電子書籍「勝長寿院別当・鶴岡八幡宮寺別当・東寺長者を歴任した定豪一元化」の表紙

勝長寿院別当・鶴岡八幡宮寺別当・東寺長者を歴任した定豪一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,180年〜1,238年11月2日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月14日

伝法灌頂・鎌倉下向・実朝暗殺・諸寺別当歴任・東寺長者昇進──
鎌倉幕府と朝廷を繋いだ真言僧・定豪の生涯を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1180年、円成寺にて寛遍の弟子兼豪から伝法灌頂を受けた時から、西暦1238年11月、東寺長者在職中に入滅する迄。本書は、鎌倉幕府の草創期から承久の乱後にかけて、鎌倉と京都双方の仏教界を股に掛けて活動した真言僧・定豪の生涯を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1180年、定豪は、仁和寺の第90世東大寺別当を務めた寛遍の弟子兼豪から、大和国の円成寺(現在の奈良県奈良市忍辱山町)にて伝法灌頂を受け、尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯した。西暦1193年3月29日、源頼朝から鶴岡八幡宮寺の供僧に補任され、御谷の二十五坊の内の「永全坊」に住した。西暦1199年3月、供僧職を定舜に譲り、同年6月、初世勝長寿院別当性我から譲られて第2世勝長寿院別当に就任した。

西暦1219年2月13日、鶴岡八幡宮寺にて3代将軍源実朝の右大臣拝賀の儀が執り行われた日、定豪は此の歴史的暗殺事件の目撃者となる位置に在った。公暁は実朝を斬殺した後、三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺した事により、北条氏と三井寺系には距離感が生じた。三井寺系の慶幸が第5世鶴岡八幡宮寺別当に補任されたものの、西暦1220年2月に入滅。同月26日、定豪が第6世鶴岡八幡宮寺別当に補任され、東寺系が鶴岡八幡宮寺別当となるのは初の事であった。

西暦1221年、承久の乱に際し鎌倉幕府は定豪に世上無為の祈祷を依頼し、関東で初めて百座の仁王講が執り行われた。同年9月、鶴岡八幡宮寺別当を弟子定雅に譲り、祈祷の褒賞として第8代熊野三山検校に就任、第7代新熊野検校及び第13世大伝法院座主をも兼務した。但し定豪は鎌倉を離れなかった。其の後、西暦1224年北条義時の七十七日法要、西暦1225年北条政子の四十九日法要の導師を務め、鎌倉幕府草創期の柱石たる施主達を送った。西暦1226年1月、東寺三長者に補任。西暦1228年9月、第106世東大寺別当に就任。西暦1235年、鎌倉の明王院(現在の神奈川県鎌倉市十二所)の開眼供養を主催し、初世明王院別当に就任した。西暦1237年1月、上洛して第53世東寺長者に就任。西暦1238年11月2日、入滅した。


登場人物

  • 定豪 本書の主人公。仁和寺御室派の真言僧。勝長寿院第2世別当、鶴岡八幡宮寺第6世別当、明王院初世別当、東大寺第106世別当、東寺第53世長者、熊野三山第8代検校、新熊野第7代検校、大伝法院第13世座主を歴任。鎌倉幕府の帰依を受け、草創期の北条氏と朝廷を仏事を介して繋いだ真言密教の重鎮。
  • 兼豪 仁和寺の第90世東大寺別当寛遍の弟子。西暦1180年、円成寺にて定豪に伝法灌頂を授けた師。
  • 寛遍 仁和寺の僧。第90世東大寺別当。定豪の師兼豪の師に当たる。
  • 性我 初世勝長寿院別当。西暦1199年6月26日、勝長寿院別当職を定豪に譲った。
  • 定舜 定豪の弟子。西暦1199年3月11日、定豪から鶴岡八幡宮寺の供僧職を譲られた。
  • 定雅 定豪の弟子。第7世鶴岡八幡宮寺別当。西暦1221年9月16日、定豪から鶴岡八幡宮寺別当職を譲られて就任した。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代将軍。西暦1193年3月29日、定豪を鶴岡八幡宮寺の供僧に補任し、定豪の鎌倉下向の契機を作った。
  • 源実朝 鎌倉幕府第3代将軍。西暦1219年2月13日、右大臣拝賀の為の鶴岡八幡宮寺参詣の帰途、石段下で公暁に斬殺された。首級は武常晴により波多野に葬られた。
  • 公暁 源頼家の子。三井寺で受戒した鶴岡八幡宮寺別当。西暦1219年2月13日、「親の敵はかく討つぞ」と叫んで実朝を斬殺した。其の後、三浦義村の屋敷へ向かう途中で長尾定景に斬首された。
  • 慶幸 三井寺系の永福寺別当。西暦1219年4月16日、公暁の事件後に第5世鶴岡八幡宮寺別当に補任されたが、西暦1220年2月21日に入滅した。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。西暦1219年2月13日の実朝暗殺時、実朝の指示により中門に留まった為命を拾った。西暦1224年6月に死去し、同年8月16日の七十七日法要で定豪が導師を務めた。
  • 北条政子 源頼朝の正室。西暦1225年6月、鎌倉の疫病対策評議に参加し、定豪の進言により般若心経書写供養を行う事を決定。同年7月に死去、9月30日の四十九日法要で定豪が導師を務めた。
  • 北条泰時 鎌倉幕府第3代執権。西暦1219年の実朝暗殺時、公暁の首実検に立ち会い「公暁をちゃんと見た事が無いので、本物かどうか分からない」と語った。西暦1232年、北条時氏の三回忌にて定豪を導師に阿弥陀三尊像の開眼供養を行った。
  • 藤原頼経 鎌倉幕府第4代将軍。西暦1228年、頼経の護持僧として定豪が上旬担当に任じられた。西暦1235年の明王院関連の儀式にも出席した。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。公暁の乳母夫。西暦1219年の実朝暗殺事件に際し、公暁からの協力要請を受けながら義時に通報し、長尾定景を討手に指名して公暁を誅殺させた。西暦1225年の疫病対策評議にも参加した。
  • 長尾定景 三浦義村の家臣。西暦1219年2月13日、義村の指名により公暁討伐の任に当たり、黒革縅の鎧を身に纏い、雑賀次郎ら5名を率いて出陣。道中で公暁を斬首した。
  • 武常晴 三浦義村の家臣。西暦1219年2月13日の実朝暗殺後、実朝の首級を拾い上げ、波多野(現在の神奈川県秦野市)に持ち込み葬った。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1219年2月13日の右大臣拝賀当日、実朝に異常な予感を伝え、束帯の下に腹巻を着ける様進言したが、源仲章の反論で受け入れられなかった。
  • 源仲章 西暦1219年2月13日の右大臣拝賀で、実朝の殿上人の最後尾右で松明を持っていた。公暁の仲間に義時と間違えられて斬殺された。
  • 良信 真言僧。西暦1225年の鎌倉疫病対策評議に定豪と共に参加し、般若心経書写供養の功徳を説いた。西暦1228年には藤原頼経の護持僧(中旬担当)、西暦1235年の一切経供養では願文を読んだ。
  • 二階堂行盛 鎌倉幕府御家人。西暦1223年9月16日の南新御堂供養を指揮した。
  • 竹御所 源頼家の娘。西暦1225年9月30日の北条政子の四十九日法要にて施主を務めた。

主要な地名・拠点

  • 円成寺 大和国の寺院。現在の奈良県奈良市忍辱山町。西暦1180年、定豪が兼豪から伝法灌頂を受け、尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯した地。
  • 鶴岡八幡宮寺 鎌倉幕府の宗教的中核寺院。現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下。定豪は西暦1193年に供僧、西暦1220年に第6世別当に補任された。東寺系が鶴岡八幡宮寺別当に就任したのは定豪が最初であった。西暦1219年2月13日、源実朝が石段下で公暁に暗殺された地でもある。
  • 永全坊 御谷(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の二十五坊の内の1つ。定豪が鶴岡八幡宮寺供僧として住した坊。
  • 勝長寿院 鎌倉に所在した源氏の菩提寺。定豪は西暦1199年6月26日、初世別当性我から譲られて第2世勝長寿院別当に就任した。
  • 明王院 鎌倉の寺院。現在の神奈川県鎌倉市十二所。西暦1235年2月28日に上棟、7月15日に定豪を初世別当として開眼供養が執り行われた。堂には不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜伹明王の五大明王像が安置された。
  • 永福寺 鎌倉に所在した寺院。第5世鶴岡八幡宮寺別当となった慶幸が、其れ以前に別当を務めていた寺院。
  • 大倉御所 鎌倉幕府初期の将軍御所。西暦1219年2月13日、源実朝が右大臣拝賀の為の鶴岡八幡宮寺参詣へ出発した地点。
  • 宇津宮辻子御所 鎌倉幕府の将軍御所。現在の神奈川県鎌倉市小町。西暦1232年6月18日、鳥の不審な行為を受けて1,000回のお祓いが行われた地。
  • 波多野 相模国の地。現在の神奈川県秦野市。西暦1219年2月13日の実朝暗殺後、三浦義村の家臣武常晴が実朝の首級を持ち込み葬った地。
  • 熊野三山 紀伊国の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社の総称。定豪は承久の乱の祈祷の褒賞として、西暦1221年に第8代熊野三山検校に就任した。
  • 新熊野 京都東山に所在。定豪は西暦1221年、第7代新熊野検校を兼務した。
  • 大伝法院 紀伊国高野山の真言宗の寺院。定豪は西暦1221年、第13世大伝法院座主を兼務した。
  • 東大寺 奈良に所在する華厳宗大本山。定豪は西暦1228年9月6日、第106世東大寺別当に就任した。
  • 東寺 京都の真言宗の総本山。定豪は西暦1226年1月に東寺三長者、西暦1237年1月22日に第53世東寺長者に就任した。東寺長者は真言宗における最高位の職である。

主要な事績

  • 伝法灌頂 西暦1180年、円成寺にて兼豪から受けた真言密教の奥義伝授。此れにより定豪は尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯し、真言僧としての基礎を築いた。
  • 鶴岡八幡宮寺供僧補任 西暦1193年3月29日、源頼朝により鶴岡八幡宮寺の供僧に補任された。定豪の鎌倉仏教界への参入の契機であり、以後の全活動の出発点となった。
  • 実朝暗殺事件の現場 西暦1219年2月13日、鶴岡八幡宮寺にて源実朝が公暁に暗殺された事件。鶴岡八幡宮寺の供僧系統にあった定豪は、其の現場の一員として時代の転換点に立ち会った。三井寺系と北条氏の距離感が生じた結果、翌年に定豪が第6世鶴岡八幡宮寺別当に補任される政治的背景を生んだ。
  • 承久の乱の祈祷 西暦1221年6月、鎌倉幕府からの世上無為の祈祷依頼を受け、関東で初めて百座の仁王講を執り行った(導師重慶、読師隆修)。其の褒賞として熊野三山検校・新熊野検校・大伝法院座主を兼帯する事となった。
  • 北条義時七十七日法要 西暦1224年8月16日、北条義時の七十七日法要の導師を務めた。鎌倉幕府執権家との密接な関係を象徴する仏事。
  • 鎌倉疫病対策評議 西暦1225年6月8日、鎌倉で数千名の死者を出した疫病への対応評議に参加。嵯峨天皇が空海を通じて般若心経書写供養を行った先例を引き、1,000名の僧による仁王経読誦と般若心経書写供養を提案・実現した。
  • 北条政子四十九日法要 西暦1225年9月30日、北条政子の四十九日法要の導師を務めた。施主は源頼家の娘竹御所。
  • 明王院開眼供養 西暦1235年7月15日、鎌倉の明王院の開眼供養。定豪が初世明王院別当として五大明王像(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜伹)の開眼と明王院平穏の祈祷を執り行った。鎌倉幕府最晩年の国家鎮護事業。
  • 東寺長者就任 西暦1237年1月22日、上洛して第53世東寺長者に就任。真言宗の最高位に登り詰めた定豪の生涯の頂点である。翌年西暦1238年11月2日、東寺長者在職中に入滅した。

伝法灌頂・鎌倉下向・実朝暗殺・諸寺別当歴任・東寺長者昇進──
鎌倉幕府と朝廷を繋いだ真言僧・定豪の生涯を一冊に。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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