電子書籍「不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を祀る明王院一元化」の表紙

不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を祀る明王院一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,231年11月1日〜1,235年7月15日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月19日

藤原頼経の御願寺建立・五大明王を祀る御堂の決定・公文所焼亡と法華堂延焼・五大明王像建設・上棟式・一切経供養・洪鐘鋳造・十二所での開眼供養──
明王院建立の3年8箇月を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,231年11月1日、藤原頼経の御願寺を永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定された日から、西暦1,235年7月15日、朝の雨が晴れた中、神奈川県鎌倉市十二所にて明王院の開眼供養が執り行われ、鋳直した高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされ、堂に不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された日まで。本書は、鎌倉幕府第4代征夷大将軍藤原頼経の御願寺として創建された明王院の建立——其の永福寺又は大慈寺敷地内への御願寺建立決定から、永福寺本堂北方への五大明王を祀る御堂の建立決定、建設地の甘縄への変更、北条時房公文所焼亡による源頼朝・北条義時の法華堂延焼と建設延期、五大明王像建設の開始、竹御所の死産死去を挟み、毛利季光領地への総門建立、土公祭と鎮守社の御堂東側建設、藤原頼経臨席の上棟式、定豪主催の一切経供養、鐘楼建立、開眼供養日程の3度に亙る調整、洪鐘鋳造の失敗と再鋳造成功、十二所での開眼供養迄の約3年8箇月間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,231年11月1日、晴れの中、藤原頼経の御願寺を永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定され、又永福寺の境内に竹御所の御願寺を建立する事も決まった。北条時房・北条泰時・三浦義村・二階堂行村・二階堂行盛が安陪泰貞・安陪晴賢・安陪重宗を連れて見学に行き、金蔵坊に地相を見させ、宅磨為行に絵を描かせ中原師員・三浦光村が使者として藤原に伝えた。11月11日、晴れの中、永福寺本堂の池の北方に五大明王を祀る御堂を建立する事が決定され、藤原親実・伊賀光宗(御堂奉行)・藤原定員が安陪晴賢以下の陰陽師を引き連れ本堂の裏山で方角を測量、宇都宮辻子御所と照らし合わせた所、東北東と西南西の間であれば問題無いとの事で意見が一致した。但し翌年に厄の方角に当たる為、北条政子が方角変えの本所として使った庵を本所とする事となった。20時、北条泰時の屋敷で尾藤景綱が奉行となり御堂を建立する日時を決めた。11月14日、雨の中、五大明王を祀る御堂の建設地が甘縄の安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺に変更され、北条時房・北条泰時が現地を視察した。此の日は橘寺の開眼供養の日に当たる為縁起が悪いとされたが、安倍泰貞・安倍晴茂・安倍長重・安倍文元は「開眼供養と造作始めは全く別の事であり、忌むべき事では無い」と答え、藤原長定の「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」との発言に対しては法橋円全が、西暦1,020年の興福寺阿弥陀堂御塔の建立、西暦1,100年の春日大社一切経奉納、西暦1,118年の熊野山一切経奉納、西暦1,136年の熊野山本宮五重塔開眼供養、西暦1,184年の蓮華王院三十三間堂万部経典読経の5例を挙げた。11月20日20時、北条時房の公文所が焼亡、南風が激しく吹き東は勝長寿院橋辺りまで、西は永福寺の惣門の内門まで火が回り、源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊も灰燼に帰した。11月22日、中原師員・三浦義村・二階堂行村・中条家長・二階堂行盛・三善康俊・三善康連が評定所に集まり、伊賀光宗・佐藤業時が法華堂焼亡を報告、「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては前途を悲観し恐るべき出来事である」との意見書が提出された。法華堂の再建は「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」として助成金で寺家に言い付ける事と決定され、藤原頼経と竹御所の御願寺建設の延期も決定された、民衆は此れを徳政であるとして評価した。12月13日、中原師員・伊賀光宗・三善康連の指揮で五大明王像の建設が開始され、同日焼亡した源頼朝の法華堂の上棟式が寺家を中心として執り行われた。

西暦1,234年8月23日、竹御所が難産の末に男児を死産した中で死去した。西暦1,235年2月4日、明王院の門の木作り始めが執り行われ、2月28日迄に建設を完了する様命令が下り、藤原親実・狩野為佐が指揮する事となった。2月10日、明王院の総門が建立され、前年に安達義景が甘縄を建立地として定めていたが最終的に毛利季光の領地内に建立された。2月21日、明王院の建設予定地にて土公神の怒りを鎮める土公祭が開始され、陰陽師達は交代で連日行う様命じられた。2月22日、明王院の建設予定地に鎮守社を建設する事が決定、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村が参集して話し合い、門内にするか御堂の裏山にするかで意見が割れたが、源光行・安陪親職・安陪晴賢が「高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだ」と異口同音に意見した事を踏まえ、御堂の東側の土地に建設する事となった。2月28日、空は晴れて風は静かな中、藤原頼経が後藤本綱の屋敷から明王院の建設予定地に向かい、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村・長井泰秀・中条家長・三善康俊が供をした。安陪親職・安陪晴賢・安陪文元を始めとする陰陽師が縁起の良い時間を申し上げ、12時、棟梁矢板二郎大夫と4名の引頭による上棟式が開始された。橘隆邦・清原季氏により、棟梁には馬2頭(鹿毛1頭と黒葦毛1頭)・絹20反・染めた絹10反・綿10両・白い布10反・藍色の摺り染め布10反・奥州産の高級布10反・紺色の直垂10着・紺色の帷子10着・色付きの革10枚、引頭には馬1頭と絹10反等、桧皮葺き職人・壁塗り職人・鍛冶職人には馬1頭ずつが褒美として与えられた。馬は北条時房・北条泰時・三浦義村・小山朝政・千葉時胤が献上したものが政所で選定された。3月8日、定豪が上棟を受けて一切経の供養を主催、指導僧は興福寺東南院の公宴、願文は良信が読み、藤原頼経・北条時房・北条泰時・武藤左近将監が出席した。3月25日、鐘楼が建立、北条時房・北条泰時が視察した。4月7日、北条時房・北条泰時が宇都宮辻子御所に出仕して開眼供養の日時を検討、陰陽師の占いで4月29日(最上の日)・5月6日(少し良い日)・5月23日(最上の日)が候補となり、4月29日は荘厳が間に合わない可能性で外れ、5月6日と5月23日で議論となった。安陪親職は「5月23日の周辺は式典が多すぎる」と述べたが、安陪晴賢は「式典が多いというのは元服式・着袴の式・引っ越し・嫁取り等でしょう。此の月は忌月なので仏事は過去の例を見ても忌まれていません。法成寺・清凉寺・総持院は西暦で6月頃に建立された寺院であり、平等院の一切経の儀式は西暦で6月頃に始められています」と反論、安陪忠尚・安陪宣俊・安陪資俊・安陪文元も同意して5月23日に決定された。しかし4月14日、5月23日は鶴岡八幡宮寺での端午の節句の神事と重なる事が判明して陰陽師の再協議により6月25日に延期、4月16日、藤原頼経が外出するのに良くない日として陰陽師が上申書を提出、4月17日、明王院の開眼供養の日が7月15日に最終決定された。7月5日、明王院の洪鐘の鋳造が銅1,125kgで失敗し、藤原親実が鋳物師を叱りつけようとしたが、鋳物師は「銅が足りなかったので斯うなりました」と答え、10%増の1,237.5kgで鋳直されて成功した。7月15日、朝は雨、明王院の開眼供養が執り行われた。8時、鋳直した高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされ、堂に不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された。藤原頼経は衣冠束帯に剣と笏を携帯して西の廊下で西に向かい、安陪忠尚が反閇を務めた後、褒美として蘇芳染の生絹着物1領を賜り大江佐房が狩衣を持って渡し安陪は左肩に掛けた。藤原は小町大路を北へ向かい、塔之辻を東へ行き、先陣随兵に千葉常秀・三浦義村・小山長村・筑後時家・安達義景・横田頼業・吉良長氏・北条光時・北条政村・北条時定、御車に千葉秀胤・大須賀胤秀・小野沢時仲・宇田左衛門尉・伊賀光重・大川戸広行・江戸景益・本間信忠・安保三郎兵衛尉・平岡左衛門尉、調度懸に加地信朝、御後五位六位に北条有時・北条朝直、寺門内役御釼に北条経時・三浦泰村・北条実時・長井泰秀・大江・宇都宮泰綱・中原師員・伊賀仲能・三善康俊・中条家長等、後陣随兵に河越泰重・梶原景俊・氏家公信・葛西時清・後藤基親・伊東祐綱・佐竹助義・一条信長、検非違使に三浦光村・後藤基綱と、盛大な行列を為した。9:30から開眼供養が始まり10時以降は晴れ、儀式は11:30に開始されて曼荼羅が唱えられ、執行師の快深が会場準備を指揮、願文の下書きは菅原為長、清書は西園寺実氏が務めた。初世明王院別当に就任した定豪が明王院平穏の祈祷を行い、光宝・厳海・忠遍・定基・兼盛・承快・良全・定親・定清・実俊・円親・定雅・範乗・実果・隆弁・定憲・長全・定宗・定弁・親遍・定瑜・良賢の22名の僧が定豪にお供した。18時に式が終了、お布施として導師には被り物30枚・裹物1包(染めた絹15反)・白い綾絹30疋・顕紋紗30反等30種以上、御負けには砂金1.868kg・野太刀(銀造り錦袋入り)、此の他に米20石と馬10疋、供した僧には被り物10枚・裹物1包・白い綾絹10疋等14種と米5石・馬3頭が贈られた、本書の終結点。


登場人物

  • 藤原頼経 鎌倉幕府第4代征夷大将軍。本書の明王院の施主。西暦1,231年11月1日、其の御願寺を永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定された。西暦1,231年11月22日、源頼朝・北条義時の法華堂焼亡を受けて御願寺建設の延期を受け入れた。西暦1,235年2月28日、後藤本綱の屋敷から明王院の建設予定地に向かい、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村等7名を供にして上棟式に臨席した。3月8日の一切経供養、7月15日の開眼供養にも出席し、衣冠束帯に剣と笏を携帯して西の廊下で西に向かい反閇を受けた、本書の題名を成す御願主。
  • 北条時房 鎌倉幕府初代連署。西暦1,231年11月1日、藤原頼経の御願寺建立地の見学に赴いた。11月14日、五大明王を祀る御堂の建設地変更を北条泰時と共に視察、2月22日に鎌倉時房・北条泰時・中原師員・三浦義村で鎮守社建設地を話し合って御堂東側に決定した。西暦1,235年2月28日の上棟式、3月8日の一切経供養、3月25日の鐘楼建立、4月7日の宇都宮辻子御所での開眼供養日検討、4月14日・4月17日の日程再調整、7月15日の開眼供養に全て臨席した、本書の建設監督の筆頭。但し西暦1,231年11月20日、自身の公文所が焼亡して火が東は勝長寿院橋辺りまで西は永福寺惣門内門まで及び源頼朝・北条義時の法華堂も灰燼に帰す契機を作った、本書の矛盾する立場の人物。
  • 北条泰時 鎌倉幕府第3代執権。西暦1,231年11月1日に見学に赴き、11月11日には自身の屋敷で尾藤景綱を奉行として御堂建立の日時を決めた。11月14日の建設地変更視察以降、西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地決定、2月28日の上棟式、3月8日の一切経供養、3月25日の鐘楼建立視察、4月7日の開眼供養日検討、4月14日・4月17日の自邸での日程再調整、7月15日の開眼供養に全て臨席した、本書の建設の最高責任者。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月1日の見学、11月22日の評定所出仕、西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地話し合い、2月28日の上棟式臨席、7月15日の開眼供養の先陣随兵を務めた。自身も馬を献上して政所で選定された、本書の重鎮。
  • 中原師員 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月1日、三浦光村と共に藤原頼経の御願寺建立の使者として絵を持参した。11月22日、評定所に出仕し法華堂再建を「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」と発言、12月13日からは伊賀光宗・三善康連と共に五大明王像建設の指揮を執った。西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地話し合い、2月28日の上棟式、7月15日の開眼供養の寺門内役御釼に名を連ねた、本書の建設実務の中心。
  • 伊賀光宗 御堂奉行。西暦1,231年11月11日、藤原親実・藤原定員と共に本堂の裏山で方角を測量した。11月22日、佐藤業時と共に法華堂焼亡を評定所に報告、12月13日から中原師員・三善康連と共に五大明王像建設の指揮を執った、本書の建設実務の奉行。
  • 藤原親実 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月11日、伊賀光宗・藤原定員と共に本堂の裏山で方角を測量した。西暦1,235年2月4日、狩野為佐と共に明王院の門の木作り始めの指揮を任された。7月5日、洪鐘の鋳造失敗に鋳物師を叱りつけようとしたが、鋳物師の「銅が足りなかったので斯うなりました」との弁明で10%増の1,237.5kgでの鋳直しを認めた、本書の門・洪鐘の責任者。
  • 定豪 初世明王院別当。西暦1,235年3月8日、明王院上棟を受けて一切経の供養を主催、興福寺東南院の公宴を指導僧、良信を願文読み上げとして招いた。7月15日の開眼供養で明王院平穏の祈祷を行い、光宝・厳海・忠遍・定基・兼盛・承快・良全・定親・定清・実俊・円親・定雅・範乗・実果・隆弁・定憲・長全・定宗・定弁・親遍・定瑜・良賢の22名の僧を随行させた、本書の宗教的最高責任者。
  • 竹御所 源頼家の娘。藤原頼経の妻。西暦1,231年11月1日、其の御願寺を永福寺の境内に建立する事が決まった。11月22日、御願寺建設の延期が決定され、此れを民衆は徳政であるとして評価した。西暦1,234年8月23日、難産の末に男児を死産した中で死去した、本書の哀切な人物。
  • 毛利季光 鎌倉幕府御家人。西暦1,235年2月10日、明王院の総門が自身の領地内に建立された。前年に安達義景が甘縄を建立地として定めたが最終的に毛利の領地に変更された、本書の最終的な所領提供者。
  • 安達義景 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月14日、其の屋敷の南が五大明王を祀る御堂の建設地に選定された。西暦1,234年には自身で甘縄を建立地として定めたが、2月10日に最終的に毛利季光の領地に変更された。7月15日の開眼供養では先陣随兵を務めた、本書の当初の候補地の提供者。
  • 千葉時胤 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月14日、其の屋敷の北の西山の周辺が五大明王を祀る御堂の建設地に選定された。西暦1,235年2月28日の上棟式の馬の献上者の1人でもあった。
  • 狩野為佐 鎌倉幕府御家人。西暦1,235年2月4日、藤原親実と共に明王院の門の木作り始めの指揮を任された。7月15日の開眼供養では寺門内役御釼を務めた。
  • 菅原為長・西園寺実氏 西暦1,235年7月15日の明王院開眼供養の願文の作成者。菅原為長が下書き、西園寺実氏が清書を担当した、本書の宗教的文書の筆者。
  • 快深 執行師。西暦1,235年7月15日の明王院開眼供養の会場準備の指揮を執った。
  • 矢板二郎大夫 棟梁。西暦1,235年2月28日の明王院上棟式を率いた。橘隆邦・清原季氏から馬2頭(鹿毛1頭と黒葦毛1頭)・絹20反・染めた絹10反・綿10両・白い布10反・藍色の摺り染め布10反・奥州産の高級布10反・紺色の直垂10着・紺色の帷子10着・色付きの革10枚の褒美を与えられた、本書の建設の職人の筆頭。
  • 安陪親職・安陪晴賢・安陪忠尚・安陪文元 陰陽師。明王院建立の各段階で方角・日時の占いを担当した。西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地について、源光行と共に「高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだ」と異口同音に意見した。4月7日の開眼供養日検討では安陪晴賢が「此の月は忌月なので仏事は過去の例を見ても忌まれていません。法成寺・清凉寺・総持院は西暦で6月頃に建立された寺院です」と主張して5月23日を推奨、4月14日には忠尚が「神仏の行事を1日の内に行う例は多いのですが、双方共に大掛かりな式典です。延期した方が良いです」と進言した。7月15日の開眼供養では忠尚が反閇を務めた、本書の陰陽道的指南役。
  • 源光行 西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地決定に際し、安陪親職・安陪晴賢と共に「高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだ」と異口同音に意見した、本書の建設地選定の有識者。
  • 法橋円全 西暦1,231年11月14日、藤原長定の「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」との発言に対し、西暦1,020年の興福寺阿弥陀堂御塔建立、西暦1,100年の春日大社一切経奉納、西暦1,118年の熊野山一切経奉納、西暦1,136年の熊野山本宮五重塔開眼供養、西暦1,184年の蓮華王院三十三間堂万部経典読経の5つの先例を挙げて反論した、本書の先例引用の学者。

主要な地名・拠点

  • 明王院 現在の神奈川県鎌倉市十二所。藤原頼経の御願寺。西暦1,235年7月15日に開眼供養が執り行われ、高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされ、堂に不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された地、本書の終結地にして題名を成す寺院。
  • 永福寺 鎌倉。西暦1,231年11月1日、藤原頼経の御願寺を大慈寺と共に敷地内への建立候補とされ、又其の境内に竹御所の御願寺を建立する事が決まった地。11月11日には本堂の池の北方に五大明王を祀る御堂を建立する事が決定された。11月20日の公文所焼亡時には惣門の内門まで火が及んだ、本書の当初の計画地。
  • 大慈寺 鎌倉。西暦1,231年11月1日、藤原頼経の御願寺を永福寺と共に敷地内への建立候補とされた地。
  • 甘縄 鎌倉。西暦1,231年11月14日、五大明王を祀る御堂の建設地が永福寺から安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺に変更された地。西暦1,234年にも安達義景が此処を建立地として定めたが、西暦1,235年2月10日に最終的に毛利季光の領地に変更された、本書の中間の候補地。
  • 毛利季光の領地 鎌倉。西暦1,235年2月10日、明王院の総門が甘縄から変更されて最終的に建立された地、本書の最終的な建立地。
  • 北条時房の公文所 鎌倉。西暦1,231年11月20日20時に焼亡した地。南風が激しく吹き、東は勝長寿院橋辺りまで、西は永福寺の惣門の内門にまで火が回った、本書の延焼火災の発生源。
  • 源頼朝の法華堂・北条義時の法華堂 鎌倉。西暦1,231年11月20日、北条時房の公文所焼亡の延焼により御本尊と共に灰燼に帰した地。人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた。11月22日の評定所で「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては前途を悲観し恐るべき出来事である」との意見書が提出され、12月13日に源頼朝の法華堂の上棟式が寺家を中心として執り行われた、本書の延焼の犠牲となった神聖な地。
  • 宇都宮辻子御所 鎌倉。西暦1,231年11月11日、五大明王を祀る御堂の方角を測量する際に位置の照合に用いられた地。西暦1,235年4月7日、北条時房・北条泰時が出仕して開眼供養の日時を陰陽師と共に検討した地、本書の政治的参照点。
  • 後藤本綱の屋敷 鎌倉。西暦1,235年2月28日、藤原頼経が上棟式の為に明王院の建設予定地に向かう出発地。
  • 小町大路・塔之辻 小町大路は現在の神奈川県鎌倉市材木座・大町・小町、塔之辻は現在の神奈川県鎌倉市笹目町。西暦1,235年7月15日、開眼供養後に藤原頼経が通った地、本書の法要後の帰路。

主要な事件・出来事

  • 藤原頼経の御願寺建立決定 西暦1,231年11月1日、晴れの中、藤原頼経の御願寺を永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定された。又永福寺の境内に竹御所の御願寺を建立する事も決まった。北条時房・北条泰時・三浦義村・二階堂行村・二階堂行盛が安陪泰貞・安陪晴賢・安陪重宗を連れて見学に行き、金蔵坊に地相を見させ、宅磨為行に絵を描かせ、中原師員・三浦光村が使者として藤原に伝えた、本書の発端。
  • 五大明王を祀る御堂の建立決定 西暦1,231年11月11日、晴れの中、永福寺本堂の池の北方に五大明王を祀る御堂を建立する事が決定された。藤原親実・伊賀光宗(御堂奉行)・藤原定員が安陪晴賢以下の陰陽師を引き連れ本堂の裏山に登り方角を測量、宇都宮辻子御所と照らし合わせた所、東北東と西南西の間であれば問題無いとの事で意見が一致した。但し翌年に厄の方角に当たる為、北条政子が方角変えの本所として使った庵を本所とする事となった。20時、北条泰時の屋敷で尾藤景綱が奉行となり御堂を建立する日時を決めた、本書の御堂の建立決定。
  • 建設地の甘縄への変更と先例引用 西暦1,231年11月14日、雨の中、五大明王を祀る御堂の建設地が甘縄の安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺に変更され、北条時房・北条泰時が現地を視察した。此の日は橘寺の開眼供養の日で縁起が悪いとされたが、安倍泰貞・安倍晴茂・安倍長重・安倍文元は「開眼供養と造作始めは全く別の事であり、忌むべき事では無い」と答え、藤原長定の「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」との発言に対しては法橋円全が西暦1,020年の興福寺阿弥陀堂御塔建立、西暦1,100年の春日大社一切経奉納、西暦1,118年の熊野山一切経奉納、西暦1,136年の熊野山本宮五重塔開眼供養、西暦1,184年の蓮華王院三十三間堂万部経典読経の5例を挙げて反論した、本書の歴史的先例の引用。
  • 北条時房公文所焼亡と法華堂延焼 西暦1,231年11月20日20時、北条時房の公文所が焼亡した。南風が激しく吹き、東は勝長寿院橋辺りまで火が回り、西は永福寺の惣門の内門にまで及んだ。源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊も灰燼に帰し、人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた、本書の延焼災害。
  • 御願寺建設の徳政的延期 西暦1,231年11月22日、晴れの中、中原師員・三浦義村・二階堂行村・中条家長・二階堂行盛・三善康俊・三善康連が評定所に集まり、伊賀光宗・佐藤業時が源頼朝・北条義時の法華堂焼亡を報告、「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては前途を悲観し恐るべき出来事である」との意見書が提出された。法華堂の再建は「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」として助成金で寺家に言い付ける事と決定され、藤原頼経と竹御所の御願寺建設の延期も決定された、民衆は此れを徳政であるとして評価した、本書の政治的徳政。
  • 五大明王像の建設開始と源頼朝法華堂の上棟式 西暦1,231年12月13日、中原師員・伊賀光宗・三善康連の指揮により五大明王像の建設が開始された。又同日、焼亡した源頼朝の法華堂の上棟式が寺家を中心として執り行われた、本書の建設の始まり。
  • 竹御所の死産死去 西暦1,234年8月23日、竹御所が難産の末に男児を死産した中で死去した、本書の悲しみの出来事。
  • 明王院の門・総門の建立 西暦1,235年2月4日、明王院の門の木作り始めが執り行われ、2月28日迄に建設を完了する様命令が下り、藤原親実・狩野為佐が指揮する事となった。2月10日、明王院の総門が建立され、前年に安達義景が甘縄を建立地として定めたが最終的に毛利季光の領地内に建立された、本書の建設の本格化。
  • 土公祭と鎮守社の建設決定 西暦1,235年2月21日、明王院の建設予定地にて土公神の怒りを鎮める土公祭が開始され、陰陽師達は交代で連日行う様命じられた。2月22日、明王院の建設予定地に鎮守社を建設する事が決定、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村が参集して話し合った。門内にするか御堂の裏山にするかで意見が割れたが、源光行・安陪親職・安陪晴賢が「高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだ」と異口同音に意見した事を踏まえ、御堂の東側の土地に建設する事となった、本書の建築学的判断。
  • 藤原頼経臨席の上棟式 西暦1,235年2月28日、空は晴れて風は静かな中、藤原頼経が後藤本綱の屋敷から明王院の建設予定地に向かい、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村・長井泰秀・中条家長・三善康俊が供をした。安陪親職・安陪晴賢・安陪文元を始めとする陰陽師が縁起の良い時間を申し上げ、12時、棟梁矢板二郎大夫と4名の引頭による上棟式が開始された。橘隆邦・清原季氏により、棟梁には馬2頭・絹20反・染めた絹10反・綿10両・白い布10反・藍色の摺り染め布10反・奥州産の高級布10反・紺色の直垂10着・紺色の帷子10着・色付きの革10枚、引頭には馬1頭と絹10反等、桧皮葺き職人・壁塗り職人・鍛冶職人には馬1頭ずつが褒美として与えられた。馬は北条時房・北条泰時・三浦義村・小山朝政・千葉時胤が献上したものが政所で選定された、本書の建設の儀礼の頂点。
  • 定豪主催の一切経供養 西暦1,235年3月8日、定豪が明王院上棟を受けて一切経の供養を主催した。指導僧は興福寺東南院の公宴、願文は良信が読み、藤原頼経・北条時房・北条泰時・武藤左近将監(藤原の刀持ち)が出席した、本書の上棟後の宗教儀礼。
  • 鐘楼の建立 西暦1,235年3月25日、明王院に鐘楼が建立され、北条時房・北条泰時が視察した、本書の付属施設の完成。
  • 開眼供養日程の3度に亙る調整 西暦1,235年4月7日、晴れの中、北条時房・北条泰時が宇都宮辻子御所へ出仕して明王院の開眼供養の日時を検討した。陰陽師の占いで4月29日(最上の日)・5月6日(少し良い日)・5月23日(最上の日)が候補となり、4月29日は荘厳が間に合わない可能性で外れた。安陪親職は「5月23日の周辺は式典が多すぎる」と述べたが、安陪晴賢は「式典が多いというのは元服式・着袴の式・引っ越し・嫁取り等でしょう。此の月は忌月なので仏事は過去の例を見ても忌まれていません。法成寺・清凉寺・総持院は西暦で6月頃に建立された寺院であり、平等院の一切経の儀式は西暦で6月頃に始められています」と反論、安陪忠尚・安陪宣俊・安陪資俊・安陪文元も同意して5月23日に決定された。しかし4月14日、5月23日は鶴岡八幡宮寺での端午の節句の神事と重なる事が判明して6月25日に延期、4月16日、藤原頼経が外出するのに良くない日として陰陽師が上申書を提出、4月17日、明王院の開眼供養の日が7月15日に最終決定された、本書の開眼供養日程の二転三転。
  • 洪鐘鋳造の失敗と再鋳造成功 西暦1,235年7月5日、明王院の洪鐘の鋳造に失敗した。藤原親実が鋳物師を叱りつけようとしたが、鋳物師は「銅が足りなかったので斯うなりました。銅を足しますから」と答え、銅1,125kgで失敗した為10%増の1,237.5kgで鋳直されて成功した、本書の物造りの試練。
  • 明王院の開眼供養 西暦1,235年7月15日、朝は雨、明王院の開眼供養が執り行われた。8時、鋳直した高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされ、堂に不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された。藤原頼経は衣冠束帯に剣と笏を携帯し西の廊下で西に向かい、安陪忠尚が反閇を務め、褒美として蘇芳染の生絹着物1領を賜り大江佐房が狩衣を持って渡し安陪は左肩に掛けた。藤原は小町大路を北へ向かい塔之辻を東へ行き、先陣随兵に千葉常秀・三浦義村・小山長村・筑後時家・安達義景・横田頼業・吉良長氏・北条光時・北条政村・北条時定の10名、御車に千葉秀胤・大須賀胤秀・小野沢時仲・宇田左衛門尉・伊賀光重・大川戸広行・江戸景益・本間信忠・安保三郎兵衛尉・平岡左衛門尉の10名、調度懸に加地信朝、御後五位六位に北条有時・北条朝直、寺門内役御釼に北条経時・三浦泰村・北条実時等多数、後陣随兵に河越泰重・梶原景俊・氏家公信・葛西時清・後藤基親・伊東祐綱・佐竹助義・一条信長の8名、検非違使に三浦光村・後藤基綱と盛大な行列を為した。9:30から開眼供養が始まり10時以降は晴れ、儀式は11:30に開始されて曼荼羅が唱えられ、執行師の快深が会場準備を指揮、願文の下書きは菅原為長、清書は西園寺実氏が務めた。初世明王院別当の定豪が明王院平穏の祈祷を行い、光宝・厳海・忠遍・定基・兼盛・承快・良全・定親・定清・実俊・円親・定雅・範乗・実果・隆弁・定憲・長全・定宗・定弁・親遍・定瑜・良賢の22名の僧が随行、18時に式が終了、お布施として導師には30種以上、供した僧には14種と米5石・馬3頭が贈られた、本書の終結にして題名を成す法要。

藤原頼経の御願寺建立・五大明王を祀る御堂の決定・公文所焼亡と法華堂延焼・五大明王像建設・上棟式・一切経供養・洪鐘鋳造・十二所での開眼供養──
明王院建立の3年8箇月を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。