承久の乱で朝廷軍に味方した法勝寺執行尊長の復讐劇一元化
法然の弟子4名死罪・比叡山御幸・東寺の戦い・三浦胤義の自害・十津川の反乱計画・肥後房の屋敷の襲撃・円明寺埋葬──
法勝寺執行尊長の20年4箇月に亙る復讐劇を一本の時系列に貫く。
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西暦1207年3月、後鳥羽上皇の激怒を受けた専修念仏の停止に伴い、尊長の裁断により法然の弟子4名が死罪となった日から、西暦1227年7月、20年後の京都にて肥後房の屋敷で六波羅探題に襲撃された尊長が「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と遺し自害、円明寺に埋葬された日まで。本書は、後鳥羽上皇の側近として強大な権勢を振るった第7代法勝寺執行尊長が、承久の乱で朝廷軍に味方して敗北した後、6年間に亙り京都・熊野・十津川・阿波国を転々として鎌倉幕府への反乱を模索、最終的に和田朝盛・伯耆房の裏切りにより捕縛されて自害するに至る約20年4箇月間を、一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1207年3月、女房の一部が出家した事や男性を自分の不在中に仙洞御所内に泊めた事を知った後鳥羽上皇が激怒し、専修念仏の停止を決定した。加えて、尊長の裁断により、法然の弟子である西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房の4名が死罪となり、住蓮房は近江国馬淵、安楽房は六条河原にて処刑された。西暦1221年1月6日、尊長が出羽国羽黒山総長吏に任命された。6月29日、後鳥羽上皇が土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王・女院・女房と共に比叡山に御幸した。道中、尊長の押小路河原の屋敷にて防戦策を評議、夕方、仲恭天皇・尊長・久我通光・二条定輔・藤原親兼・藤原信成が加わり、尊長達は甲冑を身に纏い、後鳥羽上皇は延暦寺の僧兵に援軍を要請した。後鳥羽上皇・仲恭天皇は梶井御所に、雅成親王・頼仁親王は日吉大社東本宮境内に宿泊した、承久の乱における朝廷側の最後の結集。
西暦1221年7月6日、三浦義村率いる鎌倉幕府軍が東寺に入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔率いる30騎が迎え撃った。最初に名乗りを上げた渡辺は奮戦したものの10騎余りを討ち取られて大江山へ退却、山田重忠は15騎を討ち取るも味方に多数の負傷者が出て般若寺へ落ち延び自害した。三浦胤義は兄義村を見つけると襲い掛かり「鎌倉幕府に仕えて世渡りする筈だったが、兄上を恨み、悔しさの余り京都へ上り、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こした。味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てた。義村は「愚か者の相手をするのは無意味だ」と相手にせず退いた。胤義は最早此れ迄と、幼子に一目会おうと太秦へ向かうが、鎌倉幕府軍に包囲され、8時、三浦胤連・三浦兼義の2名の息子と共に木嶋にて自害した。同じく8時、後鳥羽上皇の勅使が北条泰時・三浦義村の下へ「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く、謀臣が行ったものである」「北条泰時追討の宣旨の撤回」「京都での略奪禁止」「全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す」を伝え、皇室の存続を図った。10時、北条泰時・北条時房率いる軍が六波羅に入り、藤原秀康・小野盛綱・尊長は逃亡した、承久の乱の軍事的帰結。
西暦1224年、熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長が京都に潜伏し始め、和田朝盛・其の従兄弟の山僧伯耆房と知己を得た。西暦1227年2月、尊長が黒太郎と共に十津川8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとしたが、2月15日、黒太郎の弟が熊野の神威を恐れ密告し、熊野三山が警備を固めた。4月5日、藤原定家が尊長が還俗し烏帽子を被って髷を結い十津川の人間の婿となっている事を耳にし、此の頃尊長が第14代石山寺座主長厳や其の弟子の協力を得て熊野を掌握し阿波国へ渡ろうとしているとの噂が流れた。5月2日の阿波国の逆徒襲撃の噂は海人の漁火の誤認と判明、5月14日には阿波国の熊野太郎が尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」の書簡を受け、国中が大騒ぎとなった。7月、大友親秀が後見の肥後房の屋敷に尊長が匿われている事が判明、7月19日に北条泰時の捕縛指示書簡が六波羅探題に届き、和田朝盛が鎌倉幕府からの赦免を得る為尊長を裏切っていた事が背景にあった。7月20日、和田朝盛の肥後房屋敷での捕縛は失敗、7月21日早朝、伯耆房が肥後房屋敷に赴き酒宴を張って合図を送って逃げ去ると、六波羅探題被官・北条時氏近習・菅周則・小笠原長経達が襲撃、尊長は剣で応戦し勇士2名を負傷させた後に自殺を図ったが即死せず、「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と発して周囲を驚かせた。菅の屋敷で氷を所望し食べた後「私の体は必ず円明寺に埋めてくれ。河原に晒すな」と遺言し、7月22日8時、帷子を改めて手を洗い、阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え座した儘死去、遺言通り円明寺に葬られた。7月28日、六波羅探題の伝令が鎌倉に到着し報告、同日和田朝盛が捕縛された、本書の終結点。
登場人物
- 法勝寺執行尊長 本書の主人公。後鳥羽上皇の側近。第7代法勝寺執行。西暦1207年3月、自身の裁断により法然の弟子4名を死罪とした。西暦1221年1月6日に出羽国羽黒山総長吏に任命、6月29日の後鳥羽上皇比叡山御幸時には押小路河原の屋敷で防戦策を評議し甲冑を纏って一行に加わった。7月6日の東寺の戦い敗北後に逃亡、6年間に亙り熊野・洛中・鎮西を転々として反乱を模索、西暦1227年7月21日に肥後房の屋敷で伯耆房の裏切りにより六波羅探題に襲撃され自殺、「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」との言葉を残し、7月22日に座した儘死去した、本書の題名を成す復讐劇の主役。
- 後鳥羽上皇 治天の君。尊長の主君。西暦1207年3月、女房の出家や男性を仙洞御所内に泊めた事を知り激怒、専修念仏の停止を決定した。西暦1221年6月29日、土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王等と共に比叡山に御幸、直衣・腹巻・日照り笠を着用し延暦寺の僧兵に援軍を要請した。7月6日8時、東寺敗北後に「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く謀臣が行ったものである」との勅使を北条泰時・三浦義村の下に遣わし皇室の存続を図った、本書の政治的主柱。
- 土御門上皇 後鳥羽上皇の皇子。西暦1221年6月29日の比叡山御幸に布衣を着用し騎馬で同行。西暦1227年5月2日には阿波国の行宮(現在の徳島県阿波市土成町吉田御所屋敷)前まで朝廷軍残党が攻め込んだとの誤報が流れた、尊長の阿波国計画の対象となった上皇。
- 順徳上皇 後鳥羽上皇の皇子。西暦1221年6月29日の比叡山御幸に布衣を着用し騎馬で同行した。
- 仲恭天皇 西暦1221年6月29日夕方、尊長の押小路河原の屋敷からの評議後に一行に加わり、女房輿で比叡山へ向かい、後鳥羽上皇と共に梶井御所に宿泊した、承久の乱期の幼帝。
- 三浦胤義 三浦義澄の九男。三浦義村の弟。後鳥羽上皇に仕えて朝廷側で戦った。西暦1221年7月6日の東寺の戦いで兄義村と遭遇し「味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨て、8時、幼子に一目会おうと向かった太秦で鎌倉幕府軍に包囲され、2名の息子三浦胤連・三浦兼義と共に木嶋にて自害した、兄弟の悲劇を象徴する人物。
- 三浦義村 鎌倉幕府御家人。三浦胤義の兄。西暦1221年7月6日、東寺の戦いで弟胤義から詰問された際、「愚か者の相手をするのは無意味だ」と相手にせず退いた。胤義の郎従が持ち帰ろうとした首級を奪い、北条泰時の下へ持参した、本書の鎌倉幕府側の中核。
- 山田重忠 朝廷軍の武将。西暦1221年7月6日、三浦胤義・渡辺翔と共に東寺で30騎を率いて迎え撃ち、15騎を討ち取り戦果を挙げたが、味方に多数の負傷者が出た事から般若寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町)へ落ち延び、其処で自害した。
- 渡辺翔 朝廷軍の武将。西暦1221年7月6日、東寺の戦いで最初に名乗りを上げ奮戦したが、10騎余りを討ち取られ他の者も逃亡した為、大江山(現在の京都府与謝郡与謝野町・福知山市・宮津市)へと退却した。
- 藤原秀康 後鳥羽上皇の側近。西暦1221年7月6日の東寺の戦いの後、小野盛綱・尊長と共に逃亡した、承久の乱の主要な逃亡者。
- 北条泰時 北条義時の長男。第3代執権。西暦1221年7月6日、北条時房と共に六波羅に入った。西暦1227年7月19日、尊長の捕縛を指示する書簡を六波羅探題に送った、本書後半の追跡者の最高指揮者。
- 北条時房 北条義時の弟。西暦1221年7月6日10時、北条泰時と共に六波羅に入った、承久の乱の軍事的勝者。
- 北条時氏 北条泰時の息子。西暦1227年7月21日の肥後房屋敷襲撃に近習を派遣、尊長が自殺を図った際に六波羅で見掛けた人物として言及された、尊長捕縛の実行者。
- 和田朝盛 西暦1224年、京都に潜伏した尊長と知己を得たが、西暦1227年7月19日の北条泰時捕縛指示の背景には、和田が鎌倉幕府から赦免を得る為尊長を裏切って通報していた事があった。7月20日に肥後房屋敷で尊長の捕縛を試みるが失敗、7月28日に捕縛された、本書の裏切りの中心人物。
- 伯耆房 和田朝盛の従兄弟。山僧。西暦1224年以降、尊長と知己を得ていた。西暦1227年7月21日早朝、肥後房の屋敷に赴き尊長との酒宴を張り、六波羅探題被官・北条時氏近習・菅周則・小笠原長経達との事前の取り決め通り、門を出て神泉苑の軍勢へ合図を送って逃げ去って尊長を襲撃させた、本書の最後の裏切り者。
- 大友親秀 第2代大友氏当主。西暦1227年7月、後見の肥後房の屋敷に尊長を匿った事が判明した、尊長の最後の庇護者。
- 肥後房 大友親秀が後見する僧。西暦1227年7月、其の屋敷に尊長を匿っていた事が判明した。7月21日早朝、其の屋敷が伯耆房の裏切りにより六波羅探題に襲撃された、本書の最後の舞台提供者。
- 菅周則 西暦1227年7月21日、六波羅探題被官・北条時氏近習・小笠原長経達と共に肥後房の屋敷を襲撃、自殺未遂の尊長を馬車で鴨川の西の自身の屋敷に送った。小笠原長経と手柄を争うも、尊長の「京都に其の様な者(和田朝盛が言う親しい者)が居ても無益だ。そんな奴は居ない」との遺言証言を取った。7月22日、土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破り、尊長の遺言通り円明寺に葬った、尊長最期の記録者。
- 小笠原長経 阿波国守護。西暦1227年7月21日、菅周則・六波羅探題被官・北条時氏近習と共に肥後房の屋敷襲撃に参加した、尊長捕縛の実行者の1人。
- 藤原定家 朝廷の歌人。西暦1227年4月5日、尊長が還俗し烏帽子を被って髷を結い十津川の人間の婿となっている事を耳にし、尊長の熊野掌握の噂も記録した。7月21日に下人から尊長捕縛を聞き、7月25日には掛かり付け医の心寂房から詳細を聞いた、本書の民間の観察者にして記録者。
- 黒太郎 尊長の協力者。西暦1227年2月、尊長と共に十津川8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとしたが、2月15日、黒太郎の弟が熊野に密告した事で計画が発覚した、尊長の阿波国計画の協力者。
- 長厳 第14代石山寺座主。西暦1227年頃、尊長が熊野を掌握し阿波国へ渡ろうとしていた時の協力者と噂された、尊長の宗教的支援者。
- 心寂房 医僧。藤原定家の掛かり付け医。西暦1227年7月22日、菅周則の下を訪れ尊長の捕縛について話を聞き、7月25日に藤原定家に其の詳細を伝えた、本書の情報の媒介者。
- 住蓮房 法然の弟子。西暦1207年3月、尊長の裁断により死罪となり、近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)にて処刑された、本書冒頭の尊長の権勢を示す犠牲者。
- 安楽房 法然の弟子。西暦1207年3月、尊長の裁断により死罪となり、六条河原にて処刑された、本書冒頭の尊長の権勢を示す犠牲者。
主要な地名・拠点
- 押小路河原の尊長の屋敷 現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い。尊長の京都屋敷。西暦1221年6月29日、後鳥羽上皇の比叡山御幸の道中、防戦策を評議した地、尊長の権勢の絶頂の舞台。
- 比叡山 現在の京都府京都市左京区・滋賀県大津市。延暦寺の所在地。西暦1221年6月29日、後鳥羽上皇・仲恭天皇が御幸した地。後鳥羽上皇は此処で延暦寺の僧兵に援軍を要請した、承久の乱における朝廷側の最後の結集地。
- 梶井御所 現在の京都府京都市左京区の一乗寺・修学院地域。西暦1221年6月29日、後鳥羽上皇・仲恭天皇が比叡山御幸の際に宿泊した地。
- 日吉大社 現在の滋賀県大津市坂本。西暦1221年6月29日、雅成親王・頼仁親王が比叡山御幸の際、東本宮境内(十禅師)に宿泊した地。
- 東寺 京都の寺院。西暦1221年7月6日、三浦義村率いる鎌倉幕府軍が入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔率いる30騎の朝廷軍が迎え撃った地、承久の乱の京都決戦の舞台。
- 般若寺 現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町。西暦1221年7月6日、東寺の戦いで15騎を討ち取った山田重忠が、味方に多数の負傷者が出た事から落ち延び自害した地、朝廷軍の武将終焉の地。
- 大江山 現在の京都府与謝郡与謝野町・福知山市・宮津市。西暦1221年7月6日、東寺の戦いで敗れた渡辺翔が退却した地。
- 木嶋 現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社。西暦1221年7月6日8時、三浦胤義が鎌倉幕府軍に包囲され、2名の息子三浦胤連・三浦兼義と共に自害した地。
- 六波羅 京都の鎌倉幕府の拠点。承久の乱後、六波羅探題が設置された。西暦1221年7月6日10時、北条泰時・北条時房率いる軍が入った地であり、西暦1227年7月の尊長捕縛の指揮所でもあった、鎌倉幕府の京都支配の中心。
- 羽黒山 現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山。出羽三山の1つ。西暦1221年1月6日、尊長が総長吏に任命された地、尊長の宗教的権力の象徴。
- 熊野三山 熊野本宮大社(現在の和歌山県田辺市本宮町本宮)・熊野速玉大社(現在の和歌山県新宮市新宮)・熊野那智大社(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)。西暦1227年2月15日、黒太郎の弟による密告を受け、尊長の武具強奪計画から警備を固めた、尊長の阿波国計画を阻んだ聖地。
- 十津川 現在の奈良県吉野郡。西暦1227年2月、尊長が黒太郎と共に8郷の内5郷を味方に引き入れた地。西暦1227年4月5日時点で、尊長が還俗して十津川の人間の婿となり暮らしていた、尊長の潜伏と反乱計画の拠点。
- 阿波国 現在の徳島県。土御門上皇の流刑地。西暦1227年2月、尊長が熊野の武具を奪って渡ろうとした地。土御門上皇の行宮は現在の徳島県阿波市土成町吉田御所屋敷に所在、5月2日には逆徒30隻の襲撃の誤報が流れた、尊長の復讐計画の最終目標地。
- 肥後房の屋敷 京都の肥後房の居所。西暦1227年7月、尊長が大友親秀の後見の肥後房に匿われていた地。7月20日に和田朝盛の捕縛失敗の舞台、7月21日早朝、伯耆房の酒宴の後、六波羅探題被官・北条時氏近習・菅周則・小笠原長経達に襲撃された、本書の終結の舞台。
- 神泉苑 現在の京都府京都市中京区門前町。西暦1227年7月21日、六波羅探題被官・北条時氏近習・菅周則・小笠原長経達が避暑の名目で甲冑を持って馬車4輌で向かい、肥後房の屋敷襲撃の為の待機場所とした地。
- 円明寺 現在の京都府乙訓郡大山崎町。西暦1227年7月22日、遺言通りに尊長が葬られた地。菅周則は土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破って埋葬した、本書の終着点。
主要な事件・出来事
- 専修念仏停止と法然の弟子4名死罪 西暦1207年3月、女房の一部が出家した事や男性を自分の不在中に仙洞御所内に泊めた事を知った後鳥羽上皇が激怒し、専修念仏の停止を決定した。加えて、尊長の裁断により、法然の弟子西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房の4名が死罪となり、住蓮房は近江国馬淵、安楽房は六条河原にて処刑された、本書冒頭の尊長の権勢の確立。
- 尊長の羽黒山総長吏任命 西暦1221年1月6日、後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行尊長が、出羽国羽黒山総長吏に任命された、尊長の宗教的権威の頂点。
- 後鳥羽上皇の比叡山御幸 西暦1221年6月29日、後鳥羽上皇が土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王・女院・女房と共に比叡山に御幸した。後鳥羽上皇は直衣・腹巻・日照り笠、土御門・順徳両上皇は布衣、雅成・頼仁両親王は直垂を着用、道中、尊長の押小路河原の屋敷にて防戦策を評議、夕方に仲恭天皇・尊長・久我通光・二条定輔・藤原親兼・藤原信成が加わり、尊長達は甲冑を纏った。後鳥羽上皇・仲恭天皇は梶井御所に、雅成親王・頼仁親王は日吉大社東本宮境内に宿泊、後鳥羽上皇は延暦寺の僧兵に援軍を要請した、承久の乱における朝廷側の最後の結集。
- 東寺の戦い 西暦1221年7月6日、三浦義村率いる鎌倉幕府軍が東寺に入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔率いる30騎の朝廷軍が迎え撃った。最初に名乗りを上げた渡辺翔は10騎余りを討ち取られて大江山へ退却、山田重忠は15騎を討ち取るも般若寺へ落ち延び自害、承久の乱の京都決戦。
- 三浦胤義の自害 西暦1221年7月6日、三浦胤義が兄義村に襲い掛かり「鎌倉幕府に仕えて世渡りする筈だったが、兄上を恨み、悔しさの余り京都へ上り、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こした。味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てるも、義村は「愚か者の相手をするのは無意味だ」と退いた。胤義は最早此れ迄と、幼子に一目会おうと太秦へ向かうが鎌倉幕府軍に包囲され、8時、三浦胤連・三浦兼義の2名の息子と共に木嶋にて自害した、本書の兄弟悲劇。
- 後鳥羽上皇の勅使 西暦1221年7月6日8時、後鳥羽上皇の勅使が北条泰時・三浦義村の下へやって来て「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く謀臣が行ったものである」「北条泰時追討の宣旨の撤回」「京都での略奪禁止」「全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す」を伝え、皇室の存続を図った、承久の乱の政治的決着。
- 北条泰時・北条時房の六波羅入りと尊長の逃亡 西暦1221年7月6日10時、北条泰時・北条時房率いる軍が其々六波羅に入った。藤原秀康・小野盛綱・尊長は逃亡した。夕方、朝廷軍の宿舎に火が放たれ、京都の民衆は胤義の死を惜しんだ。鎌倉幕府軍は残存兵を探し出し、首を刎ね、馬も殺害、歩くのが困難になる程死体が市中に散乱した、承久の乱の軍事的終結と尊長の復讐劇の開始。
- 尊長の京都潜伏 西暦1224年、熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長が京都に潜伏し始め、和田朝盛・其の従兄弟で山僧の伯耆房と知己を得た。後の裏切り者となる2人との出会い。
- 尊長の阿波国計画 西暦1227年2月、尊長が黒太郎と共に十津川8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとした。尊長の最大規模の復讐計画。
- 黒太郎の弟による密告と熊野三山の警備 西暦1227年2月15日、黒太郎の弟が熊野の神威を恐れ、尊長と黒太郎が武具を奪おうとしている事を熊野に密告した。此れにより熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社が警備を固め、尊長の阿波国計画は頓挫の方向に向かった。
- 尊長の還俗発覚 西暦1227年4月5日、藤原定家が、尊長が還俗し烏帽子を被って髷を結い、十津川の人間の婿となって暮らしている事を耳にした。此の頃、尊長が第14代石山寺座主長厳や其の弟子の協力を得て熊野を掌握し阿波国へ渡ろうとしているとの噂が流れていた、尊長の潜伏生活の実態の発覚。
- 阿波国逆徒襲撃の誤認 西暦1227年5月2日、「逆徒が30隻を率いて阿波国へ押し寄せ、守護代と合戦となった。土御門上皇の行宮前まで攻め込んだが、守護代を負傷させて撃退した為、阿波国守護小笠原長経が下向した」との噂が流れたが、海人が夜釣りの為に漁火を焚いていたものを敵の襲撃と誤認したものであった、尊長への過剰な警戒を示す事件。
- 熊野太郎への書簡 西暦1227年5月14日、阿波国の熊野太郎に尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」との書簡が届いた。熊野太郎は恐れをなして守護所に伝え、国中が大騒ぎとなった、尊長の阿波国掌握計画の最後の試み。
- 肥後房屋敷での尊長発見 西暦1227年7月、尊長が第2代大友氏当主大友親秀が後見の肥後房の屋敷に匿われている事が判明した、尊長の潜伏先の露見。
- 北条泰時の捕縛指示と和田朝盛の裏切り 西暦1227年7月19日、北条泰時の尊長捕縛を指示する書簡が六波羅探題に届いた。和田朝盛が、鎌倉幕府から赦免を得る為に、尊長を裏切って北条泰時に通報していた事がその背景にあった、本書の最大の裏切りの表面化。
- 和田朝盛の捕縛失敗 西暦1227年7月20日、肥後房の屋敷にて和田朝盛が尊長の捕縛を試みるも失敗した、伯耆房による二次作戦の前触れ。
- 伯耆房の誘き出しと尊長襲撃 西暦1227年7月21日早朝、伯耆房が肥後房の屋敷に赴き尊長との酒宴を張り、事前の取り決め通り六波羅探題被官・北条時氏近習・菅周則・小笠原長経達が避暑の名目で甲冑を持って馬車4輌で神泉苑へ向かっていた。伯耆房は「六波羅の武士が大勢集まっている様です。様子を見て帰って来ましょう」と言って門を出て合図を送り逃げ去ると、六波羅探題達は肥後房の屋敷を襲撃、尊長は剣で応戦し勇士2名を負傷させた、本書の題名を成す最後の襲撃。
- 尊長の自殺と「伊賀の方」発言 西暦1227年7月21日、尊長は肥後房の屋敷で六波羅で見掛けた人物が居る事に気付き、誰か尋ね、北条時氏・北条時盛であると回答された。尊長は自殺を図ったが即死せず、「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と発言し周囲の者を驚かせた。菅周則の屋敷に送られ、氷を所望して食べ、「私の体は必ず円明寺に埋めてくれ。河原に晒すな」と遺言した、本書最大の謎を孕む言葉。
- 尊長の死 西暦1227年7月22日8時、尊長が帷子を改めて手を洗い、阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え、座した儘死去した。立ち会った者達は極楽往生を口々に讃え、死臭はしなかった。菅周則は土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破り、尊長の遺言通り円明寺に葬った、本書の終結点。
- 藤原定家の詳細聴取と和田朝盛捕縛 西暦1227年7月22日、医僧心寂房が菅周則の下を訪れ尊長の捕縛について話を聞き、7月25日に藤原定家が掛かり付け医の心寂房から詳細を聞いた。7月28日、六波羅探題の伝令が鎌倉に到着し報告、同日和田朝盛が捕縛された、本書の余燼と最後の裏切り者の転落。