電子書籍「勝長寿院別当・鶴岡八幡宮寺別当・東寺長者を歴任した定豪一元化」の表紙

勝長寿院別当・鶴岡八幡宮寺別当・東寺長者を歴任した定豪一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,180年〜1,238年11月2日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
19ページ
最新更新日
西暦2,026年8月7日

西暦1,180年、円成寺の灌頂壇から始まった──
鎌倉と京都を仏事で結んだ真言僧の58年を一元化。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,180年、定豪は大和国の円成寺(現在の奈良県奈良市忍辱山町)にて、仁和寺の第90世東大寺別当を務めた寛遍の弟子兼豪から伝法灌頂を受け、尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯した。真言僧としての出発点である。本書は、其の日から西暦1,238年11月2日、東寺長者在職の儘で入滅する迄の生涯を、年月日単位で一元化した記録である。勝長寿院別当・鶴岡八幡宮寺別当・熊野三山検校・東大寺別当・東寺長者──定豪が生涯に帯びた職の連なりは、そのまま鎌倉と京都という2つの中心を、仏事を介して結び直してゆく過程でもあった。

鎌倉との縁は、西暦1,193年3月29日に始まる。源頼朝から鶴岡八幡宮寺の供僧に補任され、御谷(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の二十五坊の内の1つである「永全坊」に住した。西暦1,199年3月11日、其の供僧職を定舜に譲り、同年6月26日には初世勝長寿院別当性我から譲られて、第2世勝長寿院別当に就任している。源氏の菩提寺の別当職を、鎌倉に下った真言僧が引き受けたのである。

西暦1,219年2月13日、鶴岡八幡宮寺は事件の舞台となった。右大臣拝賀を控えた源実朝に対し、大江広元は「今、実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません」と述べ、束帯の下に腹巻を着ける様進言したが、源仲章が前例の無い事として反論し、退けられた。実朝は自らの髪を1本抜いて宮内公氏に「形見にせよ」と渡し、庭の梅を見て「出ていなは主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春を忘るな」と詠む。18時、雪が60cm程積もる中を大倉御所を発ち、参詣を終えて石段を降りた所で、法師の装いで隠れていた公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫んで斬り付け、首を落とした。松明を持っていた源仲章は北条義時と間違えられて斬殺され、実朝の指示で中門に留まっていた義時は命を拾う。公暁は乳母夫の三浦義村を頼ったが、義村は北条義時に通報し、長尾定景を討手に指名。道中で遭遇した公暁は雑賀次郎に取り押さえられ、斬首された。実朝の首級は義村の家臣武常晴が拾い、波多野(現在の神奈川県秦野市)へ運んで葬った。

此の事件が、定豪の位置を変える。三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺した事により、北条氏と三井寺系との間には距離感が生じた。同年4月16日、永福寺別当であった三井寺系の慶幸が第5世鶴岡八幡宮寺別当に補任されるが、西暦1,220年2月21日に入滅。其の5日後の2月26日、定豪が第6世鶴岡八幡宮寺別当に補任された。東寺系が鶴岡八幡宮寺別当となるのは、此れが初めてであった。

西暦1,221年6月11日、鎌倉幕府は定豪に世上無為の祈祷を始める様依頼する。承久の乱の最中である。17日、関東で初めて百座の仁王講が執り行われ、導師は重慶、読師は隆修が務め、鶴岡八幡宮寺・勝長寿院・永福寺・大慈寺の僧100名が参列した。同年9月16日、定豪は鶴岡八幡宮寺別当を弟子の定雅に譲り、祈祷の褒賞として鎌倉幕府の推挙により第8代熊野三山検校に就任、第7代新熊野検校と第13世大伝法院座主をも兼務する事となる。西国の要職を一身に集めながら、定豪は鎌倉を離れなかった。

以後も、鎌倉の重要な仏事は定豪の手に委ねられ続けた。西暦1,223年9月16日の南新御堂供養、西暦1,224年8月16日の北条義時の七十七日法要、西暦1,225年9月30日の北条政子の四十九日法要(施主は源頼家の娘竹御所)、西暦1,232年6月18日の北条時氏三回忌に際する阿弥陀三尊像の開眼供養──いずれも導師は定豪であった。西暦1,225年6月8日、鎌倉で死者数千名を超える疫病が発生した際の評議では、1,000名の僧による仁王経の読誦を提案し、良信と共に「嵯峨天皇の時代に疫病が発生し、五畿七道に多くの人々が亡くなりました。其の際、嵯峨天皇は自ら般若心経を書写し、空海を通じて供養を行いました」と先例を挙げて、般若心経の書写供養を実現させている。西暦1,228年1月21日には、藤原頼経の護持僧の上旬担当筆頭にも定められた。

京都の階梯もまた登り続けた。西暦1,226年1月頃に東寺三長者へ補任され、西暦1,228年9月6日には第106世東大寺別当に就任。西暦1,235年、鎌倉では明王院(現在の神奈川県鎌倉市十二所)が営まれ、2月28日の上棟を受けて3月8日に定豪が一切経の供養を主催、7月15日には開眼供養が行われた。8時に鋳直した洪鐘が吊るされ、不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜伹明王の五大明王像が堂に安置され、9時半頃から始まった供養では、初世明王院別当となった定豪が明王院平穏の祈祷を行った。西暦1,237年1月5日に上洛し、同月22日、第53世東寺長者に就任する。真言宗の最高位であった。そして翌西暦1,238年11月2日、定豪は入滅した。


登場人物

  • 定豪 本書の中心人物。真言僧。西暦1,180年に円成寺で伝法灌頂を受け、尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯した。第2世勝長寿院別当・第6世鶴岡八幡宮寺別当・第8代熊野三山検校・第7代新熊野検校・第13世大伝法院座主・第106世東大寺別当・初世明王院別当・第53世東寺長者を歴任。鎌倉幕府の帰依を受け、執権家の法要から疫病の祈祷まで、鎌倉の主要な仏事を担い続けた。
  • 兼豪 仁和寺の第90世東大寺別当寛遍の弟子。西暦1,180年、円成寺にて定豪に伝法灌頂を授けた師。
  • 寛遍 仁和寺の僧で第90世東大寺別当。定豪に伝法灌頂を授けた兼豪の師に当たる。
  • 性我 初世勝長寿院別当。西暦1,199年6月26日、勝長寿院別当職を定豪に譲った。
  • 定舜 西暦1,199年3月11日、定豪から鶴岡八幡宮寺の供僧職を譲られた僧。
  • 定雅 定豪の弟子。西暦1,221年9月16日、定豪から鶴岡八幡宮寺別当職を譲られ、第7世鶴岡八幡宮寺別当に就任した。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1,193年3月29日、定豪を鶴岡八幡宮寺の供僧に補任した。定豪が鎌倉の仏教界に入る契機を作った人物。
  • 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1,219年2月13日、右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮寺へ参詣し、神前に就任を報告した帰り、石段を降りた所で公暁に斬殺された。首級は三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野へ運んで葬った。
  • 公暁 源頼家の子。三井寺で受戒した鶴岡八幡宮寺別当。西暦1,219年2月13日、法師の装いで隠れ「親の敵はかく討つぞ」と叫んで源実朝を斬殺した。実朝の首級を持って「今こそ我は東国の大将軍である」と乳母夫の三浦義村へ言付を送ったが、迎えを待ち切れず義村の屋敷へ向かう道中で長尾定景に斬首された。
  • 慶幸 三井寺系の僧で永福寺別当。西暦1,219年4月16日、実朝暗殺の後に第5世鶴岡八幡宮寺別当へ補任されたが、西暦1,220年2月21日に入滅した。其の5日後、定豪が第6世別当に補任される事となる。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。西暦1,219年2月13日の実朝暗殺では、実朝の指示で中門に留まっていた為に命を拾い、代わりに松明を持っていた源仲章が身代わりに斬殺された。西暦1,223年9月16日の南新御堂供養に参列し、西暦1,224年8月16日には其の七十七日法要が、定豪を導師として営まれた。
  • 北条政子 源頼朝の正室。西暦1,225年6月8日、鎌倉の疫病への対策評議において、二階堂行村の般若心経・仏頂尊勝陀羅尼の万巻書写供養の案について意見を求めた。同年9月30日、其の四十九日法要が定豪を導師として営まれた。
  • 北条泰時 鎌倉幕府第3代執権。西暦1,219年の公暁の首実検では「公暁をちゃんと見た事が無いので、本物かどうか分からない」と語った。西暦1,232年6月18日、北条時氏の三回忌に当たって墳墓堂に阿弥陀三尊像を新造させ、定豪を導師として開眼供養を執り行った。
  • 藤原頼経 鎌倉幕府第4代征夷大将軍。西暦1,228年1月21日、其の護持僧と陰陽師の順番が定められ、定豪は上旬担当の筆頭に置かれた。西暦1,235年3月8日の一切経供養にも出席している。
  • 三浦義村 鎌倉幕府の有力御家人で、公暁の乳母夫。西暦1,219年2月13日、公暁からの言付を受けて源頼朝・源頼家・源実朝三代の恩義を思い返して涙したが、迎えを送ると答える一方で北条義時に通報し、長尾定景を討手に指名した。西暦1,225年6月8日の疫病対策評議にも参加している。
  • 長尾定景 三浦義村の家臣。西暦1,219年2月13日、公暁の討手に指名され、固辞したものの度重なる要請により受諾。黒革縅の鎧を纏い雑賀次郎等5名を率いて出陣し、道中で遭遇した公暁を斬首した。
  • 武常晴 三浦義村の家臣。西暦1,219年2月13日、斬り落とされた源実朝の首級を拾い上げ、波多野(現在の神奈川県秦野市)へ持ち込んで葬った。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀に際し「私は成人してより数十年、凡そ泣いた事がございません。しかし今、実朝殿のお側に近づくと、涙が止まりません」と述べ、束帯の下に腹巻を着ける様進言したが、源仲章の反論により退けられた。
  • 源仲章 西暦1,219年2月13日の右大臣拝賀で、腹巻着用の前例が無いとして大江広元の進言に反論した。当日は殿上人の最後尾右で松明を持っていた為、公暁の仲間に北条義時と間違えられて斬殺された。
  • 良信 僧。西暦1,225年6月8日の疫病対策評議に定豪と共に加わり、嵯峨天皇と空海の先例を挙げて般若心経書写の功徳を説いた。西暦1,228年には藤原頼経の護持僧の中旬担当筆頭、西暦1,235年3月8日の一切経供養では願文を読んだ。
  • 二階堂行盛 鎌倉幕府の御家人。西暦1,223年9月16日、進士隆邦と共に南新御堂の供養を指揮した。
  • 二階堂行村 鎌倉幕府の御家人。西暦1,225年6月8日の疫病対策評議に加わり、般若心経と仏頂尊勝陀羅尼を各々万巻書写供養する案を出した。西暦1,228年1月21日には藤原頼経の護持僧と陰陽師の順番の決定にも当たった。
  • 竹御所 源頼家の娘。西暦1,225年9月30日、北条政子の四十九日法要の施主を務めた。

主要な地名・拠点

  • 円成寺 現在の奈良県奈良市忍辱山町。西暦1,180年、定豪が兼豪から伝法灌頂を受け、尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯した地。定豪の生涯の出発点。
  • 鶴岡八幡宮寺 鎌倉幕府の宗教的中核を成した寺院。定豪は西暦1,193年3月29日に供僧、西暦1,220年2月26日に第6世別当へ補任された。東寺系が別当となるのは定豪が初であった。西暦1,219年2月13日、源実朝が公暁に斬殺されたのも此の境内である。
  • 永全坊 御谷(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の二十五坊の内の1つ。西暦1,193年、鶴岡八幡宮寺の供僧となった定豪が住した坊。
  • 勝長寿院 鎌倉に営まれた寺院。西暦1,199年6月26日、定豪が初世別当性我から譲られて第2世別当に就任した。西暦1,221年6月17日の百座の仁王講にも僧を出している。
  • 明王院 現在の神奈川県鎌倉市十二所。西暦1,235年2月28日に上棟、7月15日に開眼供養が執り行われた。不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜伹明王の五大明王像が安置され、初世別当となった定豪が平穏の祈祷を行った。
  • 永福寺 鎌倉の寺院。第5世鶴岡八幡宮寺別当となった慶幸が、其れ以前に別当を務めていた寺院。西暦1,221年6月17日の百座の仁王講にも僧を出している。
  • 大倉御所 鎌倉幕府初期の将軍御所。西暦1,219年2月13日18時、源実朝が右大臣拝賀の為の鶴岡八幡宮寺参詣へ、雪の中を発った地点。
  • 宇津宮辻子御所 現在の神奈川県鎌倉市小町。西暦1,232年6月18日、鳥の不審な行為を受けた祈祷として、1,000回のお祓いが行われた地。
  • 波多野 現在の神奈川県秦野市。西暦1,219年2月13日の実朝暗殺の後、三浦義村の家臣武常晴が源実朝の首級を持ち込み、葬った地。
  • 熊野三山 紀伊国の霊場。西暦1,221年、定豪は祈祷の褒賞として鎌倉幕府の推挙により第8代熊野三山検校に就任した。但し、鎌倉を離れる事は無かった。
  • 新熊野 京都に所在。西暦1,221年、定豪が第7代新熊野検校を兼務した。
  • 大伝法院 紀伊国の真言宗の寺院。西暦1,221年、定豪が第13世大伝法院座主を兼務した。
  • 東大寺 奈良の華厳宗大本山。西暦1,228年9月6日、定豪が第106世東大寺別当に就任した。定豪に伝法灌頂を授けた兼豪の師寛遍も、第90世東大寺別当を務めている。
  • 東寺 京都の真言宗の寺院。定豪は西暦1,226年1月頃に東寺三長者へ補任され、西暦1,237年1月22日に第53世東寺長者へ就任した。翌西暦1,238年11月2日、其の職に在る儘で入滅した。

主要な事績

  • 伝法灌頂 西暦1,180年、円成寺にて兼豪から伝法灌頂を受けた。授けたのは、仁和寺の第90世東大寺別当を務めた寛遍の弟子である。此れにより定豪は尊寿院・忍辱山流等の諸流を兼帯した。本書が記録する最初の出来事。
  • 鶴岡八幡宮寺供僧補任 西暦1,193年3月29日、源頼朝から鶴岡八幡宮寺の供僧に補任され、御谷の二十五坊の内の1つである「永全坊」に住した。定豪が鎌倉の仏教界に入る契機となった。
  • 第2世勝長寿院別当就任 西暦1,199年3月11日に鶴岡八幡宮寺の供僧職を定舜へ譲り、同年6月26日、初世勝長寿院別当性我から譲られて第2世勝長寿院別当に就任した。
  • 源実朝暗殺 西暦1,219年2月13日、右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮寺へ参詣した源実朝が、石段を降りた所で公暁に斬殺された。松明を持っていた源仲章は北条義時と間違えられて斬られ、公暁も其の日の内に長尾定景に斬首された。三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺した事により、北条氏と三井寺系との間に距離感が生じた。
  • 第6世鶴岡八幡宮寺別当補任 西暦1,219年4月16日に第5世鶴岡八幡宮寺別当となった三井寺系の慶幸が、西暦1,220年2月21日に入滅。其の5日後の2月26日、定豪が第6世鶴岡八幡宮寺別当に補任された。東寺系が鶴岡八幡宮寺別当となるのは初めての事であった。
  • 承久の乱の祈祷と百座の仁王講 西暦1,221年6月11日、鎌倉幕府が定豪に世上無為の祈祷を始める様依頼した。17日、関東で初めて百座の仁王講が執り行われ、導師は重慶、読師は隆修が務め、鶴岡八幡宮寺・勝長寿院・永福寺・大慈寺の僧100名が参列した。
  • 熊野三山検校等の兼帯 西暦1,221年9月16日、定豪は鶴岡八幡宮寺別当を弟子の定雅に譲った。同年、祈祷の褒賞として鎌倉幕府の推挙により第8代熊野三山検校に就任し、第7代新熊野検校と第13世大伝法院座主も兼務する事となったが、鎌倉を離れる事は無かった。
  • 南新御堂の供養 西暦1,223年9月16日、小雨の中で南新御堂の供養が執り行われ、定豪が導師を務めた。二階堂行盛・進士隆邦が指揮し、北条義時・北条朝時・北条重時等が参列。お布施は30種類を1袋に入れたものが100個であった。
  • 北条義時七十七日法要 西暦1,224年8月16日、北条義時の七十七日法要の導師を務めた。
  • 鎌倉疫病対策評議 西暦1,225年6月8日、鎌倉で死者数千名を超える疫病が発生した事を受けた評議に、良信・三浦義村・二階堂行村・国道と共に加わった。定豪は1,000名の僧による仁王経の読誦を提案し、良信と共に嵯峨天皇が自ら般若心経を書写し空海を通じて供養した先例を挙げて、書写供養の実施を導いた。
  • 北条政子四十九日法要 西暦1,225年9月30日、北条政子の四十九日法要の導師を務めた。施主は源頼家の娘竹御所であった。
  • 東寺三長者補任 西暦1,226年1月頃、定豪が東寺三長者に補任された。京都における昇進の第一歩。
  • 藤原頼経の護持僧 西暦1,228年1月21日、二階堂行村・藤原親実・後藤基綱により藤原頼経の護持僧と陰陽師の順番が定められ、定豪は頼暁・円親と共に上旬を担当する筆頭に置かれた。
  • 第106世東大寺別当就任 西暦1,228年9月6日、定豪が第106世東大寺別当に就任した。
  • 北条時氏三回忌の開眼供養 西暦1,232年6月18日、北条泰時が北条時氏の三回忌に当たって墳墓堂に阿弥陀三尊像を新造させ、其の開眼供養の導師を定豪が務めた。同日、鳥の不審な行為を受け、宇津宮辻子御所にて1,000回のお祓いも行われている。
  • 明王院の一切経供養と開眼供養 西暦1,235年2月28日の明王院上棟を受け、3月8日、定豪が一切経の供養を主催した。指導僧は興福寺の東南院の公宴、願文は良信が読み、藤原頼経・北条時房・北条泰時が出席。7月15日8時には鋳直した洪鐘が吊るされ、五大明王像が安置され、9時半頃から始まった開眼供養で、初世明王院別当となった定豪が平穏の祈祷を行った。
  • 第53世東寺長者就任 西暦1,237年1月5日に上洛し、同月22日、第53世東寺長者に就任した。真言宗における最高位である。
  • 入滅 西暦1,238年11月2日、定豪が入滅した。東寺長者在職の儘であった。本書が記録する最後の出来事。

伝法灌頂・鶴岡八幡宮寺別当・承久の乱の祈祷・明王院開眼供養・東寺長者──
定豪の生涯の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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