電子書籍「東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿一元化」の表紙

東大寺大仏殿の再建に尽力した
重源と陳和卿一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,181年1月15日〜1,206年7月12日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
22ページ
文字数
7,785字
最新更新日
西暦2,026年9月30日

焼け落ちた大仏の前で、再建の計画が立てられた──
重源と陳和卿の東大寺再建を一元化。

256円(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,181年1月15日、平清盛の命を受けた平重衡率いる平氏が、東大寺(現在の奈良県奈良市雑司町)と興福寺(現在の奈良県奈良市登大路町)を焼き討ちにした。興福寺は全焼し、東大寺も二月堂・法華堂・転害門を除く大半が焼け落ちる。後白河上皇は直ちに復興の意思を示した。5月23日、藤原行隆の下を訪ねて焼跡を見て回った重源は、其の惨状に涙し、復興への勧進を決意する。本書は、此の焼き討ちから、1,206年7月12日に重源が入滅する迄の二十五年を一元化した記録である。

同年9月頃、後白河上皇は重源を東大寺大勧進職に任じる宣旨を下し、重源を中心に、南宋出身の工人陳和卿らが大仏の鋳造を始めとする復興に当たる事となった。11月14日から京都中を勧進して回った重源は、後白河上皇や女院らから銅・銭・黄金の奉加を受ける。1,182年8月23日、重源と陳和卿は焼け落ちた大仏を前にして再建の計画を立てた。1,183年3月6日、陳和卿と弟の陳仏寿を含む南宋人鋳物師7名と日本人鋳物師14名が右手の鋳造を終え、5月22日には頭部の鋳造が完了し、6月10日には仏顔が完成する。木炭は10,823.4kg程度、熟銅は6,000kg程度が用いられ、九条兼実は身骨舎利1粒を水晶小塔に納めて頭部に納入した。1,184年2月18日には左手の鋳造も終わる。日本人鋳物師が加わった事に南宋人鋳物師は不快感を示していたが、重源の取り成しで落着していた。

事業を支えたのは寄進であった。1,184年6月頃、源頼朝が1,000両、藤原秀衡が5,000両の鍍金料を献納し、1,185年4月8日には頼朝が米1,500,000kg・砂金1,000両・上絹1,000疋を重源に寄進する。9月18日、後白河上皇が寄進した舎利を大仏の腹部に納めるに当たり、重源は、醍醐寺や高野山に住し、南宋に渡って五台山で文殊の瑞光を拝した自らの歩みを敬白文に記した。9月23日6時、嵐の中で開眼供養が営まれる。仮屋の大仏殿に組まれた足場を登った後白河上皇は、菩提僊那も手にした65.2cmの筆を自ら執って開眼した。とは言え、金色なのは面部だけで、体部の荘厳は未だ為されていなかった。

1,186年4月14日、周防国が東大寺造営料国となり、国務が重源に一任される。4月30日、陳和卿と番匠の物部為重・桜島国宗らを率いて下向した重源は、5月8日、得地保(現在の山口県山口市徳地堀)の杣山に入った。柱1本に牛120頭を要する程の切り出しで、人夫の確保を妨げる地頭は、朝廷から鎌倉幕府に伝えて止めさせた。39.39mの棟木を始めとする木材は、川に造った堰に水を溜めて浮かべ、堰を切って次の堰へ押し出す方法で運び、瀬戸内海からは筏を組んだ。此れにより、3,000名を要する人夫は70名で済んだ。伐採や立柱には滑車も用いている。1,187年4月14日には源頼朝が、切り出しを怠ける周防国の地頭らに精勤を命じ、協力した守護の佐々木高綱を称賛した。

1,190年8月17日、大仏殿の母屋柱2本の建設が始まり、11月18日、後白河上皇の御幸を仰いで上棟式が営まれる。1,192年には鎌倉幕府が西海道の地頭に用材の運搬を命じ、1年以内に柱118本が東大寺に納入された。然し4月26日、後白河上皇が六条殿で崩御する。重源は「上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆き、以降の再建支援は源頼朝が担った。10月3日、重源の訴えにより朝廷は大部荘(現在の兵庫県小野市)の境界を確定し、甥で弟子の観阿と、如阿が、重源主導で建てた浄土寺(現在の兵庫県小野市浄谷町)の段丘に溜池を築いて水田を開く。浄土寺では、大仏殿の工事に万全を期す為、規模の小さい大仏が新工法で試作された。

1,193年、屋根瓦の産地である大和国・山城国・河内国は全て興福寺に押さえられていた。重源の訴えを受けた文覚は、瓦に適した土を持つ備前国を東大寺造営に給する事を鎌倉幕府に求める。6月には30本余りの大柱が東大寺に届き、大仏後方の約18.18mの築山が除かれて、1,194年4月4日から光背が造られ始めた。源頼朝は光背料の砂金を寄進し、大仏殿の二菩薩と四天王の造像を、畠山重忠・梶原景時ら6名の御家人に負担させる。1,195年2月7日には、快慶・定覚が小仏師27名と共に中門の二天の造像を始めた。3月7日、頼朝は落慶供養への参列と大姫の入内工作の為、北条政子・源頼家・大姫らを伴って京都へ発ち、4月22日、東大寺に馬1,000疋・米約1,500,000kg・黄金1,000両・上絹1,000疋を献上した。

4月23日、後鳥羽天皇の行幸を仰ぎ、大檀越の頼朝も参列して、大仏殿の落慶供養が盛大に営まれた。京都・南都の供養僧1,324名が入場する中、布施等の経費を整えた重源は其の列に加わらず、南大門脇の隅の座敷から式を見守った。12時過ぎから大雨となって春雷が鳴り、14時には地震も起きたが、重源は「大雨の法会も悪くはない。式が引き締まる」と言い、数万の兵で警備に当たる御家人の姿を見て「公家や寺家の時代は終わり、此れからは武家の時代になるのかのう」と独り言を漏らす。見物の僧兵と御家人の乱闘は、頼朝の命を受けた結城朝光が僧兵の前に跪いて説き、鎮まった。宵には四面の回廊に灯が灯されて万灯会が催される。重源は、脇侍二菩薩と四天王像は間に合わず、回廊は仮設で、南大門や七重塔等はまだ着工にも至っていない事を思い、「まだまだ此れからだ。儂は生きるぞ」と気を引き締めた。

翌24日、大仏を初めて参拝した頼朝は、重源の手を両手で握って労い、陳和卿にも会いたいと申し入れた。陳は、平氏や源義経等多くの人々を殺した罪業の深い人間であるから会いたくないと断り、贈られた甲冑は造営の釘に、鞍は手掻会の為に東大寺へ納め、其の他は返した。重源は「大和尚位」の称号の宣旨を受ける。1,197年3月頃には手向山八幡宮の社殿が再建され、1,201年11月24日には快慶が「木造僧形八幡神坐像」を開眼した。1,204年1月3日、重源は後鳥羽上皇の行幸を仰いで東大寺の総供養を営む。そして1,206年7月12日、重源は入滅した——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 重源 本書の中心人物。東大寺の焼跡を見て涙し、勧進を決意した。後白河上皇から東大寺大勧進職に任じられ、京都中を勧進して回った。陳和卿と大仏の再建を計画し、周防国の杣山では堰を使った運搬法で材木を運んだ。大部荘の経営や浄土寺の建立も主導し、落慶供養の後に「大和尚位」の称号を受けて、1,206年に入滅した。
  • 陳和卿 本書の中心人物。南宋出身の工人。重源と共に大仏の再建計画を立て、右手・頭部・左手等の鋳造を進めた。周防国の杣山にも入り、伊賀国の三荘を所領とされた。源頼朝の面会の申し入れを、多くの人々を殺した罪業の深い人間には会いたくないと断り、贈られた甲冑は造営の釘に変えた。
  • 後白河上皇 焼き討ちの直後に東大寺の復興の意思を示し、重源を東大寺大勧進職に任じた。開眼供養では自ら筆を執って大仏を開眼し、大仏殿の上棟式にも御幸した。1,192年、六条殿で崩御した。
  • 源頼朝 大仏の鍍金料や米・砂金・上絹を寄進し、材木の切り出しを怠ける周防国の地頭に精勤を命じた。後白河上皇の崩御後は再建支援を担い、落慶供養には大檀越として参列した。陳和卿に面会を断られても怒らず、褒美を与えた。
  • 平重衡 平清盛の命を受け、東大寺と興福寺を焼き討ちにした。1,185年、南都の衆徒の要求により、身柄を東大寺の使者に引き渡された。
  • 藤原行隆 焼跡を見て回った重源が訪ねた人物。九条兼実の下を訪れ、大仏の左手と体部の鋳造が終わった事を報告した。
  • 九条兼実 身骨舎利1粒を水晶小塔に納め、鋳造を終えた大仏の頭部に納入した。其の下を訪れた重源は、舎利3粒を納めた五色の五輪塔を受け取っている。落慶供養では、回廊の中に民衆を入れなかった。
  • 陳仏寿 陳和卿の弟。大仏の右手の鋳造に加わった南宋人鋳物師の1人。
  • 禎喜 第83世東大寺別当。仏顔を完成させた陳和卿を労い、騎馬1疋と上絹10疋を贈った。
  • 藤原秀衡 大仏の鍍金料として5,000両を献納した。
  • 勝賢 第22世醍醐寺座主。大仏の腹内に納める舎利を100ヶ日祈祷した。
  • 源雅頼 開眼供養で、「大仏の面相が昔に比べて劣る」と感想を述べた。
  • 物部為重 番匠。重源・陳和卿と共に周防国へ下り、得地保の杣山に入った。
  • 桜島国宗 番匠。重源・陳和卿と共に周防国へ下り、得地保の杣山に入った。
  • 佐々木高綱 周防国守護。材木の切り出しに協力し、源頼朝に称賛された。
  • 観阿 重源の甥で弟子。如阿と共に大部荘の預所として下向し、浄土寺の段丘に溜池を築いて水田を開いた。
  • 如阿 観阿と共に大部荘の預所として下向し、水田の開発や、荒廃していた堂舎の復興、仏像の修復に当たった。
  • 文覚 屋根瓦の調達に難儀する重源の訴えを受け、瓦に適した土を持つ備前国を東大寺造営に給する事を鎌倉幕府に求めた。
  • 藤原行長 東大寺の造仏長官。落慶供養の日時を相談する為、九条兼実の屋敷を訪れた。
  • 快慶 大仏師。定覚と共に中門の二天を造った。1,201年には、自ら制作した「木造僧形八幡神坐像」を開眼した。
  • 定覚 大仏師。快慶と共に、小仏師27名と中門の二天を造った。
  • 後鳥羽天皇 落慶供養に行幸し、神輿で西の回廊から壇上に登った。1,204年には、重源が営んだ東大寺の総供養にも上皇として行幸した。
  • 結城朝光 落慶供養で見物の僧兵と御家人が乱闘になると、源頼朝の命で僧兵の前に跪き、何故寺の再興を妨げるのかと問うて鎮めた。
  • 梶原景時 源頼朝の命で広目天の造像を負担した。落慶供養では僧兵の乱闘を鎮めようとしたが、其の態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態を招いた。

主要な地名・拠点

  • 東大寺 現在の奈良県奈良市雑司町。焼き討ちで二月堂・法華堂・転害門以外の大半が焼け落ち、重源と陳和卿によって大仏と大仏殿が再建された。
  • 興福寺 現在の奈良県奈良市登大路町。焼き討ちで全焼した。瓦の産地である大和国・山城国・河内国を押さえ、重源の屋根瓦の調達を難しくした。
  • 転害門 焼き討ちを免れた東大寺の門。陳和卿は源頼朝から贈られた鞍を、此の門で行われる祭典「手掻会」の為に東大寺へ納めた。
  • 五台山 現在の中国山西省忻州市五台県。南宋に渡った重源が参詣し、文殊の瑞光を拝した山。
  • 周防国 東大寺造営料国となり、国務が重源に一任された。源平合戦の直後で疲弊していたが、以降は東大寺への材木の供給源となった。
  • 得地保 現在の山口県山口市徳地堀。重源・陳和卿らが其の杣山に入り、柱1本に牛120頭を要する切り出しを行った。堰と筏を使った運搬で、人夫を3,000名から70名に減らした。
  • 伊賀国の三荘 山田有丸荘・広瀬荘・阿波荘(いずれも現在の三重県伊賀市)。鎌倉幕府が地頭を罷免して陳和卿の所領とした、大仏殿の材木の杣山を持つ荘園。後に浄土寺が管理した。
  • 大部荘 現在の兵庫県小野市。東大寺の荘園で最も米の生産量が多く、重源の訴えで朝廷が境界を確定した。観阿・如阿が預所として下向した。
  • 浄土寺 現在の兵庫県小野市浄谷町。重源主導で建立され、大部荘と伊賀国の三荘を管理した。大仏殿の工事に万全を期す為、新工法で規模の小さい大仏が試作された。
  • 備前国 瓦に適した土を持つ国。重源は周防国へ出向く度に視察し、東大寺造営料国として賜りたいと文覚に訴えた。
  • 手向山八幡宮 南都焼き討ちで焼失した。1,188年に重源主導で仮殿が建てられ、1,197年3月頃に社殿が再建された。
  • 東南院 源頼朝一行が入った東大寺の院。落慶供養の日は其の寝殿から頼朝が駆け付け、翌日には御所を訪ねた重源の手を頼朝が両手で握った。

主要な事績

  • 南都焼き討ち(1,181年1月15日) 平重衡率いる平氏が東大寺と興福寺を焼き、後白河上皇は直ちに復興の意思を示す。
  • 重源の勧進の決意(1,181年5月23日) 東大寺の焼跡を見て回った重源が、涙して復興への勧進を決意する。
  • 東大寺大勧進職(1,181年9月頃) 後白河上皇が重源を東大寺大勧進職に任じ、陳和卿らが復興に当たる事となる。
  • 再建計画(1,182年8月23日) 重源と陳和卿が、焼け落ちた大仏を前にして再建の計画を立てる。
  • 大仏の鋳造(1,183年3月頃〜1,184年) 御首の土の原型に始まり、右手・頭部・仏顔・左手と鋳造が進み、1,184年8月1日には体部の鋳造の完了が報告される。
  • 鍍金料の献納(1,184年6月頃) 源頼朝が1,000両、藤原秀衡が5,000両の鍍金料を献納する。
  • 源頼朝の寄進(1,185年4月8日) 米1,500,000kg・砂金1,000両・上絹1,000疋が重源に寄進される。
  • 開眼供養(1,185年9月23日) 嵐の中、後白河上皇が自ら筆を執って大仏を開眼する。大仏殿はまだ仮屋であった。
  • 周防国の杣山(1,186年4月14日〜5月8日) 周防国が東大寺造営料国となり、重源らが得地保の杣山に入って材木を切り出す。
  • 大仏殿の上棟式(1,190年11月18日) 後白河上皇の御幸を仰いで、大仏殿の上棟式が営まれる。
  • 後白河上皇の崩御(1,192年4月26日) 重源が天を仰いで嘆き、以降の再建支援は源頼朝が担う。
  • 大部荘の境界確定(1,192年10月3日) 重源の訴えで朝廷が境界を確定し、観阿・如阿が浄土寺の段丘に水田を開く。
  • 浄土寺の大仏(1,192年10月頃) 大仏殿の工事に万全を期す為、規模の小さい大仏が新工法で試作される。
  • 備前国の要請(1,193年2月17日) 屋根瓦に難儀する重源の訴えを受け、文覚が備前国を造営に給する事を鎌倉幕府に求める。
  • 光背と二菩薩・四天王(1,194年4月4日〜7月17日) 光背の造立が始まり、二菩薩と四天王の造像が御家人の負担とされる。
  • 源頼朝の上洛(1,195年3月7日〜4月22日) 北条政子・大姫らを伴って京都へ向かい、東大寺に馬・米・黄金・上絹を献上する。
  • 大仏殿の落慶供養(1,195年4月23日) 後鳥羽天皇の行幸と源頼朝の参列の下、大雨と地震の中で営まれ、宵には万灯会が催される。
  • 陳和卿の面会拒否(1,195年4月24日) 源頼朝の申し入れを断った陳和卿が、贈られた甲冑を造営の釘に変え、鞍を東大寺に納めて、其れ以外は返す。
  • 東大寺の総供養(1,204年1月3日) 重源が後鳥羽上皇の行幸を仰ぎ、東大寺の総供養を営む。
  • 重源の入滅(1,206年7月12日) 焼き討ちから二十五年後、重源が入滅する。

周防国の杣山から、大雨の落慶供養へ──
重源と陳和卿の二十五年を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。