電子書籍「伊賀氏事件一元化」の表紙

伊賀氏事件一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,224年4月13日〜1,225年2月3日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月18日

北条義時の急死・北条泰時の執権就任・伊賀の方の執権擁立計画・伊賀兄弟の三浦義村屋敷出入り・北条政子の深夜訪問・鎌倉騒動・政子の御家人結集・伊賀一族の流罪──
伊賀氏事件の10箇月を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1,224年4月13日、伊賀朝光の参男伊賀光資が脚気の為死去した日から、西暦1,225年2月3日、伊豆国に幽閉された伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入った日まで。本書は、鎌倉幕府第2代執権北条義時の急死を契機として発生した、執権継承を巡る北条氏と伊賀氏の政治闘争——伊賀氏事件を、其の予兆の伊賀光資の脚気死から、北条義時の脚気悪化と出家・死去、北条泰時の第3代執権就任と北条時房の初代連署就任、伊賀の方による北条政村の執権擁立と娘婿一条実雅の征夷大将軍擁立の陰謀、伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重の三浦義村屋敷への頻繁な出入り、北条政子の深夜の三浦義村訪問と義村の屈服、8月16日の鎌倉騒動、8月17日の政子による藤原頼経同伴での御家人結集、8月19日の伊賀の方・伊賀光宗・一条実雅への処分決定、伊賀光宗の政所執事罷免と所領52ヶ所没収、伊賀の方の伊豆国北条郡配流、伊賀光宗の信濃国配流、伊賀朝行・伊賀光重の鎮西配流、一条実雅の越前国配流、伊賀の方の危篤迄の約10箇月間を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1,224年4月13日、伊賀朝光の参男伊賀光資が脚気の為死去した。6月30日8時、脚気を患い不調が続いていた北条義時が重病となった。陰陽師の占いでは大事には至らず20時には快方に向かうとされたが、念の為祈祷が行われた。死期を悟った北条は此の日の朝から念仏を唱え続けた。7月1日4時、北条義時が出家、10時、鶴岡八幡宮寺の供僧で心経会の導師である頼暁を師として外縛印を結び念仏を数十回唱えた中で死去した。7月4日、北条義時の訃報が京都の北条泰時に伝えられ、7月5日2時、泰時は鎌倉へ向けて京都を出発した。7月6日、北条義時の葬儀が執り行われ、法華堂の東の山上が墳墓とされ、兄弟の序列は北条朝時・北条重時・北条政村・北条実泰・北条有時と定められた。7月7日、北条時房が鎌倉へ向けて京都を出発。7月8日、泰時が伊豆国に入り当地で逗留を開始、7月10日、時房が鎌倉に入って安全を確認した事を受け泰時は鎌倉へ出発した。7月14日、泰時・時房・足利義氏が鎌倉に入り泰時は由比ヶ浜に宿泊、7月15日に自身の屋敷に戻った。7月16日、時房が初代連署に就任し、同日泰時は北条政子の屋敷に招かれ、政子は泰時を第3代執権に任命する事に決め大江広元も賛同、時房が後見とされた。だが此の時点で泰時が北条政村を討つとの噂が鎌倉で流れ政村の周囲は騒然となり、又伊賀の方が泰時の家督継承に反対し政村を執権に据え自身の兄伊賀光宗に後見をさせ娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂も流れていた。7月17日、北条時盛・北条時氏が上洛、謀反の噂を聞いて鎌倉に居るべきではないかと主張したが泰時・時房が促して上洛させた。7月18日頃から伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始め、7月22日には頻繁な出入りで人々が怪しんだ。同日夜、北条義時の屋敷に光宗・朝行・光重が参集し「此の事を変えてはならない」と誓い合ったのを女中が聞いて泰時に伝えたが、泰時は動揺する事も無く「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語った。

西暦1,224年8月3日、鎌倉の周囲の国々の人間が鎌倉に参集した。深夜、北条政子が三浦義村の屋敷へ赴き「北条政村・伊賀光宗等が此の屋敷に出入りして何か密談をしているとの噂が有ります。3年前の朝廷との戦での勝利は天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です。貴方は政村の烏帽子親です。共謀を疑わない訳にはいきません」と迫った。義村は「存じ上げません」と答えたが、政子の「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」という迫りに「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので止めさせましょう」と誓った。8月4日、義村は泰時の屋敷を訪れて釈明、8月14日には「唯、心から願うは平和な世。伊賀光宗には謀反の企てが有りましたが、私が諌めたので敵対する事を止めました」と泰時に報告し、泰時は「私は政村に危害を加えようとは思っていません」と返した。8月16日未明、鎌倉で御家人達が旗を立てて鎧兜を身に纏って競う様に走り回る騒動が発生したが明け方には収まった。8月17日、政子は藤原頼経を連れて泰時の屋敷に入り「私は藤原を抱いて此処に居ます。三浦義村も此処に居る様に」と義村を呼び出し、更に葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等も呼び出して時房が言い聞かせた。其の際政子は「藤原が幼い間は下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている。其の命に従い心と行動を1つにしていれば、誰が蜂起しようが何とも無い」と語り、御家人達は謀反を防ぐ為に政子に協力する事に賛同した。8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府に知られ、政子は御前で時房・大江広元を同席させ、伊賀光宗と伊賀の方を流罪とし、一条実雅の身柄を朝廷に引き渡して裁定を委ねる事を決め、其の他の加担者の罪は不問に付した。9月8日、一条実雅が伊賀朝行・伊賀光重・伊賀宗義・伊賀光盛と共に京都へ向けて鎌倉を出発、許可無く扈従した源親行・伊具盛重は後に出仕を止められ所領を没収された。9月14日、伊賀光宗が政所執事を罷免され所領52ヶ所を没収され二階堂行村の預かりとなった。9月22日、北条義時の墳墓堂の供養が執り行われ「新法華堂」と称される事となった。10月11日に伊賀光宗が処刑されるとの噂が流れるも事実では無く、10月12日には京都で騒動があり伊賀朝行・伊賀光重が監禁された。10月13日、伊賀の方が伊豆国北条郡に配流・幽閉され、伊賀光宗が信濃国へ配流、伊賀朝行・伊賀光重は北条時氏の預かりとなり鎮西への配流が決定された。11月22日、鎌倉幕府の奏請を受けて朝議が開かれ一条実雅の越前国への流罪が決定、12月11日に解官の上配流された。12月20日、京都に留め置かれていた伊賀朝行・伊賀光重が鎮西へ配流された。西暦1,225年2月3日、伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入った、本書の終結点。


登場人物

  • 伊賀の方 本書の首謀者。北条義時の継室。北条政村の母。西暦1,224年7月16日以降、北条泰時の家督継承に反対し、自身の息子北条政村を執権に据え、兄伊賀光宗に後見をさせ、娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂が鎌倉で流れた。8月19日、謀反が鎌倉幕府に知られて北条政子の御前で流罪の処分を下された。10月13日、伊豆国北条郡に配流され、当地にて幽閉された。西暦1,225年2月3日、危篤となったとの情報が鎌倉に入った、本書の題名を成す敗者。
  • 伊賀光宗 伊賀の方の兄。鎌倉幕府政所執事。西暦1,224年7月18日頃から弟伊賀朝行・伊賀光重と共に北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始め、7月22日夜には北条義時の屋敷に参集して「此の事を変えてはならない」と誓い合った。8月19日、伊賀の方と共に謀反が露見して流罪処分、9月14日、政所執事を罷免され所領52ヶ所を没収されて二階堂行村の預かりとなった。10月11日に処刑されるとの噂が流れるも事実では無く、10月13日、信濃国へ配流された、伊賀の方の陰謀の実行者。
  • 伊賀朝行 伊賀朝光の四男。伊賀の方の弟。西暦1,224年7月18日頃から兄伊賀光宗・弟伊賀光重と共に三浦義村の屋敷に出入りし始めた。9月8日、一条実雅の京都への護送に同行を許可された。10月12日、京都での騒動で監禁され、10月13日、北条時氏の預かりとなり鎮西への配流が決定、12月20日に鎮西へ配流された。
  • 伊賀光重 伊賀朝光の五男。伊賀の方の弟。西暦1,224年7月18日頃から兄伊賀光宗・兄伊賀朝行と共に三浦義村の屋敷に出入りし始めた。9月8日、一条実雅の京都への護送に同行を許可され、10月12日に京都で監禁、10月13日に鎮西への配流が決定、12月20日に鎮西へ配流された。
  • 伊賀光資 伊賀朝光の参男。西暦1,224年4月13日、脚気の為死去した、本書の冒頭の予兆。
  • 一条実雅 伊賀の方の娘婿。西暦1,224年7月16日以降、伊賀の方により征夷大将軍に就かせようと画策されているとの噂が流れた。8月19日、身柄を朝廷に引き渡され裁定を委ねられる事となり、9月8日に伊賀朝行・伊賀光重・伊賀宗義・伊賀光盛と共に京都へ向けて鎌倉を出発、9月30日に京都に到着した。11月22日、鎌倉幕府の奏請を受けた朝議で越前国への流罪が決定、12月11日に解官の上配流された、伊賀の方の将軍候補。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。伊賀の方の夫。本書の発端を作った人物。西暦1,224年6月30日8時、脚気を患い不調が続いていた中で重病となり、陰陽師の占いでは快方に向かうとされたが死期を悟って朝から念仏を唱え続けた。7月1日4時に出家、10時に鶴岡八幡宮寺の供僧頼暁を師として外縛印を結び念仏を数十回唱えた中で死去した。7月6日に法華堂の東の山上に葬られ、9月22日、墳墓堂の供養が執り行われて「新法華堂」と称された、本書の発端を作った故人。
  • 北条政子 源頼朝の妻。北条義時の姉。本書の事件解決の中心人物。西暦1,224年7月16日、泰時を自身の屋敷に招いて第3代執権に任命する事に決め、大江広元の賛同を得た。8月3日深夜、三浦義村の屋敷へ赴き「3年前の朝廷との戦での勝利は、天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です」と迫って義村に光宗の謀反を止めさせる誓いをさせた。8月17日、藤原頼経を連れて泰時の屋敷に入り、義村・葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等を呼び出して「藤原が幼い間は下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている」と語り御家人達を結集させた。8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の流罪処分を御前で決定した、本書最大の勝者。
  • 北条泰時 北条義時の長男。六波羅探題北方。西暦1,224年7月4日に父の訃報を受け、7月5日2時に鎌倉へ向けて京都を出発、7月8日に伊豆国に入り逗留、7月10日に北条時房が鎌倉の安全を確認した事を受けて出発、7月14日に鎌倉に入り由比ヶ浜に宿泊、7月15日に自身の屋敷に戻った。7月16日、北条政子により第3代執権に任命された。7月22日に伊賀兄弟の密談が女中から報告されても動揺する事無く「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語り、8月14日に三浦義村の報告に対しても「私は政村に危害を加えようとは思っていません」と返した、本書の泰然自若たる第3代執権。
  • 北条時房 北条義時の弟。六波羅探題南方。西暦1,224年7月7日に鎌倉へ向けて京都を出発、7月10日に鎌倉に入り安全を確認した。7月16日、初代連署に就任、泰時の後見とされた。8月17日、政子が泰時の屋敷に呼び出した葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等に言い聞かせた。8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の流罪処分を決定する政子の御前に大江広元と共に同席した、本書の第3代執権の後見人。
  • 北条政村 北条義時の五男。伊賀の方の息子。三浦義村の烏帽子子。西暦1,224年7月16日以降、母伊賀の方により執権に擁立されようと画策されているとの噂が流れ、泰時が政村を討つとの噂も流れて周囲は騒然となった。然し、本人の逆心は三浦義村の証言で否定され、8月19日の処分でも罪は不問に付された、陰謀に巻き込まれた貴公子。
  • 北条朝時 北条義時の弐男。西暦1,224年7月6日の葬儀では兄弟の序列の筆頭とされた。8月18日、自身の主催で独自に北条義時の四十九日法要を執り行った、本書の独自路線の人物。
  • 北条時氏 北条泰時の長男。西暦1,224年7月17日、謀反の噂を聞き鎌倉に居るべきではないかと主張したが泰時・時房に促されて北条時盛と共に上洛した。10月13日、鎮西への配流が決定した伊賀朝行・伊賀光重の預かりとなった。
  • 三浦義村 鎌倉幕府御家人。北条政村の烏帽子親。三浦泰村は北条義時の猶子。西暦1,224年7月18日頃から伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が自身の屋敷に出入りし始めて人々に怪しまれた。8月3日深夜、北条政子に屋敷を訪れられて迫られ、「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので止めさせましょう」と誓った。8月4日に泰時の屋敷を訪れて釈明、8月14日には「北条義時殿の時には忠義の私に対し親切にも政村殿の元服の烏帽子親にして貰いました。泰村は猶子にして頂きました。其の恩を思うと、泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました」と心情を吐露し光宗の謀反を諌めた旨を報告した、本書の中立を保った重鎮。
  • 大江広元 鎌倉幕府政所別当。西暦1,224年7月16日、北条政子が泰時を第3代執権に任命する事に賛同した。8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の流罪処分を決定する政子の御前に北条時房と共に同席した、本書の政治的支柱。
  • 藤原頼経 第4代征夷大将軍。未だ幼少。西暦1,224年8月17日、北条政子に連れられて北条泰時の屋敷に入り、政子の「私は藤原を抱いて此処に居ます」との言葉により御家人結集の象徴となった、本書の幕府の正統性の象徴。
  • 足利義氏 鎌倉幕府御家人。西暦1,224年7月14日、北条泰時・北条時房と共に鎌倉に入った。
  • 葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光 鎌倉幕府の重鎮。西暦1,224年8月17日、北条政子が藤原頼経を連れて北条泰時の屋敷に入った際、三浦義村と共に呼び出されて北条時房に言い聞かせられ、謀反を防ぐ為に政子に協力する事に賛同した、本書の御家人結集の要。
  • 北条時盛 鎌倉幕府の武将。西暦1,224年7月17日、謀反の噂を聞いて鎌倉に居るべきではないかと主張したが、北条泰時・北条時房に促され北条時氏と共に上洛した。
  • 頼暁 鶴岡八幡宮寺の供僧。心経会の導師。西暦1,224年7月1日、北条義時の臨終時の師となり、北条は頼暁を前にして外縛印を結び念仏を数十回唱えた中で死去した。7月7日、初七日法要の導師も務めた、本書の義時終焉の看取り人。

主要な地名・拠点

  • 北条義時の屋敷 鎌倉の北条義時の居所。西暦1,224年7月1日、義時が出家後死去した地。7月22日夜、伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が参集し「此の事を変えてはならない」と誓い合った地、本書の陰謀の密会場。
  • 法華堂・新法華堂 鎌倉。西暦1,224年7月6日、北条義時の葬儀が執り行われ法華堂の東の山上が墳墓とされた地。9月22日、墳墓堂の供養が源延を導師として執り行われ、「新法華堂」と称される事となった、本書の義時の永眠の地。
  • 三浦義村の屋敷 鎌倉の三浦義村の居所。西暦1,224年7月18日頃から伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が出入りし始めた地。8月3日深夜、北条政子が赴いて義村に「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」と迫り、義村の屈服を得た地、本書の陰謀粉砕の場。
  • 北条政子の屋敷 鎌倉の北条政子の居所。西暦1,224年7月16日、北条泰時が招かれ、政子が泰時を第3代執権に任命する事を決め、大江広元が賛同し、北条時房を後見とした地、本書の執権継承決定の場。
  • 北条泰時の屋敷 鎌倉の北条泰時の居所。西暦1,224年7月15日に泰時が由比ヶ浜から戻った地。8月4日、三浦義村が訪れて釈明した地。8月17日、政子が藤原頼経を連れて入り、義村・葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等を呼び出して御家人結集を成し遂げた地、本書最大の結集の舞台。
  • 由比ヶ浜 現在の神奈川県鎌倉市。西暦1,224年7月14日、京都から鎌倉に入った北条泰時が1夜宿泊した地。
  • 伊豆国 現在の静岡県伊豆半島。西暦1,224年7月8日、京都から鎌倉へ向かう北条泰時が入って逗留を開始した地。7月10日、北条時房が鎌倉の安全を確認した事を受けて泰時が鎌倉へ出発した地。10月13日、伊賀の方が北条郡に配流・幽閉された地、本書の終結地。
  • 信濃国 現在の長野県。西暦1,224年10月13日、伊賀光宗が配流された地、本書の陰謀実行者の配流地。
  • 鎮西 九州。西暦1,224年10月13日、伊賀朝行・伊賀光重の配流が決定し北条時氏の預かりとなった地。10月12日に京都の騒動で監禁された両名は12月20日に配流された、本書の伊賀兄弟の流謫地。
  • 越前国 現在の福井県東部。西暦1,224年11月22日、鎌倉幕府の奏請を受けた朝議で一条実雅の流罪が決定し、12月11日に解官の上配流された地、本書の将軍候補の流謫地。

主要な事件・出来事

  • 伊賀光資の脚気死 西暦1,224年4月13日、伊賀朝光の参男伊賀光資が脚気の為死去した、本書の冒頭の予兆。
  • 北条義時の急病と死去 西暦1,224年6月30日8時、脚気を患い不調が続いていた北条義時が重病となった。陰陽師の占いでは大事には至らず20時には快方に向かうとされたが、念の為祈祷が行われた。死期を悟った北条は朝から念仏を唱え続け、7月1日4時に出家、10時、鶴岡八幡宮寺の供僧で心経会の導師である頼暁を師として外縛印を結び念仏を数十回唱えた中で死去した、本書の発端。
  • 北条義時の葬儀と兄弟序列 西暦1,224年7月6日、北条義時の葬儀が執り行われ、法華堂の東の山上が墳墓とされた。兄弟の序列は北条朝時・北条重時・北条政村・北条実泰・北条有時と定められた。7月7日には初代頼暁を導師とする初七日法要、7月14日には観基を導師とする二十七日法要、7月21日には道禅を導師とする三十七日法要、7月28日には退耕行勇を導師とする四十七日法要、8月2日には左大臣律師を導師とする五十七日法要、8月9日には退耕行勇を導師とする六十七日法要、8月16日には定豪を導師とする七十七日法要が執り行われた、本書の義時追悼の連なり。
  • 北条泰時・北条時房の帰鎌 西暦1,224年7月4日、北条義時の訃報が京都の北条泰時に伝えられ、7月5日2時に泰時は鎌倉へ向けて京都を出発した。7月7日、北条時房も京都を出発。7月8日、泰時は伊豆国に入って逗留を開始、7月10日、時房が鎌倉に入って安全を確認した事を受けて泰時が出発、7月14日、泰時・時房・足利義氏が鎌倉に入り泰時は由比ヶ浜に宿泊、7月15日に自身の屋敷に戻った、本書の帰還の軌跡。
  • 北条時房の初代連署就任と北条泰時の第3代執権就任 西暦1,224年7月16日、北条時房が初代連署に就任した。同日、北条泰時は北条政子の屋敷に招かれ、政子は泰時を第3代執権に任命する事に決め、大江広元も賛同、時房が後見とされた。然し此の時点で泰時が北条政村を討つとの噂が流れ政村の周囲は騒然となり、又伊賀の方が泰時の家督継承に反対し政村を執権に据え兄伊賀光宗に後見をさせ娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂も流れていた、本書の執権交代と陰謀の噂。
  • 伊賀兄弟の三浦義村屋敷への出入り 西暦1,224年7月18日頃から伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始めた。7月22日には頻繁な出入りで人々に怪しまれ、同日夜、3名は北条義時の屋敷に参集して「此の事を変えてはならない」と誓い合った。其れを聞いた女中が北条泰時に伝えたが、泰時は動揺する事無く「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語った、本書の陰謀の顕在化。
  • 北条政子の深夜の三浦義村訪問 西暦1,224年8月3日深夜、北条政子が三浦義村の屋敷へ赴き「北条政村・伊賀光宗等が此の屋敷に出入りして、何か密談をしているとの噂が有ります。3年前の朝廷との戦での勝利は、天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です。貴方は政村の烏帽子親です。共謀を疑わない訳にはいきません」と迫った。義村は「存じ上げません」と答えたが、政子の「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」という迫りに屈し「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので止めさせましょう」と誓った、本書最大の陰謀粉砕の場面。
  • 三浦義村の釈明と心情吐露 西暦1,224年8月4日、三浦義村が北条泰時の屋敷を訪れて釈明した。8月14日、義村は泰時に「北条義時殿の時には、忠義の私に対し、親切にも北条政村殿の元服の烏帽子親にして貰いました。そして三浦泰村は猶子にして頂きました。其の恩を思うと、泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました。唯、心から願うは平和な世。伊賀光宗には謀反の企てが有りましたが、私が諌めたので敵対する事を止めました」と心情を吐露した。泰時は動じず「私は政村に危害を加えようとは思っていません」と返した、中立を保った重鎮の屈服。
  • 8月16日の鎌倉騒動 西暦1,224年8月16日未明、鎌倉にて御家人達が旗を立てて鎧兜を身に纏って競う様に走り回るという騒動が発生した。然し明け方には収まった、本書の一触即発の危機。
  • 北条政子による藤原頼経同伴の御家人結集 西暦1,224年8月17日、前日の騒動を受けて北条政子が藤原頼経を連れて北条泰時の屋敷に入り「私は藤原を抱いて此処に居ます。三浦義村も此処に居る様に」と義村を呼び出した。義村の他にも葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等が呼び出され北条時房が言い聞かせた。其の際政子は「藤原が幼い間は下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている。根拠は無いが、皆が生存し参集する事は源頼朝殿の願う所である。其の命に従い心と行動を1つにしていれば、誰が蜂起しようが何とも無い」と語り、参集した御家人達は謀反を防ぐ為に政子に協力する事に賛同した、本書最大の結集の場面。
  • 伊賀の方・伊賀光宗の流罪と一条実雅の引き渡し決定 西暦1,224年8月19日、伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府に知られ、北条政子は御前で北条時房・大江広元を同席させ、伊賀光宗と伊賀の方を流罪とする処分を下した。同時に一条実雅の身柄を朝廷に引き渡し裁定を委ねる事とした。其の他の加担者の罪は不問に付された、本書の処分決定の場面。
  • 一条実雅の京都護送 西暦1,224年9月8日、一条実雅が伊賀朝行・伊賀光重・伊賀光宗の長男伊賀宗義・伊賀光盛と共に京都へ向けて鎌倉を出発した。許可無く扈従した源親行・伊具盛重は後に出仕を止められ所領を没収された。9月30日、一条実雅が京都に到着し、10月6日、到着情報が鎌倉幕府に齎された、本書の実雅護送の軌跡。
  • 伊賀光宗の政所執事罷免と所領没収 西暦1,224年9月14日、伊賀光宗が政所執事を罷免され所領52ヶ所を没収され、二階堂行村の預かりとなった、本書の陰謀実行者の失墜。
  • 新法華堂の供養 西暦1,224年9月22日、北条義時の墳墓堂の供養が源延を導師として執り行われ、「新法華堂」と称される事となった、本書の義時追悼の結実。
  • 伊賀一族の配流執行 西暦1,224年10月11日、伊賀光宗が処刑されるとの噂が流れるも事実では無く間も無く静まった。10月12日、京都で騒動があり伊賀朝行・伊賀光重が監禁された。10月13日、伊賀の方が伊豆国北条郡に配流・幽閉され、伊賀光宗が信濃国へ配流、伊賀朝行・伊賀光重は北条時氏の預かりとなり鎮西への配流が決定、12月20日、京都に留め置かれていた両名が鎮西へ配流された、本書の伊賀氏散逸の場面。
  • 一条実雅の越前国配流 西暦1,224年11月22日、鎌倉幕府の奏請を受けて朝議が開かれ、一条実雅の越前国への流罪が決定した。12月11日、一条実雅が解官され越前国へ配流された、本書の将軍候補の終焉。
  • 伊賀の方の危篤 西暦1,225年2月3日、伊豆国北条郡に幽閉されていた伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入った、本書の終結点。

北条義時の急死・北条泰時の執権就任・伊賀の方の執権擁立計画・伊賀兄弟の三浦義村屋敷出入り・北条政子の深夜訪問・鎌倉騒動・政子の御家人結集・伊賀一族の流罪──
伊賀氏事件の10箇月を一冊に。

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石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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