電子書籍「和田合戦一元化」の表紙

和田合戦一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,210年12月8日〜1,213年5月31日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
12ページ
最新更新日
西暦2,026年8月9日

建穂神社のお告げ・泉親衡の陰謀・和田胤長屋敷の奪取・和田朝盛の出家・大倉御所襲撃・朝比奈義秀の奮戦・和田一族の滅亡──
和田合戦の二年五ヶ月を一本の時系列に貫く。

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,210年12月8日6時、建穂神社(現在の静岡県静岡市葵区建穂)から、西暦1,213年に戦が起きるとのお告げが出た。同じ日、鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝も、夢の中で同じお告げを聞いている。大江広元が占いで確かめてはどうかと勧めると、実朝は「明け方に私も合戦の夢を見た。建穂神社のお告げと符合するので、私の夢は神仏のお告げであり、偽りの夢では無いだろう」と述べ、占いを退けた。本書は、此の予兆を起点として、侍所別当和田義盛の一族と執権北条義時率いる鎌倉幕府本流とが衝突した和田合戦を、其の二年余前から西暦1,213年5月31日の恩賞授与まで、年月日単位で一元化した記録である。

戦の火種は、二つの方向から燻っていた。西暦1,211年、泉親衡が源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し、北条義時を討つ計画を立て、以降水面下で各地の武士に協力を呼び掛けて行った。西暦1,212年6月7日には、北条義時の弐男北条朝時が、西八条禅尼に仕えていた官女——佐渡守藤原親康の娘——の居室に深夜忍び込んで連れ出し、源実朝の怒りを買って義時から義絶され、駿河国富士郡(現在の静岡県富士市・富士宮市)に蟄居となる。

西暦1,213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が、千葉成胤に栄実を擁しての挙兵を持ち掛けた。千葉は其の場で安念を捕縛し、北条義時の下へ連行する。翌9日の自白により、計画に与した武士が130名余、其の仲間が200名に上る事が明らかとなり、和田義盛の四男和田義直・五男和田義重・和田胤長を含む面々が捕縛された。義盛自身は上総国伊隅荘(現在の千葉県夷隅郡)に出向いていた為、捕縛を免れている。3月18日には、処刑を言い渡された渋河兼守が思いの丈を10首の和歌に込めて荏柄天神社に奉納し、翌19日、工藤祐隆が其れを実朝の下へ持参して赦免を得た。3月25日、筋替橋付近に潜伏していた泉親衡は、捕えに来た工藤十郎を返り討ちにして行方を晦ませる。そして3月31日、鎌倉に帰還した義盛の嘆願により義直・義重は赦免されたが、和田胤長だけは謀反の首謀者として赦されなかった。

西暦1,213年4月1日、和田義盛は一族98名を引き連れて大倉御所を訪れ、胤長の赦免を訴える。大江広元が取り次いだものの実朝との面会は叶わず、後ろ手に縛り上げられた胤長は一族の前に引き立てられ、二階堂行村に引き渡された。其の際、北条義時は「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言い添えている。4月9日、胤長は陸奥国岩瀬郡鏡沼(現在の福島県岩瀬郡鏡石町)へ配流された。4月13日には、父と会えなくなった悲しみから危篤となっていた胤長の娘荒鵑が、胤長と顔の似た和田朝盛を父と思って微かに目を開け、其の儘息を引き取る。そして4月24日、義時は屋敷は一族に給付されるという慣習を破り、胤長の屋敷に住まわされていた久野谷弥次郎を追い出して、金窪行親・安東忠家に与えた。義盛にとって最も重い挑発であった。

西暦1,213年5月7日、和田朝盛は出家を決意して実朝に和歌を献上し、蟠りを解いて数ヶ所の地頭職を与える下文を授かるが、月が中天に及んだ頃、源延の草庵で剃髪し、屋敷にも戻らず京都へと発った。怒った義盛は義直に命じて、5月10日、駿河国手越で朝盛を連れ戻す。朝盛は黒衣の儘、義盛の旗下として先陣に立つ事となった。5月16日、義盛が年来の帰依僧である伊勢国の尊道房を追放すると、伊勢神宮に戦勝祈願させたとの噂が飛び交い、人々は戦乱を予感して騒然とする。5月19日、実朝が側近の宮内公氏を差し向けると、寝殿から出て来た義盛は烏帽子を落とした。宮内は其れを首が落ちた様だと感じている。同日夜、義盛は「将軍家に対する反逆の気持ちは無い。唯、北条義時の所為は我慢ならず、決起は止むを得ない」と回答した。

西暦1,213年5月23日、小田知重から和田屋敷への軍勢集結を知らされた大江広元は、宴の席を一人抜けて大倉御所へ走った。三浦義村は、義盛に味方する起請文を書いていたにも拘らず、弟の三浦胤義と相談の末、先祖代々の主君に矢を射る事は出来ないとして義盛を裏切り、北条義時に挙兵を告げる。実朝・北条政子・西八条禅尼が御谷(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)へ避難した16時、義盛は予定を1日繰り上げ、横山党の到着を待たずに150騎を三手に分けて、大倉御所南門・義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃した。参男朝比奈義秀は南門を打ち破って南庭に侵入し、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放つ。実朝は義村の守る北門から脱出し、法華堂へ逃げ込んだ。翌24日4時、横山時兼が腰越浦(現在の神奈川県鎌倉市)に到着して加勢し、義盛は3,000騎を率いて若宮大路を北上する。8時、稲村ヶ崎に到着した相模国・伊豆国の御家人達は、大江が作成した実朝名義の御教書を示され、鎌倉幕府軍に付いた。朝比奈は土屋義清・古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣を破り、琵琶橋で宍戸家政を討つが、土屋は鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で矢を受けて倒れる。18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られると、愛息を失った義盛は「今は戦う甲斐も無し」と号泣し、戦意を失った所を江戸能範の郎党に討ち取られた。和田義重・義信・秀盛は自刃した。

朝比奈義秀は和田朝盛の長男佐久間家盛と共に、船6隻に500騎を乗せて所領の安房国へ逃れ、古郡経忠・古郡保忠・和田常盛・横山時兼は波加利荘へ敗走した。5月25日、古郡兄弟は甲斐国板東山波加利之東競石郷二木で、和田常盛と横山時兼は甲斐国板東山償原別所で自害し、横山を始めとする234名の首級が固瀬川の川辺に梟首される。同じ25日、実朝の下で始まった勲功審議では、波多野忠綱と三浦義村が政所前の先陣を争い、義時の譲歩勧告を退けた忠綱の主張が、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎の証言によって裏付けられた。5月26日、謀反人の所領・所職が没収され、義時は和田に代わって侍所別当に就任し、政所別当との兼任となる。28日には陸奥国で和田胤長が処刑され、同日、勲功として各国の所領が配分された。29日夜には北条泰時が勲功を辞退して周囲を感嘆させ、31日、中山行重を退けた弁覚に豊前国黒土荘が与えられた。本書は、此処までの全過程を一冊に束ねている。


登場人物

  • 和田義盛 本書の中心人物。鎌倉幕府侍所別当。西暦1,213年3月8日の泉親衡謀反発覚時には上総国伊隅荘に居た為、捕縛を免れた。3月31日に鎌倉へ帰還して和田義直・和田義重の赦免を得たが、和田胤長は赦されず、4月1日には一族98名を連れて大倉御所を訪れ嘆願するも叶わなかった。4月24日の胤長屋敷の奪取を最も重い挑発とし、5月23日16時、150騎を三手に分けて大倉御所南門・北条義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃。5月24日18時、愛息義直の戦死に「今は戦う甲斐も無し」と号泣し、江戸能範の郎党に討ち取られた。
  • 和田胤長 和田義盛の甥。西暦1,213年3月9日、泉親衡の謀反に与した者として金窪行親・安東忠家の預かりで捕縛され、3月31日の赦免審議でも謀反に積極的に加担したとして赦されなかった。4月1日に二階堂行村へ引き渡され、4月9日に陸奥国岩瀬郡鏡沼へ配流、5月28日に陸奥国で処刑された。和田合戦の直接の火種となった人物。
  • 和田義直 和田義盛の四男。西暦1,213年3月9日、伊東祐長の預かりで捕縛されたが、3月31日に父の嘆願で赦免された。5月8日に父から和田朝盛を連れ戻す様命じられ、5月10日、駿河国手越で朝盛を鎌倉へ連れ戻した。5月24日18時、伊具盛重に討ち取られ、所持していた名刀石動丸が行方不明となった。父義盛の戦意を失わせた愛息の死。
  • 和田義重 和田義盛の五男。西暦1,213年3月9日、伊東祐廣の預かりで捕縛されたが、3月31日に父の嘆願で赦免された。5月24日、父義盛の戦死を受けて自刃した。
  • 和田朝盛 和田義盛の一族。和田胤長と顔が似ていた事から、西暦1,213年4月13日、危篤の胤長の娘荒鵑に父と偽って会い、其の最期を看取った。5月7日、浄遍僧都から出難生死の道を学んだ後、源実朝に和歌を献上して蟠りを解き地頭職の下文を授かったが、月が中天に及んだ頃、源延の草庵で剃髪して京都へ向かった。5月10日、駿河国手越で和田義直に連れ戻され、黒衣の儘、義盛の旗下として先陣に立つ事となった。
  • 和田常盛 和田義盛の長男。妻は横山時兼の妹。西暦1,213年5月24日の敗戦後、古郡経忠・古郡保忠・横山時兼と共に波加利荘へ敗走し、5月25日、横山時兼と共に甲斐国板東山償原別所(笹子峠付近)で自害した。
  • 朝比奈義秀 和田義盛の参男。西暦1,213年5月19日には古郡保忠と共に武器を揃えていた。5月23日の襲撃で大倉御所南門を打ち破って南庭に侵入し、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放ち、北条朝時を斬り、政所前の橋では足利義氏の鎧の袖を掴んで野田朝季を殺害した。5月24日も土屋義清・古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣に突入し、琵琶橋で宍戸家政を討った。最後は和田朝盛の長男佐久間家盛と共に、船6隻に500騎を乗せて安房国へ逃れた。本書最大の武勇を示す人物。
  • 横山時兼 横山党の棟梁。和田義盛の側室は横山の叔母であり、横山の妹は和田常盛の妻という、和田家と密接な親族関係にあった。西暦1,213年4月11日、甲冑を身に纏った兵五十数名を伴って義盛の屋敷を訪れ、源実朝が伊賀朝光に止めさせた。5月24日4時、娘婿の波多野盛通・甥の横山五郎等の親族と横山党を率いて腰越浦に到着し加勢したが、既に合戦が始まっている事に驚いた。5月25日、甲斐国板東山償原別所で和田常盛と共に自害し、其の首級は固瀬川の川辺に梟首された。
  • 古郡保忠 和田義盛方の武将。西暦1,213年5月19日、朝比奈義秀と共に武器を揃えていた。5月23日の大倉御所襲撃に加わり、5月24日は朝比奈・土屋義清と3騎轡を並べて敵陣に突入した。敗戦後は兄古郡経忠と共に波加利荘へ敗走し、5月25日、甲斐国板東山波加利之東競石郷二木で兄と共に自害した。
  • 土屋義清 和田義盛方の武将。寿福寺の本願主。西暦1,213年5月24日、朝比奈義秀・古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣に突入した。甘縄から寿福寺・岩窟不動尊を経由して大倉御所へ向かう途上、鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で北から矢を受けて死亡し、寿福寺に葬られた。
  • 泉親衡 西暦1,211年、源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し、北条義時を討つ計画を立て、以降水面下で各地の武士に協力を呼び掛けた。西暦1,213年3月8日、郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤に挙兵を持ち掛けた事から計画が露見。3月25日、筋替橋付近に潜伏していた所を捕えに来た工藤十郎を返り討ちにし、行方を晦ませた。和田合戦の間接的な発端を作った人物。
  • 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1,210年12月8日、建穂神社と同じ合戦の夢を見て、大江広元の占いの提案を退けた。西暦1,213年3月19日には渋河兼守の10首の和歌に感じ入って赦免し、3月31日には和田義盛の嘆願で義直・義重を赦免した。4月29日、山内政宣・宍戸家政に「2人とも近いうちに命を失う事になろう」と予言。5月19日には宮内公氏を和田の屋敷に差し向け、5月23日の挙兵では御谷へ避難した後、法華堂に逃げ込んだ。5月24日、大江に願書を書かせ自筆の和歌2首を添えて鶴岡八幡宮寺に戦勝祈願を奉じた。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。和田義盛が矛先を向けた相手。西暦1,213年4月1日、捕縛された和田胤長を二階堂行村へ引き渡す際「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言い添え、4月24日には慣習を破って胤長の屋敷を金窪行親・安東忠家に与えた。5月23日の挙兵時は囲碁の最中に三浦義村の報せを受けたが驚く事無く、冷静な儘大倉御所へ向かった。5月26日、和田に代わって侍所別当に就任し、政所別当との兼任となった、本書最大の勝者。
  • 北条泰時 北条義時の長男。西暦1,213年5月23日・24日の防戦で若宮大路に布陣した。5月29日夜、大倉御所で源実朝に勲功を辞退する旨を伝え、「和田義盛は源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで」「褒賞は其れ等の者に与えるべきであって、私が受けるのは筋が通りません」と述べて周囲を感嘆させた。
  • 北条時房 北条義時の弟。西暦1,213年5月24日の合戦で北条泰時と共に若宮大路に布陣した。5月28日、勲功として上総国飯富荘を与えられた。
  • 北条朝時 北条義時の弐男。西暦1,212年6月7日、西八条禅尼に仕えていた官女佐渡守藤原親康の娘を深夜に居室から連れ出した事で源実朝の怒りを買い、義時から義絶されて駿河国富士郡に蟄居となった。西暦1,213年5月21日に義時から呼び戻されて到着し、5月23日の防戦では朝比奈義秀に斬られて負傷し撤退した。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。和田義盛の従兄弟。西暦1,213年5月23日、義盛に味方する起請文を書いていたにも拘らず、弟の三浦胤義と相談し、先祖の三浦為継以来源氏から恩禄を賜ってきた事を理由に義盛を裏切り、北条義時に挙兵を告げた。大倉御所北門を守り、源実朝の脱出を助けている。5月25日の勲功審議では波多野忠綱と政所前の先陣を争い、後に大倉御所で千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と返された。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1,210年12月8日、源実朝に合戦の夢を占うよう勧めた。西暦1,213年4月1日には和田義盛の嘆願を取り次ぎ、5月20日には北条義時から読経と祈願の依頼の名目で招かれた。5月23日、小田知重の報せを受けると宴の席を一人抜けて大倉御所へ走り、5月24日には実朝名義の花押の有る御教書を作成して稲村ヶ崎の御家人達に示し、戦局を決した。
  • 波多野忠綱 鎌倉幕府御家人。西暦1,213年5月23日、三浦義村・北条朝時等と共に政所付近で応戦した。5月25日の勲功審議では米町と政所前の先陣を主張し、北条義時の譲歩勧告に対しても「武士が戦場に向かう際、先陣を目指すのが本意である」「一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と拒んだ。赤皮威の鎧を着用し葦毛馬「片淵」に乗っていたとの証言で主張は裏付けられたが、義村を盲目扱いした事を理由に、5月28日の恩賞は無しとなった。
  • 武田信光 甲斐源氏。西暦1,213年5月24日、若宮大路の米町口で朝比奈義秀と遭遇して睨み合ったが、息子武田信忠が割って入った事で交戦する事無く、朝比奈は走り去った。5月28日、勲功として甲斐国波加利本荘を与えられた。
  • 足利義氏 鎌倉幕府御家人。西暦1,213年5月23日の防戦で朝比奈義秀と政所前の橋で遭遇し、鎧の袖を掴まれたが、割って入った野田朝季が身代わりに殺害される間に、鎧の袖を引きちぎりながら逃亡した。5月24日は大町大路に布陣した。
  • 弁覚 第24世日光山別当。西暦1,213年5月24日、大町大路にて中山行重を退けた。5月31日、其の功により豊前国黒土荘を与えられ、北条義時から源実朝の感謝の言葉を伝えられると、「源殿の長寿の為の祈祷をしておりますので、呪いや祟り等も其の力で防いでおります。姿形の在る敵等には罰を与えるのみ」と答えた。
  • 渋河兼守 泉親衡の謀反への関与者として、西暦1,213年3月9日に安達景盛の預かりで捕縛された。3月18日、翌日の明け方の処刑を言い渡されると、思いの丈を10首の和歌に込めて荏柄天神社に奉納した。翌19日、工藤祐隆が其れを源実朝の下へ持参し、和歌に感じ入った実朝によって赦免された。
  • 伊具盛重 鎌倉幕府方の武士。西暦1,213年5月24日18時、和田義盛の四男和田義直を討ち取った。義盛の戦意喪失を招いた一撃。
  • 江戸能範 鎌倉幕府方の武士。西暦1,213年5月24日、愛息義直を失って戦意を喪失した和田義盛を、其の郎党が襲撃して討ち取った。
  • 荒鵑 和田胤長の娘。西暦1,213年4月9日の父の配流により、会えなくなった悲しみから病を患い危篤となった。4月13日、胤長と顔の似ていた和田朝盛が父と偽って帰って来た事を伝えられると、少し目を開けて其の姿を微かに見た後、目を閉じて死去した。其の夜に火葬され、胤長の妻は同日中に出家した。

主要な地名・拠点

  • 建穂神社 現在の静岡県静岡市葵区建穂。西暦1,210年12月8日6時、西暦1,213年に戦が起きるとのお告げが出た地。本書冒頭の予兆。
  • 大倉御所 鎌倉幕府の本拠。西暦1,213年4月1日の和田義盛一族98名による赦免嘆願、5月23日16時の南門襲撃と朝比奈義秀の南庭侵入・放火、5月24日の若宮大路からの進軍の目標となった、本書最大の戦場。
  • 和田胤長の屋敷 荏柄天神社の前に在った屋敷。西暦1,213年4月17日に一族へ引き渡され、和田義盛は久野谷弥次郎を住まわせたが、4月24日、北条義時が屋敷は一族に給付されるという慣習を破って久野谷を追い出し、金窪行親・安東忠家に与えた。義盛を挙兵へ追い込んだ決定的な挑発の舞台。
  • 北条義時の屋敷 西暦1,213年5月23日16時、和田義盛の150騎による三手攻撃の標的の一つ。手薄であった為、直ぐに陥落した。義盛が本来矛先を向けた場所。
  • 大江広元の屋敷 大倉御所南門の向かいに在った屋敷。西暦1,213年5月23日16時、和田義盛の150騎による三手攻撃の標的の一つとなり、手薄であった為、直ぐに陥落した。
  • 法華堂 大倉御所の北側の丘の上に在る堂。西暦1,213年5月23日、南側から大倉御所が燃えていくのを見た源実朝が、北条義時・大江広元等に付き添われ、三浦義村の守る北門から脱出して逃げ込んだ地。
  • 御谷 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1,213年5月23日、源実朝・北条政子・西八条禅尼が大倉御所北門を出て避難した地。
  • 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1,213年5月23日、日が暮れて和田義盛が兵を引いた地。合戦初日の終着点。
  • 腰越浦 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1,213年5月24日4時、横山時兼が娘婿の波多野盛通・甥の横山五郎等の親族や横山党を率いて到着し、和田義盛の軍に加勢した地。
  • 稲村ヶ崎 西暦1,213年5月24日8時、相模国・伊豆国の曾我氏・中村氏・二宮氏・河村氏等が武蔵大路から到着した地。何方に加勢すべきか迷った御家人達は、大江広元が作成した源実朝名義の御教書を示され、鎌倉幕府軍に付いた。
  • 若宮大路 西暦1,213年5月24日、和田義盛が3,000騎を率いて北上した鎌倉の幹線。北条泰時・北条時房が布陣し、米町口(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)では武田信光と朝比奈義秀が遭遇、琵琶橋(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)では朝比奈が宍戸家政を討った、本書の激戦地。
  • 大町大路 西暦1,213年5月24日、足利義氏が布陣し、第24世日光山別当弁覚が中山行重を退けた地。
  • 鶴岡八幡宮寺 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1,213年5月24日、源実朝の願書と自筆の和歌2首が戦勝祈願として奉じられた地。同じ日、土屋義清が赤橋の周辺で北から矢を受けて死亡した。
  • 寿福寺・岩窟不動尊 寿福寺(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)・岩窟不動尊(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)。西暦1,213年5月24日、土屋義清が甘縄から大倉御所へ向かう際に経由した地であり、寿福寺は本願主であった土屋が葬られた寺でもある。
  • 安房国 和田義盛の所領。西暦1,213年5月24日、朝比奈義秀が和田朝盛の長男佐久間家盛と共に、船6隻に500騎を乗せて海路で逃れた地。
  • 波加利荘 現在の山梨県北都留郡・大月市・上野原市・都留市・富士吉田市・南都留郡富士河口湖町。西暦1,213年5月24日、古郡経忠・古郡保忠・和田常盛・横山時兼が敗走した地。
  • 甲斐国板東山波加利之東競石郷二木 現在の山梨県大月市初狩町中初狩・下初狩付近。西暦1,213年5月25日、古郡経忠・古郡保忠の兄弟が自害した地。
  • 甲斐国板東山償原別所 笹子峠(現在の山梨県大月市・甲州市)付近。西暦1,213年5月25日、和田常盛と横山時兼が自害した地。
  • 固瀬川 現在の境川(城山湖(現在の神奈川県相模原市緑区川尻)〜江ノ島(現在の神奈川県藤沢市))。西暦1,213年5月25日以降、横山時兼を始めとする234名の首級が川辺に梟首された地。
  • 陸奥国岩瀬郡鏡沼 現在の福島県岩瀬郡鏡石町。西暦1,213年4月9日に和田胤長が配流され、5月28日に処刑された地。
  • 荏柄天神社 西暦1,213年3月18日、渋河兼守が思いの丈を込めた10首の和歌を奉納した地。翌19日、前夜から籠っていた工藤祐隆が其れを源実朝の下へ持参し、渋河は赦免された。前には和田胤長の屋敷が在った。

主要な事件・出来事

  • 建穂神社のお告げと源実朝の夢 西暦1,210年12月8日6時、建穂神社から、西暦1,213年に戦が起きるとのお告げが出た。同じ日、源実朝も夢の中で同じお告げを聞いた。大江広元が占いを勧めたが、実朝は「私の夢は神仏のお告げであり、偽りの夢では無いだろう」として占いを退けた。本書の最初の予兆。
  • 泉親衡の栄実擁立計画 西暦1,211年、泉親衡が源頼家の参男栄実を征夷大将軍に擁立し、北条義時を討つ計画を立て、以降水面下で各地の武士に協力を呼び掛けて行った。和田合戦の間接的な発端。
  • 北条朝時の義絶 西暦1,212年6月7日、北条朝時が、西八条禅尼に仕えていた官女佐渡守藤原親康の娘に艶文を送っても靡かなかった為、深夜に居室へ忍び込んで連れ出した。源実朝の怒りを買い、北条義時から義絶されて駿河国富士郡に蟄居となった。
  • 阿静坊安念の捕縛と自白 西暦1,213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤に栄実を擁しての挙兵を持ち掛けた所、千葉は其の場で安念を捕縛して北条義時の下へ連行し、二階堂行村・金窪行親が尋問した。翌9日の自白で、与した武士130名余・其の仲間200名の関与が明らかとなり、一村近村・籠山次郎・上田原平三父子3名・薗田成朝・狩野小太郎・和田義直・和田義重・渋河兼守・和田胤長・磯野小三郎が捕縛された。和田義盛は上総国伊隅荘に居た為、捕縛を免れた。
  • 薗田成朝の逃亡 西暦1,213年3月11日、薗田成朝が宇都宮時綱の下から逃亡し、祈祷師僧敬音の屋敷へ入った。出家を勧められたが、国司に着任するという願望が叶えられるまでは出家しないと語り、敬音の下を離れて行方知れずとなった。3月13日に逃亡が明るみに出ると、源実朝は「早く此れを尋ね出し、恩赦有るべき」と発言した。
  • 渋河兼守の10首と赦免 西暦1,213年3月18日、翌日の明け方の処刑を言い渡された渋河兼守が、思いの丈を10首の和歌に込めて荏柄天神社に奉納した。翌19日、前夜から荏柄天神社に籠っていた工藤祐隆が其れを大倉御所の源実朝に持参し、和歌に感じ入った実朝は渋河を赦免した。
  • 泉親衡の潜伏と工藤十郎の殺害 西暦1,213年3月25日、泉親衡が筋替橋付近に潜伏しているとの噂を聞き付けた鎌倉幕府が工藤十郎を現地へ派遣したが、工藤は泉に殺害され、泉は行方を晦ませた。首謀者捕縛の失敗。
  • 和田義盛の帰還と嘆願 西暦1,213年3月31日、和田義盛が鎌倉に帰還して源実朝と面会し、其の嘆願により和田義直・和田義重が赦免された。然し、謀反に積極的に加担したと判断された和田胤長は赦免されなかった。
  • 一族98名による赦免嘆願 西暦1,213年4月1日、和田義盛が一族98名を引き連れて大倉御所を訪問し、和田胤長の赦免を訴えた。大江広元が取り次いだが源実朝との面会は叶わず、胤長は謀反の首謀者として赦免されなかった。後ろ手に縛り上げられた胤長は一族の前に引き立てられ、二階堂行村へ引き渡された。其の際、北条義時は「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言った。
  • 和田胤長の配流 西暦1,213年4月9日、和田胤長が陸奥国岩瀬郡鏡沼に配流された。
  • 荒鵑の死と胤長の妻の出家 西暦1,213年4月13日、和田胤長の娘荒鵑が、父と会えなくなった悲しみから病を患い危篤となった。胤長と顔の似ていた和田朝盛が父と偽って帰って来た事を伝えられると、荒鵑は少し目を開けて其の姿を微かに見た後、目を閉じて死去した。其の夜に火葬され、胤長の妻は同日中に出家した。
  • 和田胤長屋敷の奪取 西暦1,213年4月17日、荏柄天神社の前の和田胤長の屋敷が一族に引き渡され、和田義盛は久野谷弥次郎を住まわせた。然し4月24日、北条義時は屋敷は一族に給付されるという慣習を破り、久野谷を追い出して金窪行親・安東忠家に与えた。義盛を挙兵へ追い込んだ決定的な挑発。
  • 源実朝の予言 西暦1,213年4月29日、酒宴を行っていた源実朝が、通り掛かった山内政宣・宍戸家政に酒を振る舞い、「2人とも近いうちに命を失う事になろう。1人は私の敵として、もう1人は私の味方として」と予言した。
  • 和田朝盛の出家と連れ戻し 西暦1,213年5月7日、和田朝盛が浄遍僧都から出難生死の道を学んだ後、出家を遂げる為に大倉御所へ参上して源実朝に和歌を献上し、蟠りを解いて地頭職の下文を授かった。然し月が中天に及んだ頃、源延の草庵で剃髪して京都へ向かった。5月8日、怒った和田義盛が和田義直に連れ戻す様命じ、5月10日、駿河国手越で朝盛は鎌倉へ連れ戻され、黒衣の儘、義盛の旗下として先陣に立つ事となった。
  • 尊道房の追放と戦乱の予感 西暦1,213年5月16日、和田義盛が年来の帰依僧である伊勢国の尊道房を追放した。然し、伊勢神宮に戦勝祈願させたとの噂が飛び交い、人々は戦乱を予感して騒然とした。
  • 和田義盛の決起表明 西暦1,213年5月19日、和田義盛が挙兵するとの噂を受けた源実朝が、側近の宮内公氏を和田の屋敷へ差し向けた。寝殿から出て来た義盛が烏帽子を落としたのを見た宮内は、首が落ちた様だと感じ、挙兵しても打たれてしまうに違いないと思った。同日夜、実朝が差し向けた刑部丞宮内忠季に対し、義盛は「将軍家に対する反逆の気持ちは無い。唯、北条義時の所為は我慢ならず、決起は止むを得ない」と回答した。本書最大の転換点。
  • 三浦義村の裏切りと挙兵 西暦1,213年5月23日、小田知重が和田義盛の屋敷への軍勢集結を大江広元に報告すると、大江は宴の席を一人抜けて大倉御所へ走った。三浦義村は義盛に味方する起請文を書いていたにも拘らず、弟の三浦胤義と相談し、先祖の三浦為継以来源氏から恩禄を賜ってきた事を理由に義盛を裏切り、北条義時に挙兵を告げた。源実朝・北条政子・西八条禅尼が御谷へ避難した16時、義盛は予定を1日繰り上げ、横山党の到着を待たずに150騎を三手に分けて、大倉御所南門・北条義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃した。
  • 朝比奈義秀の南門突破 西暦1,213年5月23日、三浦義村は北条朝時・波多野忠綱等と共に政所付近で応戦したが、18時に大倉御所への侵入を許した。朝比奈義秀は大倉御所南門を打ち破って南庭に侵入し、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放った。更に北条朝時を斬り、政所前の橋で足利義氏の鎧の袖を掴んだ所へ野田朝季が割って入ると、野田を殺害した。源実朝は三浦義村の守る北門から脱出して法華堂へ逃げ込み、日が暮れると義盛は由比ヶ浜に兵を引いた。
  • 横山党の加勢と御教書 西暦1,213年5月24日4時、横山時兼が娘婿の波多野盛通・甥の横山五郎等の親族や横山党を率いて腰越浦に到着し、和田義盛の軍に加勢した。8時、稲村ヶ崎に到着した相模国・伊豆国の曾我氏・中村氏・二宮氏・河村氏等は、何方に加勢すべきか分からず源実朝の御教書を求めた。大江広元が実朝名義の花押の有る御教書を作成して示すと、御家人達は鎌倉幕府軍に付き、千葉成胤も一族を率いて北条に味方した。戦局を決した一手。
  • 若宮大路の激戦と土屋義清の死 西暦1,213年5月24日10時、和田義盛の軍勢が鎌倉に入り、朝比奈義秀が土屋義清・古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣に突入し、鎌倉幕府軍を追い散らした。武田信光は米町口で朝比奈と睨み合ったが、息子武田信忠が割って入り交戦は避けられ、朝比奈は琵琶橋で宍戸家政を討った。源実朝が大江広元に願書を書かせ自筆の和歌2首を添えて鶴岡八幡宮寺に奉じる中、土屋義清が赤橋の周辺で北から矢を受けて死亡し、大町大路では弁覚が中山行重を退けた。
  • 和田義直・和田義盛父子の戦死 西暦1,213年5月24日18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られ、所持していた名刀石動丸が行方不明となった。愛息を失った和田義盛は「今は戦う甲斐も無し」と号泣し、戦意を失った所を江戸能範の郎党に襲撃されて討ち取られた。和田義重・和田義信・和田秀盛は自刃した。和田一族の事実上の滅亡。
  • 和田一族の敗走 西暦1,213年5月24日、朝比奈義秀は和田朝盛の長男佐久間家盛と共に船6隻に500騎を乗せて所領の安房国へ逃れ、古郡経忠・古郡保忠・和田常盛・横山時兼は波加利荘へ敗走した。岡崎実忠も戦場から離脱したが其の後殺害され、愛甲季隆は兄の愛甲義久一族と共に討たれ、大庭景兼も討たれて大庭氏一族は没落した。
  • 和田常盛・横山時兼等の自害と梟首 西暦1,213年5月25日、古郡経忠・古郡保忠の兄弟が甲斐国板東山波加利之東競石郷二木で、和田常盛・横山時兼が甲斐国板東山償原別所で自害した。其の後、横山を始めとする234名の首級が固瀬川の川辺に梟首された。和田合戦の完全な終結。
  • 波多野忠綱と三浦義村の先陣争い 西暦1,213年5月25日8時、源実朝が法華堂から東の御所へ移り、二階堂行村を奉行として約188名の検分を行った後、勲功の審議に入った。波多野忠綱と三浦義村は政所前の先陣を争い、北条義時は「三浦に譲って穏便に済ませてくれないか」と忠綱に譲歩を勧めたが、忠綱は「一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と拒んだ。波多野盛景・二階堂基行・金子太郎が、先陣は赤皮威の鎧を着用し葦毛馬に乗った者であったと証言し、忠綱の主張が裏付けられた。
  • 所領没収と北条義時の侍所別当就任 西暦1,213年5月26日、鎌倉幕府が和田義盛・横山時兼を始めとする謀反人の所領・所職を没収した。更に北条義時が和田に代わって侍所別当に就任し、政所別当との兼任となった。本書の政治的な帰結。
  • 和田胤長の処刑と所領配分 西暦1,213年5月28日、和田胤長が陸奥国にて処刑された。同じ日、鎌倉幕府は勲功として甲斐国・相模国・武蔵国・上総国・常陸国・上野国・陸奥国・出羽国等の所領を、武田信光・島津忠久・二階堂行村・大江広元・北条時房・三浦胤義・伊賀朝光・北条泰時・三浦義村・大弐局等へ配分した。波多野忠綱は、3日前に三浦義村を盲目扱いした事を理由に褒賞は無しとなった。
  • 北条泰時の勲功辞退 西暦1,213年5月29日夜、北条泰時が大倉御所に入り、源実朝に勲功を辞退する旨を伝えた。再三固辞する泰時は「和田義盛は源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで」「褒賞は其れ等の者に与えるべきであって、私が受けるのは筋が通りません」と述べ、周囲の者は感嘆した。然し実朝は、重ねて勲功を受け取る様指示した。
  • 弁覚への豊前国黒土荘授与 西暦1,213年5月31日、弁覚が中山行重を退けた事による褒賞として豊前国黒土荘を与えられた。北条義時から「僧徒の身でありながら戦場へ赴いたことは、忠節の表れだ」とする源実朝の感謝の言葉を伝えられると、弁覚は「源殿の長寿の為の祈祷をしておりますので、呪いや祟り等も其の力で防いでおります。姿形の在る敵等には罰を与えるのみ」と答えた。本書の終結点。

建穂神社のお告げから和田一族の滅亡、そして勲功審議へ──
和田合戦の二年五ヶ月の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。