電子書籍「畠山重忠の乱一元化」の表紙

畠山重忠の乱一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,203年11月8日〜1,205年9月19日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
6ページ
文字数
3,727字
最新更新日
西暦2,026年9月30日

酒宴の口論と讒言が、畠山父子の命を奪った──
畠山重忠の乱を一元化。

175円(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,203年11月8日、鎌倉幕府は謀反を防ぐ事を意図して、平賀朝雅を京都守護に就任させる為に京都へ送った。第118代武蔵守を罷免された平賀は、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛し、第9代京都守護となる。1,204年2月には京都で、北条時政が畠山重忠に敗れて山中に隠れたという誤報が流れ、3月には重忠が大倉御所を攻めたという風聞を聞いた藤原定家が、西園寺公経に真偽を確かめている。本書は、此の平賀朝雅の上洛から、1,205年9月19日に牧の方の兄大岡時親が出家する迄を一元化した記録である。

1,204年8月30日、幕府は源実朝の正室に坊門信清の娘西八条禅尼を京都から迎える事を決め、11月7日、時政の四男北条政範・重忠の六男畠山重保らが迎えの為に鎌倉を発った。道中で病を患った政範を、重保が介護する。上洛の翌日の26日、平賀朝雅の六角洞院亭で一行を歓迎する酒宴が開かれ、其の席で平賀と重保が口論となったが、周囲が取り成した。27日、政範は病により死去する。12月5日、報せを受けた時政と其の継室牧の方は悲嘆に暮れた。牧の方は、介護した重保の態度に疑惑を抱き、政範を碌な医者にも診せず見殺しにしたとして、重保を逆恨みしていた。

1,205年4月頃、時政は牧の方と共に稲毛重成を屋敷に招いて歓待し、牧の方は稲毛に、重忠・重保父子が謀反の意志を秘めていると讒言して、様子を探らせる相談をした。7月7日、稲毛から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた重忠は、弐男畠山重秀・本田近常・乳兄弟の榛澤成清らを含む134騎を率いて菅谷館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)を発ち、8日には稲毛に呼び寄せられた重保が鎌倉に着く。9日、平賀が、重保から悪口を言われたと牧の方に讒言した。牧の方の訴えを受けた時政が北条義時・北条時房に重忠征伐を告げると、二人は、重忠は1,180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしてきた、事の真偽を確かめてからでも遅くは無いと反対したが、牧の方の意見を伝えに来た大岡時親に説かれ、時政に従わざるを得なかった。実朝も征伐に同意する。

10日早朝、謀反人を討つという名目で、時政の指示を受けた三浦義村・佐久間家村らの兵が由比ヶ浜に集まる。稲毛に招かれて何の警戒心も持たずに三浦に近付いた重保は、佐久間らに馬を囲まれ、郎従諸共殺された。鶴ヶ峰(現在の神奈川県横浜市旭区)の麓で其の死と大軍の進軍を知った重忠は、菅谷館に立て籠って討手を待つ様に勧める本田・榛澤に、鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というもの、自分を討つ為であっても後へは引けないと答えて迎え撃つ。12時に二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)へ着いた義時の軍が重忠の軍を包囲して矢の雨を浴びせ、4時間程の交戦の末、愛甲季隆の矢が重忠に命中した。重忠は「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺して息絶え、重秀・本田らも自害した。

菅谷館に居た重忠の妻は家臣ら24名で加賀国額田荘へ落ち延び、後に小沢城で篠塚重興を産む。四男畠山重慶は上古寺に遺髪を葬って五輪塔を建て、慈光寺の第27世別当となった。11日、鎌倉に戻った義時は時政に、重忠に従っていたのは僅か百騎程で謀反は虚言である、首実検で重忠を見て涙を止められなかったと語り、時政は何も言えなかった。同じ日、三浦義村らが経師ヶ谷で榛谷重朝父子を討ち、稲毛は大河戸行元に、稲毛の嫡男小沢重政は宇佐美祐村に殺される。

9月4日、時政が実朝を暗殺して平賀を征夷大将軍に据える計画に、北条政子と義時が気付く。政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村らを遣わして実朝を義時の屋敷に移し、孤立した時政と牧の方は其の日の内に出家した。5日、義時は二人を伊豆国北条郷(現在の静岡県伊豆の国市韮山)へ追放し、此の頃第2代執権となる。11日、仙洞御所で囲碁を打っていた平賀は、自分を殺す討手が鎌倉から差し向けられた事を知り、後鳥羽上皇の許しを得て屋敷に戻ったが、五条有範・後藤基清・佐々木広綱らに襲われて逃れ、松坂で山内首藤経俊の六男中山通基に射止められた。19日、大岡時親が出家する——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 畠山重忠 本書の中心人物。北条義時・時房が、1,180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしてきたと庇った御家人。稲毛重成から鎌倉の騒ぎを聞いて134騎で菅谷館を発ったが、途上の鶴ヶ峰で重保の死と大軍の進軍を知る。退かずに迎え撃ち、二俣川で愛甲季隆の矢に倒れた。
  • 畠山重保 重忠の六男。西八条禅尼を迎える一行に加わり、病の北条政範を介護した。平賀朝雅邸の酒宴で平賀と口論となり、由比ヶ浜で郎従諸共討たれた。
  • 畠山重秀 重忠の弐男。重忠と共に菅谷館を発ち、重忠の死を知って自害した。
  • 畠山重慶 重忠の四男。上古寺に重忠の遺髪を葬って五輪塔を建て、慈光寺で剃髪して第27世別当となった。
  • 畠山重忠の妻 菅谷館から家臣ら24名で加賀国額田荘へ落ち延び、重忠の遺命で小沢城に移って篠塚重興を産んだ。
  • 本田近常 重忠に従って菅谷館を発った。榛澤成清と共に菅谷館に立て籠る様進言したが容れられず、重忠の死を知って自害した。
  • 榛澤成清 重忠の乳兄弟。本田近常と共に菅谷館に立て籠る様進言し、二俣川で討たれた。
  • 北条時政 西八条禅尼を迎える一行に加わった四男北条政範を、病で失った。牧の方の訴えを容れて重忠征伐を決めたが、義時から謀反は虚言だったと聞かされて何も言えなかった。実朝を暗殺して平賀朝雅を立てる計画が露見し、出家して伊豆国北条郷へ追放された。
  • 牧の方 北条時政の継室。政範の死を重保の所為として逆恨みし、畠山父子に謀反の意志が有ると讒言した。時政と共に出家し、伊豆国北条郷へ追放された。
  • 北条義時 時政から重忠征伐を告げられて反対したが、従わざるを得なかった。二俣川で重忠の軍を攻め、首実検で重忠を見て涙を止められなかったと語った。時政を追放し、第2代執権となった。
  • 北条時房 義時と共に重忠征伐に反対したが、時政に従わざるを得なかった。
  • 大岡時親 牧の方の兄。義時の屋敷を訪れ、重忠の功績は功績、陰謀は陰謀だという牧の方の意見を伝えた。1,205年9月19日に出家した。
  • 北条政範 時政の四男。西八条禅尼を迎える上洛の途上で病を患い、重保に介護されたが、上洛の2日後に死去した。
  • 平賀朝雅 第9代京都守護。酒宴で畠山重保と口論となり、重保から悪口を言われたと牧の方に讒言した。時政の計画が露見した後、京都で討手に襲われ、松坂で中山通基に射止められた。
  • 稲毛重成 牧の方から畠山父子に謀反の意志が有ると吹き込まれ、重忠に鎌倉の騒ぎを知らせ、重保を鎌倉へ呼び寄せた。乱の後、大河戸行元に殺された。
  • 小沢重政 稲毛重成の嫡男で小沢城主。乱の後、宇佐美祐村に殺された。
  • 三浦義村 時政の指示で由比ヶ浜に兵を集めた。何の警戒心も持たずに近付いて来た重保は、佐久間家村らに討たれた。経師ヶ谷では榛谷重朝父子を殺し、時政の計画の際には実朝の保護に遣わされた。
  • 佐久間家村 三浦義村と共に由比ヶ浜に兵を集め、畠山重保の馬を囲んで郎従諸共殺した。
  • 愛甲季隆 二俣川の戦いで、畠山重忠に矢を命中させた。
  • 榛谷重朝 乱の後、経師ヶ谷で三浦義村らに、嫡男榛谷重季・弐男榛谷秀重と共に殺された。
  • 源実朝 時政の訴えを受けて重忠征伐に同意した。時政の暗殺計画が露見すると、北条政子の遣わした御家人に義時の屋敷へ移されて保護された。
  • 北条政子 時政の計画に気付き、長沼宗政・結城朝光・三浦義村らを遣わして、名越殿の実朝を義時の屋敷に移した。
  • 藤原定家 畠山重忠が挙兵して大倉御所を攻めたという風聞を京都で聞き、西園寺公経に真偽を確かめた。陰陽師等の占いの結果も踏まえ、天狗の仕業とした。
  • 西八条禅尼 坊門信清の娘。源実朝の正室として京都から迎えられ、1,205年1月1日に鎌倉に着いた。
  • 中山通基 山内首藤経俊の六男。松坂で平賀朝雅を射止めた。

主要な地名・拠点

  • 平賀朝雅の六角洞院亭 上洛した一行を歓迎する酒宴が開かれ、平賀朝雅と畠山重保が口論となった屋敷。
  • 菅谷館 現在の埼玉県比企郡嵐山町。畠山重忠が134騎を率いて鎌倉へ発った館。重忠の妻は此処から落ち延びた。
  • 由比ヶ浜 謀反人を討つという名目で兵が集められ、畠山重保が郎従諸共討たれた浜。
  • 鶴ヶ峰 現在の神奈川県横浜市旭区。布陣していた重忠が、麓で重保の死と大軍の進軍を知った。
  • 二俣川 現在の神奈川県横浜市旭区。北条義時の軍が重忠の軍を包囲して矢の雨を浴びせ、重忠が討たれた地。
  • 加賀国額田荘 現在の石川県小松市額見町付近。重忠の妻が家臣ら24名で落ち延びた地。
  • 小沢城 現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷。稲毛重成の嫡男小沢重政の城。重忠の妻が移り、篠塚重興を産んだ。
  • 上古寺 現在の埼玉県比企郡小川町。畠山重慶が、祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り、重忠の遺髪を葬って五輪塔を建てた。
  • 慈光寺 現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平。畠山重慶が剃髪し、第27世別当となった寺。
  • 経師ヶ谷 長勝寺(現在の神奈川県鎌倉市材木座)付近。三浦義村らが榛谷重朝父子を殺した地。
  • 名越殿 時政の計画が露見した時、源実朝が居た屋敷。実朝は此処から義時の屋敷へ移された。
  • 伊豆国北条郷 現在の静岡県伊豆の国市韮山。北条時政と牧の方が追放された地。
  • 仙洞御所 平賀朝雅が囲碁を打っていた時に、鎌倉から討手が差し向けられた事を知った御所。
  • 松坂 現在の京都府京都市山科区厨子奥花鳥町・日ノ岡夷谷町付近。逃れた平賀朝雅が中山通基に射止められた地。

主要な事件・出来事

  • 平賀朝雅の京都派遣(1,203年11月8日) 謀反を防ぐ為、平賀朝雅が京都守護に就く為に上洛する。
  • 京都の誤報(1,204年2月20日〜3月1日) 北条時政が重忠に敗れたという誤報が流れ、翌月には重忠が大倉御所を攻めたという風聞を聞いた藤原定家が、西園寺公経に真偽を確かめる。
  • 源実朝の正室の決定(1,204年8月30日) 坊門信清の娘西八条禅尼を、京都から迎える事が決まる。
  • 迎えの一行の出発(1,204年11月7日) 北条政範・畠山重保らが京都へ向かい、道中で病の政範を重保が介護する。
  • 酒宴の口論(1,204年11月26日) 平賀朝雅の六角洞院亭の酒宴で、平賀と畠山重保が口論となる。
  • 北条政範の死(1,204年11月27日) 上洛した政範が病で死去する。12月5日、報せを受けた時政と牧の方は悲嘆に暮れた。
  • 西八条禅尼の鎌倉到着(1,205年1月1日) 源実朝の正室となる西八条禅尼が、鎌倉に着く。
  • 牧の方の讒言(1,205年4月頃) 時政と共に稲毛重成を歓待した牧の方が、畠山父子に謀反の意志が有ると讒言する。
  • 畠山重忠の出立(1,205年7月7日) 鎌倉の騒ぎを聞いた重忠が、134騎で菅谷館を発つ。
  • 重忠征伐の決定(1,205年7月9日) 平賀朝雅の讒言を聞いた牧の方の訴えで、時政が、反対する義時・時房を従わせて征伐を決める。
  • 由比ヶ浜の襲撃(1,205年7月10日) 謀反人を討つという名目で集まった兵が、畠山重保を郎従諸共討つ。
  • 二俣川の戦い(1,205年7月10日) 退かずに迎え撃った重忠が、愛甲季隆の矢に倒れる。
  • 義時の述懐と粛清(1,205年7月11日) 義時が重忠の謀反は虚言だったと時政に告げ、同じ日に榛谷重朝・稲毛重成・小沢重政が殺される。
  • 北条時政の失脚(1,205年9月4日〜5日) 実朝暗殺の計画が露見して出家した時政と牧の方が、伊豆国北条郷へ追放される。
  • 平賀朝雅の最期(1,205年9月11日) 京都で討手に襲われた平賀が、松坂で中山通基に射止められる。
  • 大岡時親の出家(1,205年9月19日) 牧の方の兄大岡時親が出家する。

由比ヶ浜、二俣川、そして北条時政の失脚へ──
畠山重忠の乱と其の余波を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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