源頼家一元化
西暦1,182年、比企能員の屋敷に一人の子が生まれた──
鎌倉幕府第2代征夷大将軍・源頼家の23年を年月日単位で一元化。
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本書について
西暦1,182年9月11日、北条政子は、比企能員の屋敷(現在の神奈川県鎌倉市大町の妙本寺)で、源頼朝の参男・源頼家を産んだ。同年11月14日、母子が大倉御所へ入る際、頼家の御輿を担いだのは佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の四兄弟であり、弓矢は長沼宗政、刀は小山朝光が持った。乳母夫となったのは、屋敷の主である比企能員である。源頼朝が西暦1,160年に蛭ヶ小島(現在の静岡県伊豆の国市)へ配流されてから西暦1,180年に至るまで仕送りを続けた比企尼の恩に報いる為、其の甥である能員が猶子とされ、乳母夫に推挙されたのであった。頼家は、生まれた場所からして既に比企氏の側に置かれていた。本書は、此の日を起点として、西暦1,204年8月14日に修禅寺で殺されるまでの23年を、年月日単位で一元化した記録である。
西暦1,193年6月8日、源頼朝は駿河国藍沢へ向けて巻狩に出発する。北条時政・北条義時・畠山重忠・三浦義澄・和田義盛・梶原景時を始めとする60名を超える随行者の中に、頼家も居た。6月16日、富士野で頼家は初めて鹿を射止める。頼朝は、頼家の世話をしていた愛甲季隆を誉め、其の夜には矢開きが行われた。北条義時が赤・黒・白の三色の餅を献上し、工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信が一の口から三の口までを食し、梶原景季・工藤祐経・海野幸氏が矢口餅の陪膳を担った。頼朝は、其の報せを北条政子へ届ける為に梶原景高を鎌倉へ走らせている。西暦1,195年には東大寺大仏殿の落慶供養に伴われて上洛し、石清水八幡宮へは頼朝と牛車に同乗して参詣、7月11日には父と共に参内して後鳥羽天皇に謁見した。後継者の披露目であった。
西暦1,199年2月16日、源頼朝が重病であるとの報を受けた源通親が臨時除目を開き、頼家の左中将昇進の手続きを取る。同月22日、朝廷は頼家に家督を相続させて第2代鎌倉殿とする宣旨を下し、3月4日には吉書始が執り行われた。然し同年5月8日、頼家が自ら直に訴訟を裁く事が停止される。北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政──此の13名以外は、源に訴訟を持ち込む事が出来なくなった。同月16日、梶原景時と中原仲業が政所に張り紙を出し、小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成・北条時房の5名以外は特別な仰せが無ければ頼家と対面させないと定める。鎌倉殿となった其の年の内に、頼家の手からは既に多くが離れていた。
西暦1,199年8月13日、頼家は中野能成に命じて安達景盛の側室を小笠原長経の屋敷へ移させ、19日には北向御所に住まわせた。9月10日、三河国から戻った景盛は其れを知る。恨みを抱いているとの噂と讒言を受けた頼家は側近5名に景盛征伐を命じたが、北条政子が甘縄の安達盛長の屋敷へ入り、二階堂行光を遣わして「其れでも尚景盛を追罰しようと思われるならば、私が先ず其の矢に当たりましょう」と伝えさせ、征伐は撤回された。同年11月17日、阿波局が結城朝光に梶原景時の讒言を告げた事から事態が動く。18日、鶴岡八幡宮寺の回廊に66名の御家人が集まり、中原仲業が起草した梶原糾弾の連判状に署名・血判した。大江広元は暫く之を握り潰したが、和田義盛に詰問され12月1日に提出する。西暦1,200年2月、頼家の最大の後ろ盾であった梶原一族は既に滅んでいた。
西暦1,200年6月24日の念仏禁止令は、比企時員が念仏僧14名の袈裟を剥ぎ取り、筋替橋(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の近くで焼くという形で執行されたが、伊勢称念ただ一人が理を説いて袈裟を守り、令は直ぐに廃されて世間の笑い種となった。同年7月10日の境相論では、頼家は絵図の中央に一本の線を引き「土地が広いか狭いかは運次第だ」と言い放っている。西暦1,201年2月には、約4,958,680㎡を超える恩地を没収して領地を与えられていない御家人へ分配しようとしたが、大江広元が反対し、三善康信が遠回しに諫めて延期された。同年10月、後鳥羽上皇の許しを得て、蹴鞠の名手・紀行景が京都から鎌倉へ下る。以後の頼家は、120回・310回・500回と鞠の回数を数える日々を送った。台風と飢饉の最中の蹴鞠を北条泰時が諫めた時、頼家は立腹している。西暦1,202年8月11日、頼家は従二位に叙され、征夷大将軍を宣下された。
西暦1,203年2月15日、鶴岡八幡宮寺の巫女は「今年中に関東で事が起きるだろう」「若君は家督を継ぐべきでは無い」「岸の上の木は、其の根が既に枯れている」との御託宣を述べた。同年8月28日、頼家は大江広元の屋敷で急病に倒れる。10月3日、北条時政は、一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決め、一幡の外祖父である比企能員は憤激した。8日、若狭局を介して時政征伐の許可を得た能員は、薬師如来の開眼供養に招かれて平服の儘名越殿(現在の神奈川県鎌倉市大町)へ赴き、天野遠景と仁田忠常に竹藪へ引き倒されて殺された。比企一族は小御所に立て籠もり、一幡と共に滅ぶ。体調を回復した頼家は和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命ずるが、和田は使者の堀親家を捕縛して名越殿へ入り、堀は工藤行光に殺された。13日、頼家は北条政子により出家させられ、修禅寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)へ送られる。同じ日、鎌倉からは「10月7日に頼家が亡くなった」との書簡が京都へ発っていた。12月10日、中野能成を寄越して欲しいという頼家の訴えは容れられず、以後の書簡は禁じられる。西暦1,204年8月14日、頼家は入浴中に北条氏の刺客に首へ縄を掛けられ、刺し殺された。
登場人物
- 源頼家 本書の中心人物。源頼朝の参男。西暦1,182年9月11日、比企能員の屋敷で生まれた。西暦1,199年2月22日の宣旨により第2代鎌倉殿となり、西暦1,202年8月12日には第2代鎌倉幕府征夷大将軍に就いた。訴訟の親裁を停止され、側近5名を頼み、蹴鞠に熱中し、比企能員の変の後に出家させられて修禅寺に軟禁され、西暦1,204年8月14日、入浴中に北条氏の刺客に殺害された。
- 北条政子 源頼家の母。比企能員の屋敷で頼家を出産した。西暦1,199年9月11日、安達景盛征伐に向かう軍を、二階堂行光を通じて「私が先ず其の矢に当たりましょう」と伝えて止めた。西暦1,203年10月13日には頼家を出家させ、修禅寺へ送っている。白拍子の微妙を哀れんで深沢の里に居所を与えたのも北条であった。
- 比企能員 源頼家の乳母夫。比企尼の甥で、其の猶子となって乳母夫に推挙された。頼家は其の屋敷で生まれ、蹴鞠も度々比企の館で催された。娘の若狭局は一幡の母である。西暦1,203年10月8日、若狭局を介して北条時政征伐の許可を得たが、薬師如来の開眼供養に招かれて名越殿へ平服で赴き、天野遠景と仁田忠常に竹藪へ引き倒されて殺害された。
- 北条時政 源頼家の外祖父。西暦1,203年10月3日、一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた。同月8日には比企能員を名越殿へ誘い出して殺害し、13日には「10月7日に頼家が亡くなった」という書簡を京都へ送らせている。
- 北条義時 北条時政の息子。西暦1,193年の矢開きでは赤・黒・白の三色の餅を献上した。西暦1,203年3月18日、源実朝の鶴岡八幡宮寺参詣を助け、頼家は「先日の八幡神の御託宣を良い事に義時のやり方が露骨になっている」と考えている。
- 北条時房 西暦1,199年5月16日の張り紙で名を挙げられた側近5名の1人。紀行景を交えた鞠会の常連であり、西暦1,202年7月17日、平知康を巡る酒宴の一件の後に改名した。頼家は、源頼朝が時房に佐原義連の様な家子であって欲しかったのだろうと考えている。
- 北条泰時 北条義時の息子。西暦1,201年10月20日、二度の台風と飢饉の最中に蹴鞠へ興ずる頼家を、中野能成を通じて諫めた。同年12月29日には、佐々木経高への所領返還が一ヶ所に留まった事を惜しみ「赦免するのなら全て返還してあげなければ、痼りが残ってしまいます」と義時に述べている。
- 一幡 源頼家の長男。母は比企能員の娘若狭局。西暦1,203年2月15日には鶴岡八幡宮寺に奉幣し、同年10月3日には関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲られる事が決まった。比企能員の変に際し、比企一族と共に能員の館の最奥にある小御所へ立て籠もった。
- 梶原景時 源頼家の側近であった御家人。西暦1,199年5月16日には中原仲業と共に政所へ張り紙を出した。同年11月、結城朝光への讒言が発端となって66名の連判状が作られ、鎌倉から排除される。西暦1,200年2月には一族が滅び、九州の一族へ宣旨を要求する書簡を送っていた事が勝木則宗の自白から明らかとなった。
- 中原仲業 中原親能の家臣。文章が上手と評判で、梶原景時と遺恨が有った。西暦1,199年11月18日、鶴岡八幡宮寺の回廊で梶原糾弾の連判状を起草して読み上げた。「鶏を養う者は狸を飼わず、獣を飼う者は山犬を育てない」の一文に三浦義村は感心したという。
- 安達景盛 安達盛長の息子。西暦1,199年8月、室平重広征伐の為に三河国へ発った隙に側室を源頼家に奪われた。恨みを抱いているとの噂から征伐を命じられたが、北条政子に救われ、北条の求めに応じて源を恨まぬ旨の起請文を提出した。西暦1,203年12月、修禅寺の頼家は其の身柄の引き渡しを求めている。
- 大江広元 鎌倉幕府の実務を担った側近。梶原糾弾の連判状を預かりながら暫く源頼家へ提出せず、和田義盛に詰問された。西暦1,201年2月の所領再分配には反対し、比企能員征伐の相談には明言を避けている。西暦1,203年8月28日、頼家は其の屋敷で急病に倒れた。
- 三善康信 問注所の執事。西暦1,201年2月3日、御家人の所領再分配を遠回しに諫め、源頼家は渋々決定を延期した。此の時三善自身は約6,079,341.68㎡の領地を有していた。西暦1,203年3月の鶴岡八幡宮寺の塔の地鎮祭では総奉行を務めている。
- 和田義盛 侍所別当。梶原糾弾では三浦義村と共に連判状を大江広元へ提出し、提出の遅れを激しく詰問した。西暦1,203年10月11日、源頼家から北条時政討伐を命ずる書簡を受け取りながら、使者の堀親家を捕縛して名越殿へ入った。
- 紀行景 蹴鞠の名手で北面武士。蹴鞠に熱中していた源頼家が後鳥羽上皇の許可を得て京都から招き、西暦1,201年10月5日に鎌倉へ到着した。大倉御所や三善康清の屋敷での鞠会を率い、西暦1,202年3月には積良から運ばれた柳を「余り良い木では無い」と評している。
- 平知康 京都から下ってきた人物。西暦1,202年7月16日、鞠庭の水溜まりを直垂と帷子を脱いで吸わせ、夜の酒宴では鼓を打ち、北条時房の改名を源頼家に命じろと言い出した。北条政子には「思い上がった怪しからん奴」と言い放たれている。
- 板額御前 城長茂の乱に連なり、藤沢清親によって鎌倉へ護送された女武者。西暦1,201年7月29日、傷の癒えぬ儘大倉御所に招かれ、畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村の座を通る時も源頼家の前でも臆さなかった。翌日、浅利義遠が妻に迎えたいと願い出て許され、甲斐国八代郡浅利郷へ下向した。
- 微妙 白拍子。西暦1,202年4月2日、比企能員の館で源頼家と引き合わされた。讒言により投獄され奥州へ追放された父を捜す途上であると語り、周囲の者は皆涙した。北条政子は使者を奥州へ遣わせ、同年9月2日、微妙は父の後世を弔う為に明菴栄西の禅房で出家した。
- 仁田忠常 御家人。西暦1,203年7月、駿河国富士の人穴に入り、蝙蝠と蛇と鬨の声の中を潜って生還した。同年10月8日には天野遠景と共に比企能員を討ち、11日には源頼家から北条時政討伐を命じられている。
- 朝比奈義秀 泳ぎの名人との評判が高かった御家人。西暦1,200年10月11日、小壺(現在の神奈川県逗子市小坪)の海に飛び込んで10往復し、潜って生きた獲物を3匹抱えて戻り、周囲を驚嘆させた。褒美の名馬を巡って和田常盛と相撲を取ったが、決着の前に常盛が馬に飛び乗って去り、大いに悔しがった。
- 阿野全成 源頼家の叔父。妻は北条政子の妹阿波局。西暦1,203年6月29日、北条時政と結託して頼家を追放しようとしているとして武田信光に捕縛され、大倉御所に幽閉された。同年8月1日、頼家の命を受けた八田知家により下野国で殺害され、京都に居た参男の阿野頼全にも殺害の命が下された。
- 源実朝 源頼朝の弐男で、源頼家の弟。西暦1,203年3月18日、北条義時の助けを得て鶴岡八幡宮寺に参詣した。同年10月3日には関西38ヶ国の地頭職を譲られる事が決まり、此の決定が比企能員の憤激を招いた。13日、鎌倉幕府は朝廷に対し、実朝を征夷大将軍に任じる様求めている。
本書が記録する出来事
- 比企氏の屋敷での誕生 西暦1,182年9月11日、北条政子が比企能員の屋敷で源頼家を出産する。11月14日、母子が大倉御所へ入る際、御輿を佐々木定綱・経高・盛綱・高綱が担ぎ、乳母夫となった比企能員は贈物をした。比企尼の恩に報いる為の人選であった。
- 富士野の巻狩と矢開き 西暦1,193年6月16日、源頼家が富士野の巻狩で初めて鹿を射止める。其の夜の矢開きでは北条義時が三色の餅を献上し、工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信が之を食した。源頼朝は梶原景高を鎌倉へ遣わし、北条政子に報せている。
- 上洛と後鳥羽天皇への謁見 西暦1,195年、源頼朝が東大寺大仏殿の落慶供養参列と大姫入内の工作の為に上洛し、源頼家も同行する。5月26日には石清水八幡宮へ牛車に同乗して参詣し、7月11日、父と共に参内して後鳥羽天皇に謁見した。後継者の披露目であった。
- 第2代鎌倉殿の継承 西暦1,199年2月22日、朝廷が源頼家に家督を相続させて第2代鎌倉殿とする宣旨を下す。3月4日、宣旨を伝える使者が鎌倉へ到着し、同日、政所に13名が参列して吉書始が執り行われた。
- 訴訟の親裁停止と13名の合議 西暦1,199年5月8日、源頼家が自ら直に訴訟を裁く事が停止される。北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政の13名以外は、源に訴訟を持ち込む事が不可となった。
- 政所の張り紙と側近5名 西暦1,199年5月16日、梶原景時と中原仲業が政所に張り紙を出す。小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成・北条時房の狼藉に民衆は刃向かってはならず、此の5名以外は特別な仰せが無ければ源頼家と対面させない、という主旨であった。
- 安達景盛の側室略奪と征伐未遂 西暦1,199年8月、源頼家が安達景盛の側室を北向御所に住まわせる。9月11日、讒言を受けて景盛征伐を命じたが、北条政子が安達盛長の屋敷へ入り、二階堂行光を通じて「私が先ず其の矢に当たりましょう」と伝えさせ、征伐は撤回された。
- 梶原景時糾弾の連判状 西暦1,199年11月18日、鶴岡八幡宮寺の回廊に集まった66名が、中原仲業の起草した連判状に署名・血判する。大江広元は暫く之を提出せず、和田義盛の詰問を受けて12月1日に源頼家へ渡した。西暦1,200年2月には梶原一族の滅亡が六波羅へ伝えられた。
- 念仏禁止令 西暦1,200年6月24日、源頼家が僧侶の袈裟を問題視して念仏禁止令を発する。比企時員が念仏僧14名を捕らえて袈裟を焼いたが、筋替橋には見物人が集まって施政を批判し、伊勢称念のみは理を説いて袈裟を守った。令は直ぐに廃され、世間の笑い種となった。
- 境相論の線引き裁定 西暦1,200年7月10日、陸奥国葛岡の新熊野神社の坊領を巡る境相論に対し、源頼家が絵図の中央へ一本の線を引く。「土地が広いか狭いかは運次第だ」「以後の境界争いは全てこの様に結審する」と言い放った裁定であった。
- 城長茂の乱 西暦1,201年2月27日、城長茂率いる軍が京都の小山朝政の宿所を包囲し、仙洞御所へ参上して源頼家追討の宣旨を要求する。後鳥羽上皇が拒否した為に軍は清水坂へ潜伏し、小山の追撃は空振りに終わった。此の乱に連なる板額御前は鎌倉へ護送された。
- 所領再分配の試みと中止 西暦1,201年2月2日、源頼家が諸国の大田文を提出させ、約4,958,680㎡を超える恩地の超過分を没収して無足の御家人へ分配する様、大江広元に命じる。大江は反対し、翌日には三善康信が遠回しに諫めた為、源は渋々決定を延期した。
- 紀行景の招聘と蹴鞠 西暦1,201年10月5日、後鳥羽上皇の許可を得て招かれた蹴鞠の名手・紀行景が鎌倉へ到着する。以後、大倉御所や三善康清・中原親能の屋敷で鞠会が重ねられ、回数は120回・310回・500回と数えられた。飢饉の折の興遊は北条泰時に諫められている。
- 征夷大将軍就任 西暦1,202年8月11日、源頼家が従二位に叙され征夷大将軍を宣下される。翌12日、伊豆国での狩猟から鎌倉へ帰還し、第2代鎌倉幕府征夷大将軍に就任した。20日に京都からの使者が到着し、源は「私は其の職を引き継いだだけ」と考えたという。
- 八幡神の御託宣 西暦1,203年2月15日、一幡の奉幣に際して鶴岡八幡宮寺の巫女が御託宣を述べる。「今年中に関東で事が起きるだろう」「若君は家督を継ぐべきでは無い」「岸の上の木は、其の根が既に枯れている」。源頼家は之を比企家への警告と受け取った。
- 阿野全成の粛清 西暦1,203年6月29日、北条時政と結託して自身を追放しようとしているとして、源頼家が武田信光に阿野全成を捕縛させる。8月1日、八田知家が下野国で全成を殺害し、恩賞として筑後守を与えられた。京都の阿野頼全にも殺害の命が下された。
- 富士の人穴 西暦1,203年7月12日、源頼家が駿河国富士の狩倉で仁田忠常ら6名を人穴へ入らせる。蝙蝠と蛇と千人の鬨の様な声の中、川の向こうに不思議な姿の人が現れ、4名が霊気により死亡した。源は、面白がって行かせるのではなかったと後悔している。
- 比企能員の変 西暦1,203年10月8日、若狭局を介して北条時政征伐の許可を得た比企能員が、薬師如来の開眼供養に招かれて平服で名越殿へ赴き、天野遠景と仁田忠常に竹藪へ引き倒されて殺害される。比企一族は小御所へ立て籠もった。11日、源頼家の使者堀親家は工藤行光に殺された。
- 修禅寺への軟禁 西暦1,203年10月13日、源頼家が北条政子により出家させられ、鎌倉を追放されて修禅寺に軟禁される。同じ日、鎌倉幕府の使者は京都に「10月7日に頼家が亡くなった」と伝えていた。11月4日、頼家は随兵300騎余りを伴って修禅寺へ発った。
- 修禅寺での暗殺 西暦1,203年12月10日、源頼家は中野能成の派遣と安達景盛の身柄引き渡しを訴える書簡を送るが容れられず、以後の書簡を禁じられる。西暦1,204年8月14日、頼家は入浴中に北条氏の刺客に首へ縄を掛けられ、睾丸を切断された上で刺殺された。
比企氏の屋敷から修禅寺の湯屋へ──
源頼家の生涯と、其れを取り巻いた御家人達の記録を一元化。
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