源頼朝の奥州藤原氏征伐一元化
本書について
西暦1189年7月、北条時政主導で奥州藤原氏征伐の達成を祈願する願成就院の建設が着工された日から、西暦1189年10月、比内郡贄柵で藤原泰衡が河田次郎に裏切られて殺害され、陣ヶ岡で首級が梟首され、源頼朝が奥州平定の飛脚を京都に送った日まで。本書は、源義経自害直後から開始された、鎌倉幕府による奥州藤原氏殲滅戦を、大手軍・東海道軍・北陸道軍の三軍編成から石那坂・阿津賀志山の合戦、平泉陥落、藤原泰衡の最期迄、約3箇月間の戦局を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。
西暦1189年7月20日、北条時政主導で奥州藤原氏征伐の達成を祈願する願成就院の建設が着工された。8月8日、源頼朝は藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請、8月9日には藤原泰衡が源義経の扱いを巡って対立していた藤原秀衡の参男藤原忠衡・五男藤原通衡を殺害した。8月13日、源頼朝が大庭景義に諮問し、「奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要」「戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される」との進言を採用した。8月29日、後白河上皇から「源義経は既に誅せられており、造大神宮の上棟・大仏寺の造営に差し障る為、本年は猶予せよ」との宣旨が届くも、大庭の進言を優先し宣旨無しでの出兵を決定した。8月30日、大倉御所にて作戦会議が行われ、軍勢を源頼朝・畠山重忠率いる大手軍(鎌倉街道中路→下野国→奥州)、千葉常胤・八田知家率いる東海道軍(陸奥国岩城郡→奥州)、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍(越後国→出羽国→奥州)の三手に分け、8月31日に北陸道軍が、9月1日に大手軍が鎌倉を出発した。
西暦1189年9月7日、大手軍が下野国古多橋駅に到着、宇都宮二荒山神社で戦勝祈願を行った。小山政光が弁当を献上した際、源頼朝の前にいた熊谷直家を「本朝無双の勇士」と評した事を聞いた政光は、自身の息子達(小山朝政・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱)に先頭に進んで手柄を立てる様命じた。9月8日、常陸国で佐竹秀義が源氏の白旗を持参した為、源の旗と区別出来る様扇を旗の上に付ける様命じられ、此れが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。9月10日新渡戸駅にて城長茂の郎従200名が加勢、9月11日白河関通過。9月17日、常陸入道念西の長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家が石那坂にて奥州藤原氏家臣佐藤基治を破った。9月19日6時、畠山重忠・結城朝光・加藤景廉・工藤行光・工藤祐光等が阿津賀志山に進軍、金剛別当秀綱率いる数千騎と対戦、10時に金剛別当は大木戸に退却した。9月20日夜、畠山は工藤行光等7名が先陣を越そうとするのを郎党が止めようとした際、「一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」と制した。
西暦1189年9月21日5時、大木戸襲撃が開始された。結城朝光は芳賀高親・益子正重等を率い、安藤次を案内者として藤田宿から会津方面・土湯の嵩・鳥取越を経て藤原国衡の軍の後陣に迂回、一斉に閧の声を発し矢を放って国衡軍を混乱させた。下須房秀方は工藤行光の郎従籐五男に殺害され、金剛別当秀綱は結城に殺害され、泰衡は平泉から、国衡も逃亡した。夕方、大高山神社付近で和田義盛が国衡と遭遇、13束の矢で国衡の鎧の袖を射抜き腕に命中させ、畠山重忠の郎従大串重親が深田に足を取られた国衡の首を取った。9月22日船迫宿での首実検で和田が「藤原は私の矢で落命した、畠山の手柄では無い」と主張した際、源頼朝は鎧の左袖の矢の跡を確認し「畠山は清廉な人柄で詐称する様な性格では無い」として問題にしなかった。9月23日多賀城国府到着、東海道軍合流、9月24日北陸道軍が田川館を襲撃し田川行文・秋田致文を討ち取り由利維平を捕縛、10月2日、源頼朝は20,000名を率いて津久毛橋城に到着、梶原景高が「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠み源の歓心を買った。同日、藤原泰衡は平泉館・高屋・宝蔵に火を放って逃走、10月3日に源が平泉に到着、焼け残った宝物庫から金造りの鶴・象牙の笛・瑠璃の灯篭・金の沓・錦の直垂・銀造りの猫が発見された。10月6日藤原基成が衣川館にて降伏、10月14日未明、蝦夷へ向かう途上の藤原泰衡が比内郡贄柵にて河田次郎の裏切りで殺害された。10月17日、首級を差し出した河田は「旧恩に背き反逆を敢てするとは許し難い」として斬罪、泰衡の首級は眉間に八寸の鉄釘を打ち付けられて梟首された後、藤原清衡・基衡・秀衡と共に中尊寺金色堂に納められた。10月18日、由利維平捕縛を巡る争論時、梶原景時の無礼な尋問に由利は「鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事」と激怒、畠山重忠の代わりの尋問で「宇佐美実政」と答え、源は由利を赦免した。10月19日、源頼朝が奥州平定の飛脚を京都に送り、奥州藤原氏は滅亡した。
登場人物
- 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。本書の最高司令官。西暦1189年8月8日に藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請、8月29日に宣旨無しでの出兵を決定、8月30日に軍勢を三手に分けた。9月1日に大手軍を率いて鎌倉を出発、10月3日に平泉到着、10月17日に藤原泰衡の首級を梟首し、10月19日に奥州平定の飛脚を京都に送った。
- 北条時政 源頼朝の舅。西暦1189年7月20日、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図し、願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)の建設着工を主導した、本書の宗教的・政治的起点を作った人物。
- 畠山重忠 大手軍の副将。西暦1189年9月18日の国見駅到着時に人夫80名に鋤と鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。9月20日には先陣越えを図る郎党に対し「一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」と説いた。9月21日には郎従大串重親が藤原国衡の首を取り、9月22日の首実検での和田義盛との争論は源頼朝に「清廉な人柄で詐称する様な性格では無い」と評された、本書の武士道の体現者。
- 大庭景義 源頼朝の諮問官。西暦1189年8月13日、奥州藤原氏征伐に関し源頼朝に諮問され、「奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要である」「戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される」との2点を進言、宣旨無しでの出兵を正当化する理論武装を提供した人物。
- 後白河上皇 治天の君。西暦1189年8月29日、藤原泰衡征伐に関し「源義経は既に誅せられており、造大神宮の上棟・大仏寺の造営に差し障る為、せめて本年は猶予せよ」との宣旨を鎌倉に送ったが、源頼朝は大庭景義の進言を優先し宣旨無しでの出兵を決定した。
- 千葉常胤 東海道軍の大将軍。西暦1189年8月30日の作戦会議にて、陸奥国岩城郡から奥州へ進軍する東海道軍の大将軍に任じられた。9月23日に源頼朝の大手軍と多賀城国府で合流した。
- 比企能員 北陸道軍の大将軍。西暦1189年8月30日の作戦会議にて、越後国から出羽国を経由し奥州へ進軍する北陸道軍の大将軍に任じられた。8月31日に鎌倉を出発、9月24日には田川館を襲撃し田川行文・秋田致文を討ち取り由利維平を捕縛した。
- 宇佐美実政 比企能員と共に北陸道軍を率いた武将。西暦1189年9月24日の田川館襲撃時に由利維平を捕縛した。10月18日、陣ヶ岡にて天野則景の「私が由利を生け捕りにした」との主張に対し争論となった。
- 結城朝光 小山政光の参男。西暦1189年9月7日の宇都宮到着時、源頼朝に熊谷直家の勇士号の由来を尋ねた。9月21日の大木戸襲撃では、芳賀高親・益子正重等を率い、安藤次を案内者として藤田宿から会津方面・土湯の嵩・鳥取越を経て藤原国衡の軍の後陣に迂回、一斉に閧の声を発し矢を放って国衡軍を混乱させ、金剛別当秀綱を殺害した、阿津賀志山合戦最大の功労者。
- 小山政光 結城朝光・小山朝政・長沼宗政の父。西暦1189年9月7日、宇都宮到着の源頼朝に弁当を献上した際、熊谷直家を「本朝無双の勇士」と評した源の発言を聞き、息子達(小山朝政・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱)に「先頭に進んで自分自身で手柄を立てて、本朝無双の勇士と褒めて頂こう」と命じた、宇都宮での武士の心構えを説いた人物。
- 熊谷直家 熊谷直実の息子。西暦1189年9月7日、宇都宮の源頼朝の前に紺の直垂の上下を着て居り、源から「本朝無双の勇士」と評された。西暦1184年3月20日の一ノ谷の戦いで父熊谷直実と共に命を顧みず戦った事が其の由来。
- 佐竹秀義 常陸源氏。西暦1189年9月8日、大手軍に加勢した際、源氏の無地の白旗を持参したが、源頼朝の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付ける様命じられた。此の出来事が佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。
- 常陸入道念西 常陸国の武将。伊達氏の祖。西暦1189年9月17日、長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家を率いて石那坂にて奥州藤原氏家臣佐藤基治を破った、奥州征伐の最初の勝利を挙げた武将。
- 伊達宗村 常陸入道念西の弐男。後の伊達氏の祖。西暦1189年9月17日、兄弟と共に石那坂にて佐藤基治を破った。
- 佐藤基治 奥州藤原氏の家臣。西暦1189年9月17日、石那坂にて常陸入道念西の長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家に破られた、奥州藤原氏側の最初の戦死者。
- 金剛別当秀綱 奥州藤原氏の武将。西暦1189年9月19日、数千騎を率い息子下須房秀方と共に阿津賀志山で迎え撃ったが、衆寡敵せず大木戸に退却した。9月21日の大木戸襲撃で結城朝光に殺害された。
- 下須房秀方 金剛別当秀綱の息子。西暦1189年9月21日の大木戸襲撃時、敗勢の中も留まって防戦したが、工藤行光の郎従籐五男と組み合い、幼いながらも強力であった為苦戦させたものの、最終的に殺害された。
- 藤原泰衡 奥州藤原氏第4代当主。西暦1189年8月9日に兄弟の藤原忠衡・藤原通衡を殺害、9月21日には平泉から逃亡、10月2日に平泉館・高屋・宝蔵に火を放って逃走、10月7日に「義経の件は父秀衡の仕業で私は知らない、御家人に列するか遠流に」との嘆願書簡を送ったが叶わず、10月14日未明、蝦夷へ向かう途上の比内郡贄柵にて河田次郎の裏切りで殺害された、本書の最大の追討対象。
- 藤原国衡 藤原秀衡の長男(母は側室)。藤原泰衡の異母兄。阿津賀志山の大木戸を守備した奥州藤原氏の軍事指導者。西暦1189年9月21日、結城朝光の迂回攻撃で軍が崩れた為逃亡、夕方に大高山神社付近で和田義盛と遭遇、13束の矢で鎧の袖を射抜かれて腕に命中、深田で足を取られた所を畠山重忠の郎従大串重親に首を取られた。
- 大串重親 畠山重忠の郎従。西暦1189年9月21日、深田で足を取られた藤原国衡を襲撃し首を取った。首級を畠山重忠に渡した、奥州征伐最大の殊勲者の1人。
- 和田義盛 鎌倉幕府御家人、侍所別当。西暦1189年9月21日夕方、大高山神社付近で藤原国衡と遭遇し、13束の矢で国衡の鎧の袖を射抜き腕に命中させた。9月22日の船迫宿での首実検の際、「藤原は私の矢を受けて落命した、畠山の手柄では無い」と畠山重忠と論争、鎧の矢跡で主張の正しさが証明された。
- 藤原基成 奥州藤原氏の公卿。藤原泰衡の母方の祖父であり衣川館の館主。西暦1189年10月6日、衣川館にて3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛された。
- 梶原景高 梶原景時の弐男。西暦1189年10月2日、源頼朝が20,000名を率いて津久毛橋城に到着した際、「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠み、源の歓心を買った人物。
- 河田次郎 比内郡贄柵の領主。西暦1189年10月14日未明、蝦夷へ向かう途上で立ち寄った藤原泰衡を裏切って殺害した。10月17日、泰衡の首級を陣ヶ岡に差し出したが、源頼朝は「旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」と八虐の罪に値するとして斬罪に処された、裏切り者。
- 由利維平 奥州藤原氏の郎従。西暦1189年9月24日に田川館襲撃で宇佐美実政に捕縛された。10月18日、陣ヶ岡にて梶原景時の無礼な尋問に対し「亡き御館藤原泰衡は藤原秀郷将軍嫡流の正統」「鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事」と激怒、畠山重忠の代わりの尋問で「宇佐美実政」と答えた。源頼朝は無礼を認め由利を赦免した、敗将の誇りを示した人物。
主要な地名・拠点
- 願成就院 現在の静岡県伊豆の国市寺家。西暦1189年7月20日、北条時政主導で、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図して建設着工された寺院。本書の宗教的起点。
- 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目。鎌倉幕府の本拠。西暦1189年8月30日、源頼朝が終日此処にて奥州藤原氏征伐計画を練り、大手軍・東海道軍・北陸道軍の三軍編成を決定した、作戦立案の中枢。
- 宇都宮二荒山神社 現在の栃木県宇都宮市馬場通り。西暦1189年9月7日、大手軍の源頼朝が戦勝祈願を行った地。小山政光の弁当献上と熊谷直家の「本朝無双の勇士」議論の舞台。
- 新渡戸駅 杉渡土(現在の栃木県那須塩原市越堀)・寒井(現在の栃木県大田原市)付近。西暦1189年9月10日、大手軍が到着し、城長茂の郎従200名が加勢した地。
- 白河関 現在の福島県白河市旗宿。奥州への関門。西暦1189年9月11日、大手軍が通過した地。
- 石那坂 現在の福島県福島市平石。西暦1189年9月17日、常陸入道念西の4人の息子(伊佐為宗・伊達宗村・中村資綱・伊達為家)が奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破った地。奥州征伐の最初の激戦地。
- 阿津賀志山 現在の福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山。西暦1189年9月19日から9月21日まで展開された、奥州征伐最大の合戦地。金剛別当秀綱・藤原国衡が防衛し、結城朝光の迂回戦術により崩れた、本書の中心戦場。
- 大高山神社 現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬台部。西暦1189年9月21日夕方、和田義盛と藤原国衡が遭遇、和田が13束の矢で国衡の鎧の袖を射抜いた地。畠山重忠の郎従大串重親が国衡の首を取った舞台。
- 船迫宿 現在の宮城県柴田郡柴田町本船迫下町。西暦1189年9月22日、源頼朝一行が到着し、藤原国衡の首実検が行われた地。和田義盛と畠山重忠の手柄争いと、源頼朝の裁定の舞台。
- 多賀城国府 現在の宮城県。陸奥国の国府。西暦1189年9月23日、源頼朝一行が到着し、千葉常胤・八田知家・小田知重率いる東海道軍が大手軍と合流した地。
- 田川館 現在の山形県鶴岡市田川。西暦1189年9月24日、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が襲撃し、田川行文・秋田致文を討ち取り、由利維平を捕縛した地。
- 津久毛橋城 現在の宮城県栗原市金成。西暦1189年10月2日、源頼朝が20,000名の兵を従えて到着し、梶原景高が「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠んだ地。
- 平泉館 現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所。奥州藤原氏の本拠館。西暦1189年10月2日、藤原泰衡が自ら火を放って逃走した地。10月3日16時、雨の降る中源頼朝が到着した際には既に焼け落ちており、人影も無かった。
- 衣川館 藤原基成の居館。西暦1189年6月15日に源義経が自害した場所でもあり、10月6日には藤原基成が3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛された地。
- 比内郡贄柵 現在の秋田県大館市二井田贄ノ里。西暦1189年10月14日未明、蝦夷へ向かう途上の藤原泰衡が立ち寄り、領主河田次郎の裏切りにより殺害された地。奥州藤原氏最後の当主終焉の地。
- 陣ヶ岡 現在の岩手県紫波郡紫波町宮手。西暦1189年10月15日、源頼朝一行が北陸道軍と合流した地。10月17日には河田次郎が藤原泰衡の首級を差し出し、斬罪と梟首が行われた。10月18日には由利維平捕縛を巡る争論が行われた、本書の主要決着地。
- 中尊寺金色堂 現在の岩手県西磐井郡平泉町。西暦1189年10月17日以降、梟首された藤原泰衡の首級は近親者の手により黒漆塗りの首桶に入れられ、藤原清衡・藤原基衡・藤原秀衡と共に此処に納められた、奥州藤原氏4代の終焉の地。
主要な事件・出来事
- 願成就院建設着工 西暦1189年7月20日、北条時政主導で、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図し、願成就院の建設に着工した。本書の宗教的・政治的起点。
- 藤原泰衡征伐宣旨要請 西暦1189年8月8日、源頼朝が藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請した。朝廷を通じた正当化の試み。
- 藤原忠衡・通衡殺害 西暦1189年8月9日、藤原泰衡が、源義経の扱いを巡って対立していた藤原秀衡の参男藤原忠衡・五男藤原通衡を殺害した。奥州藤原氏内部の動揺を示す事件。
- 大庭景義の進言と出兵決定 西暦1189年8月13日、源頼朝が大庭景義に諮問、「奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要」「戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される」との2点の進言を採用した。8月29日、後白河上皇の猶予宣旨が届くも此れを優先し、宣旨無しでの出兵を決定した。鎌倉幕府独自の軍事権の象徴的瞬間。
- 三軍編成 西暦1189年8月30日、源頼朝が大倉御所で終日奥州藤原氏征伐計画を練り、軍勢を源頼朝・畠山重忠率いる大手軍・千葉常胤・八田知家率いる東海道軍・比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍の三手に分けた。8月31日に北陸道軍、9月1日に大手軍が鎌倉を出発した。
- 宇都宮での熊谷直家議論 西暦1189年9月7日、下野国古多橋駅の宇都宮二荒山神社にて戦勝祈願の後、小山政光が源頼朝に弁当を献上した際、源が熊谷直家を「本朝無双の勇士」と評した事を聞き、政光が自身の息子達(小山朝政・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱)に先頭に進んで手柄を立てる様命じた。
- 佐竹秀義家紋由来 西暦1189年9月8日、大手軍に加勢した佐竹秀義が源氏の無地の白旗を持参した為、源頼朝の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付ける様命じられた。此の出来事が佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった、後世の家紋起源譚。
- 石那坂の戦い 西暦1189年9月17日、常陸入道念西の長男伊佐為宗・弐男伊達宗村・参男中村資綱・四男伊達為家が石那坂にて奥州藤原氏家臣佐藤基治を破った。奥州征伐で鎌倉方が挙げた最初の勝利。
- 阿津賀志山合戦第1段階 西暦1189年9月19日6時、畠山重忠・結城朝光・加藤景廉・工藤行光・工藤祐光等が先陣を切って進軍、金剛別当秀綱が数千騎を率い息子下須房秀方と共に迎え撃つも、10時に衆寡敵せず大木戸に退却した。
- 畠山重忠の武士道発言 西暦1189年9月20日夜、工藤行光・工藤祐光・三浦義村・葛西清重・狩野親光・藤沢清近・河村秀清の7名が畠山重忠を追い越して阿津賀志山を越えようとした際、畠山の郎党が止めようとしたが、畠山は「一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」と制した、本書の武士道理念の象徴的場面。
- 大木戸襲撃と結城朝光の迂回戦術 西暦1189年9月21日5時、工藤行光・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・加藤景廉・三浦義澄・三浦義村・佐原義連・葛西清重・和田義盛等が大木戸を襲撃、結城朝光が芳賀高親・益子正重等を率い、安藤次を案内者として藤田宿から会津方面・土湯の嵩・鳥取越を経て藤原国衡の軍の後陣に迂回、一斉に閧の声を発し矢を放って国衡軍を混乱させた。金剛別当秀綱は結城に殺害され、下須房秀方は工藤行光の郎従籐五男に殺害された、阿津賀志山合戦の決定打。
- 藤原国衡討伐 西暦1189年9月21日夕方、大高山神社付近で和田義盛が逃亡中の藤原国衡と遭遇、13束の矢で国衡の鎧の袖を射抜き腕に命中させた。其処に畠山重忠の軍勢が到着、郎従大串重親が深田で足を取られた国衡の首を取って畠山に渡した。奥州藤原氏の軍事的中核の消滅。
- 船迫宿の首実検と和田・畠山論争 西暦1189年9月22日、船迫宿での藤原国衡の首実検の際、和田義盛が「藤原は私の矢を受けて落命した、畠山の手柄では無い」と主張、畠山は「殺したと言う根拠は何か」と反論した。源頼朝が鎧の左袖の三枚目稍後ろ側の鏨跡を確認し「畠山は清廉な人柄で詐称する様な性格では無い、大串重親が首を持ち込んで重忠が受け取り討ち取ったと知った。問題にする様な事では無い」と裁定した、武将の名誉と事実を巡る象徴的場面。
- 田川館襲撃 西暦1189年9月24日、比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が田川館を襲撃し、田川行文・秋田致文を討ち取り斬首・梟首した。由利維平が宇佐美に捕縛された、北陸道軍の主要戦果。
- 梶原景高の和歌 西暦1189年10月2日、源頼朝が20,000名を率いて津久毛橋城に到着した際、梶原景高が「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸」と詠み源の歓心を買った、戦意高揚の場面。
- 藤原泰衡の平泉館放火 西暦1189年10月2日、藤原泰衡が平泉館・高屋・宝蔵に火を放って逃走した。奥州藤原氏の本拠地の自焼。
- 平泉到着と宝物発見 西暦1189年10月3日16時、雨の降る中源頼朝一行が平泉に到着した。平泉館は既に焼け落ちており人影も無かったが、焼け残った宝物庫から金造りの鶴・象牙の笛・瑠璃の灯篭・金の沓・錦の直垂・銀造りの猫が発見され、後に戦功を挙げた武士に与えられた、奥州藤原氏の栄華の残照。
- 藤原基成の降伏 西暦1189年10月6日、藤原基成が衣川館に於いて、3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛された。奥州藤原氏の政治的中核の消滅。
- 藤原泰衡の嘆願書簡 西暦1189年10月7日、源頼朝の宿所に藤原泰衡からとされる「義経の件は父秀衡の仕業で私は知らない、義経を誅したのは勲功に当たる筈、御家人に列せられたい、許されないなら死刑ならぬ遠流に、比内郡辺りに返書を放置して欲しい」との書簡が届く。泰衡最後の交渉の試み。
- 藤原泰衡の贄柵殺害 西暦1189年10月14日未明、藤原泰衡が蝦夷(現在の北海道・樺太)へ向かう途上、比内郡贄柵に立ち寄った際、領主の河田次郎の裏切りにより殺害された。奥州藤原氏第4代当主の最期。
- 藤原泰衡首級梟首 西暦1189年10月17日、河田次郎が陣ヶ岡に到着し鎌倉幕府軍に藤原泰衡の首級を差し出した。和田義盛・畠山重忠が赤田次郎に首級を見せて相違無い事を確認した。源頼朝は河田を「旧恩に背き反逆を敢てするとは許し難い」と八虐の罪に値するとして斬罪に処し、泰衡の首級は西暦1062年10月22日に源頼義が安倍貞任を梟首とした事に倣い、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けられて柱に懸けられ梟首された。其の後首級は黒漆塗りの首桶に入れられ、藤原清衡・基衡・秀衡と共に中尊寺金色堂に納められた。
- 由利維平の抗弁 西暦1189年10月18日、宇佐美実政が由利維平を引き連れ陣ヶ岡に到着したが、天野則景が「私が由利を生け捕りにした」と主張し争論となった。源頼朝の指示で梶原景時が尋問を試みるも、梶原の無礼な物言いに由利は「亡き御館藤原泰衡は藤原秀郷将軍嫡流の正統」「鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事」と激怒、源は無礼を認め畠山重忠に代わりに尋問させ由利は「宇佐美実政」と答えた。最終的に源は由利を赦免した、敗将の誇りと源頼朝の度量を示す場面。
- 奥州平定の飛脚 西暦1189年10月19日、源頼朝が奥州平定の飛脚を京都に送った。奥州藤原氏の完全な滅亡と鎌倉幕府による奥羽支配の確立、本書の終着点。