長享の乱一元化
西暦1,486年、糟屋館の風呂場で名将が斃れた──
両上杉家が争った長享の乱を年月日単位で一元化。
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本書について
西暦1,486年8月25日、上杉定正は太田道灌を、扇谷上杉家の本拠である糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)へ招いた。太田の功績を妬み、謀反の疑いを掛けての招請である。定正の配下・曽我兵庫は、太田が入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を襲った。太田は「当方滅亡」と言って絶命したという。背景には、第11代山内上杉家当主・上杉顕定が定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言していた事があり、又太田の側にも、自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家が躍進したのは自分のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじる振る舞いがあった。本書は、此の暗殺を起点として、西暦1,505年4月頃に川越城が開城するまでの長享の乱を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,486年9月頃、太田道灌の嫡男・太田資康が江戸城へ帰還し、家督を継承した。然し翌1,487年1月頃、上杉定正は資康を江戸城から追放して城を占拠する。資康は山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。西暦1,488年3月頃、顕定は太田資康・三浦高救と共に1,000騎で鉢形城(現在の埼玉県大里郡寄居町鉢形)から出陣する。第9代室町幕府越後国守護・上杉房定は、嫡男で白井城(現在の群馬県渋川市白井)主の上杉定昌を通じて顕定を支援していた。18日、顕定軍は七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃し、守備していた定正の弟・上杉朝昌は応戦するも落城して大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走する。
同じ3月18日、顕定軍は、200騎余で川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から駆け付けた上杉定正軍と実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)で交戦した。地形を熟知していた定正軍は、寡兵にも拘らず激戦の末に辛うじて顕定軍を破る。5月5日には上杉定昌が従者と共に自害した。7月頃、顕定は養子の上杉憲房と共に2,000名で鉢形城を出て川越城へ向かい、定正は第2代古河公方・足利政氏、長尾景春、上杉朝昌の弐男で自身の養子である上杉朝良と共に、700騎余で須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣する。16日、山内上杉方は扇谷上杉方の防衛拠点の1つである武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町北吉見)を攻撃した。26日の朝、須賀谷原で本戦が始まる。先陣を切った上杉朝良は、台地の低部で、平澤寺(現在の埼玉県比企郡嵐山町平澤)に布陣していた山内上杉軍から逆落としに攻撃を掛けられて崩されたが、長尾景春の部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、定正が高台から味方に指図して突き崩させた。長尾は更に藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利する。戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲となった。
12月17日、定正は足利政氏・長尾景春に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。之を知った山内上杉軍は上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原(現在の埼玉県大里郡寄居町今市)へ3,000名余で布陣した。夕方の交戦を不安に思った長尾が定正に相談すると、定正は、山内上杉軍の旗指物が動かなくなり休息を取り始めた時に攻撃する様指示する。夜、長尾は指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力で劣りながら之を撃破した。山内上杉軍は鉢形城へ敗走したが、後方の支援を受けて城は保持し続ける。軈て三度も山内上杉軍を破った定正は驕り始め、太田道灌暗殺を部下から疑問視されていた事もあって離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を送る程であった。
西暦1,494年9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。此の頃、定正は北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。10月22日には三崎城(現在の神奈川県三浦市城山町)主・三浦時高も死去し、相模三浦家は家督争いの混乱に陥って、最終的に三浦義同が第11代当主に就いた。27日、北条早雲は定正の援軍として鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原(現在の埼玉県比企郡小川町高見)へ出陣する。30日頃、定正と北条は上杉顕定と荒川を挟んで対陣した。然し11月2日、定正は荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条は退却した。嫡子の居なかった定正の後は、生前に養子となっていた弟・上杉朝昌の息子である上杉朝良が継いだ。
西暦1,504年9月29日、上杉顕定が上戸(現在の埼玉県川越市)に着陣し、川越城を攻撃するが落とせなかった。此の頃の山内上杉軍は、白井城・鉢形城・上戸の出城を拠点として扇谷上杉軍に対抗している。10月頃、顕定は目標を江戸城に変え、仙波(現在の埼玉県川越市小仙波町周辺)から進軍して白子(現在の埼玉県和光市)に布陣した。之を受けて上杉朝良は、韮山城の北条早雲と今川館(現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園)の今川氏親に救援を求める。22日、北条は稲毛へ到着して枡形山(現在の神奈川県川崎市多摩区枡形)に布陣した。扇谷上杉家は江戸城の他に初沢城(現在の東京都八王子市初沢町)にも拠点を持っており、其の中間地点である枡形山に北条が進出した事で、川越城を含めて山内上杉軍が包囲される形となる。顕定は江戸城攻撃を中止し、扇谷上杉軍の手薄な多摩川上流から相模国へ進出しようとして立河原(現在の東京都立川市柴崎町)に布陣した。27日から4日間、今川氏親の軍が続々と枡形山へ到着する。11月2日に枡形山を出発した上杉朝良・北条早雲・今川氏親の軍は、3日の12時頃に立河原へ到着し、山内上杉軍と交戦した。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失って夕方には敗北が決定的となり、夜、顕定は鉢形城へ敗走した。
12月頃、北条早雲と今川氏親は帰還の為に鎌倉へ向かい、熱海で静養して韮山城で法要を行い、今川は北条と別れて今川館へ帰った。同じ頃、第10代室町幕府越後国守護・上杉房能は兄である顕定の敗戦を聞き、越後国守護代・長尾能景率いる援軍を鉢形城へ差し向ける。長尾と合流した顕定は、北条・今川の帰還によって守備の手薄となった川越城を攻撃し、扇谷上杉軍を追い払って立河原付近を押さえた。西暦1,505年1月頃には初沢城を、31日には真田城(現在の神奈川県平塚市真田)を落城させる。真田城攻めは、小田原城と川越城を結ぶ北条家と扇谷上杉家の同盟ラインを崩す狙いであり、目的は達成された。4月頃、顕定率いる軍は川越城を包囲し、上杉朝良は降伏して城は開城する。顕定は朝良を出家させて菅谷館(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)に幽閉し、家督を自身の甥である上杉朝興に譲らせて扇谷上杉家当主とする事を家臣達に強要した。朝興は第13代扇谷上杉家当主に就任し、本書は幕を閉じる。
登場人物
- 上杉定正 扇谷上杉家当主。西暦1,486年8月25日、太田道灌を糟屋館へ招いて暗殺させ、翌年には太田資康を江戸城から追放して城を占拠した。実蒔原・須賀谷原・高見原で三度山内上杉軍を破ったが、其の後驕り始めて離反者を出す。西暦1,494年11月2日、荒川を渡河しようとした際に落馬して死去した。嫡子は居なかった。
- 太田道灌 扇谷上杉家の名将。西暦1,486年8月25日、上杉定正に糟屋館へ招かれ、入浴後に風呂場の小口から出た無防備な所を曽我兵庫に襲われ「当方滅亡」と言って絶命した。自身の働きが正当に評価されていないと溢し、扇谷上杉家の躍進は自分のお蔭だとして憚らず、定正の意見を軽んじていたとされる。
- 曽我兵庫 上杉定正の配下。西暦1,486年8月25日、糟屋館で入浴を終えた太田道灌を襲撃し、暗殺を実行した。
- 上杉顕定 第11代山内上杉家当主。上杉定正に「太田はお前の首を狙っているぞ」と讒言し、太田道灌暗殺の遠因を作った。鉢形城を拠点に扇谷上杉家と争い、実蒔原・須賀谷原・高見原・立河原で敗れながらも戦線を保ち、西暦1,505年4月頃に川越城を開城させて乱を制した。
- 太田資康 太田道灌の嫡男。西暦1,486年9月頃に江戸城へ帰還して家督を継承したが、翌年1月頃、上杉定正によって城から追放される。山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付き、西暦1,488年3月頃の鉢形城からの出陣にも加わった。
- 三浦高救 西暦1,488年3月頃、上杉顕定・太田資康と共に1,000騎で鉢形城から出陣した人物。
- 上杉房定 第9代室町幕府越後国守護。嫡男で白井城主の上杉定昌を通じて上杉顕定を支援した。西暦1,488年12月17日の高見原の戦いに際しても、山内上杉軍から援軍を求められている。
- 上杉定昌 上杉房定の嫡男で白井城主。父を通じて上杉顕定を支援する立場にあったが、西暦1,488年5月5日、従者と共に自害した。
- 上杉朝昌 上杉定正の弟。西暦1,488年3月18日、七沢城を守備して上杉顕定軍に応戦したが落城し、大庭城へ敗走した。其の弐男である上杉朝良が定正の養子となり、後に扇谷上杉家を継いだ。
- 上杉朝良 上杉朝昌の弐男で、上杉定正の養子。須賀谷原の戦いでは先陣を切って崩されたが、味方の反撃により勝利を収めた。西暦1,494年に定正の後を継いで家督を相続し、1,504年には北条早雲・今川氏親へ救援を求めて立河原の戦いに勝つが、1,505年4月頃に川越城を開城して降伏し、出家させられて菅谷館に幽閉された。
- 上杉憲房 上杉顕定の養子。西暦1,488年7月頃、顕定と共に2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣し、上杉定正の居る川越城へ向かった。
- 足利政氏 第2代古河公方。西暦1,488年7月頃の須賀谷原の布陣に上杉定正と共に加わり、同年12月17日には定正から援軍を求められて高見原の戦いに臨んだ。
- 長尾景春 上杉定正方の武将。須賀谷原の戦いでは横槍を入れて山内上杉軍を浮き足立たせ、藤田三郎勢も破った。高見原の戦いでは夕方の戦況を不安に思って定正に相談し、其の指示通り、敵が休息を取り始めた夜に風上から攻撃を仕掛けて撃破した。
- 藤田三郎 山内上杉軍の武将。西暦1,488年7月26日の須賀谷原の戦いにおいて、長尾景春率いる部隊に破られた。
- 大森氏頼 小田原城主で扇谷上杉家方の人物。西暦1,494年9月15日に死去した。此の頃、上杉定正は北条早雲の軍を相模国・武蔵国へ招き入れていた。
- 三浦時高 扇谷上杉家方の三崎城主。西暦1,494年10月22日に死去し、其の後相模三浦家は家督争いの混乱に陥った。
- 三浦義同 三浦時高の死後の家督争いを経て、第11代相模三浦家当主に就任した人物。
- 北条早雲 上杉定正に相模国・武蔵国へ招き入れられた人物。西暦1,494年10月には定正の援軍として高見原へ出陣し、荒川を挟んで上杉顕定と対陣したが、定正の落馬死により退却した。1,504年には上杉朝良の求めに応じて枡形山へ布陣し、立河原の戦いに勝利している。
- 今川氏親 今川館に居た大名。西暦1,504年10月、上杉朝良の救援要請に応じ、27日から4日間かけて軍を枡形山へ到着させた。立河原の戦いの後は北条早雲と鎌倉へ向かい、熱海での静養と韮山城での法要を経て今川館へ帰還した。
- 上杉房能 第10代室町幕府越後国守護で、上杉顕定の弟。西暦1,504年12月頃、兄の立河原での敗戦を聞き、越後国守護代の長尾能景率いる援軍を鉢形城へ差し向けた。
- 長尾能景 越後国守護代。上杉房能の命で鉢形城へ入り、上杉顕定と合流した。西暦1,505年1月頃には初沢城を、31日には真田城を顕定と共に落城させ、川越城包囲へと繋げた。
- 上杉朝興 上杉顕定の甥。西暦1,505年4月頃、川越城の開城に際し、顕定が扇谷上杉家の家臣達に家督の譲渡を強要した結果、第13代扇谷上杉家当主に就任した。
本書が記録する出来事
- 糟屋館での太田道灌暗殺 西暦1,486年8月25日、上杉定正が太田道灌を糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市上粕屋)へ招き、配下の曽我兵庫が入浴後の無防備な所を襲う。太田は「当方滅亡」と言って絶命した。上杉顕定の讒言と、太田自身の驕った振る舞いが背景にあった。本書の起点となる出来事である。
- 太田資康の家督継承と追放 西暦1,486年9月頃、太田道灌の嫡男太田資康が江戸城へ帰還し家督を継承する。然し1,487年1月頃、上杉定正が資康を江戸城から追放して城を占拠し、資康は山内上杉家を頼って甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。
- 鉢形城からの出陣と七沢城落城 西暦1,488年3月頃、上杉顕定が太田資康・三浦高救と共に1,000騎で鉢形城から出陣する。18日、七沢城を攻撃し、守備していた上杉朝昌は応戦するも落城して大庭城へ敗走した。上杉房定は上杉定昌を通じて顕定を支援していた。
- 実蒔原の戦い 西暦1,488年3月18日、上杉顕定率いる軍が、200騎余で川越城から駆け付けた上杉定正率いる軍と実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)で交戦する。地形を熟知していた定正軍は、寡兵にも拘らず激戦の末に辛うじて顕定軍を破った。
- 上杉定昌の自害 西暦1,488年5月5日、白井城主で上杉房定の嫡男である上杉定昌が、従者と共に自害する。
- 武蔵松山城の攻撃 西暦1,488年7月16日、山内上杉方が扇谷上杉方の防衛拠点の1つである武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町北吉見)を攻撃する。同日、須賀谷原でも小規模な戦いが発生した。
- 須賀谷原の戦い 西暦1,488年7月26日の朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。先陣の上杉朝良は平澤寺に布陣する山内上杉軍の逆落としに崩されたが、長尾景春の横槍で敵が浮き足立ち、上杉定正が高台から指図して突き崩させた。戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲となった。
- 高見原の夜襲 西暦1,488年12月17日、上杉定正が足利政氏・長尾景春に援軍を求め2,000騎で進軍する。山内上杉軍は3,000名余で高見原に布陣したが、定正の指示により、旗指物が動かなくなり休息を取り始めた夜に長尾が風上から攻撃を仕掛け、兵力で劣りながら之を撃破した。山内上杉軍は鉢形城へ敗走した。
- 上杉定正の驕りと離反 三度山内上杉軍を破った上杉定正は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有って、離反する武将が出始める。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を送る程であった。
- 大森氏頼と三浦時高の死去 西暦1,494年9月15日、小田原城主で扇谷上杉家方の大森氏頼が死去する。10月22日には三崎城主の三浦時高も死去し、相模三浦家は家督争いの混乱に陥って、最終的に三浦義同が第11代当主に就任した。
- 北条早雲の出陣と高見原の対陣 西暦1,494年10月27日、北条早雲が上杉定正の援軍として鉢形城攻撃を意図し、武蔵国高見原(現在の埼玉県比企郡小川町高見)へ出陣する。30日頃、定正と北条は上杉顕定と荒川を挟んで対陣した。
- 上杉定正の落馬死 西暦1,494年11月2日、上杉定正が荒川を渡河しようとした際に落馬して死去する。北条早雲は退却した。嫡子が居なかった為、生前に養子となっていた上杉朝良が家督を継いだ。
- 上戸着陣と江戸城への転進 西暦1,504年9月29日、上杉顕定が上戸(現在の埼玉県川越市)に着陣し、川越城を攻撃するが落とせなかった。10月頃、目標を江戸城に変え、仙波から進軍して白子(現在の埼玉県和光市)に布陣する。上杉朝良は北条早雲と今川氏親に救援を求めた。
- 枡形山の包囲網 西暦1,504年10月22日、北条早雲が稲毛へ到着し枡形山に布陣する。江戸城と初沢城の中間地点に北条が進出した事で、川越城を含めて山内上杉軍が包囲される形となり、上杉顕定は江戸城攻撃を中止して立河原へ布陣した。27日から4日間、今川氏親の軍が続々と枡形山へ到着した。
- 立河原の戦い 西暦1,504年11月2日に枡形山を出発した上杉朝良・北条早雲・今川氏親の軍が、3日の12時頃に立河原(現在の東京都立川市柴崎町)へ到着し、山内上杉軍と交戦する。広い範囲での激しい戦闘となり、山内上杉軍は2,000騎余を失い、夜、上杉顕定は鉢形城へ敗走した。
- 長尾能景の来援と川越城の奪回 西暦1,504年12月頃、北条早雲と今川氏親が帰還の途に就く一方、上杉房能が兄顕定の敗戦を聞いて長尾能景率いる援軍を鉢形城へ差し向ける。長尾と合流した顕定は、守備が手薄となった川越城を攻撃して扇谷上杉軍を追い払い、立河原付近を押さえた。
- 初沢城・真田城の落城 西暦1,505年1月頃、上杉顕定と長尾能景が初沢城を落城させる。31日には真田城(現在の神奈川県平塚市真田)も落城させた。小田原城と川越城を結ぶ北条家と扇谷上杉家の同盟ラインを崩す狙いであり、其の目的は達成された。
- 川越城の開城と朝良の幽閉 西暦1,505年4月頃、上杉顕定率いる軍が川越城を包囲し、上杉朝良は降伏して開城する。顕定は朝良を出家させて菅谷館(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)に幽閉し、家督を甥の上杉朝興へ譲らせる事を家臣達に強要した。朝興は第13代扇谷上杉家当主に就任し、本書が記録する最後の出来事となる。
実蒔原・須賀谷原・高見原、そして立河原へ──
山内上杉家と扇谷上杉家の19年を一元化。
JPY 200(税込)
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