長享の乱
一元化
西暦1,486年、名将・太田道灌は謀殺された──
関東を二分した上杉氏の同族戦争・長享の乱の、およそ二十年を一元化。
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本書について
西暦1,486年8月、扇谷上杉家当主・上杉定正は、家宰として主家の躍進を支えた名将・太田道灌を、相模国の糟屋館に招いて謀殺した。太田の功を妬んだ定正に、山内上杉家当主・上杉顕定の讒言が拍車を掛けたとも伝わる。「当方滅亡」──太田が遺したとされる此の一言は、軈て現実のものとなる。関東管領を世襲する山内上杉家と、其の分家でありながら勢力を伸ばした扇谷上杉家。両家の確執は此の謀殺を引き金として全面戦争へと発展し、関東をおよそ二十年に亘って二分する大乱──長享の乱が、此処に幕を開けた。本書は、太田道灌謀殺から扇谷上杉家の降伏までの歩みを、年月日単位で一元化した記録である。
道灌の死後、嫡男・太田資康が江戸城に入って太田家の家督を継いだが、西暦1,487年正月、定正は資康をも江戸城から追放し、城を自らの手中に収める。行き場を失った資康は山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定の陣営に身を投じた。翌西暦1,488年3月、顕定は資康・三浦高救を従え、1,000騎を率いて鉢形城を進発する。越後守護・上杉房定が、白井城主たる嫡男・上杉定昌を通じて顕定を後援していた。山内・扇谷両上杉家の本格的な激突が、いよいよ始まろうとしていた。
西暦1,488年は、三たびの合戦に明け暮れた年であった。3月、相模・実蒔原で顕定の大軍を迎え撃った定正は、地の利を活かし寡兵で之を退ける。7月、武蔵・須賀谷原では、古河公方・足利政氏や、かつての宿敵・長尾景春をも味方に引き入れた定正が、長尾の横槍を機に山内上杉軍を突き崩した。此の一戦の戦死者は700名余、犠牲となった馬も数百頭に上ったという。12月には武蔵・高見原の夜戦でも勝利を収め、定正は顕定を三度退けた。だが度重なる勝利は定正に驕りを生み、道灌謀殺への疑念とも相俟って、扇谷上杉家からは離反する将が現れ始める。
戦局を大きく動かしたのが、新興勢力の登場であった。西暦1,494年、定正は伊豆を制した北条早雲の軍を相模・武蔵へと招き入れる。同年9月には扇谷方の小田原城主・大森氏頼が、10月には三崎城主・三浦時高が相次いで世を去り、相模の勢力図が揺らぎ始めた。そして11月2日、早雲と共に荒川を挟んで顕定と対陣していた定正は、川を渡ろうとした際に落馬して、あえなく陣没する。嫡子の無かった定正の後を、養子・上杉朝良が継いだ。長享の乱は、扇谷上杉家にとって最大の指導者を失ったまま、次の局面へと移ってゆく。
西暦1,504年、態勢を立て直した上杉顕定が攻勢に転じる。窮した朝良は、北条早雲と駿河の今川氏親に救援を請うた。同年11月、武蔵・立河原で三者連合と激突した山内上杉軍は2,000騎余を失い、顕定は鉢形城へと敗走する。然し勝勢は長くは続かなかった。早雲と氏親が帰国するや、顕定は越後守護代・長尾能景の援軍を得て川越城へ逆襲し、初沢城・真田城を次々と攻略して、北条・扇谷の同盟線を断ち切った。そして西暦1,505年4月、川越城を包囲された朝良は遂に降伏する。顕定は朝良を出家・幽閉させ、甥の上杉朝興を扇谷上杉家当主に据えた。山内上杉家の優位のうちに長享の乱は終結したが、関東に足掛かりを得た北条早雲の存在は、間もなく訪れる戦国の動乱を予感させるものであった。本書は、其の全軌跡を一冊に束ねている。
登場人物
- 上杉定正 本書の中心人物の一人。扇谷上杉家当主。家宰・太田道灌を糟屋館で謀殺した事から長享の乱を招いた。実蒔原・須賀谷原・高見原で山内上杉軍を三度退けたが、度重なる勝利が驕りを生む。後に北条早雲を関東へ招き入れ、西暦1,494年、荒川を渡ろうとして落馬し陣没した。
- 上杉顕定 第11代山内上杉家当主で関東管領。太田道灌の謀殺を陰で煽ったとも伝わる。たびたび定正に敗れ、立河原でも大敗を喫したが、越後勢の支援を背景に巻き返し、西暦1,505年に扇谷上杉家を降伏させて長享の乱を制した。
- 太田道灌 扇谷上杉家の家宰。卓越した戦略家として主家の躍進を支えたが、其の功を妬んだ定正に謀反を疑われ、糟屋館で謀殺された。「当方滅亡」と言い遺して絶命したと伝わる。
- 太田資康 太田道灌の嫡男。父の死後に江戸城へ入り家督を継いだが、西暦1,487年に定正によって城を追われる。甲斐国へ逃れて上杉顕定に付き、山内上杉方として戦った。
- 上杉朝良 上杉定正の養子で、定正の弟・朝昌の子。西暦1,494年に家督を継ぎ、北条早雲・今川氏親の援軍を得て立河原で顕定を破った。然し最終的に川越城を包囲されて降伏し、出家・幽閉の身となった。
- 上杉朝昌 上杉定正の弟。七沢城を守ったが顕定軍に敗れ、大庭城へ退いた。其の子が、後に扇谷上杉家を継ぐ朝良である。
- 上杉房定 第9代越後守護。嫡男で白井城主の上杉定昌を通じて、山内上杉家の上杉顕定を後援した。
- 上杉定昌 上杉房定の嫡男で白井城主。父の意を受けて顕定を支援したが、西暦1,488年5月、従者と共に自害した。
- 上杉憲房 上杉顕定の養子。西暦1,488年7月、顕定と共に2,000名を率いて川越城攻めに加わった。
- 足利政氏 第2代古河公方。上杉定正の求めに応じ、須賀谷原・高見原の戦いで扇谷上杉方として参陣した。
- 長尾景春 かつて主家に反旗を翻した武将。長享の乱では定正方に加わり、須賀谷原では横槍を入れて戦況を覆し、高見原では定正の指示に従って夜襲を成功させた。
- 長尾能景 越後守護代。西暦1,504〜1,505年、敗走した上杉顕定の援軍として鉢形城へ赴き、初沢城・真田城の攻略に加わった。
- 北条早雲 伊豆を制した新興勢力。上杉定正に招かれて関東へ進出し、高見原や立河原で戦った。其の関東進出は、間もなく訪れる戦国の動乱を予感させた。
- 今川氏親 駿河の大名。上杉朝良の求めに応じ、北条早雲と共に立河原の戦いに参陣して山内上杉軍を破った。
- 大森氏頼 小田原城主で扇谷上杉方。西暦1,494年9月に死去し、相模における扇谷方の勢力が揺らぐ一因となった。
- 三浦時高 三崎城主で扇谷上杉方。西暦1,494年10月に死去し、其の後相模三浦家は家督争いに陥った。
- 三浦義同 家督争いの末に、第11代相模三浦家当主となった人物。
- 上杉朝興 上杉顕定の甥で、第13代扇谷上杉家当主。朝良の降伏後、顕定の意向により扇谷上杉家の家督を継がされた。
- 上杉房能 第10代越後守護。兄・上杉顕定の敗戦を聞き、守護代の長尾能景を援軍として鉢形城へ差し向けた。
主な合戦
- 実蒔原の戦い 西暦1,488年3月、相模国実蒔原。川越城から駆け付けた上杉定正が、地形を熟知した利を活かし、寡兵で上杉顕定の大軍を退けた。
-
須賀谷原の
戦い 西暦1,488年7月、武蔵国須賀谷原。長尾景春の横槍を機に扇谷上杉軍が山内上杉軍を突き崩した。戦死者700名余、馬数百頭に及ぶ激戦であった。 - 高見原の戦い 西暦1,488年12月、武蔵国高見原。定正の指示による夜襲で、兵力に劣る扇谷上杉軍が山内上杉軍を撃破した。
- 高見原の対陣 西暦1,494年10〜11月、上杉定正・北条早雲が荒川を挟んで上杉顕定と対峙。定正の落馬死により、北条勢は退却した。
- 立河原の戦い 西暦1,504年11月、武蔵国立河原。上杉朝良・北条早雲・今川氏親の連合軍が、山内上杉軍に2,000騎余の損害を与えて破った。
-
初沢城・
真田城の攻略 西暦1,505年1月、上杉顕定・長尾能景が両城を落とし、小田原城と川越城を結ぶ北条・扇谷の同盟線を断ち切った。 - 川越城開城 西暦1,505年4月、包囲された上杉朝良が降伏。長享の乱は、山内上杉家の優位のうちに終結した。
太田道灌謀殺から実蒔原・須賀谷原・立河原の合戦、そして扇谷上杉家の降伏まで──
長享の乱の全軌跡を一元化。
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