源頼家一元化
比企の屋敷に生まれ、北条に斃れた──
第2代鎌倉殿・源頼家の生涯を一元化。
468円(税込)
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本書について
西暦1,182年9月11日、北条政子は、源頼朝の子源頼家を、比企能員の屋敷(現在の神奈川県鎌倉市大町の妙本寺)で産んだ。11月14日、母子が大倉御所に入る際、頼家の御輿は佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱が担ぎ、弓矢は長沼宗政、刀は小山朝光が持つ。乳母夫の比企能員は贈物をした。蛭ヶ小島(現在の静岡県伊豆の国市)に配流されていた頼朝に、1,160年から1,180年に至る迄仕送りをしていた比企尼の恩に頼朝が報いようとした際、尼の甥である能員が猶子とされ、乳母夫に推挙されたのである。本書は、此の誕生から、1,204年8月14日に頼家が北条氏の刺客に殺される迄を一元化した記録である。
1,193年1月24日に天然痘を発病した頼家は、6月、駿河国藍沢へ向かう頼朝の巻狩に加わり、16日、富士野で初めて鹿を射止める。頼朝は頼家の世話をしていた愛甲季隆を誉め、夜の矢開きでは、北条義時が献上した赤・黒・白の三色の餅を、工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信が食した。頼朝は、頼家が初めて鹿を射止めた事を北条政子に知らせる為に、梶原景高を遣わしている。1,195年には、東大寺大仏殿の落慶供養参列と大姫の入内工作の為に京都へ向かう頼朝に、政子・大姫と共に伴われ、5月26日の石清水八幡宮の参詣では牛車に同乗した。7月11日、頼朝と共に参内して後鳥羽天皇に謁見し、頼朝の後継者として貴族にお披露目される。
1,199年2月16日、頼朝が重病であるとの情報を受けた源通親は、臨時除目を開いて頼家の左中将昇進の手続きを取った。22日、朝廷は頼家に家督を相続させて第2代鎌倉殿とし、御家人を以て諸国を守護させる宣旨を下す。3月4日、宣旨を伝える使者が鎌倉に到着し、吉書始が執り行われた。しかし5月8日、頼家が自ら直に訴訟を裁く事は停止され、北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政以外の者は、頼家に訴訟を持ち込めなくなる。16日、梶原景時と中原仲業は、小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成・北条時房の5名以外は、特別な仰せが無ければ頼家と対面させないという主旨の張り紙を政所に出した。
8月13日、頼家は、室平重広の征伐の為に三河国へ発った安達景盛の側室を、中野能成に命じて小笠原長経の屋敷に置き、自身の側室とする。9月11日、帰還した景盛が恨みを抱いているという噂と讒言を受けて、頼家は景盛征伐を命じ、夜、小笠原の軍が甘縄の安達盛長の屋敷に押し寄せた。北条政子は盛長の屋敷に入り、其れでも尚景盛を追罰しようと思われるならば私が先ず其の矢に当たりましょうと二階堂行光に伝えさせ、頼家は征伐を撤回する。11月17日、阿波局から、梶原景時の讒言で殺されてしまうかも知れないと告げられた結城朝光は三浦義村に相談し、義村は和田義盛・安達盛長と話し合って、梶原を鎌倉から排除する事を決めた。翌18日、鶴岡八幡宮寺の回廊に集まった66名は、中原仲業が作成した梶原景時糾弾の連判状に署名・血判する。連判状を受け取った大江広元は頼家に提出せずにいたが、和田義盛に詰問され、12月1日に提出した。1,200年2月10日、梶原景時一族が滅んだ事を六波羅に伝える為に、安達親長が上洛する。
1,200年6月24日、頼家は僧侶の着る袈裟を問題視して念仏禁止令を発し、比企時員に念仏僧14名を捕らえさせて袈裟を焼かせたが、伊勢称念の袈裟だけは焼かれず、令は直ぐに廃止となって、世間の笑い種となった。7月10日の境相論では、絵図の中央に一本の線を引き、土地が広いか狭いかは運次第だと言い放つ。1,201年2月、勲功として与えられた恩地の超過分を没収して御家人に分配しようとしたが、大江広元が反対し、三善康信にも遠回しに諌められて延期した。10月5日、後鳥羽上皇の許可を得て京都から招いた蹴鞠の名手紀行景が鎌倉に着き、以後、頼家は紀や北条時房・比企時員らと鞠を重ねていく。二度の台風で飢饉に陥っている時に蹴鞠は慎むべきだと北条泰時に批判された時、頼家は立腹した。1,202年8月11日、頼家は従二位に叙され、征夷大将軍を宣下される。
1,203年2月15日、長男一幡の奉幣に際し、巫女は、今年中に関東で事が起きるだろう、若君は家督を継ぐべきでは無いとの御託宣を述べた。6月29日、北条時政と結託して自身を追放しようとしているとの情報を掴んでいた頼家は、武田信光に阿野全成を捕らえさせ、8月1日、八田知家に下野国で殺害させる。8月28日、頼家は大江広元の屋敷で急病に倒れた。10月3日、回復の兆しが見えない事から、時政は、一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決め、一幡の外祖父比企能員は憤慨する。8日、能員は娘の若狭局を介して頼家に時政征伐を訴え、病床に呼ばれて許可を得たが、其の話を障子の陰から立ち聞きしていた政子が時政に伝え、薬師如来の開眼供養を名目に名越殿へ招かれた能員は、天野遠景・仁田忠常に殺害された。11日、回復して激怒した頼家は、和田義盛・仁田忠常に時政を討つ様命じたが、和田は使者の堀親家を捕らえさせ、時政の名越殿に入る。13日、頼家は政子により出家させられ、修禅寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)に軟禁される事となった。12月10日、中野能成を寄越して欲しいという頼家の訴えは聞き入れられず、以後書簡を送る事も禁じられる。1,204年8月14日、頼家は入浴中に北条氏の刺客に首に縄を掛けられ、刺殺された——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 源頼家 本書の中心人物。源頼朝の子。比企能員の屋敷で生まれ、1,199年に第2代鎌倉殿となったが、自ら直に訴訟を裁く事を停止された。紀行景を招いて蹴鞠を重ね、1,202年に征夷大将軍を宣下された。比企能員が殺された後、出家させられて修禅寺に軟禁され、1,204年8月14日、入浴中に北条氏の刺客に殺された。
- 北条政子 源頼家の母。比企能員の屋敷で頼家を産んだ。安達景盛征伐の際には、私が先ず其の矢に当たりましょうと伝えさせて止めた。比企能員が頼家から北条時政征伐の許可を得る話を障子の陰から立ち聞きして時政に伝え、1,203年10月13日、頼家を出家させた。
- 源頼朝 源頼家の父。比企尼の恩に報いようとした事が、比企能員が頼家の乳母夫となる切っ掛けとなった。富士野の巻狩で頼家が初めて鹿を射止めると、愛甲季隆を誉め、梶原景高を北条政子の下へ遣わした。1,195年、頼家と共に参内して後鳥羽天皇に謁見した。
- 比企能員 源頼家の乳母夫。比企尼の甥で、猶子とされて乳母夫に推挙された。一幡の外祖父。娘の若狭局を介して頼家に北条時政征伐を訴え、病床に呼ばれて許可を得たが、1,203年10月8日、薬師如来の開眼供養を名目に名越殿へ招かれ、天野遠景・仁田忠常に殺害された。
- 比企尼 源頼朝が蛭ヶ小島に配流されていた1,160年から1,180年に至る迄、頼朝に仕送りをしていた。其の恩に報いる際、甥の比企能員が猶子とされ、源頼家の乳母夫に推挙された。
- 北条時政 源頼家の祖父。1,203年10月3日、一幡と源実朝に地頭職を分けて譲る相続を取り決めた。比企能員を名越殿へ招き、天野遠景・仁田忠常に殺害させた。京都へは、頼家が亡くなったとして、実朝を征夷大将軍に任じる様求める書簡を送った。
- 北条義時 富士野の巻狩の矢開きで、赤・黒・白の三色の餅を献上した。1,203年3月18日、源実朝の鶴岡八幡宮寺参詣を助け、頼家は、義時のやり方が露骨になっていると考えた。
- 北条時房 政所の張り紙で名を挙げられた5名の1人。紀行景らと共に頼家と鞠を重ね、伊豆国への狩猟にも伴った。1,202年7月、平知康の一件の後に改名する事となった。
- 北条泰時 二度の台風で飢饉に陥っている時の蹴鞠は慎むべきだと批判し、頼家を立腹させた。佐々木経高の所領は全て返すべきだと北条義時に述べた。1,202年9月10日、三浦義村の娘矢部禅尼と結婚した。
- 一幡 源頼家の長男。1,203年2月15日に鶴岡八幡宮寺に奉幣した。北条時政の取り決めで関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲られる事になったが、外祖父の比企能員は、全て一幡に与えられるべきだとして憤慨した。
- 源実朝 源頼朝の子。1,203年3月18日、北条義時の助けを得て鶴岡八幡宮寺に参詣した。関西38ヶ国の地頭職を譲られる事になり、北条時政は、頼家が亡くなったとして、実朝を征夷大将軍に任じる様朝廷に求めた。
- 梶原景時 1,199年5月16日、中原仲業と共に政所に張り紙をした。景時が結城朝光を讒言したと阿波局が告げた事が切っ掛けとなり、66名が景時糾弾の連判状に署名・血判した。1,200年2月10日、其の一族が滅んだ事を伝える為に、安達親長が上洛した。
- 中原仲業 中原親能の家臣。1,199年5月16日、梶原景時と共に政所に張り紙をした。文章が上手と評判で、梶原と遺恨が有った。鶴岡八幡宮寺の回廊で、梶原景時糾弾の連判状の文章を作成して読み上げた。
- 安達景盛 室平重広の征伐から戻ると、側室を頼家に奪われていた。頼家が景盛征伐を命じたが、北条政子に救われ、頼家を恨む事は無いという起請文を作成した。修禅寺の頼家は、其の身柄の引き渡しを求めた。
- 大江広元 梶原景時糾弾の連判状を頼家に提出せずにいたが、和田義盛に詰問されて提出した。所領の再分配に反対し、比企能員征伐の相談には明言を避けた。1,203年8月28日、頼家は其の屋敷で急病に倒れた。
- 三善康信 所領の再分配を遠回しに諫め、頼家に決定を延期させた。陸奥国葛岡の境相論では、畠山重忠から頼家への取り次ぎを務めた。鶴岡八幡宮寺の塔の地鎮祭では総奉行を務めた。
- 和田義盛 三浦義村と共に連判状を大江広元に提出し、提出の遅れを激しく詰問した。1,203年10月11日、頼家から北条時政を討つ様命じる書簡を受け取ったが、使者の堀親家を捕縛させ、時政の名越殿へ入った。
- 畠山重忠 勝木則宗が腰刀で波多野盛通を刺そうとすると、座った儘左手を伸ばし、其の腕をへし折った。陸奥国葛岡の新熊野神社の境相論では、頼家の裁定を仰いだ。
- 紀行景 蹴鞠の名手で北面武士。頼家が後鳥羽上皇の許可を得て京都から招き、1,201年10月5日に鎌倉に着いた。頼家と鞠を重ね、天賦の才をお持ちですと言った。
- 平知康 鞠庭の水溜まりを直垂や帷子で吸わせた。酒宴では北条時房を持ち上げた上で、時房の改名を命じる様頼家に言い、北条政子に思い上がった怪しからん奴と言い放たれた。
- 板額御前 藤沢清親によって鎌倉に護送された。1,201年7月29日、傷が完治しない儘大倉御所に招かれ、臆する事無く頼家と面会した。翌日、浅利義遠が妻に迎える事を許された。
- 微妙 白拍子。1,202年4月2日、比企能員の館で頼家と引き合わされた。奥州へ追放された父の生死を知る為、奥州へ向かう途上であった。北条政子は奥州へ使者を遣わし、9月2日、微妙は父の後世を弔う為に出家した。
- 阿野全成 妻は阿波局。北条時政と結託して頼家を追放しようとしているとの情報を掴んだ頼家が差し向けた武田信光に、1,203年6月29日に捕らえられ、8月1日、八田知家に下野国で殺害された。
- 仁田忠常 1,203年7月、富士の人穴に入り、戻った2名の1人となった。10月8日、天野遠景と共に比企能員を殺害した。11日には、頼家から北条時政を討つ様命じる書簡を送られた。
- 朝比奈義秀 泳ぎの名人との評判が高く、1,200年10月11日、小壺の海で10往復した後、生きた鮫を3匹抱えて戻った。褒美の名馬を巡って和田常盛と相撲を取ったが、常盛が馬に飛び乗って去り、大いに悔しがった。
本書が記録する出来事
- 比企能員の屋敷での誕生(1,182年9月11日) 北条政子が、比企能員の屋敷で源頼家を産む。
- 大倉御所入り(1,182年11月14日) 佐々木定綱ら4名が頼家の御輿を担ぎ、乳母夫の比企能員が贈物をする。
- 富士野の巻狩(1,193年6月16日) 頼家が初めて鹿を射止め、夜、矢開きが行われる。
- 後鳥羽天皇への謁見(1,195年7月11日) 頼朝と共に参内し、頼朝の後継者として貴族にお披露目される。
- 第2代鎌倉殿(1,199年2月22日) 朝廷が、頼家に家督を相続させて第2代鎌倉殿とする宣旨を下す。
- 訴訟の親裁の停止(1,199年5月8日) 頼家が自ら直に訴訟を裁く事が停止され、13名以外は頼家に訴訟を持ち込めなくなる。
- 政所の張り紙(1,199年5月16日) 梶原景時・中原仲業が、5名以外は頼家と対面させないとの張り紙を政所に出す。
- 安達景盛の側室(1,199年8月13日) 頼家が、景盛の側室を自身の側室とする。
- 安達景盛征伐の撤回(1,199年9月11日) 北条政子が、私が先ず其の矢に当たりましょうと伝えさせ、頼家は征伐を撤回する。
- 梶原景時糾弾の連判状(1,199年11月18日) 鶴岡八幡宮寺の回廊に集まった66名が、連判状に署名・血判する。12月1日、大江広元が頼家に提出する。
- 勝木則宗の捕縛(1,200年2月17日) 畠山重忠に腕をへし折られて捕らえられた勝木が、梶原景時の書簡に就いて自白する。
- 念仏禁止令(1,200年6月24日) 比企時員が念仏僧14名を捕らえて袈裟を焼くが、伊勢称念の袈裟だけは焼かれず、令は直ぐに廃止となる。
- 境相論の線引き(1,200年7月10日) 頼家が絵図の中央に一本の線を引き、土地が広いか狭いかは運次第だと裁く。
- 所領の再分配(1,201年2月2日) 恩地の超過分の没収と分配を命じるが、翌日、三善康信に諫められて延期する。
- 城長茂の挙兵(1,201年2月27日) 城が京都で小山朝政の宿所を囲み、後鳥羽上皇に頼家追討の宣旨を求めるが、拒まれる。
- 板額御前との面会(1,201年7月29日) 鎌倉に護送された板額御前が、臆する事無く頼家と面会する。翌日、浅利義遠が妻に迎える事を許される。
- 紀行景の到着(1,201年10月5日) 後鳥羽上皇の許可を得て招いた蹴鞠の名手が、鎌倉に着く。
- 北条泰時の批判(1,201年10月20日) 飢饉の最中の蹴鞠を泰時に批判され、頼家は立腹する。
- 微妙との出会い(1,202年4月2日) 比企能員の館で、父の生死を知る為に奥州へ向かう白拍子の微妙と引き合わされる。
- 征夷大将軍の宣下(1,202年8月11日) 頼家が従二位に叙され、征夷大将軍を宣下される。
- 八幡神の御託宣(1,203年2月15日) 一幡の奉幣に際し、若君は家督を継ぐべきでは無いとの御託宣が述べられる。
- 阿野全成の捕縛(1,203年6月29日) 頼家が武田信光に阿野全成を捕らえさせる。8月1日、全成は八田知家に殺害される。
- 富士の人穴(1,203年7月13日) 人穴に入った6名の内、仁田忠常ら2名が戻り、4名は霊気により死亡する。
- 相続の取り決め(1,203年10月3日) 北条時政が、一幡と源実朝に地頭職を分けて譲る事を決め、比企能員が憤慨する。
- 比企能員の殺害(1,203年10月8日) 時政に招かれた能員が、名越殿で天野遠景・仁田忠常に殺害される。
- 出家と修禅寺への軟禁(1,203年10月13日) 頼家が北条政子により出家させられ、修禅寺に軟禁される事となる。
- 頼家の最期(1,204年8月14日) 頼家が入浴中に北条氏の刺客に首に縄を掛けられ、刺殺される。
蹴鞠、笠懸、人穴、そして修禅寺──
源頼家と御家人達の日々を一元化。
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