梶原景時の変と
城資盛・板額御前の
奮戦一元化
66名が血判を押し、梶原景時は鎌倉を追われた──
梶原景時の変と城氏の反乱を一元化。
228円(税込)
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本書について
西暦1,188年10月6日、源頼朝の帰依を受ける熊野の僧定任は、平氏側であった城長茂の赦免と御家人への取り立てを願い、長茂を大倉御所へ連れて来る許しを得た。白の水干に立烏帽子の長茂は、北側に梶原景時、南側に畠山重忠が列する中を進み、御簾に背を向けて横敷の座に着く。其処は頼朝の座だと梶原に注意されると、知らなかったと言って其の儘退出し、定任は推挙を取り止めた。だが1,189年の奥州征伐では、梶原の仲介で長茂の従軍が許され、新渡戸駅では長茂の郎従200名が加勢している。本書は、此の城長茂と梶原景時の縁から、1,201年の城資盛・板額御前の反乱の結末に至る迄を一元化した記録である。
1,199年11月15日、大倉御所の侍所で結城朝光は、頼朝の為に一万遍の念仏を唱える事を勧め、忠臣は二君に仕えずと言うが頼朝殿が亡くなられた時に出家を留まった事を悔いていると語った。2日後、阿野全成の妻阿波局は、其の言葉を謀反心の証拠として梶原景時が源頼家に讒言したと朝光に告げる。朝光から相談を受けた三浦義村は、和田義盛・安達盛長と話し合い、梶原を鎌倉から除く事を決めた。翌日、鶴岡八幡宮寺の回廊に千葉常胤・畠山重忠・比企能員ら66名が集まり、梶原と遺恨の有った中原仲業が、鶏を養う者は狸を飼わず、獣を飼う者は山犬を育てないとの一文を含む糾弾の連判状を読み上げ、皆が署名し血判を押す。連判状を預かりながら頼家に出さずにいた大江広元は、和田に梶原の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠すのは法に違えると詰め寄られ、12月1日に之を提出した。
連判状を渡されて弁解を求められた景時は、弁解をせぬ儘、梶原景季・景高らを率いて所領の相模国一之宮(現在の神奈川県高座郡寒川町)の館へ下った。鎌倉に残った梶原景茂は、比企能員の屋敷での蹴鞠の後の酒宴で頼家に対し、景時は頼朝殿の寵愛を受けていたから抜きん出ていただけで、今は他者から攻められるのを恐れていると答え、周囲は其の殊勝さを囁き合う。1,200年1月6日、和田義盛と三浦義村を奉行として景時の鎌倉追放が決まり、屋敷は解体されて永福寺の僧の住居となった。
2月6日、一之宮に城郭を構えていた景時は、息子達を伴って京都へ向けて発った。報を受けた幕府は三浦義村らを差し向けたが、其の夜、駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区興津)で一行は廬原小次郎・飯田家義・吉川友兼ら現地の武士に襲われる。景国・景則・景連らが次々に討たれ、景茂は吉川と相討ちとなり、景季と景高は後方の山で自害し、景時も西奈(現在の静岡県静岡市葵区)の山中で自害した。梶原一族33名の首は路頭に梟され、所領は没収されて恩賞に宛てられる。甲斐国から駆け付けた武田信光は、兄武田有義を征夷大将軍に擁立するという梶原の書簡が有り、有義は既に姿を消したと報告した。侍所で捕縛に抗った勝木則宗は、座った儘の畠山重忠に腕をへし折られ、梶原が九州支配の宣旨を求めていたと白状する。手柄を横取りするかの様な真壁紀内の讒言に対し、畠山は、弓矢に携わる武士なら私事を忘れて波多野盛通一人の手柄と言ってやるべきだと諭し、真壁は赤面した。
1,201年2月27日の夜、城長茂は、大番役で在京していた小山朝政の宿所を囲んだが、朝政は不在で、残った兵に退けられる。長茂は後鳥羽上皇と土御門天皇の居る仙洞御所の二条東洞院殿の門を閉ざして源頼家追討の宣旨を求めたが、上皇は拒んだ。長茂は清水坂から吉野山へ逃れ、3月28日、出家したばかりの所を吉野の奥で幕府軍に討たれる。朝廷は乱を鎮める為に「建仁」と改元し、長茂と郎党の首は平安京を引き回された。長茂に呼応した甥の城資盛と、弓の名手である資盛の叔母板額御前は、越後国蒲原の鳥坂城(現在の新潟県胎内市羽黒)で兵を挙げ、攻め寄せた越後国・佐渡国の御家人を退けた。
上野国磯部郷(現在の群馬県安中市磯部等)で御教書を受け取った佐々木盛綱は、屋敷にも戻らず越後国へ直行し、軽はずみではと問う家族に、平将門の乱の追討使藤原忠文は食事中に宣旨を受けて箸を投げ捨て参内したと答えた。阿賀野川を渡って鳥坂城に迫った幕府軍に対し、1,000名の城軍は、木柵と逆茂木で固めた城から矢石で迎え撃つ。6月10日頃、髪を結い上げ腹巻を着けて矢倉に立った板額御前は、百発百中で幕府兵を射抜いたが、藤沢清親の矢に両腿を貫かれて捕えられ、城軍は崩れて4時間の戦闘の末に落城した。7月29日、傷の癒えぬ儘大倉御所に招かれた板額御前は、畠山重忠・小山朝政・和田義盛らの居並ぶ前でも、頼家の前でも臆する事無く堂々としていた。翌日、浅利義遠が妻に迎えたいと願い出ると、頼家は、顔立ちは良いが心の猛々しさを思えば誰が愛らしく思おうかと笑って許し、板額御前は甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)で一男一女を儲けた——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 梶原景時 源頼朝の寵愛を受けた御家人。城長茂の奥州征伐への従軍を仲介した。結城朝光の言葉を謀反心と讒言したとして66名の連判状で糾弾され、弁解せずに相模国一之宮へ下った。鎌倉を追放された後、京都へ向かう途上の駿河国清見関で襲われ、西奈の山中で自害した。
- 源頼家 鎌倉幕府第2代将軍。連判状を梶原景時に渡して弁解を求め、勝木則宗の捕縛を命じた。鳥坂城の落城後、板額御前を大倉御所に招き、浅利義遠が妻に迎える事を笑いながら許した。
- 結城朝光 頼朝の為の一万遍の念仏を勧め、忠臣は二君に仕えずと語った事を、梶原景時に謀反心と讒言された。阿波局の警告を受け、三浦義村に相談した。
- 阿波局 阿野全成の妻。梶原景時の讒言で殺されるかも知れないと結城朝光に告げ、梶原排斥の発端を作った。
- 三浦義村 結城朝光の相談を受け、和田義盛・安達盛長と話し合って梶原景時の排除を決めた。追放の評定の奉行を務め、清見関へも差し向けられた。
- 和田義盛 連判状を預かりながら提出しない大江広元を、梶原の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠すのは法に違えると詰問した。追放の評定の奉行を務め、勝木則宗を取り調べた。
- 中原仲業 文章が上手と評判で、梶原景時と遺恨の有った人物。糾弾の連判状の文章を作成し、66名の前で読み上げた。
- 大江広元 連判状を預かったが源頼家に出さずにいた。和田義盛に詰問されて提出し、其の後も城資盛征伐の協議等に加わった。
- 畠山重忠 城長茂が横敷の座に着いた場に列席していた。座った儘勝木則宗の腕をへし折って捕え、手柄を巡る真壁紀内の讒言には、武士なら私事を忘れよと諭した。
- 梶原景茂 梶原景時の息子。父が一之宮に下った後も鎌倉に残り、頼家に父の立場を殊勝に説いた。清見関の襲撃で吉川友兼と相討ちとなった。
- 梶原景季 梶原景時の息子。父と共に一之宮へ下り、清見関の襲撃の際、弟景高と共に後方の山で自害した。
- 武田信光 兄の武田有義が梶原景時の書簡に応じて征夷大将軍に擁立されようとし、既に姿を消したと幕府に報告した。
- 勝木則宗 梶原景時と通じていた武士。侍所で捕縛に抗って腰刀を抜いたが、畠山重忠に腕をへし折られ、梶原が九州支配の宣旨を求めていたと自白した。
- 定任 源頼朝の帰依を受けた熊野の僧。城長茂の赦免と御家人への取り立てを願ったが、横敷の座の一件で推挙を取り止めた。
- 城長茂 越後国の豪族で、平氏側であった武士。横敷の座の一件を経て、梶原景時の仲介で奥州征伐に従軍した。1,201年、京都で小山朝政の宿所を襲い、後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を求めたが拒まれ、吉野の奥で討たれた。
- 小山朝政 梶原景時に代わって播磨国守護職に就いた。大番役で在京中、城長茂に宿所を襲われたが不在で難を逃れ、清水坂へ追撃した。
- 後鳥羽上皇 仙洞御所の門を閉ざした城長茂から源頼家追討の宣旨を求められたが、拒否した。
- 城資盛 城長茂の甥。長茂に呼応して越後国蒲原の鳥坂城で挙兵し、越後国・佐渡国の御家人を退けた。佐々木盛綱の軍と戦い、4時間の戦闘の末に落城した。
- 板額御前 城資盛の叔母で弓の名手。鳥坂城の矢倉に立って百発百中で幕府兵を射抜いたが、藤沢清親に両腿を射られて捕えられた。源頼家の前でも臆さず堂々とし、浅利義遠の妻となって一男一女を儲けた。
- 佐々木盛綱 上野国で城資盛征伐の御教書を受け取るや、屋敷に戻らず越後国へ直行した。越後国・佐渡国・信濃国の御家人を集めて鳥坂城を攻め落とした。
- 藤沢清親 鳥坂城の攻防で板額御前の両腿に矢を命中させ、捕虜とした。其の身柄を鎌倉へ護送した。
- 浅利義遠 板額御前を妻に迎えたいと源頼家に願い出て許され、本拠の甲斐国八代郡浅利郷へ伴って一男一女を儲けた。
- 武田有義 武田信光の兄。梶原景時と同心し、征夷大将軍に擁立されようとしていたが、屋敷から逃げ去り行方知れずとなった。
- 藤原高衡 城長茂の軍に加わったが離脱し、藤原範季の屋敷に逃げ込んだ。後に連れ戻され、幕府軍に殺害された。
主要な地名・拠点
- 大倉御所 城長茂が横敷の座に着いた御所。結城朝光の念仏発言の場となった侍所が在り、捕えられた板額御前も此処で源頼家と面会した。
- 鶴岡八幡宮寺 1,199年11月18日、66名の御家人が回廊に集まり、梶原景時糾弾の連判状に署名・血判した。
- 新渡戸駅 杉渡土(現在の栃木県那須塩原市越堀)・寒井(現在の栃木県大田原市)付近。奥州征伐の大手軍が到着し、城長茂の郎従200名が加勢した。
- 比企能員の屋敷 源頼家らが蹴鞠をした後の酒宴で、梶原景茂が父の立場を説いた屋敷。
- 相模国一之宮 現在の神奈川県高座郡寒川町。梶原景時が弁解せずに下り、城郭を構えた所領の館。
- 駿河国清見関 現在の静岡県静岡市清水区興津。京都へ向かう梶原景時一行が現地の武士に襲われ、一族が次々に討たれた地。
- 西奈 現在の静岡県静岡市葵区。梶原景時が山中で自害した地。
- 平安京東洞院大路東 現在の京都府京都市南区東九条南山王町。大番役の小山朝政の宿所が在り、城長茂の軍に包囲された。
- 仙洞御所二条東洞院殿 城長茂が四方の門を閉ざし、後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を求めた御所。
- 清水坂 現在の京都府京都市東山区。宣旨を拒まれた城長茂が潜伏した地。
- 吉野山 城長茂が潜伏し、出家したばかりの所を幕府軍に討たれた地。
- 鳥坂城 越後国蒲原(現在の新潟県胎内市羽黒)の城。城資盛と板額御前が籠り、木柵と逆茂木で固めて幕府軍を迎え撃った。
- 阿賀野川 佐々木盛綱が軍を再編成して渡り、鳥坂城へ迫った川。
- 上野国磯部郷 現在の群馬県安中市磯部等。佐々木盛綱が城資盛征伐の御教書を受け取り、越後国へ直行した地。
- 甲斐国八代郡浅利郷 現在の山梨県中央市浅利。浅利義遠の本拠で、板額御前が嫁いで一男一女を儲けた地。
主要な事件・出来事
- 横敷の座の一件(1,188年10月6日) 大倉御所に招かれた城長茂が頼朝の座に着き、梶原景時に注意されて退出する。
- 奥州征伐への従軍(1,189年9月) 梶原景時の仲介で城長茂の従軍が許され、新渡戸駅で郎従200名が加勢する。
- 結城朝光の念仏発言(1,199年11月15日) 頼朝の為の一万遍の念仏を勧め、忠臣は二君に仕えずと語る。
- 阿波局の警告(1,199年11月17日) 梶原景時の讒言を朝光に告げ、三浦義村らが梶原の排除を決める。
- 66名の連判状(1,199年11月18日) 鶴岡八幡宮寺の回廊で、中原仲業の作った糾弾の連判状に66名が署名・血判する。
- 和田義盛の詰問と連判状の提出(1,199年11月29日〜12月1日) 提出を渋る大江広元を和田が詰め、連判状が頼家に渡る。
- 一之宮への下向(1,199年12月2日) 梶原景時が弁解をせず、子息を率いて相模国一之宮へ下る。
- 鎌倉追放の評定(1,200年1月6日) 和田義盛・三浦義村を奉行として追放が決まり、屋敷は永福寺に寄附される。
- 清見関の襲撃と梶原一族の滅亡(1,200年2月6日) 京都へ向かう一行が現地の武士に襲われ、景時は西奈の山中で自害する。
- 梶原一族の梟首と所領没収(1,200年2月) 一族33名の首が梟され、所領が没収されて恩賞に宛てられる。
- 武田有義擁立計画の発覚(1,200年2月14日) 武田信光が、兄有義を征夷大将軍に擁立する梶原の書簡の存在を報告する。
- 勝木則宗の捕縛(1,200年2月17日) 畠山重忠が勝木の腕をへし折って捕え、梶原の九州支配の企てが明らかになる。
- 畠山重忠の諭し(1,200年2月21日) 手柄を巡る真壁紀内の讒言に、畠山が武士の道を説いて赤面させる。
- 城長茂の京都での挙兵(1,201年2月27日) 小山朝政の宿所を襲い、後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を求めるが拒まれる。
- 鳥坂城での挙兵(1,201年3月頃) 城資盛と板額御前が越後国蒲原の鳥坂城で兵を挙げる。
- 城長茂の最期と建仁改元(1,201年3月28日〜29日) 吉野の奥で長茂が討たれ、朝廷が「建仁」と改元する。
- 佐々木盛綱の出陣(1,201年5月8日) 御教書を受け取った盛綱が、屋敷に戻らず越後国へ直行する。
- 鳥坂城の攻防と板額御前の奮戦(1,201年6月10日頃) 矢倉の板額御前が百発百中で射抜くが、藤沢清親に両腿を射られ、城は4時間で落ちる。
- 板額御前の謁見(1,201年7月29日) 傷の癒えぬ板額御前が大倉御所で源頼家と面会し、堂々とした態度を見せる。
- 浅利義遠への嫁入り(1,201年7月30日) 浅利義遠が妻に迎えたいと願い出て許され、板額御前は甲斐国へ下る。
矢倉の上の女武者は、百発百中で射抜いた──
城資盛・板額御前の奮戦を一元化。
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