電子書籍「承久の乱一元化」の表紙

承久の乱一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,221年5月14日頃〜1,221年8月23日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
20ページ
最新更新日
西暦2,026年8月7日

西暦1,221年、仏事守護を口実に兵が集められた──
朝廷と鎌倉幕府が正面から衝突した3箇月を一元化。

JPY 200(税込)

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皇室献上品 高級トイレットペーパー
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本書について

西暦1,221年5月14日頃、後鳥羽上皇は城南宮(現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の仏事守護を口実として、諸国の兵を招集した。21日には藤原秀康を通じ、流鏑馬揃えの名目で、小野盛綱・佐々木広綱・三浦胤義を含む北面武士・西面武士・近国の武士・大番役の京都の武士1,700騎が高陽院に集められる。名目の下に兵が積み上げられてゆく、其の静かな2週間から本書は始まる。そして西暦1,221年8月23日、隠岐諸島中ノ島(現在の島根県隠岐郡海士町)に着いた後鳥羽上皇が、宿を乞うても村人に悉く固辞され、三穂神社の参篭舎で一夜を明かす日までの約3箇月間を、年月日単位で一元化した記録である。

6月5日、後鳥羽上皇は鎌倉幕府と親しい西園寺公経・西園寺実氏を幽閉する。だが公経は幽閉される直前、京都守護の伊賀光季に討幕計画を伝え、更に三善長衡が其れを伝え聞いていた。同日夕方、藤原秀康・佐々木広綱・三浦胤義・大江親広・佐々木高重等に光季征伐が命じられる。光季は家臣の脱出勧告を退け、長男の伊賀光綱に夜の内に逃げる様申し付けたが、光綱は「弓矢取る身である武士が、親が討たれようとしているのに逃げたとあれば、幾ら幼いからと言っても誰も許してはくれないでしょう」と涙して拒み、共に討死する事となった。翌6日明け方、京極高辻の宿所は800騎余に囲まれる。郎党贄田四郎の案で小門のみを開き、志賀五郎・岩崎右馬允・岩崎弥太郎・高井時義を次々に退けたが、遂に正門を開いて雪崩れ込む敵を迎えた。光綱は元服の折に烏帽子を被せてくれた佐々木高重を見つけ「此度は、父上の最後にお供致します故、此の矢はお返しせねばなりませぬ」と射掛ける。矢は高重の鎧の弦走に突き刺さり、高重は「光綱よ。誠に立派になったな」と感激して引き上げた。館が焼かれ、郎党が尽きた昼過ぎ、光季は自刃出来ずにいた光綱を抱擁した上で斬首し、遺体を火中に投げ入れ、東を向いて北条義時の武運長久を祈り、西を向いて阿弥陀如来に祈り、念仏を30回繰り返して割腹し、光綱の遺体に覆い被さった。

同じ6日、後鳥羽上皇は葉室光親に北条義時追討の院宣を執筆させる。武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村に宛て「今後は北条の執権職を停止し、後鳥羽上皇の沙汰を待つべし」と迫るものであった。だが此の一手が裏目に出る。7日4時に発った従者押松丸は、10日17時に鎌倉へ着いた所を三浦義村に探し出され、葛西谷で捕えられて院宣を取り上げられた。同じ日没頃、三浦胤義が兄義村へ送った決起を促す書簡も届いたが、義村は返事をせず、其の書簡を北条義時に見せて通報している。同日、安達景盛が二階堂大路仮御所の庭中で北条政子の言葉を代読した。「源頼朝殿が朝敵を滅ぼし、関東に武士の政権を創って以降、貴方方の地位は上がり、土地も随分増えました。其の恩は山よりも高く、海よりも深い。其の恩に報いる志が浅くありませんか」「もし此の中に朝廷側に付こうという者が居るなら、先ず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから京都へ行きなさい」──御家人達は咽び泣き、鎌倉は一枚岩となった。

続く軍議では、当初は箱根山・足柄峠に関を築いての迎撃が有力であった。然し大江広元は、関の構築には時間が掛かり、逡巡する内に団結が崩れるとして即時出撃を推し、北条政子も「上洛しなければ朝廷軍を破る事は出来ない」と賛同する。12日、一条頼氏が京都の情勢を報じて慎重論が盛り返した際にも、大江は「北条泰時が1人でも出発すれば、他の者が付いて来るでしょう」と述べ、病床の三善康信も同意した。同日、泰時は僅か18騎で鎌倉を発つ。だが途中で引き返し、仲恭天皇が自ら出陣して来た場合の対処を義時に問うた。義時は「善くぞ尋ねた。其の時は弓を折って降参しろ。そうで無ければ1,000人が1人になっても戦え」と答えている。16日、東海道軍(北条泰時・北条時房・北条時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱)、東山道軍(武田信光・小笠原長清・小山朝長・結城朝光)、北陸道軍(北条朝時・結城朝広・加地信実)の三手が、それぞれ京都へ向けて出発した。

24日、朝廷は公卿僉議で木曽川筋の九ヶ所へ12,000騎を配し、北陸道にも7,000騎を差し向けた。山田重忠は、少ない兵力を分散させるのは愚策であるとして、木曽川を渡り尾張国へ攻め込む集中策を進言したが、藤原秀澄は挟撃を恐れて却下する。26日夜、東山道軍50,000騎が大井戸渡から木曽川を渡り、大内惟忠が討たれると大内惟信は逃亡した。27日明け方には北条有時・北条時氏の軍が摩免戸を渡るが、藤原秀康を大将軍とする朝廷軍は応戦せず退却。残った鏡久綱は「臆病者の藤原に付き従った為、思う様に戦えなかった」と言い捨てて自刃し、山田重忠は300名で児玉党3,000騎を迎え撃ち100騎を討ち取ったものの、遂に退いた。三浦胤義は陣を放棄して京都へ逃げ、兄義村との対決は実現しない。29日4時、負傷した藤原秀康・五条有長が敗報を届けると仙洞御所は騒動となり、後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王等と比叡山へ御幸して僧兵に援軍を求めたが、30日、延暦寺は東国の武士には太刀打ち出来ないとして拒んだ。同じ30日、北陸道でも志雄山の戦いで宮崎定範・糟屋有長・糟屋有久が討たれ、朝廷軍は壊滅した。

7月4日、土砂降りの雨の中で決戦が始まる。勢多では、瀬多川の大橋の中央付近3.6m程が引き剥がされ、山田重忠・亀屋盛成率いる3,000騎余が待ち構えていた。橋を渡った熊谷直国は山田の郎党荒左近に討たれ、川へ飛び込んだ吉見頼綱父子は鎧を脱ぎ捨てて逃げる程の激流であったが、横田頼業が約110m川上から遠矢を射掛けて山田を退けた。同日、宇治川へ進んだ北条泰時は矢の雨に遭って栗隈へ退き、許可無く宇治橋を襲った足利義氏・三浦義村・三浦泰村も、奈良法師土護覚心・円音の大薙刀に阻まれて平等院へ籠った。翌5日、泰時は水練を得意とする芝田兼義に渡河を命じる。芝田は現地の翁から浅瀬の場所を聞き出して口封じに殺害し、裸で刀を咥えて中洲の真木島まで泳ぎ渡ると、諸将が尋ねても浅瀬を明かさぬ儘、自ら先陣を切った。朝廷軍は255名の死者を出して敗走し、鎌倉幕府軍も96名の死者と144名の負傷者を出している。同日、北条時房も瀬多川を攻略した。

6日4時、敗れた三浦胤義・山田重忠・渡辺翔は仙洞御所に「力の限り戦う様をお見せして討死したい」と開門を求めたが、後鳥羽上皇は「お前達が此処に立て籠ったら私が攻撃されるではないか。早々に立ち去れ」と拒んだ。3名は東寺に籠り、三浦義村の軍を30騎で迎え撃つ。渡辺翔は10騎余を討たれて大江山へ退き、山田重忠は15騎を討ち取った末に般若寺で自害。胤義は義村に「叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てたが、義村は「愚か者の相手をするのは無意味だ」と相手にせず退いた。8時、胤義は幼子に一目会おうと太秦へ向かう途中の木嶋で、息子2名と共に自害する。同じ8時、後鳥羽上皇の勅使が「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く、謀臣が行ったものである」と伝えて全面恭順を表明した。10時、泰時と時房が六波羅に入り、同月頃、平清盛の屋敷を拠点として六波羅探題が置かれ、泰時が初代北方、時房が初代南方に就いた。14日2時、鎌倉に戦勝報告が届く。北条義時は「私の果報は王の果報に勝っていたのだ」と語り、大江広元と共に後鳥羽上皇の隠岐国配流を決した。以後、7月22日に佐々木広綱、25日に一条信能、31日には10歳余の勢多伽丸までが斬首され、8月1日に葉室光親、3日に葉室宗行、18日に源有雅が護送の道中で命を落とし、7日には藤原範茂が五体満足のまま極楽往生する為として足柄山の清川へ入水した。10日に順徳上皇が佐渡国へ、13日に雅成親王が但馬国高屋へ、14日に頼仁親王が備前国児島へ送られ、23日、後鳥羽上皇は「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠んで、隠岐の島に上がった。


登場人物

  • 後鳥羽上皇 本書の中心人物。西暦1,221年5月14日頃、城南宮の仏事守護を口実に諸国の兵を招集し、21日には1,700騎を高陽院に集めた。6月5日に西園寺公経・西園寺実氏を幽閉して伊賀光季討伐を命じ、6日には葉室光親に北条義時追討の院宣を執筆させた。29日、戦況悪化を受けて比叡山へ御幸し僧兵に援軍を求めたが拒まれる。7月6日、三浦胤義等の仙洞御所への入場を拒み、14日に隠岐配流が決定、28日に出家した。8月23日、隠岐諸島中ノ島に着き「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠んだ。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。院宣が名指しで討伐を命じた当人。西暦1,221年6月10日、三浦義村の通報を受けて即時出撃を決断し、12日には北条泰時に「仲恭天皇が自ら出陣して来た時は弓を折って降参しろ。そうで無ければ1,000人が1人になっても戦え」と指示した。29日、屋敷に落雷して人夫1名が死亡すると天罰を恐れたが、大江広元が西暦1,189年の奥州征伐の先例を挙げて励まし、陰陽師の占いでも最吉が出て安堵している。7月14日、戦勝報告に「私の果報は王の果報に勝っていたのだ」と語り、後鳥羽上皇の隠岐配流を決めた。
  • 北条政子 源頼朝の正室。西暦1,221年6月10日、二階堂大路仮御所の庭中に集まった御家人達へ、安達景盛の代読という形で「源頼朝殿の恩は山よりも高く、海よりも深い。其の恩に報いる志が浅くありませんか」「もし此の中に朝廷側に付こうという者が居るなら、先ず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから京都へ行きなさい」と語り掛けた。御家人達は咽び泣き、鎌倉は一枚岩となった。軍議では大江広元の即時出撃論に賛成している。
  • 北条泰時 北条義時の長男で東海道軍総大将。西暦1,221年6月12日に先発18騎で鎌倉を発ち、16日に本隊と共に出発、27日に摩免戸を渡河した。7月4日には宇治川で矢の雨に遭って栗隈へ退いたが、翌5日、芝田兼義に渡河を命じて突破に成功する。6日10時に六波羅へ入り、7日には鷲尾に居た佐々木経高へ降伏を勧める使者を送った。同月頃、初代六波羅探題北方に就任。勢多伽丸の助命も一度は許したが、佐々木信綱の強硬な主張の前に断腸の思いで撤回した。
  • 北条時房 北条義時の弟で東海道軍大将の1人。西暦1,221年7月4日、土砂降りの雨の中を勢多へ進み、橋の中央を引き剥がして待ち構える山田重忠・亀屋盛成率いる3,000騎余と激戦を演じた。横田頼業の遠矢が山田を退け、翌5日に瀬多川を攻略。6日に泰時と共に六波羅へ入り、初代六波羅探題南方に就任した。
  • 北条朝時 北条義時の弐男で北陸道軍大将。西暦1,221年6月16日に鎌倉を発ち、7月8日に京都へ入った。其の後、藤原範茂を鎌倉へ護送する途上、8月7日に足柄山で入水自殺の願いを容れ、藤原の着物の袂や懐に石を詰め込んだ。
  • 北条時氏 北条泰時の長男。西暦1,221年6月12日の先発18騎に加わり、27日に摩免戸を渡河、席田では盾を背にした朝廷軍に三善康知・中山重継等を指揮して矢を射返させた。7月30日、鳥羽殿に武装した儘で上がり込み「上皇様は流罪となりましたよ。さあさあ出て来て下さいませ」と後鳥羽上皇を覗き込んだが、藤原能茂との面会を乞う言葉を聞くと泣きながら泰時へ取り成しの書簡を書いた。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1,221年6月10日の軍議で、関を築くには時間を要し逡巡する内に団結が崩れるとして即時出撃を推した。12日に慎重論が盛り返した際も「北条泰時が1人でも出発すれば、他の者が付いて来るでしょう」と述べて先陣出発を決定させている。29日の落雷では奥州征伐の先例を挙げて北条義時を励まし、7月14日には処罰を纏めた書簡を作成した。子の大江親広は朝廷方に付いたが、広元の嘆願により赦免されている。
  • 三浦義村 鎌倉幕府の有力御家人で、三浦胤義の兄。西暦1,221年6月10日、弟からの決起を促す書簡に返事をせず北条義時へ通報し、押松丸を葛西谷で捕えて院宣を取り上げた。28日の軍議では「勝ちに乗じ、北陸道軍が上洛する前に、我が軍を京都の東へ進軍させるのは如何でしょう」と進言。7月6日、東寺で弟と対峙するも「愚か者の相手をするのは無意味だ」と退き、胤義の郎従が運ぼうとした首級を奪って北条泰時の下へ持参した。
  • 三浦胤義 三浦義村の弟で朝廷方の武将。西暦1,221年5月21日の高陽院への招集に加わり、6月5日の伊賀光季討伐にも参加、6日には兄への決起を促す書簡を送ったが黙殺された。27日、摩免戸の陣を放棄して京都へ逃走。7月6日、仙洞御所の開門を拒まれて東寺に籠り、兄に「叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てて襲い掛かった。8時、幼子に会おうと太秦へ向かう途中の木嶋で、長男三浦胤連・弐男三浦兼義と共に自害した。
  • 伊賀光季 鎌倉幕府京都守護。西暦1,221年6月5日、藤原秀康を通じた招聘に応じず、西園寺公経から討幕計画を知らされていた。6日明け方、京極高辻の宿所を800騎余に囲まれ、贄田四郎の案で小門を開いて迎え撃つ。館が焼かれ郎党が尽きると、自刃出来ずにいた長男光綱を抱擁の上で斬首して火中に投じ、東を向いて北条義時の武運長久を祈り、西を向いて阿弥陀如来に祈り、念仏を30回繰り返して割腹し、光綱の遺体に覆い被さった。
  • 伊賀光綱 伊賀光季の長男。父からの逃亡の勧めを「親を見殺しにした臆病者と指を差されるのは恥ずべき事」と涙して拒み、共に討死する道を選んだ。襲撃の中で元服の折に烏帽子を被せてくれた佐々木高重を見つけると「此度は、父上の最後にお供致します故、此の矢はお返しせねばなりませぬ」と射掛け、矢は高重の鎧の弦走に突き刺さった。高重は「誠に立派になったな」と感激して引き上げ、周囲の者は貰い泣きした。
  • 藤原秀康 朝廷軍の中核を担った武将。西暦1,221年5月21日の1,700騎招集を差配し、6月5日の伊賀光季討伐、6日の院宣の発送を担った。24日には摩免戸方面10,000騎の大将軍とされたが、27日には応戦せずに退却。29日、五条有長と共に負傷して仙洞御所へ敗報を届けた。7月5日の勢多でも敗走し、6日の六波羅陥落時には小野盛綱・尊長と共に逃亡している。
  • 藤原秀澄 朝廷方の武将。西暦1,221年6月24日、墨俣に山田重忠と共に1,000騎で配された。山田の兵力集中策に対し、東山道軍・北陸道軍に挟み撃ちにされる恐れが有るとして反対し、却下した人物。
  • 西園寺公経 鎌倉幕府と親しかった公卿。西暦1,221年6月5日、西園寺実氏と共に幽閉されたが、其の直前に伊賀光季へ後鳥羽上皇の討幕計画を伝え、更に三善長衡が伝え聞いた。家司三善長衡の使者は7日4時に京都を発ち、10日14時に鎌倉へ到着。鎌倉幕府が挙兵を知る最初の一報となった。
  • 山田重忠 朝廷方の武将。西暦1,221年6月24日の公卿僉議での兵力分散策に対し、兵を1つに纏めて尾張国へ攻め込む集中策を進言したが藤原秀澄に却下された。27日には摩免戸に残って株河に布陣し、300名で児玉党3,000騎を迎撃して100騎を討ち取る。7月4日の勢多では亀屋盛成と3,000騎余を率いて激戦を演じ、6日には東寺で15騎を討ち取った末、般若寺へ落ち延びて自害した。
  • 渡辺翔 渡辺党の武将。西暦1,221年6月26日、朝廷軍が次々と退却する中「我は翔」と叫びながら鎌倉幕府軍の兵を次々に討ち取ったが、最終的に撤退を余儀無くされた。7月6日、東寺では最初に名乗りを上げて奮戦し、10騎余を討ち取られた後に大江山へ退いた。
  • 安達景盛 鎌倉幕府の御家人。西暦1,221年6月10日、二階堂大路仮御所の庭中に集まった御家人達へ北条政子の言葉を代読した。同日の軍議にも加わり、28日の分担では武田信光と共に手上、進軍時には北条時房と共に墨俣を担った。
  • 加地信実 北陸道軍の大将の1人。西暦1,221年6月20日、菅谷寺を拠点に挙兵し、越後国加地荘願文山城に60名余で籠城していた酒匂家賢の軍を破った。29日には越中国般若野荘で宣旨を受け取り、弐男の加地実秀が立った儘「北条義時を誅殺せよ」と読み上げている。乱後は備前国守護として頼仁親王を預かった。
  • 佐々木経高 朝廷方に付いた武将。合戦中は仙洞御所で策を巡らせていた。西暦1,221年7月7日、鷲尾に居る事を知った北条泰時が「決して命を捨ててはならぬ」と降伏を勧めたが、自害を勧められたものと解釈して自らの肉や手足を切り裂いた。絶命の前に輿で六波羅へ向かい、泰時から自害は本意で無かったと聞かされると、両目を見開き声にならぬ叫びを発して絶命した。
  • 葉室光親 朝廷の廷臣。西暦1,221年6月6日、後鳥羽上皇の命により北条義時追討の院宣を執筆した。乱の張本として7月15日に武田信光へ引き渡され、8月1日、駿河国車返の辺りで受けた幕命により、駿河国加古坂で斬首された。
  • 葉室宗行 朝廷の廷臣。西暦1,221年7月15日に小山朝長へ引き渡された。8月2日、駿河国浮島原を過ぎた所で葉室光親の遺骨を持つ従者と出会って斬首を知り、死を覚悟して「今日過ぐる 身を浮島の 原にても つひの道をば 聞こさだめつる」と詠んだ。翌3日、駿河国藍沢原で斬首。辞世の詩「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」を遺した。
  • 源有雅 朝廷の廷臣。西暦1,221年7月15日に小笠原長清へ引き渡され、鎌倉へ護送された。北条政子に助命を懇願するので暫く執行を待って欲しいと願い出たが聞き入れられず、8月18日、甲斐国稲積荘小瀬で斬首された。
  • 藤原範茂 乱の張本として斬首が定まった廷臣。西暦1,221年8月7日、北条朝時に護送される道中の足柄山で、清川への入水を願い出た。首と胴が離れて五体満足で無くなっては極楽往生出来ない、というのが其の理由であった。北条は着物の袂や懐に石を詰め込み、藤原は「思いきや苔の下水堰き止めて月ならむ身の宿るべきとは」と詠んで入水した。
  • 一条信能 朝廷の廷臣。西暦1,221年7月16日に遠山景朝へ引き渡され、25日、小雨の降る中、美濃国遠山荘岩村の相原で斬首された。村人は之を哀れんで処刑地に小祠を建てて弔い「若宮社(現在の厳邨神社)」と称して、其の後も供養を続けた。
  • 坊門忠信 朝廷の廷臣。西暦1,221年7月16日に千葉胤綱へ引き渡されたが、妹の西八条禅尼の嘆願を受けた北条政子の申し出により助命された。8月19日、遠江国舞坂から京都へ帰還し、程無くして出家、越後国へ配流された。
  • 佐々木広綱 朝廷方の武将。西暦1,221年5月21日の1,700騎招集に含まれ、6月5日の伊賀光季討伐にも加わった。24日には摩免戸方面の大将軍の1人とされたが敗走し、7月22日、後藤基綱により後藤基清・五条有範・大江能範と共に斬首・梟首された。
  • 勢多伽丸 佐々木広綱の四男で10歳余。出家して仁和寺に住み、道助入道親王に育てられていた。西暦1,221年7月31日、父の謀反の連座として六波羅に召し出される。母と道助入道親王の「10歳余の孤児で頼りも無いので、どの様な悪行が出来ようか」という嘆願により北条泰時は一度仁和寺への帰還を許したが、佐々木信綱の強硬な主張の前に撤回され、斬首・梟首された。
  • 佐々木信綱 鎌倉幕府の御家人で北条義時の娘婿。西暦1,221年7月5日、宇治川の渡河で芝田兼義に追随して戦功を挙げた。31日、勢多伽丸の助命が決まると、自らの武功を取り消してでも処刑して欲しい、助命するなら自ら自害する、と強く主張し、北条泰時に撤回させた。
  • 芝田兼義 鎌倉幕府の御家人で水練を得意とした。西暦1,221年7月5日、北条泰時に宇治川の渡河を命じられ、現地の翁から浅瀬の場所を聞き出した上で口封じの為に殺害。裸で刀を咥えて中洲の真木島まで泳ぎ、朝廷軍の所在を確かめて浅瀬を泰時へ知らせた。佐々木信綱・春日貞幸・中山重継・安東忠家が尋ねても浅瀬を明かさず、自ら先陣を切って渡り始めた。
  • 波多野義重 波多野忠綱の息子。西暦1,221年6月27日の摩免戸渡河に従軍し、席田付近で先陣を進んでいた所、矢が右目に当たって意識が朦朧としたが、それでも矢を射返した。
  • 順徳上皇 後鳥羽上皇の第参皇子。西暦1,221年6月29日、父と共に比叡山へ御幸した。8月9日に佐渡国への配流を通告され、其の夜は母藤原重子の岡崎殿に入り、翌10日、数名の近臣を従えて佐渡国へ向けて出発した。
  • 仲恭天皇 第85代天皇。西暦1,221年6月29日、女房輿で比叡山へ御幸し、梶井御所で後鳥羽上皇と共に一夜を過ごした。7月21日には捕縛された公卿達への断罪を宣下したが、29日、鎌倉幕府の決定により廃位され、九条院へ行幸した。
  • 後堀河天皇 第86代天皇。高倉天皇の第弐皇子守貞親王の第参皇子。西暦1,221年7月28日、鎌倉幕府が守貞親王に政務を担わせるに当たり、出家をしていない皇子として次期天皇に立てられ、29日、高陽院にて践祚した。近衛家実が摂政の詔を受けている。

主要な地名・拠点

  • 城南宮 現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町。西暦1,221年5月14日頃、後鳥羽上皇が仏事守護を口実に諸国の兵を招集した地。本書が記録する最初の出来事の舞台。
  • 高陽院 現在の京都府京都市中京区小川通丸太町。西暦1,221年5月21日、流鏑馬揃えの名目で北面武士・西面武士・近国の武士・大番役の京都の武士1,700騎が招集された地。7月29日、後堀河天皇が践祚したのも此の地である。
  • 京極高辻 現在の京都府京都市下京区茶磨屋町付近。西暦1,221年6月6日明け方、伊賀光季の宿所が800騎余に包囲され、光季・光綱父子が自害した地。承久の乱の実質的な開戦の場。
  • 大井戸渡 現在の岐阜県可児市土田。西暦1,221年6月24日、大内惟信率いる2,000騎が配された木曽川の要所。26日夜、武田信光・小笠原長清・小山朝長率いる東山道軍50,000騎が渡り、大内惟忠・高桑大将軍等を討ち取った。
  • 摩免戸 現在の岐阜県各務原市前渡西町。西暦1,221年6月24日、藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱等10,000騎が布陣した木曽川最大の要所。27日明け方、北条有時・北条時氏の軍が渡ると朝廷軍は応戦せず退き、鏡久綱は自刃、三浦胤義は陣を放棄して京都へ逃走した。
  • 株河 現在の岐阜県養老郡養老町大野付近。西暦1,221年6月27日、摩免戸に残った山田重忠が300名を率いて布陣し、児玉党3,000騎を迎え撃って瞬く間に100騎を討ち取った地。兵力差の前に山田も遂に退いた。
  • 墨俣 現在の岐阜県大垣市。西暦1,221年6月24日、藤原秀澄・山田重忠率いる1,000騎が布陣した地。26日の軍議で北条時房・安達景盛の担当と定められ、27日には鎌倉幕府軍の手に落ちた。
  • 志雄山 現在の石川県羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町、富山県氷見市・高岡市の宝達山。西暦1,221年6月30日、北陸道軍が宮崎定範・糟屋有長・糟屋有久・仁科盛朝・仁科盛遠等と交戦し、宮崎・有長・有久を討ち取って朝廷軍を壊滅させた地。結城朝広が武功を挙げた。
  • 比叡山 延暦寺の所在地。西暦1,221年6月29日、摩免戸の敗報を受けた後鳥羽上皇が土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王等と御幸し、僧兵に援軍を要請した地。翌30日、僧兵は東国の武士には太刀打ち出来ないとして拒否した。
  • 勢多 現在の滋賀県大津市瀬田。西暦1,221年7月4日、土砂降りの雨の中を北条時房の軍が進み、瀬多川の大橋の中央付近3.6m程を引き剥がして待つ山田重忠・亀屋盛成率いる3,000騎余と激戦となった。熊谷直国が討たれ、横田頼業の遠矢が山田を退け、翌5日に攻略された。
  • 宇治川 現在の京都府宇治市。西暦1,221年7月4日、北条泰時の軍が矢の雨に遭って栗隈へ退き、宇治橋を襲った足利義氏・三浦義村・三浦泰村も土護覚心・円音の大薙刀に阻まれて平等院に籠った。翌5日、芝田兼義の渡河を機に猛攻が始まり、朝廷軍は255名の死者を出して敗走。鎌倉幕府軍も96名の死者と144名の負傷者を出した。
  • 東寺 京都の寺院。西暦1,221年7月6日、仙洞御所への入場を拒まれた三浦胤義・山田重忠・渡辺翔が最後の拠点として籠り、三浦義村の軍を30騎で迎え撃った地。渡辺は大江山へ退き、山田は般若寺へ落ち延びて自害した。
  • 木嶋 現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社。西暦1,221年7月6日8時、幼子に一目会おうと太秦へ向かった三浦胤義が包囲され、長男三浦胤連・弐男三浦兼義と共に自害した地。
  • 六波羅 現在の京都府京都市東山区門脇町周辺。平清盛の屋敷を拠点とした地。西暦1,221年7月6日10時、北条泰時・北条時房の軍がそれぞれ入り、同月頃、朝廷監視と京都守護の為に六波羅探題が設置され、泰時が初代北方、時房が初代南方に就任した。
  • 仙洞御所・四辻殿・鳥羽殿 後鳥羽上皇の居所の遷り。西暦1,221年6月29日、摩免戸の敗報で騒動となり、7月6日には三浦胤義等の開門要求が拒まれた。10日に高陽院から四辻殿へ、26日には四辻殿から鳥羽殿へ移送され、30日、北条時氏が鳥羽殿に上がり込んで流罪を告げた。
  • 駿河国加古坂 現在の山梨県南都留郡山中湖村の籠坂峠。西暦1,221年8月1日、武田信光に護送されていた葉室光親が、駿河国車返の辺りで受けた幕命により斬首された地。
  • 駿河国藍沢原 現在の静岡県御殿場市・駿東郡小山町。西暦1,221年8月3日、小山朝長が鎌倉幕府の命により葉室宗行を斬首した地。其の後、葉室を祀る藍澤五卿神社が建てられ、葉室光親・源有雅・藤原範茂・一条信能も合祀された。
  • 足柄山・清川 足柄山は現在の神奈川県南足柄市・足柄下郡箱根町、静岡県駿東郡小山町に跨る金時山、清川は現在の神奈川県南足柄市の貝沢川。西暦1,221年8月7日、藤原範茂が五体満足のまま極楽往生する為として入水した地。
  • 甲斐国稲積荘小瀬 現在の山梨県甲府市。西暦1,221年8月18日、小笠原長清に護送されていた源有雅が斬首された地。北条政子への助命懇願は聞き入れられなかった。
  • 美濃国遠山荘岩村 現在の岐阜県恵那市岩村町。西暦1,221年7月25日、一条信能を護送していた岩村城主遠山景朝が、道中の相原で斬首した地。村人は処刑地に小祠を建てて「若宮社(現在の厳邨神社)」と称し、供養を続けた。
  • 隠岐諸島中ノ島 現在の島根県隠岐郡海士町。西暦1,221年7月14日、佐々木義清の進言もあって後鳥羽上皇の配流先と定められた隠岐国の島。8月23日、大浜湊を発った一行が到着し、村人が宿泊を固辞した為、三穂神社の参篭舎で一夜を明かした。本書が記録する最後の出来事の舞台。
  • 佐渡国 現在の新潟県佐渡市。西暦1,221年8月9日に順徳上皇へ配流が通告され、翌10日、数名の近臣を従えて出発した。
  • 但馬国高屋 現在の兵庫県豊岡市。西暦1,221年8月13日、雅成親王が配流された地。同時に太田昌明が但馬国守護に任じられた。
  • 備前国児島 現在の岡山県倉敷市。西暦1,221年8月14日、頼仁親王が配流された地。其の後、備前国守護の加地信実の預かりとなった。

主要な事件・出来事

  • 後鳥羽上皇の諸国兵招集 西暦1,221年5月14日頃、後鳥羽上皇が城南宮の仏事守護を口実に諸国の兵を招集した。21日には藤原秀康を通じ、流鏑馬揃えの名目で、小野盛綱・佐々木広綱・三浦胤義を含む1,700騎を高陽院に集めている。本書が記録する最初の出来事。
  • 西園寺公経の幽閉と密告 西暦1,221年6月5日、鎌倉幕府と親しい西園寺公経・西園寺実氏が幽閉された。だが公経は其の直前に伊賀光季へ討幕計画を伝え、更に三善長衡が伝え聞く。7日4時に発った三善の使者は10日14時に鎌倉へ到着し、鎌倉幕府が挙兵を知る最初の一報となった。
  • 伊賀光季父子の討死 西暦1,221年6月6日明け方、藤原秀康・三浦胤義・大江親広等率いる800騎余が京極高辻の宿所を包囲した。伊賀光季は贄田四郎の案で小門のみを開いて迎え撃ち、志賀五郎・岩崎右馬允・岩崎弥太郎・高井時義を退けたが、館は焼かれ郎党も尽きる。光季は自刃出来ずにいた長男光綱を抱擁の上で斬首して火中に投じ、東西へ三度ずつ拝礼し、念仏を30回繰り返して割腹した。
  • 北条義時追討院宣の発布 西暦1,221年6月6日、後鳥羽上皇が藤原秀康を呼び、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村へ宛てた院宣を葉室光親に執筆させた。「今後は北条の執権職を停止し、後鳥羽上皇の沙汰を待つべし。もし此の決定を受け入れず、尚反逆を企てるならば、早く其の命を落とすが良い」という内容であった。
  • 押松丸の捕縛と三浦義村の通報 西暦1,221年6月7日4時、藤原秀康の従者押松丸が院宣7通と伊賀光季の死を伝える密書を携えて京都を発ったが、10日17時に鎌倉へ着いた所を三浦義村に探し出され、葛西谷で捕えられて院宣を取り上げられた。同日日没頃、三浦胤義の使者が兄への書簡を届けたが、義村は返事をせず北条義時へ通報した。
  • 北条政子の演説 西暦1,221年6月10日、安達景盛が二階堂大路仮御所の庭中に集まった御家人達へ北条政子の言葉を代読した。「源頼朝殿が朝敵を滅ぼし、関東に武士の政権を創って以降、貴方方の地位は上がり、土地も随分増えました。其の恩は山よりも高く、海よりも深い」「もし此の中に朝廷側に付こうという者が居るなら、先ず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから京都へ行きなさい」と語り、御家人達は咽び泣いて一枚岩となった。
  • 軍議と大江広元の即時出撃論 西暦1,221年6月10日、北条義時・北条泰時・北条時房・大江広元・三浦義村・安達景盛等が軍議を開いた。当初は箱根山・足柄峠に関を築いての迎撃が有力であったが、大江広元は関の構築に時間を要し逡巡する内に団結が崩れるとして即時出撃を推し、北条政子も「上洛しなければ朝廷軍を破る事は出来ない」と賛同した。
  • 北条泰時の先発隊出発と三手分進 西暦1,221年6月12日、一条頼氏の報告で慎重論が盛り返す中、大江広元と三善康信の後押しにより北条泰時が18騎で鎌倉を発った。但し仲恭天皇が自ら出陣した場合の対処を問う為に一度引き返している。16日、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の三手が、それぞれ京都へ向けて出発した。
  • 北陸道軍の進撃と志雄山の戦い 西暦1,221年6月20日、加地信実が菅谷寺を拠点に挙兵し、越後国加地荘願文山城に籠る酒匂家賢の軍を破った。29日には越中国般若野荘で宣旨を受け取り、加地実秀が立った儘「北条義時を誅殺せよ」と読み上げる。30日、志雄山で宮崎定範・糟屋有長・糟屋有久を討ち取って朝廷軍を壊滅させ、林次郎・石黒英光は降伏した。
  • 大井戸渡・摩免戸の戦い 西暦1,221年6月24日、朝廷が木曽川筋の九ヶ所へ12,000騎を配し、北陸道にも7,000騎を差し向けた。山田重忠の兵力集中策は藤原秀澄に却下される。26日夜、東山道軍50,000騎が大井戸渡を渡って大内惟忠等を討ち、27日明け方には北条有時・北条時氏の軍が摩免戸を渡った。朝廷軍は応戦せず退き、鏡久綱は自刃、山田重忠も株河での奮戦の末に退却、三浦胤義は陣を放棄して逃走した。
  • 後鳥羽上皇の比叡山御幸と延暦寺の拒否 西暦1,221年6月29日4時、負傷した藤原秀康・五条有長が摩免戸の敗北を報じると仙洞御所は騒動となった。後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・雅成親王・頼仁親王等と比叡山へ御幸し、道中では尊長の押小路河原の屋敷で防戦策を評議、夕方には仲恭天皇等も加わった。だが翌30日、延暦寺の僧兵は東国の武士には太刀打ち出来ないとして援軍要請を拒んだ。
  • 北条義時邸への落雷 西暦1,221年6月29日20時、北条義時の屋敷の佂殿に雷が落ち、人夫1名が死亡した。北条は自分への天罰ではないかと恐れ慄いたが、大江広元が西暦1,189年の奥州征伐の際に陣中へ落雷した先例を挙げて励まし、安倍親職・安倍泰貞・安倍宣賢に占わせた結果も最吉と出て安堵した。
  • 勢多の戦い 西暦1,221年7月4日、土砂降りの雨の中、北条時房の軍が勢多へ進んだ。瀬多川の大橋は中央付近3.6m程が引き剥がされ、山田重忠・亀屋盛成率いる3,000騎余が盾を並べて待ち構えていた。熊谷直国は橋を渡った所を荒左近に討たれ、吉見頼綱父子は激流に鎧を脱ぎ捨てて逃げたが、横田頼業が約110m川上から遠矢を射掛けて山田を退けた。翌5日、鎌倉幕府軍が瀬多川を攻略した。
  • 宇治川の戦いと芝田兼義の渡河 西暦1,221年7月4日、北条泰時の軍は矢の雨に遭って栗隈へ退き、許可無く宇治橋を襲った足利義氏・三浦義村・三浦泰村も土護覚心・円音の大薙刀に阻まれて平等院へ籠った。翌5日、泰時は芝田兼義に渡河を命じる。芝田は翁から浅瀬を聞き出して口封じに殺害し、裸で真木島まで泳いで先陣を切った。朝廷軍は255名の死者を出して敗走し、鎌倉幕府軍も96名の死者と144名の負傷者を出した。
  • 三浦胤義の仙洞御所拒絶と木嶋自害 西暦1,221年7月6日4時、敗れた三浦胤義・山田重忠・渡辺翔が仙洞御所に「力の限り戦う様をお見せして討死したい」と開門を求めたが、後鳥羽上皇は「お前達が此処に立て籠ったら私が攻撃されるではないか。早々に立ち去れ」と拒んだ。3名は東寺に籠り、胤義は兄義村へ恨みを言い捨てて襲い掛かったが相手にされず、8時、太秦へ向かう途中の木嶋で息子2名と共に自害した。
  • 朝廷の全面恭順と六波羅探題の設置 西暦1,221年7月6日8時、後鳥羽上皇の勅使が北条泰時・三浦義村の下へ来て、今回の合戦は上皇の意思では無く謀臣が行ったものである事、北条泰時追討の宣旨の撤回、京都での略奪禁止、全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す事を伝えた。10時、泰時と時房が六波羅へ入る。同月頃、平清盛の屋敷を拠点として六波羅探題が置かれ、泰時が初代北方、時房が初代南方に就任した。
  • 佐々木経高の自害 西暦1,221年7月7日、鷲尾に居た佐々木経高へ北条泰時が「決して命を捨ててはならぬ。鎌倉幕府に申して宥免される様手配しよう」と降伏を勧めたが、佐々木は自害を勧められたものと解釈して自らの肉や手足を切り裂いた。絶命の前に輿で六波羅へ向かい、泰時から本意で無かったと聞かされると、両目を見開き声にならぬ叫びを発して絶命した。
  • 戦功と死傷者の名簿作成 西暦1,221年7月9日迄に、後藤基綱・関実忠・金持兵衛尉が戦功の有った者や死傷者を文書に纏めた。戦功の有った者255名、負傷者132名、溺死者96名が記され、討ち取った首級の数では山城左衛門尉の16名、第2代島津氏当主島津忠時の7名が際立っていた。文書は中太弥三郎が鎌倉へ届けた。
  • 後鳥羽上皇の隠岐配流決定 西暦1,221年7月14日2時、鎌倉に戦勝報告が届いた。北条義時は「思う事は何も無い。私の果報は王の果報に勝っていたのだ」と語り、大江広元と共に西暦1,185年の処置を勘案して後鳥羽上皇の隠岐国配流を含む処罰を決定した。配流先は、出雲国・隠岐国守護佐々木義清が海上貿易で蓄財した村上氏に任せてはどうかと進言した事もあり、隠岐国と定まった。
  • 仲恭天皇の廃位と後堀河天皇の践祚 西暦1,221年7月28日、鎌倉幕府が高倉天皇の第弐皇子守貞親王に政務を担わせ、後鳥羽上皇の荘園を献上した。更に守貞親王の出家をしていない第参皇子後堀河天皇を次期天皇に立て、近衛家実が摂政の詔を受ける。29日、仲恭天皇は廃位され、後堀河天皇が高陽院で第86代天皇として践祚した。
  • 後鳥羽上皇の出家 西暦1,221年7月28日、後鳥羽上皇が鳥羽殿にて出家した。戒師は第参皇子道助入道親王が務め、似絵の名手藤原信実が御影を描いた。警護の武士を説得して御幸した母藤原殖子は上皇に会い、悲涙を堪えて帰る。髻が送られると、藤原信実は声を惜しまず涙した。
  • 勢多伽丸の斬首 西暦1,221年7月31日、佐々木広綱の四男で10歳余の勢多伽丸が、父の謀反の連座として仁和寺から六波羅に召し出された。母と道助入道親王の必死の嘆願により北条泰時は一度帰還を許したが、宇治川で戦功を挙げた北条義時の娘婿佐々木信綱が自らの武功の取り消しと自害までも申し出て処刑を迫り、泰時は断腸の思いで身柄を与え、斬首・梟首された。
  • 葉室光親・葉室宗行の斬首 西暦1,221年8月1日、葉室光親が駿河国加古坂で斬首された。翌2日、護送中の葉室宗行は駿河国浮島原で光親の遺骨を持つ従者と出会って死を覚悟し「今日過ぐる 身を浮島の 原にても つひの道をば 聞こさだめつる」と詠む。3日、駿河国藍沢原で斬首され、辞世の詩を遺した。後に藍澤五卿神社が建てられ、源有雅・藤原範茂・一条信能と共に合祀された。
  • 藤原範茂の入水自殺 西暦1,221年8月7日、鎌倉へ護送されていた藤原範茂が、足柄山で清川への入水を願い出た。首と胴が離れて五体満足で無くなっては極楽往生出来ない、というのが其の理由であった。北条朝時は之を認めて着物の袂や懐に石を詰め込み、藤原は「思いきや苔の下水堰き止めて月ならむ身の宿るべきとは」と詠んで入水した。
  • 上皇・親王の配流 西暦1,221年8月2日、後鳥羽上皇が佐々木義清・藤原秀能等7名と京都を発った。9日に順徳上皇へ佐渡国配流が通告され、10日に出発。13日に雅成親王が但馬国高屋へ、14日に頼仁親王が備前国児島へ配流された。16日、後鳥羽上皇一行は出雲国大浜湊に到着し、23日、船で隠岐諸島中ノ島へ渡って三穂神社の参篭舎で一夜を明かした。本書が記録する最後の出来事。

院宣・政子の演説・三手分進・摩免戸・勢多・宇治川・六波羅探題・隠岐配流──
承久の乱の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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