電子書籍「武蔵坊弁慶の立往生──平泉に散った源義経一元化」の表紙

武蔵坊弁慶の立往生──平泉に散った源義経一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,187年3月21日〜1,189年7月27日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,026年4月20日

奥州下向・藤原秀衡の遺言・衣川館の襲撃・武蔵坊弁慶の立往生・源義経の自害──
源義経最後の2年4箇月を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1187年3月、源義経が正室の郷御前や娘と共に、山伏や稚児に変装して奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡を頼り奥州へ出発した日から、西暦1189年7月、藤原秀衡の四男藤原高衡が酒に浸した義経の首級を鎌倉に持ち込み、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われた日まで。本書は、都落ち後に奥州平泉に潜伏した源義経が、庇護者藤原秀衡の病没と藤原泰衡の遺言破棄に遭い、衣川館の襲撃で武蔵坊弁慶が立往生し、義経自身が自害に至る迄の約2年4箇月間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1187年3月21日、源義経は正室郷御前と娘を伴い、山伏・稚児の変装を以て奥州へ向けて出発した。10月頃、田川館(現在の山形県鶴岡市田川)を経由して平泉に到着、奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡によって匿われた。然し同年11月30日、秀衡は長男藤原国衡・弐男藤原泰衡・義経の3名に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残した後に病没した。此れにより義経は庇護者を失った。泰衡は第4代奥州藤原氏当主に就任し、義経を「大将軍」として事実上の後継者に据えたが、義経の平泉潜伏は既に鎌倉方に知られていた。

西暦1188年3月20日と11月15日の2度に亙り、後白河上皇は源頼朝の要請を受け、藤原基成と藤原泰衡に対して源義経征伐の宣旨を下した。西暦1189年2月頃、義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持った比叡山の僧手光七郎が捕縛された。2月25日、藤原基成・藤原泰衡から「源義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」という主旨の書簡が頼朝の下に届いた。3月3日、藤原泰衡は藤原秀衡の遺言を破り、源義経を支持していた秀衡の六男藤原頼衡を殺害、3月10日には鎌倉方が藤原泰衡が義経の叛逆に同心しているとして、藤原泰衡征伐の宣旨を要請した。4月・5月にも重ねて宣旨が要請され、6月、後白河上皇は藤原泰衡征伐の宣旨の検討に入った。

西暦1189年6月15日、藤原泰衡は藤原秀衡の遺言を破り、藤原基成の居館衣川館を襲撃した。武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清・備前房成を含む十数騎が応戦、武蔵坊は源義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘したが、矢の雨を受け立った儘絶命した。鈴木重家は敵将照井高治に「泰衡の味方をする者は恥ずかしい事ぞ」と呼び掛けて組み討ちし、左右に5騎を斬り倒した後、「重清よ、犬死にするな」と言い腹を掻き切って自害、弟亀井重清も敵3騎を討ち取った後、兄の倒れた所に頭を同じくして腹を掻き切った。備前も討たれて死亡した。義経は一切戦わずに持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害し自身も自害した。同年、熊野から平泉へ向かっていた鈴木重家の妻小森御前は、志津川にて重家の戦死を聞かされ、身重の儘乳母と共に入水自害した。7月7日、義経殺害を伝える飛脚が鎌倉に到着、7月22日に後白河上皇の戦闘停止院宣が届き、7月27日、藤原高衡が酒に浸した義経の首級を鎌倉に持ち込み、和田義盛・梶原景時が首実検を行った。


登場人物

  • 源義経 本書の主人公。源頼朝の異母弟。西暦1187年3月21日、正室郷御前や娘と共に山伏・稚児に変装して奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡を頼って奥州へ出発、10月頃に田川館を経由して平泉に到着した。藤原泰衡によって「大将軍」に据えられるも、1189年6月15日の衣川館襲撃では一切戦わず持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害した後自害した。
  • 武蔵坊弁慶 源義経の郎党。京都脱出・大物浦遭難以来、最後まで義経の傍に仕えた人物。西暦1189年6月15日の衣川館襲撃において、義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘するが、矢の雨を受け、立った儘絶命した。此の最期が「立往生」として本書の題名を成す。
  • 郷御前 源義経の正室。西暦1187年3月21日の奥州下向に義経と娘と共に同行した。1189年6月15日の衣川館襲撃の際、持仏堂に篭った義経によって娘と共に殺害された。
  • 藤原秀衡 奥州藤原氏第3代当主。西暦1187年10月頃、平泉に到着した源義経を匿った義経最大の庇護者。11月30日、藤原国衡・藤原泰衡・源義経の3名に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残して病没した。
  • 藤原泰衡 奥州藤原氏第4代当主。藤原秀衡の弐男(母は正室藤原基成の娘)。父の遺言により源義経を「大将軍」として事実上の後継者に据えたが、西暦1188年の源義経征伐宣旨と頼朝の圧力を受けて態度を変え、1189年3月3日に義経支持派の六男藤原頼衡を殺害、6月15日に秀衡の遺言を破って衣川館を襲撃し義経を自害に追い込んだ張本人。
  • 藤原国衡 藤原秀衡の長男(母は側室)。西暦1187年11月30日、藤原秀衡の病没時に起請文を書かされた3名のうちの1人で、源義経を主君として給仕し三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言された。
  • 藤原頼衡 藤原秀衡の六男。源義経を支持していた為、西暦1189年3月3日に兄藤原泰衡に殺害された。奥州藤原氏内部の義経支持派の象徴。
  • 藤原基成 奥州藤原氏の公卿。藤原泰衡の母方の祖父であり、衣川館の館主。西暦1188年3月20日と11月15日の2度、藤原泰衡と共に後白河上皇から源義経征伐の宣旨を下された。1189年2月25日、泰衡と共に「源義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」という主旨の書簡を源頼朝の下に送った。
  • 藤原高衡 藤原秀衡の四男。西暦1189年7月27日、藤原泰衡が酒に浸していた源義経の首級を鎌倉に持ち込み、和田義盛・梶原景時による首実検に供した人物。
  • 鈴木重家 第11代藤白鈴木氏当主。源義経の郎党。紀伊国鈴木(現在の和歌山県新宮市)の出身。西暦1189年6月15日の衣川館襲撃で応戦、敵将照井高治に「お主の主人藤原秀衡の祖父藤原清衡は後三年の役で源氏の郎党となった、清衡・基衡・秀衡・泰衡、ならば義経は5代の相伝」と呼び掛けて組み討ち、左手に2騎・右手に3騎を斬り倒し数名に手傷を負わせた後、「重清よ、犬死にするな。私は此れ迄だ」と言い腹を掻き切って自害した。
  • 亀井重清 鈴木重家の弟。源頼朝の乳母の息子。西暦1189年6月15日の衣川館襲撃で応戦、「紀伊国鈴木を鈴木重家と共に出た日から、命を義経に預けたのだ」と述べ、「音にも聞け、目にも見よ。鈴木重家の弟に亀井重清、生年23」と名乗りを上げて大勢の敵の中に割って入り、敵3騎を討ち取って6騎に手傷を負わせた後、兄の倒れた所に頭を同じくして腹を掻き切って自害した。
  • 備前房成 源義経の郎党。西暦1189年6月15日の衣川館襲撃において、武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清と共に応戦した十数騎の1人。戦闘の中で討たれて死亡した。
  • 照井高治 藤原秀衡の身内の侍。西暦1189年6月15日の衣川館襲撃時、鈴木重家に「お主は誰か」と尋ねられ自らの素性を明かし、鈴木の呼び掛けを受けて戻って組み討ちとなり、右肩を斬り付けられた人物。
  • 小森御前 鈴木重家の妻。西暦1189年、熊野(現在の和歌山県・三重県)から平泉へと向かっていた所、志津川(現在の宮城県本吉郡南三陸町)にて鈴木の戦死を聞かされ、身籠った儘乳母と共に志津川に身を投げ自害した。
  • 手光七郎 比叡山の僧。西暦1189年2月頃、源義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持っていた所を捕縛された。義経が奥州以外への脱出を模索していた事を示す証拠となった人物。
  • 後白河上皇 治天の君。西暦1188年3月20日と11月15日の2度に亙り、源頼朝の要請を受けて藤原基成・藤原泰衡に源義経征伐の宣旨を下した。1189年6月に藤原泰衡征伐の宣旨の検討に入り、7月22日には義経死去による戦闘停止院宣を鎌倉に下した。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。源義経の異母兄。西暦1188年の源義経征伐宣旨2度の要請、1189年3月10日・4月・5月の藤原泰衡征伐宣旨の執拗な要請により、奥州藤原氏に義経排除を強要し、結果的に衣川館襲撃と義経の自害を招いた人物。
  • 和田義盛 鎌倉幕府御家人、侍所別当。西暦1189年7月27日、藤原高衡が持ち込んだ酒に浸していた源義経の首級に対し、梶原景時と共に首実検を行った。
  • 梶原景時 鎌倉幕府侍所所司。源義経と頼朝の不和の中核を形成した讒言者。西暦1189年7月27日、藤原高衡が持ち込んだ源義経の首級に対し、和田義盛と共に首実検を行った、義経の生涯と最期を挟む両端に位置する人物。
  • 吉田経房 朝廷の公卿。西暦1189年7月22日、後白河上皇が源義経の死去に伴い戦闘を停止する様命じる旨の院宣を、鎌倉へ送付した人物。

主要な地名・拠点

  • 田川館 現在の山形県鶴岡市田川。西暦1187年10月頃、源義経が奥州下向の途上で経由した拠点。京都から平泉へ至る逃亡経路上の中継地点。
  • 平泉 現在の岩手県西磐井郡。奥州藤原氏の本拠地。西暦1187年10月頃、源義経が到着し藤原秀衡の庇護を受けた地。奥州藤原氏3代の栄華の象徴であり、源義経の最後の潜伏地となった場所。
  • 衣川館 藤原基成の居館。西暦1189年6月15日、藤原泰衡が藤原秀衡の遺言を破って襲撃した地。武蔵坊弁慶の立往生、鈴木重家・亀井重清・備前房成の戦死、源義経一家の自害の全てが行われた、本書最大の舞台。
  • 持仏堂 衣川館内に所在する仏堂。西暦1189年6月15日の襲撃時、武蔵坊弁慶が入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘した場所であり、源義経が郷御前と娘を殺害し自身も自害した、義経最期の地。
  • 紀伊国鈴木 現在の和歌山県新宮市。鈴木重家・亀井重清兄弟の出身地。西暦1189年6月15日の衣川館襲撃時、亀井重清が「紀伊国鈴木を鈴木重家と共に出た日から、命を義経に預けたのだ」と述べた、兄弟の原点。
  • 熊野 現在の和歌山県・三重県。西暦1189年、鈴木重家の妻小森御前が平泉へ向けて出発した地。
  • 志津川 現在の宮城県本吉郡南三陸町。西暦1189年、熊野から平泉へと向かっていた鈴木重家の妻小森御前が、鈴木の戦死を聞かされ、身籠った儘乳母と共に身を投げ自害した地。
  • 鎌倉 現在の神奈川県鎌倉市。鎌倉幕府の本拠地。西暦1189年7月7日に源義経殺害の飛脚が到着、7月22日に後白河上皇の戦闘停止院宣が届き、7月27日には藤原高衡が酒に浸した義経の首級を持ち込み、和田義盛・梶原景時が首実検を行った、本書の終着点。

主要な事件・出来事

  • 奥州下向 西暦1187年3月21日、源義経が正室郷御前や娘と共に、第3代奥州藤原氏当主藤原秀衡を頼り奥州へ向けて出発した。一行は山伏や稚児に変装していた、都落ち後の逃亡劇の最終局面の始まり。
  • 平泉到着 西暦1187年10月頃、源義経一行が田川館を経由して平泉に到着、以降藤原秀衡によって匿われた。義経にとって最後の安住の地となる場所への到着。
  • 藤原秀衡の遺言と病没 西暦1187年11月30日、藤原秀衡が藤原国衡・藤原泰衡・源義経の3名に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残し病没した。泰衡が第4代奥州藤原氏当主に就任し義経を「大将軍」として事実上の後継者に据えたが、義経は最大の庇護者を失った、本書最大の転機。
  • 平泉潜伏の発覚 西暦1187年3月7日、源義経が平泉に潜伏している事が源頼朝を始めとする鎌倉方に知られる。義経追跡の圧力が奥州藤原氏に本格的に及び始めた契機。
  • 源義経征伐宣旨(第1回) 西暦1188年3月20日、後白河上皇が源頼朝の要請を受け、藤原基成・藤原泰衡に対し源義経征伐の宣旨を下した。朝廷による奥州藤原氏への正式な圧力の開始。
  • 源義経征伐宣旨(第2回) 西暦1188年11月15日、後白河上皇が源頼朝の要請を受け、再度藤原基成・藤原泰衡に対し源義経征伐の宣旨を下した。
  • 手光七郎の捕縛 西暦1189年2月頃、源義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持った比叡山の僧手光七郎が捕縛された。義経が奥州外への脱出を模索していた事が発覚した事件。
  • 藤原基成・泰衡の書簡 西暦1189年2月25日、藤原基成・藤原泰衡が送った「源義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」という主旨の書簡が源頼朝の下に届く。奥州藤原氏が義経から距離を置き始めた事を示す書簡。
  • 藤原頼衡殺害 西暦1189年3月3日、藤原泰衡が源義経を支持していた藤原秀衡の六男藤原頼衡を殺害した。秀衡の遺言破棄の第一歩。
  • 藤原泰衡征伐宣旨要請 西暦1189年3月10日、鎌倉方が藤原泰衡が源義経の叛逆に同心しているとして、藤原泰衡征伐の宣旨を要請した。4月・5月にも重ねて要請が行われ、6月には後白河上皇が検討に入った。泰衡への圧力の加速。
  • 衣川館襲撃 西暦1189年6月15日、藤原泰衡が藤原秀衡の遺言を破り、藤原基成の居館衣川館を襲撃した。武蔵坊弁慶・鈴木重家・亀井重清・備前房成を含む十数騎が応戦した、本書の中心事件。
  • 武蔵坊弁慶の立往生 西暦1189年6月15日、武蔵坊弁慶が源義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘するが、矢の雨を受け、立った儘絶命した。本書の題名を成し、日本武士道史上最も著名な最期の1つ。
  • 鈴木重家・亀井重清・備前房成の戦死 西暦1189年6月15日、鈴木重家が照井高治等を斬り倒した後「重清よ、犬死にするな」と言い腹を掻き切って自害、弟亀井重清も敵3騎を討ち取った後、兄の倒れた所に頭を同じくして自害、備前も討たれて死亡した。義経郎党の壮絶な最期。
  • 源義経一家の自害 西暦1189年6月15日、源義経は一切戦わずに持仏堂に篭り、正室郷御前と娘を殺害し、自身も自害した。都落ち後約3年7箇月の逃亡生活の終焉。
  • 小森御前の入水 西暦1189年、熊野から平泉へと向かっていた鈴木重家の妻小森御前が、志津川にて鈴木の戦死を聞かされ、身籠った儘乳母と共に志津川に身を投げ自害した。衣川の悲劇の余波。
  • 義経殺害の鎌倉到着 西暦1189年7月7日、奥州から源義経が殺害された旨を伝える飛脚が鎌倉に到着した。義経の最期の一報。
  • 戦闘停止院宣の鎌倉到着 西暦1189年7月22日、吉田経房から送付された、後白河上皇が源義経の死去に伴い戦闘を停止する様命じる旨の院宣が鎌倉に届いた。朝廷による義経追討の正式な終了。
  • 源義経の首実検 西暦1189年7月27日、藤原秀衡の四男藤原高衡が、藤原泰衡が酒に浸していた源義経の首級を鎌倉に持ち込み、和田義盛・梶原景時が首実検を行った。本書の終着点。

奥州下向・藤原秀衡の遺言・衣川館の襲撃・武蔵坊弁慶の立往生・源義経の自害──
源義経最後の2年4箇月を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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