電子書籍「足利義稙の征夷大将軍返り咲き一元化」の表紙

足利義稙の
征夷大将軍返り咲き一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,507年8月2日〜1,508年8月14日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
4ページ
最新更新日
西暦2,026年8月10日

西暦1,507年12月、三田尻から大船70隻が出た──
足利義稙の返り咲きの一年を年月日単位で一元化。

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,507年8月2日、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠が、細川澄元と三好之長の屋敷を攻撃した。三好は澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)へ逃れ、其の後は山中為俊を頼って甲賀郡へ落ち延び、山中の下で在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んでゆく。16日には細川澄之が丹波国から上洛し、足利義澄は御内書を下して澄之を細川京兆家の当主として承認した。然し9月7日、甲賀の国人等と共に京都へ戻った三好之長が、細川高国・細川政賢・細川尚春等と共に澄之の屋敷を襲撃する。澄之は自害し、香西・薬師寺は討死した。翌8日、細川澄元は足利義澄に拝謁し、京兆家の家督を承認される。本書は、此の京都での家督争いを起点として、西暦1,508年8月14日に細川高国が管領へ就任するまでの一年を、年月日単位で一元化した記録である。

京都が揺れる其の年の暮れ、遠く西国で船が出た。西暦1,507年12月28日、足利義稙と大内義興が上洛を意図し、大船70隻を中心とした艦隊を率いて三田尻(現在の山口県防府市)を出発する。大内は右田弘詮等に本国の留守を任せた上での出立であった。両名は西国の有力守護に味方となる様要請しつつ、防府に入る。艦隊は瀬戸内海を東へ進んだ。西暦1,508年2月27日に大畠(現在の山口県柳井市)、3月23日に蒲刈(現在の広島県呉市の上蒲刈島・下蒲刈島)、4月16日に蒲刈を出航して25日に鞆(現在の広島県福山市)、5月15日に牛窓(現在の岡山県瀬戸内市)、23日には兵庫津へと、寄港地を繋いでゆく。

艦隊が近付くにつれ、畿内の力関係は動いた。西暦1,508年4月30日、細川高国は清水寺に対し、自軍が乱暴狼藉・山林伐採・課役賦課を行う事を禁じる禁制を発する。5月8日には、細川高国方が優勢となった為、細川澄元が京都から甲賀(現在の滋賀県)へ退去した。そして5月15日の夜、足利義澄は、大内義興軍に対抗する軍事力を持っていない事から京都を脱出する。畠山澄重・細川高久・一色七郎・伊勢貞則・小笠原元宗を始めとする18名の近臣が随い、義澄は九里信隆が城主を務める水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市牧町)へ入った。将軍が京都を空けたのである。

西暦1,508年5月26日、足利義稙と大内義興は堺へ到着し、引摂寺(現在の大阪府堺市堺区宿院町西)に入った。畿内平定に当たっていた細川高国の降伏を受け入れ、畠山尚順等の参礼を受ける。細川との連携を強め、上洛の準備が進められた。6月3日、義稙は細川高国を細川京兆家当主と認める御内書を発する。前年に澄之、次いで澄元が承認された座が、此処で三度目の主を得た事になる。

7月3日、足利義稙と大内義興は堺を出発し、5日、8,000名の兵を率いて上洛した。義稙は一条室町(現在の京都府京都市上京区)の吉良義信の屋敷に入り、其処を仮御所とする。7月28日、足利義稙は朝廷により第10代室町幕府征夷大将軍として再任された。同じ日、大内義興も管領代に就任している。義稙は恩賞として、相国寺崇寿院領である和泉国堺南荘(現在の大阪府堺市堺区)を大内に与えようとしたが、大内は之を辞退した。其の代替として大内は第33代室町幕府山城国守護に任じられ、又、今川氏親が第23代室町幕府遠江国守護に補任されている。8月14日、細川高国が第32代管領に就任し、新たな体制が整った。


登場人物

  • 足利義稙 本書の中心人物。西暦1,507年12月28日、大内義興と共に上洛を意図して三田尻から大船70隻の艦隊を出し、瀬戸内海を東へ進んだ。1,508年5月26日に堺へ到着して細川高国の降伏を受け入れ、6月3日には高国を細川京兆家当主と認める御内書を発する。7月5日に8,000名を率いて上洛し、28日、第10代室町幕府征夷大将軍として再任された。
  • 大内義興 足利義稙を奉じた周防国の大名。右田弘詮等に本国の留守を任せて三田尻を出航し、西国の有力守護へ味方になる様要請しながら艦隊を東進させた。西暦1,508年7月28日に管領代へ就任し、恩賞の和泉国堺南荘は辞退して、代替に第33代室町幕府山城国守護へ任じられた。
  • 足利義澄 第11代室町幕府征夷大将軍。西暦1,507年8月16日に細川澄之を、9月8日には細川澄元を京兆家当主として承認した。1,508年5月15日の夜、大内義興軍に対抗する軍事力を持っていない為、畠山澄重・細川高久等18名の近臣と共に京都を脱出し、九里信隆が城主を務める水茎岡山城へ入った。
  • 細川澄元 細川京兆家の家督を争った一人。西暦1,507年8月2日に屋敷を襲撃され、三好之長に守られて青地城へ逃れ、甲賀郡へ落ち延びた。9月8日に足利義澄へ拝謁して家督を承認されたが、1,508年5月8日、細川高国方が優勢となった為、京都から甲賀へ退去した。
  • 細川澄之 細川京兆家の家督を争った一人。西暦1,507年8月2日に香西元長・薬師寺長忠と共に細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃し、16日に丹波国から上洛して足利義澄から京兆家当主として承認された。然し9月7日、三好之長等の襲撃を受けて自害した。
  • 細川高国 西暦1,507年9月7日、三好之長等と共に細川澄之の屋敷を襲撃した。1,508年4月30日には清水寺へ乱暴狼藉等を禁じる禁制を発し、畿内平定に当たる。5月26日に堺で足利義稙へ降伏し、6月3日に京兆家当主と認める御内書を受け、8月14日、第32代管領に就任した。
  • 三好之長 細川澄元の腹心。西暦1,507年8月2日の襲撃に際して澄元を守って青地城へ逃れ、山中為俊を頼って甲賀郡へ落ち延び、在地勢力を味方に引き入れて近江国人衆を取り込んだ。9月7日には甲賀の国人等と共に京都へ戻り、細川澄之の屋敷を襲撃した。
  • 香西元長 細川澄之方の人物。西暦1,507年8月2日、澄之・薬師寺長忠と共に細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃したが、9月7日の澄之邸襲撃において討死した。
  • 薬師寺長忠 細川澄之方の人物。西暦1,507年8月2日の細川澄元・三好之長邸攻撃に加わったが、9月7日の澄之邸襲撃において討死した。
  • 細川政賢 西暦1,507年9月7日、三好之長・細川高国・細川尚春と共に細川澄之の屋敷を襲撃した人物。
  • 細川尚春 西暦1,507年9月7日、三好之長・細川高国・細川政賢と共に細川澄之の屋敷を襲撃した人物。
  • 山中為俊 甲賀郡の人物。西暦1,507年8月、細川澄元を守って落ち延びた三好之長を迎え入れた。三好は山中の下で在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んで、翌月の反攻の足掛かりとした。
  • 右田弘詮 大内義興の家臣。西暦1,507年12月28日の三田尻出航に際し、本国の留守を任された。
  • 畠山尚順 西暦1,508年5月26日、堺の引摂寺に入った足利義稙・大内義興に参礼した人物。
  • 吉良義信 一条室町(現在の京都府京都市上京区)に屋敷を構えていた人物。西暦1,508年7月5日に上洛した足利義稙は、其の屋敷へ入り、仮御所とした。
  • 九里信隆 水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市牧町)の城主。西暦1,508年5月15日の夜に京都を脱出した足利義澄を、其の城に迎え入れた。
  • 今川氏親 西暦1,508年7月28日、足利義稙の征夷大将軍再任と同じ日に、第23代室町幕府遠江国守護へ補任された人物。
  • 畠山澄重 足利義澄の近臣。西暦1,508年5月15日の夜、細川高久・一色七郎・伊勢貞則・小笠原元宗等と共に、義澄の京都脱出に随った18名の筆頭に挙げられている。

本書が記録する出来事

  • 細川澄元・三好之長邸の襲撃 西暦1,507年8月2日、細川澄之・香西元長・薬師寺長忠が細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃する。三好は澄元を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)へ逃れた。本書の起点となる出来事である。
  • 三好之長の甲賀落ち延び 三好之長は細川澄元を守って山中為俊を頼り甲賀郡へ落ち延びる。山中の下で在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んで、反攻の足掛かりを築いた。
  • 細川澄之の京兆家当主承認 西暦1,507年8月16日、細川澄之が丹波国から上洛する。足利義澄は御内書を下し、澄之を細川京兆家の当主として承認した。
  • 細川澄之邸の襲撃と自害 西暦1,507年9月7日、近江国甲賀の国人等と共に京都へ戻った三好之長が、細川高国・細川政賢・細川尚春等と共に細川澄之の屋敷を襲撃する。澄之は自害し、香西元長と薬師寺長忠は討死した。
  • 細川澄元の家督承認 西暦1,507年9月8日、細川澄元が足利義澄に拝謁し、京兆家の家督を承認される。一ヶ月余りの間に、京兆家の当主が澄之から澄元へ入れ替わった。
  • 三田尻からの船出 西暦1,507年12月28日、足利義稙と大内義興が上洛を意図し、大船70隻を中心とした艦隊を率いて三田尻(現在の山口県防府市)を出発する。大内は右田弘詮等に本国の留守を任せ、両名は西国の有力守護へ味方になる様要請しつつ防府に入った。
  • 瀬戸内海の東航 西暦1,508年2月27日に大畠(現在の山口県柳井市)、3月23日に蒲刈(現在の広島県呉市の上蒲刈島・下蒲刈島)、4月25日に鞆(現在の広島県福山市)、5月15日に牛窓(現在の岡山県瀬戸内市)、23日に兵庫津と、艦隊は寄港地を繋いで東へ進んだ。
  • 清水寺への禁制 西暦1,508年4月30日、細川高国が清水寺に対し、自軍が乱暴狼藉・山林伐採・課役賦課を行う事を禁じる禁制を発する。
  • 細川澄元の甲賀退去 西暦1,508年5月8日、細川高国方が優勢となった為、細川澄元が京都から甲賀(現在の滋賀県)へ退去する。
  • 足利義澄の京都脱出 西暦1,508年5月15日の夜、足利義澄が、大内義興軍に対抗する軍事力を持っていない為、畠山澄重・細川高久・一色七郎・伊勢貞則・小笠原元宗等18名の近臣と共に京都を脱出する。其の後、九里信隆が城主を務める水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市牧町)へ入った。
  • 堺到着と細川高国の降伏 西暦1,508年5月26日、足利義稙と大内義興が堺へ到着し、引摂寺(現在の大阪府堺市堺区宿院町西)に入る。畿内平定に当たっていた細川高国の降伏を受け入れ、畠山尚順等の参礼を受けて、上洛の準備を進めた。
  • 細川高国の京兆家当主承認 西暦1,508年6月3日、足利義稙が細川高国を細川京兆家当主と認める御内書を発する。澄之・澄元に続き、一年足らずで三人目の当主が立った事になる。
  • 8,000名の上洛と仮御所 西暦1,508年7月3日に堺を出発した足利義稙と大内義興は、5日、8,000名の兵を率いて上洛する。義稙は一条室町(現在の京都府京都市上京区)の吉良義信の屋敷に入り、其処を仮御所とした。
  • 征夷大将軍への再任 西暦1,508年7月28日、足利義稙が朝廷により第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。同日、大内義興も管領代に就任した。恩賞の和泉国堺南荘は大内が辞退し、代替として第33代室町幕府山城国守護に任じられ、今川氏親も第23代室町幕府遠江国守護に補任された。
  • 細川高国の管領就任 西暦1,508年8月14日、細川高国が第32代管領に就任する。本書が記録する最後の日である。

大畠・蒲刈・鞆・牛窓・兵庫津、そして堺から京都へ──
瀬戸内海を渡った上洛の全行程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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