電子書籍「東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿一元化」の表紙

東大寺大仏殿の再建に尽力した
重源と陳和卿一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,181年1月15日〜1,206年7月12日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
22ページ
最新更新日
西暦2,026年8月7日

南都焼き討ち・大仏の鋳造・周防国の杣山・堰と滑車・後白河上皇の崩御・落慶供養の大雨・陳和卿の拒絶──
東大寺再建の二十五年を一本の時系列に貫く。

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,181年1月15日、平清盛の命を受けた平重衡率いる平氏が、東大寺(現在の奈良県奈良市雑司町)と興福寺(現在の奈良県奈良市登大路町)を焼き討ちにした。興福寺は全焼し、東大寺も二月堂・法華堂・転害門を除いて大半が焼け落ちる。後白河上皇は直ちに復興の意思を示した。同年5月23日、藤原行隆の下を訪ねた重源が焼跡を見て回る。其の惨状を前に、重源は悲嘆に暮れて涙し、復興への勧進を決意した。本書は、此の焼き討ちの日を起点として、西暦1,206年7月12日に重源が入滅する日迄の二十五年を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,181年9月頃、後白河上皇は重源を東大寺大勧進職に任命する宣旨を下した。重源を中心に、南宋出身の工人である陳和卿らが大仏の鋳造を始めとする復興に当たる事となる。11月14日、勅許を得た重源は京都中を勧進して回り始めた。先ずは後白河上皇と皇嘉門院別当、其の後は女院らから、銅・銭・黄金の奉加を受けてゆく。翌西暦1,182年8月23日、重源は陳和卿と共に、焼け落ちた大仏を前にして再建の計画を立てた。

西暦1,183年3月頃、大仏の御首の土の原型が出来上がる。3月6日には、和卿と其の弟陳仏寿を含む南宋人鋳物師7名と、草部是助・草部助延を含む日本人鋳物師14名——併せて21名が右手の鋳造を完了させた。5月12日に仏頭の鋳造へ着手し、22日に頭部を、6月10日には目や鼻等の仏顔を完成させる。用いられた木炭は10,823.4kg程度、熟銅は6,000kg程度。以降の作業は表面の研磨と荘厳へ移り、鍍金と箔押しの二つの技法が併用された。第83世東大寺別当禎喜は陳を労って騎馬1疋と上絹10疋を贈り、同じ日、九条兼実は身骨舎利1粒を水晶小塔に納めて、鋳造の終わった頭部の内へ納入している。6月19日に御顔が完成。翌西暦1,184年2月18日には左手の鋳造も終わった。此の時、藤原行隆が九条兼実の下を訪れ、日本人鋳物師を作業に加えた事に南宋人鋳物師が当初不快感を示していたが、重源の取り成しによって落着した事を報告している。8月1日、体部の鋳造完了が報じられた。

事業を支えたのは莫大な財であった。西暦1,184年6月頃、源頼朝が1,000両、藤原秀衡が5,000両の鍍金料を献納する。西暦1,185年4月8日には、源頼朝が米1,500,000kg・砂金1,000両・上絹1,000疋を重源へ寄進した。約束から8ヶ月程度を経ての納入であった。5月28日、重源は九条兼実の下を訪れ、舎利3粒を納めた五色の五輪塔を敬白文と共に五色の錦袋へ入れた物を受け取る。開眼を間近に控え、大仏の胎内に納める舎利を集めていたのである。9月18日、後白河上皇が寄進した舎利を腹部に納めるに際して重源が発した敬白文には、自身が醍醐寺に始まり高野山に住し、各地の霊地名山を巡礼して奥州及び九州にも布教した事、南宋へ渡って五台山(現在の中国山西省忻州市五台県)に参詣し文殊の瑞光を拝した事、帰国後に夢想のお告げによって焼亡直前の大仏を参拝した事が記されていた。

西暦1,185年9月23日6時、嵐の中で開眼供養が執り行われる。後白河上皇以下の公家100名と、東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺という南都七大寺の僧1,000名余りが参列した。開眼師は定遍、呪願師は信円、導師は覚憲。近臣3名が大仏殿の麻柱を登り、続いて後白河上皇も其の助けを借りて登ると、勅封蔵に保管されていた菩提僊那も手にした65.2cmの筆を自ら執って開眼した。大仏殿は此の時点でまだ仮屋であり、足場を組んで金の施された顔の前まで登れる様にしたものである。大仏は面部こそ金色であったが、体部の荘厳はまだ為されていなかった。近臣3名が仏面の前に貼ってあった板を剥がす——覆いを取って完成した眼を見せるという演出である。源雅頼は「大仏の面相が昔に比べて劣る」と感想を述べた。16時、供養は終了した。

残るは大仏殿其の物である。西暦1,186年4月14日、周防国が東大寺造営料国となり、国務管理が重源に一任された。4月30日、重源は陳和卿と番匠の物部為重・桜島国宗らを率いて周防国へ下向する。源平合戦の直後で国は疲弊していたが、以降此処が東大寺への材木の供給源となった。5月8日、一行は得地保(現在の山口県山口市徳地堀)の杣山に入る。材木の切り出しは、柱1本につき牛120頭を要する程の作業であった。人夫の確保を現地の地頭が妨害した為、重源は朝廷に訴え、朝廷が之を鎌倉幕府に伝えて妨害を止めさせている。39.39mの棟木を始めとする木材の運搬には、川に堰を造って水を溜め、其の上に木材を浮かべて一気に堰を切り次の堰まで押し出すという方法を採った。瀬戸内海からは筏を組む。伐採や立柱の際には滑車も用いた。此れにより、3,000名を要する人夫を70名で済ませる事に成功している。西暦1,187年4月14日には源頼朝が、材木の切り出しの命令に従わず怠けている周防国の地頭らへ精勤を命じる書簡を発し、協力した周防国守護佐々木高綱を称賛した。西暦1,188年には、焼失していた手向山八幡宮の仮殿が重源主導で建設される。

西暦1,190年8月17日、大仏殿の母屋柱2本の建設が始まり、11月18日、後白河上皇の御幸を仰いで上棟式が執り行われた。翌西暦1,191年1月9日、鎌倉幕府は伊賀国の山田有丸荘・広瀬荘・阿波荘(いずれも現在の三重県伊賀市)の杣山について、現地の地頭を罷免して陳和卿の所領とする。西暦1,192年1月25日には、西海道の地頭へ用材の運搬に協力する事を命じる下文が発せられ、1年以内に柱118本が東大寺へ納入された。しかし4月26日16時、後白河上皇が六条殿で崩御する。重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない。上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆いた。以降の再建支援は源頼朝が担う事となる。10月3日、朝廷は大部荘(現在の兵庫県小野市)の境界を確定する宣旨を発布した。東大寺の荘園で最も米の生産量が多かった此の荘の支配権を確立する為、重源が訴えていたのである。重源は甥で弟子の観阿と、更に如阿を預所として下向させ、二人は同年に重源主導で建立された浄土寺(現在の兵庫県小野市浄谷町)の段丘に溜池を築いて水田を開発し、荒廃した堂舎の復興と仏像の修復にも当たった。10月頃、浄土寺の大仏が完成する。大仏殿の工事に万全を期す為、規模の小さい大仏を新工法で試作したものであった。

西暦1,193年2月17日、文覚が備前国を東大寺造営に給する事を鎌倉幕府に求める。屋根瓦の調達に難儀した重源の訴えを受けての事であった。瓦の産地である大和国・山城国・河内国は全て興福寺に押さえられており、重源は周防国へ出向く度に、瓦に適した土を有する備前国を視察していたのである。6月頃には朝廷が源頼朝に東大寺造営の勧進を行う様宣旨を下し、6月10日には30本余りの大柱が東大寺に到着した。重源は上人に、大仏の後方にあった約18.18mの築山を除去させている。6月29日、源頼朝は諸国の守護に供養料の勧進を命じた。西暦1,194年3月7日、造仏長官の藤原行長が落慶供養の日時を相談する為に九条兼実の屋敷を訪れ、一度は翌年2月と決まったが、鎌倉幕府の判断で4月23日となる。4月4日、築山の撤去によって可能となった光背の造立が始まり、源頼朝は4月14日に砂金200両、5月31日に130両を光背料として寄進した。7月17日には、大仏殿の二菩薩と四天王の造像が御家人の負担とされる。観音菩薩は宇都宮朝綱、虚空蔵菩薩は中原親能、増長天は畠山重忠、持国天は武田信光、毘沙門天は小笠原長清、広目天は梶原景時。戒壇院の造営は小山朝政・千葉常胤らの負担となった。西暦1,195年2月7日には、大仏師の快慶と定覚が小仏師27名と共に中門の二天の造像を開始する。

西暦1,195年3月7日、源頼朝が落慶供養への参列と、大姫を後鳥羽天皇の皇后として入内させる工作の為、北条政子・源頼家・大姫を伴い、行列の先頭に畠山重忠を立てて京都へ発った。稲毛重成・小山朝政・和田義盛・三浦義澄・梶原景時・佐々木定綱・北条義時・下河辺行平・武田信光・比企能員・大江広元らが従う。4月15日に瀬田の唐橋を渡って六波羅の屋敷に入り、20日に石清水八幡宮を参拝、21日に東大寺東南院へ入った。22日、源頼朝は馬1,000疋・米約1,500,000kg・黄金1,000両・上絹1,000疋を東大寺に献上する。

そして4月23日、東大寺大仏殿の落慶供養が盛大に執り行われた。8時、後鳥羽天皇の行幸に乱声と笛が響き渡り、神輿は西の回廊から壇上へ登る。公卿と文武百官が着座し、東南院に居た源頼朝も駆け付けた。大仏殿の上下二層の四隅には宝幢が吊るされ、庭上には天平の落慶に倣って舞楽台が大燈篭の南に組み上げられ、和舞と東舞が舞われる。京都・南都の供養僧1,324名——内東大寺の僧457名——が入場したが、重源は其の中に加わらなかった。僧侶達への布施等、経費の準備に当たっていたのである。奈良時代の開眼会に倣って「金字華厳経」の題名が称揚され、願文と呪願文が奉られた。12時過ぎからは大雨となり春雷が鳴り、14時には地震も起きる。南大門脇の隅の座敷から式を見守っていた重源は「大雨の法会も悪くはない。式が引き締まる」と言った。此の日未明から、和田義盛・梶原景時を始めとする源頼朝配下の御家人が平家残党の襲撃を警戒して数万の兵で警備に当たり、其の姿は貴族達を圧倒した。重源は「公家や寺家の時代は終わり、此れからは武家の時代になるのかのう」と独り言を漏らしている。門内に入ろうとした見物の僧兵達と御家人が乱闘を起こし、鎮めようとした梶原景時の態度が傲慢無礼だとして一触即発となった時、源頼朝は結城朝光を呼んで収拾を命じた。結城は僧兵達の前に跪き、東大寺が平清盛の為に灰塵と化した事、源氏が再建の始めから今日まで援助してきた事を説き、知恵ある僧侶が何故自分達の寺の再興を妨げるのかと問うた。僧兵達は自らの行為を恥じ、数千が一斉に静まったという。此の日は無数の民衆が集まったが、西暦752年5月26日の開眼供養で起きた混乱の反省から、九条兼実は回廊の中に民衆を入れなかった。宵が迫る頃、四面の回廊に灯が灯されて大仏を照らし、万灯会が催された。

翌4月24日、源頼朝は再建された大仏を初めて参拝し、東南院を訪ねた重源の手を両手で握って「見事な大仏、そして稀有壮大な東大寺大仏殿。重源殿、良くぞやってくれた」と言った。源頼朝は陳和卿にも会いたいと申し入れたが、陳は「平氏や源義経等多くの人々を殺した罪業の深い人間である」として面会を断る。源頼朝は怒るどころか、奥州藤原氏征伐で着用した甲冑・鞍付きの馬3頭・金銀を褒美として与えた。しかし陳は、兜は鋳直して釘に使ってくれ、鞍は何かの役に立つだろうと言い、甲冑を造営の釘に加工し、鞍は転害門の祭典「手掻会」の為に東大寺へ納め、其れ以外は返してしまう。貢物としてではなく造営への礼として受け取る事が、南宋人としての誇りを傷付けるからであった。南宋に渡った経験を持つ重源は、陳の考えを理解していた。此の後、重源は「大和尚位」の称号の宣旨を受ける。もっとも、大仏殿に据えるはずの脇侍二菩薩と四天王像は間に合わず、回廊は仮設、南大門・八幡宮社殿・七重塔・僧房は着工にすら至っていなかった。造るべき仏像もまだ多い。重源は「まだまだ此れからだ。儂は生きるぞ」と気を引き締めた。4月27日には中門の二天が完成する。

西暦1,197年3月頃、手向山八幡宮の社殿が再建された。西暦1,201年11月24日には快慶が自ら制作した「木造僧形八幡神坐像」を開眼する。西暦1,204年1月3日、重源は後鳥羽上皇の行幸を仰いで東大寺の総供養を営んだ。そして西暦1,206年7月12日、重源は入滅する。焼跡に立って涙した日から、二十五年が経っていた。


登場人物

  • 重源 本書の中心人物の一人。俊乗房重源。東大寺大勧進職。醍醐寺に始まり高野山に住し、各地の霊地名山を巡礼して奥州及び九州にも布教、南宋へ渡って五台山に参詣し文殊の瑞光を拝した経歴を持つ。西暦1,181年5月23日に東大寺の焼跡を見て涙し勧進を決意、同年9月頃に後白河上皇から大勧進職の宣旨を受けた。以後、大仏の鋳造、周防国の杣山からの材木調達、大部荘の経営、落慶供養の準備まで二十五年に亙って再建を主導し、西暦1,195年に「大和尚位」の称号を受け、西暦1,206年7月12日に入滅した。
  • 陳和卿 本書の中心人物の一人。南宋出身の工人。東大寺大仏の鋳造と大仏殿再建の技術的な柱であった。西暦1,181年から重源と協働し、西暦1,183年に大仏の右手・頭部・仏顔を、翌年に左手と体部を鋳造。西暦1,186年には重源と共に周防国へ下向し、西暦1,191年には伊賀国の三荘の杣山を所領として与えられた。西暦1,195年、源頼朝の面会要請を「平氏や源義経等多くの人々を殺した罪業の深い人間である」として断り、贈られた甲冑を造営の釘に加工し鞍を東大寺に納め、其れ以外は返却した、南宋人としての誇りを貫いた人物。
  • 後白河上皇 重源の最大の後ろ盾。西暦1,181年1月15日の南都焼き討ちの直後に東大寺復興の意思を示し、同年9月頃、重源に東大寺大勧進職の宣旨を下した。西暦1,185年9月23日の開眼供養では、近臣3名の助けを借りて麻柱を登り、勅封蔵に保管されていた菩提僊那も手にした65.2cmの筆を自ら執って開眼した。西暦1,190年11月18日の上棟式にも御幸したが、西暦1,192年4月26日16時、六条殿にて崩御した。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1,184年6月頃に鍍金料1,000両を献納し、西暦1,185年4月8日には米1,500,000kg・砂金1,000両・上絹1,000疋を重源へ寄進した。西暦1,187年には材木の切り出しを怠ける周防国の地頭へ精勤を命じ、後白河上皇の崩御後は再建支援の中心を担う。西暦1,194年には光背料の砂金や二菩薩・四天王の造像の御家人負担を差配し、西暦1,195年4月23日の落慶供養に大檀越として参列した。翌24日、陳和卿への面会を断られても怒らず褒美を与えた。
  • 平重衡 平清盛の命を受け、西暦1,181年1月15日に東大寺・興福寺の焼き討ちを率いた張本人。本書の全ての事業は、此の日の炎から始まっている。西暦1,185年7月7日に源頼朝から帰洛を命じられ、源頼兼に護送された後、7月20日、南都の衆徒の要求により東大寺の使者へ身柄を引き渡された。
  • 藤原行隆 西暦1,181年5月23日、重源が東大寺の焼跡を見て回る際に其の下を訪ねられた公卿。西暦1,184年2月18日には九条兼実の下を訪れて大仏の左手の鋳造完了と、日宋の鋳物師の間の軋轢が重源の取り成しで落着した事を報告し、8月1日には体部の鋳造完了と、翌月中の仕上げ・荘厳、其の後の開眼という見通しを報告した。
  • 九条兼実 摂関家の公卿。西暦1,183年6月10日、身骨舎利1粒を水晶小塔に納め、鋳造の終わった大仏頭部内に納入した。西暦1,185年5月28日には舎利3粒を納めた五色の五輪塔を重源へ渡している。西暦1,194年3月7日には藤原行長と落慶供養の日時を相談し、西暦1,195年4月23日の落慶供養では、西暦752年5月26日の開眼供養で起きた混乱の反省から、回廊の中に民衆を入れない判断を下した。
  • 陳仏寿 陳和卿の弟。南宋出身の鋳物師。西暦1,183年3月6日、東大寺大仏の右手の鋳造を完了させた21名の1人。
  • 草部是助・草部助延 日本人鋳物師。西暦1,183年3月6日の東大寺大仏の右手の鋳造に参加した、日本人鋳物師14名に名を連ねる。日本人鋳物師を作業に加えた事には当初南宋人鋳物師が不快感を示していたが、重源の取り成しによって落着した。
  • 禎喜 第83世東大寺別当。西暦1,183年6月10日、大仏の目や鼻等の仏顔を完成させた陳和卿を労い、騎馬1疋と上絹10疋を贈った。
  • 藤原秀衡 奥州藤原氏の第3代当主。西暦1,184年6月頃、東大寺大仏の鍍金料として砂金5,000両を献納した。同時期の源頼朝の献納が1,000両であった事と比べても破格の額である。
  • 勝賢 第22世醍醐寺座主。西暦1,185年、東大寺大仏の腹内に納める舎利を100ヶ日祈祷した。
  • 定遍・信円・覚憲 西暦1,185年9月23日の開眼供養の三役。開眼師を定遍、呪願師を藤原忠通の九男で慈円の異母弟の信円、導師を覚憲が務めた。
  • 物部為重・桜島国宗 番匠。西暦1,186年4月30日、重源・陳和卿と共に周防国へ下向し、5月8日には得地保の杣山に入って材木の切り出しに従事した。
  • 佐々木高綱 周防国守護。東大寺再建の為の材木の切り出しに協力し、西暦1,187年4月14日、怠ける地頭らへ精勤を命じる書簡を発した源頼朝から称賛された。
  • 観阿・如阿 重源の弟子。観阿は重源の甥でもある。西暦1,192年、大部荘の預所に任命されて下向し、同年建立された浄土寺の段丘に溜池を築いて段丘面に水田を開発した。荒廃していた堂舎の復興や仏像の修復にも当たった、重源の荘園経営を支えた両名。
  • 文覚 西暦1,193年2月17日、備前国を東大寺造営に給する事を鎌倉幕府に求めた僧。大和国・山城国・河内国という瓦の産地が全て興福寺に押さえられ、屋根瓦の調達に難儀していた重源の訴えを受けての行動であった。
  • 藤原行長 東大寺の造仏長官。西暦1,194年3月7日、東大寺大仏殿の落慶供養の日時を相談する為に九条兼実の屋敷を訪れた。一度は翌年2月と決まったが、最終的には鎌倉幕府の判断で西暦1,195年4月23日に定まった。
  • 快慶・定覚 大仏師。西暦1,195年2月7日、小仏師27名と共に東大寺中門の二天の造像を開始し、4月27日に完成させた。快慶は西暦1,201年11月24日、自身の制作した「木造僧形八幡神坐像」を開眼している。
  • 後鳥羽天皇 西暦1,195年4月23日の東大寺大仏殿の落慶供養に行幸し、神輿で西の回廊から壇上に登って大床子に着座した。西暦1,204年1月3日、重源が営んだ東大寺総供養にも上皇として行幸している。
  • 結城朝光 源頼朝の御家人。西暦1,195年4月23日の落慶供養で、僧兵達と御家人の乱闘が梶原景時の態度を巡って一触即発となった際、源頼朝の命を受けて収拾に当たった。僧兵達の前に跪き、東大寺が平清盛の為に灰塵と化した事と、源氏が再建の始めから今日まで援助してきた事を説くと、数千の僧兵が一斉に静まったという。
  • 源雅頼 西暦1,185年9月23日の開眼供養に際し、「大仏の面相が昔に比べて劣る」との感想を述べた公卿。

主要な地名・拠点

  • 東大寺 現在の奈良県奈良市雑司町。西暦1,181年1月15日、平重衡率いる平氏の焼き討ちにより、二月堂・法華堂・転害門以外は大半が焼け落ちた。本書の全ての事業が、此の寺の再建に捧げられている。
  • 興福寺 現在の奈良県奈良市登大路町。西暦1,181年1月15日の焼き討ちにより全焼した。瓦の産地であった大和国・山城国・河内国を押さえていたのも此の寺であり、其れが後に重源の屋根瓦調達を難儀させる事となる。
  • 南都七大寺 東大寺・興福寺・元興寺(現在の奈良県奈良市芝新屋町・中院町・西新屋町)・大安寺(現在の奈良県奈良市大安寺)・西大寺(現在の奈良県奈良市西大寺芝町)・薬師寺(現在の奈良県奈良市西ノ京町)・法隆寺(現在の奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)。西暦1,185年9月23日の開眼供養には、此れ等の寺から僧1,000名余りが参列した。
  • 五台山 現在の中国山西省忻州市五台県。重源が南宋へ渡った際に参詣し、文殊の瑞光を拝した地。西暦1,185年9月18日の敬白文に、其の経歴として記されている。
  • 周防国 現在の山口県。西暦1,186年4月14日に東大寺造営料国となり、国務管理が重源へ一任された。源平合戦の直後で疲弊していたが、以降は東大寺への材木の供給源となった、本書の物資の要。
  • 得地保 現在の山口県山口市徳地堀。周防国の杣山。西暦1,186年5月8日、重源・陳和卿・物部為重・桜島国宗らが入り、39.39mの棟木を始めとする柱・梁・垂木の切り出しを行った。柱1本につき牛120頭を要する作業であり、重源は堰と滑車を用いた運搬法で、3,000名を要する人夫を70名に減らした。
  • 手向山八幡宮 西暦1,181年1月15日の南都焼き討ちで焼失した。西暦1,188年に重源主導で仮殿が建設され、西暦1,197年3月頃、社殿が再建された。
  • 伊賀国の三荘 山田有丸荘・広瀬荘・阿波荘(いずれも現在の三重県伊賀市)。西暦1,191年1月9日、東大寺大仏殿向けの材木の切り出しに際し、鎌倉幕府が現地の地頭を罷免して陳和卿の所領とした杣山。後に浄土寺が管理する荘園となった。
  • 大部荘 現在の兵庫県小野市。東大寺の荘園の中で最も米の生産量が多かった荘園。西暦1,190年から本格的な経営が始まり、西暦1,192年10月3日には重源の訴えを受けて朝廷が境界を確定する宣旨を発布した。重源は甥で弟子の観阿と如阿を預所として下向させている。
  • 浄土寺 現在の兵庫県小野市浄谷町。西暦1,192年、重源主導で大部荘に建立された寺院。同年10月頃には、大仏殿の工事に万全を期す為の新工法の試作として、規模の小さい浄土寺の大仏が完成した。大部荘と伊賀国の三荘を管理する役割も担った。
  • 備前国 瓦に適した土を有する国。重源は周防国へ出向く際に必ず何ヶ所かを視察していた。西暦1,193年2月17日、屋根瓦の調達に難儀していた重源の訴えを受け、文覚が東大寺造営料国として給する事を鎌倉幕府に求めた。
  • 東南院 東大寺の院家。西暦1,195年4月21日に源頼朝一行が入り、4月23日の落慶供養では其の寝殿に居た源頼朝が壇上へ駆け付けた。翌24日、源頼朝と重源が言葉を交わした場所でもある。

主要な事績

  • 南都焼き討ち 西暦1,181年1月15日、平清盛の命を受けた平重衡率いる平氏が東大寺・興福寺を焼き討ちにした。興福寺は全焼し、東大寺も二月堂・法華堂・転害門以外は大半が焼け落ちた。後白河上皇は直ちに東大寺復興の意思を示した、本書全体の発端。
  • 重源の勧進の決意と大勧進職就任 西暦1,181年5月23日、重源が藤原行隆の下を訪ねて東大寺の焼跡を見て回り、其の惨状に悲嘆して涙し、復興への勧進を決意した。同年9月頃、後白河上皇が大勧進職に任命する宣旨を下し、11月14日、勅許を得た重源は京都中を勧進して回り始め、後白河上皇・皇嘉門院別当を皮切りに女院等から銅・銭・黄金等の奉加を受けた。
  • 東大寺大仏の鋳造 西暦1,182年8月23日に重源と陳和卿が再建計画を立て、西暦1,183年3月頃に御首の土の原型が完成。3月6日に右手、5月22日に頭部、6月10日に仏顔、6月19日に御顔、西暦1,184年2月18日に左手、8月1日に体部の鋳造を完了した。木炭10,823.4kg程度・熟銅6,000kg程度が投入され、荘厳には鍍金と箔押しの2技法が併用された。日本人鋳物師の参加に南宋人鋳物師が当初不快感を示したが、重源の取り成しで落着している。
  • 源頼朝・藤原秀衡の寄進 西暦1,184年6月頃、源頼朝が1,000両、藤原秀衡が5,000両の鍍金料を献納した。西暦1,185年4月8日には源頼朝が米1,500,000kg・砂金1,000両・上絹1,000疋を重源に寄進している。寄進を約束してから8ヶ月程度を経ての納入であった。
  • 東大寺大仏の開眼供養 西暦1,185年9月23日6時、嵐の中で執り行われた。後白河上皇以下の公家100名と南都七大寺の僧1,000名余りが参列し、開眼師は定遍、呪願師は信円、導師は覚憲が務めた。後白河上皇は近臣3名の助けを借りて麻柱を登り、勅封蔵に保管されていた菩提僊那も手にした65.2cmの筆を自ら執って開眼した。大仏殿はまだ仮屋で、大仏も面部こそ金色であったが体部の荘厳は未了であり、覆いの板を剥がして完成した眼を見せる演出が採られた。16時に終了。
  • 周防国下向と革新的な運搬法 西暦1,186年4月14日に周防国が東大寺造営料国となり、4月30日、重源が陳和卿・物部為重・桜島国宗らを率いて下向した。5月8日に入った得地保の杣山では、柱1本につき牛120頭を要する切り出しが行われ、人夫の確保を妨害する地頭には朝廷を通じて鎌倉幕府から停止が命じられた。重源は川に堰を造って木材を浮かべ一気に押し出す方法と滑車を用い、3,000名を要する人夫を70名で済ませる事に成功した。
  • 鎌倉幕府による材木調達の後押し 西暦1,187年4月14日、源頼朝が材木の切り出しを怠ける周防国の地頭らへ精勤を命じる書簡を発し、協力した周防国守護佐々木高綱を称賛した。西暦1,191年1月9日には鎌倉幕府が伊賀国の山田有丸荘・広瀬荘・阿波荘の地頭を罷免して陳和卿の所領とし、西暦1,192年1月25日には西海道の地頭へ用材の運搬に協力する事を命じる下文を発し、1年以内に柱118本が東大寺に納入された。
  • 東大寺大仏殿の上棟式 西暦1,190年8月17日に母屋柱2本の建設が開始され、11月18日、後白河上皇の御幸を仰いで上棟式が執り行われた。
  • 後白河上皇の崩御 西暦1,192年4月26日16時、重源の最大の後ろ盾であった後白河上皇が六条殿にて崩御した。重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない。上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆いた。以降の東大寺再建支援は源頼朝が担う事となる。
  • 大部荘の経営と浄土寺大仏の試作 西暦1,192年10月3日、朝廷が大部荘の境界を確定する宣旨を発布した。重源は甥で弟子の観阿と如阿を預所として下向させ、同年建立した浄土寺の段丘に溜池を築いて水田を開発させた。同年10月頃には浄土寺の大仏が完成する。東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、規模の小さい大仏を新工法で試作したものであった、重源の技術者としての慎重さを示す事例。
  • 備前国の要請と築山の除去 西暦1,193年2月17日、文覚が備前国を東大寺造営に給する事を鎌倉幕府に求めた。瓦の産地である大和国・山城国・河内国は全て興福寺に押さえられており、重源は瓦に適した土を有する備前国を視察していた。6月頃には朝廷が源頼朝に造営の勧進を行う様宣旨を下し、6月10日には30本余りの大柱が東大寺に到着、重源は大仏後方の約18.18mの築山を除去させた。6月29日、源頼朝は諸国の守護に供養料の勧進を命じた。
  • 光背の造立と御家人による造像分担 西暦1,194年3月7日、造仏長官の藤原行長が九条兼実と落慶供養の日時を相談し、鎌倉幕府の判断で西暦1,195年4月23日と決まった。4月4日、築山の撤去によって可能となった大仏の光背の造立が始まり、源頼朝が4月14日に砂金200両、5月31日に130両を光背料として寄進した。7月17日には二菩薩と四天王の造像が御家人の負担とされ、観音菩薩は宇都宮朝綱、虚空蔵菩薩は中原親能、増長天は畠山重忠、持国天は武田信光、毘沙門天は小笠原長清、広目天は梶原景時、戒壇院の造営は小山朝政・千葉常胤らが担った。
  • 源頼朝の上洛と献上 西暦1,195年3月7日、源頼朝が落慶供養への参列と、大姫を後鳥羽天皇の皇后として入内させる工作の為、北条政子・源頼家・大姫を伴い、畠山重忠を行列の先頭として京都へ出発した。4月15日に瀬田の唐橋を渡って六波羅の屋敷に入り、20日に石清水八幡宮を参拝、21日に東大寺東南院へ入り、22日には馬1,000疋・米約1,500,000kg・黄金1,000両・上絹1,000疋を東大寺に献上した。
  • 東大寺大仏殿の落慶供養 西暦1,195年4月23日、後鳥羽天皇の行幸と源頼朝の大檀越としての参列のもと盛大に執り行われた。京都・南都の供養僧1,324名(内東大寺の僧457名)が入場したが、布施等の経費の準備に当たっていた重源は其の中に加わらず、南大門脇の隅の座敷から式を見守った。12時過ぎからの大雨と春雷、14時の地震にも「大雨の法会も悪くはない。式が引き締まる」と言い、数万の兵で警備に当たる御家人の姿に「公家や寺家の時代は終わり、此れからは武家の時代になるのかのう」と独り言を漏らした。九条兼実は西暦752年5月26日の開眼供養の混乱を踏まえ回廊内に民衆を入れず、宵には万灯会が催された。
  • 結城朝光の僧兵説得 西暦1,195年4月23日の落慶供養で、門内に入ろうとした見物の僧兵達と御家人が乱闘を起こし、鎮めようとした梶原景時の態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となった。源頼朝の命を受けた結城朝光は僧兵達の前に跪き、東大寺が平清盛の為に灰塵と化した事、源氏が再建の始めから供養の当日まで援助してきた事を説き、知恵の有る僧侶が何故自分達の寺の再興を妨げるのかと問うた。僧兵達は自らの行為を恥じ、数千が一斉に静まった。
  • 陳和卿の面会拒絶と褒美の返却 西暦1,195年4月24日、再建された大仏を初めて参拝した源頼朝が陳和卿との面会を申し入れたが、陳は「平氏や源義経等多くの人々を殺した罪業の深い人間である」として断った。源頼朝は怒る事無く、奥州藤原氏征伐で着用した甲冑・鞍付きの馬3頭・金銀を褒美として与えたが、陳は甲冑を造営の釘に加工し、鞍は転害門の祭典「手掻会」の為に東大寺へ納め、其れ以外は返却した。貢物としてではなく造営への礼として受け取る事が南宋人としての誇りを傷付ける為であり、南宋へ渡った経験を持つ重源は其の考えを理解していた。
  • 大和尚位の下賜と未完の伽藍 落慶供養の後、重源は「大和尚位」の称号の宣旨を受けた。しかし大仏殿に据えるはずの脇侍二菩薩と四天王像は間に合わず、回廊は仮設、南大門・八幡宮社殿・七重塔・僧房は着工にすら至っておらず、造るべき仏像も多く残っていた。重源は「まだまだ此れからだ。儂は生きるぞ」と気を引き締めた。4月27日には快慶・定覚による東大寺中門の二天が完成している。
  • 重源の晩年と入滅 西暦1,197年3月頃に手向山八幡宮の社殿が再建され、西暦1,201年11月24日には快慶が「木造僧形八幡神坐像」を開眼した。西暦1,204年1月3日、重源は後鳥羽上皇の行幸を仰いで東大寺の総供養を営み、西暦1,206年7月12日に入滅した、本書の終着点。

焼跡の涙から入滅まで──
重源と陳和卿が東大寺大仏殿を建て直した二十五年を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。