大友親繁一元化
西暦1,444年、一つの婚姻が76年の分裂を閉じた──
大友親繁の82年を年月日単位で一元化。
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本書について
西暦1,411年、大友親著の四男として大友親繁が生まれた。氏継系である。西暦1,368年以降、大友家では氏継系と親世系が交互に当主を出す両統迭立が続いており、親繁が生まれた家は其の一方の系統であった。西暦1,444年、親繁は、親世系であった第14代大友家当主・大友親隆の娘を正室として迎える事を条件に、第9代室町幕府豊後国守護職へ補任され、第15代大友家当主となる。之により、76年に亘って続いた両統迭立に終止符が打たれた。同じ年、親繁と親隆の娘の間に、後の第16代当主・大友政親が産まれている。本書は、此の生誕を起点として、西暦1,493年12月22日に親繁が死去するまでの82年を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,451年、日明貿易の一環として第11次遣明船10隻が出発する。其の6号船を仕立てたのが親繁であった。九州の守護大名として、大陸との交易にも一枚を占めていた事が窺える。西暦1,461年9月頃には、河野教通の要求を退けて豊後国臼杵荘(現在の大分県)の領知を認める様、室町幕府へ訴えている。戦ではなく訴訟によって所領を守るという、室町期の守護らしい振る舞いであった。
西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。之を受けて親繁と政親の父子は、豊前国・筑前国・肥前国への侵攻を開始した。足利義政は更に、親繁へ長門国・周防国にも侵入する様命じている。翌西暦1,469年、親繁は第12代室町幕府筑後国守護に就任し、豊後国守護職との兼任となった。西暦1,470年3月頃には、足利義政が親繁と益田兼堯に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じている。応仁の乱の余波の中で、大友家の版図は広がっていった。
西暦1,470年4月11日、第186世興福寺別当・経覚は、親繁に長野宗雄を田川郡糸田荘(現在の福岡県)と田川郡田原荘(現在の福岡県田川郡川崎町)の代官職へ任命させた。長野は此の頃、大内氏と不和になって大友氏の被官となっており、両荘を合わせて進納500貫文・補任料50貫文・奉行分25貫文を納めさせられている。西暦1,473年、親繁は隠居し、嫡男の政親へ家督を譲った。之により、両統迭立の廃止はより強固なものとなる。政親は足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任した。西暦1,474年12月10日には、親繁の京都郡奉行2名が、佐田河内守へ京都郡吉田荘(現在の福岡県行橋市上稗田付近)内の70町を譲っている。
西暦1,476年4月21日、佐田忠景を始めとする宇佐郡(現在の大分県豊後高田市・宇佐市)衆が、周防国から豊前国へ渡った。彼等は瀧池山に布陣し、馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市大谷・西谷)と岩石城(現在の福岡県田川郡赤村添田町添田)に籠城する親繁・少弐政資等の征伐を開始する。此の時、豊前国守護代の杉弘勝が京都に居た為、大内政弘は宇佐郡衆の中から大将を出す様佐田忠景に求め、佐田は之に応じたのであった。西暦1,478年12月26日、親繁に与えられていた豊前国守護職は大内教幸へ与えられる。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は、少弐氏と不仲になっている。
西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が肥後国にて謀反を起こす。政親は上洛中であった。之を鎮圧したのは親繁の五男・大友親治であり、親治は政親と大友義右を助けた。然し間も無く、大聖院宗心が義右の下へやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言する。之を信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。両統迭立を閉じて一本化した筈の大友家に、父子の対立という新たな亀裂が入った事になる。西暦1,493年12月22日、大友親繁は死去した。
登場人物
- 大友親繁 本書の中心人物。大友親著の四男で氏継系。西暦1,411年に生誕し、1,444年、親世系の第14代当主大友親隆の娘を正室に迎える条件で豊後国守護職に補任され、第15代大友家当主となって両統迭立に終止符を打った。第11次遣明船6号船を仕立て、臼杵荘の領知を幕府に訴え、豊前・筑前・肥前へ侵攻し、筑後国守護を兼ねた。1,473年に隠居し、1,493年12月22日に死去した。
- 大友親著 大友親繁の父。氏継系の人物であり、親繁は其の四男として西暦1,411年に生まれた。
- 大友親隆 第14代大友家当主で、親世系。西暦1,444年、其の娘を大友親繁の正室として迎える事が、親繁の豊後国守護職補任と第15代当主就任の条件となった。此の婚姻が両統迭立の終止符となる。
- 大友政親 大友親繁の嫡男で、母は大友親隆の娘。西暦1,444年に生まれ、父と共に豊前・筑前・肥前へ侵攻した。1,473年、親繁の隠居に伴い家督を継ぎ、足利義政から偏諱を賜って第16代大友家当主に就任する。1,489年の日田親胤の謀反の折は上洛中であり、後に讒言を信じた大友義右と対立した。
- 大友親治 大友親繁の五男。西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が肥後国で起こした謀反を鎮圧し、政親と大友義右を助けた。
- 大友義右 大友親治に助けられた人物。西暦1,489年、大聖院宗心から「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言され、之を信じて激怒し、大友政親と再び対立した。
- 日田親胤 大友政親の異母弟。西暦1,489年、政親が上洛中に肥後国にて謀反を起こしたが、大友親治によって鎮圧された。此の謀反が、大聖院宗心の讒言を呼ぶ切っ掛けとなった。
- 足利義政 室町幕府第8代将軍。西暦1,468年11月頃、大友親繁に長門国・周防国への侵入を命じ、1,470年3月頃には親繁と益田兼堯に対して大内教幸の援助を命じた。1,473年には、家督を継いだ大友政親に偏諱を賜っている。
- 細川勝元 西暦1,468年11月頃、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出した。之が大友親繁・政親父子の豊前・筑前・肥前侵攻の契機となった。
- 大内政弘 細川勝元のお触れにおいて分国と与力の知行を狙われた大名。西暦1,476年、豊前国守護代の杉弘勝が京都に居た為、宇佐郡衆の中から大将を出す様佐田忠景に求め、馬ヶ岳城・岩石城の征伐を進めさせた。
- 大内教幸 西暦1,470年3月頃、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられ、足利義政は大友親繁と益田兼堯に其の援助を命じた。1,478年12月26日には、親繁に与えられていた豊前国守護職を与えられている。
- 少弐政資 西暦1,476年、大友親繁と共に馬ヶ岳城・岩石城に籠城し、宇佐郡衆の征伐を受けた。豊前国守護職を巡って少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続し、少弐を支援した大友氏は後に少弐氏と不仲になった。
- 河野教通 西暦1,461年9月頃、豊後国臼杵荘(現在の大分県)を巡って要求を出した人物。大友親繁は之を退け、領知を認める様室町幕府へ訴えた。
- 経覚 第186世興福寺別当。西暦1,470年4月11日、大友親繁に長野宗雄を田川郡糸田荘・田川郡田原荘の代官職へ任命させた。
- 長野宗雄 此の頃大内氏と不和になり、大友氏の被官となった人物。西暦1,470年4月11日、糸田荘・田原荘の代官職に任じられ、両荘で進納500貫文・補任料50貫文・奉行分25貫文を納めさせられた。
- 益田兼堯 西暦1,470年3月頃、足利義政から大友親繁と共に大内教幸の援助を命じられた人物。
- 佐田忠景 宇佐郡衆の一人。西暦1,476年4月21日、周防国から豊前国へ渡り、瀧池山に布陣して馬ヶ岳城・岩石城の征伐を開始した。杉弘勝が京都に居た為、大内政弘の求めに応じて宇佐郡衆の大将を務めている。
- 佐田河内守 西暦1,474年12月10日、大友親繁の京都郡奉行2名から、京都郡吉田荘(現在の福岡県行橋市上稗田付近)内の70町を譲られた人物。
- 杉弘勝 豊前国守護代。西暦1,476年4月の宇佐郡衆による征伐の際、京都に居た為に現地の指揮を執れず、大内政弘は代わりの大将を宇佐郡衆の中から出させる事となった。
- 大聖院宗心 西暦1,489年、大友義右の下へやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した人物。之を信じた義右は激怒し、大友政親と再び対立する事となった。
本書が記録する出来事
- 大友親繁の生誕 西暦1,411年、大友親著の四男として大友親繁が生誕する。氏継系の生まれであり、本書の起点となる出来事である。
- 両統迭立の終止符と第15代当主就任 西暦1,444年、氏継系であった大友親繁が、親世系であった第14代当主大友親隆の娘を正室として迎える事を条件に、第9代室町幕府豊後国守護職へ補任され、第15代大友家当主となる。之により、西暦1,368年以降続いた大友家の両統迭立に終止符が打たれた。
- 大友政親の誕生 西暦1,444年、大友親繁と大友親隆の娘の間に大友政親が産まれる。両統の血を併せ持つ嫡男の誕生であった。
- 第11次遣明船6号船の仕立て 西暦1,451年、日明貿易の一環として第11次遣明船10隻が出発する。其の6号船は、大友親繁が仕立てたものであった。
- 豊後国臼杵荘の領知訴訟 西暦1,461年9月頃、大友親繁が河野教通の要求を退け、豊後国臼杵荘(現在の大分県)の領知を認める様、室町幕府へ訴える。
- 細川勝元のお触れと三国侵攻 西暦1,468年11月頃、細川勝元が、大内政弘の分国及び与力の知行の在所を打ち取り次第、注進によって充て行う旨のお触れを出す。大友親繁・政親父子は豊前国・筑前国・肥前国への侵攻を開始し、足利義政は更に長門国・周防国への侵入も命じた。
- 筑後国守護の兼任 西暦1,469年、大友親繁が第12代室町幕府筑後国守護に就任する。豊後国守護職との兼任となった。
- 大内教幸への援助命令 西暦1,470年3月頃、足利義政が大友親繁と益田兼堯に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内教幸の援助を命じる。
- 興福寺経覚による代官任命 西暦1,470年4月11日、第186世興福寺別当経覚が、大友親繁に長野宗雄を田川郡糸田荘・田川郡田原荘の代官職へ任命させる。大内氏と不和になり大友氏の被官となっていた長野は、両荘で進納500貫文・補任料50貫文・奉行分25貫文を納めさせられた。
- 隠居と家督譲渡 西暦1,473年、大友親繁が隠居し、嫡男の大友政親へ家督を譲る。之により大友家の両統迭立の廃止はより強固なものとなった。政親は足利義政から偏諱を賜り、第16代大友家当主に就任している。
- 京都郡吉田荘70町の譲与 西暦1,474年12月10日、大友親繁の京都郡奉行2名が、佐田河内守に京都郡吉田荘(現在の福岡県行橋市上稗田付近)内の70町を譲る。
- 宇佐郡衆の馬ヶ岳城・岩石城征伐 西暦1,476年4月21日、佐田忠景を始めとする宇佐郡衆が周防国から豊前国へ渡り、瀧池山に布陣して、馬ヶ岳城・岩石城に籠城する大友親繁・少弐政資等の征伐を開始する。豊前国守護代の杉弘勝が京都に居た為、大内政弘は宇佐郡衆の中から大将を出す様佐田に求め、佐田は之に応じた。
- 豊前国守護職の剥奪 西暦1,478年12月26日、大友親繁に与えられていた豊前国守護職が大内教幸に与えられる。然し少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。此の頃、少弐政資を支援した大友氏は少弐氏と不仲になっている。
- 日田親胤の謀反と讒言 西暦1,489年、大友政親の異母弟である日田親胤が肥後国にて謀反を起こす。政親は上洛中であり、大友親治が之を鎮圧して政親・大友義右を助けた。間も無く大聖院宗心が義右の下へやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言し、之を信じた義右は激怒して政親と再び対立した。
- 大友親繁の死去 西暦1,493年12月22日、大友親繁が死去する。本書が記録する最後の日である。
両統迭立の終止符から、豊前国守護の剥奪へ──
室町期大友家を率いた親繁の全過程を一元化。
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