電子書籍「源実朝一元化」の表紙

源実朝一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,203年3月18日〜1,219年2月14日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
32ページ
最新更新日
西暦2,026年8月7日

牧氏事件・和田合戦・金槐和歌集・陳和卿の大船・右大臣拝賀の雪の夜──
源実朝の十六年に近い歳月を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

購入する
決済サービスSquare/ご利用いただけるカードブランド:Visa・Mastercard・アメリカン・エキスプレス・JCB・Diners Club・Discover・UnionPay(銀聯)

お支払いはカード情報の入力だけで完了します

購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します

お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。


皇室献上品 高級トイレットペーパー
皇室献上品 高級トイレットペーパー

本書について

西暦1,203年3月18日、北条義時の助けを得て、源実朝が鶴岡八幡宮寺に参詣した。兄の源頼家は神馬2頭を奉納し、結城朝光と伊賀光季が之を引いている。頼家は思う——実朝が次期征夷大将軍か、先日の八幡神の御託宣を良い事に義時のやり方が露骨になっている、唯北条時房は変わり無い、今思えば北条泰時が改名を申し出たのも私との繋がりを断たせようとする義時の計らいだったのかも知れない、と。本書は、此の参詣の日を起点として、西暦1,219年2月14日、暗殺された実朝が勝長寿院へ葬られる日迄の十五年十一ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。

同年10月3日、源頼家の体調に回復の兆しが見られない事から、北条時政が相続を取り決めた。一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源頼朝の弐男である実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲るというものである。一幡の外祖父であった比企能員は、全て一幡に与えられるべきものを実朝にも譲渡するのはおかしいとして憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。10月13日、実朝は征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が之を宣下する。同じ日の朝、鎌倉幕府の使者が京都に着き、10月7日に頼家が亡くなった為実朝が跡を継いだので将軍に任命して欲しいという北条時政の書簡を朝廷へ届けていた。16日、実朝は時政の名越殿に入り、時政は御家人の所領を安堵する御触れを出す。21日、実朝は第3代鎌倉殿に就任し、同日、将軍宣旨が鎌倉に到着した。11月13日、大江広元・小山朝政・和田義盛・中条家長・安達景盛が参列して元服の儀式が執り行われ、29日には右兵衛佐に任ぜられる。12月10日、修禅寺の頼家から北条政子と実朝へ、修禅寺の寂しさは耐え難いので中野能成を寄越して欲しい、安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しい、という書簡が届いたが、要望は聞き入れられず、頼家は以後書簡を送る事を禁じられた。

西暦1,204年8月30日、鎌倉幕府は実朝の正室を、後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼と定め、京都から迎える事を決定した。当初は足利義兼の娘が候補に挙がったが実朝が拒否し、朝廷に打診した所、藤原兼子が西八条禅尼を推薦したのである。藤原には、朝廷の息の掛かった女性を鎌倉幕府へ送り込む事で自身の発言権を強めるという狙いが有った。翌西暦1,205年5月2日、実朝は「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」を含む12首を詠む。和歌を詠んだのは、此の時が初めてであった。10月18日には内藤朝親が新古今和歌集の写本を献上し、実朝は熱心に読み耽って本歌取りを行い、自らの創作へ繋げていった。

政変は其の間に起きている。西暦1,205年7月9日、平賀朝雅が牧の方に、畠山重保から悪口を言われたと讒言した。牧の方は之を畠山重忠・重保の謀反の表れであると北条時政に訴え、時政は北条義時・時房に重忠征伐を告げる。二人は、重忠が源頼朝の挙兵以来忠義を尽くし、比企能員征伐では味方してくれた事を挙げて反対したが、牧の方の兄大岡時親が義時の屋敷を訪れ、貴殿は重忠に代わって悪だくみを誤魔化そうとしていると詰め寄った。義時・時房は従わざるを得ず、征伐に同意する。9月4日、北条政子と義時は、時政が実朝を暗殺して平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事に気付いた。政子は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わし、名越殿に居た実朝を義時の屋敷へ移して保護する。時政は兵を招集したが、部下達は実朝の警護に当たった為に孤立無援となり、時政と牧の方は此の日の内に出家した。

西暦1,206年11月21日、公暁が乳母夫である三浦義村に付き添われ、北条政子の計らいによって実朝の猶子となり、初めて大倉御所に入る。十三年後の刃は、此処に用意された。同じ頃の実朝の日常は和歌に彩られている。3月14日には大雪の中、名越の義時の山荘で東重胤・内藤朝親と和歌会を開き、12月19日には義時の別荘で北条泰時らと歌を詠んだ。数ヶ月鎌倉に戻らなかった東重胤を蟄居させた際は、西暦1,207年1月22日、義時が「和歌を詠んで献上しなさい」と助言して東を伴い参上し、実朝は其の歌を3回吟じて東を赦免している。

西暦1,207年9月8日、鶴岡八幡宮寺の放生会で警護を命じられていた吾妻助光らが任務を怠り、実朝の出発は16時にずれ込んで舞楽は夜になった。10日の詰問で吾妻は、晴れの舞台の為に用意した鎧を鼠に齧られ、傷物の鎧で列に加わっては却って実朝の恥になると考えて自重したと弁明したが、二階堂行光は、列に加わるのはあくまで警護が目的であり、先祖代々使い古された鎧を着てこそ武士の誉れであると叱り付け、出仕を止めた。所が12月23日、大倉御所の酒宴に青鷺が1羽舞い込む。射落とせる者が居ない中、義時の進言で呼ばれた吾妻は、慌てて衣服を逆さに着た儘やって来て、鏃を外した引目の矢を指に挟み、階段の陰から鷹の羽の矢を射た。矢羽根を眼に掠らせて青鷺を生け捕ってみせた此の妙技に感心した実朝は、出仕を再開させ、剣まで与えている。翌西暦1,208年2月20日には天然痘を発病し、3月17日に治癒した。

西暦1,209年6月29日、右近衛中将に任ぜられた事を切っ掛けに、実朝は政所を設置して政治へ関与し始める。和田義盛から上総介への挙任を依頼された際は政子に相談し、頼朝の時代から侍を国司に推薦出来ない事は決まっていると返された。6月23日には梶原景時と其の郎党の菩提を弔う法事を営み、7月16日には土屋宗遠の嘆願書に対し、内容は理屈が通っておらず処分すべきだが、本日は頼朝の月違い命日であるから特別に赦免すると裁いた。8月6日、夢のお告げにより和歌20首を住吉大社に奉納し、更に内藤朝親を通じて自身の和歌30首を藤原定家へ送り、評と、紀貫之が古今集仮名序に記した六種の風体「六義」について問うている。9月、藤原は評と和歌の指南書「近代秀歌」を献上して六義に答えた。12月2日、切的の負方が主催した酒宴の席で、義時と大江広元は和歌に傾倒する実朝へ「武芸に嗜み、朝廷を警護する事が鎌倉幕府の安泰である」と諷言した。12月12日、義時が自らの郎従の内、功労の有る者を侍に準ずる扱いとして欲しいと願い出た時には、鎌倉幕府の身分秩序を乱す原因となるとして拒否している。

西暦1,210年、実朝は武蔵国の田文を整備して国衙の業務を細かく定め、社寺の所領確認と再興を各国の守護に命じ、諸国の御牧興行を守護・地頭に命じた。12月11日には建穂神社の神主が書き出したお告げが義時経由で伝えられる。大江広元が占いで確かめようかと提案すると、実朝は、3日前の明け方に自分も合戦の夢を見た、お告げと符合するのだから偽りの夢ではない、西暦1,213年に合戦が起きるのは明らかなので占いは要らないと述べ、建穂神社に刀を奉納した。西暦1,211年には明菴栄西の「喫茶養生記」が献上され、8月頃には洪水に苦しむ農民を思って大山阿夫利神社で「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨止め給へ」と詠み、8月13日からは唐の太宗の言行録「貞観政要」の精読を始めた。11月19日、飛鳥井雅経の推挙により鴨長明が謁見している。西暦1,212年3月5日には、風邪で休んでいた塩谷朝業へ梅の枝と共に読み人知らずの歌を贈り、作者を悟った塩谷から返歌を受けた。4月1日には相模川の橋の修理を命じる。頼朝が落馬する原因となった橋であるとして義時・大江・三善康信は否定的であったが、実朝は不吉な橋ではない、修理によって民衆の往来が便利になるのだから壊れる前に早く修理せよと押し切った。5月20日、後鳥羽上皇への恩と頼朝の徳を讃える為の大慈寺の建設が始まる。

西暦1,213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤に、栄実を擁して挙兵するという謀反を持ち掛けた。千葉は其の場で安念を捕縛し、事は北条義時から実朝へ報告される。3月31日、鎌倉に帰った和田義盛の嘆願で和田義直・和田義重は赦免されたが、和田胤長は謀反の首謀者として赦されなかった。4月1日、義盛が一族98名を引き連れて赦免を訴えても面会は叶わず、後ろ手に縛られた胤長は一族の前を引き立てられて二階堂行村に引き渡される。5月19日、挙兵の噂を受けて実朝が遣わした宮内公氏の前で、義盛は烏帽子を落とした。宮内は、首が落ちた様だ、挙兵しても討たれてしまうに違いないと感じたという。23日、小田知重の報告を受けた大江広元が宴席を抜けて走り、三浦義村は義盛に味方する起請文を書いていながら弟の胤義と相談の末に裏切って義時へ密告した。義時は囲碁の最中であったが驚く事無く大倉御所へ向かい、実朝・政子・西八条禅尼は北門を出て御谷へ避難する。16時、義盛は予定を1日繰り上げ、横山党の到着を待たずに150騎を三手に分けて大倉御所南門・義時の屋敷・大江の屋敷を襲った。18時に大倉御所への侵入を許し、朝比奈義秀が南門を打ち破って南庭に入り、火を放つ。南から燃え上がる御所を見た実朝は、義村の守る北門から抜けて法華堂へ逃げ込んだ。日が暮れると、義盛は由比ヶ浜に兵を引いている。

25日8時、実朝は法華堂から政子の東の御所へ移り、二階堂行村を奉行として負傷者約188名を検分した。続く勲功の詮議で、波多野忠綱と三浦義村が政所前の先陣を争う。義時は静かな場所に忠綱を呼び、此度の勝利は三浦が義盛を裏切った事が大きいのだから政所の件は譲ってくれ、そうすれば破格の褒賞は間違い無いと勧めたが、忠綱は「武士が戦場に向かう際、先陣を目指すのが本意である。弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と退けた。共に戦った波多野盛景・二階堂基行・金子太郎に問うと、先陣は赤皮威の鎧を着て葦毛馬に乗った者であったという。忠綱の事であり、其の葦毛馬は義時から拝領した「片淵」であった。従兄弟を裏切った義村は、後に大倉御所で千葉胤綱に上座を取られた際「下総の犬めは寝場所を知らぬな」と言い、「三浦の犬は友をも食らう」と返されている。29日には北条泰時が勲功を固辞し、和田義盛は実朝に逆心を持たず義時と敵対したのであって、褒賞は防戦した御家人達に与えられるべきだと述べて周囲を感嘆させた。6月頃、実朝は後鳥羽上皇から御宸翰を戴き、地震にも触れて「山は裂け海は褪せなむ世なりとも君にふた心我があらめやも」と詠んでいる。10月11日、畠山重慶を生け捕るよう命じられながら首級を持ち帰った長沼宗政は、実朝の激怒に対し「貴殿は和歌・蹴鞠を業として武芸は廃れた様なもの」と吐き捨てて御所を去った。

西暦1,214年1月5日、藤原定家から届けられた663首を収める「金槐和歌集」の編纂が完了する。3月には二所詣で箱根神社・三嶋大社・伊豆山神社を巡り、5月28日に大慈寺が完成、9月3日には明菴栄西を導師として落慶法要が営まれた。西暦1,216年2月4日には江ノ島が陸続きとなり、実朝らは神の御蔭ではないかと驚いている。6月24日、陳和卿が鎌倉に到着した。7月1日の謁見で陳は「おお、我が師よ」と実朝を3度拝んで泣き出し、実朝が前世に於ける自分の師匠、医王山の長老であったと語る。実朝も6年前に同じ様な夢を見たと応じ、二人は意気投合した。西暦1,217年1月3日、北条義時への抵抗として渡宋を思い立った実朝の命により、陳は大船の建造に取り掛かる。義時と大江広元は反対したが、実朝が押し切った形であった。

西暦1,218年、官位は頂点へ向かう。4月2日に左近衛大将兼左馬寮御監、7月21日には鶴岡八幡宮寺で其の拝賀が執り行われ、10月29日に第58代内大臣、12月21日には第91代右大臣に任ぜられた。近衛大将昇進を所望した実朝を大江広元が諌めた時、実朝は「源氏の正統は自分の代で途絶え、子孫が継ぐ事は無いだろう。だからせめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」と答えている。5月頃には北条政子が藤原兼子と面会し、跡取りの居ない実朝の後継として皇族の斡旋を相談し、頼仁親王の推薦を得ていた。そして西暦1,219年2月13日。右大臣拝賀を控えた実朝に、大江広元は「私は成人してより数十年、凡そ泣いた事がございません。しかし今、実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません」と述べ、束帯の下に腹巻を付ける様進言した。源仲章が前例が無いと反論し、腹巻は付けない事となる。実朝は髪を梳かす宮内公氏に髪を1本抜いて「形見にせよ」と渡し、庭先の梅を見て「出ていなは主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春を忘るな」と詠んだ。

18時、雪が60cm程度積もる中を、行列は鶴岡八幡宮寺へ向かった。境内に入ると実朝は前駆を中門に留め、殿上人と公卿のみを従えて進み、石段から先は独りで登って神前に右大臣就任を報告し、奉幣する。参詣を終え、石段を降りて公卿達の前を通り過ぎようとした時、法師の装いで隠れていた公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫んで実朝を斬り付け、首を落とした。公暁の仲間数名は、松明を持っていた源仲章を義時と間違えて斬殺する。実朝の指示で中門に留まっていた義時は、命を拾った。公暁は首級を持ち帰って食事を摂り、「今こそ我は東国の大将軍である」と乳母夫の三浦義村へ言付を送る。義村は三代の恩義を思い返して涙しながらも、迎えを送ると答える一方で義時に報告し、「公暁を誅殺せよ」との即答を得た。討手に指名された長尾定景は固辞の末に受諾し、待ち切れず義村の屋敷へ向かった公暁と道中で遭遇、雑賀次郎が取り押さえた所を斬首した。実朝の首級は義村の家臣武常晴が拾い上げて波多野へ運び、葬られる。翌2月14日、実朝は勝長寿院に葬られた。首が無い為、前日に宮内公氏が形見として受け取った髪の毛が代用された。本書は、此の十五年十一ヶ月を一冊に束ねている。


登場人物

  • 源実朝 本書の中心人物。鎌倉幕府第3代征夷大将軍。源頼朝の弐男。西暦1,203年10月13日に征夷大将軍へ任ぜられ、21日に第3代鎌倉殿に就任した。西暦1,205年5月2日に初めて和歌12首を詠み、西暦1,209年6月29日の右近衛中将任官を機に政所を設置して政治に関与、西暦1,214年1月5日に「金槐和歌集」を完成させた。西暦1,218年には左近衛大将・内大臣を経て右大臣に昇るが、西暦1,219年2月13日、右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮寺へ参詣した所を公暁に斬殺された、武家の棟梁にして歌人という二つの顔を持つ人物。
  • 源頼家 鎌倉幕府第2代征夷大将軍。源実朝の兄。西暦1,203年3月18日、実朝の鶴岡八幡宮寺参詣に神馬2頭を奉納しつつ「義時のやり方が露骨になっている」と警戒した。同年10月、体調に回復の兆しが見られぬ中で実朝への相続が取り決められ、鎌倉幕府は10月7日に亡くなったと京都へ報告している。12月10日、修禅寺から北条政子・実朝へ書簡を送ったが要望は聞き入れられず、以後書簡を送る事を禁じられた。
  • 北条時政 鎌倉幕府初代執権。西暦1,203年10月3日、源頼家の病臥を受けて一幡と源実朝への相続を取り決め、16日には実朝を名越殿へ迎えて御家人の所領を安堵する御触れを出した。西暦1,205年7月9日には牧の方の意向を容れて畠山重忠征伐を決定するが、9月4日、実朝を暗殺して平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画が北条政子・北条義時に察知され、招集した兵も実朝の警護に回った為に孤立、此の日の内に牧の方と共に出家した。
  • 北条政子 源頼朝の御台所。源実朝の母。西暦1,205年9月4日、北条時政・牧の方の実朝暗殺計画を察知し、御家人を遣わせて実朝を北条義時の屋敷に保護した。西暦1,206年11月21日には公暁が実朝の猶子となる事を計らい、西暦1,209年には和田義盛の国司任官について「女の私が口出しする事ではありません」と答えている。西暦1,218年5月頃には藤原兼子と面会し、跡取りの居ない実朝の後継として頼仁親王の推薦を得た。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。西暦1,203年3月18日、源実朝の鶴岡八幡宮寺参詣を助けた。西暦1,205年7月9日の畠山重忠征伐には反対しつつも牧の方の意向で同意し、9月4日には北条時政の計画を察知して実朝を自らの屋敷へ保護。西暦1,213年5月23日の和田合戦では屋敷を襲撃されながら囲碁の最中に報告を受けても驚かず大倉御所へ向かった。西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀では実朝の指示で中門に留まった為、公暁の仲間の刃を免れて命を拾った、本書全般の実質的権力者。
  • 北条泰時 北条義時の長男。西暦1,213年5月23日の和田合戦で防戦に当たり、29日には源実朝から勲功を受ける様指示されても「和田義盛は、源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで」として再三固辞し、周囲を感嘆させた。西暦1,218年8月14日に第5代侍所別当に就任。西暦1,219年2月13日の公暁の首実検では「公暁をちゃんと見た事が無いので、本物かどうか分からない」と語った。
  • 北条時房 北条義時の弟。西暦1,205年7月9日の畠山重忠征伐には義時と共に反対したが、牧の方の意向により同意した。西暦1,209年4月19日には武蔵国の田文作成を命じられ、西暦1,218年8月14日には侍所所司5名の選任を上申している。
  • 比企能員 一幡の外祖父。西暦1,203年10月3日、北条時政が一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた事に、全て一幡に与えられるべきものであるとして憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した、本書冒頭の対立軸を形成した人物。
  • 牧の方 北条時政の継室。西暦1,205年7月9日、平賀朝雅から畠山重保の讒言を受けて畠山重忠・重保の謀反と訴え、反対する北条義時の下へ兄の大岡時親を遣わし、「重忠の功績は功績であるが、陰謀は陰謀である」として征伐への同意を迫った。9月4日、源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が発覚し、此の日の内に時政と共に出家した。
  • 平賀朝雅 西暦1,205年7月9日、牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言した人物。9月4日には、北条時政・牧の方が源実朝を暗殺した後に征夷大将軍へ擁立しようとしていた事が発覚した。
  • 畠山重忠 鎌倉幕府御家人。西暦1,205年7月9日、平賀朝雅の讒言を牧の方が北条時政へ訴えた事により謀反の嫌疑を掛けられた。北条義時・時房は、源頼朝の挙兵以来忠義を尽くし、比企能員征伐でも味方した事を挙げて反対したが、牧の方の意向によって征伐が決定された、牧氏事件の口実となった犠牲者。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1,203年11月13日の源実朝の元服の儀式に参列し、西暦1,209年12月2日には北条義時と共に、和歌に傾倒する実朝へ「武芸に嗜み、朝廷を警護する事が鎌倉幕府の安泰である」と諷言した。西暦1,213年5月23日の和田合戦では屋敷を襲撃され、西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀の直前には「実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません」として束帯の下に腹巻を付ける様進言したが、源仲章の反論により退けられた。
  • 和田義盛 鎌倉幕府侍所別当。西暦1,209年6月15日、源実朝に上総介への挙任を依頼したが、侍の身分では国司任官の資格が無く、西暦1,212年1月25日には四男和田義直を通じて嘆願書を取り下げ、実朝の不快を買った。西暦1,213年、和田胤長が謀反の首謀者として赦されなかった事を機に、5月23日16時、150騎を三手に分けて大倉御所南門・北条義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃。日が暮れると由比ヶ浜へ兵を引いた、和田合戦の中心人物。
  • 朝比奈義秀 和田義盛の参男。西暦1,213年5月23日の和田合戦で大倉御所南門を打ち破って南庭に侵入し、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放った。北条朝時を斬って負傷させ、政所前の橋では足利義氏の鎧の袖を掴み、割って入った野田朝季を殺害した、和田合戦の猛将。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。公暁の乳母夫。西暦1,205年9月4日の牧氏事件では源実朝を北条義時の屋敷へ移す護衛の1人となり、西暦1,206年11月21日には公暁に付き添って大倉御所へ入った。西暦1,213年5月23日の和田合戦では和田義盛に味方する起請文を書きながら土壇場で義時に密告して裏切り、後に千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と返された。西暦1,219年2月13日、公暁から迎えを求められると義時に報告した上で長尾定景を差し向け、公暁を討たせた、本書屈指の謀略家。
  • 波多野忠綱 鎌倉幕府御家人。西暦1,213年5月23日の和田合戦で米町と政所前の先陣を切って戦った。25日の勲功の詮議では三浦義村と政所前の先陣を争い、北条義時から譲歩を勧められても「弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と退け、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎の「赤皮威の鎧を着用し、葦毛馬に乗馬した者」との証言によって主張が裏付けられた、武士の誉れを貫いた人物。
  • 公暁 源頼家の子。三井寺で受戒した僧。西暦1,206年11月21日、乳母夫の三浦義村に付き添われ、北条政子の計らいによって源実朝の猶子となった。西暦1,219年2月13日、右大臣拝賀を終えて石段を降りる実朝を、法師の装いで隠れていた所から「親の敵はかく討つぞ」と叫んで斬り付け、首を落とした。首級を持ち帰って「今こそ我は東国の大将軍である」と義村へ言付を送ったが、迎えを待ち切れず向かう途上で長尾定景と遭遇し、雑賀次郎に取り押さえられて斬首された、本書の結末の実行者。
  • 長尾定景 西暦1,219年2月13日、公暁の討手として三浦義村に指名された武士。「公暁は武勇に長けており、並大抵の者では太刀打ち出来ない」との理由での指名であり、固辞したが度重なる要請により受諾、黒革縅の鎧を身に纏い雑賀次郎ら5名を引き連れて出陣し、道中で遭遇した公暁を斬首した。
  • 源仲章 源実朝の側近。西暦1,218年7月21日の左近衛大将任官の拝賀では、衣冠束帯の装いで御簾を上げた。西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀に際しては、大江広元の腹巻の進言に「此れ迄大臣・大将にまで昇った方で其の様にされた前例が無い」と反論した。同夜、松明を持っていた所を公暁の仲間に北条義時と間違えられて斬殺された。
  • 宮内公氏 源実朝の側近。西暦1,213年5月19日、挙兵の噂を受けた実朝の命で和田義盛の屋敷へ使者として遣わされ、義盛が烏帽子を落とすのを見て挙兵の行く末を案じた。西暦1,219年2月13日には髪を梳かしていた所で実朝から髪を1本抜いて「形見にせよ」と渡され、翌14日の勝長寿院への葬送では、公暁が持ち去った首級の代用として此の髪の毛が用いられた。
  • 西八条禅尼 坊門信清の娘。源実朝の正室。西暦1,204年8月30日、後鳥羽上皇の外叔の娘として藤原兼子の推薦により京都から迎える事が決定された。西暦1,212年6月7日、北条義時の弐男北条朝時が其の官女を深夜に連れ出した一件は実朝の怒りを買い、朝時は義絶されて蟄居となった。西暦1,217年4月17日には実朝と同じ牛車で永福寺の桜の花見に出掛けている。
  • 後鳥羽上皇 西暦1,204年8月30日に定まった源実朝の正室西八条禅尼の外甥に当たる。西暦1,215年8月2日には坊門信清を通じて仙洞御所での和歌会の纏め1巻を実朝へ送り、西暦1,213年6月頃には御宸翰を下している。実朝の左近衛大将・右大臣任官の背景に在った人物であり、西暦1,218年には其の皇子頼仁親王が次期征夷大将軍の候補として推薦された。
  • 藤原定家 朝廷の歌人。西暦1,209年8月6日に源実朝から和歌30首の評を請われ、9月に評と和歌の指南書「近代秀歌」を献上して、紀貫之が古今集仮名序に記した「六義」について回答した。西暦1,213年12月20日には飛鳥井雅経を通じて万葉集の一部を実朝へ贈り、其の663首が西暦1,214年1月5日に完成した「金槐和歌集」に収められた、実朝の和歌の師。
  • 鴨長明 歌人。「方丈記」の著者。西暦1,211年11月頃、飛鳥井雅経の推挙を受けて鎌倉に下向し、11月19日に源実朝へ謁見した、実朝を巡る和歌文化の象徴的来訪者。
  • 明菴栄西 西暦1,211年に「喫茶養生記」を発表し、鎌倉に下向した際に源実朝へ献上して日本に茶を広めた僧。西暦1,212年1月30日には実朝の持仏堂での文殊供養の導師を務め、7月19日には寿福寺を訪れた実朝に仏舎利3粒を譲った。西暦1,214年3月16日には二日酔いの実朝に「喫茶養生記」を献上し、9月3日の大慈寺落慶法要では導師を務めた。
  • 陳和卿 南宋出身の工人。西暦1,216年6月24日に鎌倉へ到着し、7月1日の謁見では源実朝を3度拝んで泣き出し、実朝が前世に於ける自分の師匠、医王山の長老であったと語った。実朝も6年前に同様の夢を見たとして意気投合する。西暦1,217年1月3日、北条義時への抵抗として渡宋を思い立った実朝の命により大船の建造に取り掛かった、実朝の渡宋計画の中核人物。
  • 内藤朝親 源実朝の側近。西暦1,205年10月18日に新古今和歌集の写本を献上し、実朝の本歌取りによる創作の契機を作った。西暦1,206年3月14日の名越の山荘での和歌会等にも列なり、西暦1,209年8月6日には実朝の和歌30首を藤原定家へ届ける役を担った、実朝の和歌活動を支えた人物。
  • 吾妻助光 源実朝の警護を担った武士。西暦1,207年9月8日の鶴岡八幡宮寺の放生会で任務を怠り、鎧を鼠に齧られた為と弁明したが二階堂行光に叱られて出仕を止められた。12月23日、大倉御所の酒宴に舞い込んだ青鷺を、鏃を外した引目の矢の矢羽根を眼に掠らせて生け捕るという妙技で仕留め、出仕の再開と剣を賜った、実朝の寵を取り戻した人物。
  • 泉親衡 西暦1,213年3月8日、郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤を訪ねて栄実を擁しての挙兵を持ち掛けた事で露見した謀反の首謀者。此の事件が和田合戦の発端となった。
  • 宇都宮頼綱 鎌倉幕府御家人。西暦1,205年10月3日に鎌倉へ到着し、北条泰時の屋敷で面会を拒まれると、剃髪して落とした髻を結城朝光に提出した。髻は北条経由で源実朝へ届けられたが実朝は結城に返却し、最終的に処罰を免れている。西暦1,214年6月16日には三井寺の復興事業の一環として日吉大社の本殿・拝殿の再建を命じられた。

主要な地名・拠点

  • 鶴岡八幡宮寺 鎌倉幕府の宗教的中心。西暦1,203年3月18日の源実朝の参詣、西暦1,207年9月8日の放生会、西暦1,211年4月7日の天然痘後の復参、西暦1,218年7月21日の左近衛大将任官の拝賀、そして西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀と暗殺の地、本書の始点と終点を成す場所。
  • 大倉御所 鎌倉幕府の本拠。西暦1,203年12月27日の小笠懸、西暦1,207年12月23日の青鷺の一件、西暦1,209年2月11日の般若心経の会と的始め、西暦1,213年5月23日の和田合戦での襲撃と炎上、西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀の出発点等、本書の主要場面の多くが起きた地。
  • 名越殿 北条時政の屋敷。西暦1,203年10月16日に源実朝が入り、時政が御家人の所領を安堵する御触れを出した地。西暦1,205年9月4日の牧氏事件では、此処に居た実朝が北条義時の屋敷へ移されて保護された。
  • 修禅寺 源頼家の幽閉先。西暦1,203年12月10日、頼家が北条政子・源実朝へ「修禅寺の寂しさは耐え難いので、中野能成を寄越して欲しい」との書簡を送った地。要望は聞き入れられず、以後書簡を送る事を禁じられた。
  • 法華堂 大倉御所の北側の丘の上に在る堂。西暦1,209年6月23日、梶原景時と其の郎党の菩提を弔う法事が営まれた地であり、西暦1,213年5月23日の和田合戦で大倉御所が燃えた際には、源実朝が北条義時・大江広元らに付き添われて逃げ込んだ避難先となった。
  • 由比ヶ浜 西暦1,213年5月23日の和田合戦で、大倉御所を襲撃した和田義盛が日暮れと共に兵を引いた地。
  • 大慈寺 現在の神奈川県鎌倉市十二所。西暦1,212年5月20日、源実朝が後鳥羽上皇への恩と源頼朝の徳を讃える為に建設を開始した寺院。西暦1,214年5月28日に完成し、9月3日には明菴栄西を導師として落慶法要が執り行われた、実朝の信仰の象徴。
  • 永福寺 西暦1,211年6月11日、源実朝が郭公の声を聞く為に内藤朝親・二階堂行村・東重胤・三善康俊を伴って参詣した地。西暦1,214年4月20日には桜の花見、西暦1,217年4月17日には西八条禅尼と同じ牛車で花見に出掛けた、実朝の憩いの場。
  • 寿福寺 西暦1,212年7月19日、源実朝が明菴栄西から仏舎利3粒を譲られた地。西暦1,217年6月17日には筆頭住職の退耕行勇が政治に口を出す事を実朝から咎められ、20日には実朝が北条泰時・時房を伴って慰めに訪れている。
  • 江島神社 現在の神奈川県藤沢市江の島。西暦1,206年、鶴岡八幡宮寺の良信が辺津宮を建立した地。慈悲上人良真が源実朝に願い出て実現したものである。西暦1,216年2月4日には江ノ島が陸続きとなって徒歩で渡れる様になり、実朝らは神の御蔭ではないかと驚いた。
  • 建穂神社 西暦1,210年12月11日、筆頭の神主が書き出したお告げが北条義時経由で源実朝へ伝えられた神社。実朝は自身も合戦の夢を見たとして、西暦1,213年に合戦が起きるのは明らかであると述べ、刀を奉納した、和田合戦の予兆として刻まれた地。
  • 大山阿夫利神社 現在の神奈川県伊勢原市大山。西暦1,211年8月頃、洪水が激しく農民が嘆くだろうと考えた源実朝が、洪水の鎮まる事を祈念して「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨止め給へ」と詠んだ地。
  • 箱根神社・三嶋大社・伊豆山神社 箱根神社は現在の神奈川県足柄下郡箱根町元箱根、三嶋大社は現在の静岡県三島市大宮町、伊豆山神社は現在の静岡県熱海市伊豆山。西暦1,214年3月11日に出発した源実朝の二所詣で、12日に箱根神社と三嶋大社、13日に伊豆山神社が参詣された。
  • 三井寺 現在の滋賀県大津市園城寺町。西暦1,209年10月29日、源実朝の招きにより僧公胤が此の寺から鎌倉へ到着した。西暦1,214年6月16日には実朝が再建を決定し、宇都宮頼綱・大内惟義・佐々木広綱らが復興事業を命じられている。公暁が受戒した寺でもあり、実朝暗殺の後、北条氏と三井寺系には距離感が生じた。
  • 波多野 現在の神奈川県秦野市。西暦1,219年2月13日の暗殺の後、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げた源実朝の首級が持ち込まれ、葬られた地。
  • 勝長寿院 西暦1,219年2月14日、源実朝が葬られた地。首級は公暁が持ち去った後に波多野へ葬られていた為、前日に宮内公氏が形見として受け取った髪の毛が代用された、本書の終着点。

主要な事件・出来事

  • 相続の取り決めと比企能員の憤慨 西暦1,203年10月3日、源頼家の体調に回復の兆しが見られない事から、北条時政が一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた。一幡の外祖父であった比企能員は、全て一幡に与えられるべきものを実朝にも譲渡するのはおかしいとして憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した、本書の発端。
  • 源実朝の征夷大将軍任命と鎌倉殿就任 西暦1,203年10月13日、源実朝が征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が之を宣下した。同日の朝には、源頼家が10月7日に亡くなった為に実朝が跡を継いだので将軍に任命して欲しいという北条時政の書簡が朝廷へ届けられている。16日に実朝は名越殿へ入り、21日に第3代鎌倉殿に就任、同日、将軍宣旨が鎌倉に到着した。
  • 元服の儀式と源頼家の書簡 西暦1,203年11月13日、大江広元・小山朝政・和田義盛・中条家長・安達景盛が参列して源実朝の元服の儀式が執り行われ、29日には右兵衛佐に任ぜられた。12月10日、源頼家が北条政子・実朝へ、修禅寺の寂しさは耐え難いので中野能成を寄越して欲しい、安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しいという書簡を送ったが、要望は聞き入れられず、以後書簡を送る事を禁じられた。
  • 西八条禅尼との縁組決定 西暦1,204年8月30日、鎌倉幕府が源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼とし、京都から迎える事を決定した。当初は足利義兼の娘が候補であったが実朝が拒否し、朝廷への打診を受けて藤原兼子が西八条禅尼を推薦したものである。藤原には、朝廷の息の掛かった女性を送り込む事で自身の発言権を強める狙いが有った。
  • 源実朝の初めての和歌 西暦1,205年5月2日、源実朝が「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」を含む12首を詠んだ。実朝が和歌を詠んだのは此の時が初めてであった。10月18日には内藤朝親から新古今和歌集の写本を献上され、熱心に読み耽って本歌取りを行い、自らの創作へ繋げていった、歌人実朝の出発点。
  • 畠山重忠征伐と牧氏事件 西暦1,205年7月9日、平賀朝雅が牧の方に畠山重保の讒言を行い、牧の方が畠山重忠・重保の謀反として北条時政に訴えた。北条義時・時房は反対したが、牧の方の兄大岡時親の説得を経て征伐に同意させられる。9月4日、北条政子と義時は、時政が源実朝を暗殺して平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画に気付き、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を義時の屋敷へ保護した。時政が招集した兵も実朝の警護に回った為に孤立し、時政と牧の方は此の日の内に出家した、本書前半最大の政変。
  • 公暁の猶子 西暦1,206年11月21日、公暁が乳母夫である三浦義村に付き添われ、北条政子の計らいによって源実朝の猶子となり、初めて大倉御所に入った。三浦は贈り物を献上している、十三年後の暗殺への布石となった縁組。
  • 吾妻助光の青鷺 西暦1,207年9月8日の鶴岡八幡宮寺の放生会で警護を怠って出仕を止められていた吾妻助光が、12月23日、大倉御所の酒宴に舞い込んだ青鷺を射る為に呼ばれた。慌てて衣服を逆さに着た儘、鏃を外した引目の矢を指に挟み、階段の陰から鷹の羽の矢を射て、矢羽根を眼に掠らせ生け捕りにしてみせる。此の妙技に感心した源実朝は、吾妻の出仕を再開させ、更に剣を与えた。
  • 政所設置と親政の開始 西暦1,209年6月29日、源実朝が右近衛中将に任ぜられた事を切っ掛けに政所を設置し、政治に関与し始めた。12月12日、北条義時が自らの郎従の内、功労の有る者を侍に準ずる扱いとして欲しいと願い出た際には、鎌倉幕府の身分秩序を乱す原因となるとして拒否している、形式的な将軍から実権者への移行。
  • 藤原定家の「近代秀歌」献上 西暦1,209年8月6日、源実朝が夢のお告げにより和歌20首を住吉大社に奉納し、更に内藤朝親を通じて自身の和歌30首を藤原定家へ送り、評と、紀貫之が古今集仮名序に記した和歌の六種の風体「六義」について問うた。9月、藤原は評と和歌の指南書「近代秀歌」を献上し、六義について回答した、実朝の和歌の師事。
  • 北条義時・大江広元の諷言 西暦1,209年12月2日、切的を射る勝負の負方が主催した酒宴にて、北条義時と大江広元が、和歌に傾倒していた源実朝に対し「武芸に嗜み、朝廷を警護する事が鎌倉幕府の安泰である」と諷言した、文雅と武の間で揺れる実朝の治世を象徴する場面。
  • 建穂神社のお告げと合戦の予言 西暦1,210年12月11日、建穂神社の筆頭の神主が書き出したお告げが北条義時経由で源実朝の耳に入った。大江広元が占いでの確認を提案すると、実朝は3日前の明け方に自身も合戦の夢を見た事を明かし、お告げと符合するので偽りの夢では無い、西暦1,213年に合戦が起きるのは明らかであるとして占いを退け、建穂神社に刀を奉納した。
  • 明菴栄西と鴨長明 西暦1,211年、明菴栄西が茶の栽培・喫茶の方法・喫茶による養生を記した「喫茶養生記」を発表し、鎌倉に下向した際に源実朝へ献上して日本に茶を広めた。同年11月19日には、飛鳥井雅経の推挙を受けて鎌倉に下向していた鴨長明が実朝に謁見している。
  • 相模川の橋の修理 西暦1,212年4月1日、源実朝が相模川に架かる橋の修理を命じた。稲毛重成が亡き妻の為に架けた橋であり、源頼朝が其の供養の帰路に落馬した橋でもある為、北条義時・大江広元・三善康信は否定的であったが、実朝は不吉な橋ではないとし、修理によって民衆の往来が便利になり二所詣の道も確保できるのだから壊れる前に早く修理せよと押し切った、実朝の民政観を示す場面。
  • 和田合戦の発端 西暦1,213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤を訪ね、栄実を擁して挙兵するという謀反を持ち掛けた。千葉は其の場で安念を捕縛して北条義時の下へ連行する。3月31日、和田義盛の嘆願により和田義直・和田義重は赦免されたが、和田胤長は赦されず、4月1日、義盛が一族98名を引き連れて訴えても面会は叶わず、胤長は後ろ手に縛られて二階堂行村に引き渡された、和田合戦の直接的火種。
  • 和田合戦 西暦1,213年5月23日、小田知重の報告を受けた大江広元が宴席を抜けて走り、和田義盛に味方する起請文を書いていた三浦義村は弟の胤義と相談の末に裏切って北条義時へ密告した。源実朝・北条政子・西八条禅尼は北門から御谷へ避難する。16時、義盛は予定を1日繰り上げ、横山党の到着を待たずに150騎を三手に分けて大倉御所南門・義時の屋敷・大江の屋敷を襲撃した。18時に大倉御所への侵入を許し、朝比奈義秀が南門を打ち破って南庭に入り火を放つ。実朝は義村の守る北門から抜けて法華堂へ逃げ込み、日が暮れると義盛は由比ヶ浜へ兵を引いた、本書最大の合戦。
  • 先陣争いと波多野忠綱の武士道 西暦1,213年5月25日、源実朝は法華堂から北条政子の東の御所へ移り、二階堂行村を奉行として負傷者約188名を検分した後、勲功を尋ねた。政所前の先陣を巡って波多野忠綱と三浦義村が争い、北条義時は忠綱に譲歩を勧めたが、忠綱は「弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と退ける。波多野盛景・二階堂基行・金子太郎が、先陣は赤皮威の鎧を着て葦毛馬に乗った者であったと証言し、忠綱の主張が裏付けられた。29日には北条泰時が勲功を固辞して周囲を感嘆させている。
  • 長沼宗政の激論 西暦1,213年10月4日、弁覚の使者が畠山重慶の日光山での謀反を伝え、源実朝は長沼宗政に捕縛を命じた。10月11日、首級を持ち帰った長沼に実朝は激怒したが、長沼は生け捕れば北条政子や女官の願いで許されてしまうと反論し、更に「貴殿は和歌・蹴鞠を業として武芸は廃れた様なもの。女官を部下とし、勇士は無いのと同じである」と吐き捨てて大倉御所を去った。10月31日、小山朝政の取り成しにより赦免されている、実朝の文雅傾倒への武士側からの批判。
  • 金槐和歌集の完成 西暦1,214年1月5日、源実朝が藤原定家の許可を得て編纂していた「金槐和歌集」の作業が完了した。藤原から実朝へ届けられた663首が収録されている。同じ日、大江広元が藤原の領地である伊勢国小阿射賀御厨の地頭による横取りを聞き取り、地頭職の罷免に至った、歌人実朝の集大成。
  • 大慈寺の完成と落慶法要 西暦1,214年5月28日に大慈寺が完成し、供養の評議では源実朝が京都からの高僧招請を望んだが、北条義時・大江広元が、往復の雑事が庶民の煩いとなる為に関東の僧を用いるのが徳政となると進言した。9月3日、豪華な行列と共に参詣した実朝の前で、明菴栄西を導師として落慶法要が執り行われ、被り物30枚・馬20頭のお布施が与えられた。
  • 陳和卿の来朝と大船の建造 西暦1,216年6月24日、陳和卿が鎌倉に到着し、7月1日に源実朝へ謁見した。陳は「おお、我が師よ」と実朝を3度拝んで泣き出し、実朝が前世に於ける自分の師匠、医王山の長老であったと語る。実朝も6年前に同様の夢を見たと応じ、二人は意気投合した。西暦1,217年1月3日、北条義時への抵抗として渡宋を思い立った実朝の命により、陳は大船の建造を開始する。義時と大江広元は反対したが、実朝が押し切った形であった。
  • 左近衛大将・内大臣・右大臣への昇進 西暦1,218年4月2日、源実朝が左近衛大将兼左馬寮御監に任ぜられ、7月21日には鶴岡八幡宮寺で拝賀が執り行われた。10月29日に第58代内大臣、12月21日には第91代右大臣に任ぜられる。昇進を諌める大江広元に対し、実朝は「源氏の正統は自分の代で途絶え、子孫が継ぐ事は無いだろう。だからせめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」と答えていた、実朝の公家的栄達の頂点。
  • 頼仁親王の推薦 西暦1,218年5月頃、北条政子が後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子と面会し、源実朝に跡取りとなる男子が居ない為、皇族から次期征夷大将軍を斡旋する事が可能かどうか相談した。当時藤原は、西八条禅尼の甥で後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王の養育を任されており、何度かの面会の末に頼仁親王を推薦、北条は同意した、実朝後継問題の解決案。
  • 右大臣拝賀と源実朝暗殺 西暦1,219年2月13日、大江広元は「私は成人してより数十年、凡そ泣いた事がございません。しかし今、実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません」として束帯の下に腹巻を付ける様進言したが、源仲章の反論により退けられた。源実朝は宮内公氏に髪を1本抜いて「形見にせよ」と渡し、「出ていなは主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春を忘るな」と詠む。18時、雪が60cm程度積もる中を出発し、神拝を終えて石段を降りた所、法師の装いで隠れていた公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫んで斬り付け、首を落とした。公暁の仲間は松明を持っていた源仲章を北条義時と間違えて斬殺し、中門に留まっていた義時は命を拾った、本書の結末。
  • 公暁の討伐と勝長寿院への葬送 西暦1,219年2月13日、公暁は源実朝の首級を持ちながら「今こそ我は東国の大将軍である」と乳母夫の三浦義村へ言付を送った。義村は迎えを送ると答える一方で北条義時へ報告し、「公暁を誅殺せよ」との即答を得て長尾定景を討手に指名する。迎えを待ち切れず向かった公暁は道中で長尾と遭遇し、雑賀次郎に取り押さえられた所を斬首された。実朝の首級は義村の家臣武常晴が拾い上げて波多野へ葬り、翌14日、実朝は勝長寿院に葬られた。首が無い為、宮内公氏が形見として受け取った髪の毛が代用された、本書の終着点。

将軍就任から右大臣拝賀の雪の夜まで──
源実朝の十六年に近い歳月を一元化。

JPY 200(税込)

購入する
決済サービスSquare/ご利用いただけるカードブランド:Visa・Mastercard・アメリカン・エキスプレス・JCB・Diners Club・Discover・UnionPay(銀聯)

お支払いはカード情報の入力だけで完了します

購入後、そのままPDFダウンロードページへ移動します

お支払いは決済サービス「Square」を通じて安全に処理されます。カード情報が当サイトに保存されることはありません。


皇室献上品 高級トイレットペーパー
皇室献上品 高級トイレットペーパー

AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。