電子書籍「承久の乱で朝廷軍に味方した法勝寺執行尊長の復讐劇一元化」の表紙

承久の乱で朝廷軍に味方した
法勝寺執行尊長の復讐劇一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,207年3月頃〜1,227年7月28日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
7ページ
最新更新日
西暦2,026年8月9日

西暦1,221年、東寺で敗れた男は六年の間、消えなかった──
法勝寺執行尊長の二十年四箇月を一元化。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,207年3月頃、後鳥羽上皇が激怒した。女房の一部が出家した事、そして男性を自分の不在中に仙洞御所内に泊めた事を知ったからである。上皇は専修念仏の停止を決定し、加えて一人の僧の裁断により、法然の弟子4名——西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房——が死罪となった。住蓮房は近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)で、安楽房は六条河原で処刑されている。裁断を下したのが、後鳥羽上皇の側近であった第7代法勝寺執行尊長であった。本書は、此の死罪を起点として、尊長が承久の乱の敗北を経て鎌倉幕府へ挑み続け、遂に果てるまでの二十年四箇月を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,221年1月6日、尊長は出羽国羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)総長吏に任命される。宗教的権威の頂点である。同年6月29日、後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王・女院・女房を伴って比叡山へ御幸した。女院と女房は牛車、他は騎馬。後鳥羽上皇は直衣・腹巻・日照り笠、両上皇は布衣、両親王は直垂を身に着けていた。道中で一行が防戦策を評議したのは、尊長の押小路河原(現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い)の屋敷である。夕方には仲恭天皇・尊長・久我通光・二条定輔・藤原親兼・藤原信成が加わり、天皇は女房輿、尊長以下は甲冑を身に纏って比叡山へ向かった。後鳥羽上皇は延暦寺の僧兵に援軍を要請する。上皇と天皇は梶井御所(現在の京都府京都市左京区の一乗寺・修学院地域)に、両親王は日吉大社(現在の滋賀県大津市坂本)の東本宮境内に宿泊した。

7月6日、三浦義村率いる軍が東寺に入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔率いる30騎が迎え撃つ。最初に名乗りを上げた渡辺は奮戦したが10騎余りを討ち取られ、他の者も逃亡した為、大江山(現在の京都府与謝郡与謝野町・福知山市・宮津市)へ退いた。山田重忠は15騎を討ち取る戦果を挙げながら、味方に多数の負傷者が出た事から般若寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町)へ落ち延び、其処で自害する。胤義は兄義村を見つけると襲い掛かり、「本来なら、鎌倉幕府に仕えて世渡りする筈だったが、兄上を恨み、悔しさの余り京都へ上り、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こした。味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てた。義村の返答は「愚か者の相手をするのは無意味だ」であった。胤義は幼子に一目会おうと太秦へ向かうが包囲され、8時、長男胤連・弐男兼義と共に木嶋(現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社)で自害する。郎従が持ち帰ろうとした其の首級は、兄義村が奪って北条泰時の下へ持参した。

同じ8時、後鳥羽上皇の勅使が泰時・義村の下へ来て四箇条を伝えた。今回の合戦は上皇の意思では無く謀臣が行ったものである事、北条泰時追討の宣旨の撤回、京都での略奪禁止、そして全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す事。第一条を主張する事で、後鳥羽上皇は皇室の存続を図ったのである。10時、北条泰時・北条時房率いる軍が其々六波羅に入り、藤原秀康・小野盛綱・尊長の3名は逃亡した。夕方、朝廷軍の宿舎に火が放たれる。京都の民衆は其れを不安そうに見つめ、又胤義の死を惜しんだ。鎌倉幕府軍は残存兵を探し出して首を刎ね、馬も殺害した。歩くのが困難になる程、死体が市中に散乱したという。

尊長は消えなかった。西暦1,224年頃、熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長は京都に潜伏し始め、和田朝盛と、其の従兄弟で山僧の伯耆房と知己を得る。西暦1,227年2月頃、尊長は黒太郎と共に十津川(現在の奈良県吉野郡)8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとした。しかし2月15日、黒太郎の弟が熊野の神威を恐れて密告し、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社は警備を固める。4月5日、藤原定家は、尊長が還俗して烏帽子を被り髷を結い、十津川の人間の婿となって暮らしていると耳にした。此の頃には、第14代石山寺座主長厳や其の弟子の協力を得て熊野を掌握し阿波国へ渡ろうとしているとの噂も流れている。5月2日には「逆徒が30隻を率いて阿波国へ押し寄せた」という噂まで立ったが、之は海人が夜釣りの為に焚いた漁火を敵の襲撃と誤認したものであった。5月14日、阿波国の熊野太郎の下に尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」という書簡が届き、国中が大騒ぎとなる。

西暦1,227年7月頃、尊長が第2代大友氏当主大友親秀の後見する肥後房の屋敷に匿われている事が判明した。7月19日、北条泰時の捕縛を指示する書簡が六波羅探題に届く。背後に在ったのは、鎌倉幕府から赦免を得る為に尊長を裏切って通報していた和田朝盛であった。7月20日頃、和田は肥後房の屋敷で自ら捕縛を試みるが失敗する。翌21日早朝、今度は伯耆房が屋敷を訪れて尊長と酒宴を張った。門を出る時に乱入する様、六波羅探題被官・北条時氏の近習・菅周則・小笠原長経と取り決めた上での事である。彼らは避暑の名目で甲冑を持ち、馬車4輌で神泉苑(現在の京都府京都市中京区門前町)へ向かっていた。伯耆房は「六波羅の武士が大勢集まっている様です。様子を見て帰って来ましょう」と言って門を出ると、軍勢へ合図を送って逃げ去る。屋敷は襲撃された。

尊長は剣で応戦し、勇士2名を負傷させた。其の上で、六波羅で見掛けた人物が居る事に気付き、誰かと尋ねる。北条時氏・北条時盛である、と答えが返った。尊長は自殺を図る。しかし即死しなかった。そして言った——「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」。周囲の者は驚いた。鴨川の西の菅の屋敷へ送られた尊長に、六波羅探題の使者が尋問する。手柄を争う菅と小笠原のどちらが先に入ったかを問われると「只今死のうとしているのに、どうして人の味方をして虚言を言おうか。奇妙な事だ」と答え、和田朝盛の言う京都の親しい者については「そんな奴は居ない」と退けた。氷を所望して無いと断られると「六波羅探題の者がどうして氷を手に入れられないのか。不甲斐無い奴等め」と辱め、使者達は氷を求め得て与えた。尊長は氷を食べ、菅に「私の体は必ず円明寺(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に埋めてくれ。河原に晒すな」と遺言する。7月22日8時、帷子を改めて手を洗い、阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え、座した儘死去した。立ち会った者達は極楽往生を口々に讃え、死臭はしなかったという。菅周則は、土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破って、遺言通り円明寺に葬った。周囲は首を取るか相談していたが、菅は取らなかった。同日、医僧心寂房が菅の下を訪れて捕縛の顛末を聞き、25日、藤原定家が掛かり付け医の心寂房から詳細を聞く。28日、六波羅探題の伝令が鎌倉へ到着して報告し、同じ日、和田朝盛が捕縛された。


登場人物

  • 法勝寺執行尊長 本書の中心人物。後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行。西暦1,207年3月頃、自身の裁断により法然の弟子4名を死罪とした。西暦1,221年1月6日に出羽国羽黒山総長吏へ任命され、6月29日の比叡山御幸では自邸で防戦策の評議の場を提供し、甲冑を纏って一行に加わった。7月6日の東寺の敗北後は逃亡し、熊野・洛中・鎮西を転々として反乱を模索する。西暦1,227年7月21日、肥後房の屋敷で伯耆房の裏切りにより襲撃され、剣で応戦した末に自殺を図るも即死せず、「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」と言い遺した。翌22日8時、念仏を唱えながら座した儘死去した。
  • 後鳥羽上皇 尊長の主君。西暦1,207年3月頃、女房の出家や男性を仙洞御所内に泊めた事を知って激怒し、専修念仏の停止を決定した。西暦1,221年6月29日、直衣・腹巻・日照り笠を着けて比叡山へ御幸し、延暦寺の僧兵に援軍を要請する。7月6日8時、東寺の敗北を受けて「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く、謀臣が行ったものである」等を伝える勅使を北条泰時・三浦義村の下へ遣わし、皇室の存続を図った。
  • 土御門上皇 後鳥羽上皇の皇子。西暦1,221年6月29日の比叡山御幸に布衣を着けて騎馬で同行した。西暦1,227年5月2日には、阿波国の行宮(現在の徳島県阿波市土成町吉田御所屋敷)の前まで逆徒が攻め込んだという噂が流れており、尊長の阿波国渡海計画が向けられた先でもある。
  • 順徳上皇 後鳥羽上皇の皇子。西暦1,221年6月29日の比叡山御幸に、布衣を着けて騎馬で同行した。
  • 仲恭天皇 西暦1,221年6月29日夕方、尊長の押小路河原の屋敷での評議の後に一行へ加わり、女房輿で比叡山へ向かった。後鳥羽上皇と共に梶井御所へ宿泊している。
  • 雅成親王 西暦1,221年6月29日の比叡山御幸に直垂を着けて騎馬で同行し、頼仁親王と共に日吉大社の東本宮境内(十禅師)へ宿泊した。
  • 頼仁親王 西暦1,221年6月29日の比叡山御幸に直垂を着けて騎馬で同行し、雅成親王と共に日吉大社の東本宮境内(十禅師)へ宿泊した。
  • 三浦胤義 三浦義村の弟。和田義盛の甥。後鳥羽上皇に仕えて朝廷側で戦った。西暦1,221年7月6日の東寺の戦いで兄義村と遭遇し、「叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てる。8時、幼子に一目会おうと向かった太秦で鎌倉幕府軍に包囲され、長男三浦胤連・弐男三浦兼義と共に木嶋で自害した。其の首級は兄義村が奪って北条泰時の下へ持参し、京都の民衆は胤義の死を惜しんだという。
  • 三浦義村 鎌倉幕府の御家人。三浦胤義の兄。西暦1,221年7月6日、率いる軍が東寺に入って朝廷軍と戦い、弟胤義の詰問には「愚か者の相手をするのは無意味だ」と応じて退いた。胤義の郎従が太秦の屋敷へ持ち帰ろうとした首級を奪い、北条泰時の下へ持参している。
  • 山田重忠 朝廷軍の武将。西暦1,221年7月6日、三浦胤義・渡辺翔と共に30騎を率いて東寺で迎え撃ち、15騎を討ち取る戦果を挙げた。しかし味方に多数の負傷者が出た事から般若寺へ落ち延び、其処で自害した。
  • 渡辺翔 朝廷軍の武将。西暦1,221年7月6日の東寺の戦いで最初に名乗りを上げ奮戦したが、10騎余りを討ち取られ他の者も逃亡した為に退却し、大江山へと向かった。
  • 藤原秀康 西暦1,221年7月6日10時、北条泰時・北条時房率いる軍が六波羅に入ると、小野盛綱・尊長と共に逃亡した。
  • 小野盛綱 西暦1,221年7月6日10時、鎌倉幕府軍の六波羅入りを受けて、藤原秀康・尊長と共に逃亡した。
  • 北条泰時 北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権。西暦1,221年7月6日8時、後鳥羽上皇の勅使を受け、10時には北条時房と共に六波羅へ入った。西暦1,227年7月19日、尊長の捕縛を指示する書簡が六波羅探題へ届いている。
  • 北条時房 北条義時の弟。西暦1,221年7月6日10時、北条泰時と共に軍を率いて六波羅へ入った。
  • 北条時氏 北条泰時の息子。西暦1,227年7月21日の肥後房の屋敷襲撃に近習を加えた。尊長が六波羅で見掛けた人物として気付き、誰かと尋ねた相手の一人でもある。
  • 北条時盛 西暦1,227年7月21日、肥後房の屋敷を襲撃した側に在り、尊長が六波羅で見掛けた人物として名を挙げられた。尊長が自殺を図るのは、北条時氏と此の人物の名を聞いた直後である。
  • 和田朝盛 西暦1,224年頃、京都に潜伏した尊長と知己を得た。しかし鎌倉幕府から赦免を得る為に尊長を裏切って北条泰時へ通報しており、西暦1,227年7月19日の捕縛指示はこれを背景とする。7月20日頃、肥後房の屋敷で自ら捕縛を試みたが失敗した。7月28日、捕縛される。
  • 伯耆房 和田朝盛の従兄弟。山僧。西暦1,224年頃から尊長と知己を得ていた。西暦1,227年7月21日早朝、肥後房の屋敷に赴いて尊長と酒宴を張り、「六波羅の武士が大勢集まっている様です。様子を見て帰って来ましょう」と言って門を出ると、取り決め通り神泉苑の軍勢へ合図を送って逃げ去った。
  • 大友親秀 第2代大友氏当主。西暦1,227年7月頃、其の後見する肥後房の屋敷に尊長が匿われている事が判明した。
  • 肥後房 大友親秀が後見する僧。西暦1,227年7月頃、其の屋敷に尊長を匿っている事が判明した。7月20日頃の和田朝盛の捕縛失敗、翌21日の襲撃と、尊長の最期の舞台となった屋敷の主。
  • 菅周則 西暦1,227年7月21日、六波羅探題被官・北条時氏の近習・小笠原長経と共に肥後房の屋敷を襲撃し、自殺を図った尊長を馬車で鴨川の西の自邸へ送った。小笠原長経とは手下のどちらが先に入ったかを争っている。尊長から「私の体は必ず円明寺に埋めてくれ。河原に晒すな」と遺言を託され、土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破って其の通りに葬った。首を取るかの相談にも応じず、取らなかった。
  • 小笠原長経 阿波国守護。西暦1,227年5月2日の逆徒襲撃の噂に際して阿波国へ下向したと伝えられた。7月21日には六波羅探題被官・北条時氏の近習・菅周則と共に肥後房の屋敷襲撃に加わり、菅と手柄を争った。
  • 藤原定家 朝廷の歌人。西暦1,227年4月5日、尊長が還俗して烏帽子を被り髷を結い、十津川の人間の婿となって暮らしている事を耳にした。7月21日には下人から尊長捕縛を聞き、25日には掛かり付け医の心寂房からより詳細な話を聞いている。
  • 黒太郎 尊長の協力者。西暦1,227年2月頃、尊長と共に十津川8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとした。2月15日、其の弟が熊野の神威を恐れて密告した事により計画は露見する。
  • 熊野太郎 阿波国の人物。西暦1,227年5月14日、尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」という主旨の書簡を受け取った。恐れをなして守護所に伝えた為、国中が大騒ぎとなった。
  • 長厳 第14代石山寺座主。西暦1,227年4月頃、尊長が此の人物や其の弟子の協力を得て熊野を掌握し、阿波国へ渡ろうとしているとの噂が流れていた。
  • 心寂房 医僧。藤原定家の掛かり付け医。西暦1,227年7月22日に菅周則の下を訪れて尊長の捕縛について話を聞き、25日、其の詳細を藤原定家へ伝えた。
  • 住蓮房 法然の弟子。西暦1,207年3月頃、尊長の裁断により死罪となり、近江国馬淵にて処刑された。
  • 安楽房 法然の弟子。西暦1,207年3月頃、尊長の裁断により死罪となり、六条河原にて処刑された。

主要な地名・拠点

  • 仙洞御所 後鳥羽上皇の御所。西暦1,207年3月頃、女房の一部が出家した事と、男性が上皇の不在中に此処へ泊められた事が発覚し、上皇の激怒と専修念仏の停止を招いた。本書の起点となる場所。
  • 近江国馬淵 現在の滋賀県近江八幡市。西暦1,207年3月頃、尊長の裁断により死罪となった法然の弟子住蓮房が処刑された地。
  • 六条河原 京都の刑場。西暦1,207年3月頃、尊長の裁断により死罪となった法然の弟子安楽房が処刑された地。
  • 羽黒山 現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山。西暦1,221年1月6日、尊長が総長吏に任命された地。承久の乱の半年前に得た、尊長の宗教的権威の頂点を示す。
  • 押小路河原の尊長の屋敷 現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い。西暦1,221年6月29日、比叡山へ御幸する後鳥羽上皇一行が道中に立ち寄り、防戦策を評議した尊長の京都屋敷。
  • 比叡山 延暦寺の所在地。西暦1,221年6月29日、後鳥羽上皇が両上皇・両親王・女院・女房を伴って御幸し、夕方には仲恭天皇や甲冑姿の尊長らが加わった。上皇が延暦寺の僧兵に援軍を要請した地でもある。
  • 梶井御所 現在の京都府京都市左京区の一乗寺・修学院地域。西暦1,221年6月29日、比叡山御幸に際して後鳥羽上皇と仲恭天皇が宿泊した地。
  • 日吉大社 現在の滋賀県大津市坂本。西暦1,221年6月29日、比叡山御幸に際して雅成親王・頼仁親王が東本宮境内(十禅師)に宿泊した地。
  • 東寺 京都の寺院。西暦1,221年7月6日、三浦義村率いる軍が入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔率いる30騎の朝廷軍が迎え撃った地。尊長が逃亡者となる転機。
  • 大江山 現在の京都府与謝郡与謝野町・福知山市・宮津市。西暦1,221年7月6日、東寺の戦いで10騎余りを討ち取られた渡辺翔が退却した先。
  • 般若寺 現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町。西暦1,221年7月6日、15騎を討ち取りながら味方に多数の負傷者を出した山田重忠が落ち延び、自害した地。
  • 太秦 現在の京都府京都市右京区。三浦胤義の屋敷が在った地。西暦1,221年7月6日、幼子に一目会おうと向かった胤義は、此処で鎌倉幕府軍に包囲された。郎従が胤義の首級を持ち帰ろうとしたのも此の屋敷である。
  • 木嶋 現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社。西暦1,221年7月6日8時、三浦胤義が長男胤連・弐男兼義と共に自害した地。
  • 六波羅 京都に於ける鎌倉幕府の拠点。西暦1,221年7月6日10時、北条泰時・北条時房率いる軍が入り、尊長ら3名が逃亡した。承久の乱の後は六波羅探題が置かれ、西暦1,227年の尊長捕縛の指揮所ともなる。
  • 十津川 現在の奈良県吉野郡。西暦1,227年2月頃、尊長が黒太郎と共に8郷の内5郷を味方に引き入れた地。4月5日の時点では、尊長が還俗して此処の人間の婿となり暮らしていると伝えられていた。
  • 熊野三山 熊野本宮大社(現在の和歌山県田辺市本宮町本宮)・熊野速玉大社(現在の和歌山県新宮市新宮)・熊野那智大社(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)。西暦1,227年2月15日、黒太郎の弟の密告を受けて警備を固め、尊長の武具強奪の企てを阻んだ。
  • 阿波国 現在の徳島県。土御門上皇の行宮(現在の徳島県阿波市土成町吉田御所屋敷)が置かれた国であり、西暦1,227年2月頃に尊長が渡ろうとした目的地。5月2日には逆徒30隻の襲撃という噂が流れたが、漁火の誤認であった。
  • 肥後房の屋敷 大友親秀が後見する肥後房の京都の居所。西暦1,227年7月頃に尊長の潜伏先として判明し、7月20日頃には和田朝盛の捕縛が失敗、翌21日早朝、伯耆房の酒宴の後に六波羅探題被官らの襲撃を受けた。本書の終幕の舞台。
  • 神泉苑 現在の京都府京都市中京区門前町。西暦1,227年7月21日、六波羅探題被官・北条時氏の近習・菅周則・小笠原長経らが避暑の名目で甲冑を持ち、馬車4輌で向かって待機した地。伯耆房の合図は此処の軍勢へ送られた。
  • 菅周則の屋敷 鴨川の西に在った菅周則の居所。西暦1,227年7月21日、自殺を図って即死しなかった尊長が馬車で送られた地。六波羅探題の使者の尋問を受け、氷を所望し、円明寺への埋葬を遺言した末、翌22日8時に此処で死去した。
  • 円明寺 現在の京都府乙訓郡大山崎町。「私の体は必ず円明寺に埋めてくれ。河原に晒すな」という尊長の遺言の通り、西暦1,227年7月22日に葬られた地。菅周則は土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破って之を行った。本書の終着点。

主要な事件・出来事

  • 専修念仏の停止と法然の弟子4名の死罪 西暦1,207年3月頃、女房の一部が出家した事や、男性を自分の不在中に仙洞御所内に泊めた事を知った後鳥羽上皇が激怒し、専修念仏の停止を決定した。加えて尊長の裁断により、法然の弟子西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房の4名が死罪となり、住蓮房は近江国馬淵、安楽房は六条河原で処刑された。本書の起点。
  • 尊長の羽黒山総長吏任命 西暦1,221年1月6日、後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行であった尊長が、出羽国羽黒山総長吏に任命された。承久の乱の半年前に当たる。
  • 後鳥羽上皇の比叡山御幸 西暦1,221年6月29日、後鳥羽上皇が土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王・女院・女房と共に比叡山へ御幸した。女院・女房は牛車、他は騎馬。道中、尊長の押小路河原の屋敷で防戦策を評議し、夕方には仲恭天皇・尊長・久我通光・二条定輔・藤原親兼・藤原信成が加わって甲冑を纏う。上皇は延暦寺の僧兵に援軍を要請し、上皇と天皇は梶井御所、両親王は日吉大社東本宮境内に宿泊した。
  • 東寺の戦い 西暦1,221年7月6日、三浦義村率いる軍が東寺に入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔率いる30騎が迎え撃った。最初に名乗りを上げた渡辺翔は10騎余りを討ち取られて大江山へ退き、山田重忠は15騎を討ち取りながらも般若寺へ落ち延びて自害した。
  • 三浦兄弟の対峙と胤義の自害 西暦1,221年7月6日、三浦胤義が兄義村に襲い掛かり「味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てた。義村は「愚か者の相手をするのは無意味だ」と退く。胤義は幼子に一目会おうと太秦へ向かうが包囲され、8時、長男胤連・弐男兼義と共に木嶋で自害した。其の首級は義村が奪い、北条泰時の下へ持参した。
  • 後鳥羽上皇の勅使 西暦1,221年7月6日8時、後鳥羽上皇の勅使が北条泰時・三浦義村の下へ来て、今回の合戦は上皇の意思では無く謀臣が行ったものである事、北条泰時追討の宣旨の撤回、京都での略奪禁止、全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す事の四箇条を伝えた。上皇は第一条を主張する事で皇室の存続を図った。
  • 六波羅入りと尊長の逃亡 西暦1,221年7月6日10時、北条泰時・北条時房率いる軍が其々六波羅に入り、藤原秀康・小野盛綱・尊長は逃亡した。夕方には朝廷軍の宿舎に火が放たれ、鎌倉幕府軍は残存兵を探し出して首を刎ね、馬も殺害した。歩くのが困難になる程、死体が市中に散乱したという。尊長の逃亡生活の始まり。
  • 尊長の京都潜伏 西暦1,224年頃、熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長が京都に潜伏し始め、和田朝盛と、其の従兄弟で山僧の伯耆房と知己を得た。後に尊長を裏切る二人との出会いである。
  • 十津川の調略と阿波国渡海の企て 西暦1,227年2月頃、尊長が黒太郎と共に十津川8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとした。承久の乱から六年を経ての、尊長の最大規模の企て。
  • 黒太郎の弟の密告と熊野三山の警備 西暦1,227年2月15日、黒太郎の弟が熊野の神威を恐れ、尊長と黒太郎が武具を奪おうとしている事を熊野に密告した。此れにより熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社が警備を固めた。
  • 尊長の還俗と熊野掌握の噂 西暦1,227年4月5日、藤原定家が、尊長が還俗し、烏帽子を被って髷を結い、十津川の人間の婿となって暮らしている事を耳にした。此の頃、尊長が第14代石山寺座主長厳や其の弟子の協力を得て熊野を掌握し、阿波国へ渡ろうとしているとの噂が流れていた。
  • 阿波国の逆徒襲撃という誤報 西暦1,227年5月2日、「逆徒が30隻を率いて阿波国へ押し寄せ、守護代と合戦となった。土御門上皇の行宮の前まで攻め込んだが、守護代を負傷させて撃退した為、阿波国守護となっていた小笠原長経が下向した」との噂が流れた。其の後、海人が夜釣りの為に焚いていた漁火を敵の襲撃と誤認したものと判明する。
  • 熊野太郎への書簡 西暦1,227年5月14日、阿波国の熊野太郎の下に尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」という主旨の書簡が届いた。熊野太郎は恐れをなして守護所に伝え、国中が大騒ぎとなった。
  • 潜伏先の露見と和田朝盛の裏切り 西暦1,227年7月頃、尊長が第2代大友氏当主大友親秀の後見する肥後房の屋敷に匿われている事が判明した。7月19日、北条泰時の尊長捕縛を指示する書簡が六波羅探題に届く。背景には、鎌倉幕府から赦免を得る為に尊長を裏切って北条泰時へ通報していた和田朝盛が在った。
  • 和田朝盛の捕縛失敗 西暦1,227年7月20日頃、肥後房の屋敷にて和田朝盛が尊長の捕縛を試みたが、失敗に終わった。翌日の伯耆房による誘き出しへと繋がる。
  • 伯耆房の誘き出しと肥後房の屋敷襲撃 西暦1,227年7月21日早朝、伯耆房が肥後房の屋敷に赴き尊長と酒宴を張った。六波羅探題被官・北条時氏の近習・菅周則・小笠原長経らは避暑の名目で甲冑を持ち馬車4輌で神泉苑へ向かっており、伯耆房は「六波羅の武士が大勢集まっている様です。様子を見て帰って来ましょう」と言って門を出ると合図を送って逃げ去った。屋敷は襲撃され、尊長は剣で応戦して勇士2名を負傷させた。
  • 尊長の自殺未遂と「伊賀の方」の言葉 西暦1,227年7月21日、尊長は六波羅で見掛けた人物が居る事に気付いて誰かと尋ね、北条時氏・北条時盛であると答えられた。尊長は自殺を図ったが即死せず、「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」という主旨の発言をし、周囲の者は驚いた。
  • 菅周則の屋敷での尋問と遺言 西暦1,227年7月21日、馬車で鴨川の西の菅周則の屋敷へ送られた尊長は、手柄を争う菅と小笠原のどちらが先に入ったかを問われ「只今死のうとしているのに、どうして人の味方をして虚言を言おうか」と答えた。和田朝盛の言う京都の親しい者についても「そんな奴は居ない」と退ける。氷を所望して断られると六波羅探題の者を辱め、求め得た氷を食べた上で、円明寺への埋葬を遺言した。
  • 尊長の死と円明寺への埋葬 西暦1,227年7月22日8時、尊長が帷子を改めて手を洗い、阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え、座した儘死去した。立ち会った者達は極楽往生を口々に讃え、死臭はしなかったという。菅周則は土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破り、遺言通り円明寺に葬った。首を取るかの相談も有ったが、菅は取らなかった。
  • 顛末の伝播と和田朝盛の捕縛 西暦1,227年7月22日、医僧心寂房が菅周則の下を訪れて尊長の捕縛について話を聞き、25日、藤原定家が掛かり付け医の心寂房からより詳細な話を聞いた。28日、六波羅探題の伝令が鎌倉に到着して報告し、同じ日、尊長を裏切った和田朝盛が捕縛された。本書の終着点。

東寺の敗走、十津川の調略、肥後房の屋敷の襲撃──
法勝寺執行尊長が果てるまでの全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。