電子書籍「由比ヶ浜に遺棄された静御前の赤子一元化」の表紙

由比ヶ浜に遺棄された静御前の赤子一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,185年12月10日〜1,186年10月29日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月17日

吉野山の捕縛・問注所の取り調べ・鶴岡八幡宮寺の舞・由比ヶ浜の遺棄──
源義経の妾静御前の約10箇月間に亙る鎌倉滞在劇を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1185年12月、大物浦の遭難後に源義経と共に吉野山に潜伏していた静御前が、義経の逐電を受けて金峯山寺本堂に迷い着き、執行僧兵に捕縛された日から、西暦1186年10月、男子を出産し由比ヶ浜に遺棄され、母磯禅師と共に京都へ帰還する日まで。本書は、源義経の妾にして白拍子の名手であった静御前が、鎌倉幕府の追及の中で辿った約10箇月間に亙る苦難の日々を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1185年12月10日の22時、静御前が藤尾坂を下り金峯山寺本堂に到着した所を衆徒達に不審に思われ、吉野山の執行僧兵に捕縛された。静御前は「源は山伏の姿を借りて逐電し、財宝を託された雑色男達も其の財宝を奪って峯雪に自分を捨て去った」と証言した。翌11日も義経捜索は行われたが見付からず、執行僧兵は静御前を十分に労った上で鎌倉に差し出す事とした。12月15日、源義経は多武峰に到着、12月18日には北条時政が院宣を下した朝廷への不満を頼朝に代わり伝える為に上洛。12月31日、静御前は執行僧兵により北条時政の居る京都の屋敷に送られた。

西暦1186年1月7日、北条時政が鎌倉へ送った書簡の内容から、静御前は自身の証言を改めて打ち明けた。其れによれば大物浜に到着した後に船が難破、其の夜は天王寺で宿泊し、義経は一両日ここで待つ様に言い置いて姿を隠し、其の後馬を送られて3日目に吉野山に着き、5日間逗留した後に別れたという。2月20日、義経の行方が依然として掴めぬ中、北条時政は静御前を鎌倉へ差し出す様鎌倉から催促を受けた。3月5日、其の旨を綴った返書が鎌倉に届き、3月23日、静御前は母磯禅師と共に鎌倉に到着、拘留先である安達清経の屋敷に入った。3月28日、静御前は問注所の役人による源義経の行方に関する取り調べを受け、義経は大峰山に入ったと述べたが、京都での申し立てと内容に違いがある事、多武峰に向かった後隠れたとの噂がある事から、重ねて取り調べが命じられた。4月13日の再度の取り調べでも「知らない」と答え、此の時静御前が義経の子を妊娠している事が判明、鎌倉側は出産後に京都へ帰す事と定めた。

西暦1186年4月28日、源頼朝と御台所北条政子が鶴岡八幡宮寺を参拝した際、静御前は舞を命じられた。以前から病気や義経の妾として晴れの場に出る事の恥辱を理由に渋っていたが、北条政子の説得により白拍子の舞を披露した。此の時義経を慕う歌を唄って頼朝を激怒させるが、政子が「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成して助命された。頼朝は身籠る子について「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じた。6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通が静御前の宿所で宴会を催し、酔った梶原景茂が艶言を投げ掛けた事で静御前は大泣きした。6月16日には大姫の依頼により勝長寿院で舞を行い禄を賜った。9月14日、静御前は男子を出産、頼朝の命に従い安達清経が由比ヶ浜に遺棄する様命じた。静御前は此れを拒み叫喚したが、磯禅師が恐縮して男子を取り上げ安達に渡した。北条政子も助命を嘆願したが叶わなかった。10月29日、静御前は京都へ向けて鎌倉を出発、哀れんだ北条政子と大姫が多くの重宝を持たせた。


登場人物

  • 静御前 本書の主人公。源義経の妾にして白拍子の名手。西暦1185年11月28日の大物浦遭難後、最後まで義経の傍に残った4名の1人。12月、義経の逐電後に吉野山で捕縛され、鎌倉に送致された後、鶴岡八幡宮寺で義経を慕う歌を唄って源頼朝を激怒させ、男子を出産した後其の子を由比ヶ浜に遺棄された。
  • 源義経 静御前の夫。西暦1185年12月、大物浦の遭難後に吉野山に潜伏するも、衆徒蜂起の噂を聞いて山伏の姿で逐電した。静御前に財宝と雑色男達を付けて京都に送ろうとしたが、彼等が財宝を奪って逃げた為静御前は金峯山寺本堂に迷い着いた。12月15日に多武峰に到着、西暦1186年4月6日には伊勢神宮を参拝し金製の剣を奉納した。
  • 磯禅師 静御前の母。白拍子。西暦1186年3月23日、静御前と共に鎌倉に到着し、安達清経の屋敷に入った。6月3日の宴会では舞を披露した。9月14日の男子出産の際、静御前が赤子の引き渡しを拒んで叫喚する中、安達清経の激しい催促に恐縮し、男子を取り上げて安達に渡した人物。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1186年4月28日、鶴岡八幡宮寺で静御前に舞を命じ、義経を慕う歌を唄われて激怒するも北条政子の取り成しで助命した。其の一方で「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じ、男子であれば将来に禍根を残す恐れを理由として、9月14日の男子出産後に由比ヶ浜への遺棄を決行させた張本人。
  • 北条政子 源頼朝の御台所。西暦1186年4月28日、鶴岡八幡宮寺で静御前に舞を勧めた張本人でありながら、義経を慕う歌に激怒する頼朝に対しては「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成して静御前を助命した。9月14日の男子遺棄に際しても頼朝に助命を嘆願したが叶わず、10月29日の京都帰還時には多くの重宝を静御前に持たせた。
  • 大姫 源頼朝の長女。西暦1186年6月16日、自らの依頼により静御前に勝長寿院での舞を行わせた。10月29日の静御前の京都帰還時には北条政子と共に多くの重宝を持たせた、静御前への同情者。
  • 北条時政 源頼朝の舅。西暦1185年12月18日、後白河上皇の源頼朝追討院宣等の朝廷の行状に対する頼朝の不満を伝える為に上洛した。12月31日、吉野山の執行僧兵から京都の屋敷に静御前が送られ、西暦1186年1月7日の静御前の証言を書簡で鎌倉に報告、3月5日には静御前を鎌倉に送る旨の返書を鎌倉に送った。
  • 安達清経 鎌倉幕府御家人。西暦1186年3月23日以降、静御前と磯禅師の鎌倉での拘留先となった屋敷の主。9月14日の男子出産に際しては頼朝の命に従い、静御前に対し由比ヶ浜に男子を遺棄する様命じ、静御前が拒んで叫喚する中、激しく催促して磯禅師から男子を受け取った実行者。
  • 吉野山の執行僧兵 金峯山寺の僧兵達。西暦1185年12月10日22時、藤尾坂を下って金峯山寺本堂に到着した静御前を衆徒達と共に捕縛した。12月11日には静御前を十分に労った上で鎌倉に差し出す事と決め、12月31日、静御前を北条時政の居る京都の屋敷に送った。
  • 問注所の役人 鎌倉幕府の訴訟担当役人。西暦1186年3月28日、静御前に対し源義経の行方に関する取り調べを行った。京都での申し立てと内容に違いがある事、多武峰に向かった後隠れたとの噂がある事から虚偽を疑い、重ねて取り調べを行う様命じられた。4月13日の再度の取り調べも行い、静御前の妊娠を確認した。
  • 工藤祐経 鎌倉幕府御家人。西暦1186年6月3日、梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通と共に静御前の宿所で催された宴会の参加者。
  • 梶原景茂 梶原景時の参男。鎌倉幕府御家人。西暦1186年6月3日の静御前の宿所での宴会において、酔った挙句に静御前に艶言を投げ掛け、「源義経は源頼朝の御兄弟、私は其の妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事の様に思われるのか」と大泣きされた。
  • 千葉常秀 千葉成胤の弟。鎌倉幕府御家人。西暦1186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・八田朝重・藤原邦通と共に静御前の宿所で催された宴会の参加者。
  • 八田朝重 鎌倉幕府御家人。西暦1186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・藤原邦通と共に静御前の宿所で催された宴会の参加者。
  • 藤原邦通 鎌倉幕府御家人。西暦1186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重と共に静御前の宿所で催された宴会の参加者。

主要な地名・拠点

  • 藤尾坂 吉野山の参道。西暦1185年12月10日22時、静御前が下って金峯山寺本堂に到着した経路。源義経の逐電後、雑色男達に財宝を奪われ峯雪に捨て置かれた静御前が、迷いながら辿り着いた道。
  • 金峯山寺本堂 現在の奈良県吉野郡吉野町に所在する吉野山の中心寺院。西暦1185年12月10日22時、藤尾坂を下ってきた静御前が到着した地。不審に思った衆徒達が執行僧兵を連れてきて尋問し、静御前を捕縛した、本書の起点となる場所。
  • 吉野山 現在の奈良県吉野郡吉野町一帯。西暦1185年12月、源義経が大物浜から来て5日間逗留した後、衆徒蜂起の噂を聞いて山伏の姿で逐電した地。静御前が雑色男達に財宝を奪われ峯雪に置き去りにされた舞台。
  • 大物浜 摂津国の港。西暦1185年11月28日に源義経の船団が鎮西へ向け出航した地であり、静御前の鎌倉滞在劇の起点となる遭難の場所。静御前の証言では、此の地に源義経と共に到着した後に船が難破したと語られる。
  • 多武峰 現在の奈良県桜井市にある談山神社。西暦1185年12月15日に源義経が到着した地。静御前の問注所での取り調べで「義経は大峰山に入ると言ったが、多武峰に向かった後隠れたとの噂がある」と指摘された舞台。
  • 北条時政の京都屋敷 北条時政の上洛時の居所。西暦1185年12月31日、吉野山の執行僧兵により静番前が送られ、西暦1186年1月7日の証言を経て3月23日の鎌倉送致に至る迄、静御前が拘留された地。
  • 安達清経の屋敷 鎌倉における静御前・磯禅師の拘留先。西暦1186年3月23日から10月29日の京都帰還まで、静御前が生活した場所。6月3日の工藤祐経等による宴会と梶原景茂の艶言事件、9月14日の男子出産と遺棄命令が此処で行われた、本書の鎌倉滞在の中心舞台。
  • 問注所 鎌倉幕府の訴訟・取り調べを担う機関。西暦1186年3月28日と4月13日の2度に亙り、静御前が源義経の行方に関する取り調べを受けた地。京都での申し立てとの内容の相違が指摘され、義経の子の妊娠が判明した場所。
  • 伊勢神宮 現在の三重県伊勢市宇治館町。西暦1186年4月6日、源義経が参拝し、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納した地。静御前の取り調べと並行して進行する義経の動向を示す。
  • 鶴岡八幡宮寺 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1186年4月28日、源頼朝と北条政子の参拝時に静御前が舞を命じられ、白拍子の舞として義経を慕う歌を唄って頼朝を激怒させた地。男子であれば殺害せよとの命令が此処で下された、本書最大の場面。
  • 勝長寿院 鎌倉の寺院。西暦1186年6月16日夜、源頼朝の長女大姫の依頼により静御前が舞を行い、禄を賜った地。鶴岡八幡宮寺での悲劇的な舞と対照を成す、静御前と大姫の邂逅の場。
  • 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市の海岸。西暦1186年9月14日、静御前が出産した源義経の男子が、源頼朝の命により安達清経に命じられて遺棄された地。本書の題名を成す、悲劇の終着点。

主要な事件・出来事

  • 金峯山寺本堂での捕縛 西暦1185年12月10日22時、藤尾坂を下って金峯山寺本堂に到着した静御前を、衆徒達が不審に思って執行僧兵を連れてきて尋問、「源は山伏の姿を借りて逐電し、雑色男達も財宝を奪って峯雪に自分を捨て去った」との証言を受けて捕縛した。静御前の鎌倉滞在劇の起点。
  • 北条時政京都屋敷送致 西暦1185年12月31日、吉野山の執行僧兵が静御前を、上洛していた北条時政の居る京都の屋敷に送り届けた。同日、源義経捜索の為の軍が吉野山に差し向けられた。
  • 京都での証言 西暦1186年1月7日、静御前が北条時政の鎌倉への書簡の内容から自身の証言を打ち明けた。大物浜到着後の船の難破、天王寺での宿泊と義経の逃走、馬を送られて3日目に吉野山に着き5日間逗留した後の別離を語った、後の問注所取り調べの基準となる証言。
  • 鎌倉送致催促と返書 西暦1186年2月20日、源義経の行方が未だに掴めぬ中、鎌倉から北条時政に対し静御前を差し出す様催促された。3月5日、北条時政が静御前を鎌倉に送る旨を綴った返書が鎌倉に届いた。
  • 鎌倉到着と安達清経屋敷拘留 西暦1186年3月23日、静御前が母磯禅師と共に鎌倉に到着し、拘留先である安達清経の屋敷に入った。以後10月29日の京都帰還まで、静御前の鎌倉での生活拠点となる。
  • 問注所での第1回取り調べ 西暦1186年3月28日、静御前が問注所の役人による源義経の行方に関する取り調べを受けた。「義経は吉野の山中ではなく僧坊で山伏となり大峰山に入った」と証言したが僧名は「忘れた」と答え、京都での申し立てと内容に違いがある事、多武峰に向かった噂がある事から虚偽が疑われた。
  • 問注所での第2回取り調べと妊娠発覚 西暦1186年4月13日、静御前が再び源義経の行方に関する取り調べを受けたが「知らない」と回答した。此の時静御前が源の子を妊娠していた事が判明し、鎌倉側は出産の後に京都に帰す事と定めた。
  • 鶴岡八幡宮寺の舞と頼朝激怒 西暦1186年4月28日、源頼朝と北条政子の鶴岡八幡宮寺参拝時、静御前が舞を命じられた。以前は病気や義経の妾としての恥辱を理由に渋っていたが、北条政子の説得で白拍子の舞を披露、義経を慕う歌を唄って頼朝を激怒させた。政子が「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成して助命された。
  • 男子殺害命令 西暦1186年4月28日、源頼朝が身籠る静御前の子について「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じた。男子であれば将来に禍根を残す恐れがあった事が理由。由比ヶ浜遺棄の決定的根拠となった命令。
  • 梶原景茂の艶言事件 西暦1186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通が静御前の宿所で宴会を催し、磯禅師の舞の最中に酔った梶原景茂が静御前に艶言を投げ掛けた。静御前は「源義経は源頼朝の御兄弟、私は其の妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事の様に思われるのか」と大泣きして退けた。
  • 勝長寿院の舞 西暦1186年6月16日夜、源頼朝の長女大姫の依頼により、静御前が勝長寿院で舞を行い禄を賜った。鶴岡八幡宮寺での舞と対照的な、静御前に対する同情的な場面。
  • 男子出産と由比ヶ浜遺棄 西暦1186年9月14日、静御前が源義経の男子を出産した。4月28日の源頼朝の命に従い、安達清経は静御前に対し由比ヶ浜への遺棄を命じた。静御前は此れを拒み叫喚したが、安達の激しい催促により磯禅師が恐縮して男子を取り上げ安達に渡した。北条政子の助命嘆願も叶わず、本書の題名を成す悲劇が決行された。
  • 京都帰還 西暦1186年10月29日、静御前が京都へ向けて鎌倉を出発した。哀れんだ北条政子と大姫が多くの重宝を静御前に持たせた。出産後に京都に帰すという4月13日の鎌倉側の決定が履行され、静御前の鎌倉滞在劇が幕を閉じる。

吉野山の捕縛・問注所の取り調べ・鶴岡八幡宮寺の舞・由比ヶ浜の遺棄──
源義経の妾静御前の約10箇月間に亙る鎌倉滞在劇を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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