電子書籍「源頼朝の奥州藤原氏征伐一元化」の表紙

源頼朝の
奥州藤原氏征伐一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,189年7月20日〜1,189年10月19日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
8ページ
最新更新日
西暦2,026年8月7日

三軍編成・石那坂・阿津賀志山合戦・平泉陥落・贄柵の裏切り・首級梟首──
源頼朝の奥州藤原氏殲滅戦三ヶ月を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,189年7月20日、伊豆で一つの寺の普請が始まった。北条時政が主導した願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)である。目的は、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事であった。戦はまだ始まっていない。にも拘らず、勝利を祈る為の寺が先に建ち始める——本書は、此の起工の日を起点として、10月19日、源頼朝が奥州平定の飛脚を京都へ送る日迄の三ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。

8月8日、源頼朝は藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請した。其の翌9日、平泉では藤原泰衡が、源義経の扱いを巡って対立していた藤原秀衡の参男藤原忠衡と五男藤原通衡を殺害している。8月13日、頼朝は大庭景義に諮問し、奥州藤原氏は源氏の家人であるから誅罰に勅許は不要である事、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される事——此の二点の進言を採用した。果たして8月29日、後白河上皇からは、源義経は既に誅せられており、造大神宮の上棟と大仏寺の造営に差し障る為、せめて本年は猶予せよという宣旨が鎌倉に届く。頼朝は大庭の進言を優先し、宣旨無しでの出兵を決定した。

8月30日、頼朝は終日大倉御所(現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目)に籠って征伐計画を練り、軍勢を三手に分けた。頼朝自身を大将軍とし畠山重忠を伴う大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州へ、千葉常胤を大将軍とし八田知家を伴う東海道軍は陸奥国岩城郡から奥州へ、比企能員を大将軍とし宇佐美実政を伴う北陸道軍は越後国から出羽国を経て奥州へ。8月31日に北陸道軍が、9月1日に大手軍が鎌倉を発つ。此の時、梶原景時の仲介によって城長茂の従軍が許され、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の3兄弟や吉見頼綱も出陣した。

9月7日、大手軍は下野国古多橋駅に到着し、宇都宮二荒山神社で戦勝祈願を行う。宿所に入った頼朝へ小山政光が弁当を献上した際、頼朝の前に紺の直垂を着た者が居た。何者かと問う政光に、頼朝は「本朝無双の勇士熊谷直家だ」と答える。結城朝光が其の号の由来を尋ねると、西暦1,184年3月20日の一ノ谷の戦いで父熊谷直実と共に命を顧みず戦ったからだという。之を聞いた政光は、直家の様に郎党を従えぬ者は自身で勲功を挙げねばならないが、自分の様な大名は郎党を派遣して忠義を尽くすだけだと述べ、「皆の者、今度の戦では先頭に進んで自分自身で手柄を立てて、本朝無双の勇士と褒めて頂こうではないか」と、小山朝政・長沼宗政・結城朝光・養子の宇都宮頼綱に命じた。翌8日、常陸国で加わった佐竹秀義が源氏の無地の白旗を持参した為、頼朝の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付けるよう命じられる。此れが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。9月10日には新渡戸駅で城長茂の郎従200名が加勢し、11日、軍は白河関を越えて奥州へ入った。

9月17日、常陸入道念西の四子——長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家が、石那坂で奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破る。18日、大手軍は国見駅に至り、頼朝は明朝の攻撃を命じた。畠山重忠は率いてきた人夫80名に、用意していた鋤と鍬で土砂を運ばせて堀を埋めている。19日6時、畠山重忠・結城朝光・加藤景廉・工藤行光・工藤祐光らが先陣を切って進み、金剛別当秀綱が数千騎を率いて息子の下須房秀方と共に阿津賀志山で迎え撃った。10時、金剛別当は衆寡敵せず大木戸へ退き、藤原国衡に復命する。20日夜、翌朝の合戦を命じられると、工藤行光ら7名が畠山を追い越して山を越えようとした。郎党が前を塞ぐべきだと進言しても、畠山は退けた。先陣は自分が賜っているのだから戦功は全て自分のものになる、況して「一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」と。

9月21日5時、本軍が大木戸を襲撃する。奥州藤原氏は激しく抵抗したが、結城朝光は芳賀高親・益子正重を含む宇都宮朝綱の郎従7名を率い、安籐次を山の案内者として鎧を匹馬に負わせ、藤田宿から会津の方角へ向かい、土湯の嵩・鳥取越を越えて藤原国衡の軍の後陣の居る山に登った。一斉に閧の声を発して矢を放つと、国衡の軍は混乱し、多くの郎従が逃亡する。晴天ではあったが深い霧で周囲は薄暗く、朝露で滑り易く、敵味方の区別も付かなかった。其れでも下須房秀方は留まって防戦し、工藤行光の郎従籐五男と組み合って、幼いながら強力な相手に苦戦させた末に討たれた。金剛別当秀綱は結城に討たれ、大将を失った軍は平泉へ逃げ帰る。藤原泰衡は周章狼狽して平泉を去り、国衡も逃亡した。夕方、大高山神社の付近で国衡は和田義盛と行き合う。戻って戦えと言われた国衡が名乗りながら馬を返し、14束の矢を番える間に、和田の13束の矢が鎧の袖を射抜いて腕に命中した。痛みに構えを解いて逃げようとした所へ畠山重忠の軍勢が到着し、郎従の大串重親が、深田に入って馬の足を捕らわれた国衡の首を取った。

9月22日、船迫宿で国衡の首実検が行われる。首級を献上した畠山が褒詞を賜ると、和田義盛が進み出て、国衡は自分の矢を受けて落命したのであって畠山の手柄ではないと申し立てた。畠山は笑って、殺したという根拠は何か、自分が首を持ち込んだのは事実だと返す。和田は、剥ぎ取った鎧を検めよ、赤糸縅の鎧の左袖の上から二、三枚目の小札に矢の穴がある筈だと言った。取り寄せて調べると、左袖の小札の三枚目の稍後ろに鏨を通した様な跡がある。頼朝は畠山に矢を射たかと問い、否との答えを得て、和田の言は全て一致するから其の通りであろう、但し畠山も本当の事を言っている、清廉な人柄で詐称する様な性格では無いから偽装ではない、畠山は郎従より後に到着した為に和田の矢の事を知らなかったのだ、と裁定した。23日には多賀城国府で東海道軍が合流し、24日、北陸道軍は田川館を襲って田川行文・秋田致文を討ち取り、由利維平を捕らえる。10月2日、頼朝は20,000名を従えて津久毛橋城に到着した。此の時梶原景高が「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠み、頼朝の歓心を買っている。同じ日、藤原泰衡は平泉館に火を放ち、高屋も宝蔵も焼いて逃走した。10月3日16時、雨の中を平泉に入った頼朝が見たのは、既に焼け落ちて人影も無い館であった。焼け残った宝物庫からは、金造りの鶴・象牙の笛・瑠璃の灯篭・金の沓・錦の直垂・銀造りの猫が見つかり、後に戦功を挙げた武士へ与えられた。

10月6日、藤原基成が衣川館で3名の息子と共に降伏し、東胤頼に捕らえられる。翌7日、頼朝の宿所へ泰衡からとされる書簡が届いた。源義経の件は父が援助した事で自分は経緯を知らない、父の死後は命令通り義経を誅したのだから勲功に当たる筈であり、罪無くして征伐を受けるのは如何なる所存か、奥羽両国が既に支配下にある以上、罪を許して御家人に列せられたい、それが叶わぬなら死を免じて遠流に処して欲しい、返事を頂けるなら比内郡辺りに返書を放置して欲しい——と。返事は無かった。10月14日未明、蝦夷へ向かう途上で比内郡贄柵に立ち寄った泰衡は、領主河田次郎の裏切りによって殺害される。17日、河田は陣ヶ岡へ首級を差し出したが、頼朝は「泰衡は既に我が掌中に収まっている。何ぞ汝如きの手を借りようや。汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」として八虐の罪に値するとし、河田を斬罪に処した。泰衡の首級は、西暦1,062年10月22日に源頼義が安倍貞任を梟首とした先例に倣い、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けられて柱に懸けられる。其の後首級は平泉に戻され、近親者の手で黒漆塗りの首桶に納められて、藤原清衡・藤原基衡・藤原秀衡と共に中尊寺金色堂へ収められた。18日には由利維平を巡る争論があり、梶原景時の無礼な尋問に由利が激怒した為、頼朝は非を認めて畠山重忠に改めて尋問させ、最後には由利を赦免している。そして10月19日、奥州平定の飛脚が京都へ発った。願成就院の鍬入れから数えて、丁度三ヶ月であった。


登場人物

  • 源頼朝 本書の中心人物。鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1,189年8月8日に藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請し、8月29日には後白河上皇の猶予の宣旨を退けて宣旨無しでの出兵を決定、8月30日に大倉御所で軍勢を三手に分けた。9月1日に大手軍を率いて鎌倉を発ち、9月22日には船迫宿で藤原国衡の首実検と和田義盛・畠山重忠の争論を裁定、10月3日に平泉へ入り、10月17日に藤原泰衡の首級を梟首させ、10月19日、奥州平定の飛脚を京都に送った。
  • 北条時政 源頼朝の舅。西暦1,189年7月20日、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図し、願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)の建設着工を主導した、本書の起点を作った人物。
  • 大庭景義 西暦1,189年8月13日、奥州藤原氏征伐に関して源頼朝の諮問を受け、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要である事、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される事の2点を進言し、採用された。8月29日に後白河上皇の猶予の宣旨が届いた際も此の進言が優先され、宣旨無しでの出兵が決まった、本書の理論武装を担った人物。
  • 後白河上皇 西暦1,189年8月29日、藤原泰衡征伐に関し、源義経は既に誅せられており、造大神宮の上棟と大仏寺の造営に差し障る為、せめて本年は猶予せよとの宣旨を鎌倉へ送った。しかし源頼朝は大庭景義の進言を優先し、宣旨無しでの出兵を決定した。
  • 畠山重忠 大手軍の副将。西暦1,189年9月18日の国見駅到着に際し、率いてきた人夫80名に鋤と鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。9月20日には先陣を越そうとする7名を止めるべきだという郎党の進言を退け、「一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」と説いた。9月21日には郎従の大串重親が藤原国衡の首を取り、翌22日の首実検での和田義盛との争論では、源頼朝に「清廉な人柄で詐称する様な性格では無い」と評された。10月18日には由利維平への尋問役も務めた、本書の武士道の体現者。
  • 千葉常胤 東海道軍の大将軍。西暦1,189年8月30日の作戦立案にて、陸奥国岩城郡から奥州へ進軍する東海道軍の大将軍に任じられた。9月23日、八田知家・小田知重と共に多賀城国府で大手軍に合流した。
  • 比企能員 北陸道軍の大将軍。西暦1,189年8月30日の作戦立案にて、越後国から出羽国を経由し奥州へ進軍する北陸道軍の大将軍に任じられ、8月31日、三軍の先頭を切って鎌倉を出発した。9月24日には田川館を襲撃して田川行文・秋田致文を討ち取り、10月15日に陣ヶ岡で本軍と合流した。
  • 宇佐美実政 比企能員と共に北陸道軍を率いた武将。西暦1,189年9月24日の田川館襲撃で由利維平を捕縛した。10月18日、由利を引き連れて陣ヶ岡に到着した所、天野則景が自分が生け捕ったと主張して争論となり、由利本人の証言によって捕縛者と認められた。
  • 結城朝光 小山政光の参男。西暦1,189年9月7日の宇都宮では、源頼朝に熊谷直家の勇士の号の由来を尋ねた。9月19日の阿津賀志山への先陣に加わり、9月21日の大木戸襲撃では、芳賀高親・益子正重を含む宇都宮朝綱の郎従7名を率いて藤田宿から土湯の嵩・鳥取越を経て藤原国衡の軍の後陣へ迂回、閧の声と矢で国衡軍を混乱させ、金剛別当秀綱を討ち取った、阿津賀志山合戦最大の功労者。
  • 小山政光 小山朝政・長沼宗政・結城朝光の父。西暦1,189年9月7日、宇都宮の源頼朝に弁当を献上した際、熊谷直家を「本朝無双の勇士」と評する頼朝の言葉を聞き、郎党を持たぬ者と大名の在り方を論じた上で、息子達と養子の宇都宮頼綱に「今度の戦では先頭に進んで自分自身で手柄を立てて、本朝無双の勇士と褒めて頂こうではないか」と命じた、武士の心構えを説いた人物。
  • 熊谷直家 熊谷直実の息子。西暦1,189年9月7日、宇都宮で紺の直垂の上下を着て源頼朝の前に居り、頼朝から「本朝無双の勇士」と評された。西暦1,184年3月20日の一ノ谷の戦いで父直実と共に命を顧みず戦った事が、其の号の由来である。
  • 佐竹秀義 西暦1,189年9月8日、常陸国で大手軍に加わった際、源氏の無地の白旗を持参した為、源頼朝の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付けるよう命じられた。此の出来事が、佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。
  • 常陸入道念西 常陸国の武将。伊達氏の祖とされる。西暦1,189年9月17日、長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家を率いて石那坂で奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破った、征伐で鎌倉方が挙げた最初の勝利の主。
  • 佐藤基治 奥州藤原氏の家臣。西暦1,189年9月17日、石那坂にて常陸入道念西の4人の息子に破られた、本書で最初に敗れた奥州藤原氏方の武将。
  • 金剛別当秀綱 奥州藤原氏の武将。西暦1,189年9月19日、数千騎を率いて息子の下須房秀方と共に阿津賀志山で鎌倉幕府軍を迎え撃ったが、10時、衆寡敵せず大木戸へ退却して藤原国衡に復命した。9月21日の大木戸襲撃で結城朝光に討たれ、大将を失った軍は平泉へ逃げ帰った。
  • 下須房秀方 金剛別当秀綱の息子。西暦1,189年9月21日の大木戸襲撃で軍が崩れる中も留まって防戦し、名を問われても答えぬ儘、工藤行光の郎従籐五男と組み合った。幼いながらも強力で相手を苦戦させたが、最後には討たれた。
  • 藤原泰衡 奥州藤原氏第4代当主。西暦1,189年8月9日、源義経の扱いを巡って対立していた弟の藤原忠衡・藤原通衡を殺害した。9月21日に平泉から逃亡、10月2日には平泉館・高屋・宝蔵に火を放って逃走し、10月7日には御家人に列せられたい、叶わぬなら遠流にとの書簡を源頼朝へ送るも返事は無かった。10月14日未明、蝦夷へ向かう途上の比内郡贄柵で、領主河田次郎の裏切りにより殺害された、本書最大の追討対象。
  • 藤原国衡 藤原秀衡の長男。藤原泰衡の異母兄。阿津賀志山の大木戸を守る奥州藤原氏の軍事的中核であった。西暦1,189年9月21日、結城朝光の迂回攻撃で軍が崩れた為に逃亡、夕方、大高山神社の付近で和田義盛と遭遇し、14束の矢を番える間に和田の13束の矢で鎧の袖を射抜かれて腕に命中、深田で馬の足を捕らわれた所を畠山重忠の郎従大串重親に討たれた。
  • 和田義盛 鎌倉幕府御家人、侍所別当。西暦1,189年9月21日夕方、大高山神社の付近で藤原国衡と遭遇し、13束の矢で国衡の鎧の袖を射抜いて腕に命中させた。翌22日の船迫宿での首実検では、国衡は自分の矢で落命したのだと畠山重忠と争い、赤糸縅の鎧の左袖に残る矢の跡によって其の言が裏付けられた。10月17日には藤原泰衡の首級の確認にも立ち会った。
  • 大串重親 畠山重忠の郎従。西暦1,189年9月21日夕方、深田に入って馬の足を捕らわれた藤原国衡を襲い、其の首を取って畠山に渡した、本書最大の殊勲者の1人。
  • 藤原基成 奥州藤原氏の姻戚であり、藤原泰衡の母方の祖父。西暦1,189年10月6日、衣川館に於いて3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛された。
  • 梶原景高 梶原景時の弐男。西暦1,189年10月2日、源頼朝が20,000名の兵を従えて津久毛橋城に到着した際、「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠んで、源の歓心を買った人物。
  • 河田次郎 比内郡贄柵の領主。西暦1,189年10月14日未明、蝦夷へ向かう途上で立ち寄った藤原泰衡を裏切って殺害した。10月17日、陣ヶ岡へ首級を差し出したが、源頼朝は「汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」として八虐の罪に値するとし、斬罪に処した。
  • 由利維平 奥州藤原氏の郎従。西暦1,189年9月24日の田川館襲撃で宇佐美実政に捕縛された。10月18日、陣ヶ岡での争論に際し、梶原景時の無礼な物言いに対して「亡き御館藤原泰衡は藤原秀郷将軍嫡流の正統」「鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事」と激怒して返答を拒んだ。源頼朝は無礼を認めて畠山重忠に尋問させ、由利は「宇佐美実政」と答え、最終的に赦免された、敗将の誇りを示した人物。

主要な地名・拠点

  • 願成就院 現在の静岡県伊豆の国市寺家。西暦1,189年7月20日、北条時政主導で、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図して建設に着工された寺院、本書の起点。
  • 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目。鎌倉幕府の本拠。西暦1,189年8月30日、源頼朝が終日此処で奥州藤原氏征伐計画を練り、大手軍・東海道軍・北陸道軍の三軍編成を決定した、作戦立案の中枢。
  • 宇都宮二荒山神社 現在の栃木県宇都宮市馬場通り。西暦1,189年9月7日、下野国古多橋駅に到着した大手軍の源頼朝が戦勝祈願を行った地。小山政光の弁当献上と、熊谷直家の「本朝無双の勇士」を巡る問答の舞台。
  • 新渡戸駅 杉渡土(現在の栃木県那須塩原市越堀)・寒井(現在の栃木県大田原市)付近。西暦1,189年9月10日、大手軍が到着し、城長茂の郎従200名が加勢した地。
  • 白河関 現在の福島県白河市旗宿。奥州への関門。西暦1,189年9月11日、源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が通過した地。
  • 石那坂 現在の福島県福島市平石。西暦1,189年9月17日、常陸入道念西の4人の息子である伊佐為宗・伊達宗村・中村資綱・伊達為家が、奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破った地、本書最初の戦場。
  • 阿津賀志山 現在の福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山。西暦1,189年9月19日から21日にかけて展開された、本書最大の合戦地。金剛別当秀綱と藤原国衡が大木戸で守ったが、結城朝光の迂回によって背後を衝かれ崩れた、本書の中心戦場。
  • 大高山神社 現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬台部。西暦1,189年9月21日夕方、出羽街道から大関山を越えようとした藤原国衡が和田義盛と遭遇し、13束の矢を鎧の袖に受けた地。畠山重忠の郎従大串重親が国衡の首を取った舞台。
  • 船迫宿 現在の宮城県柴田郡柴田町本船迫下町。西暦1,189年9月22日、源頼朝一行が到着し、藤原国衡の首実検が行われた地。和田義盛と畠山重忠の争論と、源頼朝の裁定の舞台。
  • 多賀城国府 陸奥国の国府。西暦1,189年9月23日、源頼朝一行が到着し、千葉常胤・八田知家・小田知重を含む東海道軍が大手軍に合流した地。
  • 田川館 西暦1,189年9月24日、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が襲撃した奥州藤原氏方の館。田川行文・秋田致文が討ち取られて斬首・梟首され、由利維平が捕縛された、北陸道軍の主要戦果の地。
  • 津久毛橋城 現在の宮城県栗原市金成。西暦1,189年10月2日、源頼朝が20,000名の兵を従えて到着し、梶原景高が「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠んだ地。
  • 平泉館 現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所。奥州藤原氏の本拠館。西暦1,189年10月2日、藤原泰衡が自ら火を放って逃走し、10月3日16時、雨の中を到着した源頼朝の前には、既に焼け落ちて人影も無い跡が残るのみであった。
  • 衣川館 藤原基成の居館。源義経が自害した館としても知られる。西暦1,189年10月6日、藤原基成が3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛された地。
  • 比内郡贄柵 現在の秋田県大館市二井田贄ノ里。西暦1,189年10月14日未明、蝦夷(現在の北海道・樺太)へ向かう途上の藤原泰衡が立ち寄り、領主河田次郎の裏切りによって殺害された地、奥州藤原氏最後の当主の終焉の地。
  • 陣ヶ岡 現在の岩手県紫波郡紫波町宮手。西暦1,189年10月15日、源頼朝一行が北陸道軍と合流した地。10月17日には河田次郎が藤原泰衡の首級を差し出して斬罪に処され、首級が梟首された。10月18日には由利維平を巡る争論も此処で行われた、本書の決着の地。
  • 中尊寺金色堂 現在の岩手県西磐井郡平泉町。梟首の後に平泉へ戻された藤原泰衡の首級が、近親者の手により黒漆塗りの首桶に入れられ、藤原清衡・藤原基衡・藤原秀衡と共に納められた地、奥州藤原氏四代の終着点。

主要な事件・出来事

  • 願成就院の建設着工 西暦1,189年7月20日、北条時政主導で、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図し、願成就院の建設に着工した、本書の起点。
  • 藤原泰衡征伐の宣旨要請 西暦1,189年8月8日、源頼朝が藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請した、朝廷を通じた正当化の試み。
  • 藤原忠衡・藤原通衡の殺害 西暦1,189年8月9日、藤原泰衡が、源義経の扱いを巡って対立していた藤原秀衡の参男藤原忠衡と五男藤原通衡を殺害した、奥州藤原氏内部の動揺を示す事件。
  • 大庭景義の進言と宣旨無しの出兵決定 西暦1,189年8月13日、源頼朝が大庭景義に諮問し、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要である事、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される事の2点の進言を採用した。8月29日、後白河上皇から、源義経は既に誅せられており、造大神宮の上棟と大仏寺の造営に差し障る為、せめて本年は猶予せよとの宣旨が届いたが、大庭の進言を優先して宣旨無しでの出兵が決定された、鎌倉幕府独自の軍事権の象徴的瞬間。
  • 三軍編成と鎌倉出発 西暦1,189年8月30日、源頼朝が大倉御所で終日征伐計画を練り、軍勢を源頼朝(大将軍)・畠山重忠の大手軍(鎌倉街道中路→下野国→奥州)、千葉常胤(大将軍)・八田知家の東海道軍(陸奥国岩城郡→奥州)、比企能員(大将軍)・宇佐美実政の北陸道軍(越後国→出羽国→奥州)の三手に分けた。8月31日に北陸道軍、9月1日に大手軍が鎌倉を出発し、梶原景時の仲介で城長茂の従軍も許された。
  • 宇都宮での熊谷直家問答 西暦1,189年9月7日、下野国古多橋駅に到着した大手軍が宇都宮二荒山神社で戦勝祈願を行った後、小山政光が源頼朝に弁当を献上した。源が熊谷直家を「本朝無双の勇士」と評し、其の由来が西暦1,184年3月20日の一ノ谷の戦いにある事を聞いた政光は、小山朝政・長沼宗政・結城朝光・養子の宇都宮頼綱に、先頭に進んで自分自身で手柄を立てる様命じた。
  • 佐竹氏の家紋の由来 西暦1,189年9月8日、大手軍が宇都宮を出発して常陸国に入り佐竹秀義を加えた際、佐竹が源氏の無地の白旗を持参した為、源頼朝の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付けるよう命じられた。此の出来事が、佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。
  • 石那坂の戦い 西暦1,189年9月17日、常陸入道念西の長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家が、石那坂にて奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破った、鎌倉方が挙げた最初の勝利。
  • 阿津賀志山の初戦 西暦1,189年9月18日、大手軍が国見駅に到着し、畠山重忠が人夫80名に鋤と鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。翌19日6時、畠山重忠・結城朝光・加藤景廉・工藤行光・工藤祐光等が先陣を切って進軍し、金剛別当秀綱が数千騎を率いて息子の下須房秀方と共に阿津賀志山で迎え撃ったが、10時、衆寡敵せず大木戸へ退却した。
  • 畠山重忠の武士道発言 西暦1,189年9月20日夜、工藤行光・工藤祐光・三浦義村・葛西清重・狩野親光・藤沢清近・河村秀清の7名が畠山重忠を追い越して阿津賀志山を越えようとした。郎党が前を塞ぐ様進言したが、畠山は、先陣は自分が賜っているのだから戦功は全て自分のものになるとした上で、「一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」と退けた、本書の武士道理念の象徴的場面。
  • 大木戸襲撃と結城朝光の迂回 西暦1,189年9月21日5時、工藤行光・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・加藤景廉・下河辺行平・三浦義澄・三浦義村・佐原義連・葛西清重・和田義盛等が大木戸を襲撃した。結城朝光は芳賀高親・益子正重を含む宇都宮朝綱の郎従7名を率い、安籐次を山の案内者として鎧を匹馬に負わせ、藤田宿から会津の方角へ向かい、土湯の嵩・鳥取越を越えて藤原国衡の軍の後陣の居る山に登り、一斉に閧の声を発して矢を放った。深い霧と朝露の中で国衡軍は混乱し、下須房秀方は工藤行光の郎従籐五男に討たれ、金剛別当秀綱は結城に討たれ、藤原泰衡は平泉から、藤原国衡も其々逃亡した、阿津賀志山合戦の決定打。
  • 藤原国衡討伐 西暦1,189年9月21日夕方、大高山神社の付近で、出羽街道から大関山を越えようとした藤原国衡が和田義盛と遭遇した。互いに敵を左手に見て、国衡が14束の矢を番える間に和田が13束の矢を放ち、鎧の袖を射抜いて腕に命中させた。逃げようとする所へ畠山重忠の軍勢が到着し、郎従の大串重親が、深田で馬の足を捕らわれた国衡の首を取って畠山に渡した、奥州藤原氏の軍事的中核の消滅。
  • 船迫宿の首実検と和田・畠山の争論 西暦1,189年9月22日、船迫宿での藤原国衡の首実検に際し、和田義盛が、国衡は自分の矢を受けて落命したのであり畠山重忠の手柄では無いと申し立て、畠山は殺したという根拠は何かと反論した。和田が赤糸縅の鎧の左袖の上から二、三枚目の小札に矢の跡がある筈だと述べ、源頼朝が鎧を検めると三枚目の稍後ろに鏨を通した様な跡があった。源は和田の言が全て一致する事を認めつつ、畠山は清廉な人柄で詐称する様な性格では無く、郎従より後に到着した為に矢の事を知らなかったのだと裁定した、武将の名誉と事実を巡る象徴的場面。
  • 東海道軍の合流と田川館襲撃 西暦1,189年9月23日、源頼朝一行が多賀城国府に到着し、千葉常胤・八田知家・小田知重を含む東海道軍が大手軍に合流した。翌24日、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が田川館を襲撃し、田川行文・秋田致文を討ち取って斬首・梟首、由利維平を捕縛した。25日には物見岡で鎌倉幕府軍と奥州藤原氏の合戦も発生している。
  • 梶原景高の和歌と平泉館の自焼 西暦1,189年10月2日、源頼朝が20,000名の兵を従えて津久毛橋城に到着した際、梶原景高が「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠んで源の歓心を買った。同日、藤原泰衡は平泉館に火を放ち、高屋や宝蔵も焼いて逃走した、奥州藤原氏の本拠の自焼。
  • 平泉到着と宝物の発見 西暦1,189年10月3日16時、雨の降る中、源頼朝一行が平泉に到着した。平泉館は既に焼け落ちて人影も無く、源は藤原泰衡の捜索を命じた。焼け残った宝物庫からは金造りの鶴・象牙の笛・瑠璃の灯篭・金の沓・錦の直垂・銀造りの猫が見つかり、後に戦功を挙げた武士へ与えられた、奥州藤原氏の栄華の残照。
  • 藤原基成の降伏 西暦1,189年10月6日、藤原基成が衣川館に於いて3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛された。
  • 藤原泰衡の嘆願書簡 西暦1,189年10月7日、源頼朝の宿所に藤原泰衡からとされる書簡が届いた。源義経の件は父が援助した事で自分は経緯を知らず、父の死後は命令通り義経を誅したのだから勲功に当たる筈であり、罪無くして征伐を受けるのは如何なる所存か、罪を許して御家人に列せられたい、叶わぬなら死を免じて遠流に処して欲しい、返事を頂けるなら比内郡辺りに返書を放置して欲しい、という内容であった、泰衡最後の交渉の試み。
  • 贄柵での藤原泰衡殺害 西暦1,189年10月14日未明、藤原泰衡が蝦夷(現在の北海道・樺太)へ向かう途上、比内郡贄柵に立ち寄った際、領主の河田次郎の裏切りにより殺害された、奥州藤原氏第4代当主の最期。
  • 藤原泰衡の首級梟首と河田次郎の斬罪 西暦1,189年10月17日、河田次郎が陣ヶ岡に到着して藤原泰衡の首級を差し出し、和田義盛・畠山重忠が囚われていた赤田次郎に首級を見せて相違無い事を確認した。源頼朝は「汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」として八虐の罪に値するとし、河田を斬罪に処した。泰衡の首級は、西暦1,062年10月22日に源頼義が安倍貞任を梟首とした事に倣い、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けられて柱に懸けられ梟首された後、平泉に戻されて黒漆塗りの首桶に入れられ、藤原清衡・藤原基衡・藤原秀衡と共に中尊寺金色堂に納められた。
  • 由利維平の抗弁 西暦1,189年10月18日、宇佐美実政が由利維平を引き連れて陣ヶ岡に到着した所、天野則景が自分が生け捕ったと主張して争論となった。源頼朝の指示で梶原景時が尋問を試みたが、其の物言いに由利は「亡き御館藤原泰衡は藤原秀郷将軍嫡流の正統」「鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事」と激怒して返答を拒んだ。源は無礼を認めて畠山重忠に代わって尋問させ、由利は「宇佐美実政」と答え、最終的に赦免された、敗将の誇りと源頼朝の度量を示す場面。
  • 奥州平定の飛脚 西暦1,189年10月19日、源頼朝が奥州平定の飛脚を京都に送った、奥州藤原氏の滅亡と鎌倉幕府による奥羽支配の確立を告げる、本書の終着点。

鎌倉から平泉、そして陣ヶ岡へ──
源頼朝が三軍を発して奥州藤原氏を滅ぼす迄の三ヶ月を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeニコニコでも情報を発信中。