長享・延徳の乱一元化
着飾った足利義尚が、坂本へ出陣した──
長享・延徳の乱を一元化。
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本書について
西暦1,486年9月頃、京極政経は老臣多賀宗直に命じ、敏満寺城(現在の滋賀県犬上郡多賀町敏満寺)に居る京極高清を攻めさせた。高清は敗北して敏満寺城を捨て、甲賀郡三雲(現在の滋賀県湖南市)に逃れる。11月頃には高清が反撃に転じ、多賀は美濃国へ逃亡した。西暦1,487年5月23日、高清は国友河原(現在の滋賀県長浜市国友町)で政経を攻め、国友城主国友兵庫助を攻撃する。政経が国友の援軍として多賀を国友城に派遣すると、高清は国友城の包囲を解き、国友河原で多賀率いる軍を迎撃した。高清の作戦は成功し、多賀率いる軍は月ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)に逃れたが、多賀は、敵の追撃からは逃れられないと悟り自刃した。本書は、此の京極政経と京極高清の争いから、西暦1,493年1月1日に足利義稙が金剛寺の陣を払い、京都へ向けて出発する迄を一元化した記録である。
西暦1,487年1月26日、足利義稙が足利義尚の猶子として元服した。8月頃、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれ、此れを切っ掛けに、他の近江国の奉公衆も六角氏に対し訴訟を起こす。8月12日、足利義尚は六角高頼征伐を正式に決定し、在京・在国の諸将を招集した。9月16日、足利義稙は日野富子の推挙により、美濃国在国の儘従五位下に叙され、同時に左馬頭に任ぜられる。27日、六角高頼方は近江国南部各地への布陣を終えた。28日、足利義尚は、香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏い、六角高頼征伐の為、坂本(現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本)へ向けて出陣する。着飾った義尚を一目見ようと見物人が集まり、兵力は391騎・8,000名で、京極政経・京極高清等の諸将も加わった。坂本に入ってからは、細川政元・斯波義寛・畠山政長・富樫政親・武田国信等と合流する。此の際、加賀国守護代山川高藤は、富樫の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。等持院は此れに反発し、山川と繋がりの有る等持院の人間が減免を請うた結果、15貫200文を納めた他は免除された。30日、六角高頼は観音寺城を放棄し、甲賀郡へ逃亡した。
10月6日、細川政元率いる軍は琵琶湖を経由して、山田・志那(何れも現在の滋賀県草津市)に到着した。其の後細川は、坂本から陸路で瀬田(現在の滋賀県大津市)を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と、野洲河原で交戦する。山中は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。其の中で戦果の目覚ましい21名は、六角から感状を受け、甲賀二十一家と呼ばれる。10日、細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清等の率いる軍が、六角氏の要衝である伊庭氏の拠点八幡山(現在の滋賀県近江八幡市南津田町)と、九里氏の拠点金剛寺(現在の滋賀県近江八幡市)を攻撃した。伊庭氏・九里氏は逃亡し、室町幕府軍は此れ等を陥落させて、次に観音寺城攻略を目指す。同じ10日、六角高頼は甲賀武士・山中氏・望月氏・和田氏を頼り、日野川沿いに三雲に逃れた。
10月20日、足利義尚率いる軍は六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由し、安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣した。そして六角氏の押領地を没収し、側近や寺社に還付する。諸将も分散して布陣し、義尚は足利義政に「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」と歌を贈り、義政は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」と返歌を贈った。11月頃、正覚寺(現在の滋賀県草津市上笠)に布陣していた浦上則宗率いる軍が、先陣を切って甲賀郡に侵攻する。しかし六角高頼は正面切って戦おうとせず、伊勢国に行方を眩ませた。11月12日、足利義尚は本陣を、山徒真宝坊の居館である真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)に移す。
西暦1,488年1月1日、六角高頼方の甲賀衆が伊勢貞誠の陣を放火した。15日、六角高頼率いる軍が甲賀郡の山中から出陣し、山内政綱は三上(現在の滋賀県野洲市)に布陣する。そして夜、望月出雲守と甲賀二十一家が、近江国鈎(現在の滋賀県栗東市上鈎付近)の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、義尚の本陣に迫る。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、義尚も深手を負った。22日には甲賀衆が織田広近の陣を、7月2日には浦上則宗の陣を放火している。
加賀国では、西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際して富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、西暦1,488年1月頃、富樫は帰国して高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)に入った。一揆方は、富樫の家老山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫は受け入れず、高尾城を修築して戦いに備える。2月25日、越前国の朝倉氏に援軍を要請した富樫の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野で越前国の軍勢を待ったが、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められ、討ち取られた。3月頃には山川が、越中国からの援軍を迎える為1,500名を率いて高尾城を出陣したが、馬飼氏・浦上氏の一揆方の夜襲を受け、高尾城に戻る。6月頃、政親の大叔父富樫泰高率いる、本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始した。泰高は、政親に討たれた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立されていた。幸千代は、本願寺門徒を味方に付けていた。
7月5日、足利義尚は越前国の朝倉氏等に、富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じた。朝倉氏は応じて加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻む。9日、一揆方は大乗寺(現在の石川県金沢市長坂町)に本陣を構え、高尾城の包囲を本格化させた。政親は打って出たが、一揆方を破る事は出来なかった。13日には、遊佐氏・神保氏率いる2,000名の救援軍が倶利伽羅峠で、畠山義統の差し向けた援軍が河北郡黒津船地内で敗れ、政親方の将本郷春親が一揆方に包囲を解く様促したが、失敗する。15日6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃し、政親の軍は本郷春親・其の息子本郷松千代丸を始めとする200名余の戦死者を出した。政親の家臣57名や城兵達は高尾城からの脱出を始め、山川高藤は、政親の妻巴を一揆方の光徳寺と申し合わせて城から脱出させ、自身も政親を裏切って脱出する。17日、政親は嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城は落城した。政親の後を追って自害した者も多く、政親の首級は富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られる。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。8月11日、蓮如は一向宗門徒の行動を非難・叱責する。
10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した。義尚は、二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き、刀を作らせていたのである。刀が完成した翌日、義尚は病に倒れ、日野富子が看病に駆け付けた。義尚は元々体が弱く、軍営での激務と共に、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。義尚は其の後一旦回復し、日野は京都に戻る。西暦1,489年4月16日、義尚の病は重篤な状態となり、26日10時、近江国鈎の陣中で死去した。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し三首の辞世の句を詠み、遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。5月10日の葬儀では、遺体の腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入され、日野富子は莫大な資金提供を行い、最後の別れの際、裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。其の後、義尚は等持院に葬られ、義尚の後継として足利義政が政務に復帰する。
5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純が上洛した。元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となったのである。其の後、義視の娘の居る通玄寺(現在の京都府京都市中京区曇華院前町)に入った。19日、義視は日野富子の住む小川殿に移り、27日、通玄寺で出家する。9月頃、足利義政は中風を再発させて倒れ、左半身不随となった。11月14日、足利義視と足利義稙は、義政と対面する。西暦1,490年1月27日、義政は病死した。義政の遺言により、遺骨は西指庵に納められる。3月頃には東山殿が完成し、東山山荘全体を寺として「慈照院」と名付けられた。4月頃、義政の菩提を弔う為に、東山殿は「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始される。
5月16日、日野富子が小川殿を足利義稙の従兄弟の足利義澄に与える事が決まると、日野が細川政元と内談して、義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。6月6日、足利義視は日野の居室を除いて小川殿を全て破却し、日野の所領も奪う。7月22日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、義視は准后宣下を受け、政務を担った。其の後義稙は六角高頼を赦免し、第27代室町幕府近江国守護として復職させる。しかし11月頃、六角氏の内衆・国人衆が寺社本所領の返還を拒否し、義稙の権威は損なわれた。11月19日には義視の正室日野良子が死去し、12月頃、義視は腫物を患う。
西暦1,491年2月15日、足利義視は通玄寺で死去し、足利義稙は後ろ盾を失った。5月29日、義稙は六角高頼征伐を宣言する。9月26日、六角は観音寺城を捨てて甲賀郡に逃亡し、30日、義稙は光浄院(現在の滋賀県大津市園城寺町)に布陣した。11月2日、細川政元の家宰安富元家が金剛寺に入る。12月4日には山内政綱が六角高頼を裏切り、義稙方に寝返った。19日、義稙は赤松政則・織田敏定に山内政綱征伐を命じ、浦上則宗と織田が大津の浜道場(現在の滋賀県大津市札の辻付近)で山内を挟撃する。山内は降伏したが、義稙は此れを許さず、山内は赤松伯耆守によって首を討たれた。
西暦1,492年4月頃、安富元家が六角高頼方の牢人衆による奇襲を受けて敗走すると、足利義稙は赤松政則・武田元信・斯波義寛に援軍を命じ、浦上則宗・織田敏定・逸見弾正が安富の下に派遣された。4月25日、約4,000名の六角氏の牢人衆と、浦上・織田・安富・逸見率いる7,800名の室町幕府軍が、梁瀬河原(現在の滋賀県東近江市五個荘簗瀬町付近)で交戦する。逸見は武田元信の命で加勢したが、山上に陣取ったまま見物しており、安富は浦上・織田を凌ぐ活躍を見せた。六角高頼は飯道寺(現在の滋賀県甲賀市水口町三大寺)へ敗走し、其の後、京極氏館(現在の滋賀県米原市上平寺)を本拠とする京極高清と手を結び、室町幕府軍を撹乱させようとした。6月頃には斯波義寛・山名豊時が守山に、武田元信が小南(現在の滋賀県野洲市)に着陣する。9月26日頃、草津の武田元信の軍の陣中で青地長綱と逸見弾正が争い、逸見は討たれかけたが、助けられ、負傷しただけで済んだ。10月頃、京極高清が市原谷(現在の滋賀県甲賀市甲南町市原)と八風峠口(現在の滋賀県東近江市・三重県三重郡菰野町)に出陣し、芝原(現在の滋賀県東近江市)に到着した赤松政則は、其の後、京極高清勢を破って甲津畑(現在の滋賀県東近江市)へ進軍した。11月頃、義稙は三井寺から金剛寺へ向けて進軍し、六角高頼は伊勢国へ逃亡したが、其の後、坂下(現在の三重県亀山市関町)で北畠材親率いる軍に敗れた。そして西暦1,493年1月1日、義稙は金剛寺の陣を払い、京都へ向けて出発する——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 足利義尚 西暦1,487年8月12日、六角高頼征伐を正式に決定した。9月28日、着飾って坂本へ向けて出陣し、10月20日に安養寺に布陣、11月12日に本陣を真宝館に移す。1,488年1月15日の夜、甲賀衆の夜襲を受けて深手を負った。陣中に打たせていた60本の刀が完成した翌日に病に倒れ、1,489年4月26日、近江国鈎の陣中で死去した。
- 六角高頼 西暦1,487年9月30日に観音寺城を放棄して甲賀郡へ逃亡し、10月10日には甲賀武士・山中氏・望月氏・和田氏を頼って三雲に逃れた。11月頃には伊勢国に行方を眩ませる。1,490年7月22日の足利義稙の将軍就任後、義稙に赦免されて第27代室町幕府近江国守護に復職したが、1,491年5月29日に義稙が征伐を宣言し、六角は9月26日に再び観音寺城を捨てて甲賀郡に逃亡した。1,492年11月頃に伊勢国へ逃亡し、其の後、坂下で北畠材親率いる軍に敗れた。
- 足利義稙 西暦1,487年1月26日、足利義尚の猶子として元服した。9月16日、日野富子の推挙により、美濃国在国の儘従五位下に叙され、左馬頭に任ぜられる。1,489年5月13日に上洛し、1,490年7月22日、第10代室町幕府征夷大将軍に就任した。六角高頼を赦免したが、1,491年5月29日に六角高頼征伐を宣言し、1,493年1月1日、金剛寺の陣を払って京都へ向けて出発した。
- 足利義政 西暦1,487年10月20日、安養寺に布陣した足利義尚から歌を贈られ、返歌を贈った。義尚の死後、後継として政務に復帰する。1,489年9月頃に中風を再発させて左半身不随となり、1,490年1月27日に病死した。遺骨は遺言により西指庵に納められた。
- 足利義視 西暦1,489年5月13日に上洛し、19日に日野富子の住む小川殿に移り、27日に通玄寺で出家した。1,490年1月27日に足利義政が病死すると、其の後の法事の席で、兄弟の仲は元々良かったが人の言動で疎遠になった、しかし美濃国で或る僧の出世を要望した際には、義政が「義視の言う事だから」と周囲の僧達の反対を押し切った、という主旨の発言をする。6月6日、日野の居室を除いて小川殿を全て破却し、日野の所領も奪った。7月22日、准后宣下を受けて政務を担ったが、1,491年2月15日、通玄寺で死去した。
- 日野富子 西暦1,487年9月16日、足利義稙が、其の推挙により美濃国在国の儘従五位下に叙され、同時に左馬頭に任ぜられる。1,488年10月頃、日野は病に倒れた足利義尚の看病に駆け付ける。1,489年4月26日に義尚が死去すると、細川政元と共に其の遺体を譲られ、5月10日の葬儀では莫大な資金提供を行い、裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。1,490年5月16日、小川殿を足利義澄に与える事が決まると、細川政元と内談して義澄を征夷大将軍に擁立しようとしているという噂が立った。
- 細川政元 西暦1,487年10月6日、琵琶湖を経由して山田・志那に到着し、其の後、足利義尚の軍と合流して、野洲河原で山中橘六の軍と交戦した。10日には八幡山・金剛寺を攻撃する。1,489年、日野富子と共に足利義尚の遺体を譲られた。又、足利義視等が義尚の葬儀に参列する事に反対し、義視等の上洛は葬儀後となった。
- 山中橘六 六角高頼の指示で、山田方面を守備していた。西暦1,487年10月、野洲河原で室町幕府軍と交戦し、敗れたものの多大な損害を与えた。
- 望月出雲守 甲賀五十三家の筆頭格。西暦1,488年1月15日の夜、甲賀二十一家と共に、近江国鈎の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。
- 京極政経 西暦1,486年9月頃、老臣多賀宗直に命じ、敏満寺城の京極高清を攻めさせた。1,487年5月23日、国友河原で高清に攻められ、国友の援軍として多賀を国友城に派遣したが、多賀は自刃した。9月28日、足利義尚の出陣に加わった。
- 京極高清 西暦1,486年9月頃、敏満寺城を攻められて敗北し、甲賀郡三雲に逃れたが、11月頃に反撃に転じた。1,487年5月23日、国友河原で京極政経を攻め、国友城の包囲を解いて多賀宗直の軍を迎撃する。足利義尚の出陣に加わり、10月10日には八幡山・金剛寺を攻撃した。1,492年4月25日の梁瀬河原の戦いの後、六角高頼と手を結び、10月頃に市原谷と八風峠口に出陣したが、赤松政則に破られた。
- 多賀宗直 京極政経の老臣。西暦1,486年9月頃、政経に命じられて敏満寺城の京極高清を攻め、高清を敗北させたが、11月頃、高清の反撃で美濃国へ逃亡した。1,487年5月23日、国友の援軍として国友城に派遣されたが、国友河原で高清に迎撃され、月ヶ瀬に逃れた後、自刃した。
- 富樫政親 西暦1,487年、坂本で足利義尚と合流し、10月10日には八幡山・金剛寺を攻撃した。足利義尚の坂本への出陣に際して兵粮米・軍費を加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、1,488年1月頃に帰国して高尾城に入る。一揆方の和睦を受け入れずに籠城し、7月15日の一揆方の攻撃で200名余の戦死者を出した。17日、嫡男富樫家延と共に自害した。
- 富樫泰高 富樫政親の大叔父。政親に討たれた政親の弟富樫幸千代の敵を討つ為に擁立され、西暦1,488年6月頃、本願寺門徒を始めとする一揆方を率いて高尾城の包囲を開始した。7月15日、高尾城を攻撃する。政親の自害後、灰の中から其の首級を探し出し、首級は大乗寺に葬られた。
- 山川高藤 加賀国守護代で、富樫政親の家老。西暦1,487年、富樫の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。1,488年1月頃、一揆方が山川を介して富樫に和睦を伝える。3月頃、越中国からの援軍を迎える為に高尾城を出陣したが、夜襲を受けて城に戻った。7月15日、政親の妻巴を城から脱出させ、自身も政親を裏切って脱出する。17日、一揆方に捕縛されて祇陀寺に幽閉されたが、其の後、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野へ向かった。
- 本郷春親 富樫政親方の将。西暦1,488年7月13日、一揆方に高尾城の包囲を解く様促したが、失敗した。15日、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻めたが、伊藤久内に捕縛される。息子本郷松千代丸と共に、此の日の政親の軍の戦死者に名が挙がっている。
- 蓮如 第8世本願寺宗主。富樫政親の自害を聞いて激怒した足利義尚に、本願寺門徒等の破門を迫られた。西暦1,488年8月11日、一向宗門徒の行動を非難・叱責した。
- 浦上則宗 西暦1,487年11月頃、正覚寺に布陣していた軍を率い、先陣を切って甲賀郡に侵攻した。1,488年7月2日、陣を甲賀衆に放火される。1,491年12月19日、織田と共に大津の浜道場で山内政綱を挟撃した。1,492年4月頃、安富元家の下に派遣され、4月25日、梁瀬河原で六角氏の牢人衆と交戦した。
- 安富元家 細川政元の家宰。西暦1,491年11月2日、金剛寺に入った。1,492年4月頃、六角高頼方の牢人衆による奇襲を受けて敗走したが、4月25日の梁瀬河原での戦いでは、浦上則宗・織田敏定を凌ぐ活躍を見せた。
- 山内政綱 西暦1,488年1月15日、三上に布陣した。1,491年12月4日、六角高頼を裏切り、足利義稙方に寝返る。19日、義稙が赤松政則・織田敏定に山内征伐を命じる。山内は浦上則宗と織田に挟撃されて降伏したが、許されず、赤松伯耆守によって首を討たれた。
- 赤松政則 西暦1,491年12月19日、織田敏定と共に、足利義稙から山内政綱征伐を命じられた。1,492年4月頃、安富元家への援軍を命じられ、10月頃、芝原に到着する。其の後、京極高清勢を破り、甲津畑へ進軍した。
- 逸見弾正 西暦1,492年4月頃、安富元家の下に派遣された。4月25日の梁瀬河原での戦いでは、武田元信の命で加勢したが、山上に陣取ったまま見物していた。9月26日頃、草津の武田元信の軍の陣中で青地長綱と争い、討たれかけたが、助けられ、負傷しただけで済んだ。
- 土御門有宣 陰陽博士。二階堂政行経由で足利義尚に、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると伝えた。
- 北畠材親 西暦1,492年11月頃に伊勢国へ逃亡した六角高頼を、其の後、坂下(現在の三重県亀山市関町)で破った。
本書が記録する出来事
- 京極政経と京極高清の争い(1,486年9月頃) 京極政経が多賀宗直に命じて敏満寺城の京極高清を攻めさせ、高清は甲賀郡三雲に逃れる。11月頃には高清が反撃に転じ、多賀は美濃国へ逃亡した。
- 国友河原の戦い(1,487年5月23日) 京極高清が国友河原で京極政経を攻め、援軍の多賀宗直率いる軍を迎撃する。月ヶ瀬に逃れた多賀は、敵の追撃からは逃れられないと悟り、自刃した。
- 六角高頼征伐の決定(1,487年8月12日) 足利義尚が六角高頼征伐を正式に決定し、在京・在国の諸将を招集する。
- 足利義尚の坂本出陣(1,487年9月28日) 着飾った足利義尚が坂本へ向けて出陣し、見物人が集まる。兵力は391騎・8,000名で、坂本に入ってからは細川政元等と合流した。
- 観音寺城の放棄(1,487年9月30日) 六角高頼が観音寺城を放棄し、甲賀郡へ逃亡する。
- 野洲河原の戦い(1,487年10月) 10月6日、細川政元率いる軍が琵琶湖を経由して山田・志那に到着する。其の後、足利義尚の軍と合流し、山中橘六率いる軍と野洲河原で交戦した。山中は敗れたが、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。
- 八幡山・金剛寺の攻略(1,487年10月10日) 細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清等の率いる軍が八幡山・金剛寺を攻撃し、陥落させる。同じ日、六角高頼は甲賀武士等を頼り、三雲に逃れた。
- 安養寺への布陣(1,487年10月20日) 足利義尚率いる軍が安養寺に布陣し、六角氏の押領地を没収して側近や寺社に還付する。義尚は足利義政と歌を贈り合った。
- 真宝館への本陣移転(1,487年11月12日) 足利義尚が、本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館に移す。
- 富樫政親の帰国(1,488年1月頃) 反富樫の機運が高まった事から、富樫政親が帰国して高尾城に入り、高尾城を修築して戦いに備える。
- 鈎の陣所への夜襲(1,488年1月15日) 夜、望月出雲守と甲賀二十一家が足利義尚の陣所に夜襲を仕掛ける。「亀六の法」によって室町幕府軍は翻弄されて大損害を被り、義尚も深手を負った。
- 高尾城の包囲(1,488年6月頃) 富樫泰高率いる一揆方が、富樫政親が籠城している高尾城の包囲を開始する。
- 高尾城への攻撃(1,488年7月15日) 6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃し、政親の軍は200名余の戦死者を出す。山川高藤は政親の妻巴を脱出させ、自身も政親を裏切って脱出した。
- 富樫政親の自害(1,488年7月17日) 富樫政親が嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。
- 60本の刀の完成と足利義尚の発病(1,488年10月頃) 足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成し、其の翌日、義尚は病に倒れる。
- 足利義尚の死去(1,489年4月26日) 10時、足利義尚が近江国鈎の陣中で死去する。遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。
- 足利義政の死去(1,490年1月27日) 足利義政が病死し、遺骨は遺言により西指庵に納められる。
- 慈照寺の創始(1,490年4月頃) 足利義政の菩提を弔う為に、東山殿が「慈照寺」として禅寺に改められ、相国寺の末寺として創始される。
- 足利義稙の将軍就任(1,490年7月22日) 足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、足利義視は准后宣下を受けて政務を担う。
- 六角高頼征伐の宣言(1,491年5月29日) 足利義稙が、六角高頼征伐を宣言する。
- 山内政綱征伐(1,491年12月19日) 足利義稙が赤松政則・織田敏定に山内政綱征伐を命じる。浦上則宗と織田に挟撃された山内は降伏したが、許されず、赤松伯耆守によって首を討たれた。
- 梁瀬河原の戦い(1,492年4月25日) 約4,000名の六角氏の牢人衆と、7,800名の室町幕府軍が交戦する。安富元家は浦上則宗・織田敏定を凌ぐ活躍を見せ、六角高頼は飯道寺へ敗走した。
- 金剛寺からの出発(1,493年1月1日) 足利義稙が金剛寺の陣を払い、京都へ向けて出発する。本書の年表の最後の項目である。
鈎の夜襲から梁瀬河原へ──
二度の六角高頼征伐を一元化。
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