新田義貞が成し遂げた鎌倉幕府討幕一元化
新田義貞の生品神社挙兵・足利義詮の合流・小手指原の戦い・久米川の戦い・分倍河原の戦い・大多和義勝の寝返り・北条守時の洲崎自刃・大舘宗氏と本間山城左衛門の討死・稲村ヶ崎の干潮突破・東勝寺での北条高時以下870名の自害──
鎌倉幕府討幕の15日間を一本の時系列に貫く。
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西暦1,333年6月20日、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、生品神社(現在の群馬県太田市新田市野井町)にて150騎で挙兵した日から、西暦1,333年7月4日、東勝寺にて長崎円喜・長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性等の家臣870名(北条家一族283名含む)が自害し、其れを見届けた上で北条高時と其の舅安達時顕が自害して鎌倉幕府が滅亡した日まで。本書は、鎌倉時代最終章——新田義貞による鎌倉幕府討幕を、其の挙兵から、利根川での7,000騎への膨張、足利義詮の合流による200,700騎への拡大、小手指原・久米川・分倍河原・霞ノ関の4戦による鎌倉幕府軍の武蔵国からの撤退、大多和義勝の寝返りと相模国諸氏族の加勢、新田軍の化粧坂・洲崎・極楽寺坂切通の三手分進、北条守時と南条高直の洲崎自刃、大舘宗氏の討死と本間山城左衛門の忠死、十一人塚の自刃、稲村ヶ崎の干潮突破による鎌倉侵攻、北条貞直・北条基時・北条貞顕・北条貞将の討死と自害、長崎高重の崇寿寺南山和尚への問答と最後の突撃、東勝寺での北条高時以下870名の集団自害迄の約15日間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1,333年6月20日、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、生品神社にて大舘宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・弟脇屋義助・江田行義・桃井尚義と共に150騎で挙兵した。利根川に到着する頃には里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏・甲斐国信濃国の源氏の一族が合流し7,000騎にまで膨れ上がった。6月21日、足利義詮が300名の兵と共に新田軍に合流、更に河越貞重の息子河越高重・横山党・猪俣党・児玉党・村山党・野与党・丹党・西党・綴党・私市党も合流し200,700騎となった。6月22日、下総国下河辺荘へ向けて鎌倉を出発していた北条貞将が本拠地の六浦で軍勢を整えた後、鶴見川にて鎌倉幕府から寝返った千葉貞胤・小山秀朝と戦闘となり敗れ、六浦経由で鎌倉へ敗走して朝比奈坂の守備を担当した。6月23日朝、新田軍が入間川を渡り小手指原で北条貞国(総大将)・長崎高重・長崎泰光・加治家貞率いる鎌倉幕府軍と交戦、日没までに新田軍は300名、鎌倉幕府軍は500名の戦死者を出して両軍共に疲弊、新田軍は入間川、鎌倉幕府軍は久米川まで兵を引き、新田は八国山に布陣した。6月24日朝、新田軍が久米川の南岸に布陣する北条貞国を奇襲するも備えられており失敗、しかし鎌倉幕府軍の鶴翼の陣を看破して本隊を襲撃、北条は分倍河原に敗走した。6月27日、新田は10,000名で分倍河原に布陣する北条貞国と北条泰家の援軍含む150,000名を襲撃したが、鎌倉幕府が分倍河原派遣に配していた100,000名の援軍により士気が高まっていた鎌倉幕府軍に退けられ、新田は自ら手勢600騎で横腹を突いて血路を開き堀金周辺にまで敗走、武蔵国分寺が焼失した。同日夜、大多和義勝が河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率い8,000騎で新田に加勢、新田は鎌倉幕府を油断させる為に忍びを使って大多和が鎌倉幕府軍に加勢に来るというデマを流した。6月28日、大多和の献策により大多和を先鋒として20,000名で分倍河原を急襲、前日のデマを信じた鎌倉幕府軍は油断して敗北、北条泰家は家臣横溝八郎の奮戦によって一命をとり止め鎌倉幕府軍は霞ノ関へ敗走した。同日、新田は多摩川を越えて70,000名で霞ノ関にて北条泰家の50,000名と交戦、新田軍が勝利するが横溝八郎・安保道潭の奮戦により北条は鎌倉へ敗走、横溝・安保は討死し、守勢に転じた鎌倉幕府は鎌倉七口を封鎖、新田は本陣を霞ノ関に置いた。
西暦1,333年6月29日、新田義貞は軍を化粧坂(本隊:新田・脇屋義助・里見義胤・鳥山氏・大井田氏)・洲崎(堀口貞満・大島守之)・極楽寺坂切通(大舘宗氏・江田行義)の三手に分けて鎌倉攻めの準備を行った。6月30日、北条守時が悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為、先鋒隊として巨福呂坂から洲崎へ向かい堀口貞満・大島守之を迎え撃ったが、洲崎ではこの日だけで65回の戦闘が発生し、洲崎に到着した時点で北条は大部分の兵を失っていた。敗色濃厚となった北条は洲崎にて南条高直を呼び寄せ「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言い自刃、南条は「巨福呂坂に戻り援軍を頼むべきである」との進言を退け「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚にて直ちに切腹し、其の後90名余りが続いた。7月1日、極楽寺切通から大舘宗氏・江田行義率いる軍が鎌倉へ進軍して鎌倉幕府軍を突破した。北条貞直の勘気を被って蟄居していた本間山城左衛門は出撃命令は出ていなかったが中間100名を率い極楽寺坂へ出陣、大舘率いる30,000名に進撃し腰越まで後退させ、北条貞直率いる部隊が態勢を立て直し本間は大舘の首を討ち取った。本間は大舘の首を持って北条の陣に馳せ参じ「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言い北条の前で自害、北条は涙を流し自らの不明を詫びた。最後に残った大舘の部下10名は十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて大舘と共に弔われ、生き残った大舘に与した兵は仏法寺に陣を張った。7月2日、新田は聖福寺に布陣した後、北条貞将の強固な守備に苦戦していた化粧坂の戦いを脇屋義助に任せ、大舘が戦死した極楽寺坂へ向かった。7月3日未明、稲村ヶ崎が干潮となり新田は100,000名で極楽寺坂へ入り、夜、稲村ヶ崎を突破して稲瀬川や由比ヶ浜の民家に火を放ち、火の手が北条執権邸(現在の宝戒寺)に迫ると北条高時を始めとする北条一門は東勝寺に集合した。同日、長崎高資の嫡男の長崎高重が東勝寺に避難していた北条高時に拝謁し「此れから最後の戦いに挑みます。新田の本陣に奇襲を仕掛け、新田の首を取って帰って参ります。勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」と切腹の覚悟を伝え、崇寿寺の長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問い「剣を振るって前進あるのみ」との答えを受けて150騎で300騎の新田本陣に進撃、新田の首を狙うが仕留める事が出来ず東勝寺に退却した。7月4日、北条貞直・弟北条宣政・息子北条顕秀が極楽寺坂にて脇屋義助に敗れ戦死、手勢が少なくなり劣勢となった鎌倉幕府側には切腹する者が出始めたが貞直は「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として切腹した者を罵っていた。同日、極楽寺坂・巨福呂坂を突破された新田軍の鎌倉侵攻を受け、化粧坂を守備していた北条基時が北条貞顕・安房国下野国下野国の御家人と共に残り少なくなった家臣と共に自害、巨福呂坂を突破された北条貞将が東勝寺にて北条高時に拝謁して御教書を授かり鎧に入れて戦場へ赴いたが敗れ、長男北条忠時と共に自害した。東勝寺にて長崎円喜・円喜の嫡男長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性等家臣870名(北条家一族283名含む)が自害し、其れを見届けた上で北条高時と其の舅安達時顕が自害して鎌倉幕府が滅亡した、本書の終結点にして鎌倉時代の終わり。
登場人物
- 新田義貞 本書の主人公。上野国の御家人。西暦1,333年6月20日、後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け生品神社で150騎で挙兵、利根川で7,000騎、6月21日の足利義詮の合流で200,700騎となった。6月23日の小手指原、6月24日の久米川、6月27日の分倍河原(初戦敗北)、6月28日の分倍河原・霞ノ関を戦い、6月29日に化粧坂・洲崎・極楽寺坂切通の三手に分けて鎌倉攻めを指揮した。7月2日、大舘宗氏の戦死を受け脇屋義助に化粧坂を任せ極楽寺坂へ向かい、7月3日未明、稲村ヶ崎の干潮を利用して鎌倉侵攻を成功させ北条高時を東勝寺に追い詰めた、本書の題名を成す勝者。
- 脇屋義助 新田義貞の弟。西暦1,333年6月20日の生品神社挙兵に最初から加わり、6月29日の三手分進では化粧坂の本隊に属した。7月2日、新田が極楽寺坂へ向かった後に化粧坂の戦いを任され、7月4日、極楽寺坂にて北条貞直・北条宣政・北条顕秀を敗死させた、新田軍の副将。
- 大舘宗氏 新田義貞の一族。西暦1,333年6月20日の生品神社挙兵に加わり、6月29日の三手分進では江田行義と共に極楽寺坂切通の大将を任された。7月1日、極楽寺切通から30,000名を率いて鎌倉幕府軍を突破し腰越まで後退させたが、北条貞直の蟄居中であった本間山城左衛門の中間100名による逆襲で首を討ち取られた。部下10名は十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて共に弔われた、本書の悲劇の武将。
- 堀口貞満 新田義貞の一族。西暦1,333年6月20日の生品神社挙兵に加わり、6月29日の三手分進では大島守之と共に洲崎の大将を任された。6月30日、洲崎で北条守時の先鋒隊を迎え撃ち、この日だけで65回の戦闘を経て北条守時を自刃に追い込んだ、本書の洲崎の勝利者。
- 足利義詮 足利尊氏の子。西暦1,333年6月21日、300名の兵を率いて新田義貞の軍に合流した。其の合流を契機として、河越高重・横山党・猪俣党・児玉党・村山党・野与党・丹党・西党・綴党・私市党が合流し200,700騎となった、本書の戦力飛躍の契機。
- 千葉貞胤・小山秀朝 第11代千葉氏当主千葉貞胤と第8代小山氏当主小山秀朝。鎌倉幕府から寝返り新田義貞に与した。西暦1,333年6月22日、下総国下河辺荘へ向けて鎌倉を出発していた北条貞将を鶴見川で迎え撃ち敗走させた、本書の最初の寝返り。
- 大多和義勝 相模国の武将。西暦1,333年6月27日夜、分倍河原での新田軍の敗北を受けて、河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率いた8,000騎で新田に加勢し北条氏から寝返った。6月28日、自身の献策により先鋒として20,000名の兵力で分倍河原の鎌倉幕府軍を急襲、新田が事前に流したデマを信じ油断していた鎌倉幕府軍を破った、本書の戦局転換の立役者。
- 北条高時 鎌倉幕府第14代執権。北条氏得宗家。西暦1,333年7月3日、新田義貞軍の稲村ヶ崎突破で火の手が北条執権邸に迫ると、北条一門と共に東勝寺に集合して最終拠点とした。同日、長崎高重の「勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」との切腹覚悟の挨拶を受け、7月4日、東勝寺にて家臣870名(北条家一族283名含む)の自害を見届けた上で舅の安達時顕と共に自害した、本書の鎌倉幕府最後の執権。
- 北条守時 鎌倉幕府第16代執権。足利尊氏の妻の兄。西暦1,333年6月30日、悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為、先鋒隊として巨福呂坂から洲崎へ向かい堀口貞満・大島守之を迎え撃ったが、到着時に大部分の兵を失っていた。敗色濃厚となり南条高直を呼び寄せ「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言い洲崎にて自刃した、本書の血縁故の自害者。
- 南条高直 北条守時の家臣。西暦1,333年6月30日、洲崎にて自刃の覚悟を伝えた北条守時を見届けた後、「巨福呂坂に戻り援軍を頼むべきである」との家臣の進言を退け「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚にて直ちに切腹、其の後90名余りが続いた、本書の忠節の殉死者。
- 北条貞将 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年6月22日、下総国下河辺荘へ向けて鎌倉を出発中、六浦で軍勢を整えた後鶴見川で千葉貞胤・小山秀朝に敗れ六浦経由で鎌倉へ敗走、其の後朝比奈坂の守備を担当した。7月2日には化粧坂の守備で新田軍を苦戦させた。7月4日、巨福呂坂を突破され東勝寺にて北条高時に拝謁し御教書を授かり鎧に入れて戦場へ赴いたが敗れ、長男北条忠時と共に自害した、本書の強固な守備者。
- 北条貞国 鎌倉幕府軍の総大将。西暦1,333年6月23日、長崎高重・長崎泰光・加治家貞を副将として小手指原で新田軍を迎え撃ったが、新田が入間川を渡り切る前の迎撃に失敗、両軍共に疲弊した。6月24日、久米川の南岸での奇襲を察知して鶴翼の陣を敷いたが新田に看破され本隊を襲撃されて分倍河原に敗走した。6月27日には援軍の北条泰家と共に分倍河原で新田軍を退けたが、6月28日の大多和義勝の急襲で敗北した、本書の鎌倉幕府軍の総大将。
- 北条泰家 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年6月27日、小手指原・久米川での北条貞国の敗戦報告を受けて100,000名を率いて分倍河原に援軍として派遣、合流により士気を高めた鎌倉幕府軍は新田軍を退けたが、6月28日、大多和義勝の急襲で敗北、家臣横溝八郎の奮戦で一命をとり止め霞ノ関へ敗走した。同日、霞ノ関で50,000名を率いて新田の70,000名と交戦したが横溝・安保道潭の奮戦により鎌倉へ敗走した、本書の最終局面の指揮官。
- 横溝八郎・安保道潭 北条泰家の家臣。西暦1,333年6月28日、横溝八郎が分倍河原の大多和義勝急襲時に北条泰家の一命を救う奮戦をした。同日の霞ノ関の戦いで横溝・安保道潭が奮戦して北条の鎌倉への敗走を可能にしたが、共に討死した、本書の最後の奮戦者。
- 北条貞直 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年7月1日、極楽寺切通で突破された際、蟄居させていた本間山城左衛門が無断出陣して大舘宗氏の首を討ち取って馳せ参じた事を受け、涙を流して自らの不明を詫びた。7月4日、極楽寺坂にて脇屋義助に敗れて弟北条宣政・息子北条顕秀と共に戦死、切腹する者が出始めた部下達に対しては「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として罵った、本書の武士道の体現者。
- 本間山城左衛門 北条貞直の部下。勘気を被って蟄居していた。西暦1,333年7月1日、出撃命令は出ていなかったが鎌倉幕府軍が突破されたとの知らせを聞き付け、中間100名を率いて極楽寺坂へ独断で出陣、大舘宗氏率いる30,000名を腰越まで後退させた。態勢を立て直した北条貞直率いる部隊と合わせて大舘の首を討ち取った後、大舘の首を持って北条の陣に馳せ参じ「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言い北条の前で自害した、本書の忠節を体現した家臣。
- 北条基時 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年7月4日、極楽寺坂・巨福呂坂を突破された新田義貞軍の鎌倉侵攻を受け、化粧坂を守備していた所、北条貞顕・安房国上野国下野国の御家人と共に残り少なくなった家臣と共に自害した。
- 北条貞顕 鎌倉幕府の武将。西暦1,333年7月4日、化粧坂を守備していた北条基時と共に自害した。
- 長崎高重 長崎高資の嫡男。西暦1,333年6月23日の小手指原の戦いに副将として出陣。7月3日、東勝寺に避難していた北条高時に拝謁し「此れから最後の戦いに挑みます。新田の本陣に奇襲を仕掛け、新田の首を取って帰って参ります。勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」と切腹の覚悟を伝え、崇寿寺の長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うと南山和尚は「剣を振るって前進あるのみ」と答えた。150騎で300騎の新田本陣に進撃し新田の首を狙ったが仕留める事が出来ず東勝寺に退却、7月4日に自害した、本書の武士道の最後の輝き。
- 長崎円喜・長崎高資・長崎思元 鎌倉幕府御内人。西暦1,333年7月4日、東勝寺にて長崎円喜・円喜の嫡男長崎高資・長崎思元が長崎高重・摂津親鑑・諏訪直性等家臣と共に自害した、鎌倉幕府の中枢の終焉。
- 安達時顕 北条高時の舅。西暦1,333年7月4日、東勝寺にて長崎円喜・長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性等家臣870名(北条家一族283名含む)の自害を見届けた上で、北条高時と共に自害して鎌倉幕府の滅亡を迎えた、本書の最後の自害者。
- 南山和尚 崇寿寺の長老。西暦1,333年7月3日、最後の突撃に向かう長崎高重が「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うた際「剣を振るって前進あるのみ」と答えた、本書の禅的精神の体現者。
- 後醍醐天皇 第96代天皇。西暦1,333年6月20日、新田義貞に鎌倉幕府倒幕の綸旨を下し、本書の戦いの発端を作った、本書の挙兵の大義。
主要な地名・拠点
- 生品神社 現在の群馬県太田市新田市野井町。西暦1,333年6月20日、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、大舘宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・脇屋義助・江田行義・桃井尚義と共に150騎で挙兵した地、本書の冒頭の挙兵地。
- 利根川 西暦1,333年6月20日、新田義貞軍が挙兵直後に到着した地。里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏・甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流し、150騎から7,000騎へと膨れ上がった地、本書の最初の膨張の場。
- 鶴見川 現在の神奈川県横浜市鶴見区。西暦1,333年6月22日、下総国下河辺荘へ向けて鎌倉を出発した北条貞将が、本拠地の六浦で軍勢を整えた後、鎌倉幕府から寝返り新田義貞に与した千葉貞胤・小山秀朝と戦闘となり敗れた地、本書の最初の鎌倉幕府軍敗走地。
- 小手指原 現在の埼玉県所沢市北野。西暦1,333年6月23日朝、入間川を渡った新田義貞軍と北条貞国(総大将)・長崎高重・長崎泰光・加治家貞率いる鎌倉幕府軍が交戦した地。鎌倉幕府軍は新田が入間川を渡り切る前に迎撃する予定であったが失敗、日没までに新田軍は300名・鎌倉幕府軍は500名の戦死者を出して両軍共に疲弊、新田軍は入間川に、鎌倉幕府軍は久米川に退いた、本書の最初の大規模戦闘地。
- 八国山・久米川 八国山は現在の東京都東村山市多摩湖町、久米川は現在の柳瀬川・現在の東京都東村山市諏訪町周辺。西暦1,333年6月23日日没後、新田義貞軍が八国山に布陣し、6月24日朝、久米川の南岸に布陣する北条貞国を奇襲した地。北条の鶴翼の陣を看破して本隊を襲撃、北条を分倍河原に敗走させた、本書の機略による勝利の地。
- 分倍河原 現在の東京都府中市。西暦1,333年6月27日、新田義貞が10,000名を率いて北条貞国と北条泰家の援軍100,000名を含む150,000名を襲撃した地。新田は600騎で横腹を突いて血路を開き堀金まで敗走、武蔵国分寺が焼失した。同日夜、大多和義勝が8,000騎で新田に加勢し寝返った。6月28日、大多和を先鋒とする20,000名の急襲で新田が勝利し、鎌倉幕府軍は霞ノ関に敗走した、本書最大の決戦地。
- 霞ノ関 現在の東京都多摩市関戸。西暦1,333年6月28日、多摩川を越えた新田義貞が70,000名で北条泰家の50,000名と交戦した地。新田軍が勝利するが横溝八郎・安保道潭の奮戦により北条は鎌倉へ敗走、横溝・安保は討死した。新田が本陣を置いた地でもある、本書の武蔵国での最終決戦地。
- 化粧坂 現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷。西暦1,333年6月29日、新田義貞が三手分進の本隊(新田・脇屋義助・里見義胤・鳥山氏・大井田氏)を配した地。7月4日、北条基時・北条貞顕・安房国上野国下野国の御家人が守備していた地で、脇屋義助により突破された、本書の鎌倉攻めの本隊の進路。
- 洲崎 現在の神奈川県鎌倉市寺分・梶原・山崎。西暦1,333年6月29日、新田義貞が三手分進で堀口貞満・大島守之を配した地。6月30日、北条守時が巨福呂坂から先鋒隊として向かい迎え撃ったが、この日だけで65回の戦闘が発生し、北条は大部分の兵を失って自刃した地、本書の北条守時終焉の地。
- 極楽寺坂切通 現在の神奈川県鎌倉市極楽寺~由比ヶ浜。西暦1,333年6月29日、新田義貞が三手分進で大舘宗氏・江田行義を配した地。7月1日、大舘率いる30,000名が鎌倉幕府軍を突破したが、本間山城左衛門の独断出陣で後退させられ、北条貞直率いる部隊との合戦で大舘は討死した。7月4日、北条貞直・北条宣政・北条顕秀が脇屋義助に敗れて戦死した地、本書の激戦地。
- 巨福呂坂 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下・山ノ内。西暦1,333年6月30日、北条守時が洲崎へ向かう出撃地。7月4日、新田軍に突破されて北条貞将が東勝寺に逃れた地、本書の鎌倉侵入の経路。
- 十一人塚・仏法寺 十一人塚は現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎、仏法寺は現在の神奈川県鎌倉市坂ノ下。西暦1,333年7月1日、大舘宗氏の戦死を受け、最後に残った部下10名が十一人塚で自刃した地。後に十一面観音の像が建立され大舘と共に弔われた。生き残った大舘に与した兵は仏法寺に陣を張った、本書の殉死の地。
- 聖福寺・稲村ヶ崎 現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎。西暦1,333年7月2日、新田義貞率いる軍が布陣した地。7月3日未明、稲村ヶ崎が干潮となり新田が100,000名で突破して鎌倉侵攻を成功させた地、本書の歴史的転換点。
- 稲瀬川・由比ヶ浜 稲瀬川は現在の神奈川県鎌倉市長谷。西暦1,333年7月3日夜、新田義貞軍が稲村ヶ崎突破後に民家に火を放ち、其の火の手が北条執権邸(現在の宝戒寺)に迫った事で北条一門が東勝寺に集合する契機となった地、本書の鎌倉侵攻の火の手の起点。
- 北条執権邸 現在の宝戒寺(現在の神奈川県鎌倉市小町)。西暦1,333年7月3日夜、新田軍の火の手が迫り北条高時を始めとする北条一門が東勝寺に避難する契機となった地。
- 東勝寺 現在の神奈川県鎌倉市葛西ケ谷。西暦1,333年7月3日、北条執権邸への火の手が迫り北条高時を始めとする北条一門が集合した地。同日、長崎高重が北条高時に最後の突撃の許可を受けに参上した地。7月4日、北条貞将が御教書を授かった地。長崎円喜・長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性等870名(北条家一族283名含む)が自害し、其れを見届けた上で北条高時と安達時顕が自害した地、本書の鎌倉幕府終焉の地。
- 崇寿寺 現在の神奈川県鎌倉市材木座。西暦1,333年7月3日、最後の突撃に向かう長崎高重が長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問い「剣を振るって前進あるのみ」との答えを受けた地、本書の禅的覚悟の地。
- 武蔵国分寺 現在の東京都国分寺市西元町。西暦1,333年6月27日の分倍河原での新田敗走の際に焼失した寺院、本書の戦火の犠牲。
主要な事件・出来事
- 新田義貞の生品神社挙兵 西暦1,333年6月20日、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、生品神社にて大舘宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・弟脇屋義助・江田行義・桃井尚義と共に150騎で挙兵した。利根川に到着する頃には里見氏・鳥山氏・田中氏・大井田氏・羽川氏・甲斐国信濃国の源氏の一族が合流し7,000騎にまで膨れ上がった、本書の発端。
- 足利義詮の合流と200,700騎への膨張 西暦1,333年6月21日、足利義詮が300名の兵と共に新田義貞の軍に合流した。これにより河越貞重の息子河越高重・横山党・猪俣党・児玉党・村山党・野与党・丹党・西党・綴党・私市党も合流し、200,700騎となった、本書の戦力飛躍の契機。
- 北条貞将の鶴見川敗走 西暦1,333年6月22日、上総国下総国の軍勢を味方につける為に下総国下河辺荘へ向けて鎌倉を出発していた北条貞将が、本拠地の六浦で軍勢を整えた後、鶴見川にて鎌倉幕府から寝返り新田義貞に与した千葉貞胤・小山秀朝と戦闘となり敗れ、六浦経由で鎌倉へ敗走して朝比奈坂の守備を担当した、本書の最初の鎌倉幕府軍敗走。
- 小手指原の戦い 西暦1,333年6月23日朝、新田義貞軍が入間川を渡り、小手指原にて北条貞国(総大将)・長崎高重・長崎泰光・加治家貞率いる鎌倉幕府軍と交戦した。鎌倉幕府軍は新田が入間川を渡り切る前に迎撃する予定であったが失敗、日没までに新田軍は300名・鎌倉幕府軍は500名の戦死者を出して両軍共に疲弊、新田軍は入間川に、鎌倉幕府軍は久米川まで兵を引き、其の後新田軍は八国山に布陣した、本書の最初の本格戦闘。
- 久米川の戦い 西暦1,333年6月24日朝、新田義貞軍が八国山から久米川の南岸に布陣する北条貞国率いる鎌倉幕府軍を奇襲した。北条は奇襲に対する備えを講じており奇襲は失敗したが、鎌倉幕府軍が鶴翼の陣を敷き新田を挟み込む策に出たのを新田は看破、戦法に嵌ったかの様に見せかけて鶴翼の陣により手薄になった本隊を襲撃、鎌倉幕府軍を退けて北条を分倍河原に敗走させた、本書の機略による勝利。
- 分倍河原の戦い 西暦1,333年6月27日、新田義貞が10,000名を率い、分倍河原に布陣する北条貞国率いる北条泰家の100,000名の援軍含む150,000名の鎌倉幕府軍を襲撃した。援軍により士気が高まっていた鎌倉幕府軍は新田軍を退け、新田は自ら手勢600騎を率い鎌倉幕府軍の横腹を突いて血路を開き堀金周辺まで敗走、武蔵国分寺が焼失した。同日夜、大多和義勝が河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率い8,000騎で新田に加勢し北条氏から寝返った、本書の最大の危機と転換点。
- 大多和義勝の献策による分倍河原再戦 西暦1,333年6月28日、大多和義勝の献策により、大多和を先鋒として20,000名の兵力で分倍河原にて鎌倉幕府軍を急襲した。新田は鎌倉幕府を油断させる為に忍びを使って大多和が鎌倉幕府軍に加勢に来るというデマを流しており、前日のデマを信じた鎌倉幕府軍は油断して敗北、北条泰家は家臣横溝八郎の奮戦によって一命をとり止め、鎌倉幕府軍は霞ノ関へ敗走した、本書の機略の頂点。
- 霞ノ関の戦い 西暦1,333年6月28日、新田義貞が多摩川を越えて70,000名で霞ノ関にて北条泰家の50,000名と交戦した。新田軍が勝利するが横溝八郎・安保道潭の奮戦により北条は鎌倉へ敗走、横溝・安保は討死した。守勢に転じた鎌倉幕府は鎌倉七口を封鎖し、新田は其の儘本陣を霞ノ関に置いた、本書の武蔵国での最終決戦。
- 新田義貞の三手分進 西暦1,333年6月29日、新田義貞が軍を三手に分け鎌倉攻めの準備を行った。化粧坂(本隊:新田・脇屋義助・里見義胤・鳥山氏・大井田氏)、洲崎(堀口貞満・大島守之)、極楽寺坂切通(大舘宗氏・江田行義)の3路からの同時侵攻を計画した、本書の鎌倉攻めの戦略決定。
- 北条守時の洲崎自刃と南条高直等91名の殉死 西暦1,333年6月30日、北条守時が悪化した鎌倉幕府内での自身の立場を回復する為、先鋒隊として巨福呂坂から洲崎へ向かい堀口貞満・大島守之を迎え撃ったが、到着時に大部分の兵を失っていた。洲崎ではこの日だけで65回の戦闘が発生し、敗色濃厚となった北条は南条高直を呼び寄せ「妹が足利尊氏の妻であるから私以下北条家一族は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と言い自刃した。南条は「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って千代塚にて直ちに切腹し、其の後90名余りが続いた、本書の武士道の体現。
- 大舘宗氏の討死と本間山城左衛門の忠死 西暦1,333年7月1日、極楽寺切通から大舘宗氏・江田行義率いる軍が鎌倉幕府軍を突破したが、北条貞直の勘気を被って蟄居していた部下の本間山城左衛門が出撃命令は出ていなかったが中間100名を率い極楽寺坂へ独断出陣、大舘率いる30,000名を腰越まで後退させた。北条貞直率いる部隊が態勢を立て直し、本間は大舘の首を討ち取ったが、大舘の首を持って北条の陣に馳せ参じ「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言い北条の前で自害、北条は涙を流し自らの不明を詫びた。最後に残った大舘の部下10名は十一人塚で自刃し、後に十一面観音の像が建立されて大舘と共に弔われ、生き残った大舘に与した兵は仏法寺に陣を張った、本書最も感動的な忠死の場面。
- 新田義貞の聖福寺布陣と極楽寺坂指揮 西暦1,333年7月2日、新田義貞率いる軍が聖福寺に布陣した。北条貞将の強固な守備に苦戦していた新田は、大舘宗氏が戦死したとの報告を受け脇屋義助に化粧坂の戦を任せ、大舘が戦死した極楽寺坂へ向かった、本書の最終決戦への配置換え。
- 稲村ヶ崎の干潮突破と北条高時等の東勝寺集合 西暦1,333年7月3日未明、稲村ヶ崎が干潮となり新田義貞は100,000名を率いて極楽寺坂へ入った。夜、新田は稲村ヶ崎を突破して稲瀬川や由比ヶ浜の民家に火を放ち、火の手が北条執権邸(現在の宝戒寺)に迫ると北条高時を始めとする北条一門は東勝寺に集合した。一方新田軍は由比ヶ浜を経由して鎌倉幕府軍の背後へ回り進軍した、本書の歴史的転換の瞬間。
- 長崎高重の南山和尚問答と最後の突撃 西暦1,333年7月3日、長崎高資の嫡男の長崎高重が東勝寺に避難していた北条高時に拝謁し、切腹の覚悟を伝え「此れから最後の戦いに挑みます。新田の本陣に奇襲を仕掛け、新田の首を取って帰って参ります。勝っても負けても必ず帰って参ります。どうか私が帰参するまでは自害など為さらない様、お願い致します」と言い、崇寿寺の長老南山和尚に「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問うた。南山和尚の「剣を振るって前進あるのみ」との答えを受けて、長崎は150騎で300騎の新田本陣に進撃、新田の首を狙ったが仕留める事が出来ず東勝寺に退却した、本書の武士道と禅の極致。
- 北条貞直・北条基時・北条貞将の討死と自害 西暦1,333年7月4日、北条貞直・弟北条宣政・息子北条顕秀が極楽寺坂にて脇屋義助に敗れ戦死した。手勢が少なくなり劣勢となっていた鎌倉幕府側には切腹する者が出始めていたが、貞直は「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」として切腹した者を罵っていた。同日、極楽寺坂・巨福呂坂を突破された新田軍の鎌倉侵攻を受け、化粧坂を守備していた北条基時が北条貞顕・安房国上野国下野国の御家人と共に残り少なくなった家臣と共に自害、巨福呂坂を突破された北条貞将が東勝寺にて北条高時に拝謁して御教書を授かり鎧に入れて戦場へ赴いたが敗れ、長男北条忠時と共に自害した、本書の武将達の最期。
- 東勝寺の870名の自害と鎌倉幕府滅亡 西暦1,333年7月4日、東勝寺にて長崎円喜・円喜の嫡男長崎高資・長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性等家臣870名(北条家一族283名含む)が自害した。其れを見届けた上で北条高時と其の舅安達時顕が自害し、鎌倉幕府が滅亡した、本書の終結にして鎌倉時代の終焉。
新田義貞の生品神社挙兵・足利義詮の合流・小手指原の戦い・久米川の戦い・分倍河原の戦い・大多和義勝の寝返り・北条守時の洲崎自刃・大舘宗氏と本間山城左衛門の討死・稲村ヶ崎の干潮突破・東勝寺での北条高時以下870名の自害──
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