源実朝一元化
本書について
西暦1203年3月、源頼家の病床の下で北条義時の助けを得て源実朝が鶴岡八幡宮寺に参詣した日から、西暦1219年2月、右大臣拝賀の為鶴岡八幡宮寺に参詣した実朝が公暁に斬殺され、形見の髪の毛で代用されて勝長寿院に葬られた日まで。本書は、12歳で第3代征夷大将軍に就任し、右大臣にまで昇り詰めた源実朝の治世約15年6箇月間を、比企能員の乱・牧氏事件・和田合戦等の政変、藤原定家・鴨長明との和歌交流、明菴栄西・陳和卿の来朝と渡宋計画、暗殺迄の全軌跡を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1203年10月3日、源頼家の体調回復の兆しが見られない事から、北条時政が一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めたが、一幡の外祖父比企能員は此れに憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。10月13日、実朝が征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が宣下、10月16日に北条時政の名越殿入り、10月21日第3代鎌倉殿就任、11月13日に大江広元・小山朝政・和田義盛・中条家長・安達景盛等が参列した元服の儀式を挙行した。12月10日には源頼家から修禅寺より「安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しい」等の書簡が送られたが退けられ、以後書簡を送る事を禁じられた。西暦1204年8月30日、正室として後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼を京都から迎える事が決定された。藤原兼子が西八条禅尼を推薦した背景には、朝廷の息の掛かった女性を送り込む事で自身の発言権を強める狙いがあった。
西暦1205年5月2日、実朝は「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」を含む12首を初めて詠んだ。7月9日、平賀朝雅が牧の方に畠山重保の讒言を行い、畠山重忠・重保征伐が決定、9月4日には北条時政・牧の方が実朝暗殺と平賀朝雅擁立を企てている事を北条政子・北条義時が察知し、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を義時の屋敷に保護、時政と牧の方は此の日の内に出家した。10月18日、内藤朝親から新古今和歌集の写本を献上され、本歌取りによる和歌創作に繋げていった。西暦1206年11月21日、公暁が乳母夫三浦義村に付き添われ北条政子の計らいにより実朝の猶子となり大倉御所に入った。西暦1207年12月23日、大倉御所の酒宴で青鷺が侵入した際、吾妻助光が矢羽根を青鷺の眼に掠らせて生け捕りにし、出仕停止を解かれた。西暦1208年2月20日天然痘発病、3月17日治癒。西暦1209年6月29日、右近衛中将任官を契機に政所を設置して政治に関与し始め、8月6日には藤原定家に和歌30首の評を請い、9月13日に藤原から「近代秀歌」を献上され、紀貫之の古今集仮名序の「六義」について回答を得た。12月2日、北条義時・大江広元が和歌に傾倒する実朝を「武芸に嗜み、朝廷を警護する事が鎌倉幕府の安泰である」と諷言した。
西暦1210年12月11日、建穂神社のお告げと自身の夢を根拠に実朝は「西暦1213年に合戦が起きるのは明らか」と発言し建穂神社に刀を奉納した。西暦1211年には明菴栄西が「喫茶養生記」を献上、11月19日には鴨長明が飛鳥井雅経の推挙により謁見した。西暦1212年5月20日、後鳥羽上皇への恩と源頼朝の徳を讃える為の大慈寺の建設が開始された。西暦1213年3月8日、泉親衡の郎党阿静坊安念が千葉成胤に栄実を擁しての挙兵を持ち掛けた事から和田合戦の発端となり、5月23日16時、和田義盛が三浦義村の裏切りを受けつつも150騎を三手に分けて大倉御所南門・北条義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃、朝比奈義秀が大倉御所南門を打ち破り南庭に侵入して火を放ったが、実朝は法華堂に逃げ込み、翌日和田軍は敗北した。5月25日の勲功評議では波多野忠綱と三浦義村の先陣争いが起き、「赤皮威の鎧を着用し葦毛馬に乗馬した者が先陣」との3名の証言により波多野の主張が確認された。西暦1214年1月5日、藤原定家から届けられた663首が収録された「金槐和歌集」の編纂が完了、5月28日大慈寺完成、9月3日落慶法要。西暦1216年6月24日、陳和卿が鎌倉に到着し、7月1日の謁見で実朝を前世の師と再会したと語り、北条義時への抵抗として渡宋を思い立った実朝は西暦1217年1月3日に陳に大船の建造を命じた。西暦1218年4月2日左近衛大将兼左馬寮御監、10月29日内大臣、12月21日右大臣。5月頃、北条政子が藤原兼子と面会し、跡取りの居ない実朝の後継として頼仁親王の推薦を得た。西暦1219年2月13日、右大臣拝賀の為鶴岡八幡宮寺に参詣した実朝は、大江広元の「束帯の下に腹巻を付けられると良い」との進言を源仲章の反論により退け、宮内公氏に髪を形見として渡し「出ていなは主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春を忘るな」と詠んだ後、雪60cmの中を出発した。神拝を終えて石段を降りた所、法師の装いで隠れていた公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫び実朝を斬り付け首を落とした。仲章は義時と間違えられて斬殺された。公暁は三浦義村の屋敷への迎えを待ちきれず出発、道中で義村が差し向けた長尾定景と遭遇し、雑賀次郎に取り押さえられて斬首された。実朝の首級は三浦の家臣武常晴が拾い上げ波多野に葬られ、2月14日、勝長寿院に形見の髪の毛と共に葬られた。
登場人物
- 源実朝 本書の主人公。鎌倉幕府第3代征夷大将軍。源頼朝の弐男。西暦1203年10月13日に12歳で征夷大将軍に任ぜられ、西暦1205年5月2日に初めて和歌12首を詠み、西暦1214年1月5日に「金槐和歌集」を完成させた。西暦1218年には左近衛大将・内大臣を経て右大臣に就任したが、西暦1219年2月13日、右大臣拝賀の為鶴岡八幡宮寺に参詣した所、法師の装いで隠れていた公暁に「親の敵はかく討つぞ」と叫ばれて斬殺された、武家の棟梁にして和歌の名手という二面性を持つ人物。
- 源頼家 鎌倉幕府第2代征夷大将軍。源実朝の異母兄。西暦1203年3月18日に源実朝の鶴岡八幡宮寺参詣に触発され「義時のやり方が露骨になっている」と警戒、其の後体調回復の兆しが見られず、10月7日に亡くなった(鎌倉幕府からの京都への報告による)。西暦1203年12月10日、修禅寺から北条政子・実朝に「修禅寺の寂しさは耐え難い、中野能成を寄越して欲しい」「安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しい」との書簡を送ったが退けられ、以後書簡を送る事を禁じられた。
- 北条時政 鎌倉幕府初代執権。源実朝の外祖父。西暦1203年10月3日、源頼家の病臥を受けて一幡と実朝への相続を取り決め、同月16日には実朝を名越殿に迎えた。西暦1205年7月9日、牧の方の意向により畠山重忠征伐を決定、9月4日には実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が北条政子・北条義時に察知され、兵を招集するも部下達は実朝の警護に当たった為孤立、此の日の内に出家した、本書前半の権力者。
- 北条政子 源頼朝の御台所。源実朝の母。西暦1205年9月4日、北条時政・牧の方の実朝暗殺計画を察知し、御家人を遣わせて実朝を義時の屋敷に保護した。西暦1206年11月21日、公暁が実朝の猶子となる事を計らった。西暦1218年5月頃、藤原兼子と面会し、跡取りの居ない実朝の後継として頼仁親王の推薦を得た。西暦1219年2月13日の拝賀時には赤橋の西に牛車を駐車して見物していた、実朝の生涯を庇護した母。
- 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。源実朝の外叔父。西暦1203年3月18日に実朝の鶴岡八幡宮寺参詣を助けた。西暦1205年7月9日の畠山重忠征伐には反対したが牧の方の意向で同意、9月4日に時政・牧の方の計画を察知して実朝を自らの屋敷に保護した。西暦1213年5月23日の和田合戦では自らの屋敷を襲撃されたが冷静に対応し勝利、西暦1219年2月13日の拝賀時には実朝の指示で中門に留まり命拾いした、本書全般の実質的権力者。
- 北条泰時 北条義時の長男。西暦1213年5月23日の和田合戦で防戦、5月29日に源実朝から勲功を受ける様指示されるも「和田の攻撃を防ぐ為に多くの御家人が戦いました。褒賞は其れ等の者に与えるべき」と再三辞退して周囲を感嘆させた。西暦1218年8月14日に第5代侍所別当に就任、西暦1219年2月13日の公暁討伐後の首実検では「公暁をちゃんと見た事が無いので、本物かどうか分からない」と発言した、次世代の象徴的人物。
- 北条時房 北条義時の弟。西暦1205年7月9日の畠山重忠征伐には義時と共に反対したが牧の方の意向で同意、西暦1209年4月19日には武蔵国の田文作成を命じられた。西暦1219年2月13日の右大臣拝賀の行列に前駆として参加した。
- 比企能員 一幡の外祖父。西暦1203年10月3日、北条時政が一幡に関東28ヶ国・実朝に関西38ヶ国を譲る相続を取り決めた事に憤慨し、「全て一幡に与えられるべき」として実朝と北条氏の殺害を決意した。此れが比企能員の乱の発端となった、本書冒頭の対立軸を形成した人物。
- 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1203年11月13日の源実朝の元服の儀式に参列、西暦1209年12月2日には北条義時と共に実朝を「武芸に嗜み、朝廷を警護する事が鎌倉幕府の安泰」と諷言した。西暦1213年5月23日の和田合戦では屋敷を襲撃されるも無事。西暦1219年2月13日の拝賀時には実朝に「私は成人してより数十年、凡そ泣いた事がございません。しかし今、実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません」と束帯の下に腹巻を付ける様進言したが源仲章の反論により退けられた、本書の政治的柱。
- 和田義盛 鎌倉幕府侍所別当。西暦1209年6月15日、源実朝に上総介への挙任を依頼、西暦1212年1月25日に和田義直を通じて嘆願書の取り下げを大江広元に伝えた。西暦1213年3月に泉親衡謀反の連座で和田胤長が連行された事を契機に、5月23日、150騎を三手に分けて大倉御所南門・義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃、朝比奈義秀が大倉御所南門を打ち破ったが敗北した、和田合戦の中心人物。
- 畠山重忠 鎌倉幕府御家人。西暦1205年7月9日、平賀朝雅の讒言を牧の方が北条時政に訴えた事により謀反の嫌疑を掛けられ、北条義時・時房の反対にも拘らず牧の方の意向で征伐が決定された、牧氏事件の口実となった犠牲者。
- 牧の方 北条時政の継室。西暦1205年7月9日、平賀朝雅から畠山重保の讒言を受けて畠山重忠・重保の謀反と訴え、兄大岡時親を北条義時の屋敷に遣わせて征伐への同意を強要した。9月4日、源実朝暗殺と平賀朝雅擁立の計画が発覚し、此の日の内に時政と共に出家した、牧氏事件の首謀者。
- 平賀朝雅 源氏の武将。西暦1205年7月9日、牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言した。9月4日、北条時政・牧の方によって源実朝暗殺後の次期征夷大将軍に擁立される計画があった事が発覚した人物。
- 三浦義村 鎌倉幕府御家人。公暁の乳母夫。西暦1205年9月4日の牧氏事件時、実朝を北条義時の屋敷に保護する護衛の1人。西暦1206年11月21日には公暁を実朝の猶子として大倉御所に付き添った。西暦1213年5月23日の和田合戦では和田義盛に味方する起請文を書きながら土壇場で北条義時に密告し裏切った。西暦1219年2月13日の実朝暗殺後、公暁から迎えを求められるも長尾定景を差し向けて公暁を討伐した、本書屈指の謀略家。
- 公暁 源頼家の弐男。三井寺で受戒した僧。西暦1206年11月21日、乳母夫三浦義村に付き添われ北条政子の計らいにより源実朝の猶子となった。西暦1219年2月13日、右大臣拝賀の為鶴岡八幡宮寺に参詣した実朝を、法師の装いで隠れて「親の敵はかく討つぞ」と叫び斬り付け首を落とした。仲間数名は源仲章を北条義時と間違えて斬殺した。其の後三浦義村の屋敷への迎えを待ちきれず出発し、道中で遭遇した長尾定景に雑賀次郎に取り押さえられて斬首された、本書の題名を成す結末の実行者。
- 西八条禅尼 坊門信清の娘。源実朝の正室。西暦1204年8月30日、後鳥羽上皇の外叔の娘として藤原兼子の推薦により京都から鎌倉に迎える事が決定された。西暦1212年6月7日、北条朝時が西八条禅尼に仕える官女佐渡守藤原親康の娘を深夜に居室から連れ出した件で実朝の怒りを買い、朝時は義絶・蟄居となった。西暦1217年4月17日には実朝と同じ牛車で永福寺の桜の花見に出掛けた。
- 後鳥羽上皇 治天の君。西暦1204年8月30日、源実朝の正室として外叔坊門信清の娘西八条禅尼を推薦、西暦1215年8月2日に坊門信清を通じて仙洞御所での和歌会の纏めを実朝に贈った。西暦1218年7月21日の実朝の左近衛大将任官の拝賀、及び西暦1219年2月13日の右大臣拝賀の任命者、実朝の公家的栄達の背景に在った人物。
- 藤原定家 朝廷の歌人。西暦1209年8月6日、源実朝が送った和歌30首の評を請われ、9月13日・9月29日に評と共に和歌の指南書「近代秀歌」を献上し、紀貫之の古今集仮名序の「六義」について回答した。西暦1213年12月20日には飛鳥井雅経を通じて万葉集の一部を源実朝に献上、西暦1214年1月5日に届けられた663首は「金槐和歌集」に収録された、実朝の和歌の師。
- 鴨長明 平安末期・鎌倉初期の歌人。「方丈記」の著者。西暦1211年11月頃、飛鳥井雅経の推挙を受けて鎌倉に下向し、11月19日に源実朝に謁見した、実朝を巡る和歌文化の象徴的来訪者。
- 明菴栄西 臨済宗の開祖。西暦1211年、「喫茶養生記」を発表、其の後鎌倉に下向し源実朝に献上した。西暦1212年1月30日、実朝の持仏堂での文殊供養の導師を務め、7月19日には寿福寺を訪れた実朝に仏舎利3粒を譲った。西暦1214年3月16日、二日酔いの実朝に「喫茶養生記」を献上、9月3日には大慈寺落慶法要の導師を務めた、日本に茶を広めた人物。
- 陳和卿 宋の技術者。西暦1216年6月24日に鎌倉に到着、7月1日の源実朝との謁見では「おお、我が師よ」と3度拝み、「実朝殿は前世に於ける私の師匠、医王山の長老だった」と語り、源の6年前の夢と一致したとして意気投合した。西暦1217年1月3日、北条義時への抵抗として渡宋を思い立った実朝に大船の建造を命じられて作業を開始したが、船は完成しなかった、実朝の渡宋計画の中核人物。
- 源仲章 源実朝の側近。西暦1218年7月21日の左近衛大将任官の拝賀時、衣冠束帯で御伩を上げた。西暦1219年2月13日の右大臣拝賀時には大江広元の「束帯の下に腹巻を付けられると良い」との進言に「大臣・大将にまで昇った方で其の様にされた前例が無い」と反論した。同夜、鶴岡八幡宮寺からの帰路、松明を持っていた所を公暁の仲間に北条義時と間違えられて斬殺された、実朝と共に散った人物。
- 朝比奈義秀 和田義盛の参男。西暦1213年5月23日の和田合戦で大倉御所南門を打ち破り、高井重茂・五十嵐小豊治・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗を殺害して火を放ち、北条朝時を斬って負傷させ、野田朝季を殺害、足利義氏の鎧の袖を引きちぎる武勇を発揮した、和田合戦の猛将。
- 波多野忠綱 鎌倉幕府御家人。西暦1213年5月23日の和田合戦で米町と政所前で先陣を切って戦った。5月25日の勲功評議で三浦義村と政所前の先陣争いとなり、北条義時から三浦への譲歩を勧められるも「弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と拒絶、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎の「赤皮威の鎧を着用し葦毛馬に乗馬した者が先陣」との証言で主張が確認された、武士の誉れを貫いた人物。
- 宮内公氏 源実朝の側近。西暦1213年5月19日、源実朝の命で和田義盛の屋敷に使者として遣わされた。西暦1219年2月13日の右大臣拝賀時、実朝から髪を1本抜いて「形見にせよ」と渡された。実朝が暗殺された後、2月14日の勝長寿院への葬送では、首級が公暁に持ち去られていた為、此の髪の毛が遺体の代用とされた。
- 長尾定景 三浦義村の一族。西暦1219年2月13日、公暁討伐の討手に三浦義村から指名され、固辞するも受諾、黒革縅の鎧を身に纏い雑賀次郎等5名を引き連れ出陣した。迎えを待ち切れず三浦の屋敷へ向かう途上の公暁と遭遇、雑賀が公暁を取り押さえた所で斬首した。
- 吾妻助光 源実朝の警護を担う武士。西暦1207年9月8日の鶴岡八幡宮寺放生会で警護任務を怠り出仕停止となったが、12月23日の大倉御所の酒宴で侵入した青鷺を、鏃を外した引目の矢の矢羽根を青鷺の眼に掠らせて生け捕りにする妙技を披露し、出仕再開と剣を賜った、実朝の寵愛を取り戻した人物。
- 内藤朝親 源実朝の側近。西暦1205年10月18日、実朝に新古今和歌集の写本を献上、西暦1206年3月14日の北条義時の山荘での和歌会、西暦1209年8月6日には実朝の和歌30首を藤原定家に届ける役を担った、実朝の和歌活動を支えた人物。
- 宇都宮頼綱 小山政光の養子。西暦1205年10月3日に鎌倉に到着し、北条泰時の屋敷に参上し面会を求めるも拒否された為、結城朝光に剃髪して落とした髻を提出、北条経由で源実朝に届けた。源は髻を結城に返却し、最終的に宇都宮は処罰を免れた、牧氏事件の余波の中で身を守った人物。西暦1214年6月16日、三井寺の復興事業の一環で日吉大社の本殿・拝殿の再建を命じられた。
- 泉親衡 信濃国の御家人。西暦1213年3月8日、郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤を訪ね栄実を擁して挙兵するという謀反を持ち掛けた事が露見、和田合戦の発端となる事件の首謀者。
主要な地名・拠点
- 鶴岡八幡宮寺 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。鎌倉幕府の宗教的中心。西暦1203年3月18日の源実朝の参詣、西暦1211年4月7日の天然痘後の復参、西暦1218年7月21日の左近衛大将任官の拝賀、西暦1219年2月13日の右大臣拝賀と公暁による暗殺の地、本書の始点と終点を成す場所。
- 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目。鎌倉幕府の本拠。西暦1203年12月27日の小笠懸、西暦1207年12月23日の青鷺事件、西暦1209年2月11日の般若心経会・的始め、西暦1213年5月23日の和田合戦時の襲撃、西暦1219年2月13日の右大臣拝賀の出発点等、本書の主要場面の多くが起きた地。
- 名越殿 北条時政の屋敷。西暦1203年10月16日、源実朝が北条時政の名越殿に入り、北条が御家人の所領を安堵する御触れを出した地。西暦1205年9月4日には牧氏事件の際に実朝が保護されて義時の屋敷に移動するまでの居所であった、本書前半の実朝の拠点。
- 修禅寺 伊豆の寺院。源頼家の幽閉地。西暦1203年12月10日、源頼家が「修禅寺の寂しさは耐え難いので、中野能成を寄越して欲しい」との書簡を送った地。以後頼家は書簡を送る事を禁じられた。
- 法華堂 大倉御所の北側の丘の上に所在する堂。西暦1209年6月23日、梶原景時と其の郎党の菩提を弔う為の法事が執り行われた地。西暦1213年5月23日の和田合戦で大倉御所が燃えた際、源実朝が北条義時・大江広元等に付き添われて逃げ込んだ避難先。
- 勝長寿院 鎌倉の寺院。西暦1219年2月14日、公暁に斬殺された源実朝が葬られた地。首級は公暁が持ち去り、其の後三浦家臣武常晴が拾い上げ波多野に葬られた為、宮内公氏が前日形見として受け取った髪の毛で代用された、本書の終着点。
- 大慈寺 現在の神奈川県鎌倉市十二所。西暦1212年5月20日、源実朝が後鳥羽上皇への恩と源頼朝の徳を讃える為に建設を開始した寺院。西暦1214年5月28日に完成、9月3日に明菴栄西を導師として落慶法要が執り行われた、実朝の信仰の象徴。
- 永福寺 鎌倉の寺院。西暦1211年6月11日、源実朝が郭公の声を聞く為に内藤朝親・二階堂行村・東重胤・三善康俊を伴って参詣した地。西暦1214年4月20日には桜の花見、西暦1217年4月17日には西八条禅尼と同じ牛車で花見に出掛けた、実朝の憩いの場。
- 寿福寺 鎌倉の寺院。西暦1212年7月19日、源実朝が明菴栄西から仏舎利3粒を譲られた地。西暦1217年6月17日、筆頭住職退耕行勇が政治に口を出す事を実朝から咎められた地。
- 江島神社 現在の神奈川県藤沢市江の島。西暦1206年、鶴岡八幡宮寺の良信が辺津宮を建立した地。西暦1216年2月4日、江ノ島が陸続きとなり徒歩で本州から渡れる様になった際、源実朝等は神の御蔭ではないかと驚いた、本書の奇瑞の場。
- 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1213年5月23日の和田合戦で日が暮れ、大倉御所を襲撃した和田義盛が兵を引いた地。翌5月24日の合戦決着に繋がった。
- 建穂神社 駿河国の神社。西暦1210年12月11日、筆頭の神主が書き出したお告げが北条義時経由で源実朝の耳に入り、同時期に実朝が合戦の夢を見ていた事から「西暦1213年に合戦が起きるのは明らか」と発言し刀を奉納した地、和田合戦の予兆として刻まれた地。
- 大山阿夫利神社 現在の神奈川県伊勢原市大山。西暦1211年8月頃、洪水が激しく農民が嘆くだろうと考えた源実朝が「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨止め給へ」と詠み洪水の鎮まりを祈念した地。
- 箱根神社 現在の神奈川県足柄下郡箱根町元箱根。西暦1214年3月12日、源実朝が二所詣の為に参詣した地。
- 三嶋大社 現在の静岡県三島市大宮町。西暦1214年3月12日、源実朝が二所詣の為に参詣した地。
- 伊豆山神社 現在の静岡県熱海市伊豆山。西暦1214年3月13日、源実朝が参詣した地、二所詣の3社目。
- 三井寺 現在の滋賀県大津市園城寺町。西暦1209年10月29日、源実朝に招待された僧公胤が京都から鎌倉に到着した際の出身寺院。西暦1214年6月16日、源実朝が三井寺の再建を決定、復興事業の一環で宇都宮頼綱・大内惟義・佐々木広綱等が関連事業を命じられた。公暁が此処で受戒した経歴を持つ為、源実朝暗殺後、北条氏と三井寺系には距離感が生じた。
- 波多野 現在の神奈川県秦野市。西暦1219年2月13日の源実朝暗殺後、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げた実朝の首級が葬られた地。本書の実朝の首級の終焉の地。
主要な事件・出来事
- 源実朝の相続取り決めと比企能員の憤慨 西暦1203年10月3日、源頼家の体調に回復の兆しが見られない事から、北条時政が一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を、源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る相続を取り決めた。一幡の外祖父比企能員は「全て一幡に与えられるべき」として憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した、比企能員の乱の発端。
- 源実朝の征夷大将軍任命 西暦1203年10月13日、源実朝が征夷大将軍に任ぜられ、土御門天皇が宣下した。同日、北条時政からの「源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ」との書簡が朝廷に届けられた、12歳の第3代征夷大将軍の誕生。
- 元服の儀式 西暦1203年11月13日、源実朝の元服の儀式が執り行われ、大江広元・小山朝政・和田義盛・中条家長・安達景盛が参列した。11月29日には右兵衛佐に任ぜられた。
- 源頼家からの書簡 西暦1203年12月10日、源頼家が北条政子・源実朝に「修禅寺の寂しさは耐え難いので、中野能成を寄越して欲しい」「安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しい」との書簡を送った。要望は聞き入れられず、頼家は以後書簡を送る事を禁じられた、兄弟の最後の遣り取り。
- 西八条禅尼との縁組決定 西暦1204年8月30日、鎌倉幕府が源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼とし京都から迎える事を決定した。当初は足利義兼の娘が候補に挙がっていたが、源は拒否し朝廷に打診、藤原兼子が西八条禅尼を推薦した、朝廷と鎌倉幕府の縁組。
- 源実朝の初の和歌作成 西暦1205年5月2日、源実朝が「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」を含む12首を詠んだ。源が和歌を詠んだのは此の時が初めてであった、歌人実朝の誕生。
- 畠山重忠征伐と牧氏事件 西暦1205年7月9日、平賀朝雅が牧の方に畠山重保の讒言を行い、牧の方が北条時政に畠山重忠・畠山重保の謀反を訴えた。北条義時・北条時房は反対したが、牧の方の意向により畠山征伐が決定された。9月4日、北条政子・北条義時が、時政・牧の方が実朝を暗殺し平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事に気付き、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野政景を遣わせて実朝を義時の屋敷に保護、時政と牧の方は此の日の内に出家した、本書前半最大の政変。
- 新古今和歌集の献上 西暦1205年10月18日、内藤朝親が源実朝に新古今和歌集の写本を献上した。源は熱心に読み耽り、本歌取りを行なって自らの和歌創作に繋げていった、実朝の歌風形成の契機。
- 公暁の猶子 西暦1206年11月21日、公暁が乳母夫である三浦義村に付き添われ、北条政子の計らいにより、源実朝の猶子となり初めて大倉御所に入った、13年後の暗殺への布石となる縁組。
- 青鷺の射落とし 西暦1207年12月23日、大倉御所での酒宴の際、青鷺が1羽進物の並べてある部屋に入り寝殿の上に留まった。不愉快な源実朝が射落とす様命じるも腕の立つ者が居なかった為、北条義時の進言で吾妻助光が召喚され、衣服を逆さに着たまま鏃を外した引目の矢を指に挟み、鷹の羽を使った矢を射て青鷺の眼から出血させ、矢羽根を青鷺の眼に掠らせて生け捕りにした。此の妙技に感心した源は吾妻の出仕を再開させ剣を与えた、実朝と武士の名シーン。
- 源実朝の天然痘 西暦1208年2月20日、源実朝が天然痘を発病し、鶴岡八幡宮寺への出御が無かった。3月17日に治癒し沐浴を行った、実朝の健康上の転機。
- 政所設置 西暦1209年6月29日、源実朝が右近衛中将に任ぜられた事を切っ掛けに政所を設置、政治に関与し始めた。形式的将軍から実権者への移行。
- 藤原定家「近代秀歌」献上 西暦1209年8月6日、源実朝が内藤朝親に自身の和歌30首を送り藤原定家に評を請い、紀貫之が古今集仮名序に記した和歌の六種の風体「六義」について問うた。9月13日・9月29日、藤原は評と和歌の指南書「近代秀歌」を源に献上し六義について回答した、実朝の和歌の師事。
- 明菴栄西「喫茶養生記」献上 西暦1211年、明菴栄西が著作「喫茶養生記」を発表、其の後鎌倉に下向した際に源実朝に献上した。西暦1214年3月16日には二日酔いの源実朝に再度献上した、日本に茶を広めた契機。
- 鴨長明の謁見 西暦1211年11月19日、鴨長明が飛鳥井雅経の推挙により源実朝に謁見した、実朝を巡る和歌文化の象徴的来訪。
- 大慈寺建設開始 西暦1212年5月20日、源実朝が後鳥羽上皇への恩と源頼朝の徳を讃える為に建設させた寺院である大慈寺の建設が開始された。11月5日の大倉郷視察時、三善康信は「実朝殿が自ら願われて建立されます事は、やはり霊感なのでしょうか」と語った。
- 和田合戦の発端 西暦1213年3月8日、泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が千葉成胤を訪ね、栄実を擁して挙兵するという内容の謀反を持ち掛けた。千葉は其の場で安念を捕縛し北条義時に連行、4月1日には和田義盛一族の和田胤長が謀反の首謀者として赦免されず、二階堂行村に引き渡された、和田合戦の直接的火種。
- 和田合戦 西暦1213年5月23日16時、和田義盛が予定を1日繰り上げて挙兵、150騎を三手に分けて大倉御所南門・北条義時の屋敷・大江広元の屋敷を襲撃した。三浦義村は義盛に味方する起請文を書きながら土壇場で義時に密告し裏切った。朝比奈義秀が大倉御所南門を打ち破り南庭に侵入し高井重茂等を殺害して火を放ったが、源実朝は法華堂に逃げ込み、日が暮れると義盛は由比ヶ浜に兵を引いた、本書最大の合戦。
- 先陣争いと波多野忠綱の武士道 西暦1213年5月25日の勲功評議で、波多野忠綱と三浦義村が米町と政所前の先陣争いとなった。北条義時は忠綱に三浦への譲歩を勧めたが、忠綱は「弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と拒絶、波多野盛景・二階堂基行・金子太郎が「赤皮威の鎧を着用し葦毛馬に乗馬した者が先陣」と証言し忠綱の主張が確認された。三浦義村は後に千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と返されるなど汚名を被った、武士の誉れを巡る象徴的場面。
- 畠山重慶の誅殺と長沼宗政の激論 西暦1213年10月4日、弁覚の使者が畠山重慶の日光山での謀反を鎌倉幕府に伝え、源実朝は長沼宗政に捕縛を命じた。10月11日、長沼は重慶の首級を持参し鎌倉に帰還、「生け捕って来いと言ったにも拘らず何故殺したのか」と源の激怒を買うも、「貴殿は和歌・蹴鞠を業として武芸は廃れた様なもの。女官を部下とし、勇士は無いのと同じである」と吐き捨て大倉御所を去った。10月31日、小山朝政の取り成しにより赦免された、実朝の文雅傾倒への武士側からの批判。
- 金槐和歌集完成 西暦1214年1月5日、源実朝が藤原定家の許可を得て編纂していた「金槐和歌集」の作業が完了した。藤原から源に届けられた663首が収録された、歌人実朝の集大成。
- 大慈寺落慶法要 西暦1214年9月3日、大慈寺の落慶法要が執り行われた。12時に源実朝が大慈寺へ向かい、前駈・殿上人・御車・御劔役・調度懸・後騎・随兵・検非違使からなる豪華な行列と共に参詣、明菴栄西を導師として落慶法要が終了後、被り物30枚・馬20頭のお布施が与えられた。
- 陳和卿の来朝と謁見 西暦1216年6月24日、陳和卿が鎌倉に到着、7月1日に源実朝に謁見した。陳は「おお、我が師よ」と源を3度拝み泣き出し、「源殿は前世に於ける私の師匠、医王山の長老だった」と語った。源も「6年前其の様な夢を見た」と返し意気投合した、宋人との神秘的邂逅。
- 大船の建造 西暦1217年1月3日、北条義時への抵抗として渡宋を思い立った源実朝に大船の建造を命じられた陳和卿が作業を開始した。北条義時・大江広元は反対したが、源が押し切った形となった、実朝の壮大な対抗策。
- 左近衛大将・内大臣・右大臣任官 西暦1218年4月2日、源実朝が左近衛大将兼左馬寮御監に任ぜられ、7月21日に鶴岡八幡宮寺にて拝賀が執り行われた。10月29日第58代内大臣、12月21日第91代右大臣に任ぜられた、実朝の公家的栄達の頂点。
- 頼仁親王の推薦 西暦1218年5月頃、北条政子が後鳥羽上皇の乳母であった藤原兼子と面会、源実朝に跡取りとなる男子が居ない為、皇族から次期征夷大将軍を斡旋する事は可能かどうか相談した。何度かの面会の末、藤原は西八条禅尼の甥で後鳥羽上皇の皇子の頼仁親王を推薦し、北条は同意した、実朝後継問題の解決案。
- 右大臣拝賀と源実朝暗殺 西暦1219年2月13日、大江広元の「私は成人してより数十年凡そ泣いた事がございません。しかし今、実朝殿のお側に近づくと涙が止まりません」「束帯の下に腹巻を付けて行かれると良いでしょう」との進言は源仲章の反論により退けられた。源は宮内公氏に髪を1本抜いて「形見にせよ」と渡し、「出ていなは主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春を忘るな」と詠んだ。18時、雪60cm積もった中を出発、神拝を終え石段を降りた所、法師の装いをして隠れていた公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫び、源を斬り付け首を落とした。仲章は義時と間違えられて斬殺された、本書の題名を成す結末。
- 公暁の討伐と勝長寿院への葬送 西暦1219年2月13日、公暁は三浦義村の屋敷への迎えを待ちきれず出発、道中で義村の差し向けた長尾定景と遭遇、雑賀次郎に取り押さえられて斬首された。実朝の首級は三浦家臣武常晴が拾い上げ波多野に葬られた。2月14日、実朝は勝長寿院に葬られ、公暁が持ち去った首級の代用として宮内公氏が前日受け取った髪の毛が用いられた、本書の終着点。