長享・延徳の乱一元化
西暦1,487年、着飾った将軍が坂本へ出陣した──
長享・延徳の乱を年月日単位で一元化。
JPY 200(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。
本書について
西暦1,486年9月頃、京極政経が老臣の多賀宗直に命じ、敏満寺城(現在の滋賀県犬上郡多賀町敏満寺)に居る京極高清を攻めさせた。高清は敗れて城を捨て、甲賀郡三雲(現在の滋賀県湖南市)へ逃れる。然し11月頃には高清が反撃に転じ、多賀は美濃国へ逃亡した。西暦1,487年5月23日、高清は国友河原(現在の滋賀県長浜市国友町)で政経を攻め、国友城主の国友兵庫助を攻撃する。政経が援軍として派遣した多賀に対し、高清は国友城の包囲を解いて国友河原で迎撃した。作戦は成功し、多賀の軍は月ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)へ逃れたが、追撃から逃れられぬと悟った多賀は自刃した。本書は、此の近江の内訌を起点として、西暦1,493年1月1日に足利義稙が金剛寺の陣を払うまでを、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,487年8月頃、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府へ持ち込まれ、之を切っ掛けに他の近江国の奉公衆も六角行高に対して訴訟を起こした。12日、足利義尚は六角高頼征伐を正式に決定し、在京・在国の諸将を招集する。9月27日に六角方は近江国南部各地への布陣を終え、28日、足利義尚は香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の模様の直垂を纏い、重藤弓と粟田口吉光の太刀を携えて坂本(現在の滋賀県大津市坂本)へ出陣した。着飾った将軍を一目見ようと見物人が集まったという。兵力は391騎・8,000名。坂本では細川政元・斯波義寛・畠山政長・富樫政親・武田国信等と合流した。30日、六角高頼は観音寺城を放棄して甲賀郡へ逃亡する。
10月6日、細川政元の軍は琵琶湖を経由して山田・志那(何れも現在の滋賀県草津市)へ到着し、坂本から陸路で瀬田を経てきた足利義尚の軍と合流した。両軍は、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六の軍と野洲河原で交戦する。山中は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、此の時戦功を挙げた甲賀武士53名は後に甲賀五十三家と呼ばれた。中でも戦果の目覚ましい21名は六角から感状を受け、甲賀二十一家と称された。10日、細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清等の軍が、伊庭氏の拠点である八幡山(現在の滋賀県近江八幡市南津田町)と九里氏の拠点である金剛寺(現在の滋賀県近江八幡市)を攻撃して陥落させる。同じ日、観音寺城に居た六角高頼は甲賀武士・山中氏・望月氏・和田氏を頼り、日野川沿いに三雲へ逃れた。
10月20日、足利義尚の軍は六角を追って坂本から琵琶湖を経由し、安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣する。六角氏の押領地は没収され、側近や寺社へ還付された。義尚は父の足利義政へ「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」と歌を贈り、義政は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」と返している。11月頃、正覚寺(現在の滋賀県草津市上笠)に布陣していた浦上則宗の軍が先陣を切って甲賀郡へ侵攻したが、六角高頼は正面切って戦おうとせず、伊勢国へ行方を眩ませた。12日、義尚は本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)へ移す。世に言う鈎の陣である。
西暦1,488年1月1日、六角方の甲賀衆が伊勢貞誠の陣を放火した。15日、六角高頼の軍が甲賀郡の山中から出陣し、山内政綱は三上(現在の滋賀県野洲市)に布陣する。そして夜、望月出雲守と甲賀二十一家が、近江国鈎の足利義尚の陣所へ夜襲を仕掛けた。地元の地形を熟知した甲賀衆は、煙幕を張り放火を仕掛けて混乱を起こし、本陣に迫る。敵が攻めてくると身を隠し、撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法に室町幕府軍は翻弄され、最終的に大損害を被り、義尚も深手を負った。22日には織田広近の陣が、7月2日には浦上則宗の陣が、同じ甲賀衆によって放火されている。
戦線は加賀国にも及んだ。西暦1,488年1月頃、坂本への出陣に際して兵粮米・軍費を領国の民衆へ課した富樫政親は、反富樫の機運が高まった事から帰国し、高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)へ入る。一揆方は家老の山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫は受け入れず城を修築して備えた。2月25日、援軍を待った被官の松坂信遠は今江兼治率いる7,000騎余に攻められて討ち取られる。6月頃、富樫政親に討たれた弟・富樫幸千代の敵を打つ為に擁立された大叔父・富樫泰高率いる本願寺門徒等の一揆方が、高尾城の包囲を開始した。7月5日に足利義尚が朝倉孝景等へ援軍派遣を命じたものの、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻む。9日に一揆方は大乗寺(現在の石川県金沢市長坂町)へ本陣を構えて包囲を本格化させ、13日には遊佐氏・神保氏の救援軍が倶利伽羅峠で、畠山義統の援軍も河北郡黒津船地内で敗れた。15日6時、一揆方が総攻撃を掛ける。本郷春親と其の息子松千代丸を始め200名余が討死し、山川高藤は政親の妻巴を城から脱出させた上、自らも裏切って城を去った。17日、富樫政親は嫡男の富樫家延と共に自害し、高尾城は落城する。宮永八郎三郎以下、後を追って自害した者も多かった。政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主・蓮如に門徒等の破門を迫った。8月11日、蓮如は一向宗門徒の行動を非難・叱責している。
西暦1,488年10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した。二階堂政行を通じ、陰陽博士の土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞いての事である。然し其の翌日、義尚は病に倒れた。元々体が弱い上に、軍営での激務に加えて京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。日野富子が看病に駆け付け、一旦は回復する。然し西暦1,489年4月16日に病は重篤となり、26日の10時、義尚は近江国鈎の陣中で死去した。水と酒しか受け付けない状態であったという。「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり」を始めとする三首を義政へ詠み遺し、遺体は細川政元と日野富子に譲られて、凱旋将軍の様な隊列で京都へ帰還した。5月10日の葬儀では、腐臭を防ぐ為に口・目・鼻へ水銀が注入され、日野富子は莫大な資金を提供し、裳階の中で声を惜しまず咽び泣いたという。義尚の後継として足利義政が政務に復帰した。
5月13日、足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純が上洛する。本来は葬儀への参列を予定していたが、細川政元の反対で葬儀後となった。西暦1,489年9月頃に中風を再発させて左半身不随となっていた足利義政は、西暦1,490年1月27日に病死する。3月頃に東山殿が完成して「慈照院」と名付けられ、4月頃には義政の菩提を弔う為に「慈照寺」として禅寺へ改められた。7月22日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、足利義視が准后宣下を受けて政務を担う。義稙は六角高頼を赦免して近江国守護へ復職させたが、11月頃、六角氏の内衆・国人衆が寺社本所領の返還を拒否し、義稙の権威は損なわれた。西暦1,491年2月15日に義視が死去して後ろ盾を失った義稙は、5月29日、六角高頼征伐を宣言する。9月26日に六角は再び観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃亡し、30日、義稙は光浄院に布陣した。12月4日には山内政綱が六角を裏切って義稙方へ寝返るが、19日、赤松政則・織田敏定に征伐を命じられ、浦上則宗と織田に大津の浜道場で挟撃されて降伏したものの、赦されず赤松伯耆守に首を討たれている。西暦1,492年4月25日、約4,000名の六角氏の牢人衆と、浦上則宗・織田敏定・安富元家・逸見弾正率いる7,800名の室町幕府軍が梁瀬河原で交戦し、六角高頼は飯道寺へ敗走した。其の後六角は京極高清と手を結んで幕府軍の撹乱を図り、10月頃には赤松政則が京極勢を破っている。11月頃、六角高頼は伊勢国へ逃亡したが、坂下(現在の三重県亀山市関町)で北畠材親の軍に敗れた。そして西暦1,493年1月1日、足利義稙は金剛寺の陣を払い、京都へ向けて出発する。
登場人物
- 足利義尚 第9代室町幕府征夷大将軍。西暦1,487年8月12日に六角高頼征伐を正式決定し、9月28日、着飾って坂本へ出陣した。安養寺、次いで鈎の真宝館へ本陣を移すが、甲賀衆の夜襲で深手を負う。陣中に60本の刀を打たせた翌日に病へ倒れ、西暦1,489年4月26日、近江国鈎の陣中で死去した。
- 六角高頼 征伐の対象となった近江の大名。西暦1,487年9月30日に観音寺城を放棄して甲賀郡へ逃れ、10月10日には甲賀武士・山中氏・望月氏・和田氏を頼って三雲へ移り、11月頃には伊勢国へ行方を眩ませた。足利義稙に一旦赦免され近江国守護へ復職するも再び征伐を受け、西暦1,492年11月頃、伊勢国坂下で北畠材親に敗れた。
- 足利義稙 足利義視の息子。西暦1,487年1月26日に足利義尚の猶子として元服し、9月16日には日野富子の推挙で従五位下・左馬頭に任ぜられた。西暦1,490年7月22日に第10代室町幕府征夷大将軍へ就任し、六角高頼を赦免したが、後ろ盾の義視を失った翌年に再征伐を宣言。西暦1,493年1月1日、金剛寺の陣を払って京都へ向かった。
- 足利義政 第8代室町幕府征夷大将軍。安養寺に布陣した義尚の歌に「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」と返した。義尚の死後に政務へ復帰したが、西暦1,489年9月頃に中風を再発させて左半身不随となり、翌年1月27日に病死した。其の菩提を弔う為、東山殿は慈照寺へ改められた。
- 足利義視 足利義稙の父。西暦1,489年5月13日に上洛し、19日に日野富子の住む小川殿へ移り、27日に通玄寺で出家した。西暦1,490年6月6日には小川殿を日野の居室を除いて破却し、所領も奪っている。義稙の将軍就任に伴い准后宣下を受けて政務を担ったが、西暦1,491年2月15日に死去した。
- 日野富子 足利義尚の母。足利義稙の従五位下叙任を推挙し、鈎の陣で倒れた義尚の看病に駆け付けた。義尚の遺体を細川政元と共に京都へ迎え、葬儀では莫大な資金を提供して裳階の中で咽び泣いたという。小川殿を足利義澄に与える決定は、細川政元と内談しての義澄擁立という噂を呼んだ。
- 細川政元 管領家の当主。西暦1,487年10月6日に琵琶湖を経由して山田・志那へ到着し、足利義尚の軍と合流して野洲河原で戦い、10日には八幡山・金剛寺を攻略した。足利義尚の遺体を日野富子と共に京都へ迎え、足利義視等の葬儀参列には反対している。
- 山中橘六 六角高頼の指示で山田方面を守備していた武将。西暦1,487年10月6日、野洲河原で室町幕府軍と交戦し、敗れながらも多大な損害を与えた。此の戦で戦功を挙げた甲賀武士53名が甲賀五十三家と呼ばれる事となる。
- 望月出雲守 甲賀五十三家の筆頭格。西暦1,488年1月15日の夜、甲賀二十一家を率いて近江国鈎の足利義尚の陣所へ夜襲を仕掛けた。煙幕と放火で混乱を起こし、「亀六の法」により室町幕府軍を翻弄した。
- 京極政経 京極家の一方の当主。西暦1,486年9月頃、老臣の多賀宗直に命じて敏満寺城の京極高清を攻めさせた。西暦1,487年5月23日には国友河原で高清の攻撃を受け、援軍に送った多賀を失っている。同年9月28日の足利義尚の出陣にも加わった。
- 京極高清 京極政経と争った当主。西暦1,486年9月頃に敏満寺城を追われて三雲へ逃れたが、11月頃に反撃へ転じた。国友河原では包囲を解いて多賀宗直を迎撃し自刃へ追い込む。足利義尚の出陣に加わり八幡山攻めにも参じたが、後に六角高頼と手を結び、赤松政則に破られた。
- 多賀宗直 京極政経の老臣。西暦1,486年9月頃に敏満寺城の京極高清を攻めて勝利したが、11月頃の反撃で美濃国へ逃亡。西暦1,487年5月23日、国友城の援軍として派遣された先の国友河原で高清に迎撃され、月ヶ瀬へ逃れた末に自刃した。
- 富樫政親 加賀国の守護。足利義尚の坂本出陣に際して兵粮米・軍費を領国の民衆へ課し、反富樫の機運を招いた。西暦1,488年1月頃に帰国して高尾城へ入り、一揆方の和睦を拒んで籠城する。7月15日の総攻撃で200名余を失い、17日、嫡男の富樫家延と共に自害した。
- 富樫泰高 富樫政親の大叔父。政親に討たれた弟・富樫幸千代の敵を打つ為に本願寺門徒等の一揆方から擁立され、西暦1,488年6月頃から高尾城の包囲を指揮した。落城後、政親の首級を灰の中から探し出して大乗寺に葬っている。
- 山川高藤 富樫政親の家老で、加賀国守護代。一揆方の和睦を政親へ取り次ぎ、西暦1,488年3月頃には援軍を迎える為に高尾城を出て夜襲を受けた。落城の日には妹おわんの嫁ぎ先を通じて政親の妻巴を脱出させ、自らも裏切って城を去るが、三池掃部に捕縛され祇陀寺へ幽閉された後、脱出して越前国大野へ向かった。
- 本郷春親 富樫政親方の将。西暦1,488年7月13日には一揆方へ高尾城の包囲を解く様促したが失敗した。15日の総攻撃では河合藤左衛門の部隊を攻めたが伊藤久内に捕縛され、救おうとした息子の本郷松千代丸も木村八郎九郎に捕らえられ、父子ともに討死した。
- 蓮如 第8世本願寺宗主。富樫政親の自害に激怒した足利義尚から門徒等の破門を迫られ、西暦1,488年8月11日、一向宗門徒の行動を非難・叱責した。
- 朝倉孝景 越前国の大名。富樫政親の被官松坂信遠から援軍を要請され、西暦1,488年7月5日には足利義尚からも派遣を命じられて加賀国へ援軍を送ったが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。
- 浦上則宗 西暦1,487年11月頃、正覚寺に布陣して先陣を切り甲賀郡へ侵攻した。翌年7月2日には陣を甲賀衆に放火されている。西暦1,492年には梁瀬河原の戦いに加わり、同年12月には織田敏定と共に山内政綱を大津の浜道場で挟撃した。
- 安富元家 細川政元の家宰。西暦1,491年11月2日に金剛寺へ入ったが、翌年4月頃に六角方の牢人衆の奇襲を受けて敗走した。梁瀬河原の戦いでは浦上則宗・織田敏定を凌ぐ活躍を見せている。
- 山内政綱 六角方の武将。西暦1,488年1月15日には三上に布陣した。西暦1,491年12月4日に六角高頼を裏切って足利義稙方へ寝返ったが、19日、赤松政則・織田敏定に征伐を命じられ、浦上則宗と織田の挟撃を受けて降伏する。然し義稙は之を許さず、赤松伯耆守によって首を討たれた。
- 赤松政則 西暦1,491年12月19日、織田敏定と共に山内政綱征伐を命じられた。西暦1,492年4月頃には安富元家の援軍を命じられ、10月頃には芝原へ到着して京極高清勢を破り、甲津畑へ進軍している。
- 逸見弾正 武田元信の命で安富元家に加勢した武将。西暦1,492年4月25日の梁瀬河原の戦いでは、山上に陣取ったまま見物していた。同年9月26日頃には草津の武田元信の陣中で青地長綱と争い、討たれかけたが助けられ負傷だけで済んだ。
- 土御門有宣 陰陽博士。二階堂政行を通じて足利義尚に、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると伝えた。刀は西暦1,488年10月頃に完成したが、其の翌日に義尚は病へ倒れた。
- 北畠材親 伊勢国の大名。西暦1,492年11月頃、伊勢国へ逃亡した六角高頼を坂下(現在の三重県亀山市関町)にて破った。
本書が記録する出来事
- 京極政経と京極高清の抗争 西暦1,486年9月頃、京極政経が多賀宗直に命じて敏満寺城の京極高清を攻めさせ、高清は甲賀郡三雲へ逃れる。11月頃には高清が反撃に転じ、多賀は美濃国へ逃亡した。本書の起点となる出来事である。
- 国友河原の戦い 西暦1,487年5月23日、京極高清が国友河原で京極政経を攻め、国友城主国友兵庫助を攻撃する。政経の送った援軍に対し、高清は包囲を解いて迎撃し、多賀宗直の軍は月ヶ瀬へ逃れた末、多賀は追撃から逃れられぬと悟って自刃した。
- 奉公衆の訴訟と征伐の決定 西暦1,487年8月頃、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府へ持ち込まれ、他の近江国の奉公衆も六角行高に対し訴訟を起こす。12日、足利義尚は六角高頼征伐を正式に決定し、在京・在国の諸将を招集した。
- 足利義尚の坂本出陣 西暦1,487年9月28日、足利義尚が香の袷・白綾の腹巻・赤地金襴に桐唐草の直垂を纏い、重藤弓と粟田口吉光の太刀を携えて坂本へ出陣する。着飾った将軍を一目見ようと見物人が集まり、391騎・8,000名の軍勢に諸将が加わった。
- 観音寺城の放棄 西暦1,487年9月30日、六角高頼が観音寺城を放棄し、甲賀郡へ逃亡する。正面から幕府軍と当たらぬという、以後繰り返される六角の姿勢が此処に現れている。
- 野洲河原の戦いと甲賀五十三家 西暦1,487年10月6日、細川政元と足利義尚の軍が、山田方面を守備していた山中橘六の軍と野洲河原で交戦する。山中は敗れたものの多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は甲賀五十三家、其の中で戦果の目覚ましい21名は六角から感状を受けて甲賀二十一家と呼ばれた。
- 八幡山・金剛寺の攻略 西暦1,487年10月10日、細川政元・武田国信・富樫政親・京極高清等の軍が、伊庭氏の拠点八幡山と九里氏の拠点金剛寺を攻撃する。両氏は逃亡し、室町幕府軍は之を陥落させて観音寺城攻略を目指した。同じ日、六角高頼は甲賀武士等を頼って三雲へ逃れている。
- 安養寺布陣と父子の贈答歌 西暦1,487年10月20日、足利義尚の軍が安養寺に布陣し、六角氏の押領地を没収して側近や寺社へ還付する。義尚は足利義政へ「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」と贈り、義政は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」と返した。
- 鈎への本陣移転 西暦1,487年11月頃、浦上則宗の軍が先陣を切って甲賀郡へ侵攻したが、六角高頼は正面切って戦わず伊勢国へ行方を眩ませた。12日、足利義尚は本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)へ移した。
- 鈎の陣への夜襲と亀六の法 西暦1,488年1月15日の夜、望月出雲守と甲賀二十一家が近江国鈎の足利義尚の陣所へ夜襲を仕掛ける。煙幕と放火で混乱を起こし、敵が攻めれば身を隠し撤退すれば背後から討つ「亀六の法」により室町幕府軍は翻弄され、大損害を被って義尚も深手を負った。
- 富樫政親の帰国と高尾城修築 西暦1,488年1月頃、坂本出陣の兵粮米・軍費を領国の民衆へ課した事で反富樫の機運が高まり、富樫政親は帰国して高尾城へ入る。一揆方は山川高藤を介して和睦を伝えたが富樫は受け入れず、城を修築して戦いに備えた。
- 高尾城の包囲 西暦1,488年6月頃、富樫泰高率いる本願寺門徒等の一揆方が、10,000名余で籠城する高尾城の包囲を開始する。7月9日には大乗寺に本陣を構えて包囲を本格化させ、13日には遊佐氏・神保氏の救援軍が倶利伽羅峠で、畠山義統の援軍も河北郡黒津船地内で敗れた。
- 高尾城の落城と富樫政親の自害 西暦1,488年7月15日6時、一揆方が総攻撃を掛け、本郷春親・松千代丸父子を始め200名余が討死する。山川高藤は政親の妻巴を脱出させ、自らも裏切って城を去った。17日、富樫政親は嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城は落城。後を追って自害した者も多く、政親の首級は富樫泰高が灰の中から探し出して大乗寺に葬った。
- 蓮如の門徒叱責 富樫政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、第8世本願寺宗主蓮如に本願寺門徒等の破門を迫る。西暦1,488年8月11日、蓮如は一向宗門徒の行動を非難・叱責した。
- 60本の刀と足利義尚の発病 西暦1,488年10月頃、足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成する。二階堂政行を通じ陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞いての事であった。然し其の翌日、義尚は病に倒れた。
- 足利義尚の陣没と葬儀 西暦1,489年4月26日10時、足利義尚が近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。遺体は細川政元と日野富子に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で京都へ帰還した。5月10日の葬儀では腐臭を防ぐ為に口・目・鼻へ水銀が注入され、其の後等持院に葬られた。
- 足利義政の死と慈照寺 西暦1,489年9月頃に中風を再発させて左半身不随となった足利義政が、西暦1,490年1月27日に病死する。遺骨は遺言により西指庵へ納められた。3月頃に東山殿が完成して「慈照院」と名付けられ、4月頃には菩提を弔う為に「慈照寺」として禅寺へ改められ、相国寺の末寺として創始された。
- 足利義稙の将軍就任と六角高頼の赦免 西暦1,490年7月22日、足利義稙が第10代室町幕府征夷大将軍に就任し、足利義視は准后宣下を受けて政務を担う。義稙は六角高頼を赦免して第27代室町幕府近江国守護へ復職させたが、11月頃、六角氏の内衆・国人衆が寺社本所領の返還を拒否し、義稙の権威は損なわれた。
- 再征伐の宣言と山内政綱の処刑 西暦1,491年2月15日に足利義視が死去して後ろ盾を失った足利義稙は、5月29日に六角高頼征伐を宣言する。9月26日に六角は観音寺城を捨てて逃亡し、12月4日には山内政綱が六角を裏切って義稙方へ寝返るが、挟撃を受けて降伏した末、赦されず赤松伯耆守に首を討たれた。
- 梁瀬河原の戦い 西暦1,492年4月25日、約4,000名の六角氏の牢人衆と、浦上則宗・織田敏定・安富元家・逸見弾正率いる7,800名の室町幕府軍が梁瀬河原にて交戦する。安富は浦上・織田を凌ぐ活躍を見せ、六角高頼は飯道寺へ敗走した。其の後六角は京極高清と手を結び、幕府軍の撹乱を図った。
- 六角高頼の伊勢逃亡と撤兵 西暦1,492年10月頃、赤松政則が芝原から京極高清勢を破って甲津畑へ進軍し、京極勢は北方へ退却する。11月頃、足利義稙は三井寺から金剛寺へ進軍し、六角高頼は伊勢国へ逃亡したが坂下で北畠材親に敗れた。西暦1,493年1月1日、義稙は金剛寺の陣を払い京都へ向けて出発する。本書が記録する最後の日である。
鈎の陣の夜襲から高尾城の落城、梁瀬河原へ──
六角高頼を追った将軍二代の全過程を一元化。
JPY 200(税込)
購入する →
お支払いはカード情報の入力だけで完了します
購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します
お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。