電子書籍「梶原景時の変と城資盛・板額御前の奮戦一元化」の表紙

梶原景時の変と城資盛・板額御前の奮戦一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,188年10月6日〜1,201年7月30日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月17日

結城朝光の念仏・66名連判状・清見関の襲撃・城長茂の大番役夜襲・板額御前の鳥坂城──
源頼朝死後の鎌倉幕府の動乱を一本の時系列に貫く。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1188年10月、熊野の僧定任が平氏側であった城長茂を源頼朝に推挙し、大倉御所の横敷の座で城が失策を犯した日から、西暦1201年7月、鳥坂城で城資盛と共に反乱を起こし鎌倉幕府軍と戦って捕縛された板額御前が、浅利義遠の室として甲斐国八代郡浅利郷へ下向した日まで。本書は、源頼朝死後の鎌倉幕府における梶原景時失脚の政変と、其の余波として発生した城長茂・城資盛の乱、そして弓の名手板額御前の奮戦を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1188年10月6日、熊野の僧定任が大倉御所に招かれ、平氏側であった城長茂の赦免と御家人加入を源頼朝に訴えた。城は白の水干に立烏帽子で参上したが、南側に畠山重忠・北側に梶原景時が列席する中、御伩に背を向けて横敷の座に着席し、梶原から「其処は源殿の座る所である」と注意を受け「知らなかった」と言って退出した。定任は御家人推挙を取り止めたが、西暦1189年9月1日の奥州征伐出発に際しては梶原の仲介により城の従軍が許され、9月10日、新渡戸駅にて城の郎従200名が源頼朝・畠山重忠率いる大手軍に加勢した。此れが梶原景時と城氏の絆を結ぶ契機となり、後の連鎖反応の伏線となる。

西暦1199年11月15日、結城朝光が大倉御所の侍所にて夢のお告げを受けたとして死去した源頼朝の為に一万遍の念仏を唱え、「忠臣は二君に仕えずと申すが、源頼朝殿が亡くなられた時に出家を留まった事を大変後悔している」と発言、周囲の者達を涙させた。11月17日、阿野全成の妻阿波局が結城に「一昨日の貴方の発言が謀反心の有る証拠であると梶原景時が源頼家に讒言した事により、貴方は殺されてしまうかも知れません」と告げ、結城は三浦義村に相談、和田義盛・安達盛長との協議を経て梶原排除が決定された。11月18日、千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政等66名が鶴岡八幡宮寺の回廊に集結し、中原仲業が作成した梶原景時糾弾の連判状に署名・血判、和田義盛と三浦義村が大江広元に提出した。大江は源頼家への提出を暫く躊躇したが、11月29日の和田の激しい詰問を受け、12月1日に提出した。12月2日、梶原は弁解せぬ儘息子梶原景季・梶原景高を伴って相模国一之宮の館へ下り、28日に鎌倉に帰還した。

西暦1200年1月6日、和田義盛・三浦義村両奉行により梶原景時の鎌倉追放が下り、2月6日2時、景時は景季・景高・景茂を伴い京都へ向けて一之宮を出発した。同日22時、駿河国清見関にて廬原小次郎・飯田家義・吉川友兼等現地武士の襲撃を受け、景国・景則・景連ら一族が討ち取られ、景季・景高は後方の山で自害、景時自身は西奈の山中で自害、一族33名の首が2月7日に平安京で梟首された。2月14日には武田信光が兄武田有義と梶原の密謀を報告、2月17日には勝木則宗が畠山重忠の機転により捕縛され、九州宣旨を巡る梶原の企てが発覚した。西暦1201年2月27日夜、城長茂が大番役として京都に滞在していた小山朝政の宿所を襲撃、後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を要求するも拒否され清水坂に潜伏、3月頃、城資盛と叔母の弓の名手板額御前が越後国蒲原の鳥坂城にて呼応して反乱を起こした。城長茂は3月28日に吉野山で鎌倉幕府軍に殺害され、3月29日には「建仁」への改元が行われた。6月10日頃、佐々木盛綱率いる鎌倉幕府軍が鳥坂城へ先制攻撃を仕掛け、矢倉に立って百発百中で幕府兵を仕留めていた板額御前は、藤沢清親の矢に両腿を射られて倒れ捕縛、4時間の戦闘の末鳥坂城は落城した。7月29日、鎌倉に護送された板額御前が大倉御所に招かれ、傷未治ながらも堂々と源頼家と対面、翌30日、浅利義遠の嘆願により其の室として甲斐国八代郡浅利郷へ下向し、一男一女を儲けた。


登場人物

  • 梶原景時 鎌倉幕府侍所所司。源頼朝の寵臣として権威を振るい、源義経・静御前の追及にも関与した讒言者。西暦1199年11月17日、結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」発言を謀反心の証拠として源頼家に讒言した事が、66名連判状の契機となった。西暦1200年2月6日、一之宮から京都へ向かう途上、駿河国清見関で現地武士の襲撃を受け、西奈の山中で自害した。
  • 源頼家 鎌倉幕府第2代征夷大将軍。西暦1199年12月1日に大江広元から66名連判状の提出を受け、梶原景時に弁解を求めた。西暦1200年1月6日に梶原の鎌倉追放を決定、2月17日には勝木則宗の捕縛を命じた。西暦1201年7月29日に板額御前と大倉御所で対面、翌30日に浅利義遠との縁組を許可した、本書期間中の鎌倉幕府の主権者。
  • 結城朝光 小山政光の参男。鎌倉幕府御家人。西暦1189年9月の奥州征伐に従軍。西暦1199年11月15日、大倉御所の侍所にて夢のお告げを受けたとして源頼朝の為に一万遍の念仏を唱え、「忠臣は二君に仕えずと申すが、源頼朝殿が亡くなられた時に出家を留まった事を大変後悔している」と発言、梶原景時の変の発端を作った人物。
  • 阿波局 阿野全成の妻。北条政子の妹。西暦1199年11月17日、結城朝光に対し「一昨日の貴方の発言が謀反心の有る証拠であると梶原景時が源頼家に讒言した事により、貴方は殺されてしまうかも知れません」と告げた。梶原景時の変の火付け役。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。西暦1199年11月17日、結城朝光からの相談を受け、和田義盛・安達盛長と協議して梶原景時排除を決定した。連判状の「鶏を養う者は狸を飼わず、獣を飼う者は山犬を育てない」との一文に感心した。西暦1200年1月6日、和田と共に梶原追放の評定を行い、2月6日には梶原征伐軍の一員として派遣された、梶原景時の変の中心的策謀者。
  • 和田義盛 鎌倉幕府御家人、侍所別当。西暦1199年11月18日の連判状を三浦義村と共に大江広元に提出、11月29日には提出を躊躇する大江を「関東の爪牙耳目として長年働いてきた貴殿が、梶原景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と激しく詰問した。西暦1200年1月6日、三浦と共に梶原追放の評定を行った。西暦1200年2月17日には捕縛された勝木則宗の取り調べを行った、梶原景時の変の実行力を担った人物。
  • 中原仲業 鎌倉幕府の文章家。文章が上手と評判で、梶原景時と遺恨が有った人物。西暦1199年11月18日の66名連判状の文章を作成して読み上げた、梶原景時糾弾の理論武装を担った人物。西暦1199年12月7日の比企能員邸での梶原景茂との酒宴にも同席した。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1199年11月18日、和田義盛・三浦義村から連判状の提出を受けるも、源頼家への提出を躊躇した。11月29日に和田の激しい詰問を受け、12月1日に漸く提出した。西暦1200年2月6日の梶原征伐の審議にも北条時政・三善康信と共に加わった、梶原排除の事務的実行者。
  • 畠山重忠 鎌倉幕府御家人。西暦1188年10月6日の城長茂の大倉御所参上時には南側に列席した。西暦1199年11月18日の66名連判状に署名、西暦1200年2月17日には勝木則宗捕縛時に波多野盛通を助ける為、座った儘左手を伸ばし勝木の右手を掴んで腕をへし折り、2月21日には真壁紀内の讒言に対し「此の様な讒言は最も無益な事、弓矢に携わる武士ならば私事を忘れるのが本来」と説いた武士道の体現者。
  • 小山朝政 鎌倉幕府御家人。西暦1189年9月の奥州征伐に弟長沼宗政・結城朝光と共に従軍。西暦1200年1月17日、梶原景時に代わり播磨国守護職に就任、2月11日には播磨国5ヶ荘の地頭に補任された。西暦1201年2月27日、大番役として京都に滞在中、平安京東洞院大路東の宿所を城長茂に襲撃されたが、土御門天皇の行幸供奉で不在であった。清水坂への追撃も行った、梶原の後任。
  • 梶原景季 梶原景時の長男。西暦1199年12月2日、父と共に一之宮へ下向。西暦1200年2月6日、父と弟景高・景茂を伴い京都へ向けて一之宮を出発、駿河国清見関での襲撃を受け、後方の山で自害した。
  • 梶原景高 梶原景時の弐男。西暦1199年12月2日、父と共に一之宮へ下向。西暦1200年2月6日、父と兄景季・弟景茂を伴い京都へ向けて一之宮を出発、駿河国清見関での襲撃を受け、兄景季と共に後方の山で自害した。
  • 梶原景茂 梶原景時の参男。西暦1199年12月2日の父の一之宮下向時には鎌倉に残った。12月7日、比企能員邸の蹴鞠の後の酒宴にて源頼家と対面し、「景時殿は頼朝殿の寵愛を受けていたから他の者より抜きん出ていただけで、頼朝が亡くなってからどうして非議を行えるだろうか」と釈明、其の殊勝な返答が周囲の評判となった。西暦1200年2月6日、父と京都へ向けて一之宮を出発、駿河国清見関で吉川友兼に討ち取られた。
  • 梶原朝景 梶原一族の人物。西暦1200年2月11日夜、北条時政の屋敷に出頭し、工藤行光経由で武器を差し出した、梶原一族の中で降伏を選んだ人物。
  • 定任 熊野の僧。源頼朝の帰依を受けており、城長茂とも信仰で結ばれていた。西暦1188年10月6日、大倉御所に招かれ城長茂の赦免と御家人加入を訴え、源頼朝の許可を得るも、城の横敷の座着席の失策を受けて御家人推挙を取り止めた、城氏と鎌倉幕府の絆を作ろうとして失敗した人物。
  • 城長茂 越後国の武将。平氏側であったが、西暦1188年10月6日の定任による推挙を受け赦免、西暦1189年9月10日には奥州征伐で郎従200名を率いて参戦した。西暦1201年2月27日夜、大番役として京都に滞在中の小山朝政の宿所を襲撃、後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を要求するも拒否され清水坂に潜伏、3月28日に吉野山で鎌倉幕府軍に殺害された、城氏の乱の中心人物。
  • 城資盛 城長茂の甥。西暦1201年3月頃、叔父に呼応して越後国蒲原の鳥坂城にて叔母板額御前と共に反乱を起こした。6月10日頃の4時間に亙る攻防戦の末、鳥坂城は落城した、城氏の乱の現場指揮者。
  • 板額御前 城資盛の叔母。弓の名手。西暦1201年3月頃、甥城資盛と共に越後国蒲原の鳥坂城にて反乱を起こした。6月10日頃の鳥坂城攻防戦では、髪を結い上げ腹巻きを身に付け矢倉の上に立ち、次々と弓で鎌倉幕府兵を百発百中で仕留めたが、藤沢清親の矢に両腿を射られて捕縛された。7月29日に鎌倉の大倉御所に招かれ、傷未治ながらも堂々と源頼家と対面、7月30日に浅利義遠の室となり甲斐国八代郡浅利郷へ下向、一男一女を儲けた、本書の題名を成す女性武将。
  • 佐々木盛綱 鎌倉幕府御家人。西暦1201年5月6日、北条時政・大江広元・三善康信の協議により城資盛征伐の大将に任じられた。5月8日、上野国磯部郷の屋敷門外で御教書を受け取り、家族の制止を振り切り「追討使となった藤原忠文は、朱雀天皇から宣旨を受けた時は食事中であったが、箸を投げ捨て参内し、刀を拝領して、直様平征伐へ向かった」と答えて越後国へ直行、6月10日頃の鳥坂城陥落を指揮した、城氏の乱の鎮圧者。
  • 藤沢清親 鎌倉幕府御家人。西暦1201年6月10日頃の鳥坂城攻防戦において、矢倉の上で百発百中の弓で鎌倉幕府兵を仕留めていた板額御前の両腿に矢を命中させ、倒れた板額御前を捕虜とした。其の後、板額御前を鎌倉に護送した人物。
  • 浅利義遠 甲斐国八代郡浅利郷の武将。西暦1201年7月30日、源頼家に板額御前を妻として迎え入れたい旨を伝え、「只同心の契りを交わして武勇に秀でた男子を儲け、朝廷や武家に忠義を尽くさせる為です」と嘆願して許可された。其の後板額御前を伴って甲斐国八代郡浅利郷へ下向し、一男一女を儲けた、本書の締め括りを成す人物。
  • 藤原高衡 藤原秀衡の四男。源義経の首級を鎌倉に持ち込み首実検に供した経歴を持つ。西暦1201年2月27日の城長茂の小山朝政宿所襲撃に参加したが、途中で離脱して藤原範季の屋敷に逃げ込んだ。西暦1201年4月4日、城長茂の郎党により藤原範季の屋敷から連れ戻され、鎌倉幕府軍に殺害された、奥州藤原氏最後の余燼。
  • 武田有義 甲斐源氏。梶原景時の密謀相手。西暦1200年2月14日、弟武田信光の鎌倉幕府への報告により、梶原と密かに上洛しようとしていた事、鎌倉幕府への反逆を企て土御門天皇に許可を得、九州の武士を糾合して自らを征夷大将軍に擁立する梶原の計画に同心していた事が発覚、屋敷から逃亡した。
  • 勝木則宗 梶原景時と通じていた武士。相撲が達者で大力の持ち主。西暦1200年2月17日、大倉御所の侍所にて波多野盛通による捕縛を逃れようと腰刀を抜いて刺そうとしたが、畠山重忠に右手を掴まれて腕をへし折られ捕縛、和田義盛の取り調べで「梶原景時は、九州の一族に向けて、九州を支配する為の宣旨を要求したから、急いで京都に来る様促す主旨の書簡を送っていた」と自白した。

主要な地名・拠点

  • 大倉御所 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。鎌倉幕府の本拠。西暦1188年10月6日の城長茂の横敷の座事件、西暦1199年11月15日の結城朝光の一万遍念仏発言、西暦1200年2月17日の勝木則宗捕縛、西暦1201年7月29日の板額御前と源頼家の対面等、本書の主要局面の多くが起きた地。
  • 鶴岡八幡宮寺 現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。西暦1199年11月18日、千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政等66名が回廊に集結し、中原仲業が作成した梶原景時糾弾の連判状に署名・血判をした地。梶原景時の変の象徴的舞台。
  • 比企能員の屋敷 鎌倉の比企能員邸。西暦1199年12月7日、源頼家・北条時房・比企時員等による蹴鞠の後、酒宴にて源頼家と梶原景茂が対面した地。景茂の「景時殿は頼朝殿の寵愛を受けていたから他の者より抜きん出ていただけ」との殊勝な釈明がなされた場所。
  • 相模国一之宮 現在の神奈川県高座郡寒川町。梶原景時の所領。西暦1199年12月2日、連判状を受けた景時が弁解せぬ儘息子梶原景季・景高を伴い下向、12月28日に鎌倉に帰還した。西暦1200年1月6日の鎌倉追放後に再度下り城郭を構え防戦の備えをしていた地であり、2月6日2時に京都へ向けて出発した出発点。
  • 駿河国清見関 現在の静岡県静岡市清水区興津。西暦1200年2月6日22時、梶原景時一行が到着した所、廬原小次郎・工藤八郎・工藤六郎・三沢小次郎・飯田家義・吉川友兼等現地武士の襲撃を受けた地。梶原一族滅亡の現場。
  • 西奈 現在の静岡県静岡市葵区。西暦1200年2月6日の清見関の襲撃の後、梶原景時が自害した山中。梶原景時終焉の地。
  • 新渡戸駅 杉渡土(現在の栃木県那須塩原市越堀)・寒井(現在の栃木県大田原市)付近。西暦1189年9月10日、奥州征伐の源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が到着し、城長茂の郎従200名が加勢した地。梶原景時と城氏の絆が強化された場所。
  • 平安京東洞院大路東 現在の京都府京都市南区東九条南山王町。小山朝政の京都における大番役の宿所。西暦1201年2月27日夜、城長茂率いる軍に包囲されたが、小山は土御門天皇の仙洞御所行幸供奉で不在であった為難を逃れ、残留兵の応戦により城は退却した。城氏の乱の京都における第一舞台。
  • 仙洞御所二条東洞院殿 後鳥羽上皇の京都の御所。西暦1201年2月27日夜、城長茂が小山朝政の宿所襲撃の後に参上し、四方の門を閉ざして源頼家追討の宣旨を要求したが、後鳥羽上皇に拒否された地。城氏の乱の政治的転換点。
  • 清水坂 現在の京都府京都市東山区。西暦1201年2月27日夜、後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を拒否された城長茂率いる軍が退却して潜伏した地。小山朝政の追撃時には既に城は居なかった。
  • 吉野山 現在の奈良県吉野郡吉野町。西暦1201年3月28日、出家したばかりであった城長茂が郎党新津四郎を含む5名と共に鎌倉幕府軍に殺害され、別の5名が捕虜となった地。城長茂終焉の地。
  • 越後国蒲原の鳥坂城 現在の新潟県胎内市羽黒。西暦1201年3月頃、城資盛と叔母の弓の名手板額御前が反乱を起こし篭城した地。帯曲輪に木柵が巡らされ、空堀には逆茂木が立ち並ぶ堅固な山城で、6月10日頃の4時間に亙る攻防戦の末、板額御前が藤沢清親の矢に倒れ落城した、城氏の乱の最終舞台。
  • 阿賀野川 現在の新潟県・福島県・群馬県。西暦1201年5月11日、佐々木盛綱率いる鎌倉幕府軍が渡河し、城資盛との決戦に臨んだ川。鳥坂城攻略の戦略的分水嶺。
  • 上野国磯部郷 現在の群馬県安中市磯部・上磯部・下磯部・東上磯部・西上磯部。佐々木盛綱の居所。西暦1201年5月8日、門外で鎌倉幕府からの御教書を受け取った佐々木が、屋敷に戻らず越後国へ直行した出発点。
  • 甲斐国八代郡浅利郷 現在の山梨県中央市浅利。浅利義遠の本拠。西暦1201年7月30日、板額御前が浅利の室として下向し、一男一女を儲けた地。本書の終着点。

主要な事件・出来事

  • 横敷の座事件 西暦1188年10月6日、熊野の僧定任の推挙を受け大倉御所に招かれた城長茂が、白の水干に立烏帽子で参上するも、御伩に背を向けて横敷の座に着席し、梶原景時から「其処は源殿の座る所である」と注意を受け退出した。定任は城の御家人推挙を取り止めたが、此の失策が後の梶原の仲介と連動する伏線となる。
  • 奥州征伐への従軍許可 西暦1189年9月1日、源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が鎌倉を出発、梶原景時の仲介により城長茂も従軍が許された。9月10日、新渡戸駅にて城の郎従200名が加勢、梶原景時と城氏の絆を強化する事件。
  • 結城朝光の一万遍念仏発言 西暦1199年11月15日、結城朝光が大倉御所の侍所にて夢のお告げを受けたとして死去した源頼朝の為に一万遍の念仏を唱え、「忠臣は二君に仕えずと申すが、源頼朝殿が亡くなられた時に出家を留まった事を大変後悔している」と発言、周囲を涙させた、梶原景時の変の発端。
  • 阿波局の警告 西暦1199年11月17日、阿野全成の妻阿波局が結城朝光に「一昨日の貴方の発言が謀反心の有る証拠であると梶原景時が源頼家に讒言した事により、貴方は殺されてしまうかも知れません」と告げた。結城が三浦義村に相談し、和田義盛・安達盛長との協議を経て梶原排除が決定された、政変の引き金。
  • 66名連判状 西暦1199年11月18日、千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政等66名が鶴岡八幡宮寺の回廊に集結、中原仲業が作成した梶原景時糾弾の連判状に署名・血判した。「鶏を養う者は狸を飼わず、獣を飼う者は山犬を育てない」との一文に三浦義村が感心、和田義盛と三浦義村が大江広元に提出したが、大江は暫く源頼家への提出を躊躇した、本書最大の政治的文書。
  • 和田義盛の大江詰問 西暦1199年11月29日、和田義盛が大江広元に連判状の提出状況を尋ね、未提出と知ると「貴殿は、関東の爪牙耳目として長年働いてきた。梶原景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と激しく詰問した、政変実行の圧力を示す場面。
  • 連判状の源頼家提出 西暦1199年12月1日、大江広元が漸く源頼家に連判状を提出した。源頼家は連判状を梶原景時に渡して弁解する様求めた。
  • 梶原景時の一之宮下向 西暦1199年12月2日、梶原景時が弁解をしない儘、息子梶原景季・梶原景高を始めとする子息・親類を率いて所領である相模国一之宮の館へと下った。然し梶原景茂は鎌倉に残った。梶原景時失脚の既成事実化。
  • 比企邸蹴鞠と景茂の釈明 西暦1199年12月7日、源頼家・北条時房・比企時員等が比企能員の屋敷で蹴鞠を行った後、酒宴にて源頼家と梶原景茂が対面、中原仲業も同席した。源が連判状の経緯を説明すると、景茂は「景時殿は頼朝殿の寵愛を受けていたから他の者より抜きん出ていただけ」と釈明、周囲がその殊勝な返事に密かに感心した場面。
  • 梶原景時の鎌倉追放評定 西暦1200年1月6日、和田義盛・三浦義村両奉行による連日の評議の末、梶原景時を鎌倉から追放するという評定が下った。景時は再度一之宮へ下り、屋敷は解体されて永福寺の僧侶の住居として寄附された。1月17日には小山朝政が梶原に代わり播磨国守護職に就任した。
  • 清見関の襲撃と梶原景時自害 西暦1200年2月6日2時、梶原景時が梶原景季・梶原景高・梶原景茂を伴い京都へ向けて一之宮を出発、同日22時、駿河国清見関にて廬原小次郎・飯田家義・吉川友兼等の襲撃を受け、梶原景国・景則・景連ら一族が討ち取られ、景季・景高は後方の山で自害、景時自身は西奈の山中で自害した。梶原一族33名の首が2月7日に平安京で梟首された、梶原景時の変の終結点。
  • 武田信光の武田有義報告 西暦1200年2月14日、武田信光が甲斐国から鎌倉に到着し、兄武田有義が梶原景時と密かに上洛を企て、土御門天皇に許可を得て九州武士を糾合し有義を征夷大将軍に擁立するという梶原の計画に同心していた事を報告した、梶原景時の変後の余波。
  • 勝木則宗の捕縛と畠山重忠の真壁説諭 西暦1200年2月17日、勝木則宗が波多野盛通による捕縛を腰刀で逃れようとした所、畠山重忠が座った儘左手を伸ばし勝木の右手を掴んで腕をへし折り捕縛した。和田義盛の取り調べで勝木は梶原景時の九州宣旨要求の書簡を自白。2月21日、真壁紀内が「勝木を生け捕ったのは畠山」と讒言した際、畠山は「此の様な讒言は最も無益な事、弓矢に携わる武士ならば私事を忘れるのが本来」と説いて周囲を感心させた、武士道の象徴的場面。
  • 城長茂の小山朝政宿所襲撃 西暦1201年2月27日夜、城長茂率いる軍が、大番役として京都に滞在中の小山朝政の宿所を包囲した。土御門天皇の仙洞御所行幸供奉で小山は不在であった為、残留兵の応戦を受け退却。其の後後鳥羽上皇の仙洞御所二条東洞院殿に参上し源頼家追討の宣旨を要求するも拒否され、清水坂に潜伏した。城氏の乱の開戦。
  • 鳥坂城の決起 西暦1201年3月頃、城長茂に呼応して、城資盛と叔母の弓の名手板額御前が越後国蒲原の鳥坂城にて反乱を起こした。城氏の乱の越後戦線の開始。
  • 城長茂の吉野山殺害 西暦1201年3月28日、城長茂が吉野山に潜伏している事を突き止めた鎌倉幕府軍が、城と郎党新津四郎を含む5名を吉野の奥で殺害し、別の5名を捕虜とした。城は出家したばかりであった。3月31日、5名の首が平安京を引き回された。
  • 建仁への改元 西暦1201年3月29日、城長茂の反乱を収める為、朝廷が「建仁」への改元を行った。城氏の乱の政治的影響。
  • 藤原高衡殺害 西暦1201年4月4日、城長茂の郎党に信濃小路の藤原範季の屋敷から連れ戻されていた藤原高衡が、鎌倉幕府軍によって殺害された。同日、城長茂の甥城資家・城資正も殺害された、奥州藤原氏の最後の余燼の清算。
  • 佐々木盛綱の越後国直行 西暦1201年5月6日、北条時政・大江広元・三善康信の協議により上野国の佐々木盛綱に越後国の御家人を招集させ城資盛征伐を行う事が決定された。5月8日、上野国磯部郷の門外で御教書を受け取った佐々木は、家族の制止を振り切り「藤原忠文は箸を投げ捨て参内した」と答えて越後国へ直行した、武将の矜持を示す場面。
  • 鳥坂城攻防戦と板額御前の奮戦 西暦1201年6月10日頃、佐々木盛綱の参男佐々木盛季が一番矢、海野幸氏が二番矢を放ち鳥坂城へ先制攻撃を仕掛けた。鳥坂城は帯曲輪に木柵、空堀に逆茂木と堅固で多数の死者を出した。板額御前が髪を結い上げ腹巻きを身に付け矢倉の上に立ち、百発百中で幕府兵を仕留めたが、藤沢清親の矢に両腿を射られて倒れ捕縛された。4時間の戦闘の末、鳥坂城は落城した、本書の題名を成す決戦。
  • 板額御前の大倉御所参上 西暦1201年7月29日、藤沢清親によって鎌倉に護送されていた板額御前が源頼家によって大倉御所に招かれた。板額御前は傷が完治しておらず気遣いながらの参上であったが、畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村ら参集した多数の御家人の座を通る時も、源を前にした際も臆する事なく堂々としていた、敗将の尊厳の場面。
  • 浅利義遠と板額御前の縁組 西暦1201年7月30日、浅利義遠が源頼家に「同心の契りを交わして武勇に秀でた男子を儲け、朝廷や武家に忠義を尽くさせる為」として板額御前を妻として迎え入れたい旨を伝え、源が「此の者の顔立ちは良いが、心の猛々しさを思えば、誰が愛らしく思うだろうか」と笑いながら許可した。其の後浅利は板額御前を伴って甲斐国八代郡浅利郷へ下向し、一男一女を儲けた、本書の締め括り。

結城朝光の念仏・66名連判状・清見関の襲撃・城長茂の大番役夜襲・板額御前の鳥坂城──
源頼朝死後の鎌倉幕府の動乱を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
YouTubeとニコニコでも情報を発信中。