電子書籍「畠山重忠の乱一元化」の表紙

畠山重忠の乱一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,203年11月8日〜1,205年9月19日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月18日

北条政範の死・平賀朝雅邸の口論・牧の方の讒言・二俣川の戦い・牧氏事件・平賀朝雅の京都での殺害──
畠山重忠の乱の1年10箇月を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1203年11月、鎌倉幕府が謀反を防ぐ為に平賀朝雅を京都守護に就任させ京都に派遣した日から、西暦1205年9月、北条時政・牧の方の源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が発覚した牧氏事件の後、平賀朝雅が京都で殺害され、大岡時親が出家した日まで。本書は、平賀朝雅と畠山重保の酒宴での口論を端緒とし、牧の方の讒言により発生した畠山重忠の乱と、其の余波として発生した牧氏事件、北条時政・牧の方の失脚、平賀朝雅の京都での殺害迄の約1年10箇月間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1203年11月8日、鎌倉幕府が謀反を防ぐ事を意図し、平賀朝雅を第9代京都守護に就任させる為に京都に派遣した。平賀は第118代武蔵守を罷免され、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛した。西暦1204年2月20日には京都で「北条時政が畠山重忠と戦い敗北した」との誤報が流れ、3月1日には藤原定家が此の風聞について西園寺公経の屋敷を訪れ確認、西園寺は「平賀朝雅が言うには関東の騒乱情報は入っていない」と返答、藤原は「陰陽師の占いでも同様の結果であり、天狗の仕業である」とした。8月30日、鎌倉幕府は源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼とし京都から迎える事を決定、11月7日、北条時政・北条政範・畠山重保・結城朝広・千葉常秀・八田知尚・和田朝盛等が西八条禅尼を迎える為に京都へ向けて鎌倉を出発した。道中北条政範は病を患い、介護は重保が担った。11月25日上洛、11月26日の平賀朝雅の六角洞院亭での歓迎酒宴で平賀と畠山重保が口論となるも周囲が取り成し、翌27日、北条政範が病により死去、28日に東山辺に葬られた。12月5日、死去報告を受けた北条時政と継室牧の方は悲嘆に暮れた、後の畠山征伐の伏線。

西暦1205年1月1日西八条禅尼鎌倉到着、4月、牧の方が稲毛重成に「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言、様子を探らせる相談をした。牧の方は、北条政範が上洛途上で病死した件について、介護した畠山重保を「碌な医者にも診せず見殺しにした」として逆恨みしていた。5月1日、北条時政が稲毛重成を鎌倉に呼び寄せた。7月7日、稲毛から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた畠山重忠が、畠山重秀・本田近常・榛澤成清を含む134騎を率い菅谷館から鎌倉へ向けて出発、7月8日、稲毛に呼び寄せられた畠山重保が鎌倉に到着した。7月9日、平賀朝雅が牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言、牧の方が畠山父子の謀反として北条時政に訴えた。北条義時・北条時房は「畠山重忠は西暦1180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしている、讒言によって征伐すれば後悔する事になる」と反対したが、牧の方の兄大岡時親が義時の屋敷を訪れて牧の方の意向を伝え、最終的に義時・時房は同意、稲毛重成・源実朝も同意した。7月10日早朝、三浦義村・佐久間家村が由比ヶ浜に兵を集結、4時、謀反人を討つという名目で稲毛重成に招かれた畠山重保が郎従3名と共に到着、警戒心無く三浦に近付いた所を佐久間達に包囲され、奮戦するも郎従諸共殺害された。朝、布陣していた鶴ヶ峰の麓で重保殺害と大軍進軍を知った畠山重忠は、本田・榛澤の菅谷館への退却進言を退け「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ」として迎え撃った。12時、北条義時率いる軍が二俣川に到着、16時、愛甲季隆の射た矢が重忠に命中、重忠は「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺し死亡した。榛澤討死、重秀・本田等は自害、戦闘は終了した。重忠の妻は家臣24名で加賀国額田荘に落ち延び、其の後小沢城の小沢重政を頼り小沢城で篠塚重興を出産、四男畠山重慶は上古寺の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り剃髪し後に第27世慈光寺別当に就任した。

西暦1205年7月11日、北条義時が鎌倉に帰還し、戦いの様子を尋ねた北条時政に「重忠の弟や親類は他所へ赴いていた、従っていたのは僅かに百騎程。重忠が謀反を企てたというのは虚言である。讒言によって征伐されたのでは不便極まりない。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」と語り、時政は何も言えなかった。同日夕方、三浦義村等が経師ヶ谷にて榛谷重朝・榛谷重季・榛谷秀重を殺害、稲毛重成は大河戸行元に、小沢重政は宇佐美祐村に其々殺害された。9月4日、北条時政が源実朝を暗殺し平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事を北条政子・北条義時が察知、政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を義時の屋敷に保護、時政は兵を招集するも部下達が実朝の警護に当たった為孤立、時政と牧の方は此の日の内に出家した。9月5日、義時が時政・牧の方を伊豆国北条郷へ追放、義時は第2代執権及び第3代政所別当に就任、同日三善康信・安達景盛と平賀朝雅征伐を相談した。9月10日、平賀朝雅征伐を伝える使者が京都に到着、9月11日、仙洞御所で囲碁を打っていた平賀は召し使いの少年から討手の件を伝えられ、後鳥羽上皇に退出の許可を得て東洞院通・六角通の屋敷に戻ったが、五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重・金持広親・佐々木盛綱に襲撃され、防ぎ切れず逃亡、松坂にて山内首藤経俊の六男中山通基に射止められ死亡した。9月16日、平賀朝雅暗殺の報告が鎌倉に届き、9月19日、大岡時親が出家した、本書の終結点。


登場人物

  • 畠山重忠 本書の主人公。鎌倉幕府御家人。西暦1180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くした武将。西暦1205年7月9日、平賀朝雅の牧の方への讒言により謀反の嫌疑を掛けられた。7月10日朝、鶴ヶ峰の麓で子の重保の殺害と大軍進軍を知り、本田近常・榛澤成清の退却進言を退け「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」として迎え撃ち、16時、愛甲季隆の矢に倒れ「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺し死亡した、武士道の体現者。
  • 畠山重保 畠山重忠の六男。西暦1204年11月7日、西八条禅尼を迎える為に京都へ向かう一行に参加、道中病を患った北条政範の介護を担った。11月26日、平賀朝雅の六角洞院亭での酒宴で平賀と口論となった。西暦1205年7月8日、稲毛重成に呼び寄せられて鎌倉に到着、7月10日4時、謀反人を討つという名目で稲毛に招かれ由比ヶ浜に郎従3名と共に到着、警戒心無く三浦義村に近付いた所を佐久間家村達に包囲され奮戦するも郎従諸共殺害された、本書の最初の犠牲者。
  • 畠山重秀 畠山重忠の弐男。西暦1205年7月7日、本田近常・榛澤成清等と共に134騎を率いて菅谷館から出発した父重忠に従い、7月10日の二俣川の戦いで父の戦死後、本田等と共に自害した。
  • 畠山重慶 畠山重忠の四男。父母の逃亡後、上古寺の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り、其処に父の遺髪を埋葬し五輪塔を建てて弔った。其の後慈光寺に登り剃髪して第27世慈光寺別当に就任した、畠山の血を僧として残した人物。
  • 畠山重忠の妻 北条時政の娘。北条義時・時房の兄弟。西暦1205年7月10日、菅谷館に居たが夫と息子の戦死を受け、家臣24名を含む一行で加賀国額田荘司の下に落ち延び、其の後重忠の遺命により小沢城の小沢重政を頼って移動、小沢城にて篠塚重興を出産した。畠山の血を次代に繋いだ人物。
  • 本田近常 畠山重忠の郎党。西暦1205年7月7日、畠山重忠の鎌倉への出立に同行、7月10日の鶴ヶ峰での軍議では榛澤成清と共に「菅谷館に立て籠って討手を待った方が良い」と進言したが重忠に退けられた。二俣川の戦いで重忠の戦死後、重秀等と共に自害した。
  • 榛澤成清 畠山重忠の乳兄弟。西暦1205年7月7日、重忠の鎌倉への出立に同行、7月10日の二俣川の戦いで討死した。
  • 北条時政 鎌倉幕府初代執権。源実朝の外祖父。西暦1204年11月7日、西八条禅尼を迎える為に京都へ向けて出発、11月27日に息子北条政範を失って悲嘆に暮れた。西暦1205年4月、継室牧の方の讒言を受けて稲毛重成と畠山討伐の相談を始め、7月9日に北条義時・時房の反対を押し切り畠山征伐を決定した。9月4日、源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が発覚し此の日の内に出家、9月5日に伊豆国北条郷へ追放された、本書前半の黒幕にして後半の失脚者。
  • 牧の方 北条時政の継室。西暦1205年4月、北条政範の死の介護担当であった畠山重保を「碌な医者にも診せず見殺しにした」と逆恨みし、稲毛重成に「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言した。7月9日、平賀朝雅の「畠山重保から悪口を言われた」との讒言を受け、畠山父子の謀反として北条時政に訴え、兄大岡時親を義時の屋敷に遣わせて征伐への同意を強要した。9月4日、源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が発覚し此の日の内に出家、9月5日に時政と共に伊豆国北条郷へ追放された、本書の最大の讒言者。
  • 北条義時 北条時政の息子。北条政子の弟。西暦1205年7月9日の畠山征伐に対し「畠山重忠は源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしている、讒言によって征伐すれば後悔する」と時房と共に反対したが、牧の方の圧力により同意、7月10日の二俣川の戦いの総大将を務めた。7月11日に鎌倉帰還し時政に「重忠が謀反を企てたというのは虚言である、首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」と語った。9月4日の牧氏事件で父と牧の方を察知、9月5日に伊豆国北条郷へ追放し、第2代執権及び第3代政所別当に就任した、本書の転換点を担った人物。
  • 北条時房 北条義時の弟。西暦1205年7月9日、畠山征伐に義時と共に反対するも牧の方の意向で同意、二俣川の戦いに参加した。
  • 大岡時親 牧の方の兄。西暦1205年7月9日、北条義時の屋敷を訪れ「私が継母であるが故に反対しているのではないか、重忠の謀反は既に発覚している事で、貴殿は重忠に代わって悪だくみを誤魔化そうとしている」と牧の方の意向を伝え、義時に畠山征伐への同意を強要した。9月19日、牧氏事件の余波として出家した、本書終盤の余燼の人物。
  • 北条政範 北条時政の四男。牧の方の息子。西暦1204年11月7日、西八条禅尼を迎える京都行の一行に参加、道中病を患い畠山重保の介護を受けた。11月25日上洛、26日の平賀朝雅邸での酒宴の後、27日に病により死去、28日に東山辺に葬られた。12月5日、鎌倉に死去報告が届いた時、時政と牧の方は悲嘆に暮れた、牧の方の畠山重保への逆恨みの原因となった人物。
  • 平賀朝雅 源氏の武将。西暦1203年11月8日、第9代京都守護に就任。西暦1204年3月1日、藤原定家に西園寺公経経由で関東騒乱情報を「情報は入っていない」と返答、11月26日の六角洞院亭での酒宴では北条時政一行を歓迎しつつ畠山重保と口論となった。西暦1205年7月9日、牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言、畠山征伐の直接の発端を作った。9月4日の牧氏事件で源実朝暗殺後の次期征夷大将軍擁立候補として発覚、9月11日仙洞御所で囲碁中に討手の件を伝えられ、東洞院通・六角通の屋敷に戻るも襲撃、松坂にて中山通基に射止められ死亡した、本書の主要な扇動者にして最期の犠牲者。
  • 稲毛重成 畠山重忠の縁者。西暦1205年4月、北条時政と牧の方に自身の屋敷に呼び出され、牧の方から畠山父子の謀反の探索を頼まれた。5月1日に鎌倉に呼び寄せられ、7月7日に「鎌倉で騒ぎが有る」との話で畠山重忠を誘き寄せ、7月8日に畠山重保を鎌倉に呼び寄せた。畠山征伐後の7月11日、大河戸行元に殺害された、畠山を嵌める役割を演じた後捨てられた人物。
  • 小沢重政 稲毛重成の嫡男。小沢城主。西暦1205年7月10日の畠山征伐後、重忠の妻が綾小路局の養子小沢重量と共に頼った人物であり、小沢城にて重忠の妻が篠塚重興を出産した地を提供した。7月11日、父稲毛重成と共に粛清され、宇佐美祐村によって殺害された。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。西暦1205年7月10日早朝、北条時政の指示により佐久間家村と共に由比ヶ浜に兵を集結させ、畠山重保を殺害した。7月11日夕方には経師ヶ谷にて榛谷重朝・榛谷重季・榛谷秀重を殺害、9月4日の牧氏事件では長沼宗政等と共に源実朝の保護に当たった、畠山の乱の実行者。
  • 佐久間家村 鎌倉幕府御家人。西暦1205年7月10日4時、北条時政の指示により三浦義村と共に由比ヶ浜に兵を集結、畠山重保の馬を包囲し郎従諸共殺害した、畠山重保殺害の実行者。
  • 愛甲季隆 鎌倉幕府御家人。西暦1205年7月10日16時、二俣川の戦いにて4時間程の交戦の末、畠山重忠に矢を射当てて落命させた、畠山重忠殺害の直接の実行者。
  • 榛谷重朝 鎌倉幕府御家人。西暦1203年10月8日の比企一族征伐にも参加した武将。西暦1205年7月11日夕方、経師ヶ谷にて三浦義村等により嫡男榛谷重季・弐男榛谷秀重と共に殺害された、畠山征伐の連座として粛清された人物。
  • 大河戸行元 鎌倉幕府御家人。西暦1205年7月11日、稲毛重成を殺害した。
  • 宇佐美祐村 鎌倉幕府御家人。西暦1205年7月11日、小沢城主で稲毛重成の嫡男であった小沢重政を殺害した。
  • 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1205年7月9日、北条時政から畠山征伐について訴えられ同意した。9月4日の牧氏事件では、北条時政・牧の方の暗殺計画対象となり、北条政子の派遣した長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景により名越殿から義時の屋敷に移動して保護された、本書の守られる存在。
  • 北条政子 源頼朝の御台所。源実朝の母。西暦1205年9月4日、北条時政・牧の方の源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画を北条義時と共に察知、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を義時の屋敷に保護した、本書後半の政変の主導者。
  • 西八条禅尼 坊門信清の娘。源実朝の正室。西暦1204年8月30日、後鳥羽上皇の外叔の娘として藤原兼子の推薦により京都から鎌倉に迎える事が決定された。11月7日に北条時政一行が京都へ迎えに出発、西暦1205年1月1日に鎌倉に到着した。北条政範の死、畠山重保と平賀朝雅の口論、畠山の乱の連鎖反応の端緒となった結婚の花嫁。
  • 藤原定家 朝廷の歌人。西暦1204年3月1日、「畠山重忠が挙兵し大倉御所を攻めた、北条時政と大江広元が狙われた」との風聞を受けて西園寺公経の屋敷を訪れ真偽を確認、「陰陽師等の占いでも同様の結果が出ており、此れは天狗の仕業である」とした、本書の京都側の視点を提供する人物。
  • 西園寺公経 朝廷の公卿。西暦1204年3月1日、藤原定家の風聞確認の問い合わせに対し「鎌倉からまだ情報は届いていないが、平賀朝雅が言うには、関東に於ける騒乱の情報は入っていないとの事だ」と返答した、京都と鎌倉を結ぶ情報の媒介者。
  • 中山通基 山内首藤経俊の六男。西暦1205年9月11日、京都で平賀朝雅が東洞院通・六角通の屋敷から逃亡した際、松坂にて射止めて平賀を殺害した、本書の最後の執行者。
  • 佐々木盛綱 鎌倉幕府御家人。西暦1205年9月11日、五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重・金持広親と共に平賀朝雅の東洞院通・六角通の屋敷を襲撃、防戦する平賀を金持等と共に追撃した、平賀朝雅討伐軍の中核。

主要な地名・拠点

  • 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目。鎌倉幕府の本拠。西暦1204年3月1日、藤原定家の下に届いた風聞では、畠山重忠が挙兵して攻めたとされた地。
  • 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1205年7月10日4時、北条時政の指示により三浦義村・佐久間家村が兵を集結させ、謀反人を討つ名目で稲毛重成に招かれた畠山重保を郎従3名諸共殺害した地、本書の畠山の乱の開戦の舞台。
  • 菅谷館 現在の埼玉県比企郡嵐山町。畠山重忠の居館。西暦1205年7月7日、畠山重忠が畠山重秀・本田近常・榛澤成清を含む134騎を率いて鎌倉へ出発した地。畠山重忠の妻一行が落ち延びた出発点。
  • 鶴ヶ峰 現在の神奈川県横浜市旭区。西暦1205年7月10日朝、畠山重忠が布陣していた地。此の地の麓で畠山重保の殺害と大軍進軍を知り、二俣川への進軍を決意した。
  • 二俣川 現在の神奈川県横浜市旭区。西暦1205年7月10日12時、北条義時率いる軍が到着し、畠山重忠の軍を包囲し矢の雨を浴びせた地。16時、愛甲季隆の矢を受けて重忠が「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺して死亡した、本書最大の合戦地。
  • 経師ヶ谷 長勝寺(現在の神奈川県鎌倉市材木座)付近。西暦1205年7月11日夕方、三浦義村等が榛谷重朝・嫡男榛谷重季・弐男榛谷秀重を殺害した地、畠山の乱の連座粛清の舞台。
  • 加賀国額田荘 現在の石川県小松市額見町付近。西暦1205年7月10日、畠山重忠の妻が家臣24名と共に落ち延びた地。額田荘司の下に身を寄せた後、小沢城へと移動した、畠山の血統逃避の第1段階。
  • 小沢城 現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷。稲毛重成の嫡男小沢重政の居城。西暦1205年7月10日、畠山重忠の遺命により、重忠の妻一行が重政の姉や綾小路局の養子小沢重量を頼って移り住んだ地。此処で重忠の妻が篠塚重興を出産した、畠山の血統の再出発点。
  • 上古寺 現在の埼玉県比企郡小川町。畠山重忠の祖父畠山重弘の弟畠山重遠が居た地。西暦1205年7月10日以降、重忠の四男畠山重慶が頼って遺髪を埋葬し五輪塔を建てて弔った地。
  • 慈光寺 現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平。西暦1205年7月10日以降、畠山重慶が上古寺から登り剃髪して第27世慈光寺別当に就任した地、畠山の血を僧として残した場所。
  • 平賀朝雅の六角洞院亭 京都における平賀朝雅の居所。西暦1204年11月26日、前日に上洛した北条時政一行を歓迎する酒宴が開かれた地。此の席で平賀と畠山重保が口論となり、後の畠山の乱の遠因となった。
  • 東山辺 現在の大阪府豊能郡能勢町山辺。西暦1204年11月28日、前日に京都で病死した北条政範が葬られた地、牧の方の畠山重保への逆恨みの源となる地。
  • 仙洞御所 京都の後鳥羽上皇の御所。西暦1205年9月11日、平賀朝雅が囲碁を打っていた所、召し使いの少年から自身殺害の為の討手が差し向けられた事を伝えられた地。平賀は後鳥羽上皇に退出の許可を得て屋敷に戻った。
  • 平賀朝雅の京都屋敷 東洞院通・六角通(現在の京都府京都市中京区東洞院通六角下る御射山町、六角通東洞院東入三文字町付近)。西暦1205年9月11日、仙洞御所から戻った平賀朝雅が、五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重・金持広親・佐々木盛綱に襲撃された地。
  • 松坂 現在の京都府京都市山科区厨子奥花鳥町・日ノ岡夷谷町付近。西暦1205年9月11日、東洞院通・六角通の屋敷から逃亡した平賀朝雅が、山内首藤経俊の六男中山通基に射止められ死亡した地、平賀朝雅終焉の地。
  • 伊豆国北条郷 現在の静岡県伊豆の国市韮山。北条氏の本貫地。西暦1205年9月5日、北条義時が父北条時政と継室牧の方を鎌倉から追放した地、本書の失脚者達の流罪地。

主要な事件・出来事

  • 平賀朝雅の京都守護就任 西暦1203年11月8日、鎌倉幕府が謀反を防ぐ事を意図し、平賀朝雅を京都守護に就任させる為に京都に派遣した。平賀は第118代武蔵守を罷免され、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛し、其の後第9代京都守護に就任した、本書の扇動者の京都配置。
  • 京都の誤報と藤原定家の調査 西暦1204年2月20日、京都にて「北条時政が畠山重忠と戦い敗北し山中に隠れた。大江広元は既に殺害されている」との誤報が流れた。3月1日、藤原定家の下に「畠山重忠が挙兵し大倉御所を攻めた、北条時政と大江広元が狙われた」との風聞が入り、西園寺公経の屋敷を訪れて確認、「陰陽師等の占いでも同様の結果が出ており、此れは天狗の仕業である」とした、1年4箇月前の風聞が後の現実となった予兆。
  • 源実朝の正室決定 西暦1204年8月30日、鎌倉幕府が源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼とし京都から迎える事を決定した。当初は足利義兼の娘が候補に挙がっていたが、源は拒否し朝廷に打診していた、畠山の乱の連鎖反応の起点となる縁組。
  • 西八条禅尼迎えの京都行 西暦1204年11月7日、北条時政・北条政範・結城朝広・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田朝盛・土肥惟光・葛西清宣・佐原景連・多々良明宗・長江義景・宇佐美祐能・佐々木盛季・南條平次・安西四郎が西八条禅尼を迎える為、京都へ向けて鎌倉を出発した。道中北条政範は病を患い、介護は畠山重保が担った。11月25日上洛した、畠山重保と平賀朝雅を京都で対面させた運命の旅。
  • 平賀朝雅邸の酒宴と口論 西暦1204年11月26日、平賀朝雅の六角洞院亭にて、前日に上洛した北条時政一行を歓迎する酒宴が開かれた。其の席で平賀朝雅と畠山重保が口論となったが、周囲の人間が取り成した、本書最大の遠因。
  • 北条政範の死 西暦1204年11月27日、北条政範が病により死去、11月28日に東山辺に葬られた。12月5日、死去報告が鎌倉幕府に齎され、北条時政と継室牧の方は悲嘆に暮れた。牧の方の畠山重保への逆恨み(「介護した畠山重保が碌な医者にも診せず見殺しにした」)の源となった、畠山の乱の最大の心理的原因。
  • 西八条禅尼の鎌倉到着 西暦1205年1月1日、西八条禅尼が鎌倉に到着した、京都迎えの一行の完了。
  • 牧の方の讒言と稲毛への相談 西暦1205年4月、北条時政が牧の方と共に稲毛重成を自身の屋敷に呼び出し歓待した。牧の方は稲毛に「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言し、様子を探らせる相談をした、牧の方の逆恨みが具体的行動となった瞬間。
  • 畠山重忠の菅谷館出立 西暦1205年7月7日、稲毛重成から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた畠山重忠が、畠山重秀・本田近常・榛澤成清を含む134騎を率い、菅谷館から鎌倉へ向けて出発した、畠山の罠への進軍。
  • 畠山重保の鎌倉到着 西暦1205年7月8日、稲毛重成に呼び寄せられた畠山重保が鎌倉に到着した。
  • 平賀朝雅の讒言と畠山征伐決定 西暦1205年7月9日、平賀朝雅が牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言し、牧の方が畠山父子の謀反として北条時政に訴えた。北条義時・北条時房は「畠山重忠は源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしている、讒言によって征伐すれば後悔する」と反対したが、牧の方の兄大岡時親が義時の屋敷を訪れて強要、最終的に義時・時房は同意、稲毛重成・源実朝も同意した、本書の決定的政治的瞬間。
  • 畠山重保殺害 西暦1205年7月10日早朝、北条時政の指示により三浦義村・佐久間家村が由比ヶ浜に兵を集結、4時、謀反人を討つという名目で稲毛重成に招かれた畠山重保が郎従3名と共に到着、警戒心無く三浦に近付いた所を佐久間達に包囲され、奮戦するも郎従諸共殺害された、畠山の乱の開戦の犠牲者。
  • 二俣川の戦いと畠山重忠の最期 西暦1205年7月10日朝、鶴ヶ峰の麓で畠山重保殺害と大軍進軍を知った畠山重忠は、本田・榛澤の退却進言を退け「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」と迎え撃った。12時、北条義時率いる軍が二俣川に到着、4時間程交戦した後、16時、愛甲季隆の射た矢が重忠に命中し、重忠は「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と2本の矢を地面に突き刺し死亡した。榛澤成清討死、畠山重秀・本田等自害、戦闘は終了した、本書の題名を成す決戦。
  • 畠山家族の逃亡 西暦1205年7月10日、菅谷館に居た畠山重忠の妻は家臣を含む24名で加賀国額田荘司の下に落ち延び、其の後重忠の遺命により小沢城の小沢重政の姉や綾小路局の養子小沢重量を頼り小沢城へと移り、小沢城にて篠塚重興を出産した。四男畠山重慶は上古寺の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り遺髪を埋葬し五輪塔を建てて弔い、其の後慈光寺に登り剃髪して第27世慈光寺別当に就任した、畠山の血の継承。
  • 北条義時の鎌倉帰還と涙 西暦1205年7月11日、北条義時が鎌倉に帰還し、戦いの様子を尋ねた北条時政に「重忠の弟や親類は他所へ赴いていました。従っていたのは僅かに百騎程。重忠が謀反を企てたというのは虚言である。讒言によって征伐されたのでは不便極まりない。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」と語り、時政は何も言えなかった、義時の心情を示す名場面。
  • 榛谷重朝・稲毛重成・小沢重政の殺害 西暦1205年7月11日夕方、三浦義村等が経師ヶ谷にて榛谷重朝・榛谷重季・榛谷秀重を殺害した。又此の日、稲毛重成は大河戸行元に、小沢重政は宇佐美祐村に其々殺害された、畠山の乱の連座粛清。
  • 牧氏事件 西暦1205年9月4日、北条時政が源実朝を暗殺し平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事を北条政子・北条義時が察知、政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて名越殿に居た実朝を義時の屋敷に移動させて保護した。時政は兵を招集するが、部下達は実朝の警護に当たった為孤立無援となり、時政と牧の方は此の日の内に出家した、本書後半最大の政変。
  • 北条時政・牧の方の伊豆流罪と義時の執権就任 西暦1205年9月5日、北条義時が北条時政・牧の方を鎌倉から伊豆国北条郷へ追放した。又此の頃、義時は第2代執権及び第3代政所別当に就任した。同日、三善康信・安達景盛が義時の屋敷に集まり平賀朝雅征伐の相談を行った、鎌倉幕府における権力の世代交代。
  • 平賀朝雅の京都での殺害 西暦1205年9月10日、平賀朝雅征伐を伝える使者が鎌倉から京都に到着。9月11日、仙洞御所で囲碁を打っていた平賀が召し使いの少年から討手の件を伝えられ、後鳥羽上皇に退出の許可を得て東洞院通・六角通の屋敷に戻ったが、五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重・金持広親・佐々木盛綱に襲撃された。防ぎ切れず逃亡、松坂にて山内首藤経俊の六男中山通基に射止められ死亡した、本書の扇動者の終焉。
  • 大岡時親の出家 西暦1205年9月16日に平賀朝雅暗殺の報告が鎌倉に届き、9月19日、牧の方の兄大岡時親が出家した、牧の方の政治的後継者の隠遁と本書の終着点。

北条政範の死・平賀朝雅邸の口論・牧の方の讒言・二俣川の戦い・牧氏事件・平賀朝雅の京都での殺害──
畠山重忠の乱の1年10箇月を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。