畠山重忠の乱一元化
西暦1,204年、京の酒宴で交わされた一つの口論──
牧の方の讒言から二俣川へ、畠山重忠の乱の一年十箇月を一元化。
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本書について
西暦1,203年11月8日、鎌倉幕府は謀反を防ぐ事を意図して、平賀朝雅を京都へ派遣した。平賀は第118代武蔵守を罷免され、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛し、其の後第9代京都守護に就任する。武蔵国から京都へ——此の一人の武将の移動が、二年に満たぬ後、鎌倉最大の御家人であった畠山重忠の一族を滅ぼす引き金となった。本書は、平賀朝雅の京都赴任を起点として、畠山重忠の乱と、其の余波たる牧氏事件、そして平賀朝雅自身の最期に至る一年十箇月を、年月日単位で一元化した記録である。
奇妙な事に、乱の一年余り前、京都には既に「其れ」が流れていた。西暦1,204年2月20日、京都にて「北条時政が畠山重忠と戦い敗北し山中に隠れた。大江広元は既に殺害されている」という誤報が流れる。翌3月1日には、藤原定家の下に「畠山重忠が挙兵し、大倉御所を攻めた。北条時政と大江広元が狙われた」という風聞が入った。藤原は西園寺公経の屋敷を訪れて真偽を確かめたが、西園寺は「鎌倉からまだ情報は届いていないが、平賀朝雅が言うには、関東に於ける騒乱の情報は入っていない」という主旨の返答をする。藤原は「陰陽師等の占いでも同様の結果が出ており、此れは天狗の仕業である」とした。天狗の仕業とされた風聞は、一年四箇月の後、現実の輪郭を得る事になる。
西暦1,204年8月30日、鎌倉幕府は源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼と定め、京都から迎える事を決定した。当初は足利義兼の娘が候補に挙がっていたが、源が拒否し、朝廷に打診していたものである。11月7日、北条時政・北条政範・結城朝広・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田朝盛ら16名が、花嫁を迎える為に鎌倉を発った。道中、時政の四男である政範は病を患い、其の介護を担ったのが畠山重忠の六男重保であった。11月25日に一行は上洛し、翌26日、平賀朝雅の六角洞院亭で歓迎の酒宴が開かれる。其の席で平賀と重保が口論となり、周囲の人間が取り成した。そして11月27日、政範は病により死去する。28日に東山辺へ葬られ、12月5日、訃報を受けた北条時政と継室牧の方は悲嘆に暮れた。酒宴の口論と、若い嫡子の死——乱の材料は、此の京都行の道中で出揃っていた。
西暦1,205年1月1日、西八条禅尼が鎌倉に到着する。同年4月頃、北条時政は牧の方と共に稲毛重成を自身の屋敷に呼び出して歓待し、牧の方は稲毛に対して「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言し、様子を探らせる相談をした。牧の方は、政範を碌な医者にも診せず見殺しにしたとして、介護に当たった重保を逆恨みしていたのである。5月1日、時政は稲毛を鎌倉に呼び寄せる。7月7日、稲毛から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた畠山重忠は、弐男重秀・本田近常・乳兄弟の榛澤成清らを含む134騎を率い、菅谷館から鎌倉へ向けて出発した。翌8日には重保も鎌倉に到着する。そして9日、平賀朝雅が牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言した。
北条義時・時房は反対した。「重忠は西暦1,180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしています。もし重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば、後悔する事になります。事の真偽を確認してからでも遅くはありません」——だが牧の方の兄大岡時親が義時の屋敷を訪れ、「重忠の功績は功績であるが、陰謀は陰謀である」と迫り、二人は従わざるを得なかった。7月10日早朝、由比ヶ浜に謀反人を討つという名目で兵が集結する。4時、快晴の浜に、同じ名目で稲毛に招かれた重保が郎従3名と共に到着した。何の警戒心も持たず三浦義村に近付いた重保は、佐久間家村達に馬を包囲され、奮戦の末に郎従諸共殺害される。朝、鶴ヶ峰の麓で子の死と大軍の進発を知った重忠に、本田・榛澤は菅谷館へ退いて討手を待つ様進言した。しかし重忠は「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」として迎え撃つ。12時、北条義時率いる軍が二俣川に到着し、小休止していた重忠の軍を包囲して矢の雨を浴びせた。16時、4時間程交戦した頃、愛甲季隆の射た矢が重忠に命中する。重忠は「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、2本の矢を地面に突き刺して死亡した。菅谷館に居た重忠の妻は24名で加賀国額田荘へ落ち延び、後に小沢城へ移って篠塚重興を産む。四男重慶は上古寺に父の遺髪を埋葬し、慈光寺に登って剃髪し、第27世慈光寺別当となった。
7月11日、鎌倉に帰還した義時は、戦いの様子を尋ねた時政に「従っていたのは僅かに百騎程。重忠が謀反を企てたというのは虚言である。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」と語り、時政は何も言えなかった。同日夕方、三浦義村等は経師ヶ谷で榛谷重朝父子3名を殺害し、畠山を誘き出した稲毛重成は大河戸行元に、其の嫡男小沢重政は宇佐美祐村に、其々殺害される。乱は、仕掛けた側の粛清までを含んで完結した。そして9月4日、北条政子と義時は、時政が源実朝を暗殺して平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事に気付く。政子が遣わした御家人達によって実朝は保護され、兵を招集した時政は孤立無援となり、牧の方と共に此の日の内に出家した。翌5日、義時は二人を伊豆国北条郷へ追放し、第2代執権及び第3代政所別当に就任する。9月11日、京都では仙洞御所で囲碁を打っていた平賀朝雅が討手の報せを受け、東洞院通・六角通の屋敷へ戻った所を襲撃され、逃れた松坂で中山通基に射止められて死亡した。9月19日、大岡時親の出家をもって、此の一年十箇月は閉じる。
登場人物
- 畠山重忠 本書の中心人物。鎌倉幕府の御家人。西暦1,180年の源頼朝の挙兵以来、忠義を尽くした武将。西暦1,205年7月9日、平賀朝雅の讒言に端を発して謀反の嫌疑を掛けられ、翌10日朝、鶴ヶ峰の麓で子の重保の殺害と大軍の進発を知る。本田近常・榛澤成清の退却進言を退け「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」として迎え撃ち、16時、愛甲季隆の矢を受けて「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺し死亡した。
- 畠山重保 畠山重忠の六男。西暦1,204年11月7日、西八条禅尼を迎える一行に加わり、道中で病を患った北条政範の介護を担った。11月26日、平賀朝雅の六角洞院亭の酒宴で平賀と口論となる。西暦1,205年7月8日に稲毛重成に呼び寄せられて鎌倉に到着し、7月10日4時、謀反人を討つという名目で由比ヶ浜に招かれ、警戒心を持たぬまま三浦義村に近付いた所を佐久間家村達に包囲され、郎従3名諸共殺害された。
- 畠山重秀 畠山重忠の弐男。西暦1,205年7月7日、本田近常・榛澤成清等と共に134騎を率いて菅谷館を発った父に従い、7月10日の二俣川の戦いで父の戦死を知って自害した。
- 畠山重慶 畠山重忠の四男。西暦1,205年7月10日の敗戦の後、上古寺の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り、其処に父の遺髪を埋葬して五輪塔を建て弔った。其の後、慈光寺に登って剃髪し、第27世慈光寺別当に就任した。畠山の血を僧として残した人物。
- 畠山重忠の妻 北条時政の娘であり、北条義時・時房の姉妹。重忠が源頼家の味方でありながら比企能員征伐で北条方に付いた理由も、此の姻戚の義理に在ったと義時は述べている。西暦1,205年7月10日、菅谷館から家臣達を含む24名で加賀国額田荘司の下に落ち延び、其の後重忠の遺命により小沢城へ移り、其処で篠塚重興を出産した。
- 本田近常 畠山重忠の郎党。西暦1,205年7月7日の鎌倉への出立に同行し、7月10日の鶴ヶ峰では榛澤成清と共に「菅谷館に立て籠って討手を待った方が良い」と進言したが退けられた。二俣川の戦いで重忠の戦死を知り自害した。
- 榛澤成清 畠山重忠の乳兄弟。西暦1,205年7月7日の出立に同行し、鶴ヶ峰では本田近常と共に籠城を進言した。7月10日の二俣川の戦いで討たれた。
- 北条時政 鎌倉幕府初代執権。西暦1,204年11月7日、西八条禅尼を迎える為に上洛し、11月27日に四男政範を失って悲嘆に暮れた。西暦1,205年4月頃、牧の方と共に稲毛重成を呼び出して畠山父子の探索を相談し、7月9日には北条義時・時房の反対を押し切って畠山征伐を決定する。9月4日、源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が露見して此の日の内に出家し、翌5日、伊豆国北条郷へ追放された。
- 牧の方 北条時政の継室。北条政範の母。西暦1,205年4月頃、政範を碌な医者にも診せず見殺しにしたとして畠山重保を逆恨みし、稲毛重成に「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言した。7月9日、平賀朝雅の讒言を受けて畠山父子の謀反として時政に訴え、兄大岡時親を義時の屋敷に遣わせて征伐への同意を迫った。9月4日に出家し、翌5日、時政と共に伊豆国北条郷へ追放された。
- 北条義時 北条時政の息子。北条政子の弟。西暦1,205年7月9日、時房と共に「重忠は西暦1,180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしています」と畠山征伐に反対したが、大岡時親を通じた牧の方の圧力により同意し、7月10日の二俣川の戦いを率いた。7月11日には時政に「重忠が謀反を企てたというのは虚言である。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」と語っている。9月4日の牧氏事件では政子と共に時政の計画を察知し、翌5日、時政・牧の方を追放して第2代執権及び第3代政所別当に就任した。
- 北条時房 北条義時の弟。西暦1,205年7月9日、義時と共に畠山征伐に反対したが、牧の方の意向により同意した。
- 大岡時親 牧の方の兄。西暦1,205年7月9日、北条義時の屋敷を訪れ「重忠の功績は功績であるが、陰謀は陰謀である。貴殿は重忠に代わって悪だくみを誤魔化そうとしている」という主旨の牧の方の意見を伝え、征伐への同意を迫った。9月19日に出家し、本書は此の日をもって閉じる。
- 北条政範 北条時政の四男。牧の方の息子。西暦1,204年11月7日、西八条禅尼を迎える一行に加わったが道中で病を患い、畠山重保の介護を受けた。11月25日に上洛し、26日の酒宴の翌27日、病により死去。28日に東山辺へ葬られ、12月5日に鎌倉へ訃報が届いた。母牧の方の重保への逆恨みを生んだ人物。
- 平賀朝雅 西暦1,203年11月8日、第118代武蔵守を罷免された後に上洛し、第9代京都守護に就任した武将。西暦1,204年11月26日、六角洞院亭の酒宴で畠山重保と口論となる。西暦1,205年7月9日、牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言し、畠山征伐の直接の発端を作った。9月4日には源実朝暗殺後の将軍候補として名が挙がっている事が露見し、9月11日、仙洞御所から戻った屋敷を襲撃され、逃れた松坂で中山通基に射止められ死亡した。
- 稲毛重成 鎌倉幕府の御家人。小沢重政の父。西暦1,205年4月頃、北条時政と牧の方に屋敷へ呼び出され、畠山父子の探索を頼まれた。5月1日に鎌倉へ呼び寄せられ、7月7日には「鎌倉で騒ぎが有る」との話で畠山重忠を誘き出し、7月8日に重保を鎌倉へ招いた。畠山征伐の後の7月11日、大河戸行元に殺害された。
- 小沢重政 稲毛重成の嫡男。小沢城主。西暦1,205年7月10日の後、重忠の妻一行が其の姉や綾小路局の養子小沢重量を頼って小沢城へ移り住んだ。7月11日、父稲毛重成と同じ日に宇佐美祐村によって殺害された。
- 三浦義村 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年7月10日早朝、北条時政の指示を受けて佐久間家村と共に由比ヶ浜に兵を集結させ、畠山重保の殺害に加わった。7月11日夕方には経師ヶ谷で榛谷重朝父子3名を殺害し、9月4日の牧氏事件では源実朝の保護に当たっている。
- 佐久間家村 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年7月10日4時、北条時政の指示により三浦義村と共に由比ヶ浜へ出て、畠山重保の馬を包囲し郎従諸共殺害した。
- 愛甲季隆 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年7月10日16時、4時間程の交戦の末に射た矢が畠山重忠に命中し、重忠を落命させた。
- 榛谷重朝 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年7月11日夕方、経師ヶ谷にて三浦義村等により、嫡男榛谷重季・弐男榛谷秀重と共に殺害された。畠山征伐の連座として粛清された人物。
- 大河戸行元 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年7月11日、畠山重忠・重保を誘き出した稲毛重成を殺害した。
- 宇佐美祐村 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年7月11日、稲毛重成の嫡男で小沢城主の小沢重政を殺害した。
- 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1,204年8月30日、正室に西八条禅尼を迎える事が決定された。西暦1,205年7月9日、北条時政から畠山征伐を訴えられて同意する。9月4日の牧氏事件では暗殺計画の標的となり、北条政子が遣わした御家人達によって名越殿から義時の屋敷へ移され保護された。
- 北条政子 源頼朝の御台所。源実朝の母。西暦1,205年9月4日、北条時政が実朝を暗殺し平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事を義時と共に察知し、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を保護した。
- 西八条禅尼 坊門信清の娘。源実朝の正室。西暦1,204年8月30日、後鳥羽上皇の外叔の娘として京都から迎える事が決定され、11月7日に北条時政一行が迎えに発ち、西暦1,205年1月1日に鎌倉へ到着した。此の婚儀の為の京都行が、北条政範の死と平賀朝雅・畠山重保の口論を生んだ。
- 藤原定家 朝廷の歌人。西暦1,204年3月1日、「畠山重忠が挙兵し、大倉御所を攻めた」という風聞を受けて西園寺公経の屋敷を訪れ真偽を確かめ、「陰陽師等の占いでも同様の結果が出ており、此れは天狗の仕業である」とした。乱の一年四箇月前の京都の空気を伝える人物。
- 西園寺公経 朝廷の公卿。西暦1,204年3月1日、藤原定家の問い合わせに対し「鎌倉からまだ情報は届いていないが、平賀朝雅が言うには、関東に於ける騒乱の情報は入っていないとの事だ」という主旨の返答をした。
- 中山通基 山内首藤経俊の六男。西暦1,205年9月11日、屋敷を襲撃されて逃亡した平賀朝雅を松坂で射止め、死に至らしめた。
- 佐々木盛綱 鎌倉幕府の御家人。西暦1,205年9月11日、五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重・金持広親と共に平賀朝雅の屋敷を襲撃し、防戦の末に逃亡した平賀を金持広親等と追撃した。
主要な地名・拠点
- 大倉御所 鎌倉幕府の政庁。西暦1,204年3月1日、藤原定家の下に届いた風聞では、畠山重忠が挙兵して攻めたとされた地。
- 平賀朝雅の六角洞院亭 京都に於ける平賀朝雅の居所。西暦1,204年11月26日、前日に上洛した北条時政一行を歓迎する酒宴が開かれ、其の席で平賀と畠山重保が口論となった。本書最大の遠因を生んだ座敷。
- 東山辺 現在の大阪府豊能郡能勢町山辺。西暦1,204年11月28日、前日に京都で病死した北条政範が葬られた地。
- 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1,205年7月10日早朝、北条時政の指示で三浦義村・佐久間家村が兵を集結させ、4時、稲毛重成に招かれて到着した畠山重保が郎従3名諸共殺害された地。乱の開戦の場。
- 菅谷館 現在の埼玉県比企郡嵐山町。畠山重忠の居館。西暦1,205年7月7日、重忠が134騎を率いて鎌倉へ発った地であり、7月10日には残された重忠の妻一行が落ち延びる出発点ともなった。
- 鶴ヶ峰 現在の神奈川県横浜市旭区。西暦1,205年7月10日朝、畠山重忠が布陣していた地。此の麓で子重保の殺害と大軍の進発を知り、退却の進言を退けて迎え撃つ事を決めた。
- 二俣川 現在の神奈川県横浜市旭区。西暦1,205年7月10日12時、北条義時率いる軍が到着して畠山重忠の軍を包囲し、矢の雨を浴びせた地。16時、愛甲季隆の矢を受けた重忠が2本の矢を地面に突き刺して死亡した、本書最大の合戦地。
- 加賀国額田荘 現在の石川県小松市額見町付近。西暦1,205年7月10日、畠山重忠の妻が家臣達を含む24名で落ち延び、荘司の下に身を寄せた地。
- 小沢城 現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷。稲毛重成の嫡男小沢重政の居城。重忠の遺命により、重忠の妻一行が重政の姉や綾小路局の養子小沢重量を頼って移り住み、此処で篠塚重興が生まれた。
- 上古寺 現在の埼玉県比企郡小川町。畠山重忠の祖父畠山重弘の弟畠山重遠が居た地。四男重慶が頼り、父の遺髪を埋葬して五輪塔を建て弔った。
- 慈光寺 現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平。畠山重慶が上古寺の後に登って剃髪し、第27世慈光寺別当に就任した寺。
- 経師ヶ谷 長勝寺(現在の神奈川県鎌倉市材木座)付近。西暦1,205年7月11日夕方、三浦義村等が榛谷重朝と嫡男重季・弐男秀重を殺害した地。
- 伊豆国北条郷 現在の静岡県伊豆の国市韮山。北条氏の本貫地。西暦1,205年9月5日、北条義時が父時政と牧の方を鎌倉から追放した先。
- 仙洞御所 京都の後鳥羽上皇の御所。西暦1,205年9月11日、平賀朝雅が囲碁を打っていた所へ、召し使いの少年が鎌倉からの討手の報せを伝えた地。平賀は上皇に退出の許可を得て屋敷へ戻った。
- 平賀朝雅の京都屋敷 東洞院通・六角通(現在の京都府京都市中京区東洞院通六角下る御射山町、六角通東洞院東入三文字町付近)。西暦1,205年9月11日、仙洞御所から戻った平賀朝雅が五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重・金持広親・佐々木盛綱に襲撃された地。
- 松坂 現在の京都府京都市山科区厨子奥花鳥町・日ノ岡夷谷町付近。西暦1,205年9月11日、屋敷から逃れた平賀朝雅が中山通基に射止められ死亡した、平賀終焉の地。
主要な事件・出来事
- 平賀朝雅の京都守護就任 西暦1,203年11月8日、鎌倉幕府は謀反を防ぐ事を意図して平賀朝雅を京都へ派遣した。平賀は第118代武蔵守を罷免され、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛し、第9代京都守護に就任する。本書の起点。
- 京都の誤報と藤原定家の確認 西暦1,204年2月20日、京都にて「北条時政が畠山重忠と戦い敗北し山中に隠れた。大江広元は既に殺害されている」という誤報が流れた。3月1日には藤原定家の下に同様の風聞が入り、西園寺公経の屋敷で真偽を確かめた末、「天狗の仕業である」とされた。一年四箇月後の現実を先取りした風聞。
- 源実朝の正室決定 西暦1,204年8月30日、鎌倉幕府は源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼と定め、京都から迎える事を決定した。当初は足利義兼の娘が候補であったが、源が拒否して朝廷に打診していた。
- 西八条禅尼を迎える京都行 西暦1,204年11月7日、北条時政・北条政範・結城朝広・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田朝盛・土肥惟光・葛西清宣・佐原景連・多々良明宗・長江義景・宇佐美祐能・佐々木盛季・南條平次・安西四郎の16名が鎌倉を発った。道中、政範は病を患い、介護は重保が担った。11月25日に上洛。
- 平賀朝雅邸の酒宴と口論 西暦1,204年11月26日、平賀朝雅の六角洞院亭にて北条時政一行を歓迎する酒宴が開かれ、其の席で平賀と畠山重保が口論となった。周囲の人間が取り成したが、此の一件が後の讒言の火種となる。
- 北条政範の死 西暦1,204年11月27日、北条政範が病により死去し、28日に東山辺へ葬られた。12月5日に訃報が鎌倉幕府へ齎され、北条時政と牧の方は悲嘆に暮れる。牧の方が介護に当たった畠山重保を逆恨みする原因となった、乱の心理的な起点。
- 西八条禅尼の鎌倉到着 西暦1,205年1月1日、西八条禅尼が鎌倉に到着した。前年8月30日に決まった婚儀が、四箇月余りの旅を経て結実した日。
- 牧の方の讒言と稲毛重成への相談 西暦1,205年4月頃、北条時政が牧の方と共に稲毛重成を屋敷に呼び出して歓待し、牧の方は「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言して様子を探らせる相談をした。逆恨みが具体的な策謀に変わった瞬間。
- 畠山重忠の菅谷館出立 西暦1,205年7月7日、稲毛重成から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた畠山重忠が、弐男重秀・本田近常・乳兄弟の榛澤成清らを含む134騎を率い、菅谷館から鎌倉へ向けて出発した。翌8日には畠山重保も鎌倉に到着している。
- 平賀朝雅の讒言と畠山征伐の決定 西暦1,205年7月9日、平賀朝雅が牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言し、牧の方は畠山父子の謀反として北条時政に訴えた。北条義時・時房は重忠の忠義を挙げて反対したが、大岡時親を通じた牧の方の圧力により同意し、稲毛重成・源実朝も同意した。
- 由比ヶ浜での畠山重保殺害 西暦1,205年7月10日早朝、北条時政の指示で三浦義村・佐久間家村が由比ヶ浜に兵を集結。4時、謀反人を討つという名目で稲毛重成に招かれた畠山重保が郎従3名と共に到着し、警戒心を持たず三浦に近付いた所を包囲され、奮戦の末に殺害された。
- 二俣川の戦いと畠山重忠の最期 西暦1,205年7月10日朝、鶴ヶ峰の麓で子の死を知った畠山重忠は退却の進言を退けて迎え撃った。12時に北条義時率いる軍が二俣川へ到着し、16時、4時間程の交戦の末、愛甲季隆の矢が重忠に命中する。重忠は「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺し死亡し、榛澤成清は討死、畠山重秀・本田近常等は自害して戦闘は終了した。
- 畠山一族の落ち延び 西暦1,205年7月10日、菅谷館に居た重忠の妻は家臣達を含む24名で加賀国額田荘司の下へ落ち延び、其の後遺命により小沢城へ移って篠塚重興を出産した。四男畠山重慶は上古寺に父の遺髪を埋葬して五輪塔を建て、慈光寺に登って第27世別当となる。
- 北条義時の帰還と述懐 西暦1,205年7月11日、鎌倉に帰還した北条義時は、戦いの様子を尋ねた時政に「従っていたのは僅かに百騎程。重忠が謀反を企てたというのは虚言である。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」と語り、時政は何も言えなかった。
- 榛谷重朝・稲毛重成・小沢重政の粛清 西暦1,205年7月11日夕方、三浦義村等が経師ヶ谷にて榛谷重朝・榛谷重季・榛谷秀重を殺害した。又此の日、稲毛重成は大河戸行元に、小沢重政は宇佐美祐村に其々殺害されている。畠山を嵌めた側までが消された連座粛清。
- 牧氏事件 西暦1,205年9月4日、北条時政が源実朝を暗殺して平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事に北条政子・北条義時が気付く。政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を義時の屋敷へ移し保護した。時政は兵を招集するも孤立無援となり、牧の方と共に此の日の内に出家した。
- 北条時政・牧の方の追放と義時の執権就任 西暦1,205年9月5日、北条義時が北条時政・牧の方を鎌倉から伊豆国北条郷へ追放した。又此の頃、義時は第2代執権及び第3代政所別当に就任する。同日、三善康信・安達景盛等が義時の屋敷に集まり、平賀朝雅征伐の相談を行った。
- 平賀朝雅の京都での殺害 西暦1,205年9月10日、平賀朝雅を征伐する事を伝える使者が鎌倉から京都に到着。翌11日、仙洞御所で囲碁を打っていた平賀は討手の報せを受け、東洞院通・六角通の屋敷へ戻った所を襲撃され、防ぎ切れず逃亡し、松坂で中山通基に射止められ死亡した。9月16日、其の報告が鎌倉に届いた。
- 大岡時親の出家 西暦1,205年9月19日、牧の方の兄大岡時親が出家した。畠山征伐への同意を義時に迫った人物の隠遁であり、本書の終着点。
由比ヶ浜から二俣川、そして牧氏事件へ──
畠山重忠の乱と其の余波の全過程を一元化。
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