電子書籍「東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿一元化」の表紙

東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,181年1月15日〜1,206年7月12日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年11月20日

南都焼き討ち・大勧進・南宋技術導入・周防国杣山・大仏殿落慶──
東大寺再興を成し遂げた重源と陳和卿の四半世紀を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

購入する

本書について

西暦1181年1月、平清盛の命を受けた平重衡率いる平氏が東大寺・興福寺を焼き討ちにした日から、西暦1206年7月、重源が全ての任を果たし入滅する迄。本書は、焼亡した東大寺大仏殿の再建に尽力した俊乗房重源と、南宋から渡来した工人・陳和卿の事績を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1181年5月、焼け落ちた東大寺の惨状を見て涙した重源は、復興への勧進を決意する。同年9月、後白河上皇から東大寺大勧進職に任命され、南宋出身の工人陳和卿等と協働し復興事業に着手した。西暦1183年3月から6月に掛けて大仏の右手・頭部・仏顔が次々と鋳造され、木炭10,823.4kg程度と熟銅6,000kg程度が投入された。西暦1184年には左手・体部の鋳造も完了、源頼朝や藤原秀衡からの鍍金料寄進を受けた。西暦1185年9月23日、嵐の中で大仏開眼供養が執り行われ、後白河上皇自ら菩提僊那伝来の筆を執って開眼した。

西暦1186年、周防国が東大寺造営料国となり、重源は陳和卿と番匠物部為重・桜島国宗等を率いて周防国へ下向した。得地保の杣山では、1本の柱に牛120頭を要する大作業が展開された。重源は、川に堰を造り木材を浮かべて一気に押し出す工法や、滑車の使用により、3,000名必要とする人夫を70名で済ませる事に成功した。西暦1190年11月18日、後白河上皇の御幸を仰ぎ大仏殿上棟式が執り行われた。西暦1192年4月、重源の最大の後ろ盾であった後白河上皇が崩御、以降の支援は源頼朝が担った。西暦1192年10月、重源は兵庫の大部荘に浄土寺を建立し、大仏殿の前に新工法の試作として浄土寺大仏を完成させた。

西暦1195年4月23日、東大寺大仏殿の落慶供養が盛大に執り行われた。後鳥羽天皇の行幸、源頼朝の大檀越としての参列、和田義盛・梶原景時等が数万の兵を率いての警備、南都・京都の供養僧1,324名の参加、大雨と春雷と地震の中での万灯会──重源は南大門脇の隅の座敷から此の式を見守り「公家や寺家の時代は終わり、此れからは武家の時代になるのかのう」と呟いた。翌日、源頼朝は陳和卿との面会を求めたが、平氏や源義経等を殺した罪業の深い人間であるとして陳は辞退、源からの褒美も、甲冑を釘に加工し鞍を東大寺に納める等して返却した。貢物としてではなく大仏殿造営への礼として受ける事を、南宋人としての誇りから拒んだのである。其の後重源は「大和尚位」の称号を受けた。西暦1206年7月12日、重源が入滅した。


登場人物

  • 重源 俊乗房重源。本書の主人公の一人。東大寺大勧進職。醍醐寺・高野山に住し、各地の霊地名山を巡礼、奥州・九州へも布教。南宋に渡り五台山に参詣した経歴を持つ。西暦1181年、後白河上皇の宣旨を受け大勧進職に就任、以後25年間に亙り東大寺再建に生涯を捧げた。西暦1195年、大仏殿落慶供養を成し遂げ「大和尚位」の称号を受けた。
  • 陳和卿 本書の主人公の一人。南宋出身の工人。東大寺大仏の鋳造と大仏殿再建の技術的指導者。西暦1181年に重源と協働して復興事業に着手、西暦1183年に大仏の右手・頭部・仏顔を鋳造、其の後大仏殿の建設を主導した。西暦1195年、源頼朝の面会要請を罪業の深い人間との理由で拒絶、褒美も鋳直して釘等に転用した。南宋人としての誇りを貫いた人物。
  • 陳仏寿 陳和卿の弟。南宋出身の鋳物師。西暦1183年3月6日、陳和卿と共に東大寺大仏の右手の鋳造を完了させた21名の1人。
  • 草部是助 日本人鋳物師。西暦1183年3月6日の東大寺大仏の右手鋳造に参加した14名の日本人鋳物師の1人。当初は南宋人鋳物師から不快感を示されたが、重源の取り成しで落着した。
  • 草部助延 日本人鋳物師。西暦1183年3月6日の東大寺大仏の右手鋳造に参加した14名の日本人鋳物師の1人。
  • 物部為重 番匠。西暦1186年4月30日、重源・陳和卿と共に周防国へ下向した。5月8日には得地保の杣山に入り、材木の切り出しに従事した。
  • 桜島国宗 番匠。西暦1186年4月30日、重源・陳和卿と共に周防国へ下向した。5月8日には得地保の杣山に入り、材木の切り出しに従事した。
  • 快慶 大仏師。西暦1195年2月7日、定覚と共に東大寺中門の二天の造像を担当した。西暦1201年11月24日、自身の制作した「木造僧形八幡神坐像」を開眼した。
  • 定覚 大仏師。西暦1195年2月7日、快慶と共に東大寺中門の二天の造像を担当した。
  • 観阿 重源の甥であり弟子。西暦1192年、大部荘の預所に任命され下向した。如阿と共に、浄土寺の段丘に溜池を築き水田を開発し、堂舎の復興や仏像の修復にも当たった。
  • 如阿 重源の弟子。西暦1192年、観阿と共に大部荘の預所に任命され下向した。浄土寺を拠点に大部荘と伊賀国の三荘園の経営に従事した。
  • 後白河上皇 重源の最大の後ろ盾。西暦1181年、東大寺焼亡直後に復興の意思を示し、同年9月、重源に東大寺大勧進職の宣旨を下した。西暦1185年の大仏開眼供養では自ら菩提僊那伝来の筆を執り開眼した。西暦1190年の大仏殿上棟式にも御幸。西暦1192年4月26日に六条殿で崩御、重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない」と嘆いた。
  • 平重衡 平清盛の命を受け、西暦1181年1月15日、東大寺・興福寺の焼き討ちを率いた張本人。西暦1185年、源頼朝により南都衆徒の要求に従い引き渡された。
  • 藤原行隆 西暦1181年5月23日、重源が焼跡を見る際に案内した公卿。西暦1184年の左手鋳造完了時や同年の体部鋳造完了時には、九条兼実の下を訪れ進捗を報告した。
  • 九条兼実 摂関家の公卿。西暦1183年6月10日、身骨舎利1粒を水晶小塔に納め鋳造の終わった大仏頭部内に納入した。西暦1185年には重源に五色錦袋入りの舎利を渡した。西暦1195年の大仏殿落慶供養では、民衆を回廊内に入れない運営判断を下した。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代将軍。西暦1184年6月に鍍金料1,000両を献納、西暦1185年4月に米1,500,000kg・砂金1,000両・上絹1,000疋を寄進。後白河上皇崩御後は東大寺再建支援の中心的後援者となった。西暦1195年の大仏殿落慶供養に大檀越として参列、陳和卿に面会を求めたが辞退された。
  • 藤原秀衡 奥州藤原氏の第3代当主。西暦1184年6月、東大寺の大仏の鍍金料として砂金5,000両を献納した。
  • 禎喜 第83世東大寺別当。西暦1183年6月10日、大仏の目や鼻等の仏顔を完成させた陳和卿を労い、騎馬1疋・上絹10疋を贈った。
  • 勝賢 第22世醍醐寺座主。西暦1185年、東大寺大仏腹部に納める舎利を100ヶ日祈祷した。
  • 文覚 真言僧。西暦1193年2月17日、鎌倉幕府に対し備前国を東大寺造営料国として給する事を求めた。重源の屋根瓦調達の苦境を受けての申請であった。
  • 佐々木高綱 周防国守護。東大寺再建の材木切り出しに協力し、源頼朝から称賛された。
  • 後鳥羽天皇 西暦1195年4月23日の東大寺大仏殿落慶供養に行幸、西の回廊から神輿で壇上に登り、大床子に着座した。西暦1204年1月3日、重源が営んだ東大寺総供養にも上皇として行幸した。
  • 結城朝光 源頼朝の御家人。西暦1195年の大仏殿落慶供養で、梶原景時と僧兵達の一触即発の事態を源の命により収拾、僧兵達の前で跪き説得し、数千の僧兵を静めた。

主要な地名・拠点

  • 東大寺 華厳宗大本山。現在の奈良県奈良市雑司町。西暦1181年1月15日、平重衡の南都焼き討ちにより、二月堂・法華堂・転害門以外は大半が焼け落ちた。本書の全ての事業が此の寺の再建に捧げられた。
  • 興福寺 藤原氏の氏寺。現在の奈良県奈良市登大路町。西暦1181年1月15日、平重衡の南都焼き討ちにより全焼。東大寺と共に再建対象となった。
  • 手向山八幡宮 東大寺の鎮守社。西暦1181年1月15日の南都焼き討ちで焼失した。西暦1188年、重源主導で仮殿が建設され、西暦1197年3月、社殿が再建された。
  • 醍醐寺 重源が東大寺大勧進就任以前に住した寺院。第22世座主勝賢は、西暦1185年に東大寺大仏腹部に納める舎利を100ヶ日祈祷した。
  • 高野山 重源が醍醐寺の後に住した地。其の後、各地の霊地名山を巡礼した。
  • 五台山 南宋の山西省忻州市五台県に所在。重源は南宋渡航の際此処に参詣し、文殊の瑞光を拝した。
  • 周防国 現在の山口県。西暦1186年4月14日、東大寺造営料国となり、重源に国務管理が一任された。以後、東大寺への材木の供給源となった。
  • 得地保 周防国の杣山。現在の山口県山口市徳地堀。西暦1186年5月8日、重源・陳和卿・物部為重・桜島国宗等が入り、39.39mの棟木を始めとする材木の切り出しを行った。重源は堰と滑車を用いた革新的な運搬法を採用した。
  • 伊賀国の荘園 山田有丸荘・広瀬荘・阿波荘(全て現在の三重県伊賀市)。西暦1191年1月9日、鎌倉幕府により東大寺大仏殿向け材木切り出しの為、現地の地頭が罷免され陳和卿の所領となった。後に浄土寺が管理する荘園となった。
  • 大部荘 兵庫の荘園。現在の兵庫県小野市。東大寺の荘園の中で最も米の生産量が多かった。西暦1190年から本格的な経営が始まり、西暦1192年10月3日、朝廷が境界を確定する宣旨を発布した。重源は甥の観阿と如阿を預所に下向させた。
  • 浄土寺 西暦1192年、重源が大部荘の経営拠点として建立した寺院。現在の兵庫県小野市浄谷町。西暦1192年10月、東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、大仏殿より規模の小さい大仏を新工法で試作した浄土寺大仏が完成した。大部荘と伊賀国の三荘園を管理する役割を担った。
  • 備前国 現在の岡山県東南部。重源が瓦に適した土を有する事を視察で確認していた国。西暦1193年2月17日、文覚が鎌倉幕府に対し、重源の屋根瓦調達の為、東大寺造営料国として給する事を求めた。
  • 東南院 東大寺の塔頭。西暦1195年4月21日、源頼朝一行が入った宿所。翌4月24日、源頼朝と重源が面会した場所でもある。

主要な事績

  • 南都焼き討ち 西暦1181年1月15日、平清盛の命を受けた平重衡率いる平氏による東大寺・興福寺焼き討ち。興福寺は全焼、東大寺も二月堂・法華堂・転害門以外は大半が焼失。本書全体の発端となった事件である。
  • 大勧進職就任 西暦1181年9月、後白河上皇が重源に東大寺大勧進職の宣旨を下した。同年11月14日、重源は勅許を得て京都中を勧進して回り、後白河上皇・皇嘉門院別当を皮切りに女院等から銅・銭・黄金等の奉加を受けた。
  • 東大寺大仏の鋳造 西暦1183年3月6日に右手、5月22日に頭部、6月10日に仏顔、西暦1184年2月18日に左手、同年8月1日に体部の鋳造を完了。木炭10,823.4kg程度、熟銅6,000kg程度を投入し、鍍金と箔押しの2技法で荘厳された。日宋の鋳物師の間には当初軋轢もあったが、重源の取り成しで協働が実現した。
  • 東大寺大仏開眼供養 西暦1185年9月23日、嵐の中で執り行われた。開眼師定遍、呪願師信円、導師覚憲。後白河上皇自らが、勅封蔵に保管されていた菩提僊那伝来の65.2㎝の筆を執って開眼した。大仏殿はまだ仮屋で、面部のみ金色、体部は未荘厳の状態であった。
  • 周防国下向と革新的な運搬法 西暦1186年4月、周防国が東大寺造営料国となり重源が下向。得地保の杣山で39.39mの棟木を含む材木を切り出した。重源は堰を造って木材を浮かべ一気に押し出す方法を考案、滑車を併用し、3,000名必要とする人夫を70名で済ませる事に成功した。
  • 東大寺大仏殿上棟式 西暦1190年11月18日、後白河上皇の御幸を仰ぎ執り行われた。同年8月17日には母屋柱2本の建設が開始されていた。
  • 後白河上皇崩御 西暦1192年4月26日、重源の最大の後ろ盾であった後白河上皇が六条殿にて崩御。重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない。上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆いた。以降の支援は源頼朝が中心となった。
  • 浄土寺大仏の新工法試作 西暦1192年10月、大部荘に建立した浄土寺にて完成。東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、大仏殿より規模の小さい大仏を新工法で試作したものである。重源の技術者としての慎重さを示す事例。
  • 東大寺大仏殿落慶供養 西暦1195年4月23日、後鳥羽天皇の行幸、源頼朝の大檀越参列のもと盛大に執り行われた。南都・京都の供養僧1,324名が参加、和田義盛・梶原景時等が数万の兵で警備、結城朝光が僧兵の騒動を収拾。大雨と春雷と地震、夜の万灯会──重源は南大門脇から見守り「公家や寺家の時代は終わり、此れからは武家の時代になるのかのう」と呟いた。
  • 陳和卿の源頼朝拒絶 西暦1195年4月24日、源頼朝は陳和卿との面会を求めたが、陳は「平氏や源義経等多くの人々を殺した罪業の深い人間」として辞退。源から贈られた甲冑は鋳直して釘に加工、鞍は手掻会の為に東大寺に納め、其の他は返却した。貢物としてではなく造営への礼として受ける事を南宋人としての誇りから拒否したもの。
  • 大和尚位の下賜と晩年 大仏殿落慶供養後、重源は「大和尚位」の称号の宣旨を受けた。しかし二菩薩・四天王像、回廊、南大門、八幡宮社殿、七重塔、僧房等は未完成で、重源は「まだまだ此れからだ。儂は生きるぞ」と気を引き締めた。西暦1204年には後鳥羽上皇行幸の東大寺総供養を営み、西暦1206年7月12日、入滅した。

南都焼き討ち・大勧進・南宋技術導入・周防国杣山・大仏殿落慶──
東大寺再興を成し遂げた重源と陳和卿の四半世紀を一冊に。

JPY 200(税込)

購入する

AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。