由比ヶ浜に遺棄された
静御前の赤子一元化
西暦1,185年12月、峯雪の中に捨て置かれた白拍子──
吉野山の捕縛から由比ヶ浜まで、静御前の十箇月間を一元化。
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本書について
西暦1,185年12月10日の22時、一人の女が藤尾坂を下って金峯山寺本堂(現在の奈良県吉野郡吉野町)に辿り着いた。其の姿を不審に思った衆徒達が執行僧兵を連れて来て問い質すと、女は「私は源の妾です」と答えた。源義経が吉野山に潜伏しているとの噂を聞き付けた執行僧兵が、其の日の内に山を捜索して空振りに終わった、其の直後の事である。女は静御前——白拍子の名手であった。本書は、此の夜の捕縛を起点として、静御前が鎌倉で辿った十箇月間を、年月日単位で一元化した記録である。
静御前の語る所は、こうであった。義経は大物浜から此の山へ来て5日間逗留したが、衆徒蜂起の噂を聞いて山伏の姿を借り逐電した。其の際、数多くの金銀類を静御前に与え、雑色男達を付けて京都へ送ろうとした。しかし男達は財宝を奪い取り、深い峯雪の中に静御前を捨て置いて行った。だから此の様に迷って来たのだ、と。静御前は其の儘捕縛される。翌11日も捜索は続いたが義経は見付からず、執行僧兵は静御前を十分に労ってから鎌倉へ差し出す事に決めた。12月15日、義経は多武峰(現在の奈良県桜井市にある談山神社)に到着している。12月18日には北条時政が、義経に源頼朝追討の院宣を出す等の朝廷の行状に対する頼朝の不満を伝える為に上洛した。そして12月31日、静御前は北条時政の居る京都の屋敷へ送られ、同じ日、義経捜索の軍が吉野山へ差し向けられた。
西暦1,186年1月7日、静御前は北条時政が鎌倉へ送った書簡の内容から、自らの証言を改めて打ち明ける。義経が都を出て西海へ赴いた明け方、共に大物浜へ着いたが船が難破して海を渡れず、其の夜は天王寺で宿泊した。義経は其処から姿を隠し、迎えを寄越すので一両日待つ様、但し約束の日を過ぎたら直様立ち去る様にと言い置いた。暫くして馬が送られて来たので之に乗り、何処へ行くか分からぬ儘3日目に吉野山へ着き、5日間逗留した後に別れた——其の後の行方は知らない、と。2月20日、義経の行方が未だ掴めぬ為、北条時政は鎌倉から静御前を差し出す様催促され、3月5日、其の旨を綴った返書が鎌倉に届く。3月23日、静御前は母の磯禅師と共に鎌倉に到着し、拘留先である安達清経の屋敷に入った。
3月28日、静御前は問注所の役人による取り調べを受ける。義経が籠っていたのは吉野の山中ではなく其の僧坊であり、大衆蜂起を聞いて山伏の姿となり、大峰山(現在の奈良県吉野郡天川村洞川)に入ると言って僧に送られて行った。自分も跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、女人は大峰山に入るべからずと叱られて都の方へ向かい、雑色達に財宝を奪われて金峯山寺本堂に迷い着いた——役人が僧の名を尋ねると、静御前は「忘れた」と答えた。京都での申し立てと内容に違いが有る事、大峰山と言うが多武峰へ向かった後に隠れたとの噂が有る事から、虚偽が有るだろうとして重ねて取り調べる様命じられる。4月13日の再度の取り調べでも答えは「知らない」であった。此の時、静御前が義経の子を身籠っている事が判り、鎌倉側は出産の後に京都へ帰す事と定めた。尚、其の一週間前の4月6日、義経は伊勢神宮(現在の三重県伊勢市宇治館町)を参拝し、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納している。
4月28日、源頼朝と御台所北条政子が鶴岡八幡宮寺(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)を参拝した際、静御前は控えの間から回廊へ召し出され、舞を命じられた。以前から命じられては、病気の為と称して断り、我が身の不遇はあれこれ言えぬと雖も義経の妾として晴れの場に出るのは頗る恥辱であると言って渋り続けていた。しかし北条政子が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念な事」と頻りに頼朝へ勧め、「八幡大菩薩に供えるのだから」と説得する。静御前は「義経と別離してからまだ日も浅く、気が塞いでいるので舞う気にならない」と固辞したが、再三の命により舞う事となった。白拍子の舞の中で唄われたのは義経を慕う歌であり、頼朝は激怒する。取り成したのは、舞を勧めた当の政子であった。「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」——此の一言が静御前を助けた。だが同じ日、頼朝は身籠った子について命じている。女子なら助けるが、男子なら殺す様に、と。男子であれば将来に禍根を残す恐れが有る、というのが其の理由であった。
6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通が静御前の宿所へ来て宴会を催した。磯禅師が舞を披露する中、酔った梶原景茂が静御前に艶言を投げ掛ける。静御前は「源義経は源頼朝の御兄弟、私は其の妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事の様に思われるのか」と言って大泣きした。6月16日の夜には、頼朝の長女大姫の依頼により勝長寿院で舞を行い、禄を賜っている。そして9月14日、静御前は男子を出産した。4月28日の頼朝の命に従い、安達清経は由比ヶ浜(現在の神奈川県鎌倉市)に遺棄する様命じる。之に先立ち安達が男子を受け取ろうとすると、静御前は拒んで叫喚した。安達が激しく催促すると、磯禅師が恐縮して男子を取り上げ、安達に渡した。北条政子も頼朝に助命を嘆願したが、叶わなかった。10月29日、静御前は京都へ向けて鎌倉を発つ。哀れんだ北条政子と大姫は、多くの重宝を静御前に持たせた。本書が閉じるのは、此の日である。
登場人物
- 静御前 本書の中心人物。源義経の妾にして舞の名手。西暦1,185年12月10日22時、藤尾坂を下って金峯山寺本堂に辿り着いた所を吉野山の執行僧兵に捕縛された。京都の北条時政の屋敷を経て西暦1,186年3月23日に鎌倉へ送られ、問注所の二度の取り調べを受ける。4月28日には鶴岡八幡宮寺で白拍子の舞を命じられ、義経を慕う歌を唄って源頼朝を激怒させた。9月14日に男子を出産するも由比ヶ浜への遺棄を命じられ、10月29日に京都へ向けて鎌倉を発った。
- 源義経 静御前が妾として従った武将。源頼朝の弟。西暦1,185年12月、吉野山に潜伏していたが衆徒蜂起の噂を聞いて山伏の姿を借り逐電した。静御前には数多くの金銀類を与え、雑色男達を付けて京都へ送ろうとしたが、男達は財宝を奪って静御前を峯雪に捨て置いた。12月15日に多武峰へ到着し、西暦1,186年4月6日には伊勢神宮を参拝して、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納している。
- 磯禅師 静御前の母。西暦1,186年3月23日、静御前と共に鎌倉へ到着し、安達清経の屋敷に入った。6月3日の宴会では自ら舞を披露している。9月14日、静御前が男子の引き渡しを拒んで叫喚する中、安達清経の激しい催促に恐縮し、男子を取り上げて安達へ渡した人物。
- 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1,186年4月28日、鶴岡八幡宮寺の参拝に際して静御前に舞を命じ、義経を慕う歌を唄われて激怒したが、北条政子の取り成しにより静御前を助命した。同じ日、身籠った子について「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じている。男子であれば将来に禍根を残す恐れが有る、というのが其の理由であった。
- 北条政子 源頼朝の御台所。西暦1,186年4月28日、「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念な事」と頼朝に勧め、静御前に舞を促した張本人でありながら、激怒する頼朝に対しては「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成して静御前を助けた。9月14日の遺棄に際しても頼朝へ助命を嘆願したが叶わず、10月29日の出立時には多くの重宝を持たせている。
- 大姫 源頼朝の長女。西暦1,186年6月16日の夜、自らの依頼により静御前に勝長寿院での舞を行わせ、禄を与えた。10月29日の静御前の京都帰還に際しては、北条政子と共に多くの重宝を持たせている。
- 北条時政 源頼朝の舅。西暦1,185年12月18日、源義経に源頼朝追討の院宣を出す等の朝廷の行状に対して、頼朝の不満を伝える為に上洛した。12月31日、吉野山の執行僧兵から京都の屋敷に静御前を引き渡され、西暦1,186年1月7日の証言を書簡で鎌倉へ報告している。2月20日に鎌倉から静御前の引き渡しを催促され、3月5日、其の旨を綴った返書が鎌倉に届いた。
- 安達清経 鎌倉幕府の御家人。西暦1,186年3月23日以降、静御前と磯禅師の拘留先となった屋敷の主。9月14日の出産に際しては源頼朝の命に従い、静御前に由比ヶ浜へ男子を遺棄する様命じた。拒んで叫喚する静御前に対して激しく催促し、磯禅師から男子を受け取った実行者。
- 吉野山の執行僧兵 西暦1,185年12月10日、源義経が吉野山に潜伏しているとの噂を聞き付けて捜索を行ったが見付からなかった。同日22時、金峯山寺本堂に現れた静御前を、不審に思った衆徒達に呼ばれて尋問し捕縛する。翌11日には静御前を十分に労ってから鎌倉に差し出す事とし、12月31日、北条時政の居る京都の屋敷へ送った。
- 問注所の役人 西暦1,186年3月28日、静御前に源義経の行方に関する取り調べを行った。僧の名を尋ねたが「忘れた」と答えられ、京都での申し立てと内容に違いが有る事、大峰山と言うが多武峰へ向かった後に隠れたとの噂が有る事から、虚偽が有るだろうとして重ねて取り調べる様命じられた。
- 工藤祐経 鎌倉幕府の御家人。西暦1,186年6月3日、梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通と共に静御前の宿所へ来て宴会を催した。
- 梶原景茂 鎌倉幕府の御家人。西暦1,186年6月3日の宴会において、酔った挙句に静御前へ艶言を投げ掛け、「御家人の身分でどうして普通の男女の事の様に思われるのか。義経が落ちぶれなければ、貴方ごときに対面する事さえ出来ない筈なのに」と大泣きされた。
- 千葉常秀 千葉成胤の弟。鎌倉幕府の御家人。西暦1,186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・八田朝重・藤原邦通と共に静御前の宿所での宴会に参加した。
- 八田朝重 鎌倉幕府の御家人。西暦1,186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・藤原邦通と共に静御前の宿所での宴会に参加した。
- 藤原邦通 鎌倉幕府の御家人。西暦1,186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重と共に静御前の宿所での宴会に参加した。
主要な地名・拠点
- 大物浜 静御前の証言に現れる港。源義経が都を出て西海(西海道、現在の日本の九州)へ赴いた明け方、静御前は義経と共に此の地へ到着したが、其れから船が難破して海を渡る事が出来なかった。十箇月に及ぶ流転の出発点。
- 天王寺 大物浜での船の難破の後、静御前と源義経が宿泊した地。義経は此処から逃げて姿を隠し、迎えを寄越すので一両日待つ様、但し約束の日を過ぎたら直様立ち去る様にと言い置いた。
- 吉野山 現在の奈良県吉野郡吉野町一帯。西暦1,185年12月、源義経が大物浜から来て5日間逗留した後、衆徒蜂起の噂を聞いて山伏の姿で逐電した地。潜伏の噂を聞き付けた執行僧兵の捜索が12月10日・11日に行われ、12月31日には捜索の軍が差し向けられた。
- 藤尾坂 吉野山の坂道。西暦1,185年12月10日22時、峯雪の中に捨て置かれた静御前が下り、金峯山寺本堂へ辿り着いた経路。
- 金峯山寺本堂 現在の奈良県吉野郡吉野町。西暦1,185年12月10日22時、藤尾坂を下って来た静御前が到着した地。其の姿を不審に思った衆徒達が執行僧兵を連れて来て尋問し、静御前は捕縛された。本書の起点。
- 多武峰 現在の奈良県桜井市にある談山神社。西暦1,185年12月15日に源義経が到着した地。後の問注所の取り調べでは、静御前が大峰山に入ったと述べる一方で、多武峰に向かった後に隠れたとの噂が有ると指摘された。
- 大峰山 現在の奈良県吉野郡天川村洞川。西暦1,186年3月28日の取り調べで、静御前が源義経の向かった先として挙げた山。静御前も跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、女人は大峰山に入るべからずと僧に叱られ、都の方へ向かったという。
- 北条時政の京都屋敷 上洛した北条時政の居所。西暦1,185年12月31日、吉野山の執行僧兵によって静御前が送られ、西暦1,186年1月7日の証言を経て3月23日の鎌倉到着に至る迄、静御前が留め置かれた地。
- 伊勢神宮 現在の三重県伊勢市宇治館町。西暦1,186年4月6日、源義経が参拝し、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納した地。鎌倉での取り調べと並行して進んでいた義経の動きを示す。
- 安達清経の屋敷 鎌倉に於ける静御前・磯禅師の拘留先。西暦1,186年3月23日から10月29日の出立まで、静御前が過ごした場所。6月3日の宴会と梶原景茂の艶言、9月14日の出産と遺棄命令も此処で起きている。
- 問注所 鎌倉幕府の訴訟・取り調べを担う機関。西暦1,186年3月28日と4月13日の二度に亙り、静御前が源義経の行方に関する取り調べを受けた。京都での申し立てとの食い違いが指摘され、義経の子を身籠っている事も判明した。
- 鶴岡八幡宮寺 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1,186年4月28日、源頼朝と北条政子の参拝に際して静御前が回廊へ召し出され、白拍子の舞として義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させた地。男子であれば殺す様にとの命が下されたのも此の日である。
- 勝長寿院 鎌倉の寺院。西暦1,186年6月16日の夜、源頼朝の長女大姫の依頼により静御前が舞を行い、禄を賜った地。鶴岡八幡宮寺での舞と対を成す場面。
- 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1,186年9月14日、静御前が出産した源義経の男子が、源頼朝の命を受けた安達清経の指示により遺棄された地。本書の題名を成す場所。
主要な事件・出来事
- 金峯山寺本堂での捕縛 西暦1,185年12月10日、源義経が吉野山に潜伏しているとの噂を聞き付けた執行僧兵が捜索を行ったが見付からなかった。同日22時、藤尾坂を下って金峯山寺本堂に到着した静御前を衆徒達が不審に思い、執行僧兵を連れて来て尋問する。静御前は「私は源の妾です」と答え、逐電と財宝強奪の経緯を語った末に捕縛された。本書の起点。
- 源義経の多武峰到着と伊勢神宮参拝 西暦1,185年12月15日、源義経が多武峰に到着する。西暦1,186年4月6日には伊勢神宮を参拝し、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納した。静御前が捕縛され取り調べを受けている間も、義経の行方は遂に掴めなかった。
- 北条時政の上洛 西暦1,185年12月18日、北条時政が、源義経に源頼朝追討の院宣を出す等の朝廷の行状に対して、頼朝の不満を伝える為に上洛した。此の上洛が、静御前の身柄を受け取る場を京都に用意する事となる。
- 京都の屋敷への送致 西暦1,185年12月31日、吉野山の執行僧兵が静御前を、上洛していた北条時政の居る京都の屋敷へ送った。又、同じ日に源義経捜索の為の軍が吉野山へ差し向けられている。
- 京都での証言 西暦1,186年1月7日、静御前が北条時政の鎌倉への書簡の内容から、自身の証言を打ち明けた。大物浜到着後の船の難破、天王寺での宿泊と義経の逃走、馬を送られて3日目に吉野山へ着き5日間逗留した後の別離までを語り、其の後の行方は知らないとした。翌8日、鎌倉から北条時政に返書が送られた。
- 鎌倉からの催促と返書 西暦1,186年2月20日、源義経の行方が未だ掴めなかった為、北条時政が鎌倉から静御前を差し出す様催促された。3月5日、北条時政が静御前を鎌倉に送る旨を綴った返書が鎌倉に届いた。
- 鎌倉到着と安達清経の屋敷への拘留 西暦1,186年3月23日、静御前が母の磯禅師と共に鎌倉へ到着し、拘留先である安達清経の屋敷に入った。以後10月29日の出立まで、此処が静御前の生活の場となる。
- 問注所での第1回取り調べ 西暦1,186年3月28日、静御前が問注所の役人による源義経の行方に関する取り調べを受けた。義経は僧坊から山伏の姿となって大峰山へ入ったと述べ、自らも一の鳥居の辺りまで追ったが女人禁制を理由に叱られ引き返したと語る。僧の名を尋ねられると「忘れた」と答えた為、京都での申し立てとの食い違いと多武峰の噂から虚偽が疑われ、重ねての取り調べが命じられた。
- 問注所での第2回取り調べと懐妊の判明 西暦1,186年4月13日、静御前が再び源義経の行方に関する取り調べを受けたが「知らない」と回答した。又、静御前が義経の子を身籠っていた為、鎌倉側は出産の後に京都へ帰す事と定めた。
- 鶴岡八幡宮寺の舞と源頼朝の激怒 西暦1,186年4月28日、源頼朝と北条政子の鶴岡八幡宮寺参拝に際し、静御前が回廊へ召し出され舞を命じられた。病気や義経の妾としての恥辱を理由に渋り続けていたが、北条政子の説得により白拍子の舞を披露する。義経を慕う歌に頼朝は激怒したが、政子が「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成し、静御前は助命された。
- 男子であれば殺す様にとの命 西暦1,186年4月28日、源頼朝が静御前の身籠る子について「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じた。男子であれば将来に禍根を残す恐れが有る、というのが其の理由であった。9月14日の由比ヶ浜遺棄の根拠となった命令。
- 宿所の宴会と梶原景茂の艶言 西暦1,186年6月3日、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田朝重・藤原邦通が静御前の宿所へ来て宴会を催した。磯禅師が舞を披露する中、酔った梶原景茂が静御前に艶言を投げ掛け、静御前は「源義経は源頼朝の御兄弟、私は其の妾です」と身分の違いを説いて大泣きした。
- 勝長寿院の舞 西暦1,186年6月16日の夜、源頼朝の長女大姫の依頼により、静御前が勝長寿院で舞を行い禄を賜った。鶴岡八幡宮寺での舞とは対照的な、静御前への同情が現れた場面。
- 男子の出産と由比ヶ浜への遺棄 西暦1,186年9月14日、静御前が源義経の男子を出産した。4月28日の源頼朝の命に従い、安達清経は由比ヶ浜へ遺棄する様命じる。之に先立ち安達が男子を受け取ろうとすると静御前は拒んで叫喚し、安達の激しい催促に磯禅師が恐縮して男子を取り上げ渡した。北条政子の助命嘆願も叶わなかった、本書の題名を成す出来事。
- 京都への帰還 西暦1,186年10月29日、静御前が京都へ向けて鎌倉を出発した。哀れんだ北条政子と大姫が、多くの重宝を静御前に持たせた。4月13日に定められた「出産の後に京都へ帰す」という処遇が履行され、十箇月間の鎌倉滞在が幕を閉じる。
問注所の取り調べ、鶴岡八幡宮寺の舞、そして由比ヶ浜──
静御前と其の赤子が辿った十箇月間を一元化。
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