承久の乱で朝廷軍に味方した
法勝寺執行尊長の復讐劇一元化
承久の乱に敗れても、男は鎌倉幕府を狙い続けた──
法勝寺執行尊長の復讐劇を一元化。
172円(税込)
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本書について
西暦1,207年3月頃、女房の一部が出家し、自分の不在中に男性が仙洞御所に泊められた事を知って激怒した後鳥羽上皇は、専修念仏の停止を決めた。尊長の裁断により、西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房の法然の弟子4名が死罪となる。1,221年1月6日、上皇の側近で第7代法勝寺執行の尊長は、出羽国羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)の総長吏に任ぜられた。本書は、此の念仏の停止から、1,227年7月28日に尊長を売った和田朝盛が捕らえられる迄を一元化した記録である。
1,221年6月29日、後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王らと比叡山に御幸し、道中、押小路河原(現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い)の尊長の屋敷で防戦策を評議した。夕方には仲恭天皇や甲冑を纏った尊長らが加わり、上皇は延暦寺の僧兵に援軍を求める。7月6日、三浦義村の軍が東寺に入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔の30騎が迎え撃った。義村に襲い掛かった胤義は、兄上を頼りにしたのは間違いであったと言い捨て、幼子に会おうと太秦へ向かう途中で包囲されて、木嶋(現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社)で2人の息子と共に自害する。後鳥羽上皇は、合戦は謀臣が行ったものであると勅使に伝えさせて皇室の存続を図り、10時、北条泰時・北条時房の軍が六波羅に入った。藤原秀康・小野盛綱、そして尊長は逃亡する。
1,224年頃、熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長は京都に潜み始め、和田朝盛と、其の従兄弟で山僧の伯耆房と知り合う。1,227年2月頃、尊長は黒太郎と共に十津川(現在の奈良県吉野郡)8郷の内5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとしたが、熊野の神威を恐れた黒太郎の弟が密告し、熊野三山は警備を固めた。4月、藤原定家は、尊長が還俗して十津川の人間の婿となって暮らしている事を耳にする。此の頃には、尊長が石山寺座主の長厳や其の弟子の協力を得て熊野を掌握し、阿波国へ渡ろうとしているという噂も流れていた。5月、逆徒が阿波国に押し寄せたという噂は漁火の見間違いと分かったが、尊長一味から味方に付くかと問う書簡を受けた熊野太郎が守護所に伝え、阿波国中が大騒ぎとなった。
7月頃、尊長が大友親秀の後見する肥後房の屋敷に匿われている事が知れる。赦免を得る為に尊長を裏切った和田朝盛の通報で、19日、北条泰時の尊長捕縛の指示が六波羅探題に届き、20日頃、朝盛は捕縛を試みて失敗した。21日早朝、伯耆房は肥後房の屋敷で尊長と酒宴を張り、六波羅の武士の様子を見て来ると言って門を出ると、神泉苑(現在の京都府京都市中京区門前町)に待つ軍勢に合図を送って逃げ去る。北条時氏の近習や菅周則・小笠原長経らが屋敷を襲い、剣で応戦して2人を傷付けた尊長は、六波羅で見掛けた北条時氏・北条時盛の姿に気付くと自殺を図った。死に切れぬ尊長は、早く首を取れ、然もなくば伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せと言い放ち、周囲を驚かせた。
鴨川の西の菅の屋敷に送られた尊長は、六波羅探題の使者の尋問に、京都に親しくしている者など居ないと答え、所望した氷が無いと言われると、六波羅探題の者が氷も手に入れられないのかと辱めて氷を得た。菅には、自分の体は必ず円明寺(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に埋め、河原に晒すなと遺言する。22日8時、尊長は阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせて高声に念仏を唱え、座した儘息を引き取った。菅は、土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破り、首も取らずに、遺言通り円明寺に葬る。28日、六波羅探題の伝令が鎌倉に着き、同じ日、和田朝盛が捕らえられた——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 尊長 本書の中心人物。後鳥羽上皇の側近で、第7代法勝寺執行。法然の弟子4名を死罪に裁断し、羽黒山の総長吏に任ぜられた。承久の乱では比叡山へ向かう上皇に甲冑を纏って従い、六波羅入りの日に逃れた。十津川や熊野、阿波国での再起を探ったが、和田朝盛と伯耆房の裏切りで捕らえられ、菅周則の屋敷で念仏を唱えて息を引き取った。
- 後鳥羽上皇 専修念仏の停止を決めた。其の際、尊長の裁断で法然の弟子4名が死罪となった。承久の乱では比叡山に御幸して延暦寺の僧兵に援軍を求め、敗れると、合戦は謀臣が行ったものであると勅使に伝えさせた。
- 土御門上皇 比叡山への御幸に布衣で加わった。1,227年の噂では、阿波国に在った其の行宮の前まで逆徒が攻め込んだとされた。
- 仲恭天皇 比叡山への御幸に夕方から女房輿で加わり、後鳥羽上皇と共に梶井御所に泊まった。
- 三浦胤義 東寺で兄三浦義村の軍を迎え撃ち、義村に、兄上を頼りにしたのは間違いであったと言い捨てた。幼子に会おうと太秦へ向かう途中で包囲され、木嶋で2人の息子と共に自害した。
- 三浦義村 鎌倉幕府軍を率いて東寺に入った。弟胤義の言葉を相手にせずに退き、胤義の首級を郎従から奪って北条泰時の下へ届けた。
- 山田重忠 東寺で15騎を討ち取ったが、味方に多くの負傷者が出た為に般若寺へ落ち延び、自害した。
- 渡辺翔 東寺の戦いで最初に名乗りを上げたが、10騎余りを討たれて大江山へ退いた。
- 北条泰時 北条時房と共に六波羅に入った。1,227年には、尊長捕縛を指示する書簡を六波羅探題に送った。
- 北条時氏 其の近習が肥後房の屋敷の襲撃に加わった。尊長は六波羅で見掛けた人物が北条時氏・北条時盛であると告げられ、自殺を図った。
- 和田朝盛 京都に潜んだ尊長と知己を得たが、鎌倉幕府から赦免を得る為に北条泰時に通報した。肥後房の屋敷で捕縛を試みて失敗し、1,227年7月28日に捕らえられた。
- 伯耆房 和田朝盛の従兄弟で山僧。肥後房の屋敷で尊長と酒宴を張り、門を出て神泉苑の軍勢に合図を送り、逃げ去った。
- 肥後房 大友氏第2代当主大友親秀が後見する人物。其の屋敷に尊長が匿われていた。
- 菅周則 肥後房の屋敷の襲撃に加わり、捕らえた尊長を自らの屋敷に預かった。小笠原長経と手柄を争った。尊長の遺言を守り、慣例を破って円明寺に葬った。
- 小笠原長経 阿波国守護。逆徒襲来の噂では阿波国に下向したとされた。肥後房の屋敷の襲撃に加わり、菅周則と手柄を争った。
- 黒太郎 尊長と共に十津川の5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとした。
- 黒太郎の弟 熊野の神威を恐れ、尊長と黒太郎の企てを熊野に密告した。
- 熊野太郎 阿波国の人。尊長一味から、味方に付くか守護方に付くかを問う書簡を受け、恐れて守護所に伝えた。
- 藤原定家 尊長が還俗して十津川で暮らしているという噂を耳にした。捕縛の詳しい経緯を、掛かり付け医の心寂房から聞いた。
- 心寂房 医僧。菅周則から尊長の捕縛の話を聞き、藤原定家に伝えた。
- 長厳 第14代石山寺座主。尊長が長厳や其の弟子の協力を得て熊野を掌握しようとしているという噂が流れた。
- 住蓮房 法然の弟子。尊長の裁断で死罪となり、近江国馬淵で処刑された。
- 安楽房 法然の弟子。尊長の裁断で死罪となり、六条河原で処刑された。
主要な地名・拠点
- 仙洞御所 女房の一部の出家と、上皇の不在中に男性が泊められた事が、専修念仏の停止の切っ掛けとなった。
- 近江国馬淵 現在の滋賀県近江八幡市。法然の弟子住蓮房が処刑された地。
- 六条河原 法然の弟子安楽房が処刑された河原。
- 羽黒山 現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山。尊長が1,221年に総長吏に任ぜられた出羽国の山。
- 押小路河原の尊長の屋敷 現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い。比叡山へ向かう後鳥羽上皇一行が立ち寄り、防戦策を評議した。
- 梶井御所 現在の京都府京都市左京区の一乗寺・修学院地域。比叡山への御幸で、後鳥羽上皇と仲恭天皇が泊まった。
- 日吉大社 現在の滋賀県大津市坂本。比叡山への御幸で、雅成親王・頼仁親王が東本宮境内の十禅師に泊まった。
- 東寺 三浦義村の軍が入り、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔の30騎が迎え撃った。
- 般若寺 現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町。山田重忠が落ち延び、自害した寺。
- 木嶋 現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社。三浦胤義が2人の息子と共に自害した。
- 六波羅 承久の乱で北条泰時・北条時房の軍が入った。1,227年には六波羅探題が尊長の捕縛に当たった。
- 十津川 現在の奈良県吉野郡。尊長と黒太郎が8郷の内5郷を味方に引き入れた。尊長が還俗して十津川の人間の婿になったという噂も流れた。
- 熊野三山 熊野本宮大社(現在の和歌山県田辺市本宮町本宮)・熊野速玉大社(現在の和歌山県新宮市新宮)・熊野那智大社(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)。黒太郎の弟の密告を受けて警備を固めた。
- 阿波国 尊長が渡ろうとした国。逆徒が押し寄せたという噂は、漁火を見誤ったものだった。
- 肥後房の屋敷 尊長が匿われていた屋敷。伯耆房の合図で、六波羅探題の被官らに襲われた。
- 神泉苑 現在の京都府京都市中京区門前町。肥後房の屋敷を襲う軍勢が、避暑の名目で集まった。
- 菅周則の屋敷 鴨川の西に在った屋敷。捕らえられた尊長が送られ、六波羅探題の使者の尋問を受けた。
- 円明寺 現在の京都府乙訓郡大山崎町。尊長が遺言通り葬られた寺。
主要な事件・出来事
- 専修念仏の停止(1,207年3月頃) 激怒した後鳥羽上皇が専修念仏を止め、尊長の裁断で法然の弟子4名が死罪となる。
- 羽黒山総長吏(1,221年1月6日) 尊長が出羽国羽黒山の総長吏に任ぜられる。
- 比叡山への御幸(1,221年6月29日) 後鳥羽上皇が尊長の屋敷で防戦策を評議し、甲冑姿の尊長らと比叡山へ向かう。
- 東寺の戦い(1,221年7月6日) 三浦義村の軍を三浦胤義・山田重忠・渡辺翔が迎え撃ち、胤義と重忠が自害する。
- 六波羅入りと尊長の逃亡(1,221年7月6日) 北条泰時・北条時房の軍が六波羅に入り、藤原秀康・小野盛綱と尊長が逃亡する。
- 京都への潜伏(1,224年頃) 熊野・洛中・鎮西を転々とした尊長が京都に潜み、和田朝盛・伯耆房と知り合う。
- 十津川の調略(1,227年2月頃) 尊長が黒太郎と十津川の5郷を味方にし、熊野で武具を奪って阿波国へ渡ろうとする。
- 黒太郎の弟の密告(1,227年2月15日) 熊野の神威を恐れた黒太郎の弟の密告で、熊野三山が警備を固める。
- 還俗の噂(1,227年4月5日) 尊長が還俗して十津川の人間の婿となっているという噂を、藤原定家が耳にする。
- 阿波国の騒ぎ(1,227年5月2日〜14日) 逆徒襲来の噂は漁火の見誤りと分かるが、尊長一味の書簡で阿波国中が大騒ぎとなる。
- 捕縛の指示(1,227年7月19日) 北条泰時の尊長捕縛を指示する書簡が六波羅探題に届く。赦免を得ようとした和田朝盛が、尊長を裏切って通報していた。
- 捕縛の失敗(1,227年7月20日頃) 肥後房の屋敷で朝盛が尊長の捕縛を試みるが、失敗する。
- 肥後房の屋敷の襲撃(1,227年7月21日) 伯耆房の合図で軍勢が屋敷を襲い、尊長は自殺を図る。
- 菅周則の屋敷での尋問(1,227年7月21日) 尊長が京都に仲間は居ないと答え、円明寺に葬る様遺言する。
- 尊長の死(1,227年7月22日) 念仏を唱えて座した儘息を引き取り、遺言通り円明寺に葬られる。
- 和田朝盛の捕縛(1,227年7月28日) 六波羅探題の伝令が鎌倉に着き、同じ日、朝盛が捕らえられる。
十津川の調略、伯耆房の裏切り、氷を所望した最期──
法勝寺執行尊長の二十年を一元化。
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