長享・延徳の乱一元化
京極家内訌・足利義尚の坂本出陣・観音寺城放棄・野洲河原の戦いと甲賀五十三家・八幡山と金剛寺攻略・鈎の陣夜襲と亀六の法・富樫政親父子自害と高尾城落城・蓮如への破門要請・60本の刀と足利義尚の鈎陣中死去・辞世の句・足利義政中風再発と病死・足利義稙の征夷大将軍就任・第二次六角征伐・梁瀬河原の戦い・北畠材親による坂下撃破・足利義稙金剛寺陣払い京都帰還──
第9代と第10代将軍が連続して挑んだ六角討伐の6年4箇月を一本の時系列に貫く。
JPY 200(税込)
購入する →本書について
西暦1486年9月、京極政経が老臣多賀宗直に命じ敏満寺城に居る京極高清を攻めさせて始まった京極家の内訌の日から、西暦1493年1月1日、第二次六角征伐を進めていた足利義稙が金剛寺の陣を払い京都へ向けて出発した日まで。本書は、応仁の乱の終結後、室町幕府の権威の最後の輝きを取り戻すべく、第9代将軍足利義尚と第10代将軍足利義稙という二代の将軍が、近江国の守護大名六角高頼に対して連続して挑んだ二度の征伐戦——「長享・延徳の乱」——の6年4箇月を、月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。京都を出陣した将軍が、自ら陣中で命を落とすという室町幕府史上初の異常事態と、其の死が招いた1490年代の畿内政治の連鎖的崩壊——足利義政の中風再発と病死、足利義視の出家と早世、足利義稙の擁立と山内政綱の裏切り——を通して、室町幕府が将軍親征を以ってしては最早地方を統制出来ない時代に入った事を、一冊の書として束ねます。甲賀五十三家・甲賀二十一家の戦国黎明期に於ける跳躍点と、加賀一向一揆による富樫政親自害という二つの「下剋上」の象徴も、本書の不可分の構成要素です。
西暦1486年9月の京極政経による多賀宗直命令と京極高清の敏満寺城落城・甲賀郡三雲逃亡、同年11月の高清反撃と多賀の美濃国逃亡、西暦1487年5月23日の国友河原での多賀宗直自刃、同年8月の一色政具訴訟を切っ掛けとする近江奉公衆の集団訴訟、8月12日の足利義尚による六角高頼征伐正式決定を経て、9月28日に足利義尚は香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草模様の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏い、391騎・8,000名を率いて坂本へ出陣しました。9月30日に六角高頼は観音寺城を放棄し、10月6日の野洲河原の戦いでは六角の指示で守備していた山中橘六が敗れたものの幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は後に甲賀五十三家・其の中の21名は甲賀二十一家と呼ばれる事になります。10月10日の八幡山・金剛寺攻略を経て、10月20日に義尚は安養寺に布陣し足利義政と歌を交わしました。然し西暦1488年1月15日夜、望月出雲守と甲賀二十一家が鈎の陣に夜襲を仕掛け、地形を熟知した「亀六の法」によって幕府軍は大損害を被り、義尚自身も深手を負います。同年1月の富樫政親の高尾城帰国、6月の富樫泰高と本願寺門徒による高尾城包囲、7月13日の倶利伽羅峠の戦い、7月15日の本郷春親討死を含む200名余戦死、7月17日の富樫政親・家延父子の自害と57名家臣の殉死により高尾城は落城。同年8月11日に蓮如が一向宗門徒を非難・叱責し、10月には足利義尚が陣中に60本の刀を打たせるも翌日病に倒れました。
西暦1489年4月26日10時、足利義尚は近江国鈎の陣中で「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」「もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月」「出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」の三首の辞世の句を足利義政に詠んで死去します。5月10日の葬儀では遺体の腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入され、日野富子は莫大な資金を提供して裳階の中で声を惜しまず咽び泣きました。同年9月に足利義政が中風を再発させ左半身不随となり、西暦1490年1月27日に病死。同年7月22日に足利義稙が第10代征夷大将軍に就任し六角高頼を赦免・近江国守護に復職させましたが、11月に六角の内衆・国人衆が寺社本所領の返還を拒否して義稙の権威は損なわれ、西暦1491年2月15日には義稙の後ろ盾足利義視が通玄寺で死去。義稙は5月29日に第二次六角征伐を宣言し、9月30日に光浄院に布陣、12月19日に山内政綱を裏切りで誅殺、西暦1492年4月25日の梁瀬河原の戦いでは安富元家が浦上則宗・織田敏定を凌ぐ活躍を見せて六角高頼を飯道寺へ敗走させ、10月に赤松政則が京極高清勢を撃破、11月には六角高頼が伊勢国へ逃亡するも坂下にて北畠材親に敗れます。西暦1493年1月1日、義稙は金剛寺の陣を払い京都へ向けて出発——其の数箇月後の同年5月7日に細川政元が明応の政変を起こし義稙を将軍位から追放する伏線が、此の長征の疲弊の中に既に張られていたのです。室町幕府の権威の最後の輝きを描いた書です。
主要登場人物
- 足利義尚 第9代室町幕府征夷大将軍。1487年9月28日に香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴の直垂・重藤弓・粟田口吉光の太刀を身に纏って391騎8,000名で坂本へ出陣、見物人が群がる華やかな門出を飾った。1488年1月15日夜の鈎の陣夜襲で深手を負い、酒量が増え、1488年10月に60本の刀完成翌日に病臥、1489年4月26日10時に近江国鈎の陣中で三首の辞世の句を詠んで死去した、本書前半の悲劇の主人公。
- 足利義稙 第10代室町幕府征夷大将軍。1487年1月26日に足利義尚の猶子として元服。1490年7月22日に第10代征夷大将軍に就任し六角高頼を赦免・近江国守護に復職させたが、内衆・国人衆の寺社本所領返還拒否で権威を損なわれ、1491年5月29日に第二次六角征伐を宣言、9月30日に光浄院布陣、1493年1月1日に金剛寺の陣を払い京都へ帰還した、本書後半の主人公にして数箇月後の明応の政変で将軍位を追われる伏線を引いた将軍。
- 六角高頼 第27代室町幕府近江国守護(行高)。1487年9月30日に観音寺城を放棄して甲賀郡へ逃亡、10月10日に三雲に逃れ甲賀武士・山中氏・望月氏・和田氏を頼り、其の後伊勢国に行方を眩ませた。1490年7月22日に足利義稙によって赦免・守護復職するも、1491年9月26日に再び観音寺城を捨て甲賀郡に逃亡、1492年4月25日の梁瀬河原の戦いで飯道寺へ敗走、11月に伊勢国へ逃亡するも坂下で北畠材親に敗れた、本書を通じて二度の将軍親征に晒されながら甲賀の地形と武士を頼って生き延びた近江国守護。
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。1487年10月20日に近江国安養寺の足利義尚と「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」と歌を交わした。1489年4月26日に義尚から辞世の句を贈られた直後の5月に政務に復帰、9月に中風再発で左半身不随となり、1490年1月27日に病死した、東山殿の完成を待たずに息子の死を看取った父。
- 足利義視 足利義稙の父。1489年5月13日に義稙・土岐成頼・斎藤妙純と上洛、5月19日に小川殿に移り、5月27日に通玄寺にて出家。1490年6月6日に小川殿を日野富子の居室を除き全て破却し日野の所領も奪取、1491年2月15日に通玄寺で死去し義稙の後ろ盾を失わせた、本書中盤で義稙を擁立した父。
- 日野富子 足利義政の正室で義尚の母。1488年10月の義尚病臥時に看病に駆け付けた。1489年5月10日の義尚の葬儀では莫大な資金を提供し裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。1490年5月16日に小川殿の足利義澄譲与を決定、6月6日に義視に小川殿を破却され所領を奪われた、本書を通じて息子の死を最も激しく悼んだ母。
- 細川政元 第29代室町幕府管領就任前の細川京兆家次期当主。1487年9月28日の坂本出陣に参加し、10月6日に琵琶湖経由で山田・志那に到着して野洲河原の戦いに参加、10月10日には武田国信・富樫政親等と共に八幡山・金剛寺攻略を担った。1489年5月13日には足利義視・義稙の上洛に反対し、義尚の遺体を日野富子と共に京都へ運んだ、本書を通じて幕府軍の中核を担った将。
- 富樫政親 加賀国守護。1487年9月28日の足利義尚の坂本出陣に参陣したが、兵粮米・軍費を加賀国民衆に課した事で反富樫の機運が高まり、1488年1月に高尾城に帰国。同年6月には10,000名余で高尾城に籠城して大叔父富樫泰高率いる本願寺門徒の包囲を受け、7月15日の総攻撃で200名余の戦死者を出し、7月17日に嫡男富樫家延と共に自害した、加賀一向一揆の犠牲となった守護。
- 富樫泰高 富樫政親の大叔父。1488年6月に本願寺門徒を始めとする一揆方によって、政親に討たれた政親の弟富樫幸千代の敵を打つ為に擁立され、高尾城の包囲を主導。7月17日の政親自害後、政親の首級を灰の中から探し出して大乗寺に葬った、加賀一向一揆の象徴的擁立守護。
- 蓮如 第8世本願寺宗主。1488年7月17日の富樫政親自害を聞いた足利義尚から本願寺門徒等の破門を迫られ、8月11日に一向宗門徒の行動を非難・叱責した、加賀一向一揆を統制しようとした宗主。
- 京極高清 京極家の家督を巡って京極政経と争った武将。1486年9月に多賀宗直に攻められ敏満寺城を放棄し甲賀郡三雲に逃亡、11月に反撃して多賀を美濃国に逃亡させ、1487年5月23日には国友河原で多賀を自刃に追い込んだ。1487年9月28日の足利義尚の坂本出陣に参陣し、10月10日の八幡山・金剛寺攻略にも参加した、本書冒頭の京極家内訌の勝者。
- 望月出雲守 甲賀五十三家の筆頭格。1488年1月15日夜の鈎の陣夜襲を主導し、甲賀二十一家を率いて足利義尚の本陣に迫った。煙幕・放火・「亀六の法」によって幕府軍を翻弄し義尚に深手を負わせた、本書最大の軍事的転換点を引いた甲賀の頭領。
- 山内政綱 六角高頼方の武将。1488年1月15日に三上に布陣して鈎の陣夜襲に呼応。1491年12月4日に六角を裏切り足利義稙方に寝返ったが、12月19日に義稙の命で赤松政則・織田敏定・浦上則宗・織田に大津浜道場で挟撃され降伏、許されず赤松伯耆守によって首を討たれた、本書後半で寝返りの罠に堕ちた武将。
- 安富元家 細川政元の家宰。1491年11月2日に金剛寺に入り、1492年4月の六角方牢人衆による奇襲で敗走するも、4月25日の梁瀬河原の戦いでは7,800名の幕府軍の中で浦上則宗・織田敏定を凌ぐ活躍を見せて六角高頼を飯道寺に敗走させた、第二次六角征伐の最大の武功者。
- 北畠材親 伊勢国の武将。1492年11月、伊勢国へ逃亡してきた六角高頼を坂下にて撃破した、本書終盤で六角の最後の逃避行に終止符を打った武将。
- 土御門有宣 陰陽博士。1488年10月、足利義尚に「60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る」と二階堂政行経由で進言した。然し60本の刀完成翌日に義尚が病臥し、其の半年後に死去した、本書中盤で呪詛と運命の転換点を引いた占術師。
京極家内訌・足利義尚の坂本出陣・観音寺城放棄・野洲河原の戦いと甲賀五十三家・八幡山と金剛寺攻略・鈎の陣夜襲と亀六の法・富樫政親父子自害と高尾城落城・蓮如への破門要請・60本の刀と足利義尚の鈎陣中死去・辞世の句・足利義政中風再発と病死・足利義稙の征夷大将軍就任・第二次六角征伐・梁瀬河原の戦い・北畠材親による坂下撃破・足利義稙金剛寺陣払い京都帰還──
第9代と第10代将軍が連続して挑んだ六角討伐の6年4箇月を一冊に。
JPY 200(税込)
購入する →