新田義貞が成し遂げた
鎌倉幕府討幕一元化
生品神社の150騎・小手指原・久米川・分倍河原・霞ノ関・洲崎の65回・稲村ヶ崎の干潮・東勝寺の870名──
鎌倉幕府が滅ぶ迄の十五日間を一本の時系列に貫く。
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本書について
西暦1,333年6月20日、上野国の生品神社(現在の群馬県太田市新田市野井町)に集まったのは、僅か150騎であった。新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けての挙兵である。大舘宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・弟の脇屋義助・江田行義・桃井尚義——鎌倉幕府を倒すには余りに少ない数であった。所が利根川に到着する頃には、里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏、そして甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流して7,000騎に膨れ上がる。翌21日、足利義詮が300名の兵と共に加わると、河越貞重の息子河越高重、横山党・猪俣党・児玉党・村山党・野与党・丹党・西党・綴党・私市党が雪崩を打って続き、其の数は200,700騎に達した。本書は、此の挙兵の日から、7月4日に東勝寺で北条高時が自害して鎌倉幕府が滅ぶ日迄の十五日間を、年月日単位で一元化した記録である。
6月22日、最初に崩れたのは鎌倉幕府の側であった。上総国・下総国の軍勢を味方につける為、下総国の下河辺荘へ向けて鎌倉を発っていた北条貞将が、本拠地の六浦で軍勢を整えた後、鶴見川で足止めを食う。待ち構えていたのは、鎌倉幕府から寝返って新田義貞に与した第11代千葉氏当主千葉貞胤と、第8代小山氏当主小山秀朝であった。敗れた貞将は六浦経由で鎌倉へ敗走し、以後は朝比奈坂の守備に就く事となる。
6月23日朝、入間川を渡った新田軍は、小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)で北条貞国を総大将とし長崎高重・長崎泰光・加治家貞を副将とする鎌倉幕府軍と衝突した。幕府軍は新田が入間川を渡り切る前に迎撃する心算であったが、其れは失敗する。日没までに新田軍は300名、幕府軍は500名の戦死者を出して共に疲弊し、新田は入間川、幕府は久米川まで兵を引いて軍を立て直した。新田軍は八国山に布陣する。翌24日朝、新田は久米川の南岸に布陣する北条貞国へ奇襲を掛けたが、貞国は備えを講じており奇襲は失敗した。幕府軍は鶴翼の陣を敷いて新田を挟み込もうとする。新田は之を看破し、戦法に嵌ったかの様に見せ掛けた上で、鶴翼によって手薄になった本隊を襲った。貞国は分倍河原へ敗走する。
6月27日、新田義貞が10,000名を率いて分倍河原を襲った時、其処に居たのは150,000名であった。小手指原と久米川の敗報を受けた鎌倉幕府が、北条泰家に100,000名を率いさせて送り込んでいたのである。援軍に士気を高めた幕府軍は新田軍を押し返し、新田は自ら手勢600騎を率いて横腹を突き、辛うじて血路を開いて堀金の周辺まで敗走した。此の際、武蔵国分寺が焼失している。ところが同じ日の夜、大多和義勝が河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏の相模国の氏族を率いた8,000騎で新田に加勢し、北条氏から寝返った。新田は其の上で、忍びを使って「大多和は鎌倉幕府軍に加勢に来る」というデマを流す。28日、大多和自身の献策により、大多和を先鋒とする20,000名が分倍河原を急襲した。前日のデマを信じていた幕府軍は油断し、敗れた。北条泰家は家臣横溝八郎の奮戦によって辛くも一命を取り止め、霞ノ関へ退く。
同じ28日、多摩川を越えた新田義貞は70,000名を率いて霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)に迫り、50,000名の北条泰家と戦った。勝ったのは新田である。しかし横溝八郎と安保道潭の奮戦により泰家は鎌倉へ落ち延び、二人は其の場で討死した。守勢に転じた鎌倉幕府は鎌倉七口を封鎖し、新田は本陣を霞ノ関に据える。6月29日、新田は軍を三手に分けて鎌倉攻めの備えを整えた。仮粧坂には本隊として新田自身と脇屋義助・里見義胤・鳥山氏・大井田氏、洲崎には堀口貞満・大島守之、極楽寺坂切通には大舘宗氏・江田行義。
6月30日、北条守時が巨福呂坂から洲崎へ向かった。悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為の、先鋒隊としての出撃である。洲崎では此の日だけで65回の戦闘が起き、守時は到着した時点で既に大部分の兵を失っていた。敗色濃厚となった守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言って自刃する。之を見届けた南条は、巨福呂坂に戻って援軍を頼むべきだという進言を退け、「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚で直ちに切腹した。其の後に90名余りが続いている。
7月1日、極楽寺切通から大舘宗氏・江田行義の軍が鎌倉へ進み、幕府軍を突破した。此処で動いたのが、北条貞直の勘気を被って蟄居していた本間山城左衛門である。出撃命令は出ていなかったが、幕府軍が破られたと聞き付けて中間100名を率い、極楽寺坂へ出陣した。大舘率いる30,000名を腰越まで押し返し、態勢を立て直した貞直の部隊と共に、遂に大舘の首を討ち取る。本間は其の首を持って貞直の陣に馳せ参じ、「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言って、貞直の前で自害した。貞直は涙を流し、自らの不明を詫びたという。最後に残った大舘の部下10名は十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて大舘と共に弔われた。7月2日、聖福寺に布陣した新田義貞は、北条貞将の強固な守備に苦戦する中で大舘戦死の報を受け、仮粧坂の戦を脇屋義助に任せて、自ら極楽寺坂へ向かう。
7月3日未明、稲村ヶ崎が干潮となった。新田義貞は100,000名を率いて極楽寺坂へ入り、夜、稲村ヶ崎を突破して稲瀬川や由比ヶ浜の民家に火を放つ。火の手が北条執権邸(現在の宝戒寺)に迫ると、北条高時を始めとする北条一門は東勝寺へ集まった。新田軍は由比ヶ浜を経由して幕府軍の背後へ回り込む。同じ頃、長崎高資の嫡男長崎高重が東勝寺の高時に拝謁し、切腹の覚悟を伝えて言った——「此れから最後の戦いに挑みます。新田の本陣に奇襲を仕掛け、新田の首を取って帰って参ります。勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」。其の足で崇寿寺へ向かい、長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うと、和尚は「剣を振るって前進あるのみ」と答えた。高重は150騎を率いて300騎の新田本陣へ突き入り、新田の首を狙ったが仕留められず、東勝寺へ退いた。
7月4日。極楽寺坂では北条貞直と弟の北条宣政、息子の北条顕秀が脇屋義助に敗れて戦死した。手勢が減り劣勢となった幕府側には切腹する者が出始めていたが、貞直は「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として、切腹した者を罵っていたという。極楽寺坂と巨福呂坂を破られた事を受け、仮粧坂を守っていた北条基時は、北条貞顕や安房国・上野国・下野国の御家人と共に、残り少なくなった家臣と自害した。北条貞将は東勝寺で高時に拝謁して御教書を授かり、之を鎧に入れて戦場へ赴いたが敗れ、長男の北条忠時と共に自害する。そして東勝寺では、長崎円喜・其の嫡男長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性を含む家臣870名——北条家一族283名を含む——が自害した。其れを見届けた上で、北条高時と舅の安達時顕が自害し、鎌倉幕府は滅亡する。生品神社に150騎が集まってから、十五日目の事であった。
登場人物
- 新田義貞 本書の中心人物。西暦1,333年6月20日、後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けて生品神社で150騎で挙兵し、利根川で7,000騎、翌21日の足利義詮の合流で200,700騎とした。6月23日の小手指原、24日の久米川、27日の分倍河原(敗戦)、28日の分倍河原再戦と霞ノ関を戦い、29日に軍を仮粧坂・洲崎・極楽寺坂切通の三手に分けた。7月2日、大舘宗氏の戦死を受けて仮粧坂の戦を脇屋義助に任せて極楽寺坂へ向かい、7月3日未明の干潮を捉えて稲村ヶ崎を突破、北条高時を東勝寺へ追い詰めた、本書の題名を成す勝者。
- 脇屋義助 新田義貞の弟。西暦1,333年6月20日の生品神社の挙兵に最初から加わり、6月29日の三手分進では仮粧坂の本隊に属した。7月2日、新田が極楽寺坂へ向かった後の仮粧坂の戦を任され、7月4日には極楽寺坂で北条貞直・北条宣政・北条顕秀を敗死させた、新田軍の副将。
- 大舘宗氏 新田義貞の一族。西暦1,333年6月20日の生品神社の挙兵に加わり、6月29日の三手分進では江田行義と共に極楽寺坂切通を任された。7月1日、30,000名を率いて鎌倉幕府軍を突破したが、蟄居中の本間山城左衛門が中間100名で逆襲し、態勢を立て直した北条貞直の部隊と共に首を討ち取られた。最後に残った部下10名は十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて共に弔われた、本書の悲劇の武将。
- 堀口貞満 新田義貞の一族。西暦1,333年6月20日の生品神社の挙兵に加わり、6月29日の三手分進では大島守之と共に洲崎を任された。6月30日、洲崎で北条守時の先鋒隊を迎え撃ち、此の日だけで65回に及んだ戦闘の末に守時を自刃へ追い込んだ、洲崎の勝者。
- 足利義詮 足利尊氏の子。西暦1,333年6月21日、300名の兵を率いて新田義貞の軍に合流した。之を契機として河越高重・横山党・猪俣党・児玉党・村山党・野与党・丹党・西党・綴党・私市党が加わり、新田軍は200,700騎に膨れ上がった、本書の戦力飛躍の契機。
- 千葉貞胤・小山秀朝 第11代千葉氏当主千葉貞胤と第8代小山氏当主小山秀朝。鎌倉幕府から寝返って新田義貞に与した。西暦1,333年6月22日、下総国の下河辺荘へ向けて鎌倉を発っていた北条貞将を鶴見川で迎え撃ち、敗走させた、本書最初の寝返り。
- 大多和義勝 相模国の武将。西暦1,333年6月27日夜、分倍河原での新田軍の敗北を受け、河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率いた8,000騎で新田に加勢し、北条氏から寝返った。翌28日、自らの献策により先鋒として20,000名で分倍河原の鎌倉幕府軍を急襲し、新田が流したデマを信じて油断していた幕府軍を破った、本書の戦局転換の立役者。
- 後醍醐天皇 第96代天皇。西暦1,333年6月20日、新田義貞に鎌倉幕府倒幕の綸旨を下し、本書の戦いの発端を作った、挙兵の大義。
- 北条高時 鎌倉幕府第14代執権。西暦1,333年7月3日、新田義貞軍の稲村ヶ崎突破による火の手が北条執権邸に迫ると、北条一門と共に東勝寺へ集まり最後の拠点とした。同日、長崎高重の「どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」との言葉を受け、翌4日、東勝寺にて家臣870名(北条家一族283名を含む)の自害を見届けた上で、舅の安達時顕と共に自害した、鎌倉幕府最後の得宗。
- 北条守時 鎌倉幕府第16代執権。足利尊氏の妻の兄。西暦1,333年6月30日、悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為、先鋒隊として巨福呂坂から洲崎へ向かい堀口貞満・大島守之を迎え撃ったが、到着時点で大部分の兵を失っていた。敗色濃厚となって南条高直を呼び寄せ、「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言って洲崎で自刃した、血縁故に追い詰められた人物。
- 南条高直 北条守時の家臣。西暦1,333年6月30日、洲崎で守時の自刃を見届けた後、巨福呂坂に戻って援軍を頼むべきだとの進言を退け、「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚で直ちに切腹した。其の後に90名余りが続いた、本書の殉死者。
- 北条貞将 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年6月22日、上総国・下総国の軍勢を味方につける為に下河辺荘へ向かう途上、六浦で軍勢を整えた後、鶴見川で千葉貞胤・小山秀朝に敗れて鎌倉へ敗走し、以後は朝比奈坂の守備に就いた。7月2日には其の強固な守備が新田義貞を苦戦させている。7月4日、巨福呂坂を突破された後、東勝寺で北条高時に拝謁して御教書を授かり、之を鎧に入れて戦場へ赴いたが敗れ、長男の北条忠時と共に自害した、本書の強固な守備者。
- 北条貞国 鎌倉幕府軍の総大将。西暦1,333年6月23日、長崎高重・長崎泰光・加治家貞を副将として小手指原で新田軍を迎え撃ったが、入間川を渡り切る前に迎撃する策は失敗し、両軍共に疲弊した。24日、久米川の南岸で奇襲を察知して鶴翼の陣を敷いたものの新田に看破されて本隊を襲われ、分倍河原へ敗走。27日には援軍の北条泰家と共に新田軍を退けたが、28日の大多和義勝の急襲で敗れた。
- 北条泰家 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年6月27日、小手指原・久米川での敗報を受けて100,000名を率い分倍河原へ援軍として派遣され、士気を高めた幕府軍は新田軍を退けた。28日、大多和義勝の急襲で敗れるも家臣横溝八郎の奮戦で一命を取り止めて霞ノ関へ退き、同日、50,000名で新田の70,000名と交戦したが、横溝と安保道潭の奮戦に助けられて鎌倉へ敗走した、幕府軍の最終局面の指揮官。
- 横溝八郎・安保道潭 北条泰家の家臣。西暦1,333年6月28日、分倍河原での大多和義勝の急襲に際し、横溝八郎の奮戦が泰家の一命を救った。同日の霞ノ関の戦いでは横溝と安保道潭の奮戦により泰家の鎌倉への敗走が成ったが、二人は共に討死した、本書の最後の奮戦者。
- 北条貞直 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年7月1日、極楽寺坂を突破された際、勘気を被って蟄居させていた本間山城左衛門が無断で出陣し、大舘宗氏の首を持って馳せ参じて目の前で自害するのを見て、涙を流し自らの不明を詫びた。7月4日、極楽寺坂で脇屋義助に敗れ、弟の北条宣政・息子の北条顕秀と共に戦死。切腹する者が出始めた味方に対しては「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として罵っていた。
- 本間山城左衛門 北条貞直の部下。勘気を被って蟄居していた。西暦1,333年7月1日、出撃命令は出ていなかったが鎌倉幕府軍が突破されたと聞き付け、中間100名を率いて極楽寺坂へ独断で出陣し、大舘宗氏率いる30,000名を腰越まで後退させた。態勢を立て直した貞直の部隊と共に大舘の首を討ち取ると、其の首を持って貞直の陣に馳せ参じ、「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言って貞直の前で自害した、本書の忠節を体現した家臣。
- 北条基時・北条貞顕 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年7月4日、極楽寺坂・巨福呂坂を突破した新田義貞軍の鎌倉侵攻を受け、安房国・上野国・下野国の御家人と共に仮粧坂を守備していた両名が、残り少なくなった家臣と共に自害した。
- 長崎高重 長崎高資の嫡男。西暦1,333年6月23日の小手指原の戦いには副将として出陣した。7月3日頃、東勝寺の北条高時に拝謁して切腹の覚悟を伝え、崇寿寺の長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うた上で、150騎を率いて300騎の新田本陣へ突撃、新田の首を狙ったが仕留められず東勝寺へ退却、翌4日に自害した、本書の武士道の最後の輝き。
- 南山和尚 崇寿寺の長老。西暦1,333年7月3日頃、最後の突撃に向かう長崎高重から「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問われ、「剣を振るって前進あるのみ」と答えた、本書の禅的精神の体現者。
- 長崎円喜・長崎高資・長崎思元 鎌倉幕府の御内人。西暦1,333年7月4日、東勝寺にて、長崎円喜と其の嫡男長崎高資、長崎思元が、長崎高重・摂津親鑑・諏訪直性ら家臣870名(北条家一族283名を含む)と共に自害した、鎌倉幕府中枢の終焉。
- 安達時顕 北条高時の舅。西暦1,333年7月4日、東勝寺にて長崎円喜・長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性ら家臣870名の自害を見届けた上で、北条高時と共に自害し、鎌倉幕府の滅亡を迎えた、本書の最後の自害者。
主要な地名・拠点
- 生品神社 現在の群馬県太田市新田市野井町。西暦1,333年6月20日、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、大舘宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・脇屋義助・江田行義・桃井尚義と共に150騎で挙兵した地、本書の起点。
- 利根川 西暦1,333年6月20日、挙兵直後の新田義貞軍が到着した頃、里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏と、甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流し、150騎が7,000騎へ膨れ上がった地、本書最初の膨張の場。
- 鶴見川 現在の神奈川県横浜市鶴見区。西暦1,333年6月22日、下総国の下河辺荘へ向けて鎌倉を発ち六浦で軍勢を整えた北条貞将が、鎌倉幕府から寝返って新田義貞に与した千葉貞胤・小山秀朝と戦って敗れた地、本書最初の鎌倉幕府軍の敗走地。
- 小手指原 現在の埼玉県所沢市北野。西暦1,333年6月23日朝、入間川を渡った新田義貞軍と、北条貞国(総大将)・長崎高重・長崎泰光・加治家貞率いる鎌倉幕府軍が交戦した地。日没までに新田軍300名・幕府軍500名の戦死者を出して両軍共に疲弊し、新田軍は入間川、幕府軍は久米川まで兵を引いた、本書最初の本格戦闘地。
- 八国山・久米川 八国山は現在の東京都東村山市多摩湖町、久米川の南岸は現在の東京都東村山市諏訪町(久米川は現在の柳瀬川)。西暦1,333年6月23日の日没後に新田義貞軍が八国山へ布陣し、24日朝、久米川の南岸の北条貞国を奇襲した地。奇襲こそ備えられていたが、鶴翼の陣を看破して手薄な本隊を襲い、貞国を分倍河原へ敗走させた、機略による勝利の地。
- 分倍河原 現在の東京都府中市。西暦1,333年6月27日、新田義貞が10,000名で、北条貞国に北条泰家の援軍100,000名を加えた150,000名を襲った地。新田は退けられ、自ら600騎で横腹を突いて血路を開き堀金周辺まで敗走した。同日夜に大多和義勝が8,000騎で寝返り、28日、大多和を先鋒とする20,000名の急襲で幕府軍は霞ノ関へ敗走した、本書最大の決戦地。
- 霞ノ関 現在の東京都多摩市関戸。西暦1,333年6月28日、多摩川を越えた新田義貞が70,000名で北条泰家の50,000名と交戦した地。新田軍が勝利したが、横溝八郎・安保道潭の奮戦により北条は鎌倉へ敗走し、二人は討死した。新田が本陣を置いた地でもある、武蔵国での最終決戦地。
- 武蔵国分寺 現在の東京都国分寺市西元町。西暦1,333年6月27日、分倍河原での新田義貞の敗走に際して焼失した寺院、本書の戦火の犠牲。
- 仮粧坂 現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷。西暦1,333年6月29日の三手分進で、新田義貞・脇屋義助・里見義胤・鳥山氏・大井田氏の本隊が配された地。7月2日から脇屋義助が戦を任され、7月4日には此処を守備していた北条基時・北条貞顕と安房国・上野国・下野国の御家人が自害した、本書の鎌倉攻めの本隊の進路。
- 洲崎 現在の神奈川県鎌倉市寺分・梶原・山崎。西暦1,333年6月29日の三手分進で堀口貞満・大島守之が配された地。6月30日、巨福呂坂から先鋒隊として向かった北条守時を迎え撃ち、此の日だけで65回の戦闘が発生、大部分の兵を失った守時が自刃した、北条守時終焉の地。
- 極楽寺坂切通 現在の神奈川県鎌倉市極楽寺〜由比ヶ浜。西暦1,333年6月29日の三手分進で大舘宗氏・江田行義が配された地。7月1日、大舘率いる30,000名が鎌倉幕府軍を突破したが、本間山城左衛門の独断出陣で腰越まで押し返され、大舘は討死した。7月4日には北条貞直・北条宣政・北条顕秀が脇屋義助に敗れて戦死した、本書の激戦地。
- 巨福呂坂 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下・山ノ内。西暦1,333年6月30日、北条守時が洲崎へ向かって出撃した地。7月4日には新田義貞軍に突破され、守っていた北条貞将が東勝寺へ退いた、鎌倉侵入の経路。
- 十一人塚・仏法寺 十一人塚は現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎、仏法寺は現在の神奈川県鎌倉市坂ノ下。西暦1,333年7月1日、大舘宗氏の討死を受けて最後に残った部下10名が十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて大舘と共に弔われた。生き残った大舘方の兵は仏法寺に陣を張った、本書の殉死の地。
- 聖福寺・稲村ヶ崎 現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎。西暦1,333年7月2日、新田義貞率いる軍が布陣した地。7月3日未明に稲村ヶ崎が干潮となり、100,000名を率いた新田が夜に此処を突破して鎌倉侵攻を成功させた、本書の歴史的転換点。
- 稲瀬川・由比ヶ浜 稲瀬川は現在の神奈川県鎌倉市長谷。西暦1,333年7月3日夜、稲村ヶ崎を突破した新田義貞軍が民家に火を放った地であり、其の火の手が北条執権邸に迫って北条一門の東勝寺集合を招いた。新田軍は由比ヶ浜を経由して鎌倉幕府軍の背後へ回り込んだ、鎌倉侵攻の起点。
- 北条執権邸 現在の宝戒寺(現在の神奈川県鎌倉市小町)。西暦1,333年7月3日夜、新田義貞軍の放った火の手が迫り、北条高時を始めとする北条一門が東勝寺へ避難する契機となった地。
- 崇寿寺 現在の神奈川県鎌倉市材木座。西暦1,333年7月3日頃、最後の突撃に向かう長崎高重が長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問い、「剣を振るって前進あるのみ」との答えを受けた地、本書の禅的覚悟の地。
- 東勝寺 現在の神奈川県鎌倉市葛西ケ谷。西暦1,333年7月3日、北条執権邸への火の手を受けて北条高時を始めとする北条一門が集合した地であり、長崎高重が最後の突撃の前に拝謁した地でもある。7月4日には北条貞将が御教書を授かり、長崎円喜・長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性ら870名(北条家一族283名を含む)が自害、其れを見届けた北条高時と安達時顕が自害した、鎌倉幕府終焉の地。
主要な事件・出来事
- 新田義貞の生品神社挙兵 西暦1,333年6月20日、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、生品神社にて大舘宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・弟の脇屋義助・江田行義・桃井尚義と共に150騎で挙兵した。利根川に到着する頃には里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏と甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流し、7,000騎にまで膨れ上がった、本書の発端。
- 足利義詮の合流と200,700騎への膨張 西暦1,333年6月21日、足利義詮が300名の兵と共に新田義貞の軍に合流した。之により河越貞重の息子河越高重、横山党・猪俣党・児玉党・村山党・野与党・丹党・西党・綴党・私市党も合流し、新田軍は200,700騎となった、本書の戦力飛躍の契機。
- 北条貞将の鶴見川敗走 西暦1,333年6月22日、上総国・下総国の軍勢を味方につける為に下総国の下河辺荘へ向けて鎌倉を出発していた北条貞将が、本拠地の六浦で軍勢を整えた後、鶴見川にて鎌倉幕府から寝返り新田義貞に与した千葉貞胤・小山秀朝と戦って敗れ、六浦経由で鎌倉へ敗走して朝比奈坂の守備を担当した、本書最初の鎌倉幕府軍の敗走。
- 小手指原の戦い 西暦1,333年6月23日朝、新田義貞軍が入間川を渡り、小手指原にて北条貞国(総大将)・長崎高重・長崎泰光・加治家貞率いる鎌倉幕府軍と交戦した。幕府軍は新田が入間川を渡り切る前に迎撃する予定であったが失敗し、日没までに新田軍は300名、幕府軍は500名の戦死者を出して両軍共に疲弊、新田軍は入間川、幕府軍は久米川まで兵を引いて軍勢を立て直し、新田軍は八国山に布陣した。
- 久米川の戦い 西暦1,333年6月24日朝、新田義貞軍が八国山から、久米川の南岸に布陣する北条貞国率いる鎌倉幕府軍を奇襲した。北条は奇襲への備えを講じており奇襲は失敗したが、幕府軍が鶴翼の陣で挟み込もうとしたのを新田は看破し、戦法に嵌ったかの様に見せ掛けて手薄になった本隊を襲撃、幕府軍を退けて北条を分倍河原へ敗走させた、機略による勝利。
- 分倍河原の戦い 西暦1,333年6月27日、新田義貞が10,000名を率い、分倍河原に布陣する北条貞国率いる鎌倉幕府軍を襲撃した。幕府は小手指原・久米川の敗報を受けて北条泰家に100,000名を率いさせており、合わせて150,000名の幕府軍は士気を高めて新田軍を退けた。新田は自ら手勢600騎で横腹を突いて血路を開き、堀金周辺まで敗走、其の際に武蔵国分寺が焼失した。同日夜、大多和義勝が河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率いた8,000騎で新田に加勢し、北条氏から寝返った、本書最大の危機と転換点。
- デマによる分倍河原の再戦 西暦1,333年6月28日、大多和義勝の献策により、大多和を先鋒とする20,000名の兵力で分倍河原の鎌倉幕府軍を急襲した。新田義貞は前日、幕府を油断させる為に忍びを使って大多和が幕府軍に加勢に来るというデマを流しており、之を信じた幕府軍は油断して敗北した。北条泰家は家臣横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、幕府軍は霞ノ関へ敗走した、本書の機略の頂点。
- 霞ノ関の戦い 西暦1,333年6月28日、新田義貞が多摩川を越え、70,000名を率いて霞ノ関にて北条泰家の50,000名と交戦した。新田軍が勝利したが、横溝八郎・安保道潭の奮戦により北条は鎌倉へ敗走し、横溝・安保は討死した。守勢に転じた鎌倉幕府は鎌倉七口を封鎖し、新田は其の儘本陣を霞ノ関に置いた、武蔵国での最終決戦。
- 新田義貞の三手分進 西暦1,333年6月29日、新田義貞が軍を三手に分けて鎌倉攻めの準備を行った。仮粧坂には本隊として新田・脇屋義助・里見義胤・鳥山氏・大井田氏、洲崎には堀口貞満・大島守之、極楽寺坂切通には大舘宗氏・江田行義を配した、鎌倉攻めの戦略決定。
- 北条守時の洲崎自刃と南条高直らの殉死 西暦1,333年6月30日、北条守時が、悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為、先鋒隊として巨福呂坂から洲崎へ向かい堀口貞満・大島守之を迎え撃ったが、到着時点で大部分の兵を失っていた。洲崎では此の日だけで65回の戦闘が発生し、敗色濃厚となった守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言って自刃した。南条は「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚で直ちに切腹し、其の後90名余りが続いた。
- 大舘宗氏の討死と本間山城左衛門の忠死 西暦1,333年7月1日、極楽寺切通から大舘宗氏・江田行義率いる軍が鎌倉へ進軍して鎌倉幕府軍を突破した。北条貞直の勘気を被って蟄居していた本間山城左衛門は、出撃命令が出ていないにも拘らず、中間100名を率いて極楽寺坂へ出陣し、大舘率いる30,000名を腰越まで後退させる。態勢を立て直した貞直の部隊と共に大舘の首を討ち取ると、本間は其の首を持って貞直の陣へ馳せ参じ、「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言って貞直の前で自害した。貞直は涙を流し自らの不明を詫びた。最後に残った大舘の部下10名は十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて大舘と共に弔われ、生き残った大舘方の兵は仏法寺に陣を張った、本書の忠死の場面。
- 新田義貞の聖福寺布陣と極楽寺坂への転進 西暦1,333年7月2日、新田義貞率いる軍が聖福寺に布陣した。北条貞将の強固な守備に苦戦していた新田は、大舘宗氏が戦死したとの報告を受け、脇屋義助に仮粧坂の戦を任せて、大舘が戦死した極楽寺坂へ向かった、最終決戦への配置換え。
- 稲村ヶ崎の干潮突破と北条一門の東勝寺集合 西暦1,333年7月3日未明、稲村ヶ崎が干潮となり、新田義貞は100,000名の兵を率いて極楽寺坂へ入った。夜、新田は稲村ヶ崎を突破して稲瀬川や由比ヶ浜の民家に火を放ち、火の手が北条執権邸(現在の宝戒寺)に迫ると、北条高時を始めとする北条一門は東勝寺に集合した。一方、新田軍は由比ヶ浜を経由して鎌倉幕府軍の背後へ回り進軍した、本書の歴史的転換の瞬間。
- 長崎高重の南山和尚問答と最後の突撃 西暦1,333年7月3日頃、長崎高資の嫡男長崎高重が東勝寺に避難していた北条高時に拝謁し、切腹の覚悟を伝えて「此れから最後の戦いに挑みます。新田の本陣に奇襲を仕掛け、新田の首を取って帰って参ります。勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」と言った。崇寿寺の長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うと、和尚は「剣を振るって前進あるのみ」と答えた。高重は150騎を率いて300騎の新田本陣へ進撃し、新田の首を狙ったが仕留める事が出来ず、東勝寺へ退却した、本書の武士道と禅の極致。
- 北条貞直・北条基時・北条貞将の最期 西暦1,333年7月4日、北条貞直と弟の北条宣政、息子の北条顕秀が極楽寺坂にて脇屋義助に敗れて戦死した。手勢が少なくなり劣勢となった鎌倉幕府側には切腹する者が出始めていたが、貞直は「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として切腹した者を罵っていた。同日、極楽寺坂・巨福呂坂を突破された新田軍の鎌倉侵攻を受け、仮粧坂を守備していた北条基時が、北条貞顕や安房国・上野国・下野国の御家人と共に、残り少なくなった家臣と自害。巨福呂坂を突破された北条貞将は東勝寺で北条高時に拝謁して御教書を授かり、鎧に入れて戦場へ赴いたが敗れ、長男の北条忠時と共に自害した。
- 東勝寺の870名の自害と鎌倉幕府滅亡 西暦1,333年7月4日、東勝寺にて長崎円喜・其の嫡男長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性ら家臣870名(北条家一族283名を含む)が自害した。其れを見届けた上で北条高時と其の舅安達時顕が自害し、鎌倉幕府が滅亡した、本書の終結にして鎌倉時代の終焉。
生品神社の150騎から東勝寺の870名へ──
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす迄の十五日間を一元化。
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