電子書籍「不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を祀る明王院一元化」の表紙

不動明王・降三世明王・軍茶利明王・
大威徳明王・金剛夜叉明王を祀る
明王院一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,231年11月1日〜1,235年7月15日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
11ページ
文字数
5,757字
最新更新日
西暦2,026年9月25日

陰陽師が日を選び、洪鐘は鋳直された──
五大明王を祀る明王院の建立を一元化。

215円(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,231年11月1日、藤原頼経の御願寺を永福寺か大慈寺の敷地内に建て、永福寺の境内には竹御所の御願寺を建てる事が決まった。北条時房・北条泰時・三浦義村らが陰陽師を伴って見学し、金蔵坊に地相を見させ、宅磨為行に絵を描かせて、中原師員と三浦光村が頼経に伝える。11日には永福寺本堂の池の北方に五大明王を祀る御堂を建てる事が決まり、藤原親実・御堂奉行伊賀光宗らが裏山から方角を測って、宇都宮辻子御所との位置関係を確かめた。本書は、此の御願寺建立の決定から1,235年の明王院の開眼供養に至る迄を一元化した記録である。

11月14日、建設地は甘縄の、安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北に当たる西山の周辺へ改められた。此の日は橘寺の開眼供養の日に当たり縁起が悪いと案じられたが、陰陽師達は開眼供養と造作始めは別の事と答え、辛未の日は縁起が悪いという藤原長定の懸念にも、法橋円全が後一条天皇から後鳥羽天皇に至る辛未の日の吉事を5例挙げて退けた。然し11月20日の夜、北条時房の公文所が焼亡する。南風に煽られた火は東は勝長寿院橋、西は永福寺の惣門の内門にまで及び、源頼朝・北条義時の法華堂と御本尊も灰燼に帰した。泥棒の放火と云われた。

11月22日、評定所では伊賀光宗らが法華堂の焼失を報告し、止むを得ない火災であっても幕府にとって恐るべき出来事であるとの意見書が出された。墳墓堂が燃えて再建した例は無いとして寺家に助成金を出す事となり、頼経と竹御所の御願寺の建設も延期が決まって、民衆は之を徳政と評した。12月13日、中原師員・伊賀光宗・三善康連の指揮で五大明王像の造立が始まり、同日、焼けた頼朝の法華堂の上棟式が寺家を中心に営まれる。1,234年8月23日には、竹御所が難産の末に男児を死産し、其の儘世を去った。

1,235年に入ると、明王院の建立は一気に進む。2月4日に藤原親実・狩野為佐の指揮で門の木作りが始まり、10日には総門が建てられたが、場所は最終的に毛利季光の領地内となった。土公神の怒りを鎮める土公祭が陰陽師の交代で連日営まれ、鎮守社は源光行・安陪親職・安陪晴賢の、高低では無く地形で選ぶべきという意見を容れて御堂の東側に建てる事が決まる。2月28日、頼経が北条時房・泰時・三浦義村らを伴って臨む中、棟梁矢板二郎大夫の下で上棟式が営まれ、職人達に馬や絹・布が褒美として与えられた。3月8日には定豪が上棟を承けた一切経の供養を主催し、3月25日には鐘楼が建った。

開眼供養の日取りは難航した。4月7日、陰陽師達は5月23日を最上の日とし、此の月は忌月だが仏事は忌まれず、法成寺・清凉寺・総持院も同じ頃に建てられたと安陪晴賢が説いて決まったが、鶴岡八幡宮寺の端午の節句の神事と重なる為に6月25日へ延ばされ、更に頼経の外出に良くない日とされて、4月17日に7月15日と定まった。7月5日には洪鐘の鋳造に失敗し、銅が足りなかったとする鋳物師の言葉通り、1,125kgから1割増やした1,237.5kgで鋳直して成功する。そして7月15日、明王院(現在の神奈川県鎌倉市十二所)に高さ157.56cmの洪鐘が吊るされ、不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された。衣冠束帯の頼経は長大な行列を率いて小町大路(現在の神奈川県鎌倉市材木座・大町・小町)を北へ、塔之辻(現在の神奈川県鎌倉市笹目町)を東へ進み、菅原為長が下書きし西園寺実氏が清書した願文の下、初世明王院別当となった定豪が22名の僧を従えて明王院平穏の祈祷を行った——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。


登場人物

  • 藤原頼経 鎌倉殿。其の御願寺として五大明王を祀る御堂の建立が決まり、明王院となった。上棟式に臨み、定豪主催の一切経の供養にも列席した。1,235年7月15日の開眼供養では、衣冠束帯で長大な行列を率いて明王院へ向かった。
  • 竹御所 源頼家の娘。其の御願寺を永福寺の境内に建てる事が決まったが、公文所の焼亡後に延期された。1,234年、難産の末に男児を死産し、世を去った。
  • 北条時房 鎌倉幕府の連署。御願寺の建設地を見学・視察し、鎮守社の場所を話し合い、上棟式や鐘楼にも足を運んだ。其の公文所の焼亡が、源頼朝・北条義時の法華堂の焼失を招いた。
  • 北条泰時 鎌倉幕府の執権。建設地の見学・視察、鎮守社の協議、開眼供養の日取りの検討に加わり、自邸に陰陽師を集めて日を改めた。
  • 三浦義村 御願寺の見学、鎮守社の協議に加わり、上棟式にも供奉した。開眼供養の行列では先陣随兵を務めた。
  • 中原師員 三浦光村と共に御願寺の計画を藤原頼経に伝えた。法華堂焼失後の評定に出仕し、伊賀光宗・三善康連と五大明王像の造立を指揮した。
  • 伊賀光宗 五大明王を祀る御堂の奉行。裏山から方角を測量し、源頼朝・北条義時の法華堂の焼失を評定所で報告した。五大明王像の造立も指揮した。
  • 藤原親実 御堂の方角の測量に加わり、明王院の門の木作りを狩野為佐と共に指揮した。洪鐘の鋳造に失敗した鋳物師を叱りつけようとした。
  • 三善康連 法華堂の再建を巡る評定で墳墓堂の再建に例は無いと述べ、中原師員・伊賀光宗と五大明王像の造立を指揮した。
  • 法橋円全 辛未の日は縁起が悪いという懸念に対し、後一条天皇から後鳥羽天皇に至る辛未の日の吉事を5例挙げて退けた。
  • 安陪晴賢 陰陽師。御堂の方角を巡る議論に加わり、鎮守社の場所を地形で選ぶべきと述べた。開眼供養の日取りでは、忌月でも仏事は忌まれないと先例を挙げて説いた。
  • 安陪親職 陰陽師。鎮守社は地形で選ぶべきと述べ、上棟式の縁起の良い時間を申し上げた。
  • 安陪忠尚 陰陽師。端午の節句の神事と重なる開眼供養の延期を進言した。開眼供養の日には反閇を務め、褒美を賜った。
  • 源光行 鎮守社の場所を高低では無く地形で選ぶべきだと、陰陽師達と異口同音に意見した有識者。
  • 毛利季光 明王院の総門が、最終的に其の領地内に建てられた。
  • 安達義景 其の屋敷の南が、一度は五大明王を祀る御堂の建設地とされた。開眼供養の行列では先陣随兵を務めた。
  • 矢板二郎大夫 1,235年2月28日の上棟式の棟梁。馬2頭や絹・布等の褒美を与えられた。
  • 定豪 上棟を承けて一切経の供養を主催した真言僧。開眼供養で初世明王院別当に就き、22名の僧を従えて明王院平穏の祈祷を行った。
  • 快深 開眼供養の執行師として、会場の準備を指揮した。
  • 菅原為長 開眼供養の願文の下書きを務めた。
  • 西園寺実氏 開眼供養の願文の清書を務めた。

主要な地名・拠点

  • 永福寺 藤原頼経の御願寺の候補地の1つで、竹御所の御願寺の建立地。本堂の池の北方が一度は五大明王の御堂の建設地とされ、公文所の火は其の惣門の内門にまで及んだ。
  • 大慈寺 藤原頼経の御願寺の、もう1つの候補地。
  • 甘縄 安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北に当たる西山の周辺が、1,231年11月14日に御堂の建設地とされた。
  • 北条時房の公文所 1,231年11月20日の夜に焼亡し、南風に煽られた火が勝長寿院橋や永福寺の惣門の内門まで広がった。
  • 源頼朝・北条義時の法華堂 公文所の火で御本尊と共に灰燼に帰した墳墓堂。頼朝の法華堂は寺家を中心に上棟式が営まれた。
  • 宇都宮辻子御所 藤原頼経の御所。御堂の方角を測る基準とされ、北条時房・泰時が開眼供養の日取りを検討した場でもある。
  • 毛利季光の領地 明王院の総門が最終的に建てられた地。
  • 明王院 現在の神奈川県鎌倉市十二所。1,235年7月15日に開眼供養が営まれ、洪鐘が吊るされて五大明王像が安置された。
  • 小町大路 現在の神奈川県鎌倉市材木座・大町・小町。開眼供養の日、藤原頼経の行列が北へ進んだ大路。
  • 塔之辻 現在の神奈川県鎌倉市笹目町。藤原頼経の行列が東へ折れた辻。

主要な事件・出来事

  • 御願寺建立の決定(1,231年11月1日) 藤原頼経の御願寺を永福寺か大慈寺に、竹御所の御願寺を永福寺に建てる事が決まる。
  • 五大明王の御堂の建立決定(1,231年11月11日) 永福寺本堂の池の北方に御堂を建てる事が決まり、裏山から方角が測られる。
  • 建設地の変更と先例の引用(1,231年11月14日) 建設地が甘縄に改められ、辛未の日の懸念を法橋円全が5つの先例で退ける。
  • 公文所の焼亡と法華堂の焼失(1,231年11月20日) 北条時房の公文所の火が広がり、源頼朝・北条義時の法華堂と御本尊が灰燼に帰す。
  • 御願寺建設の延期(1,231年11月22日) 法華堂の再建は助成金で寺家に任され、御願寺の建設延期を民衆は徳政と評する。
  • 五大明王像の造立開始(1,231年12月13日) 中原師員・伊賀光宗・三善康連の指揮で造立が始まり、頼朝の法華堂の上棟式も営まれる。
  • 竹御所の死(1,234年8月23日) 難産の末に男児を死産し、竹御所が世を去る。
  • 門・総門の建立(1,235年2月) 藤原親実・狩野為佐の指揮で門の木作りが始まり、総門は毛利季光の領地内に建てられる。
  • 土公祭と鎮守社の決定(1,235年2月21日〜22日) 土公祭が連日営まれ、鎮守社は地形を重んじて御堂の東側に建てる事になる。
  • 上棟式(1,235年2月28日) 藤原頼経の臨む中、棟梁矢板二郎大夫の下で上棟式が営まれ、職人達に褒美が与えられる。
  • 一切経の供養(1,235年3月8日) 定豪が上棟を承けた一切経の供養を主催する。
  • 鐘楼の建立(1,235年3月25日) 明王院に鐘楼が建てられる。
  • 開眼供養の日取りの調整(1,235年4月) 5月23日、6月25日と2度改められた末、4月17日に7月15日と定まる。
  • 洪鐘の鋳直し(1,235年7月5日) 1,125kgの銅での鋳造に失敗し、1割増しの1,237.5kgで鋳直して成功する。
  • 明王院の開眼供養(1,235年7月15日) 五大明王像が安置され、頼経の行列が到着する中、定豪が初世明王院別当として平穏の祈祷を行う。

鎌倉殿の御願寺は、4年を掛けて開眼した──
明王院の建立から開眼供養までを一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。