新田義貞が成し遂げた
鎌倉幕府討幕一元化
僅か150騎の挙兵が、十五日で幕府を倒した──
新田義貞の鎌倉攻めを一元化。
178円(税込)
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本書について
西暦1,333年6月20日、後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた新田義貞は、生品神社(現在の群馬県太田市新田市野井町)で大舘宗氏・堀口貞満・弟の脇屋義助らと共に、僅か150騎で挙兵した。利根川に着く頃には里見氏・鳥山氏や甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流して7,000騎となり、翌21日に足利義詮が300名の兵と共に加わると、河越高重と、横山党・児玉党を始めとする9つの党が続いて、軍勢は20万騎を超えた。本書は、此の挙兵から、7月4日に東勝寺で北条高時が自害し鎌倉幕府が滅ぶ迄の十五日間を一元化した記録である。
22日、上総国・下総国の軍勢を味方に付けようと鎌倉を発っていた北条貞将は、本拠の六浦(現在の神奈川県横浜市金沢区)で軍勢を整えた後、鶴見川(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で、鎌倉幕府から寝返った千葉貞胤・小山秀朝の軍に敗れて鎌倉へ退き、以後は朝比奈坂を守る。23日朝、入間川を渡った新田軍は、小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)で北条貞国を総大将とする鎌倉幕府軍と戦い、新田軍300名・幕府軍500名の戦死者を出して共に兵を引いた。翌24日、八国山(現在の東京都東村山市多摩湖町)から久米川の南岸を奇襲した新田は、備えていた貞国が鶴翼の陣で挟み込もうとするのを看破し、手薄になった本隊を突いて分倍河原(現在の東京都府中市)へ敗走させた。
27日、10,000名で分倍河原を襲った新田は、北条泰家の援軍100,000名を加えた150,000名の幕府軍に退けられ、自ら600騎を率いて横腹を突き、辛うじて血路を開いて堀金(現在の埼玉県狭山市堀兼)まで逃れた。武蔵国分寺が焼けたのは此の時である。だが其の夜、大多和義勝が相模国の河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率いた8,000騎で寝返り、新田は忍びを使って、大多和が幕府軍に加勢に来るというデマを流す。28日、大多和を先鋒とする20,000名が、デマを信じて油断した幕府軍を分倍河原で破り、更に多摩川を越えた新田の70,000名が、霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)で泰家の50,000名を破った。横溝八郎と安保道潭が討死する程の奮戦で泰家は鎌倉へ逃れ、守勢に転じた幕府は鎌倉七口を封鎖する。
29日、新田は軍を三手に分けた。仮粧坂には自身と脇屋義助らの本隊、洲崎には堀口貞満・大島守之、極楽寺坂切通には大舘宗氏・江田行義である。30日、幕府内での立場を回復しようと、先鋒として巨福呂坂から洲崎へ打って出た北条守時は、着いた時には既に兵の大半を失っていた。此の日だけで65回の戦闘が起きた洲崎で敗色濃厚となった守時は、妹が足利尊氏の妻である為に一族から疑われている、此れは一家の恥だとして自刃する。見届けた南条高直は、巨福呂坂に戻って援軍を頼むべきとの進言を退けて千代塚で切腹し、90名余りが後に続いた。
7月1日、極楽寺切通から攻め入った大舘・江田の軍が幕府軍を突破する。北条貞直の勘気を被って蟄居していた本間山城左衛門は、命令を待たずに中間100名を率いて出陣し、大舘の30,000名を腰越まで押し返し、貞直の部隊が態勢を立て直す中、大舘の首を討ち取った。本間は其の首を持って貞直の陣に馳せ参じ、多年の御恩に報いる事が出来たと告げて自害し、貞直は涙を流して自らの不明を詫びる。残った大舘の部下10名は十一人塚(現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎)で自刃した。2日、新田率いる軍が聖福寺に布陣した。北条貞将の強固な守備に苦戦していた新田は、大舘の戦死を聞くと仮粧坂の戦を脇屋に任せ、極楽寺坂へ向かう。
3日未明、稲村ヶ崎が干潮となった。其の夜、稲村ヶ崎を突破した新田軍が稲瀬川や由比ヶ浜の民家に火を放ち、火の手が北条執権邸に迫ると、北条高時ら北条一門は東勝寺(現在の神奈川県鎌倉市葛西ケ谷)に集まる。同じ頃、長崎高重は、自分が帰参するまで自害なさらぬ様にと高時に願い、崇寿寺の南山和尚から「剣を振るって前進あるのみ」との答えを得ると、150騎で新田の本陣へ斬り込んだが、首を取れずに東勝寺へ退いた。4日、極楽寺坂では北条貞直が脇屋義助に敗れて弟・息子と共に戦死し、仮粧坂を守った北条基時と、東勝寺で御教書を授かって出陣した北条貞将も自害する。東勝寺では長崎円喜・長崎高資・長崎高重らを始め、北条家一族283名を含む870名が自害し、其れを見届けた高時と舅の安達時顕が自害して、鎌倉幕府は滅亡した——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 新田義貞 本書の中心人物。後醍醐天皇から鎌倉幕府倒幕の綸旨を受け、生品神社で150騎で挙兵した。小手指原で幕府軍と戦い、久米川では鶴翼の陣を看破して北条貞国を破った。分倍河原では一度退けられたが、大多和義勝の寝返りとデマで巻き返した。鎌倉攻めでは軍を三手に分け、干潮となった稲村ヶ崎を其の夜に突破して鎌倉へ攻め入った。
- 脇屋義助 新田義貞の弟。挙兵に加わり、仮粧坂の本隊に属した。新田が極楽寺坂へ向かった後は仮粧坂の戦を任され、7月4日、極楽寺坂で北条貞直らを討った。
- 大舘宗氏 挙兵に加わり、江田行義と共に極楽寺坂切通を任された。7月1日、30,000名で幕府軍を突破したが、本間山城左衛門の逆襲に遭って首を取られた。残った部下10名は十一人塚で自刃した。
- 堀口貞満 挙兵に加わり、大島守之と共に洲崎を任された。6月30日、洲崎へ打って出た北条守時の軍を迎え撃ち、兵力の差で敗色濃厚となった守時は自刃した。
- 足利義詮 足利尊氏の子。300名の兵と共に新田義貞の軍に合流した。此れを機に河越高重と、横山党・児玉党等の党も加わり、新田軍は20万騎を超えた。
- 千葉貞胤 第11代千葉氏当主。鎌倉幕府から寝返って新田義貞に与し、小山秀朝と共に鶴見川で北条貞将を破った。
- 小山秀朝 第8代小山氏当主。鎌倉幕府から寝返って新田義貞に与し、千葉貞胤と共に鶴見川で北条貞将を破った。
- 大多和義勝 相模国の河村氏・土肥氏・渋谷氏・本間氏を率いた8,000騎で北条氏から寝返り、新田義貞に加勢した。自らの献策で先鋒となり、分倍河原で油断した幕府軍を破った。
- 後醍醐天皇 新田義貞に鎌倉幕府倒幕の綸旨を与えた。
- 北条高時 鎌倉幕府第14代執権。火の手が北条執権邸に迫ると、北条一門と共に東勝寺へ集まった。長崎高重から帰参まで自害せぬ様にと願われ、7月4日、北条家一族を含む870名の自害を見届けた上で、舅の安達時顕と共に自害した。
- 北条守時 鎌倉幕府第16代執権。妹が足利尊氏の妻であった。幕府内での立場を回復しようと巨福呂坂から洲崎へ打って出たが、兵の大半を失い、一族から疑われるのは一家の恥だとして自刃した。
- 南条高直 北条守時に呼び寄せられ、其の自刃を見届けた。巨福呂坂に戻って援軍を頼むべきとの進言を退け、「大将が既にご自害された上は、士卒は誰の為に命を惜しもうか」と千代塚で切腹し、90名余りが後に続いた。
- 北条貞将 上総国・下総国の軍勢を味方に付けようと鎌倉を発ったが、鶴見川で千葉貞胤・小山秀朝に敗れて鎌倉へ退き、朝比奈坂の守備に就いた。鎌倉攻めでは強固な守備で新田義貞を苦しめたが、巨福呂坂を破られた後、東勝寺で北条高時から御教書を授かって出陣し、敗れて長男の北条忠時と共に自害した。
- 北条貞国 小手指原と久米川で鎌倉幕府軍の総大将を務めた。久米川では奇襲に備えていたが、鶴翼の陣を看破されて本隊を突かれ、分倍河原へ敗走した。
- 北条泰家 小手指原・久米川の敗報を受け、100,000名を率いて分倍河原へ送られ、一度は新田軍を退けた。翌日の急襲では家臣横溝八郎の奮戦で一命を取り留め、霞ノ関でも敗れて鎌倉へ逃れた。
- 横溝八郎 北条泰家の家臣。分倍河原で泰家の命を救い、霞ノ関では安保道潭と共に奮戦して泰家を鎌倉へ逃がし、討死した。
- 北条貞直 勘気を被った本間山城左衛門を蟄居させていたが、其の本間が大舘宗氏の首を持参して目の前で自害すると、涙を流して自らの不明を詫びた。切腹する味方を「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本分」と罵りながら戦い、極楽寺坂で脇屋義助に敗れ、弟の北条宣政・息子の北条顕秀と共に戦死した。
- 本間山城左衛門 北条貞直の部下。勘気を被って蟄居していたが、幕府軍が破られたと聞くと、命令を待たずに中間100名を率いて出陣した。大舘宗氏の30,000名を腰越まで押し返して大舘の首を取り、其の首を持って貞直の陣に馳せ参じ、「此れで多年の御恩に報いる事が出来ました」と言って自害した。
- 長崎高重 長崎高資の嫡男。小手指原では副将を務めた。鎌倉に攻め入った新田軍と戦い、北条高時に帰参まで自害せぬ様にと願った上で、150騎で新田の本陣へ斬り込んだが、首を取れず東勝寺へ退いた。7月4日、東勝寺で自害した。
- 南山和尚 崇寿寺の長老。「武士とは何か。死に臨んでどうあるべきか」と問う長崎高重に、「剣を振るって前進あるのみ」と答えた。
- 北条基時 北条貞顕や安房国・上野国・下野国の御家人と共に仮粧坂を守った。極楽寺坂と巨福呂坂が破られて新田軍が鎌倉に入ると、残り少なくなった家臣と共に自害した。
- 長崎円喜 嫡男の長崎高資や長崎高重・長崎思元・摂津親鑑・諏訪直性らと共に、東勝寺で自害した。
- 安達時顕 北条高時の舅。東勝寺で870名の自害を見届けた上で、高時と共に自害した。
主要な地名・拠点
- 生品神社 現在の群馬県太田市新田市野井町。新田義貞が150騎で挙兵した社。
- 利根川 挙兵した新田義貞の軍が着く頃には、里見氏・鳥山氏等や甲斐国・信濃国の源氏の一族が合流し、7,000騎に膨れ上がっていた。
- 鶴見川 現在の神奈川県横浜市鶴見区。北条貞将が、鎌倉幕府から寝返った千葉貞胤・小山秀朝に敗れた地。
- 小手指原 現在の埼玉県所沢市北野。入間川を渡った新田軍と北条貞国の幕府軍が戦い、新田軍300名・幕府軍500名の戦死者を出した地。
- 八国山 現在の東京都東村山市多摩湖町。小手指原の戦いの後に新田軍が陣を張り、久米川の南岸の幕府軍を奇襲した山。
- 久米川 現在の柳瀬川。南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣した北条貞国の軍が、鶴翼の陣を看破されて敗れた。
- 分倍河原 現在の東京都府中市。6月27日には北条泰家の援軍を得た幕府軍が新田軍を退けたが、翌28日、大多和義勝を先鋒とする新田軍の急襲で幕府軍が敗れた。
- 武蔵国分寺 現在の東京都国分寺市西元町。6月27日の分倍河原の戦いの際に焼失した。
- 霞ノ関 現在の東京都多摩市関戸。多摩川を越えた新田軍70,000名が北条泰家の50,000名を破り、新田が本陣を置いた地。
- 仮粧坂 現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷。新田義貞・脇屋義助らの本隊が攻めた鎌倉の入口。守っていた北条基時は、7月4日に自害した。
- 洲崎 現在の神奈川県鎌倉市寺分・梶原・山崎。堀口貞満・大島守之が攻めた地。6月30日には此の日だけで65回の戦闘が起き、北条守時が自刃した。
- 極楽寺坂切通 現在の神奈川県鎌倉市極楽寺〜由比ヶ浜。大舘宗氏・江田行義が攻めた鎌倉の入口。大舘は此処で首を取られ、7月4日には北条貞直が脇屋義助に敗れて戦死した。
- 巨福呂坂 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下・山ノ内。北条守時が洲崎へ打って出た坂。7月4日に新田軍に突破された。
- 十一人塚 現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎。大舘宗氏の部下10名が自刃し、後に十一面観音の像が建立されて大舘と共に弔われた。
- 稲村ヶ崎 7月2日に新田義貞の軍が聖福寺(現在の神奈川県鎌倉市稲村ガ崎)に布陣した。3日未明に干潮となり、新田軍は其の夜に此処を突破して鎌倉へ攻め入った。
- 北条執権邸 現在の宝戒寺(神奈川県鎌倉市小町)。7月3日の夜、新田軍の放った火の手が迫り、北条一門が東勝寺へ移った。
- 崇寿寺 現在の神奈川県鎌倉市材木座。最後の突撃に向かう長崎高重が、長老の南山和尚に武士の在り方を問うた寺。
- 東勝寺 現在の神奈川県鎌倉市葛西ケ谷。北条一門が最後に集まり、7月4日に家臣等870名(北条家一族283名を含む)と北条高時・安達時顕が自害した、鎌倉幕府終焉の地。
主要な事件・出来事
- 生品神社の挙兵(1,333年6月20日) 新田義貞が倒幕の綸旨を受けて150騎で挙兵し、利根川に着く頃には7,000騎となる。
- 足利義詮の合流(1,333年6月21日) 足利義詮が300名の兵と共に加わり、横山党・児玉党等も続いて、新田軍は20万騎を超える。
- 鶴見川の戦い(1,333年6月22日) 北条貞将が、寝返った千葉貞胤・小山秀朝に敗れて鎌倉へ退く。
- 小手指原の戦い(1,333年6月23日) 入間川を渡った新田軍と北条貞国の幕府軍が戦い、両軍共に疲弊して兵を引く。
- 久米川の戦い(1,333年6月24日) 新田義貞が鶴翼の陣を看破して手薄な本隊を突き、北条貞国を分倍河原へ敗走させる。
- 分倍河原の戦い(1,333年6月27日) 北条泰家の援軍を得た幕府軍が新田軍を退け、武蔵国分寺が焼ける。夜、大多和義勝が8,000騎で寝返る。
- 分倍河原・霞ノ関の戦い(1,333年6月28日) デマを信じて油断した幕府軍を大多和義勝の先鋒が破り、新田軍は霞ノ関でも北条泰家を破る。幕府は鎌倉七口を封鎖する。
- 鎌倉攻めの三手(1,333年6月29日) 新田義貞が軍を仮粧坂・洲崎・極楽寺坂切通の三手に分ける。
- 北条守時の自刃(1,333年6月30日) 65回の戦闘が起きた洲崎で北条守時が自刃し、南条高直と90名余りが後に続く。
- 大舘宗氏の討死(1,333年7月1日) 極楽寺坂で本間山城左衛門の逆襲に遭って首を取られ、本間は北条貞直の前で自害する。
- 極楽寺坂への転進(1,333年7月2日) 北条貞将の守備に苦戦していた新田義貞が、大舘の戦死を聞いて仮粧坂の戦を脇屋義助に任せ、極楽寺坂へ向かう。新田の軍は聖福寺に布陣する。
- 稲村ヶ崎の突破(1,333年7月3日) 未明に干潮となった稲村ヶ崎を夜に新田軍が突破して民家に火を放ち、北条一門は東勝寺に集まる。
- 長崎高重の突撃(1,333年7月3日頃) 南山和尚の答えを得た長崎高重が、150騎で新田の本陣へ斬り込むが、首を取れずに退く。
- 北条貞直の戦死(1,333年7月4日) 極楽寺坂で脇屋義助に敗れ、弟の北条宣政・息子の北条顕秀と共に戦死する。
- 北条基時・北条貞将の自害(1,333年7月4日) 仮粧坂を守った北条基時と、巨福呂坂を破られた北条貞将が自害する。
- 東勝寺の自害と鎌倉幕府の滅亡(1,333年7月4日) 北条家一族を含む870名の自害を見届けた北条高時と安達時顕が自害し、鎌倉幕府が滅ぶ。
稲村ヶ崎が破られ、北条一門は東勝寺に果てた──
鎌倉幕府が滅ぶまでの十五日間を一元化。
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