和田合戦一元化
建穂神社のお告げ・泉親衡の陰謀・和田胤長配流・和田胤長屋敷の奪取・和田朝盛の出家・大倉御所襲撃・朝比奈義秀の奮戦・和田一族の滅亡──
和田合戦の2年5箇月を一本の時系列に貫く。
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西暦1210年12月、建穂神社から「西暦1213年に戦が起きる」とのお告げが出て源実朝も同じ夢を見た日から、西暦1213年5月、和田合戦の勝者として勲功を辞退した北条泰時を源実朝が再度受け取る様指示し、弁覚が中山行重を退けた褒賞として豊前国黒土荘を与えられた日まで。本書は、鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝の治世下における、侍所別当和田義盛率いる和田一族と執権北条義時率いる鎌倉幕府本流との武力衝突——和田合戦を、其の2年余前の予兆から、泉親衡の栄実擁立計画、和田胤長屋敷を巡る北条義時の挑発、和田義盛の挙兵決断、5月23日16時の大倉御所襲撃、5月24日の激戦と和田一族の滅亡、5月25日の横山時兼・和田常盛等の自害、勲功審議迄の約2年5箇月間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1210年12月8日6時、建穂神社から「西暦1213年に戦が起きる」とのお告げが出て、同日源実朝も夢で同じお告げを聞いた。大江広元が占いを提案したが、源は「私の夢は神仏のお告げであり、占いを行う必要は無い」と断じた。西暦1211年、泉親衡が源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し北条義時を討つ計画を立て、水面下で各地の武士に協力を呼び掛けて行った。西暦1212年6月7日、北条朝時が西八条禅尼に仕える官女佐渡守藤原親康の娘を深夜に連れ出し、源実朝の怒りを買い義時から義絶されて駿河国富士郡に蟄居となった。西暦1213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤に栄実を擁しての挙兵を持ち掛けた所、千葉はその場で安念を捕縛し北条義時に連行、3月9日の自白により130名余の武士と200名の仲間が加担していた事が発覚、上総国に行っていた為捕縛を免れた和田義盛を除き、一村近村・籠山次郎・上田原平三父子・薗田成朝・狩野小太郎・和田義直・和田義重・渋河兼守・和田胤長・磯野小三郎等が捕縛された。3月11日、薗田成朝が宇都宮時綱の下から逃亡。3月18日、処刑を言い渡された渋河兼守が10首の和歌を荏柄天神社に奉納、3月19日、工藤祐隆が此れを源実朝に持参し源は渋河を赦免した。3月25日、筋替橋付近に潜伏する泉親衡を工藤十郎が捕えに行くも逆に殺害され泉は行方知れず。3月31日、鎌倉に帰還した和田義盛の嘆願で和田義直・和田義重は赦免されたが、首謀者と判断された和田胤長は赦免されなかった。
西暦1213年4月1日、和田義盛が一族98名を引き連れ大倉御所を訪問して胤長の赦免を訴えたが、大江広元が取り次ぐも源実朝との面会は叶わず、後ろ手に縛られた胤長が一族の前に引き立てられ二階堂行村に引き渡された。其の際北条義時は「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言った。4月9日、胤長は陸奥国岩瀬郡鏡沼に配流、4月13日、胤長の娘荒鵑が胤長と顔が似ていた和田朝盛が父と偽って帰って来た事に目を微かに開けた後死去、胤長の妻は同日出家した。4月17日、荏柄天神社の前の胤長の屋敷が一族に引き渡され和田義盛は久野谷弥次郎を住まわせたが、4月24日、北条義時が慣習を破って久野谷を追い出し金窪行親・安東忠家に屋敷を与えた、和田義盛の最大の挑発となった事件。5月7日、出家を決意した和田朝盛が源実朝と面会し和歌を献上して蟠りを解き、源から地頭職の下文を授かったが、月が中天に及んだ頃に源延の草庵で剃髪して京都へ向かい、下文の地頭職に就く事は無かった。5月8日、激怒した和田義盛が和田義直に朝盛を連れ戻す様命じ、5月10日、駿河国手越にて連れ戻された朝盛は黒衣の儘義盛の旗下として先陣に立つ事となった。5月19日、挙兵噂を受けた源実朝の使者宮内公氏に対面した義盛は烏帽子を落とし、宮内は「首が落ちた様だ、挙兵しても打たれてしまう」と感じた。同日夜、源の使者宮内忠季に対し義盛は「北条義時の所為は我慢ならず、其れを問い糺す為に出向こうとしている」と挙兵を表明した。
西暦1213年5月23日、小田知重が和田義盛の屋敷に軍勢集結を大江広元に報告、大江は客を捨てて大倉御所に走り、三浦義村は義盛に味方する起請文を書いていたにも拘らず「先祖の三浦為継は源義家に従い恩禄を賜ってきた、義盛に味方して先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れる事は出来ない」として弟三浦胤義と共に義盛を裏切り、義時に挙兵を告げた。囲碁中の義時は驚かず冷静に大倉御所へ向かい、源実朝・北条政子・西八条禅尼は御谷に避難した。16時、義盛は予定を1日繰り上げ横山党の到着を待たずに挙兵、150騎を三手に分けて大倉御所南門・義時屋敷・大江広元屋敷を襲撃、朝比奈義秀が大倉御所南門を打ち破り南庭に侵入し高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放ち、義時・大江等に付き添われた実朝は法華堂に逃げ込んだ。朝比奈は北条朝時を斬り、政所前の橋で足利義氏の鎧の袖を掴んだ所に野田朝季が割って入り朝比奈は野田を殺害、足利は鎧の袖を引きちぎって逃亡した。日が暮れると義盛は由比ヶ浜に兵を引いた。5月24日4時、横山時兼が数十名の親族や横山党を率い腰越浦に到着して義盛軍に加勢、義盛は3,000騎で若宮大路を北上し大倉御所へ進軍、朝比奈は土屋義清・古郡保忠と共に3騎轡を並べて敵陣に突入した。8時、相模国・伊豆国の曾我氏・中村氏・二宮氏・河村氏等が稲村ヶ崎に到着するも何方に加勢すべきか迷い、大江広元が源実朝名義の御教書を作成して使者を遣わせた事で鎌倉幕府軍に付いた。武田信光は米町口で朝比奈と遭遇したが息子武田信忠が割って入った事で交戦せず、朝比奈は琵琶橋で宍戸家政を討った。大江が源の願書と自筆の和歌2首を鶴岡八幡宮寺に奉じ戦勝祈願をする中、土屋義清が鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で北からの矢を受けて死亡、大町大路では弁覚が中山行重を退けた。18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られ、愛息を失った義盛は「今は戦う甲斐も無し」と号泣、江戸能範の郎党に討ち取られた。和田義重・和田義信・和田秀盛は自刃、朝比奈は和田朝盛の長男佐久間家盛と共に船6隻に500騎を乗せて安房国へ逃れた。古郡経忠・古郡保忠・和田常盛・横山時兼は波加利荘へ敗走し、5月25日、古郡兄弟は甲斐国板東山波加利之東競石郷二木で、和田常盛・横山時兼は甲斐国板東山償原別所で自害、首級234名が固瀬川の川辺に梟首された。5月25日の勲功審議で波多野忠綱は米町と政所前の先陣を主張、北条義時は三浦義村に譲歩を勧めたが忠綱は拒絶、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎が「赤皮威の鎧を着用し葦毛馬片淵に乗った者が先陣」と証言し忠綱の主張が確認された。三浦は後に千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と返された。5月26日、和田義盛・横山時兼等の謀反人の所領・所職が没収され、北条義時が侍所別当に就任して政所別当と兼任、5月28日、和田胤長が陸奥国で処刑、甲斐国・相模国・武蔵国・上総国・常陸国・上野国・陸奥国・出羽国の所領が武田信光・島津忠久・二階堂行村・大江広元・北条時房・三浦胤義・伊賀朝光・北条泰時・三浦義村・大弐局等に配分された。波多野忠綱は三浦を盲目扱いした事で褒賞無しとなった。5月29日、大江親広が鎌倉に到着、同日夜、北条泰時が勲功を辞退するも源実朝は再度受け取る様指示した。5月31日、弁覚が中山行重を退けた褒賞として豊前国黒土荘を与えられた、本書の終結点。
登場人物
- 和田義盛 本書の主人公。鎌倉幕府侍所別当。西暦1213年3月8日の泉親衡謀反発覚時には上総国伊隅荘に居た為捕縛を免れ、3月31日に鎌倉に帰還し和田義直・和田義重の赦免に成功したが、和田胤長は赦免されなかった。4月1日、一族98名を連れて大倉御所を訪問し胤長の赦免を訴えるも叶わず、4月24日の胤長屋敷の北条義時による奪取を最大の挑発とし、5月19日に挙兵を決意、5月23日16時、150騎を三手に分けて大倉御所南門・北条義時屋敷・大江広元屋敷を襲撃した。5月24日18時、愛息義直の戦死に「今は戦う甲斐も無し」と号泣し、江戸能範の郎党に討ち取られた、本書の題名を成す敗者。
- 和田胤長 和田義盛の甥。西暦1213年3月9日、泉親衡謀反の首謀者の1人として金窪行親・安東忠家の預かりで捕縛、3月31日の赦免審議でも「謀反に積極的に加担した」として赦免されなかった。4月1日に二階堂行村に引き渡され、4月9日に陸奥国岩瀬郡鏡沼に配流、5月28日に陸奥国で処刑された、和田合戦の直接の火種となった人物。
- 和田義直 和田義盛の四男。西暦1213年3月9日、泉親衡謀反の関与者として伊東祐長の預かりで捕縛されたが、3月31日に父の嘆願で赦免された。5月8日に父の命で駿河国手越まで和田朝盛を連れ戻した。5月24日18時、伊具盛重に討ち取られ、所持していた名刀石動丸が行方不明となった、父義盛の戦意を喪失させた愛息の死。
- 和田義重 和田義盛の五男。西暦1213年3月9日、泉親衡謀反の関与者として伊東祐廣の預かりで捕縛されたが、3月31日に父の嘆願で赦免された。5月24日、父義盛の戦死を受け自刃した。
- 和田朝盛 和田義盛の一族。和田胤長と顔が似ていた事から、西暦1213年4月13日、危篤の胤長の娘荒鵑に父と偽って会い、荒鵑が目を微かに開けた後に死去する最期を看取った。5月7日、出家を決意し源実朝と和歌を介して蟠りを解いて地頭職の下文を授かったが、月が中天に及んだ頃に源延の草庵で剃髪して京都へ向かった。5月10日、駿河国手越で和田義直に連れ戻されて黒衣の儘父義盛の旗下として先陣に立つ事となった、和田一族の悲劇的な葛藤を体現する人物。
- 和田常盛 和田義盛の長男。西暦1213年5月24日の合戦敗戦後、古郡経忠・古郡保忠・横山時兼と共に波加利荘へ敗走、5月25日、横山時兼と共に甲斐国板東山償原別所(笹子峠付近)で自害した。
- 朝比奈義秀 和田義盛の参男。西暦1213年5月23日の大倉御所襲撃で南門を打ち破り南庭に侵入、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放ち、北条朝時を斬り政所前の橋で足利義氏の鎧の袖を引きちぎり、野田朝季を殺害した。5月24日も土屋義清・古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣に突入、琵琶橋で宍戸家政を討ち、武田信光とは息子武田信忠の仲介で交戦せず、最終的に佐久間家盛と共に船6隻に500騎を乗せて安房国へ逃れた、本書最大の武勇を発揮した人物。
- 横山時兼 武蔵国の豪族。横山党の棟梁。和田義盛の義従兄弟(側室の甥、妹は和田常盛の妻)。西暦1213年4月11日、甲冑を身に纏った兵五十数名と共に和田義盛の屋敷を訪れ、源実朝が伊賀朝光に止めさせた。5月24日4時、波多野盛通・横山五郎等の数十名の親族や横山党を率い腰越浦に到着して義盛軍に加勢したが、5月25日、甲斐国板東山償原別所で和田常盛と共に自害、首級は固瀬川川辺に梟首された、本書の和田氏と連動する最大の武士団の棟梁。
- 古郡保忠 和田義盛方の武将。西暦1213年5月19日、朝比奈義秀と共に武器を揃えていた。5月23日の大倉御所襲撃に参加、5月24日は朝比奈・土屋義清と共に3騎轡を並べて敵陣に突入した。敗戦後、兄古郡経忠と共に波加利荘へ敗走、5月25日、甲斐国板東山波加利之東競石郷二木で兄と共に自害した。
- 土屋義清 和田義盛方の武将。寿福寺の本願主。西暦1213年5月24日、朝比奈義秀・古郡保忠と共に3騎轡を並べて敵陣に突入した。甘縄から寿福寺・岩窟不動尊を経由して大倉御所へ向かっていた所、鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で北から矢を受けて死亡、寿福寺に葬られた。
- 泉親衡 信濃国の御家人。西暦1211年、源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し北条義時を討つ計画を立て、水面下で各地の武士に協力を呼び掛けた。西暦1213年3月8日、郎党青栗七郎の弟阿静坊安念の言動から計画が発覚、3月25日、筋替橋付近に潜伏中に工藤十郎が捕えに来たが逆に殺害して行方を晦ませた、和田合戦の間接的発端を作った人物。
- 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1210年12月8日、建穂神社と同じ合戦夢を見て、大江広元の占い提案を「占いを行う必要は無い」と断じた。西暦1213年3月19日、渋河兼守の10首の和歌に感じて赦免し、3月31日には和田義盛の嘆願で義直・義重を赦免した。5月7日、出家しようとする和田朝盛に地頭職の下文を授けた。5月19日、挙兵噂を受けて宮内公氏を和田に差し向けて調査、5月23日の挙兵で御谷に避難した後法華堂に逃げ込んだ。5月24日には大江広元に源名義の御教書と戦勝祈願の願書を書かせ、自筆の和歌2首を添えて鶴岡八幡宮寺に奉じた、本書の守られる将軍。
- 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。本書の和田義盛の最大の標的。西暦1213年4月1日、捕縛された和田胤長を二階堂行村に引き渡す際「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言った。4月24日、慣習を破って和田胤長の屋敷を金窪行親・安東忠家に与えた、和田義盛を挙兵に追い込んだ挑発の張本人。5月23日の挙兵時は囲碁中に三浦義村の密告を受けて冷静に大倉御所へ向かい、5月26日には和田に代わり侍所別当に就任して政所別当と兼任した、本書最大の勝者。
- 北条泰時 北条義時の長男。西暦1213年5月23日の和田合戦で若宮大路の防戦に参加。5月29日夜、大倉御所で源実朝に勲功を辞退する旨を伝え「和田義盛は源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで。ただ和田の攻撃を防ぐ為に多くの御家人が戦いました。褒賞は其れ等の者に与えるべきであって、私が受けるのは筋が通りません」と語り、周囲の者を感嘆させた、武士の誉れの体現者。
- 北条時房 北条義時の弟。西暦1213年5月23日の和田合戦で若宮大路の防戦に参加、5月28日には上総国飯富荘を与えられた。
- 北条朝時 北条義時の弐男。西暦1212年6月7日、西八条禅尼に仕える官女佐渡守藤原親康の娘を深夜に居室から連れ出した事で源実朝の怒りを買い、義時から義絶されて駿河国富士郡に蟄居となった。西暦1213年5月21日、北条義時から呼び戻されて義時の下に到着、5月23日の大倉御所防戦時に朝比奈義秀に斬られて負傷し撤退した、本書の因縁の人物。
- 三浦義村 鎌倉幕府御家人。和田義盛の従兄弟。西暦1213年5月23日、和田義盛に味方する起請文を書いていたにも拘らず、弟三浦胤義と相談し「先祖の三浦為継は源義家に従い恩禄を賜ってきた、義盛に味方して先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れる事は出来ない」として義盛を裏切って北条義時に挙兵を告げた。5月25日の勲功審議では波多野忠綱と政所前の先陣を争い、後に大倉御所で千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と返された、本書最大の裏切り者。
- 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1213年4月1日、和田義盛の胤長赦免嘆願を取り次いだ。5月20日、北条義時から寺社への読経と祈願の依頼の名目で招かれた。5月23日、小田知重からの和田屋敷軍勢集結報告を受けて来客中であった客を捨てて大倉御所に走った。5月24日には源実朝名義の御教書を作成して稲村ヶ崎の諸武将に示し、源の願書に自筆和歌2首を添えて鶴岡八幡宮寺に奉じた、本書の政治的軸。
- 波多野忠綱 鎌倉幕府御家人。西暦1213年5月23日の防戦で三浦義村・北条朝時等と共に政所付近で応戦、5月24日の合戦にも参加した。5月25日の勲功審議では米町と政所前の先陣を主張、北条義時の譲歩勧告に「武士が戦場に向かう際、先陣を目指すのが本意である。弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と拒絶、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎の「赤皮威の鎧を着用し葦毛馬片淵に乗った者が先陣」との証言で主張が確認された。三浦義村を「盲目なのではないか」と辱めた事で5月28日の恩賞は無しとなった、武士の誉れを貫いた人物。
- 武田信光 甲斐源氏。西暦1213年5月24日、若宮大路の米町口で朝比奈義秀と遭遇し睨み合った所、息子武田信忠が割って入った事で交戦せず朝比奈は走り去った。5月28日、甲斐国波加利本荘を与えられた。
- 足利義氏 鎌倉幕府御家人。西暦1213年5月23日の大倉御所防戦で朝比奈義秀と政所前の橋で遭遇、鎧の袖を掴まれた所に野田朝季が割って入って身代わりに殺害された事で、鎧の袖を引きちぎりながら逃亡した、本書屈指の命拾いの人物。
- 弁覚 第24世日光山別当。僧。西暦1213年5月24日、大町大路にて中山行重を退けた。5月31日、此の功績により豊前国黒土荘を与えられた。「源殿の長寿の為の祈祷をしておりますので、呪いや祟り等も其の力で防いでおります。姿形の在る敵等には罰を与えるのみ」と答えた、戦場に赴いた僧侶。
- 渋河兼守 泉親衡謀反の関与者。西暦1213年3月18日、処刑を言い渡された際、思いの丈を10首の和歌に込めて荏柄天神社に奉納した。3月19日、工藤祐隆が源実朝に献上した事で源が感じ入って赦免された、和歌の力で命を救われた人物。
- 伊具盛重 鎌倉幕府御家人。西暦1213年5月24日18時、和田義盛の四男和田義直を討ち取った、和田義盛の戦意喪失を招いた実行者。
- 江戸能範 鎌倉幕府御家人。西暦1213年5月24日、愛息義直を失って戦意を失った和田義盛を郎党に討ち取らせた、和田義盛終焉の実行者。
- 荒鵑 和田胤長の娘。西暦1213年4月9日の父の配流により悲しみで病を患い、4月13日、胤長と顔が似ていた和田朝盛が父と偽って帰って来た事を告げられ、目を微かに開けて其の姿を見た後に目を閉じて死去した。本書で最も哀切な場面を作った少女。
主要な地名・拠点
- 建穂神社 現在の静岡県静岡市葵区建穂。西暦1210年12月8日6時、「西暦1213年に戦が起きる」とのお告げが出た地、本書の冒頭の予兆。
- 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目。鎌倉幕府の本拠。西暦1213年4月1日の和田義盛一族98名の胤長赦免嘆願、5月23日16時の和田義盛による南門襲撃と朝比奈義秀の南庭侵入・放火、5月24日の若宮大路北上と朝比奈の猛攻の舞台、本書最大の戦場。
- 和田胤長の屋敷 荏柄天神社の前に所在した和田胤長の屋敷。西暦1213年4月17日、和田義盛に引き渡され久野谷弥次郎が住んだが、4月24日、北条義時が慣習を破り久野谷を追い出し金窪行親・安東忠家に与えた、和田義盛の挙兵を決意させた決定的挑発の舞台。
- 北条義時の屋敷 鎌倉の北条義時の居所。西暦1213年5月23日16時、和田義盛の150騎の三手攻撃の一つの標的となり手薄だった為直ぐに陥落した、本書の本来の標的。
- 大江広元の屋敷 大倉御所南門の向かいに所在。西暦1213年5月23日16時、和田義盛の150騎の三手攻撃の一つの標的となり手薄だった為直ぐに陥落した。
- 法華堂 大倉御所の北側の丘の上に所在する堂。西暦1213年5月23日、南側から大倉御所が燃えていくのを見た源実朝が、義時・大江等に付き添われて三浦義村の守備する北門から脱出し逃げ込んだ地、本書の実朝の避難所。
- 御谷 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1213年5月23日、源実朝・北条政子・西八条禅尼が大倉御所北門を出て避難した地。
- 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1213年5月23日、日が暮れて和田義盛が兵を引いた地、合戦の1日目の終着点。
- 腰越浦 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1213年5月24日4時、横山時兼が娘婿の波多野盛通・甥の横山五郎等の数十名の親族や横山党を率いて到着し和田義盛軍に加勢した地。
- 稲村ヶ崎 鎌倉の海岸。西暦1213年5月24日8時、相模国・伊豆国の曾我氏・中村氏・二宮氏・河村氏等が到着し、大江広元の源名義の御教書を示された事で鎌倉幕府軍に付くことを決意した地。
- 若宮大路 鎌倉の幹線。西暦1213年5月24日、和田義盛が3,000騎を率いて北上して大倉御所へ進軍した。米町口(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)で武田信光と朝比奈義秀が遭遇し、琵琶橋(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)で朝比奈が宍戸家政を討った。北条泰時・北条時房が防戦に立った、本書の激戦地。
- 大町大路 鎌倉の街路。西暦1213年5月24日、足利義氏が防戦に立ち、第24世日光山別当弁覚が中山行重を退けた地。
- 鶴岡八幡宮寺 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1213年5月24日、大江広元が源実朝の願書と自筆和歌2首を奉じて戦勝祈願した地。同日、土屋義清が赤橋の周辺で北から矢を受けて死亡した、本書の宗教的軸と武将終焉の地。
- 甘縄・寿福寺・岩窟不動尊 寿福寺(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)・岩窟不動尊(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)。西暦1213年5月24日、土屋義清が大倉御所へ向かう経由地、最終的に寿福寺は自身の本願主として葬られた地となった。
- 安房国 現在の千葉県南部。和田義盛の所領。西暦1213年5月24日、朝比奈義秀が和田朝盛の長男佐久間家盛と共に船6隻に500騎を乗せて海路で逃れた地、和田一族の最後の逃亡地。
- 波加利荘 現在の山梨県北都留郡・大月市・上野原市・都留市・富士吉田市・南都留郡富士河口湖町。西暦1213年5月24日、古郡経忠・古郡保忠・和田常盛・横山時兼が敗走した地、和田の敗走の終着点。
- 甲斐国板東山波加利之東競石郷二木 現在の山梨県大月市初狩町中初狩・下初狩付近。西暦1213年5月25日、古郡経忠・古郡保忠兄弟が自害した地。
- 甲斐国板東山償原別所 笹子峠(現在の山梨県大月市・甲州市)付近。西暦1213年5月25日、和田常盛と横山時兼が自害した地。
- 固瀬川 現在の境川(城山湖(現在の神奈川県相模原市緑区川尻)~江ノ島(現在の神奈川県藤沢市))。西暦1213年5月25日以降、横山時兼を始めとする234名の首級が川辺に梟首された地、本書の敗者の終着点。
- 陸奥国岩瀬郡鏡沼 現在の福島県岩瀬郡鏡石町。西暦1213年4月9日、和田胤長が配流された地、5月28日に処刑された地。
- 荏柄天神社 鎌倉の天満宮。西暦1213年3月18日、渋河兼守が思いの丈を込めた10首の和歌を奉納した地。翌19日、工藤祐隆が此れを源実朝に持参し渋河が赦免された、本書の和歌の力の象徴。
主要な事件・出来事
- 建穂神社のお告げと実朝の合戦夢 西暦1210年12月8日6時、建穂神社から「西暦1213年に戦が起きる」とのお告げが出た。同日、源実朝も夢の中で同じお告げを聞いた。大江広元が占いを提案したが、源は「私の夢は神仏のお告げであり、占いを行う必要は無い。西暦1213年に合戦が起きるのは明らか」と断じた、本書の最初の予兆。
- 泉親衡の栄実擁立計画 西暦1211年、泉親衡が源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し北条義時を討つ計画を立て、水面下で各地の武士に協力を呼び掛けて行った、和田合戦の間接的発端。
- 北条朝時の義絶 西暦1212年6月7日、北条朝時が西八条禅尼に仕える官女佐渡守藤原親康の娘に艶文を送っても靡かなかった為深夜に居室に忍び込み連れ出した。源実朝の怒りを買い義時から義絶され、駿河国富士郡に蟄居となった、本書の伏線。
- 阿静坊安念の捕縛と自白 西暦1213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤を訪ねて栄実を擁しての挙兵を持ち掛けた所、千葉はその場で安念を捕縛し北条義時に連行、二階堂行村・金窪行親が尋問した。3月9日の自白により130名余の武士と200名の仲間の関与が発覚し、一村近村・上田原平三父子・薗田成朝・和田義直・和田義重・渋河兼守・和田胤長等が捕縛された。和田義盛は上総国伊隅荘に居た為捕縛を免れた、和田合戦の直接の起点。
- 薗田成朝の逃亡 西暦1213年3月11日、薗田成朝が宇都宮時綱の下から逃亡し、祈祷師僧敬音の屋敷へ入った。敬音の出家勧めを「国司に着任するという願望が叶えられるまでは出家しない」と断り行方知れずとなった。3月13日、逃亡が明るみに出、源実朝は「早く此れを尋ね出し、恩赦有るべき」と発言した。
- 渋河兼守の10首の和歌と赦免 西暦1213年3月18日、処刑を言い渡された渋河兼守が思いの丈を10首の和歌に込めて荏柄天神社に奉納した。3月19日、前夜から荏柄天神社に籠っていた工藤祐隆が此れを源実朝に持参し、源は和歌に感じて渋河を赦免した、和歌の力で命を救われた逸話。
- 泉親衡の潜伏と工藤十郎殺害 西暦1213年3月25日、泉親衡が筋替橋付近に潜伏しているとの噂を聞き付けた鎌倉幕府が工藤十郎を現地に派遣したが、工藤は泉によって殺害され、泉は行方を晦ませた、首謀者捕縛の失敗。
- 和田義盛の帰還と嘆願 西暦1213年3月31日、和田義盛が鎌倉に帰還し源実朝と面会、義盛の嘆願により和田義直・和田義重は赦免された。然し謀反に積極的に加担したと判断された和田胤長は赦免されなかった。
- 和田義盛の一族98名による赦免嘆願 西暦1213年4月1日、和田義盛が一族98名を引き連れ大倉御所を訪問して和田胤長の赦免を訴えたが、源実朝との面会は叶わず、胤長は謀反の首謀者として赦免されなかった。後ろ手に縛り上げられた胤長は一族の前に引き立てられ二階堂行村に引き渡された。其の際北条義時は「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言った、義盛の最初の屈辱。
- 和田胤長の配流 西暦1213年4月9日、和田胤長が陸奥国岩瀬郡鏡沼に配流された。
- 荒鵑の死と胤長の妻の出家 西暦1213年4月13日、和田胤長の娘荒鵑が父と会えなくなった悲しみから危篤となった。胤長と顔が似ていた和田朝盛が父と偽って帰って来た事を伝えると、荒鵑は少し目を開けて其の姿を微かに見た後、目を閉じて死去した。其の夜荒鵑は火葬され、胤長の妻は同日中に出家した、本書最も哀切な場面。
- 和田胤長屋敷の北条義時による奪取 西暦1213年4月17日、荏柄天神社の前の和田胤長の屋敷が一族に引き渡され、和田義盛は久野谷弥次郎を住まわせた。然し4月24日、北条義時が屋敷は一族に給付されるという慣習を破り、久野谷弥次郎を追い出して金窪行親・安東忠家に与えた、和田義盛を挙兵に追い込んだ決定的挑発。
- 源実朝の予言 西暦1213年4月29日、酒宴を行っていた源実朝が、通り掛かった山内政宣・宍戸家政に酒を振る舞い「2人とも近いうちに命を失う事になろう。1人は私の敵として、もう1人は私の味方として」と予言した、本書の神秘的な予兆。
- 和田朝盛の出家と連れ戻し 西暦1213年5月7日、出家を決意した和田朝盛が源実朝と面会し和歌を献上して蟠りを解き、源から地頭職の下文を授かったが、月が中天に及んだ頃、源延の草庵で剃髪して京都へ向かった。5月8日、激怒した和田義盛が和田義直に朝盛を連れ戻す様命じ、5月10日、駿河国手越で和田義直が朝盛を鎌倉に連れ戻し、朝盛は黒衣の儘義盛の旗下として先陣に立つ事となった。
- 和田義盛の挙兵決意 西暦1213年5月19日、和田義盛が挙兵するとの噂を受けた源実朝が側近宮内公氏を和田の屋敷に差し向けた。和田が烏帽子を落としたのを見た宮内は「首が落ちた様だ、挙兵しても打たれてしまう」と感じた。同日夜、源が差し向けた刑部丞宮内忠季に対し和田は「将軍家に対する反逆の気持ちは無い。唯、北条義時の所為は我慢ならず、其れを問い糺す為に出向こうとしている。決起は止むを得ない」と挙兵を表明した、本書最大の転換点。
- 三浦義村の裏切りと大倉御所襲撃 西暦1213年5月23日、小田知重が和田義盛の屋敷に軍勢が集結している事を大江広元に報告、大江は客を捨てて大倉御所に走った。三浦義村は和田に味方する起請文を書いていたにも拘らず弟三浦胤義と相談し「先祖の三浦為継は源義家に従い恩禄を賜ってきた、義盛に味方して先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れる事は出来ない」として義盛を裏切って北条義時に告げた。源実朝・北条政子・西八条禅尼が御谷に避難。16時、義盛が予定を1日繰り上げて横山党の到着を待たずに挙兵し、150騎を三手に分けて大倉御所南門・義時屋敷・大江広元屋敷を襲撃した、本書の合戦開始。
- 朝比奈義秀の大倉御所南門突破 西暦1213年5月23日18時、朝比奈義秀が大倉御所南門を打ち破り南庭に侵入し、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放った。朝比奈は北条朝時を斬り、政所前の橋で足利義氏の鎧の袖を掴んだが野田朝季が割って入り、朝比奈は野田を殺害した。足利は鎧の袖を引きちぎりながら逃亡、実朝は義村の守備する北門から法華堂に逃げ込んだ、本書最大の武勇の場面。
- 横山党の加勢と幕府軍の動員 西暦1213年5月24日4時、横山時兼が娘婿の波多野盛通・甥の横山五郎等の数十名の親族や横山党を率い腰越浦に到着して義盛軍に加勢した。8時、相模国・伊豆国の曾我氏・中村氏・二宮氏・河村氏等が稲村ヶ崎に到着したが何方に加勢すべきか迷い、大江広元が源実朝名義の御教書を作成して使者を遣わせた事で鎌倉幕府軍に付いた、本書の戦局の転換点。
- 若宮大路の戦いと土屋義清の死 西暦1213年5月24日10時、和田義盛の軍勢が鎌倉に入り朝比奈義秀・土屋義清・古郡保忠が3騎轡を並べて敵陣に突入、幕府軍を攻め立てた。武田信光は米町口で朝比奈と睨み合ったが息子武田信忠が割って入り交戦せず、朝比奈は琵琶橋で宍戸家政を討った。源実朝が大江広元に願書を書かせ自筆の和歌2首を添えて鶴岡八幡宮寺に戦勝祈願を奉じた中、土屋義清が鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で北から矢を受けて死亡した。大町大路では弁覚が中山行重を退けた、本書の激戦の白眉。
- 和田義直・義盛父子の戦死 西暦1213年5月24日18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られ、所持していた名刀石動丸が行方不明となった。愛息を失った和田義盛は「今は戦う甲斐も無し」と号泣し、戦意を失って江戸能範の郎党に襲撃され討ち取られた。和田義重・和田義信・和田秀盛は自刃、和田一族の事実上の滅亡。
- 和田一族の敗走 西暦1213年5月24日、朝比奈義秀は和田朝盛の長男佐久間家盛と共に船6隻に500騎を乗せて海路で所領の安房国へ逃れた。古郡経忠・古郡保忠・和田常盛・横山時兼は波加利荘へ敗走、岡崎実忠も戦場から離脱したが其の後殺害された。愛甲季隆は兄愛甲義久一族と共に討たれ、大庭景兼も討たれて大庭氏一族は没落した、和田方の崩壊。
- 和田常盛・横山時兼等の自害と梟首 西暦1213年5月25日、古郡経忠・古郡保忠が甲斐国板東山波加利之東競石郷二木で自害、和田常盛・横山時兼が甲斐国板東山償原別所で自害した。其の後、横山を始めとする234名の首級は固瀬川の川辺に梟首された、和田合戦の完全終結。
- 波多野忠綱と三浦義村の先陣争い 西暦1213年5月25日8時、源実朝が法華堂から北条政子の居所である東の御所に移り勲功審議を開始した。波多野忠綱と三浦義村が政所前の先陣を争い、北条義時は忠綱に「今回の合戦の勝利は三浦が和田義盛を裏切った事が大きい、政所の件に就いては三浦に譲って穏便に済ませてくれないか」と譲歩を勧めたが、忠綱は「武士が戦場に向かう際、先陣を目指すのが本意である。弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と拒絶、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎の「赤皮威の鎧を着用し葦毛馬片淵に乗った者が先陣」との証言で忠綱の主張が確認された。三浦義村は後に「三浦の犬は友をも食らう」と千葉胤綱から返された、本書の武士道の白眉。
- 謀反人の所領没収と北条義時の侍所別当就任 西暦1213年5月26日、鎌倉幕府が和田義盛・横山時兼を始めとする謀反人の所領・所職を没収した。更に北条義時が和田に代わり侍所別当に就任、此れにより北条は政所別当と侍所別当の兼任となった、本書の政治的帰結。
- 和田胤長の処刑と所領配分 西暦1213年5月28日、和田胤長が陸奥国にて処刑された。同日、鎌倉幕府は勲功として甲斐国・相模国・武蔵国・上総国・常陸国・上野国・陸奥国・出羽国等の所領を武田信光・島津忠久・二階堂行村・大江広元・北条時房・三浦胤義・伊賀朝光・北条泰時・三浦義村・大弐局等に配分した。波多野忠綱は3日前に義村を盲目扱いした事を理由に褒賞は無しとなった、義村を辱めた代償。
- 北条泰時の勲功辞退 西暦1213年5月29日夜、北条泰時が大倉御所に入り源実朝と面会し勲功を辞退する旨を伝えた。再三固辞する泰時は「和田義盛は源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで。ただ、和田の攻撃を防ぐ為に多くの御家人が戦いました。褒賞は其れ等の者に与えるべきであって、私が受けるのは筋が通りません」と述べ、周囲の者は感嘆した。源は重ねて勲功を受け取る様指示した、泰時の高潔を示す場面。
- 弁覚への豊前国黒土荘授与 西暦1213年5月31日、弁覚が中山行重を退けた事による褒賞として豊前国黒土荘を与えられた。北条義時は「僧徒の身でありながら戦場へ赴いたことは、忠節の表れだ」とする源実朝の感謝の言葉を伝え、弁覚は「源殿の長寿の為の祈祷をしておりますので、呪いや祟り等も其の力で防いでおります。姿形の在る敵等には罰を与えるのみ」と答えた、本書の終結点。
建穂神社のお告げ・泉親衡の陰謀・和田胤長配流・和田胤長屋敷の奪取・和田朝盛の出家・大倉御所襲撃・朝比奈義秀の奮戦・和田一族の滅亡──
和田合戦の2年5箇月を一冊に。
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