武蔵坊弁慶の立往生、
平泉に散った源義経一元化
秀衡を失い、泰衡に襲われ、持仏堂で果てた──
源義経最後の二年余を一元化。
141円(税込)
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本書について
西暦1,187年3月21日、源義経は正室の郷御前や娘と共に、山伏や稚児に変装して、第3代奥州藤原氏当主藤原秀衡を頼り、奥州へ向けて出発した。一行は10月頃、田川館(現在の山形県鶴岡市田川)を経由して平泉に到着し、以降は秀衡に匿われる。本書は、此の奥州への出発から、1,189年7月27日に義経の首級が鎌倉に持ち込まれ、首実検が行われる迄を一元化した記録である。
1,187年11月30日、藤原秀衡は、義経・長男藤原国衡(母は側室)・弐男藤原泰衡(母は正室藤原基成の娘)の3名に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し、三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残して病没する。義経は庇護者を失った。泰衡が第4代奥州藤原氏当主に就任し、義経を「大将軍」とする。1,188年3月7日、義経が平泉(現在の岩手県西磐井郡)に潜伏している事が、頼朝を始めとする鎌倉方に知られた。後白河上皇は頼朝の要請を受け、3月20日と11月15日の2度、藤原基成・藤原泰衡に源義経征伐の宣旨を下す。
1,189年2月頃、義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持った比叡山の僧手光七郎が捕らえられた。2月25日には、藤原基成・藤原泰衡が送った、義経の所在が判明したら急ぎ召し進めるという主旨の書簡が頼朝の下に届く。3月3日、泰衡は、義経を支持していた秀衡の六男藤原頼衡を殺害した。鎌倉方は3月10日、泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして藤原泰衡征伐の宣旨を要請し、4月頃・5月頃にも要請を重ねる。6月頃、後白河上皇は其の宣旨の検討を行った。
6月15日、泰衡は秀衡の遺言を破り、藤原基成の居館衣川館を襲撃する。武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清・備前房成を含む十数騎が応戦した。武蔵坊は、義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘するが、矢の雨を受け、立った儘絶命する。鈴木は、敵に背を見せて逃げるとは何事かと照井高治を責めて引き返させ、組み合って其の右肩を斬り付けると、左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し、数名に手傷を負わせた所で深傷を受けて、重清よ、犬死にするなと言い残して腹を掻き切った。亀井は、兄と共に紀伊国を出た日から命を義経に預けたと言い、生年23と名乗って大勢の敵の中に割って入る。敵3騎を討ち取り、6騎に手傷を負わせた亀井は、腹を掻き切って、兄の倒れた所に頭を同じくして倒れた。備前も討たれる。義経は一切戦わずに持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害して、自身も自害した。
熊野(現在の和歌山県・三重県)から平泉へ向かっていた鈴木重家の妻小森御前は、志津川(現在の宮城県本吉郡南三陸町)で夫の戦死を聞かされ、其の儘乳母と共に志津川に身を投げる。小森御前は孕っていた。7月7日、義経が殺害された旨を伝える飛脚が、奥州から鎌倉に到着した。22日には、義経が死去した為戦闘を停止する様命じる後白河上皇の院宣が、吉田経房から送付されて鎌倉に届く。27日、秀衡の四男藤原高衡が、泰衡が酒に浸していた義経の首級を鎌倉に持ち込み、和田義盛・梶原景時が首実検を行った——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 源義経 本書の中心人物。正室の郷御前や娘と共に山伏や稚児に変装して奥州へ向かい、平泉で藤原秀衡に匿われた。秀衡の死後、第4代当主となった藤原泰衡に「大将軍」とされたが、1,189年6月15日に衣川館を襲われると、一切戦わずに持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害して自害した。
- 武蔵坊弁慶 衣川館の襲撃で応戦した十数騎の1人。源義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘したが、矢の雨を受け、立った儘絶命した。
- 郷御前 源義経の正室。娘と共に義経の奥州行きに同行した。衣川館の襲撃の際、持仏堂に篭った義経に、娘と共に殺害された。
- 藤原秀衡 第3代奥州藤原氏当主。平泉に着いた源義経を匿った。1,187年11月30日、義経・藤原国衡・藤原泰衡に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し、三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残して病没した。
- 藤原泰衡 藤原秀衡の弐男で、母は正室藤原基成の娘。秀衡の死後、第4代奥州藤原氏当主に就任し、源義経を「大将軍」とした。1,189年3月3日に秀衡の六男藤原頼衡を殺害し、6月15日には秀衡の遺言を破って衣川館を襲撃した。義経の首級を酒に浸していた。
- 藤原国衡 藤原秀衡の長男で、母は側室。秀衡の遺言に際し、源義経・藤原泰衡と共に起請文を書かされた。
- 藤原頼衡 藤原秀衡の六男。源義経を支持していたが、1,189年3月3日、藤原泰衡に殺害された。
- 藤原高衡 藤原秀衡の四男。藤原泰衡が酒に浸していた源義経の首級を、1,189年7月27日に鎌倉へ持ち込んだ。
- 藤原基成 藤原泰衡の母の父。衣川館は其の居館だった。1,188年の2度の宣旨で、泰衡と共に源義経征伐を命じられた。泰衡と共に送った書簡が、1,189年2月25日に源頼朝の下へ届いた。
- 鈴木重家 第11代藤白鈴木氏当主。衣川館の襲撃で応戦し、逃げる照井高治を言葉で責めて引き返させ、組み合って其の右肩を斬り付けた。左手に2騎、右手に3騎を斬り倒した末に深傷を受け、弟の亀井重清に犬死にするなと言い残して自害した。
- 亀井重清 鈴木重家の弟。衣川館の襲撃で、生年23と名乗って大勢の敵の中に割って入り、敵3騎を討ち取り、6騎に手傷を負わせた。其の後、腹を掻き切り、兄の倒れた所に頭を同じくして倒れた。
- 備前房成 衣川館の襲撃で、武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清らと共に応戦し、討たれた。
- 照井高治 衣川館を襲った側の侍。鈴木重家に名を問われ、身内の侍の照井高治だと答えた。鈴木に責められて戻り、組み合って右肩を斬り付けられた。
- 小森御前 鈴木重家の妻。熊野から平泉へ向かう途中、志津川で夫の戦死を聞かされ、乳母と共に志津川に身を投げて自害した。孕っていた。
- 手光七郎 比叡山の僧。源義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持ち、1,189年2月頃に捕らえられた。
- 後白河上皇 源頼朝の要請を受け、1,188年3月20日と11月15日の2度、藤原基成・藤原泰衡に源義経征伐の宣旨を下した。1,189年6月頃には藤原泰衡征伐の宣旨を検討し、義経の死去を受けて、戦闘を停止する様命じる院宣を出した。
- 源頼朝 源義経の平泉潜伏は、1,188年3月7日に頼朝を始めとする鎌倉方に知られた。其の要請を受けた後白河上皇が、2度に亙って源義経征伐の宣旨を下した。1,189年2月25日には、藤原基成・藤原泰衡が送った書簡が頼朝の下に届いた。
- 吉田経房 源義経が死去した為戦闘を停止する様命じる後白河上皇の院宣を、鎌倉に送付した。院宣は1,189年7月22日に鎌倉に届いた。
- 和田義盛 1,189年7月27日、藤原高衡が鎌倉に持ち込んだ源義経の首級を、梶原景時と共に首実検した。
- 梶原景時 1,189年7月27日、和田義盛と共に、源義経の首級の首実検を行った。
主要な地名・拠点
- 田川館 現在の山形県鶴岡市田川。源義経一行は此処を経由して、1,187年10月頃に平泉に到着した。
- 平泉 現在の岩手県西磐井郡。源義経一行が1,187年10月頃に到着し、藤原秀衡に匿われた。1,188年3月7日、義経が此処に潜伏している事が鎌倉方に知られた。
- 衣川館 藤原基成の居館。1,189年6月15日、藤原泰衡が藤原秀衡の遺言を破って襲撃し、武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清・備前房成らが命を落とした。
- 持仏堂 衣川館の襲撃の際、源義経が篭った堂。武蔵坊弁慶が其の入口の前で立った儘絶命し、義経は其処に篭って郷御前と娘を殺害し、自身も自害した。
- 比叡山 1,189年2月頃、源義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持っていた、此の山の僧手光七郎が捕らえられた。
- 熊野 現在の和歌山県・三重県。鈴木重家の妻小森御前は、此処から平泉へ向かった。
- 志津川 現在の宮城県本吉郡南三陸町。平泉へ向かっていた小森御前が夫の戦死を聞かされ、乳母と共に身を投げた。
- 鎌倉 1,189年7月7日に源義経が殺害された旨を伝える飛脚が、22日に戦闘の停止を命じる院宣が届いた。27日には、藤原高衡が持ち込んだ義経の首級の首実検が行われた。
主要な事件・出来事
- 奥州への出発(1,187年3月21日) 源義経が郷御前や娘と共に、山伏や稚児に変装して奥州へ向かう。
- 平泉到着(1,187年10月頃) 義経一行が田川館を経由して平泉に着き、藤原秀衡に匿われる。
- 藤原秀衡の遺言と病没(1,187年11月30日) 秀衡が義経・藤原国衡・藤原泰衡に起請文を書かせ、源頼朝の攻撃に備える様遺言して病没する。泰衡が第4代当主に就任する。
- 潜伏の発覚(1,188年3月7日) 義経が平泉に潜伏している事が、頼朝を始めとする鎌倉方に知られる。
- 源義経征伐の宣旨(1,188年3月20日) 後白河上皇が頼朝の要請を受け、藤原基成・藤原泰衡に宣旨を下す。11月15日にも同じ宣旨が下される。
- 手光七郎の捕縛(1,189年2月頃) 義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持った比叡山の僧が捕らえられる。
- 基成・泰衡の書簡(1,189年2月25日) 義経の所在が判明したら急ぎ召し進めるという主旨の書簡が、頼朝の下に届く。
- 藤原頼衡の殺害(1,189年3月3日) 泰衡が、義経を支持していた秀衡の六男頼衡を殺害する。
- 藤原泰衡征伐の宣旨の要請(1,189年3月10日) 泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、鎌倉方が宣旨を要請する。4月頃・5月頃にも要請を重ね、6月頃、後白河上皇が検討を行う。
- 衣川館の襲撃(1,189年6月15日) 泰衡が秀衡の遺言を破って衣川館を襲い、武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清・備前房成を含む十数騎が応戦する。
- 武蔵坊弁慶の立往生(1,189年6月15日) 持仏堂の入口の前で薙刀を振るった武蔵坊が、矢の雨を受け、立った儘絶命する。
- 鈴木重家・亀井重清の最期(1,189年6月15日) 照井高治と組み合った鈴木が、左右に5騎を斬り倒した末に自害し、亀井も敵3騎を討ち取った後、兄の倒れた所に頭を同じくして倒れる。
- 源義経の自害(1,189年6月15日) 一切戦わずに持仏堂に篭った義経が、郷御前と娘を殺害して自害する。
- 小森御前の入水(1,189年) 鈴木重家の妻が、志津川で夫の戦死を聞かされ、乳母と共に身を投げる。
- 義経の死の報(1,189年7月7日) 義経が殺害された旨を伝える飛脚が、奥州から鎌倉に着く。
- 戦闘停止の院宣(1,189年7月22日) 義経が死去した為戦闘を停止する様命じる後白河上皇の院宣が、吉田経房から送付されて鎌倉に届く。
- 首実検(1,189年7月27日) 藤原高衡が持ち込んだ義経の首級を、和田義盛・梶原景時が首実検する。泰衡は首級を酒に浸していた。
弁慶の立往生、鈴木兄弟の最期、首実検──
衣川館の襲撃と其の前後を一元化。
141円(税込)
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