25日、太田道灌の功績を妬み、謀反の疑いを掛けて糟屋館に招いた。翌1,487年1月頃には太田資康を江戸城から追放して、城を占拠する。実蒔原・須賀谷原・高見原で山内上杉軍を破るが、驕り始め、離反する武将が出始めた。1,494年11月2日、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去した。嫡子は居なかった。
  • 太田道灌 西暦1,486年8月25日、上杉定正に糟屋館へ招かれた。入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を曽我兵庫に襲われ、「当方滅亡」と言って絶命した。自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは自分のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる始末であった。
  • 曽我兵庫 上杉定正の配下。西暦1,486年8月25日、糟屋館に招かれた太田道灌が、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。
  • 上杉顕定 第11代山内上杉家当主。上杉定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた。西暦1,488年3月頃、太田資康・三浦高救と共に鉢形城から出陣し、18日には実蒔原で上杉定正率いる軍に敗れた。1,504年、立河原で上杉朝良・北条早雲・今川氏親の軍に敗れて鉢形城に敗走したが、其の後、長尾能景と合流する。1,505年4月頃、川越城を包囲した。降伏した上杉朝良を出家させて菅谷館に幽閉し、家督を上杉朝興に譲らせる事を扇谷上杉家の家臣達に強要した。
  • 太田資康 太田道灌の嫡男。西暦1,486年9月頃、江戸城に帰還して家督を継承したが、1,487年1月頃、上杉定正に江戸城から追放される。山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。1,488年3月頃、顕定と共に鉢形城から出陣した。
  • 三浦高救 西暦1,488年3月頃、上杉顕定・太田資康と共に、1,000騎で鉢形城から出陣した。
  • 上杉房定 第9代室町幕府越後国守護。嫡男で白井城主の上杉定昌を通じて、上杉顕定を支援していた。西暦1,488年12月、上杉定正の進軍を知った山内上杉軍から、援軍を求められた。
  • 上杉定昌 上杉房定の嫡男で、白井城(現在の群馬県渋川市白井)主。房定は定昌を通じて上杉顕定を支援していた。西暦1,488年5月5日、従者と共に自害した。
  • 上杉朝昌 上杉定正の弟。弐男の上杉朝良は定正の養子である。西暦1,488年3月18日、上杉顕定の軍が七沢城を攻撃する。守備していた朝昌は応戦するも落城し、大庭城へ敗走した。
  • 上杉朝良 上杉朝昌の弐男で、上杉定正の養子。西暦1,488年7月26日の須賀谷原での戦いで、扇谷上杉軍の先陣を切った。1,494年、定正の後継として家督を継ぐ。1,504年10月頃、北条早雲と今川氏親に救援を求めた。1,505年4月頃、上杉顕定の軍に川越城を包囲される。朝良は降伏し、出家させられて菅谷館に幽閉された。
  • 上杉憲房 上杉顕定の養子。西暦1,488年7月頃、顕定と共に、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣した。
  • 足利政氏 第2代古河公方。西暦1,488年7月頃、上杉定正と共に須賀谷原付近に布陣した。同年12月17日には、定正から援軍を求められた。
  • 長尾景春 西暦1,488年7月頃、上杉定正と共に須賀谷原付近に布陣した。26日の須賀谷原での戦いでは、率いる部隊が横槍を入れて山内上杉軍を浮き足立たせ、更に藤田三郎勢を破った。12月17日に定正から援軍を求められ、高見原での戦いでは、定正の指示通りに夜に攻撃して山内上杉軍を撃破した。
  • 藤田三郎 山内上杉軍の人物。西暦1,488年7月26日の須賀谷原での戦いで、其の勢が長尾景春率いる部隊に破られた。
  • 大森氏頼 小田原城主で、扇谷上杉家方の人物。西暦1,494年9月15日に死去した。
  • 三浦時高 扇谷上杉家方の三崎城(現在の神奈川県三浦市城山町)主。西暦1,494年10月22日に死去し、其の後、相模三浦家は家督争いの混乱に陥った。
  • 三浦義同 三浦時高の死後、家督争いの混乱を経て、最終的に第11代相模三浦家当主に就任した。
  • 北条早雲 西暦1,494年9月15日に大森氏頼が死去した頃、其の軍は上杉定正によって相模国・武蔵国へ招き入れられていた。同年10月27日、定正の援軍として鉢形城の攻撃を意図し、高見原に出陣する。30日頃には定正と共に上杉顕定と荒川を挟んで対陣したが、11月2日に定正が落馬して死去した後、退却した。1,504年10月22日、上杉朝良に呼応して稲毛に到着し、其の後、枡形山に布陣する。立河原で山内上杉軍を破った後、今川氏親と共に鎌倉に向かい、熱海で静養して、韮山城で法要を行った。
  • 今川氏親 今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園)に居た。西暦1,504年10月頃、上杉朝良から救援を求められ、27日から4日間、率いる軍が続々と枡形山に到着した。11月2日、上杉朝良・北条早雲と共に枡形山を出発する。12月頃、北条と共に帰還の為鎌倉に向かう。其の後、熱海で静養し、韮山城で法要を行った。そして北条と別れ、今川館へと帰還した。
  • 上杉房能 第10代室町幕府越後国守護で、上杉顕定の弟。西暦1,504年12月頃、兄顕定の敗戦を聞き、越後国守護代長尾能景率いる援軍を鉢形城に差し向けた。
  • 長尾能景 越後国守護代。西暦1,504年12月頃、上杉房能に、援軍を率いて鉢形城に差し向けられる。其の後、上杉顕定と合流した。1,505年1月頃に初沢城を、1月31日に真田城を、顕定と共に落城させた。
  • 上杉朝興 上杉顕定が、上杉朝良に家督を譲らせて朝興を扇谷上杉家当主とする事を、扇谷上杉家の家臣達に強要した結果、西暦1,505年4月頃、第13代扇谷上杉家当主に就任した。

本書が記録する出来事

  • 太田道灌の暗殺(1,486年8月25日) 上杉定正が太田道灌を糟屋館に招く。定正の配下曽我兵庫が、入浴後の無防備な所を襲い、太田は「当方滅亡」と言って絶命した。
  • 太田資康の家督継承(1,486年9月頃) 太田道灌の嫡男太田資康が、江戸城に帰還して家督を継承する。
  • 太田資康の追放(1,487年1月頃) 上杉定正が太田資康を江戸城から追放して城を占拠し、資康は甲斐国へ逃れて上杉顕定に付く。
  • 鉢形城からの出陣(1,488年3月頃) 上杉顕定が太田資康・三浦高救と共に、1,000騎で鉢形城から出陣する。
  • 七沢城の落城(1,488年3月18日) 上杉顕定の軍が七沢城を攻撃する。守備していた上杉朝昌は応戦するも落城し、大庭城へ敗走した。
  • 実蒔原の戦い(1,488年3月18日) 上杉顕定の軍と、200騎余で川越城から駆け付けた上杉定正の軍が交戦する。地形を熟知していた定正の軍が、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定の軍を破った。
  • 上杉定昌の自害(1,488年5月5日) 上杉定昌が従者と共に自害する。
  • 須賀谷原への布陣(1,488年7月頃) 上杉顕定・上杉憲房が2,000名の軍勢で鉢形城から出陣し、上杉定正は足利政氏・長尾景春・上杉朝良と共に、700騎余で須賀谷原付近に布陣する。
  • 武蔵松山城の攻撃(1,488年7月16日) 山内上杉方が武蔵松山城を攻撃する。又、須賀谷原でも小規模な戦いが発生した。
  • 須賀谷原の戦い(1,488年7月26日) 朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原で交戦する。長尾景春の部隊の横槍と上杉定正の指図で山内上杉軍を突き崩し、扇谷上杉軍が勝利した。戦死者は700名余に上った。
  • 高見原の戦い(1,488年12月17日) 上杉定正が足利政氏・長尾景春に援軍を求めて進軍する。夜、長尾が定正の指示通りに攻撃し、兵力で劣りながらも山内上杉軍を撃破した。
  • 大森氏頼と三浦時高の死去(1,494年9月15日・10月22日) 9月15日に小田原城主大森氏頼が、10月22日に三崎城主三浦時高が死去する。其の後、相模三浦家は家督争いの混乱に陥った。
  • 北条早雲の出陣(1,494年10月27日) 北条早雲が上杉定正の援軍として、鉢形城攻撃を意図し、高見原に出陣する。30日頃、定正と北条は、上杉顕定と荒川を挟んで対陣した。
  • 上杉定正の死去(1,494年11月2日) 上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却し、上杉朝良が定正の後継として家督を継いだ。
  • 上戸への着陣(1,504年9月29日) 上杉顕定が上戸に着陣する。其の後、川越城を攻撃したが落とせなかった。
  • 白子への布陣(1,504年10月頃) 上杉顕定が目標を江戸城に変えて白子に布陣し、上杉朝良は北条早雲・今川氏親に救援を求める。
  • 北条早雲の稲毛到着(1,504年10月22日) 上杉朝良に呼応した北条早雲が稲毛に到着する。其の後、枡形山に布陣し、山内上杉軍は包囲される形となった。其の為上杉顕定は、江戸城攻撃を中止して立河原に布陣した。
  • 立河原の戦い(1,504年11月3日) 12時頃、上杉朝良・北条早雲・今川氏親率いる軍が立河原に到着し、其の後、山内上杉軍と交戦する。山内上杉軍は2,000騎余を失い、夜、上杉顕定は鉢形城に敗走した。
  • 長尾能景の派遣と川越城への攻撃(1,504年12月頃) 上杉房能が長尾能景率いる援軍を鉢形城に差し向ける。其の後、長尾は上杉顕定と合流した。又、上杉顕定率いる山内上杉軍は、北条早雲・今川氏親の帰還によって守備が手薄となった川越城を攻撃し、扇谷上杉軍を追い払って立河原付近を押さえた。
  • 初沢城・真田城の落城(1,505年1月頃・1月31日) 上杉顕定と長尾能景率いる軍が初沢城を落城させる。1月31日には、両名率いる軍が真田城を落城させ、小田原城-川越城の北条家と扇谷上杉家の同盟ラインを崩す目的を達成した。
  • 川越城の包囲(1,505年4月頃) 上杉顕定率いる軍が川越城を包囲する。上杉朝良は降伏して川越城は開城し、上杉朝興が第13代扇谷上杉家当主に就任した。

実蒔原・須賀谷原・高見原、そして立河原へ──
山内上杉家と扇谷上杉家の18年余を一元化。

169円(税込)

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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