比企能員vs北条時政_
源頼家の修禅寺幽閉一元化
西暦1,203年6月、源頼家は叔父を捕縛した──
比企能員の乱と源頼家失脚の4箇月を年月日単位で一元化。
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本書について
西暦1,203年6月29日の0時、源頼家の放った武田信光が、叔父の阿野全成を捕縛した。阿野全成と北条時政が結託して自身を追放しようとしている──頼家は、其の情報を掴んでいたのである。全成は大倉御所に幽閉され、塩谷朝業に預けられた。翌30日、頼家は全成の妻である阿波局を尋問しようと、比企能員を北条政子の下へ差し向けたが、政子は「阿波局が前日の件に就いて知っている事は無い」として引き渡しを拒んだ。本書は、此の日を起点として、11月4日に頼家が修禅寺へ向けて鎌倉を発つまでの4箇月余りを、年月日単位で一元化した記録である。
7月5日、阿野全成の常陸国への流罪が執行される。8月1日、源頼家の命を受けた八田知家が下野国で全成を殺害し、恩賞として筑後守を与えられた。頼家は改めて阿波局を捕縛しようとしたが、姉である北条政子は再び引き渡しを拒んでいる。8月2日、頼家は大江能範を上洛させ、源仲章と佐々木定綱に、京都に居た全成の参男・阿野頼全の殺害を命じさせた。24日、頼全は延年寺(現在の京都府京都市東山区五条坂東とりべ山)で在京御家人により殺される。北条氏に連なる一族を、頼家は父子ともども削り取っていった。
8月28日、頼家は大江広元の屋敷で急病に倒れる。病気治癒を願う祈祷が行われ、卜筮は霊神の祟りであると告げた。10月3日、回復の兆しが見られない事から、北条時政は頼家の息子達への相続を取り決める。一幡には関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源頼朝の弐男・源実朝には関西38ヶ国の地頭職を譲る、という分割であった。一幡の外祖父であった比企能員は、全て一幡に与えられるべきものを実朝にも譲渡するのはおかしいとして憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意する。
10月8日、比企能員は娘の若狭局を介して源頼家に北条時政征伐を訴え、病床へ呼ばれて許可を得た。其の話を障子の陰から立ち聞きしていたのが北条政子である。政子から報せを受けた時政は、天野遠景と仁田忠常に「能員が謀反を企てているので、攻めてしまおうと思う」と伝え、両名は「御前に呼び寄せ始末しましょう」と提案した。大江広元は「兵法については返答する事は出来ない」と明言を避けたが、征伐に反対はしなかった。時政は「薬師如来の開眼供養を致しますので、名越殿(現在の神奈川県鎌倉市大町)へお越し下さい。其の序でに政治向きの話も致しましょう」と能員を招く。親類は引き止めたが、能員は「仏事と政治向きの話の為に私を呼んだのであろう」と言い、武装しては却って疑いを招くとして、昼に平服で郎党2名と雑色5名のみを連れて名越殿へ向かった。門を入った能員は、待ち構えていた天野・仁田に左右の手を掴まれ、竹藪へ引き倒されて殺された。
逃げ帰った雑色から事の次第を聞いた比企一族は、能員の館の最奥部に在る小御所の一幡の屋敷へ立て籠もる。15時、北条政子は之を謀反と見做し、比企一族征伐を命じた。北条義時を総大将として、北条泰時・平賀朝雅・畠山重忠・小山朝政・三浦義村・和田義盛・仁田忠常ら21名が出陣し、比企余一兵衛尉・比企三郎・比企五郎・比企時員・中野能成・笠原親景・糟屋有季・小笠原長経ら13名が之を迎え撃つ。抵抗は激しく、加藤景廉・尾藤知景・和田景長や郎党等が負傷した。畠山が笠原の軍勢を破ると、笠原は能員の館へ駆け込んで火を放つ。糟屋は、惜しんで逃がそうとする義時側の情けを受けず一幡の屋敷から出て来ず、8名を討ち取った末に殺された。戦場から引き上げてきた河原田次郎と中山為重は、一幡の前で自刃している。余一兵衛尉は女装して脱出を試みたが加藤に討たれて梟首され、若狭局は一幡を抱いて小門から脱け出た。戦闘は16時に終結し、夜には渋河兼忠が殺されている。生き残った能員の末子・比企能本は和田義盛に預けられ、後に安房国へ配流された。
10月10日、中野能成・小笠原長経・細野四郎が捕縛され、能員の縁者であった島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免される。11日、体調を回復した源頼家は一連の事件を知って激怒し、堀親家を使者として和田義盛と仁田忠常に北条時政討伐を命ずる書簡を送った。然し和田は書簡を受け取ると堀を捕縛させ、自らは名越殿へ入る。堀は工藤行光に殺された。12日、恩賞を受ける為に名越殿へ入った仁田忠常が夜になっても帰らず、討たれたと考えた弟の仁田忠正・仁田忠時が、北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃する。忠正は波多野忠綱に殺され、忠時は自害し、帰宅途中に騒動を知って大倉御所へ向かった忠常も加藤景廉に殺された。13日、源実朝が征夷大将軍に任ぜられ、頼家は政子により出家させられて修禅寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)への軟禁が決まる。同じ日の朝、鎌倉からの使者は京都に「10月7日に源頼家が亡くなった」という時政の書簡を届けていた。16日には島津が薩摩国守護職にのみ復し、大隅国・日向国は北条氏のものとなる。21日、実朝は第3代鎌倉殿に就任した。11月4日、頼家は三艘の神輿と、先陣随兵100騎・女騎15騎・小舎人童1名・後陣随兵約200騎を伴い、修禅寺へ向けて発った。
登場人物
- 比企能員 源頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父。西暦1,203年10月3日の分割相続に憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。8日、娘の若狭局を介して頼家から北条時政征伐の許可を得るが、薬師如来の開眼供養に招かれ、武装しては却って疑いを招くとして平服で名越殿へ赴き、天野遠景と仁田忠常に竹藪へ引き倒されて殺害された。
- 北条時政 源頼家の外祖父。西暦1,203年10月3日、一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた。8日、北条政子の報せを受けて比企能員を名越殿へ誘い出して討ち、13日には朝廷へ「10月7日に頼家が亡くなった」という書簡を送らせている。16日には名越殿に入った実朝の下で、御家人の所領を安堵する御触れを出した。
- 源頼家 鎌倉幕府第2代征夷大将軍。西暦1,203年6月、北条時政と結託しているとして叔父の阿野全成を捕縛させ、8月には全成と其の参男頼全を殺害させた。同月28日に大江広元の屋敷で急病に倒れ、10月11日には和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じたが果たせず、13日に出家させられて修禅寺へ軟禁される事となった。
- 北条政子 源頼家の母。阿波局の引き渡しを二度に亘って拒み、西暦1,203年10月8日には比企能員と頼家の密談を障子の陰から立ち聞きして北条時政へ伝えた。同日15時、比企一族の立て籠もりを謀反と見做して征伐を命じ、13日には頼家を出家させて修禅寺へ送っている。
- 北条義時 比企一族征伐の総大将。西暦1,203年10月8日、北条政子の命により小御所の一幡の屋敷を攻めた。12日には北条政子の屋敷に居た所を仁田忠正・仁田忠時の兄弟に襲撃されている。
- 若狭局 比企能員の娘で、一幡の母。西暦1,203年10月8日、父の訴えを源頼家へ取り次ぎ、北条時政征伐の許可を引き出した。小御所の戦いでは、一幡を抱いて屋敷の小門から脱出している。
- 一幡 源頼家の長男。西暦1,203年10月3日、関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲られる事が決まったが、其の分割が比企能員の憤慨を招いた。能員の誅殺後、比企一族は一幡の屋敷(小御所)へ立て籠もり、河原田次郎と中山為重は其の前で自刃した。
- 源実朝 源頼朝の弐男。西暦1,203年10月3日に関西38ヶ国の地頭職を譲られる事が決まり、13日には征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が就任を宣下した。16日に北条時政の名越殿へ入り、21日、第3代鎌倉殿に就任している。
- 阿野全成 源頼家の叔父。妻は北条政子の妹阿波局。西暦1,203年6月29日、北条時政と結託して頼家を追放しようとしているとして武田信光に捕縛され、大倉御所に幽閉されて塩谷朝業に預けられた。7月5日に常陸国へ流罪となり、8月1日、下野国で八田知家に殺害された。
- 阿波局 阿野全成の妻で、北条政子の妹。西暦1,203年6月30日と8月1日の二度、源頼家は尋問と捕縛の為に其の身柄を求めたが、政子は何れも引き渡しを拒んだ。
- 阿野頼全 阿野全成の参男。西暦1,203年8月2日、源頼家が大江能範を上洛させ、源仲章と佐々木定綱に殺害を命じた。24日、延年寺(現在の京都府京都市東山区五条坂東とりべ山)にて在京御家人により殺害された。
- 武田信光 御家人。西暦1,203年6月29日の0時、源頼家に派遣され、阿野全成を捕縛した。
- 八田知家 御家人。西暦1,203年8月1日、源頼家の命を受けて下野国で阿野全成を殺害し、恩賞として筑後守を与えられた。
- 大江広元 鎌倉幕府の実務を担った側近。西暦1,203年8月28日、源頼家は其の屋敷で急病に倒れた。10月8日、比企能員征伐を相談された際には「源頼朝公以来、政務を補佐する事は有ったが、兵法については返答する事は出来ない」と明言を避けたが、征伐に反対はしなかった。
- 天野遠景 御家人。西暦1,203年10月8日、北条時政から比企能員の謀反を告げられ、仁田忠常と共に「御前に呼び寄せ始末しましょう」と提案した。名越殿で待ち構え、能員の手を掴んで竹藪へ引き倒し殺害した。
- 仁田忠常 御家人。天野遠景と共に比企能員を討ち、比企一族征伐にも出陣した。西暦1,203年10月11日には源頼家から北条時政討伐を命じられ、12日、恩賞を受ける為に名越殿へ入る。帰宅が遅れた事から弟達が挙兵する騒動となり、其れを知って大倉御所へ向かった忠常は加藤景廉に殺害された。
- 仁田忠正・仁田忠時 仁田忠常の弟達。西暦1,203年10月12日、兄が名越殿で討たれたと考え、北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃した。忠正は波多野忠綱によって殺害され、忠時は自害した。
- 堀親家 源頼家の使者。西暦1,203年10月11日、和田義盛と仁田忠常に北条時政討伐を命ずる書簡を届けたが、和田に捕縛され、工藤行光によって殺害された。
- 和田義盛 侍所別当。比企一族征伐に出陣した。西暦1,203年10月11日、源頼家から北条時政討伐を命ずる書簡を受け取りながら、使者の堀親家を捕縛させ、自らは名越殿へ入った。生き残った比企能本を預かった人物でもある。
- 加藤景廉 御家人。比企一族征伐では負傷しながらも、女装して脱出を試みた比企余一兵衛尉を討ち取り梟首した。西暦1,203年10月12日には、大倉御所へ向かう仁田忠常を殺害している。
- 畠山重忠 御家人。比企一族征伐に出陣し、笠原親景の軍勢を破った。之を受けて笠原は比企能員の館へ駆け込み、火を放っている。
- 糟屋有季 比企一族側として戦った御家人。北条義時側が惜しんで逃がそうとしたが一幡の屋敷から出て来ず、8名を討ち取った後、他の郎従と共に殺害された。
- 笠原親景 比企一族側として戦った御家人。畠山重忠に軍勢を破られると比企能員の館へ駆け込んで火を放ち、其の後一幡の屋敷に籠って交戦した末に戦死した。
- 比企能本 比企能員の末子。小御所の戦いを生き延び、和田義盛に預けられた後、安房国へ配流された。
- 島津忠久 比企能員の縁者。西暦1,203年10月10日、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免された。16日に薩摩国守護職へは復職したが、大隅国・日向国の守護職には復帰出来ず、北条氏のものとなった。
本書が記録する出来事
- 阿野全成の捕縛 西暦1,203年6月29日0時、阿野全成と北条時政が結託して自身を追放しようとしているとの情報を掴んでいた源頼家が、武田信光を派遣して全成を捕縛させる。全成は大倉御所に幽閉され、塩谷朝業に預けられた。
- 阿波局引き渡しの拒否 西暦1,203年6月30日、源頼家が阿波局を大倉御所へ連れて来て尋問する為、比企能員を北条政子の下へ差し向ける。政子は、阿波局が前日の件に就いて知っている事は無いとして、差し出しを拒否した。
- 阿野全成の流罪と殺害 西暦1,203年7月5日、阿野全成の常陸国への流罪が執行される。8月1日、源頼家の命を受けた八田知家が下野国で全成を殺害し、恩賞として筑後守を与えられた。源は改めて阿波局を捕縛しようとしたが、北条政子が再び拒んでいる。
- 阿野頼全の殺害 西暦1,203年8月2日、源頼家が大江能範を上洛させ、源仲章と佐々木定綱に阿野頼全の殺害を命じさせる。24日、頼全は延年寺にて在京御家人により殺害された。
- 源頼家の急病 西暦1,203年8月28日、源頼家が急病となり大江広元の屋敷で倒れる。同日、病気治癒を願う祈祷が行われ、卜筮によれば霊神の祟りであるとされた。
- 関東28ヶ国と関西38ヶ国の分割相続 西暦1,203年10月3日、源頼家の体調に回復の兆しが見られない事から、北条時政が相続を取り決める。一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職、源実朝に関西38ヶ国の地頭職。比企能員は之に憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。
- 若狭局を介した時政征伐の訴え 西暦1,203年10月8日、比企能員が若狭局を介して源頼家に北条時政征伐を訴え、病床に呼ばれて許可を得る。障子の陰で立ち聞きしていた北条政子が之を時政へ伝え、時政は天野遠景・仁田忠常と謀った。
- 名越殿での比企能員誅殺 西暦1,203年10月8日、北条時政が薬師如来の開眼供養を口実に比企能員を名越殿へ招く。能員は親類の制止を振り切り、平服で郎党2名・雑色5名のみを連れて赴き、待ち構えていた天野遠景と仁田忠常に左右の手を掴まれ、竹藪へ引き倒されて殺害された。
- 小御所の戦い 西暦1,203年10月8日15時、北条政子が比企一族の立て籠もりを謀反と見做し征伐を命じる。北条義時を総大将とする21名に対し比企一族側13名が抗戦し、館は焼かれ、河原田次郎と中山為重は一幡の前で自刃、比企余一兵衛尉は女装脱出を試みて梟首された。16時に終結し、若狭局は一幡を抱いて小門から脱出した。
- 島津忠久の守護職罷免 西暦1,203年10月10日、比企能員の縁者であった島津忠久が、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免される。16日に薩摩国守護職には復職したが、大隅国・日向国は北条氏のものとなった。同じ10日には中野能成・小笠原長経・細野四郎が捕縛されている。
- 源頼家の反撃命令 西暦1,203年10月11日、体調を回復した源頼家が一連の事件を知って激怒し、堀親家を使者として和田義盛・仁田忠常に北条時政討伐を命ずる書簡を送る。和田は書簡を受け取ると堀を捕縛させて名越殿へ入り、堀は工藤行光により殺害された。
- 仁田忠常殺害事件 西暦1,203年10月12日、恩賞を受ける為に名越殿へ入った仁田忠常が夜になっても帰宅せず、討たれたと考えた弟の仁田忠正・仁田忠時が北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃する。忠正は波多野忠綱に殺され、忠時は自害し、騒動を知って大倉御所へ向かった忠常も加藤景廉に殺害された。
- 源実朝の征夷大将軍任命 西暦1,203年10月13日の朝、鎌倉幕府の使者が京都へ到着し、「10月7日に源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ」という北条時政の書簡を朝廷へ届ける。同日、源実朝が征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が就任を宣下した。
- 源頼家の出家と修禅寺軟禁 西暦1,203年10月13日、源頼家が北条政子により出家させられる。鎌倉を追放され、修禅寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)に軟禁される事となった。
- 源実朝の第3代鎌倉殿就任 西暦1,203年10月16日、源実朝が北条時政の名越殿に入り、時政は御家人の所領を安堵する御触れを出す。21日、実朝は第3代鎌倉殿に就任し、同日、第3代征夷大将軍とする宣旨が鎌倉に到着した。
- 修禅寺への出発 西暦1,203年11月4日、源頼家が修禅寺へ向けて出発する。神輿は三艘であり、先陣随兵100騎・女騎15騎・小舎人童1名・後陣随兵約200騎が之に伴った。本書が記録する最後の日である。
名越殿の竹藪から、修禅寺へ向かう三艘の神輿へ──
比企能員と北条時政の相剋、其の全過程を一元化。
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