電子書籍「伊賀氏事件一元化」の表紙

伊賀氏事件一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,224年4月13日〜1,225年2月3日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
11ページ
最新更新日
西暦2,026年8月6日

西暦1,224年7月1日、執権が死んだ──
鎌倉を揺らした噂と密談の10箇月を一元化。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,224年4月13日、伊賀朝光の参男伊賀光資が脚気の為に死去した。同じ脚気を患い不調が続いていた鎌倉幕府第2代執権北条義時が重病となったのは、其れから2ヶ月半後の6月30日8時である。陰陽師の占いでは大事には至らず、20時には快方に向かうとされ、念の為の祈祷も行われた。然し死期を悟った北条義時は、其の日の朝から念仏を唱え続けた。翌7月1日4時に出家し、10時、鶴岡八幡宮寺の供僧で心経会の導師である頼暁を師として、外縛印を結び念仏を数十回唱えた中で死去した。本書は、此の一人の執権の死を起点として、西暦1,225年2月3日、伊豆国に幽閉された伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に届く迄の約10箇月間を、年月日単位で一元化した記録である。

訃報は7月4日、六波羅に在った北条泰時の下へ届いた。翌5日2時、泰時は鎌倉へ向けて京都を発つ。6日には葬儀が営まれ、法華堂の東の山上が墳墓と定められ、北条朝時・北条重時・北条政村・北条実泰・北条有時という兄弟の序列が示された。7日には北条時房も京都を発つ。8日、泰時は伊豆国に入って逗留を始めた。父の跡目を継ぐべき者が、鎌倉の目前で足を止めたのである。10日、時房が鎌倉に入って安全を確認した事を受け、泰時は漸く出立した。14日、泰時・時房・足利義氏が鎌倉に入り、泰時は由比ヶ浜に宿泊、翌15日に自身の屋敷へ戻った。

7月16日、北条時房が初代連署に就任する。同じ日、北条泰時は北条政子の屋敷に招かれ、政子は泰時を第3代執権に任命する事を決め、大江広元も賛同し、時房が後見とされた。だが、此の時点で既に鎌倉には2つの噂が流れていた。1つは、泰時が北条政村を討つというもの。もう1つは、伊賀の方が泰時の家督継承に反対し、自身の息子である政村を執権に据え、兄の伊賀光宗に後見をさせ、娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているというものであった。17日、謀反の噂を聞いた北条時盛・北条時氏は鎌倉に留まるべきだと主張したが、泰時・時房が促して上洛させた。

7月18日頃から、伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重の3名が、北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始める。22日には其の頻繁さが人々に怪しまれた。同日夜、3名は北条義時の屋敷に参集し「此の事を変えてはならない」と誓い合った。其れを聞いた女中には何の事か分からなかったが、様子は北条泰時に伝えられる。泰時は動揺する事も無く「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語ったという。

事態を動かしたのは北条政子であった。8月3日深夜、政子は自ら三浦義村の屋敷へ赴き「3年前の朝廷との戦での勝利は、天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です。泰時が居なくなれば、人々は長く争う事になるでしょう。貴方は政村の烏帽子親です。共謀を疑わない訳にはいきません」と迫った。義村は「存じ上げません」と答えたが、政子が「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」と重ねると、義村は「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので、止めさせましょう」と誓った。4日、義村は泰時の屋敷を訪れて釈明し、14日には烏帽子親と猶子の恩義に触れて「泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました」と心情を吐露した。16日未明、鎌倉では御家人達が旗を立て鎧兜を纏って競う様に走り回る騒動が起こり、明け方に収まる。翌17日、政子は幼い征夷大将軍藤原頼経を連れて泰時の屋敷に入り「私は藤原を抱いて此処に居ます。三浦義村も此処に居る様に」と義村を呼び出した。葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等も招かれ、北条時房が言い聞かせる。政子は「藤原が幼い間は、下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている」と語り、御家人達は謀反を防ぐ為に政子へ協力する事に賛同した。

8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府の知る所となる。北条政子は御前に北条時房・大江広元を同席させ、両名を流罪とする処分を下した。同時に一条実雅の身柄は朝廷に引き渡され、其の裁定に委ねられる事となる。加担した其の他の者の罪は、不問に付された。9月8日、一条実雅は伊賀朝行・伊賀光重・伊賀宗義・伊賀光盛を伴って京都へ発ち、許可無く扈従した源親行・伊具盛重は後に出仕を止められ所領を没収された。14日、伊賀光宗は政所執事を罷免され、所領52ヶ所を没収されて二階堂行村の預かりとなる。22日には北条義時の墳墓堂の供養が営まれ、其の堂は「新法華堂」と称される事となった。10月11日には伊賀光宗が処刑されるとの噂が鎌倉に流れたが事実では無く、12日、京都の騒動で伊賀朝行・伊賀光重が監禁される。13日、伊賀の方は伊豆国北条郡へ配流されて幽閉され、伊賀光宗は信濃国へ、朝行・光重は北条時氏の預かりとして鎮西への配流が決まった。11月22日の朝議で一条実雅の越前国流罪が決定し、12月11日に解官の上配流、20日には朝行・光重も鎮西へ送られる。そして西暦1,225年2月3日、伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入った。刃を交える事無く、噂と密談と流罪だけで決した政変の、其れが終わりであった。


登場人物

  • 伊賀の方 本書の中心人物。北条義時の継室で、北条政村の母。西暦1,224年7月16日以降、北条泰時の家督継承に反対し、息子の政村を執権に据え、兄の伊賀光宗に後見をさせ、娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂が鎌倉に流れた。8月19日、謀反が鎌倉幕府に知られて北条政子の御前で流罪の処分を受け、10月13日、伊豆国北条郡に配流されて幽閉された。西暦1,225年2月3日、危篤となったとの情報が鎌倉に届いた。
  • 伊賀光宗 伊賀の方の兄で、鎌倉幕府政所執事。西暦1,224年7月18日頃から弟の伊賀朝行・伊賀光重と共に北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始め、22日夜には北条義時の屋敷に参集して「此の事を変えてはならない」と誓い合った。8月19日に流罪処分を受け、9月14日、政所執事を罷免され所領52ヶ所を没収されて二階堂行村の預かりとなり、10月13日に信濃国へ配流された。
  • 伊賀朝行 伊賀朝光の四男で、伊賀の方の弟。西暦1,224年7月18日頃から兄の伊賀光宗・弟の伊賀光重と共に三浦義村の屋敷に出入りし始めた。9月8日、一条実雅の京都への護送に同行を許可されたが、10月12日の京都の騒動で監禁され、13日に北条時氏の預かりとなって鎮西への配流が決定、12月20日に配流された。
  • 伊賀光重 伊賀朝光の五男で、伊賀の方の弟。兄2名と共に三浦義村の屋敷へ出入りした。9月8日に一条実雅の護送へ同行を許され、10月12日に京都で監禁、13日に鎮西への配流が決定し、12月20日に伊賀朝行と共に配流された。
  • 伊賀光資 伊賀朝光の参男。西暦1,224年4月13日、脚気の為に死去した。本書の最初の項目であり、同じ脚気で倒れる北条義時の死に先立つ出来事。
  • 一条実雅 伊賀の方の娘婿。西暦1,224年7月16日以降、伊賀の方によって征夷大将軍に擁立されようとしているとの噂が流れた。8月19日、身柄を朝廷に引き渡されて裁定を委ねられる事となり、9月8日に鎌倉を発って30日に京都へ到着。11月22日の朝議で越前国への流罪が決定し、12月11日に解官の上配流された。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権で、伊賀の方の夫。西暦1,224年6月30日8時、脚気を患い不調が続いていた中で重病となった。陰陽師の占いでは快方に向かうとされたが、死期を悟って朝から念仏を唱え続け、7月1日4時に出家、10時、鶴岡八幡宮寺の供僧頼暁を師として外縛印を結び、念仏を数十回唱えた中で死去した。6日に法華堂の東の山上へ葬られ、9月22日には墳墓堂の供養が営まれて「新法華堂」と称された。
  • 北条政子 源頼朝の正室で、北条義時の姉。西暦1,224年7月16日、北条泰時を屋敷に招いて第3代執権に任命する事を決めた。8月3日深夜には自ら三浦義村の屋敷へ赴き「北条義時の跡を継ぐのは泰時です」と迫って義村に光宗を止めさせる誓いを立てさせ、17日には藤原頼経を連れて泰時の屋敷に入り、御家人達を結集させた。19日、伊賀光宗と伊賀の方への流罪処分を御前で決定している。
  • 北条泰時 北条義時の長男で、六波羅探題北方。西暦1,224年7月4日に父の訃報を受け、5日2時に京都を発ち、8日に伊豆国で逗留、10日に北条時房が鎌倉の安全を確認した事を受けて出発、14日に鎌倉入りした。16日、北条政子により第3代執権に任命される。伊賀兄弟の密談を女中から報告されても動揺せず「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語り、8月14日の三浦義村の報告にも「私は政村に危害を加えようとは思っていません」と返した。
  • 北条時房 北条義時の弟で、六波羅探題南方。西暦1,224年7月7日に京都を発ち、10日に鎌倉へ入って安全を確認した。16日、初代連署に就任し、泰時の後見とされた。8月17日には政子が呼び出した御家人達に言い聞かせ、19日の流罪処分の決定には大江広元と共に御前へ同席した。
  • 北条政村 北条義時の五男で、伊賀の方の息子。三浦義村の烏帽子子。西暦1,224年7月16日以降、母によって執権に擁立されようとしているとの噂と、北条泰時が政村を討つとの噂が同時に流れ、周囲は騒然となった。然し逆心は三浦義村の証言によって否定され、8月19日の処分でも罪は不問に付された。
  • 北条朝時 北条義時の弐男。西暦1,224年7月6日の葬儀では兄弟の序列の筆頭に置かれた。8月18日には、自身の主催で独自に北条義時の四十九日法要を執り行っている。
  • 北条時氏 北条泰時の長男。西暦1,224年7月17日、謀反の噂を聞いて鎌倉に居るべきではないかと主張したが、泰時・時房に促されて北条時盛と共に上洛した。10月13日、鎮西への配流が決定した伊賀朝行・伊賀光重の預かりとなった。
  • 三浦義村 鎌倉幕府の有力御家人。北条政村の烏帽子親であり、子の三浦泰村は北条義時の猶子であった。西暦1,224年7月18日頃から伊賀兄弟が屋敷に出入りし始め、人々に怪しまれる。8月3日深夜に北条政子の訪問を受けて迫られ「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので、止めさせましょう」と誓った。14日には泰時に対し、烏帽子親と猶子の恩義から「泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました」と心情を吐露している。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1,224年7月16日、北条政子が北条泰時を第3代執権に任命する事に賛同した。8月19日、伊賀光宗と伊賀の方への流罪処分を決定する政子の御前に、北条時房と共に同席した。
  • 藤原頼経 第4代征夷大将軍。当時未だ幼少であった。西暦1,224年8月17日、北条政子に連れられて北条泰時の屋敷に入り「私は藤原を抱いて此処に居ます」という政子の言葉と共に、御家人結集の象徴となった。
  • 足利義氏 鎌倉幕府の御家人。西暦1,224年7月14日、北条泰時・北条時房と共に鎌倉へ入った。
  • 葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光 鎌倉幕府の重鎮達。西暦1,224年8月17日、北条政子が藤原頼経を連れて北条泰時の屋敷に入った際、三浦義村と共に呼び出されて北条時房の言葉を受け、謀反を防ぐ為に政子へ協力する事に賛同した。
  • 北条時盛 鎌倉幕府の武将。西暦1,224年7月17日、謀反の噂を聞いて鎌倉に居るべきではないかと主張したが、北条泰時・北条時房に促され、北条時氏と共に上洛した。
  • 頼暁 鶴岡八幡宮寺の供僧で、心経会の導師。西暦1,224年7月1日、北条義時の臨終の師を務め、義時は頼暁を前に外縛印を結び、念仏を数十回唱えた中で死去した。7日には初七日法要の導師も務めている。

主要な地名・拠点

  • 北条義時の屋敷 鎌倉における北条義時の居所。西暦1,224年7月1日、義時が出家した後に死去した地。同月22日夜には、伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が参集し「此の事を変えてはならない」と誓い合った。
  • 法華堂・新法華堂 西暦1,224年7月6日、北条義時の葬儀が営まれ、法華堂の東の山上が墳墓とされた。9月22日には源延を導師として墳墓堂の供養が執り行われ、其の堂は「新法華堂」と称される事となった。
  • 三浦義村の屋敷 鎌倉における三浦義村の居所。西暦1,224年7月18日頃から伊賀兄弟が出入りし始めた地。8月3日深夜、北条政子が自ら赴いて「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」と迫り、義村の誓いを引き出した。
  • 北条政子の屋敷 鎌倉における北条政子の居所。西暦1,224年7月16日、北条泰時が招かれ、政子が泰時を第3代執権に任命する事を決め、大江広元が賛同し、北条時房が後見と定められた。
  • 北条泰時の屋敷 鎌倉における北条泰時の居所。西暦1,224年7月15日、由比ヶ浜から泰時が戻った地であり、8月4日には三浦義村が釈明に訪れた。17日、政子が藤原頼経を連れて入り、義村・葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等を呼び集めて御家人の結集が成った。
  • 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1,224年7月14日、京都から鎌倉へ入った北条泰時が一夜を過ごした地。
  • 伊豆国 現在の静岡県伊豆半島。西暦1,224年7月8日、京都から鎌倉へ向かう北条泰時が入って逗留を始め、10日に北条時房が鎌倉の安全を確認した事を受けて発った地。10月13日には、伊賀の方が北条郡に配流されて幽閉された。
  • 信濃国 現在の長野県。西暦1,224年10月13日、政所執事を罷免され所領52ヶ所を没収された伊賀光宗が配流された地。
  • 鎮西 九州。西暦1,224年10月13日、伊賀朝行・伊賀光重の配流先と定められ、北条時氏の預かりとなった。京都の騒動で監禁されていた両名は、12月20日に此の地へ送られた。
  • 越前国 現在の福井県東部。西暦1,224年11月22日、鎌倉幕府の奏請を受けた朝議で一条実雅の流罪先と決まり、12月11日、解官の上で配流された。

主要な事件・出来事

  • 伊賀光資の脚気死 西暦1,224年4月13日、伊賀朝光の参男伊賀光資が脚気の為に死去した。本書が記録する最初の出来事であり、同じ病で倒れる北条義時の死の2ヶ月半前に当たる。
  • 北条義時の急病と死去 西暦1,224年6月30日8時、脚気を患い不調が続いていた北条義時が重病となった。陰陽師の占いでは大事に至らず20時には快方に向かうとされたが、念の為の祈祷が行われた。死期を悟った義時は朝から念仏を唱え続け、7月1日4時に出家、10時、頼暁を師として外縛印を結び、念仏を数十回唱えた中で死去した。
  • 北条義時の葬儀と兄弟序列 西暦1,224年7月6日、葬儀が営まれ、法華堂の東の山上が墳墓とされた。兄弟の序列は北条朝時・北条重時・北条政村・北条実泰・北条有時と定められた。以後、頼暁による初七日、観基による二十七日、道禅による三十七日、退耕行勇による四十七日、左大臣律師による五十七日、退耕行勇による六十七日、定豪による七十七日と、法要が営まれ続けた。
  • 北条泰時・北条時房の帰鎌 西暦1,224年7月4日に訃報を受けた北条泰時は、5日2時に京都を発った。7日には北条時房も出発。8日、泰時は伊豆国に入って逗留を始め、10日、時房が鎌倉の安全を確認した事を受けて出立した。14日、泰時・時房・足利義氏が鎌倉へ入り、泰時は由比ヶ浜に宿泊、翌15日に自身の屋敷へ戻った。
  • 執権と連署の成立 西暦1,224年7月16日、北条時房が初代連署に就任した。同日、北条泰時は北条政子の屋敷に招かれ、政子は泰時を第3代執権に任命する事を決め、大江広元も賛同し、時房が後見とされた。此の時点で既に、泰時が北条政村を討つとの噂と、伊賀の方が政村を執権に据えようとしているとの噂が、共に鎌倉に流れていた。
  • 北条時盛・北条時氏の上洛 西暦1,224年7月17日、北条時盛と北条時氏が上洛した。両名は謀反の噂を聞き、鎌倉に居るべきではないかと主張したが、北条泰時・北条時房が促して京都へ向かわせた。
  • 伊賀兄弟の三浦義村屋敷への出入り 西暦1,224年7月18日頃から、伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始めた。22日には其の頻繁さが人々に怪しまれ、同日夜、3名は北条義時の屋敷に参集して「此の事を変えてはならない」と誓い合った。其れを聞いた女中の報告に対し、北条泰時は動揺せず「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語った。
  • 北条政子の深夜の三浦義村訪問 西暦1,224年8月3日深夜、北条政子が三浦義村の屋敷へ赴き「3年前の朝廷との戦での勝利は、天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です。貴方は政村の烏帽子親です。共謀を疑わない訳にはいきません」と迫った。義村は「存じ上げません」と答えたが、政子が決断を促すと「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので、止めさせましょう」と誓った。
  • 三浦義村の釈明と心情吐露 西暦1,224年8月4日、三浦義村が北条泰時の屋敷を訪れて釈明した。14日には「北条義時殿の時には、忠義の私に対し、親切にも北条政村殿の元服の烏帽子親にして貰いました。そして三浦泰村は猶子にして頂きました。其の恩を思うと、泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました」と心情を吐露し、光宗を諌めた旨を報告した。泰時は動じず「私は政村に危害を加えようとは思っていません」と返した。
  • 8月16日の鎌倉騒動 西暦1,224年8月16日未明、鎌倉にて御家人達が旗を立て、鎧兜を身に纏って競う様に走り回るという騒動が発生した。然し明け方には収まった。此の一夜が、翌日の北条政子の動きを促す事となる。
  • 北条政子による御家人の結集 西暦1,224年8月17日、前日の騒動を受けた北条政子が藤原頼経を連れて北条泰時の屋敷に入り「私は藤原を抱いて此処に居ます。三浦義村も此処に居る様に」と義村を呼び出した。葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等も招かれ、北条時房が言い聞かせた。政子は「藤原が幼い間は、下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている」と語り、御家人達は謀反を防ぐ為に協力する事に賛同した。
  • 処分の決定 西暦1,224年8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府に知られた。北条政子は御前に北条時房・大江広元を同席させ、両名を流罪とする処分を下し、同時に一条実雅の身柄を朝廷に引き渡して裁定を委ねる事とした。加担した其の他の者の罪は不問に付された。
  • 一条実雅の京都護送 西暦1,224年9月8日、一条実雅が伊賀朝行・伊賀光重・伊賀宗義・伊賀光盛を伴って京都へ向けて鎌倉を発った。許可無く扈従した源親行・伊具盛重は、後に出仕を止められ所領を没収された。実雅は9月30日に京都へ到着し、10月6日、其の情報が鎌倉幕府に齎された。
  • 伊賀光宗の政所執事罷免と所領没収 西暦1,224年9月14日、伊賀光宗が政所執事を罷免され、所領52ヶ所を没収されて二階堂行村の預かりとなった。
  • 新法華堂の供養 西暦1,224年9月22日、北条義時の墳墓堂の供養が源延を導師として執り行われた。墳墓堂は「新法華堂」と称される事となった。
  • 伊賀一族の配流執行 西暦1,224年10月11日、伊賀光宗が処刑されるとの噂が鎌倉に流れたが、事実では無く間も無く静まった。12日には京都で騒動が有り、伊賀朝行・伊賀光重が監禁される。13日、伊賀の方は伊豆国北条郡へ配流されて幽閉され、伊賀光宗は信濃国へ、朝行・光重は北条時氏の預かりとなって鎮西への配流が決まり、12月20日に送られた。
  • 一条実雅の越前国配流 西暦1,224年11月22日、鎌倉幕府の奏請を受けて朝議が開かれ、一条実雅の越前国への流罪が決定した。12月11日、一条実雅は解官され、越前国へ配流された。
  • 伊賀の方の危篤 西暦1,225年2月3日、伊豆国北条郡に幽閉されていた伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入った。本書が記録する最後の出来事。

北条義時の急死・執権継承の噂・政子の深夜訪問・御家人結集・伊賀一族の流罪──
伊賀氏事件の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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