電子書籍「比企能員vs北条時政──源頼家の修禅寺幽閉一元化」の表紙

比企能員vs北条時政──源頼家の修禅寺幽閉一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,203年6月29日〜1,203年11月4日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,024年12月17日

阿野全成の流罪と殺害・比企能員誅殺・一幡屋敷の陥落・仁田忠常殺害事件・源頼家の修禅寺幽閉──
比企能員の乱と源頼家失脚の4箇月間を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1203年6月、源頼家が阿野全成と北条時政の結託による自身の追放の情報を掴み、武田信光を派遣して阿野全成を捕縛させた日から、西暦1203年11月、北条政子により出家させられ鎌倉を追放された源頼家が、先陣随兵100騎・女騎15騎・後陣随兵約200騎を伴い神輿3艘で修禅寺へと出発した日まで。本書は、源頼朝死後の鎌倉幕府における、比企能員と北条時政の権力闘争と、其の結果としての源頼家の失脚・幽閉の約4箇月間を、阿野全成の流罪と殺害、一幡の外祖父比企能員の誅殺、比企一族の滅亡、源実朝の征夷大将軍就任、源頼家の修禅寺幽閉迄を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1203年6月29日0時、阿野全成と北条時政が結託して自身を追放しようとしているという情報を掴んでいた源頼家が派遣した武田信光により、阿野全成が捕縛され、大倉御所に幽閉された後塩谷朝業に預けられた。6月30日、源頼家は阿波局を大倉御所へ連れて来て尋問する為、比企能員を北条政子の下へ差し向けたが、政子は阿波局の差し出しを拒否した。7月5日、阿野全成の常陸国への流罪が執行、8月1日、源頼家の命を受けた八田知家が下野国で阿野全成を殺害し、筑後守を恩賞として与えられた。源頼家は阿波局の捕縛も試みたが北条政子の拒絶により叶わなかった。8月2日、源頼家は阿野全成の参男阿野頼全の殺害を源仲章・佐々木定綱に命じる為大江能範を上洛させ、8月24日、阿野頼全は延年寺にて在京御家人により殺害された。8月28日、源頼家が大江広元の屋敷で急病となり倒れ、病気治癒を願う祈祷が行われた。卜筮によると霊神の祟りであるとされた。

西暦1203年10月3日、源頼家の体調回復の兆しが見られない事から、北条時政が一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた。一幡の外祖父比企能員は「全て一幡に与えられるべき」として憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。10月8日、比企能員が娘若狭局を介して源頼家に北条時政征伐を訴え、病床の頼家は能員を呼び寄せて許可したが、障子の陰から立ち聞きしていた北条政子から時政に伝えられた。時政は天野遠景・仁田忠常と謀り、大江広元にも相談し、薬師如来の開眼供養の口実で名越殿に誘い出した能員を、天野・仁田が待ち構えて竹藪に引き倒し殺害した。逃げ帰った雑色から事態を知った比企一族は能員の館の最奥部の一幡の屋敷に立て籠もった。15時、北条政子は比企一族征伐を命じ、北条義時を総大将に北条泰時・平賀朝雅・畠山重忠・小山朝政・長沼宗政・結城朝光・榛谷重朝・三浦義村・和田義盛等が出陣、比企余一兵衛尉・比企時員・中野能成・笠原親景・糟屋有季・小笠原長経等が迎え撃った。畠山重忠が笠原親景の軍勢を破ると、笠原は能員の館に駆け込んで火を放った。糟屋は義時側が惜しんで逃がそうとするも8名を討ち取った後殺害され、笠原も一幡の屋敷で殺害、河原田次郎・中山為重は一幡の前で自刃、比企余一兵衛尉は女装して脱出を試みたが加藤景廉に討たれて梟首された。若狭局は一幡を抱いて一幡の屋敷の小門から脱出したが、戦闘は16時に終結し、夜に渋河兼忠が殺害されて比企一族は敗北した。生き残った能員の末子比企能本は和田義盛に預けられ、後に安房国へ配流された。

西暦1203年10月10日、中野能成・小笠原長経・細野四郎が捕縛され、比企能員の縁者であった島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免された。10月11日、体調を回復した源頼家が3日前の一連の事件を知って激怒し、和田義盛・仁田忠常に北条時政を討つ様命じる書簡を堀親家に持たせて送った。然し和田は書簡を受け取ると堀を捕縛させ北条時政の名越殿に入り、堀は工藤行光によって殺害された。10月12日、仁田忠常が比企一族征伐の恩賞を受ける為名越殿に入ったが夜になっても帰宅しなかった為、弟の仁田忠正・仁田忠時が討たれたと考え北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃、忠正は波多野忠綱に殺害され忠時は自害、其の頃帰宅途中であった忠常は騒動を知り決死の覚悟で大倉御所へ向かったが加藤景廉に殺害された。10月13日、源実朝が征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が宣下、同日源頼家は北条政子により出家させられ、鎌倉を追放され修禅寺に軟禁される事となった。同日朝、鎌倉幕府からの使者が京都に到着し、朝廷に「西暦1203年10月7日に源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ」との北条時政からの書簡が届けられた。10月16日、島津忠久が薩摩国守護職に復職したが、大隅国・日向国の守護職には復帰出来ず北条氏のものとなり、同日源実朝が名越殿入りした。10月21日源実朝が第3代鎌倉殿に就任、11月4日、源頼家は先陣随兵100騎・女騎15騎・小舎人童1名・後陣随兵約200騎と3艘の神輿を伴い、修禅寺へと出発した。


登場人物

  • 源頼家 鎌倉幕府第2代征夷大将軍。西暦1203年6月29日に阿野全成と北条時政の結託による自身追放の情報を掴み武田信光を遣わせて阿野を捕縛、8月1日に八田知家に阿野を殺害させた。8月28日に大江広元の屋敷で急病で倒れ、10月8日の病床で比企能員から北条時政征伐の許可を与えたが、北条政子の立ち聞きにより計画が漏れた。10月11日に体調を回復し激怒して北条時政討伐を命じるも、和田義盛の裏切りにより失敗、10月13日に北条政子により出家させられ修禅寺に軟禁、11月4日に神輿3艘と300騎以上の随兵を伴い修禅寺へと出発した、本書の失脚する主人公。
  • 北条時政 源実朝の外祖父。西暦1203年10月3日、源頼家の病臥を受けて一幡に関東28ヶ国・源実朝に関西38ヶ国を譲る相続を取り決めた。10月8日、北条政子から比企能員の時政征伐計画を伝えられると、天野遠景・仁田忠常と謀り、薬師如来の開眼供養の口実で能員を名越殿に誘い出して誅殺、同日の比企一族征伐の総指揮を取った。10月13日には京都に「源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ」との虚偽書簡を送った、本書の勝者。
  • 比企能員 一幡の外祖父。西暦1203年10月3日、北条時政が一幡と源実朝に相続を分配した事に「全て一幡に与えられるべき」として憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。10月8日、娘若狭局を介して病床の源頼家に北条時政征伐を訴え許可を得たが、薬師如来の開眼供養の口実で名越殿に誘い出され、親類の制止を振り切り平服で雑色5名と郎党2名のみを連れて参上した所、天野遠景・仁田忠常によって左右の手を掴まれ、竹藪に引き倒され殺害された、本書の題名を成す敗者。
  • 若狭局 比企能員の娘。源頼家の側室にして一幡の母。西暦1203年10月8日、父の北条時政征伐の訴えを源頼家に伝える仲介役を務めた。同日の比企一族征伐の際、一幡を抱いて一幡の屋敷の小門から脱出した、比企の血を次代に繋ごうとした人物。
  • 一幡 源頼家の長男。比企能員の外孫。西暦1203年10月3日、北条時政の相続取り決めで関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲られたが、10月8日の比企一族征伐では比企一族が一幡の屋敷(能員の館の最奥部の小御所)に立て籠もった。母若狭局に抱かれて小門から脱出したが、其の後の行方は本書期間中には記されない。
  • 源実朝 源頼朝の弐男。源頼家の異母弟。西暦1203年10月3日、北条時政の相続取り決めで関西38ヶ国の地頭職を譲られ、10月13日に12歳で征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が宣下した。10月16日北条時政の名越殿入り、10月21日第3代鎌倉殿就任、北条氏の下で鎌倉幕府の新たな将軍となった、本書の受益者。
  • 北条政子 源頼家・源実朝の母。西暦1203年6月30日、源頼家からの阿波局引き渡しの要求を拒否、8月1日の阿野全成殺害後も阿波局の捕縛を拒んだ。10月8日、病床の頼家と比企能員の密談を障子の陰から立ち聞きし、北条時政に伝えた事で比企能員の乱の発端を作り、15時には比企一族征伐を命じた。10月13日に源頼家を出家させ修禅寺への軟禁を決定した、本書の影の主導者。
  • 北条義時 北条時政の息子。北条政子の弟。西暦1203年10月8日の比企一族征伐の総大将を務めた。10月12日の仁田忠常殺害事件の際、仁田忠正・忠時に政子の屋敷を襲撃された、本書後半の実行力の中心。
  • 北条泰時 北条義時の長男。西暦1203年10月8日の比企一族征伐に北条義時・平賀朝雅・畠山重忠等と共に出陣した、次世代の象徴。
  • 阿野全成 源頼朝の異母弟。北条時政の女婿。阿波局の夫。西暦1203年6月29日0時、北条時政と結託して源頼家を追放しようとしているとの情報により武田信光に捕縛され、大倉御所に幽閉された後塩谷朝業に預けられた。7月5日に常陸国への流罪、8月1日に下野国で八田知家によって殺害された、本書の最初の犠牲者。
  • 阿波局 阿野全成の妻。北条政子の妹。西暦1203年6月30日、源頼家が大倉御所へ連れて来て尋問する為比企能員を北条政子の下へ差し向けたが、政子は阿波局の差し出しを拒否した。8月1日の阿野全成殺害後も源頼家は捕縛を試みたが、北条政子の拒絶により叶わなかった、北条政子の庇護下で生き延びた人物。
  • 阿野頼全 阿野全成の参男。西暦1203年8月2日、源頼家が源仲章・佐々木定綱に殺害を命じる為大江能範を上洛させ、8月24日、延年寺にて在京御家人により殺害された、阿野家粛清の京都における帰結。
  • 武田信光 甲斐源氏。西暦1203年6月29日0時、源頼家の派遣により阿野全成を捕縛した、本書の最初の実行者。
  • 八田知家 鎌倉幕府御家人。西暦1203年8月1日、源頼家の命を受けて下野国で阿野全成を殺害し、恩賞として筑後守を与えられた、阿野家粛清の地方における実行者。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1203年8月28日、源頼家が大江の屋敷で急病となり倒れた。10月8日、北条時政から比企能員征伐の相談を受けるも「源頼朝公以来、政務を補佐する事は有ったが、兵法については返答する事は出来ない、良く考えるべきではないか」と明言を避けたが、反対はしなかった、本書の沈黙の黙認者。
  • 天野遠景 北条時政の腹心。西暦1203年10月8日、北条時政から比企能員征伐の相談を受け「御前に呼び寄せ始末しましょう」と提案、薬師如来の開眼供養の口実で名越殿に誘い出された能員を、仁田忠常と共に左右の手を掴んで竹藪に引き倒し殺害した、比企能員誅殺の実行者。
  • 仁田忠常 鎌倉幕府御家人。西暦1203年10月8日、天野遠景と共に名越殿で比企能員を殺害した。10月8日の比企一族征伐にも出陣。10月11日には源頼家から北条時政征伐の命令を受ける書簡の対象となった。10月12日、比企一族征伐の恩賞を受ける為名越殿に入ったが夜になっても帰宅しない事から弟達に誤解を招き、自身も騒動を知って決死の覚悟で大倉御所へ向かう途上、加藤景廉に殺害された、本書屈指の転落人物。
  • 仁田忠正 仁田忠常の弟。西暦1203年10月12日夜、兄忠常が名越殿から帰宅しない事から討たれたと考え、弟忠時と共に北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃し、波多野忠綱によって殺害された。
  • 仁田忠時 仁田忠常の弟。西暦1203年10月12日夜、兄忠常が名越殿から帰宅しない事から討たれたと考え、兄忠正と共に北条政子の屋敷を襲撃し、忠正の死後自害した。
  • 堀親家 源頼家の使者。西暦1203年10月11日、体調を回復した源頼家から、和田義盛・仁田忠常に北条時政を討つ様命じる書簡を託されて遣わされたが、和田義盛によって捕縛された後、工藤行光に殺害された、頼家の最後の反撃の失敗を示す犠牲者。
  • 和田義盛 鎌倉幕府侍所別当。西暦1203年10月8日の比企一族征伐に出陣、比企能本を預かった。10月11日、源頼家から北条時政を討つ様命じる書簡を堀親家から受け取ると、堀を捕縛させ北条時政の名越殿に入った、頼家を裏切り北条を支持した人物。
  • 工藤行光 鎌倉幕府御家人。西暦1203年10月8日の比企一族征伐に出陣、10月11日には堀親家を殺害した、北条側の実行者。
  • 加藤景廉 鎌倉幕府御家人。西暦1203年10月8日の比企一族征伐に出陣、女装して脱出を試みた比企余一兵衛尉を討ち取って梟首した。10月12日には大倉御所へ向かう途上の仁田忠常を殺害した、本書で2度の殺害を行った実行者。
  • 畠山重忠 鎌倉幕府御家人。西暦1203年10月8日の比企一族征伐で笠原親景の軍勢を破り、笠原を能員の館に追い込んだ、征伐戦の転換点を作った武将。
  • 糟屋有季 比企能員側の武将。西暦1203年10月8日の比企一族征伐時、義時側が惜しんで逃がそうとするも一幡の屋敷から出て来ず、8名を討ち取った後他の郎従と共に殺害された、比企側の武勇を示した人物。
  • 笠原親景 比企能員側の武将。西暦1203年10月8日の比企一族征伐時、畠山重忠に敗れて能員の館に駆け込み火を放ち、一幡の屋敷に籠り交戦した末に殺害された。
  • 比企余一兵衛尉 比企能員の一族。西暦1203年10月8日の比企一族征伐時、女装して脱出を試みるが加藤景廉に討たれ梟首された、比企一族の最期の1人。
  • 波多野忠綱 鎌倉幕府御家人。西暦1203年10月12日夜、北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃した仁田忠正を殺害した。
  • 比企能本 比企能員の末子。西暦1203年10月8日の比企一族征伐で生き残り、和田義盛に預けられ、後に安房国へ配流された、比企の血を辛うじて残した人物。
  • 島津忠久 鎌倉幕府御家人。比企能員の縁者であった為、西暦1203年10月10日に薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免された。10月16日に薩摩国守護職には復職したが、大隅国・日向国の守護職には復帰出来ず、北条氏のものとなった、比企能員の乱の巻き添えを受けた人物。

主要な地名・拠点

  • 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目。鎌倉幕府の本拠。西暦1203年6月29日の阿野全成幽閉、6月30日の阿波局尋問命令、10月12日夜の仁田忠常が決死の覚悟で向かった先、等、本書の政治的中枢。
  • 北条時政の名越殿 現在の神奈川県鎌倉市大町。北条時政の居所。西暦1203年10月8日、薬師如来の開眼供養の口実で誘い出された比企能員が、天野遠景・仁田忠常によって竹藪に引き倒され殺害された地。10月11日には堀親家を捕縛した和田義盛が入り、10月12日には仁田忠常が恩賞の為に入って帰宅しなかった地。10月16日には源実朝が入り、御家人の所領安堵の御触れが出された、本書最大の政治的決定の場。
  • 比企能員の館 比企能員の居所。西暦1203年10月8日、雑色が時政邸での能員殺害を伝えた地であり、笠原親景が畠山重忠に敗れて駆け込み火を放った地。其の最奥部に一幡の屋敷(小御所)が在った、本書の比企一族の滅亡の舞台。
  • 一幡の屋敷(小御所) 比企能員の館の最奥部に在った一幡の住居。西暦1203年10月8日、比企能員誅殺の報を受けた比企一族が立て籠もった地。北条義時率いる大軍の攻撃を受け、糟屋有季・笠原親景・河原田次郎・中山為重等が此処で戦死あるいは自刃、16時に戦闘は終結、若狭局が一幡を抱いて小門から脱出した、本書の決戦の地。
  • 北条政子の屋敷 鎌倉の北条政子の居所。西暦1203年10月12日夜、北条義時が居た際、仁田忠正・仁田忠時に襲撃され、波多野忠綱が忠正を殺害した地、仁田一族の破滅の舞台。
  • 大江広元の屋敷 鎌倉の大江広元の居所。西暦1203年8月28日、源頼家が急病となり倒れた地。霊神の祟りとされた祈祷の舞台であり、其の後の政変の起点となった場所。
  • 常陸国 阿野全成の流罪地。西暦1203年7月5日、阿野全成の常陸国への流罪が執行された、本書前半の政治的追放の地。
  • 下野国 西暦1203年8月1日、源頼家の命を受けた八田知家によって阿野全成が殺害された地、阿野全成終焉の地。
  • 延年寺 現在の京都府京都市東山区五条坂東とりべ山。西暦1203年8月24日、阿野頼全が在京御家人により殺害された地、阿野家粛清の京都における舞台。
  • 修禅寺 現在の静岡県伊豆市修善寺。西暦1203年10月13日、源頼家が北条政子により出家させられ、鎌倉を追放された後に軟禁される事が決定された地。11月4日に源頼家が先陣随兵100騎・女騎15騎・小舎人童1名・後陣随兵約200騎と3艘の神輿を伴って出発、本書の終着点。
  • 薩摩国・大隅国・日向国 九州南部3国。島津忠久が守護職を務めていた地。西暦1203年10月10日、比企能員の縁者であった事から守護職を罷免され、10月16日に薩摩国のみ復職したが、大隅国・日向国は北条氏のものとなった、比企能員の乱の地方への波及。

主要な事件・出来事

  • 阿野全成の捕縛 西暦1203年6月29日0時、阿野全成と北条時政が結託して自身を追放しようとしているとの情報を掴んでいた源頼家によって派遣された武田信光が、阿野全成を捕縛した。大倉御所に幽閉された後塩谷朝業に預けられた、本書の政争の発端。
  • 阿波局差し出し拒否 西暦1203年6月30日、源頼家が阿波局を大倉御所へ連れて来て尋問する為比企能員を北条政子の下へ差し向けたが、政子は「阿波局が前日の阿野全成の件に就いて知っている事は無い」として阿波局の差し出しを拒否した、北条政子と頼家の対立の顕在化。
  • 阿野全成の常陸国流罪 西暦1203年7月5日、阿野全成の常陸国への流罪が執行された。
  • 阿野全成殺害 西暦1203年8月1日、源頼家の命を受けた八田知家が下野国で阿野全成を殺害した。其の後八田は源から恩賞として筑後守を与えられた。源は阿波局を捕縛しようとしたが、阿波局の姉である北条政子が引き渡しを拒否した、阿野全成終焉と北条政子の庇護の再確認。
  • 阿野頼全殺害命令 西暦1203年8月2日、源頼家が京都に居る阿野全成の参男阿野頼全の殺害を源仲章・佐々木定綱に命じる為、大江能範を上洛させた、阿野家粛清の京都への波及。
  • 阿野頼全殺害 西暦1203年8月24日、阿野頼全が延年寺にて在京御家人により殺害された、阿野家粛清の完了。
  • 源頼家の急病 西暦1203年8月28日、源頼家が大江広元の屋敷で急病となり倒れた。同日、病気治癒を願う祈祷が行われ、卜筮によると霊神の祟りであるとされた、本書最大の転換点。
  • 相続分配と比企能員の憤慨 西暦1203年10月3日、源頼家の体調回復の兆しが見られない事から、北条時政が一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた。一幡の外祖父比企能員は「全て一幡に与えられるべき」として憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した、比企能員の乱の直接の原因。
  • 比企能員の誅殺 西暦1203年10月8日、比企能員が娘若狭局を介して源頼家に北条時政征伐を訴え許可を得たが、障子の陰から立ち聞きしていた北条政子から時政に伝えられた。時政は天野遠景・仁田忠常・大江広元に相談し、薬師如来の開眼供養の口実で能員を名越殿に誘い出した。能員は親類の制止を振り切り、武装しては却って疑いを招くとして平服で郎党2名・雑色5名のみを連れて参上、待ち構えていた天野・仁田によって左右の手を掴まれ、竹藪に引き倒され殺害された、本書最大の政治的暗殺。
  • 比企一族征伐 西暦1203年10月8日15時、比企一族が一幡の屋敷に立て籠もった事を受け、北条政子が比企一族征伐を命じた。北条義時を総大将に、北条泰時・平賀朝雅・畠山重忠・小山朝政・長沼宗政・結城朝光・榛谷重朝・三浦義村・和田義盛・和田常盛・仁田忠常・加藤景廉等が出陣、比企余一兵衛尉・比企時員・中野能成・笠原親景・糟屋有季・小笠原長経・河原田次郎・中山為重等が迎え撃った。畠山重忠が笠原を破り、糟屋は8名を討ち取った後殺害、河原田・中山は一幡の前で自刃、比企余一兵衛尉は女装脱出を加藤景廉に討たれて梟首された。若狭局は一幡を抱いて小門から脱出、16時に戦闘終結、夜に渋河兼忠殺害で比企一族は敗北、比企能本は和田義盛に預けられ安房国へ配流された、本書最大の合戦。
  • 島津忠久の守護職罷免 西暦1203年10月10日、比企能員の縁者であった島津忠久が、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免された。又同日、中野能成・小笠原長経・細野四郎が捕縛された、比企能員の乱の地方・一族への余波。
  • 源頼家の反撃命令 西暦1203年10月11日、体調を回復した源頼家が3日前の一連の事件を知って激怒し、堀親家を使者として和田義盛・仁田忠常に北条時政を討つ様命じる書簡を送った。然し和田は書簡を受け取ると堀を捕縛させ北条時政の名越殿に入り、堀は工藤行光によって殺害された、頼家の最後の反撃の失敗。
  • 仁田忠常殺害事件 西暦1203年10月12日、仁田忠常が比企一族征伐の恩賞を受ける為北条時政の名越殿に入ったが夜になっても帰宅しなかった為、忠常の弟仁田忠正・仁田忠時が忠常が討たれたと考え、北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃した。忠正は波多野忠綱によって殺害され、忠時は自害、其の頃帰宅途中であった忠常は騒動を知ると決死の覚悟で大倉御所へと向かったが加藤景廉によって殺害された、比企能員誅殺の実行者自身の破滅。
  • 源実朝の征夷大将軍任命 西暦1203年10月13日、源実朝が征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が宣下した。同日朝、鎌倉幕府からの使者が京都に到着し、朝廷に「西暦1203年10月7日に源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ。実朝を征夷大将軍に任命して欲しい」との北条時政からの書簡が届けられた、12歳の第3代征夷大将軍の誕生。
  • 源頼家の出家と修禅寺軟禁決定 西暦1203年10月13日、源頼家が北条政子により出家させられ、鎌倉を追放され修禅寺に軟禁される事となった、本書の題名を成す失脚。
  • 島津忠久の薩摩国守護職復職 西暦1203年10月16日、島津忠久が薩摩国守護職に復職した。然し大隅国・日向国の守護職には復帰出来ず、北条氏のものとなった、比企能員の乱による北条氏の地方支配の拡大。
  • 源実朝の名越殿入りと鎌倉殿就任 西暦1203年10月16日、源実朝が北条時政の名越殿に入り、北条が御家人の所領を安堵する御触れを出した。10月21日、源実朝が第3代鎌倉殿に就任し、同日源実朝を第3代征夷大将軍とする宣旨が鎌倉に到着した、北条氏主導の新体制の確立。
  • 源頼家の修禅寺出発 西暦1203年11月4日、源頼家が先陣随兵100騎・女騎15騎・小舎人童1名・後陣随兵約200騎と3艘の神輿を伴い、修禅寺へと出発した、本書の終着点。

阿野全成の流罪と殺害・比企能員誅殺・一幡屋敷の陥落・仁田忠常殺害事件・源頼家の修禅寺幽閉──
比企能員の乱と源頼家失脚の4箇月間を一冊に。

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石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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