電子書籍「鎌倉幕府第2代征夷大将軍源頼家一元化」の表紙

鎌倉幕府第2代征夷大将軍源頼家一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,182年9月11日〜1,204年8月14日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月15日

比企氏との誕生・富士野巻狩・鎌倉殿継承・梶原景時の変・比企能員の変・修禅寺軟禁──
鎌倉幕府第2代征夷大将軍・源頼家の23年の生涯を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1182年9月、北条政子が比企能員の屋敷で源頼家を出産した時から、西暦1204年8月、修禅寺の湯屋で北条氏の刺客に刺殺される迄。本書は、鎌倉幕府第2代征夷大将軍・源頼家の23年の生涯を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

頼家は、比企尼の猶子である比企能員を乳母夫として、比企氏の屋敷で生まれ、比企氏の手により育てられた。西暦1193年6月、12歳で富士野の巻狩に参加し、初めて鹿を射止めて、源頼朝を喜ばせた。西暦1195年の東大寺大仏殿落慶供養参列、後鳥羽天皇への謁見を経て、後継者としての地位を固めていった。西暦1199年2月、源頼朝が重病に陥ると、朝廷は頼家の家督相続を公認、第2代鎌倉殿となった。然し同年5月、頼家が自ら訴訟を裁く事が停止され、北条時政・北条義時・大江広元・比企能員ら13名以外の者が訴訟を持ち込む事が不可となった。頼家は、小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成・北条時房の5名の側近のみを近侍させ、北条氏と対峙する姿勢を鮮明にした。

西暦1199年8月、安達景盛の側室を強引に北向御所に住まわせた頼家は、景盛に対する讒言を受けて征伐を命ずるが、北条政子が「其れでも尚景盛を追罰しようと思われるならば、私が先ず其の矢に当たりましょう」と身を以て阻止した。同年11月、結城朝光への讒言を発端として梶原景時糾弾の連判状が作成され、66名の御家人が署名・血判した。西暦1200年2月、頼家の最大の支持者であった梶原景時一族は滅ぼされた。頼家は念仏禁止令、境相論の線引き裁定、所領再分配の試み等、独自の施政を試みるが、悉く宿老達に阻まれた。西暦1201年、蹴鞠の名手紀行景を京都から招聘、以後蹴鞠に熱中する日々が続いた。西暦1202年8月、従二位に叙され、第2代鎌倉幕府征夷大将軍に就任した。

西暦1203年2月、鶴岡八幡宮寺の巫女が八幡神の御託宣として「若君は家督を継ぐべきでは無い」「岸の上の木は、其の根が既に枯れている」と告げた。頼家は此れを「御託宣では無く比企家への警告ではないのか」と捉えた。同年8月、頼家は大江広元の屋敷で急病に倒れた。10月、北条時政は、一幡に関東28ヶ国・源実朝に関西38ヶ国を分与する決定を下し、比企能員は憤激した。比企能員の変により、比企一族は小御所に立て籠もる一幡と共に滅ぼされた。体調を回復した頼家は北条時政討伐を命ずるが、和田義盛が時政側に就き、頼家の使者堀親家は工藤行光に殺害された。同月13日、頼家は北条政子により出家させられ修禅寺に軟禁された。西暦1204年8月14日、入浴中に北条氏の刺客に首に縄を掛けられ、睾丸を切断された上で刺殺された。


登場人物

  • 源頼家 本書の主人公。鎌倉幕府第2代征夷大将軍。源頼朝と北条政子の参男。比企能員の屋敷で生まれ比企氏の手で育てられた。西暦1199年に第2代鎌倉殿、西暦1202年に征夷大将軍就任。独裁志向と北条氏・13人合議制との対立の末、西暦1203年に出家・修禅寺軟禁、翌年暗殺された。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。頼家の父。西暦1193年の富士野巻狩で頼家が初めて鹿を射止めた事を喜び、梶原景高を派遣して北条政子に知らせた。西暦1199年に重病となり、頼家の家督相続の契機となった。
  • 北条政子 源頼朝の正室。頼家の実母。西暦1199年の安達景盛誅殺阻止、西暦1202年の平知康放逐、西暦1203年の阿波局引き渡し拒否、頼家出家の決断等、幾度も頼家の行動に介入した。
  • 北条時政 頼家の外祖父。鎌倉幕府初代執権。西暦1203年、頼家の急病を契機に、一幡と源実朝への分割相続を裁定、比企能員の変の首謀者となり、比企一族・一幡を滅ぼした。
  • 北条義時 北条政子の弟。頼家の叔父。西暦1193年の矢開きで三色の餅を献上。西暦1203年3月、源実朝の鶴岡八幡宮寺参詣を補助し、後継者擁立の姿勢を鮮明にした。
  • 北条時房 北条時政の四男。頼家の叔父にして蹴鞠仲間。西暦1199年5月の側近5名の1人。西暦1202年7月、平知康の勧めに従い改名した。
  • 北条泰時 北条義時の嫡男。西暦1201年9月の台風以降は鞠会に参加せず、同年10月には蹴鞠への傾倒を諫言。西暦1202年に三浦義村の娘矢部禅尼と結婚し改名を望んだ。
  • 比企能員 頼家の乳母夫。比企尼の猶子。娘若狭局を頼家の側室とし、一幡の外祖父となった。西暦1203年10月、娘若狭局経由で頼家に北条時政征伐を訴え、時政邸で天野遠景・仁田忠常に殺害された。
  • 比企尼 頼家の乳母の母。源頼朝の配流中の恩人。西暦1160年から1180年まで蛭ヶ小島の頼朝に仕送りを続け、其の恩に報いる為に甥の比企能員が乳母夫に推挙された。
  • 比企宗員 比企能員の参男。西暦1199年5月16日の頼家側近5名の1人。大倉御所への接近を許された少数の側近であった。
  • 比企時員 比企能員の四男。西暦1199年5月の頼家側近5名の1人。頼家の猟犬の世話や念仏僧14名の捕縛等、頼家の命を実行した。
  • 若狭局 比企能員の娘。頼家の側室。一幡の母。西暦1203年10月8日、父能員の北条時政征伐の訴えを頼家に取り次いだ。
  • 一幡 頼家の長男。母は若狭局。西暦1203年10月の北条時政の裁定で関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲られる筈であったが、比企能員の変で比企一族と共に小御所で滅ぼされた。
  • 公暁 頼家の弐男。西暦1202年12月26日、鶴岡八幡宮寺で初めての神拝の儀が執り行われた。後に源実朝を暗殺する事となる人物。
  • 源実朝 源頼朝の弐男。頼家の弟。西暦1203年10月、北条時政の裁定で関西38ヶ国の地頭職を譲られ、頼家の失脚後に第3代征夷大将軍となった。
  • 梶原景時 頼朝・頼家に仕えた御家人。西暦1199年11月、結城朝光への讒言が発覚し、66名による連判状で糾弾。西暦1200年2月に一族ごと滅ぼされた。頼家にとっては最大の支持者の喪失であった。
  • 安達景盛 安達盛長の息子。西暦1199年8月、頼家に側室を奪われ、9月には誅殺されそうになったが北条政子に救われた。西暦1203年12月、頼家から修禅寺で身柄引き渡しと処罰を要求される逆恨みの対象となった。
  • 中野能成 頼家側近5名の1人。西暦1199年8月13日、頼家の命で安達景盛の側室を連れ出した実行役。西暦1201年10月には北条泰時から諫言を伝えられた。
  • 小笠原長経 頼家側近5名の1人。西暦1199年8月、安達景盛の側室を其の屋敷に置き、9月には景盛征伐軍の将を務めたが、北条政子に阻止された。
  • 紀行景 蹴鞠の名手で後鳥羽上皇に仕える北面武士。西暦1201年10月、頼家が後鳥羽上皇の許可を得て京都から招聘。以後頼家の蹴鞠熱中の中心人物となった。
  • 平知康 頼家に仕えた公家。西暦1202年7月、夕立後の水溜まりを直垂で拭い蹴鞠を支援。同日夜、北条時房の改名を勧めたが、翌日北条政子から法住寺合戦の原因として難詰され放逐された。
  • 後鳥羽天皇 朝廷の天皇。西暦1195年7月、源頼朝・源頼家父子の参内を受け頼家に謁見。西暦1201年、城長茂からの頼家追討宣旨要求を拒絶した。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1201年2月の所領再分配に反対。西暦1199年11月の連判状の伝達、西暦1203年10月の比企能員征伐への黙認等、頼家政権期の重要局面で中立的立場を保持した。
  • 三善康信 鎌倉幕府問注所執事。13人合議制の1人。西暦1201年2月、頼家の所領再分配を遠回しに諫めて延期させた。
  • 阿野全成 源頼朝の異母弟。妻は北条政子の妹阿波局。西暦1203年6月29日、北条時政と結託して頼家を追放しようとしているとの嫌疑で武田信光に捕縛され、8月1日に八田知家により下野国にて殺害された。
  • 板額御前 城長茂の乱の関係者。西暦1201年7月29日、藤沢清親に護送され大倉御所に招かれた。頼家の前で堂々とした態度を示し、浅利義遠の望みにより其の妻となった。
  • 微妙 白拍子。西暦1202年4月、比企能員の館で頼家に引き合わされた。父為成が讒言により右獄に投獄、奥州に追放された身の上を語った。後に明菴栄西の禅房で出家、北条政子から深沢に居所を与えられた。
  • 仁田忠常 鎌倉幕府御家人。西暦1203年7月12日、富士の人穴探検で生還した2名の1人、残り4名は霊気により死亡した。同年10月、北条時政と共に比企能員殺害の実行役となった。
  • 和田義盛 鎌倉幕府侍所別当。西暦1199年11月、梶原景時糾弾連判状の提出で大江広元を詰問。西暦1203年10月11日、頼家からの北条時政討伐の書簡を受け取りながら使者堀親家を捕縛、時政邸に入り頼家方に与しなかった。
  • 朝比奈義秀 和田義盛の子で泳ぎの名人。西暦1200年10月、小壺の船遊びで海に10往復潜水し生きた伸3匹を抱いて戻ったが、和田常盛との名馬を賭けた相撲では引き分け、常盛に馬を奪われた。

主要な地名・拠点

  • 比企能員の屋敷 現在の神奈川県鎌倉市大町の妙本寺所在地。西暦1182年9月11日、北条政子が頼家を出産した地。頼家の人生の始点であり、西暦1202年4月の微妙引き合わせ等、頼家の私的時間の中心となった場所。
  • 大倉御所 鎌倉幕府初期の将軍御所。頼家が政務を執り、蹴鞠を催し、訴訟を裁いた場所。北向御所は側室を住まわせた場所でもあった。
  • 富士野 駿河国の狩場。西暦1193年6月16日、頼家が初めて鹿を射止め、源頼朝を大きく喜ばせた地。頼家の武士としての初陣を飾る場となった。
  • 鶴岡八幡宮寺 鎌倉幕府の宗教的中心。西暦1199年11月18日、梶原景時糾弾連判状の66名が集結した地。西暦1203年2月15日、巫女が頼家の治世終焉を告げる八幡神の御託宣を述べた地。
  • 安達盛長の屋敷 甘縄に所在した安達氏の屋敷。西暦1199年9月11日、小笠原長経率いる軍に押し寄せられたが、北条政子が自ら入り誅殺を阻止した場所。
  • 筋替橋 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1200年6月24日、頼家の念仏禁止令により、比企時員が捕らえた念仏僧14名の袈裟が焼却された地。伊勢称念は此処で正論を唱え、袈裟を守り抜いた。
  • 小壺 現在の神奈川県逗子市小坪。西暦1200年10月11日、頼家が笠懸を行い、朝比奈義秀の潜水と伸を抱き抱える技を見物した地。
  • 人穴 駿河国富士の洞窟。現在の静岡県富士宮市。西暦1203年7月12日、頼家の命で仁田忠常等6名が入ったが、4名が霊気により死亡した。地元古老曰く浅間大菩薩の御在所。
  • 清水坂 現在の京都府京都市東山区。西暦1201年2月27日、城長茂率いる軍が後鳥羽上皇に頼家追討宣旨を拒絶された後に潜伏した地。小山朝政の追撃軍が到着した時には既に城は居なかった。
  • 名越殿 現在の神奈川県鎌倉市大町の北条時政邸。西暦1203年10月8日、時政が比企能員を薬師如来開眼供養に誘い出し、天野遠景・仁田忠常に殺害させた場所。
  • 小御所 比企能員の館の最奥部に在る一幡の屋敷。西暦1203年10月8日、比企能員殺害を知った比企一族が立て籠もり、一幡と共に滅ぼされた地。
  • 修禅寺 伊豆国の寺院。現在の静岡県伊豆市修善寺。西暦1203年11月4日、出家させられた頼家が先陣随兵100騎、後陣随兵約200騎等を伴い軟禁された地。西暦1204年8月14日、入浴中に北条氏の刺客に刺殺された終焉の地。
  • 寿福寺 鎌倉の寺院。明菴栄西が住職を務めた。西暦1202年3月24日、頼家が北条政子の夢のお告げに従い、源義朝の居館沼浜城を解体して寄進した。

主要な事績・事件

  • 比企氏の屋敷での誕生 西暦1182年9月11日、北条政子が比企能員の屋敷で頼家を出産した。乳母夫は比企能員。比企尼が蛭ヶ小島配流中の頼朝を20年間支援した恩義に報いる為、其の甥能員が猶子として推挙された経緯がある。頼家の人生は出発点から比企氏と密接不可分の関係にあった。
  • 富士野巻狩と初めての鹿射止め 西暦1193年6月16日、駿河国の巻狩で頼家が初めて鹿を射止めた。源頼朝は頼家の世話をしていた愛甲季隆を誉めた。夜、北条義時が赤・黒・白の三色の餅を献上する矢開きの儀が行われた。後継者としての初の公的成功であった。
  • 第2代鎌倉殿継承 西暦1199年2月22日、朝廷が頼家を家督相続させ第2代鎌倉殿とし、御家人を以て諸国を守護する事を命ずる宣旨を下した。3月4日に使者が鎌倉に到着、吉書始が執り行われた。
  • 13人合議制の開始 西暦1199年5月8日、頼家が自ら直に訴訟を裁く事が停止された。北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政の13名以外の者が訴訟を持ち込む事が不可となった。頼家の専断を封じる体制。
  • 側近5名への権力集中 西暦1199年5月16日、政所の張り紙により、小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成・北条時房の5名以外は頼家と対面させないとの命令が発せられた。13人合議制に対する頼家の対抗策。
  • 安達景盛妾略奪事件 西暦1199年8月13日、頼家が中野能成に命じて安達景盛の側室を強引に連れ出し、北向御所に住まわせた。同9月11日、讒言を受けて景盛征伐を命じたが、北条政子が安達盛長の屋敷に入り「私が先ず其の矢に当たりましょう」と身を以て阻止した。
  • 梶原景時の変 西暦1199年11月17日、阿波局が結城朝光に讒言の危険を告げ、三浦義村・和田義盛・安達盛長の話し合いで梶原景時排除が決定。11月18日、鶴岡八幡宮寺の回廊に66名が集結し連判状を作成。文章担当は中原仲業。西暦1200年2月に梶原一族は滅ぼされた。頼家の最大の支持者の喪失。
  • 念仏禁止令 西暦1200年6月24日、頼家が僧侶の斬る袈裟を問題視し念仏禁止令を発した。比企時員が念仏僧14名を捕らえ袈裟を剥ぎ取り筋替橋で焼却。伊勢称念だけは正論で焼却を免れた。禁止令は直ぐに廃止され世間の笑い種となった。
  • 境相論の線引き裁定 西暦1200年7月10日、陸奥国葛岡の新熊野神社の坊領境相論で、頼家が絵図の中央に一本の線を引いて「土地が広いか狭いかは運次第だ。以後の境界争いは全てこの様に結審する」と裁定した。頼家の独自の統治スタイル。
  • 城長茂の乱 西暦1201年2月27日、城長茂率いる軍が京都の小山朝政の宿所を包囲、後鳥羽上皇に頼家追討宣旨を要求したが拒絶された。城は清水坂に潜伏、小山の追撃が届かなかった。
  • 所領再分配の試み 西暦1201年2月2日、頼家が政所に諸国の大田文の提出を命じ、西暦1182年以後の恩地について約4,958,680㎡以上の超過分を没収し未給の御家人に分配しようとした。大江広元が反対、翌日三善康信が諫言し延期となった。
  • 紀行景招聘と蹴鞠への傾倒 西暦1201年10月5日、蹴鞠の名手紀行景が後鳥羽上皇の許可を得て鎌倉に到着。以後頼家は蹴鞠に熱中し、時には1日で2,000回を超える回数を蹴った。西暦1201年9月の台風による飢饉の最中、北条泰時から諫言を受けた。
  • 征夷大将軍就任 西暦1202年8月11日、従二位に叙され翌12日に征夷大将軍を宣下された。頼家は「源頼朝は征夷大将軍になる為に、朝敵を倒し奥州を領土とした。私は其の職を引き継いだだけで、狩猟しか知らない征夷大将軍だ」と考えた。
  • 八幡神の御託宣 西暦1203年2月15日、一幡の鶴岡八幡宮寺奉幣の際、巫女が「今年中に関東で事が起きる」「若君は家督を継ぐべきでは無い」「岸の上の木は、其の根が既に枯れている」と告げた。頼家は「御託宣では無く比企家への警告ではないのか」と捉えた。
  • 人穴探検事件 西暦1203年7月12日、駿河国富士の人穴に仁田忠常等6名を入らせたが、蝙蝠・蛇・不思議な姿の人が現れる異界の様相で、4名が霊気により死亡。頼家は「面白がって行かせるのではなかった」と後悔した。
  • 比企能員の変 西暦1203年10月3日、頼家急病を受けた北条時政が一幡と源実朝への分割相続を裁定。比企能員は激怒し10月8日に頼家経由で時政征伐を訴えたが、北条政子の立ち聞きにより漏洩。時政は能員を名越殿に誘い出し、天野遠景・仁田忠常が殺害。比企一族は小御所で一幡と共に滅ぼされた。
  • 頼家の反撃失敗 西暦1203年10月11日、体調を回復した頼家が堀親家を使者として和田義盛・仁田忠常に北条時政討伐を命ずる書簡を送った。然し和田は時政側に寝返り堀を捕縛、堀は工藤行光に殺害された。頼家の権力基盤の完全な喪失の瞬間。
  • 出家・修禅寺軟禁 西暦1203年10月13日、頼家が北条政子により出家させられ、11月4日に先陣随兵100騎、女騎15騎、後陣随兵約200騎を伴い修禅寺に軟禁された。西暦1203年12月10日、北条政子・源実朝宛ての書簡で中野能成の派遣と安達景盛の身柄引き渡しを要求したが、以後書簡送付を禁じられた。
  • 暗殺 西暦1204年8月14日、頼家が入浴中に北条氏の刺客に首に縄を掛けられ、睾丸を切断された上で刺殺された。享年23。生誕から暗殺まで、比企氏との密接な関係と其の滅亡、そして北条氏の勝利という権力闘争の縮図を体現した生涯であった。

比企氏との誕生・富士野巻狩・鎌倉殿継承・梶原景時の変・比企能員の変・修禅寺軟禁──
鎌倉幕府第2代征夷大将軍・源頼家の23年の生涯を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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