不動明王・降三世明王・軍茶利明王・
大威徳明王・金剛夜叉明王を祀る
明王院一元化
藤原頼経の御願寺建立・五大明王を祀る御堂の決定・公文所焼亡と法華堂延焼・五大明王像建設・上棟式・一切経供養・洪鐘鋳造・十二所での開眼供養──
明王院建立の三年八ヶ月を一本の時系列に貫く。
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本書について
西暦1,231年11月1日、晴れの下で一つの決定が下された。鎌倉幕府第4代征夷大将軍藤原頼経の御願寺を、永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する——併せて、永福寺の境内には竹御所の御願寺を建てる事も決まった。北条時房・北条泰時・三浦義村・二階堂行村・二階堂行盛が、安陪泰貞・安陪晴賢・安陪重宗を連れて敷地の見学に赴き、金蔵坊が地相を見、宅磨為行が絵を描き、中原師員と三浦光村が使者となって其の次第を頼経に伝えた。本書は、此の一日を起点として、西暦1,235年7月15日、十二所の地に建った明王院の堂へ不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五体が納まる日迄の三年八ヶ月を、年月日単位で一元化した記録である。
11月11日、永福寺本堂の池の北方に、五大明王を祀る御堂を建立する事が決定される。藤原親実・御堂奉行の伊賀光宗・藤原定員が安陪晴賢以下の陰陽師を引き連れて本堂の裏山へ登り、方角を測量した。宇都宮辻子御所の位置と照らし合わせた結果、東北東と西南西の間であれば差し支え無いという事で意見が一致する。しかし其れは翌年に厄の方角へ当たる為、北条政子が方角変えの本所として使った庵を本所とすれば良いという話になった。所が安陪は、其の庵は北西では無く西北西であると答える。一連の経緯は鎌倉幕府へ報告され、20時、北条泰時の屋敷で尾藤景綱が奉行となって御堂を建立する日時が定められ、其の後ご馳走が出て親実・伊賀も同席した。
11月14日、雨。御堂の建設地は甘縄の、安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北、西山の周辺へと変更され、北条時房・北条泰時が現地を視察した。此の日は橘寺の開眼供養の日に当たる為に縁起が良くないとされ、安倍泰貞・安倍晴茂・安倍長重・安倍文元が占った所、橘寺の開眼供養は西暦1,091年の事であり、開眼供養と造作始めは全く別の事で忌むべきでは無いと答えた。藤原長定が「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」と述べると、法橋円全は辛未の日に吉事が行われた例として、西暦1,020年2月15日の興福寺阿弥陀堂の御塔建立、西暦1,100年8月13日の春日大社の一切経奉納と日吉神社の大般若経奉納、西暦1,118年11月7日の熊野山の一切経奉納、西暦1,136年4月6日の熊野山本宮の五重塔開眼供養、西暦1,184年11月14日の蓮華王院三十三間堂での万部経典の法要の五つを挙げた。日を選び、方角を選び、先例を並べる——建立の一日一日が、暦と故実の上で決められてゆく様が此処には露わになっている。
所が11月20日20時、北条時房の公文所が焼亡する。南風が激しく吹き、火は東の勝長寿院橋の辺りまで回り、西は永福寺の惣門の内門にまで及んだ。源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊も灰燼に帰し、人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた。11月22日、中原師員・三浦義村ら評定衆が集まり、伊賀光宗・佐藤業時が法華堂焼亡を報告して、「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては、前途を悲観し、恐るべき出来事である」とする意見書が各々提出された。法華堂の再建は「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」との発言を受けて助成金を出し寺家に言い付ける事となり、藤原頼経と竹御所の御願寺建設は延期が決まる。民衆は此れを徳政であるとして評価した。12月13日、中原師員・伊賀光宗・三善康連の指揮で五大明王像の建設が始まり、同じ日、焼亡した源頼朝の法華堂の上棟式が寺家を中心として執り行われた。
西暦1,234年8月23日、竹御所が死去する。難産の末に男児を死産した中での死であった。翌西暦1,235年2月4日、明王院の門の木作り始めが執り行われ、2月28日までに建設を完了する様命令が下って、藤原親実と狩野為佐が指揮を執る事となる。2月10日には総門が建立されたが、前年に安達義景が甘縄を建立地として定めていたにも拘らず、最終的な地は毛利季光の領地内であった。2月21日、建設予定地では、土公神のいる場所の土を犯す時に其の怒りを鎮める土公祭が始まり、陰陽師達は交代で連日行う様命じられる。2月22日には鎮守社の位置が議された。当初は唐門の外に建てる予定であったが土地が狭すぎる為、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村が現地に参集し、門内にするか御堂の裏山にするかで意見が割れた。裏山では御堂より高くなる事が気に掛かり、有識者と陰陽師に意見を乞うと、源光行・安陪親職・安陪晴賢が高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだと異口同音に答え、鎮守社は御堂の東側に決まった。
2月28日、空は晴れて風は静かであった。藤原頼経が後藤本綱の屋敷から建設予定地へ向かい、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村・長井泰秀・中条家長・三善康俊が供をする。安陪親職・安陪晴賢・安陪文元らの陰陽師が進み出て縁起の良い時間を申し上げ、12時、上棟式が開始された。棟梁は矢板二郎大夫、進行役の引頭は4名。式が終わると橘隆邦・清原季氏の手で褒美が渡され、棟梁には馬2頭に絹20反・染めた絹10反・綿10両・白い布10反・藍色の摺り染め布10反・奥州産の高級布10反・紺色の直垂10着・紺色の帷子10着・色付きの革10枚、引頭には馬1頭と絹10反等、桧皮葺き・壁塗り・鍛冶の職人には馬1頭ずつが与えられた。馬は北条時房・北条泰時・三浦義村・小山朝政・千葉時胤が頼経に献上したものの中から、政所で選定されている。3月8日、定豪が上棟を受けて一切経の供養を主催し、指導僧は興福寺東南院の公宴、願文は良信が読んだ。3月25日には鐘楼が建立され、北条時房・北条泰時が其処へやって来た。
残るは開眼供養の日取りである。4月7日、北条時房・北条泰時が宇都宮辻子御所へ出仕し、陰陽師の占いによって4月29日・5月6日・5月23日の三案が示された。4月29日は土木工事が終わっても荘厳が間に合わぬ恐れから外れ、残る二案を巡って安陪親職が5月23日の周辺は式典が多すぎると述べると、安陪晴賢は「式典が多いというのは元服式・着袴の式・引っ越し・嫁取り等でしょう。此の月は忌月なので、仏事は過去の例を見ても忌まれていません」と返し、法成寺・清凉寺・総持院が西暦で6月頃に建立された事、平等院の一切経の儀式が西暦で6月頃に始められた事を挙げて5月23日を推した。所が4月14日、其の日が鶴岡八幡宮寺の端午の節句の神事と重なると判って6月25日に延び、4月16日には頼経の外出に良くない日であるとの上申書が出て、4月17日、開眼供養は7月15日に決した。7月5日には洪鐘の鋳造に失敗する。藤原親実が鋳物師を叱りつけようとすると、鋳物師は銅が足りなかったのだ、銅を足すからと答え、銅1,125kgでの失敗を受けて10%増の1,237.5kgで鋳直され、今度は成功した。
そして西暦1,235年7月15日、明王院の開眼供養が執り行われる。朝は雨であった。8時、鋳直した高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされ、堂には不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された。藤原頼経は衣冠束帯に剣と笏を携え、西の廊下で西に向かい、安陪忠尚が反閇を務める。褒美の蘇芳染の生絹着物1領を大江佐房が狩衣を持って渡し、安陪は之を左肩に掛けた。頼経は小町大路を北へ、塔之辻を東へと進み、千葉常秀以下の先陣随兵、御車、調度懸、御後五位六位、寺門内役御釼、後陣随兵、検非違使と続く行列が之に従った。9:30から開眼供養が始まり、10時以降は晴れ、儀式其の物は11:30に開始されて曼荼羅が唱えられる。会場の準備は執行師の快深が指揮し、願文は菅原為長が下書きして西園寺実氏が清書した。初世明王院別当に就任した定豪が明王院平穏の祈祷を行い、光宝以下22名の僧が之に供奉して、18時に式は終わった。永福寺の北に始まり、甘縄を経て十二所に至った此の御堂の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 藤原頼経 本書の中心人物。鎌倉幕府第4代征夷大将軍。明王院の御願主。西暦1,231年11月1日、其の御願寺を永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定された。11月22日、源頼朝・北条義時の法華堂焼亡を受けて御願寺建設の延期が決まる。西暦1,235年2月28日、後藤本綱の屋敷から建設予定地に向かい7名を供にして上棟式に臨席、3月8日の一切経供養にも出席し、7月15日の開眼供養では衣冠束帯に剣と笏を携えて西の廊下で西に向かい、安陪忠尚の反閇を受けた。
- 北条時房 鎌倉幕府初代連署。西暦1,231年11月1日の建立地見学、11月14日の建設地変更の視察、西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地の話し合い、2月28日の上棟式、3月8日の一切経供養、3月25日の鐘楼建立、4月7日の開眼供養日検討、7月15日の開眼供養と、本書の主要局面の殆どに臨席した。但し西暦1,231年11月20日には自身の公文所が焼亡し、源頼朝・北条義時の法華堂までも灰燼に帰す契機となった、二つの立場を負う人物。
- 北条泰時 鎌倉幕府第3代執権。西暦1,231年11月1日に建立地の見学に赴き、11月11日には自身の屋敷で尾藤景綱を奉行として御堂建立の日時を決めた。11月14日の建設地変更の視察以降、西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地決定、2月28日の上棟式、3月8日の一切経供養、3月25日の鐘楼建立、4月7日の開眼供養日検討、4月14日・4月16日の自邸での日程再調整、7月15日の開眼供養に臨席した、本書の建設の最高責任者。
- 三浦義村 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月1日の建立地見学、11月22日の評定所出仕、西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地の話し合い、2月28日の上棟式に加わり、7月15日の開眼供養では先陣随兵を務めた。上棟式の褒美となる馬の献上者の1人でもあった、本書の重鎮。
- 中原師員 鎌倉幕府の実務官僚。西暦1,231年11月1日、三浦光村と共に御願寺建立の次第を藤原頼経へ伝える使者を務めた。11月22日には評定所で法華堂再建について「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」と発言、12月13日からは伊賀光宗・三善康連と共に五大明王像建設の指揮を執った。西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地の話し合い、2月28日の上棟式に加わり、7月15日の開眼供養では寺門内役御釼に名を連ねた、本書の建設実務の中心。
- 伊賀光宗 御堂奉行。西暦1,231年11月11日、藤原親実・藤原定員と共に永福寺本堂の裏山で方角を測量した。11月22日には佐藤業時と共に源頼朝・北条義時の法華堂焼亡を評定所へ報告、12月13日から中原師員・三善康連と共に五大明王像建設の指揮を執った、本書の建設実務の奉行。
- 藤原親実 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月11日、伊賀光宗・藤原定員と共に永福寺本堂の裏山で方角を測量した。西暦1,235年2月4日、狩野為佐と共に明王院の門の木作り始めの指揮を任される。7月5日の洪鐘の鋳造失敗に際しては鋳物師を叱りつけようとしたが、銅が足りなかったという弁明を容れ、10%増の銅での鋳直しを認めた、本書の門と洪鐘の責任者。
- 定豪 初世明王院別当。西暦1,235年3月8日、明王院上棟を受けて一切経の供養を主催し、興福寺東南院の公宴を指導僧に、良信を願文の読み手に迎えた。7月15日の開眼供養では明王院平穏の祈祷を行い、光宝・厳海・忠遍・定基・兼盛・承快・良全・定親・定清・実俊・円親・定雅・範乗・実果・隆弁・定憲・長全・定宗・定弁・親遍・定瑜・良賢の22名の僧を随行させた、本書の宗教的最高責任者。
- 竹御所 源頼家の娘。藤原頼経の妻。西暦1,231年11月1日、其の御願寺を永福寺の境内に建立する事が決まったが、11月22日の法華堂焼亡を受けて建設は延期された。西暦1,234年8月23日、難産の末に男児を死産した中で死去した、本書の哀切を成す人物。
- 毛利季光 鎌倉幕府御家人。西暦1,235年2月10日、明王院の総門が自身の領地内に建立された。前年に安達義景が甘縄を建立地として定めていたが、最終的に毛利の領地へ変更されている、本書の最終的な所領提供者。
- 安達義景 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月14日、其の屋敷の南が五大明王を祀る御堂の建設地に選ばれた。西暦1,234年には自ら甘縄を建立地として定めたが、翌年2月10日、総門は最終的に毛利季光の領地内に建立された。7月15日の開眼供養では先陣随兵を務めた、本書の当初の候補地の提供者。
- 千葉時胤 鎌倉幕府御家人。西暦1,231年11月14日、其の屋敷の北の西山の周辺が五大明王を祀る御堂の建設地に選ばれた。西暦1,235年2月28日の上棟式では、褒美となる馬の献上者の1人でもあった。
- 狩野為佐 鎌倉幕府御家人。西暦1,235年2月4日、藤原親実と共に明王院の門の木作り始めの指揮を任された。7月15日の開眼供養では寺門内役御釼を務めた。
- 矢板二郎大夫 棟梁。西暦1,235年2月28日の明王院の上棟式を率いた。橘隆邦・清原季氏から、馬2頭・絹20反・染めた絹10反・綿10両・白い布10反・藍色の摺り染め布10反・奥州産の高級布10反・紺色の直垂10着・紺色の帷子10着・色付きの革10枚という褒美を与えられた、本書の職人の筆頭。
- 安陪親職・安陪晴賢・安陪忠尚・安陪文元 陰陽師。明王院建立の各段階で方角と日時の占いを担った。西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地については、源光行と共に高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだと異口同音に意見した。4月7日の開眼供養日の検討では、晴賢が「此の月は忌月なので、仏事は過去の例を見ても忌まれていません」として法成寺・清凉寺・総持院・平等院の例を挙げて5月23日を推し、4月14日には忠尚が神事と重なるなら延期した方が良いと進言した。7月15日の開眼供養では忠尚が反閇を務めた、本書の陰陽道の指南役。
- 源光行 西暦1,235年2月22日の鎮守社建設地の決定に際し、安陪親職・安陪晴賢と共に、高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだと異口同音に意見した、本書の建設地選定の有識者。
- 法橋円全 西暦1,231年11月14日、藤原長定の「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」との発言に対し、西暦1,020年の興福寺阿弥陀堂の御塔建立、西暦1,100年の春日大社の一切経奉納、西暦1,118年の熊野山の一切経奉納、西暦1,136年の熊野山本宮の五重塔開眼供養、西暦1,184年の蓮華王院三十三間堂の万部経典の法要という5つの先例を挙げて反論した、本書の故実に通じた僧。
- 菅原為長・西園寺実氏 西暦1,235年7月15日の明王院開眼供養の願文の作り手。菅原為長が下書きを、西園寺実氏が清書を担当した。
- 快深 執行師。西暦1,235年7月15日の明王院開眼供養において、会場準備の指揮を執った。
主要な地名・拠点
- 明王院 現在の神奈川県鎌倉市十二所。藤原頼経の御願寺。西暦1,235年7月15日に開眼供養が執り行われ、高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされて、堂に不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された、本書の終着点にして題名を成す寺院。
- 永福寺 鎌倉。西暦1,231年11月1日、大慈寺と共に藤原頼経の御願寺の建立候補地とされ、又其の境内に竹御所の御願寺を建立する事が決まった地。11月11日には本堂の池の北方に五大明王を祀る御堂を建立する事が決定された。11月20日の公文所焼亡に際しては、惣門の内門まで火が及んでいる、本書の当初の計画地。
- 大慈寺 鎌倉。西暦1,231年11月1日、永福寺と共に藤原頼経の御願寺の建立候補地とされた地。
- 甘縄 鎌倉。西暦1,231年11月14日、五大明王を祀る御堂の建設地が永福寺から此処へ変更された。安達義景の屋敷の南で、千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺である。西暦1,234年にも安達義景が此処を建立地として定めたが、西暦1,235年2月10日、最終的に毛利季光の領地へ移った、本書の中間の候補地。
- 毛利季光の領地 鎌倉。西暦1,235年2月10日、明王院の総門が甘縄から変更されて建立された地、本書の最終的な建立地。
- 北条時房の公文所 鎌倉。西暦1,231年11月20日20時に焼亡した地。南風が激しく吹き、東は勝長寿院橋の辺りまで、西は永福寺の惣門の内門にまで火が回った、本書の延焼火災の発生源。
- 源頼朝の法華堂・北条義時の法華堂 鎌倉。西暦1,231年11月20日、北条時房の公文所の焼亡による延焼で、御本尊と共に灰燼に帰した地。人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた。11月22日の評定では前途を悲観すべき出来事とする意見書が提出され、12月13日には源頼朝の法華堂の上棟式が寺家を中心として執り行われた、本書の延焼の犠牲となった聖地。
- 宇都宮辻子御所 鎌倉。西暦1,231年11月11日、五大明王を祀る御堂の方角を測量する際に、位置の照合に用いられた地。西暦1,235年4月7日には北条時房・北条泰時が出仕し、陰陽師と共に開眼供養の日時を検討した、本書の政治的参照点。
- 後藤本綱の屋敷 鎌倉。西暦1,235年2月28日、藤原頼経が上棟式の為に明王院の建設予定地へ向かった出発地。
- 小町大路・塔之辻 小町大路は現在の神奈川県鎌倉市材木座・大町・小町、塔之辻は現在の神奈川県鎌倉市笹目町。西暦1,235年7月15日、開眼供養に臨む藤原頼経の行列が、小町大路を北へ、塔之辻を東へと進んだ地。
主要な事件・出来事
- 藤原頼経の御願寺建立決定 西暦1,231年11月1日、晴れの中、藤原頼経の御願寺を永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定された。又、永福寺の境内に竹御所の御願寺を建立する事も決まった。北条時房・北条泰時・三浦義村・二階堂行村・二階堂行盛が安陪泰貞・安陪晴賢・安陪重宗を連れて見学に行き、金蔵坊に地相を見させ、宅磨為行に絵を描かせ、中原師員・三浦光村が使者として藤原に伝えた、本書の発端。
- 五大明王を祀る御堂の建立決定 西暦1,231年11月11日、晴れの中、永福寺本堂の池の北方に五大明王を祀る御堂を建立する事が決定された。藤原親実・伊賀光宗(御堂奉行)・藤原定員が安陪晴賢以下の陰陽師を引き連れて本堂の裏山に登り方角を測量、宇都宮辻子御所と照らし合わせた所、東北東と西南西の間であれば問題無いとの事で意見が一致した。但し翌年に厄の方角に当たる為、北条政子が方角変えの本所として使った庵を本所とする話になったが、安陪は其の庵が北西では無く西北西であると答えた。20時、北条泰時の屋敷で尾藤景綱が奉行となり、御堂を建立する日時が決められた。
- 建設地の甘縄への変更と先例引用 西暦1,231年11月14日、雨の中、五大明王を祀る御堂の建設地が甘縄の安達義景の屋敷の南で千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺に変更され、北条時房・北条泰時が現地を視察した。此の日は橘寺の開眼供養の日で縁起が良く無いとされたが、安倍泰貞・安倍晴茂・安倍長重・安倍文元は、橘寺の開眼供養は西暦1,091年の事で、開眼供養と造作始めは全く別の事であり忌むべきでは無いと答えた。藤原長定の「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」との発言に対しては、法橋円全が西暦1,020年の興福寺阿弥陀堂御塔建立、西暦1,100年の春日大社一切経奉納、西暦1,118年の熊野山一切経奉納、西暦1,136年の熊野山本宮五重塔開眼供養、西暦1,184年の蓮華王院三十三間堂万部経典の法要という5例を挙げて反論した、本書の故実の応酬。
- 北条時房公文所焼亡と法華堂延焼 西暦1,231年11月20日20時、北条時房の公文所が焼亡した。南風が激しく吹き、東は勝長寿院橋の辺りまで火が回り、西は永福寺の惣門の内門にまで及んだ。源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊も灰燼に帰し、人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた、本書の延焼災害。
- 御願寺建設の徳政的延期 西暦1,231年11月22日、晴れの中、中原師員・三浦義村・二階堂行村・中条家長・二階堂行盛・三善康俊・三善康連が評定所に集まり、伊賀光宗・佐藤業時が源頼朝・北条義時の法華堂焼亡を報告、「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては、前途を悲観し、恐るべき出来事である」とする意見書が各々提出された。法華堂の再建は「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」として助成金を出し寺家に言い付ける事と決まり、藤原頼経と竹御所の御願寺建設の延期も決定された。民衆は此れを徳政であるとして評価した。
- 五大明王像の建設開始と源頼朝法華堂の上棟式 西暦1,231年12月13日、中原師員・伊賀光宗・三善康連の指揮により五大明王像の建設が開始された。又同日、焼亡した源頼朝の法華堂の上棟式が、寺家を中心として執り行われた、本書の建設の始まり。
- 竹御所の死産死去 西暦1,234年8月23日、竹御所が死去した。難産の末に男児を死産した中での死去であった。
- 明王院の門・総門の建立 西暦1,235年2月4日、明王院の門の木作り始めが執り行われ、2月28日には建設を完了する様命令が下って、藤原親実・狩野為佐が指揮する事となった。2月10日、明王院の総門が建立されたが、前年に安達義景が甘縄を建立地として定めていたにも拘らず、最終的に毛利季光の領地内に建立された、本書の建設の本格化。
- 土公祭と鎮守社の建設決定 西暦1,235年2月21日、明王院の建設予定地にて、土公神がいる場所の土を犯す時に其の怒りを鎮める土公祭が開始され、陰陽師達は交代で連日行う様命じられた。2月22日には鎮守社の建設が決定される。当初は唐門の外に建てる予定であったが土地が狭すぎる為、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村が参集し、門内にするか御堂の裏山にするかで意見が割れた。裏山では御堂の土地より高くなる為に有識者と陰陽師の意見を乞うと、源光行・安陪親職・安陪晴賢が高低で選ぶ必要は無く地形で選ぶべきだと異口同音に答え、御堂の東側の土地に決まった、本書の建築上の判断。
- 藤原頼経臨席の上棟式 西暦1,235年2月28日、空は晴れて風は静かな中、藤原頼経が後藤本綱の屋敷から明王院の建設予定地に向かい、北条時房・北条泰時・中原師員・三浦義村・長井泰秀・中条家長・三善康俊が供をした。安陪親職・安陪晴賢・安陪文元を始めとする陰陽師が縁起の良い時間を申し上げ、12時、棟梁矢板二郎大夫と4名の引頭による上棟式が開始された。橘隆邦・清原季氏により、棟梁には馬2頭・絹20反・染めた絹10反・綿10両・白い布10反・藍色の摺り染め布10反・奥州産の高級布10反・紺色の直垂10着・紺色の帷子10着・色付きの革10枚、引頭には馬1頭と絹10反等、桧皮葺き・壁塗り・鍛冶の職人には馬1頭ずつが褒美として与えられた。馬は北条時房・北条泰時・三浦義村・小山朝政・千葉時胤が献上したものが政所で選定された、本書の建設儀礼の頂点。
- 定豪主催の一切経供養 西暦1,235年3月8日、定豪が2月28日の明王院上棟を受けて一切経の供養を主催した。指導僧は興福寺の東南院の公宴、願文は良信が読み、藤原頼経・北条時房・北条泰時・武藤左近将監(藤原の刀持ち)が出席した、本書の上棟後の宗教儀礼。
- 鐘楼の建立 西暦1,235年3月25日、明王院に鐘楼が建立され、北条時房・北条泰時も其処へやって来た、本書の付属施設の完成。
- 開眼供養日程の3度に亙る調整 西暦1,235年4月7日、晴れの中、北条時房・北条泰時が宇都宮辻子御所へ出仕して開眼供養の日時を検討した。陰陽師の占いで4月29日(最上の日)・5月6日(少し良い日)・5月23日(最上の日)が候補となり、4月29日は荘厳が間に合わない可能性から外れた。安陪親職が5月23日の周辺は式典が多すぎると述べたのに対し、安陪晴賢は「式典が多いというのは元服式・着袴の式・引っ越し・嫁取り等でしょう。此の月は忌月なので、仏事は過去の例を見ても忌まれていません」と返し、法成寺・清凉寺・総持院が西暦で6月頃に建立された事、平等院の一切経の儀式が西暦で6月頃に始められた事を挙げて5月23日を推し、安陪忠尚・安陪宣俊・安陪資俊・安陪文元も同意した。しかし4月14日、5月23日が鶴岡八幡宮寺の端午の節句の神事と重なる事から6月25日に延期、4月16日には藤原頼経が外出するのに良くない日であるとの上申書が提出され、4月17日、開眼供養の日は7月15日に決定された、本書の日取りの二転三転。
- 洪鐘鋳造の失敗と再鋳造成功 西暦1,235年7月5日、明王院の洪鐘の鋳造に失敗した。藤原親実が鋳物師を叱りつけようとしたが、鋳物師は「銅が足りなかったので斯うなりました。銅を足しますから」と答え、銅1,125kgで失敗した為、10%増の1,237.5kgで鋳直されて成功した、本書の物造りの試練。
- 明王院の開眼供養 西暦1,235年7月15日、朝は雨の中、明王院の開眼供養が執り行われた。8時、鋳直した高さ157.56cm・幅121.2cmの洪鐘が吊るされ、堂に不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五大明王像が安置された。藤原頼経は衣冠束帯に剣と笏を携え、西の廊下で西に向かって開眼供養に臨み、安陪忠尚が反閇を務め、褒美の蘇芳染の生絹着物1領を大江佐房が狩衣を持って渡し、安陪は左肩に掛けた。藤原は小町大路を北へ、塔之辻を東へ進み、先陣随兵・御車・調度懸・御後五位六位・寺門内役御釼・後陣随兵・検非違使から成る行列が之に従った。9:30から開眼供養が始まり10時以降は晴れ、儀式は11:30に開始されて曼荼羅が唱えられ、執行師の快深が会場準備を指揮、願文の下書きは菅原為長、清書は西園寺実氏が務めた。初世明王院別当に就任した定豪が明王院平穏の祈祷を行い、光宝以下22名の僧が随行して、18時に式が終了した、本書の終結にして題名を成す法要。
永福寺の北から甘縄、そして十二所へ──
藤原頼経の御願寺・明王院が建つ迄の三年八ヶ月を一元化。
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