電子書籍「第82代天皇後鳥羽天皇一元化」の表紙

第82代天皇後鳥羽天皇一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,183年9月8日〜1,239年3月31日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月15日

三種の神器無き践祚・源頼朝との謁見・蹴鞠の鞠道長者・法然流罪・承久の乱・隠岐配流──
治天の君から流人へ、後鳥羽天皇の56年の生涯を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1183年9月、三種の神器の無い儘で第82代天皇として践祚した日から、西暦1239年3月、隠岐国にて崩御し、源福寺の裏山にて火葬される迄。本書は、源平合戦の只中に即位し、武家政権との緊張関係の中で治天の君として君臨、承久の乱で一敗地に塗れ隠岐国へ配流された、後鳥羽天皇の56年間の全生涯を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

安徳天皇が三種の神器と共に西国へ去った儘での践祚であった為、2名の天皇が併存する前代未聞の状況から人生が始まった。西暦1185年、旱魃に際し明菴栄西を招き雨乞いの祈祷を行わせ「葉上」の僧号を下賜した。西暦1190年2月の元服では、紛失した天叢雲剣の代わりに日御座の御剣で代用し、式次第も八尺瓊勾玉が先・天叢雲剣が後と従来とは逆転した儘での挙行となった。同年12月、源頼朝が仙洞御所で後白河上皇と会談した後に後鳥羽天皇とも接触し、天皇親政への期待を告げた。西暦1192年4月、後白河上皇の崩御により、治天の君として親政を開始した。同年8月、源頼朝に征夷大将軍を宣下した。

西暦1195年4月、東大寺大仏殿落慶供養に行幸、西の回廊から神輿で壇上に登り大床子に着座した。西暦1198年2月、皇子土御門天皇に譲位し、院政を開始。其の後は水無瀬離宮・城南寺・熊野参詣等を繰り返しながら、西暦1207年3月、専修念仏停止令を発し、法然を土佐国へ、親鸞を越後国へ流罪に処した。西暦1208年3月の水無瀬離宮の鞠会では1日2,000回余りを記録し、飛鳥井雅経から「鞠道の長者」の称号を贈られた。西暦1210年12月、第参皇子順徳天皇を強い意向により践祚させ、西暦1212年6月には藤原秀能に壇ノ浦での天叢雲剣捜索を命じた。西暦1220年3月、藤原定家が内裏歌会で詠んだ歌が勅勘に触れ、宮中出仕と公の詠出を禁じた。

西暦1219年2月の源実朝暗殺を契機に、朝廷と鎌倉幕府の関係は決定的に悪化した。西暦1220年8月頃から北条義時征伐の意思を固め、西暦1221年6月5日、西園寺公経・西園寺実氏を幽閉、翌6日に伊賀光季を自害に追い込み、北条義時追討の院宣を下した。然し西暦1221年6月29日、摩免戸で朝廷軍は敗北、仙洞御所は騒動となり、比叡山への御幸を経て延暦寺の僧兵援軍要請も拒絶された。7月6日、東寺に籠った三浦胤義等は全滅、後鳥羽上皇は勅使を送り、北条泰時追討宣旨の撤回と全面恭順を表明した。7月14日、鎌倉で北条義時は隠岐国への配流を決定。7月28日、鳥羽殿にて出家、第参皇子道助入道親王が戒師を務めた。8月2日、京都を出発、23日に隠岐諸島中ノ島の三穂神社の参篭舎で一夜を明かし「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠んだ。其の後源福寺を行在所とし、読書・写経・神事・将棋・牛突きの日々を送りながら帰京の書簡を送り続けたが、終に叶わず、西暦1239年3月28日に崩御した。


登場人物

  • 後鳥羽天皇 本書の主人公。第82代天皇。西暦1183年に三種の神器無き儘で践祚、西暦1198年に土御門天皇に譲位し院政を開始、西暦1221年の承久の乱で敗れ隠岐国に配流、西暦1239年3月28日に崩御。武芸・和歌・蹴鞠・刀剣・書道・絵画全てに秀でた治天の君であり、武家政権と対峙した最後の専制君主。
  • 後白河上皇 後鳥羽天皇の祖父で治天の君。西暦1190年12月に源頼朝と仙洞御所で会談。西暦1192年4月18日、後鳥羽天皇の六条殿御見舞いの際に笛合わせに今様を歌い、其の後高階栄子を使者として遺詔を伝達、崩御した。
  • 土御門天皇 後鳥羽天皇の第壱皇子。第83代天皇。西暦1196年1月3日に源在子より誕生、西暦1198年2月18日に践祚。承久の乱後、自ら配流を願い土佐国に流された。
  • 順徳天皇 後鳥羽天皇の第参皇子。第84代天皇。西暦1210年12月12日、後鳥羽上皇の強い意向により践祚。承久の乱では父と共に比叡山に御幸し、乱後は佐渡国に配流された。
  • 仲恭天皇 順徳天皇の第参皇子。第85代天皇。西暦1221年5月13日、彗星の出現を理由に順徳天皇譲位で践祚したが、承久の乱後の西暦1221年7月29日に廃位された。
  • 源在子 後鳥羽天皇の妃。土御門天皇の生母。源通親の養女。西暦1196年1月3日に第壱皇子土御門天皇を出産し、源通親に権勢を齎した。
  • 九条任子 後鳥羽天皇の中宮。九条兼実の娘。西暦1195年9月18日、第1皇女昇子内親王を出産。兼実は男児誕生を祈祷し続けたが実らず、九条家の衰運の端緒となった。
  • 亀菊 後鳥羽上皇の妾で白拍子。摂津国長江荘・倉橋荘を下賜されていた。承久の乱の直接的発端となった地頭職の改補要求の対象人物。
  • 大姫 源頼朝と北条政子の長女。源頼朝が後鳥羽天皇の皇后として入内させる工作を進めたが、西暦1197年8月28日に病没。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1190年12月7日、仙洞御所で後白河上皇と会談、其の後後鳥羽天皇とも接触し閑院内裏の鬼間で九条兼実と対面。西暦1192年8月21日、後鳥羽天皇より征夷大将軍を宣下された。
  • 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1204年に正室として後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼を迎えた。西暦1213年に「山は裂け海は褪せなむ世なりとも君にふた心我があらめやも」と後鳥羽上皇への忠誠を歌に詠んだ。西暦1219年2月に暗殺された。
  • 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。西暦1219年4月、仁科盛遠の所領を後鳥羽上皇の院宣に反して没収し対立が激化。西暦1221年6月、承久の乱の院宣による討伐対象となった。乱後、後鳥羽上皇隠岐配流を主導。
  • 北条泰時 北条義時の嫡男。承久の乱では先陣を切って上洛、西暦1221年7月6日に六波羅に入り、其の後朝廷監視・京都守護の責任者となった。勢多伽丸の処刑では断腸の思いで佐々木信綱の要求を受け入れた。
  • 北条時房 北条義時の弟。西暦1219年4月30日、1,000騎を率いて上洛し、亀菊地頭職廃止拒絶と親王東下を奏上。承久の乱では泰時と共に六波羅入り、乱後の鎌倉幕府からの恩賞を受けた御家人筆頭となった。
  • 北条政子 源頼朝の正室。西暦1218年5月、藤原兼子と面会し次期征夷大将軍として頼仁親王招聘を打診。承久の乱では一条頼氏の報告を受け、即時出撃の重要局面で大江広元に同意し泰時先陣を決定した。
  • 九条兼実 摂政・関白を歴任した公卿。西暦1190年2月9日の後鳥羽天皇元服で加冠役。同年12月、閑院内裏の鬼間で源頼朝と初対面。西暦1195年の東大寺大仏殿落慶供養参列。後白河上皇崩御後の遺詔処分を「誠に穏当」と評した人物。
  • 西園寺公経 鎌倉幕府と親しい公卿。西暦1221年6月5日、承久の乱開戦直前に後鳥羽上皇により西園寺実氏と共に幽閉されたが、其の直前に伊賀光季に討幕計画を伝えた。
  • 藤原兼子 後鳥羽上皇の乳母で、頼仁親王の養育を担当した女官。絶大な権力を持ち、西八条禅尼を源実朝の正室に推薦、西暦1218年5月には北条政子と面会し頼仁親王を次期征夷大将軍に推薦した。
  • 藤原定家 歌人。西暦1220年3月19日、内裏歌会に提出した「道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎の煙くらべに」の歌が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、勅勘を受け宮中出仕と公の詠出を禁止された。
  • 明菴栄西 日本臨済宗の開祖。西暦1185年、旱魃に際し後鳥羽天皇に招かれ雨乞いの祈祷を行い、其の後「葉上」の僧号を下賜された。西暦1194年7月24日、後鳥羽天皇から禅宗布教を禁ずる宣旨を大日房能忍と共に受けた。
  • 法然 浄土宗の開祖。西暦1207年3月、専修念仏停止の決定を受け、3月28日に土佐国幡多に流罪、罪人として「藤井元彦男」と名付けられた。
  • 親鸞 浄土真宗の開祖。法然の弟子。西暦1207年3月28日、越後国国府に流罪、罪人として「藤井善信」と名付けられた。僧でも俗人でもない立場から、自ら「禿」の字を姓とし、「愚禿親鸞」と署名する様になった。
  • 飛鳥井雅経 公卿・歌人・蹴鞠の名手。西暦1208年3月11日、水無瀬離宮の鞠会で2,000回余りを記録した後鳥羽上皇に「鞠道の長者」の称号を贈った。
  • 紀行景 蹴鞠の名手で北面武士。西暦1201年10月5日、後鳥羽上皇の許可を得て、源頼家に招聘され鎌倉に到着した。朝廷と鎌倉を繋ぐ蹴鞠文化の媒介者。
  • 雅成親王 後鳥羽上皇の皇子。西暦1219年3月、鎌倉幕府から次期征夷大将軍候補として挙がった。承久の乱後、流罪となった。
  • 頼仁親王 後鳥羽上皇の皇子。藤原兼子の養育を受けた。西暦1218年5月に北条政子との会談で次期征夷大将軍候補として推薦されたが実現せず、承久の乱後に流罪となった。
  • 道助入道親王 後鳥羽上皇の第弐皇子で第8世仁和寺門跡。西暦1221年7月28日、父後鳥羽上皇出家の戒師を務めた。佐々木広綱の四男勢多伽丸の助命嘆願を行った慈悲深い人物。
  • 伊賀光季 京都守護。西園寺公経からの密告により討幕計画を事前に察知。西暦1221年6月6日、800騎に包囲された京極高辻の宿所で、長男伊賀光綱と共に奮戦し自害、北条義時の武運長久を祈願して割腹した忠臣。
  • 伊賀光綱 伊賀光季の長男。西暦1221年6月6日、父の逃亡勧めを拒否し共に討死する事を決意。烏帽子親子の契りを交わした佐々木高重に矢を射掛け、高重を涙させた。最終的に父の手で斬首された。
  • 三浦胤義 三浦義村の弟。後鳥羽上皇の側に付き、兄に挙兵を促す工作を行った。西暦1221年7月6日、東寺に籠るも敗れ、兄義村への遺言を残して木嶋にて息子2名と共に自害した。
  • 三浦義村 鎌倉幕府の有力御家人。弟胤義から挙兵への誘いを受けたが断固拒否し、乱では鎌倉幕府軍の中核として東寺攻撃を指揮、弟胤義の首級を泰時に届けた。
  • 葉室光親 後鳥羽上皇の側近。西暦1221年6月6日、北条義時追討の院宣の執筆を担当した。
  • 藤原秀康 承久の乱で後鳥羽上皇軍の総大将格を務めた。西暦1221年6月6日、伊賀光季襲撃を指揮、7月6日に戦局決定後は小野盛綱・尊長と共に逃亡した。
  • 尊長 後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行。西暦1221年1月6日に出羽国羽黒山総長吏に任命。西暦1207年の専修念仏停止では住蓮房・安楽房等4名の死罪を裁断した人物。
  • 源頼茂 源頼朝の門葉。西暦1219年8月24日、昭陽舎にて西面武士に襲撃された。後鳥羽上皇が最勝四天院での鎌倉幕府調伏祈祷を知られた為の口封じが真相で、頼茂は仁寿殿に火を放ち自害した。
  • 佐々木信綱 北条義時の娘婿。承久の乱で宇治川の戦功を挙げた。西暦1221年7月31日、佐々木広綱の四男勢多伽丸の助命を、自害をも辞さぬ強硬姿勢で反対し、処刑させた。
  • 佐々木経高 淡路国・阿波国・土佐国守護。西暦1200年8月20日、三ヶ国から兵を京都に招集し洛中を騒動に陥れ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた。
  • 村上氏 隠岐国の有力豪族。海上貿易で蓄財した実力者。西暦1221年8月24日、後鳥羽上皇一行を迎え入れ、源福寺に行在所を設置。後鳥羽上皇は毎日村上家に通い詰め、お茶や牛突きで持て成された。

主要な地名・拠点

  • 仙洞御所 後鳥羽上皇の院御所。西暦1190年12月7日の源頼朝との初対面、西暦1221年6月29日の朝廷軍敗戦時の騒動等、院政期の政治の中心舞台となった。
  • 水無瀬離宮 大阪府三島郡島本町東大寺に所在した後鳥羽上皇の離宮。西暦1208年3月11日、此処での鞠会で後鳥羽上皇が1日2,000回余りを記録、飛鳥井雅経から「鞠道の長者」の称号を贈られた。
  • 城南寺 現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町。西暦1220年11月頃から後鳥羽上皇が滞在、西暦1221年5月14日に此処の仏事守護を口実に諸国の兵を招集した。承久の乱の軍事動員の発信地。
  • 閑院内裏 京都の内裏の一つ。西暦1190年12月7日、源頼朝が鬼間で九条兼実と初対面した場所。
  • 東大寺 華厳宗大本山。西暦1195年4月23日の大仏殿落慶供養に後鳥羽天皇が行幸、西の回廊から神輿で壇上に登り大床子に着座した。西暦1204年1月3日には重源主催の東大寺総供養に上皇として行幸。
  • 熊野三山 後鳥羽上皇が29回に亙り参詣した紀伊国の霊場。西暦1221年2月27日の29回目の参詣が承久の乱直前の政治的決意表明となった。
  • 高陽院 現在の京都府京都市中京区小川通丸太町。西暦1221年5月21日、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えの名目で1,700騎を招集した地。承久の乱の軍事結集拠点。
  • 京極高辻 現在の京都府京都市下京区茶磨屋町付近。西暦1221年6月6日、伊賀光季の宿所が800騎に包囲され、光季・光綱父子が奮戦自害した地。承久の乱の開戦地。
  • 摩免戸 濃尾国境の渡河地。西暦1221年6月27日に朝廷軍が鎌倉幕府軍に大敗し、承久の乱の帰趨が決した地。
  • 東寺 京都の真言宗総本山。西暦1221年7月6日、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔等30騎が最後の抵抗拠点として籠り、三浦義村率いる鎌倉幕府軍に殲滅された地。
  • 木嶋 京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社。西暦1221年7月6日、三浦胤義が幼子に一目会おうと太秦へ向かう途中、鎌倉幕府軍に包囲され息子2名と共に自害した地。
  • 比叡山 延暦寺の所在地。西暦1221年6月29日、朝廷軍敗戦を受けて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王が御幸したが、僧兵は援軍要請を拒否した。
  • 鳥羽殿 現在の京都府京都市伏見区中島前山町。西暦1221年7月26日、四辻殿から後鳥羽上皇が移送され、7月28日に出家した地。7月30日には北条時氏が参上し流罪を通告した場所でもある。
  • 出雲国大浜湊 現在の島根県松江市美保関町。西暦1221年8月16日、京都を発った後鳥羽上皇一行が到着した地。隠岐国への船出の前の最後の本土滞在地。
  • 隠岐諸島中ノ島 現在の島根県隠岐郡海士町。西暦1221年8月23日、後鳥羽上皇が到着、三穂神社の参篭舎で一夜を明かした。此の地で「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠んだ。
  • 源福寺 現在の島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前。西暦1221年8月24日以降、村上家により行在所が設置され、以後18年間に亙る後鳥羽上皇の配流生活の中心地となった。西暦1239年3月31日、裏山にて火葬され遺灰が埋納された終焉地。

主要な事績・事件

  • 三種の神器無き践祚 西暦1183年9月8日、第82代天皇として践祚。安徳天皇が即位した儘西国へ去った為、2名の天皇が併存する前代未聞の状況から人生が始まった。西暦1184年9月4日の即位式でも天叢雲剣の代わりに日御座の御剣で代用した。
  • 明菴栄西への葉上号下賜 西暦1185年、京都が厳しい旱魃に見舞われた際、栄西の著書を読んでいた後鳥羽天皇が栄西を招き雨乞いの祈祷を行わせ、其の後雨が降った事から「葉上」という僧号を下賜した。臨済宗葉上流の淵源。
  • 元服の儀 西暦1190年2月9日、九条兼実が加冠役を務めた。近衛基通が紀新大夫行平に作らせた日御座の御剣で天叢雲剣を代用し、式次第は八尺瓊勾玉が先・天叢雲剣が後となり従来とは逆となった異例の挙行。
  • 源頼朝との接触 西暦1190年12月7日、源頼朝が仙洞御所で後白河上皇と会談した後に後鳥羽天皇とも接触。源頼朝は閑院内裏の鬼間で九条兼実と初対面し「後白河上皇崩御後は後鳥羽天皇が政務を執るべき」と親政への期待を告げた。
  • 征夷大将軍宣下 西暦1192年8月21日、源頼朝を初代鎌倉幕府征夷大将軍に宣下。惣官・征東大将軍・上将軍は不吉・不適との理由で却下され、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が選定された。武家政権誕生の瞬間。
  • 禅宗布教禁止宣旨 西暦1194年7月24日、明菴栄西・大日房能忍に対し禅宗の布教を禁ずる宣旨を下した。延暦寺の僧徒や筑前国筥崎の僧良弁の訴えを背景とした。栄西は博多へ移った。
  • 東大寺大仏殿落慶供養行幸 西暦1195年4月23日、再建された東大寺大仏殿落慶供養に行幸。後鳥羽天皇を乗せた神輿は西の回廊から壇上に登り、大床子に着座。乱声・笛・和舞・東舞・金鼓・供養僧1,324名の読経・大雨と春雷の中の万灯会──天平以来の国家仏事の再現であった。
  • 土御門天皇への譲位・院政開始 西暦1198年2月18日、第壱皇子土御門天皇に譲位。鎌倉幕府は土御門天皇の幼齢を理由に守貞親王・惟明親王擁立を望んだが、後鳥羽上皇が押し切った。此の日から院政を開始、治天の君としての親政時代が始まった。
  • 源頼家追討宣旨の拒絶 西暦1201年2月27日、城長茂率いる軍が京都の小山朝政宿所を包囲し、二条東洞院殿に籠り源頼家追討宣旨を要求したが、後鳥羽上皇は此れを拒否した。3月9日には京都守護の要請で城長茂追討宣旨を下した。
  • 専修念仏停止と法然・親鸞流罪 西暦1207年3月、女房一部の出家や不在中の男性宿泊を知り激怒した後鳥羽上皇が専修念仏停止を決定。尊長の裁断で住蓮房・安楽房等4名が死罪。3月28日、法然を土佐国幡多、親鸞を越後国国府へ流罪とした。親鸞は「愚禿親鸞」と署名する様になった契機。
  • 鞠道の長者の称号 西暦1208年3月11日、水無瀬離宮での鞠会で2,000回余りという記録を作り、飛鳥井雅経から「鞠道の長者」の称号を贈られた。後鳥羽上皇の文化的権威の頂点。
  • 順徳天皇践祚 西暦1210年12月12日、後鳥羽上皇の強い意向により順徳天皇が践祚した。土御門天皇の系統から順徳天皇の系統への皇位継承ルート変更は、承久の乱の人的基盤を作った政治判断であった。天叢雲剣が先・八尺瓊勾玉が後という従来の形に戻された。
  • 天叢雲剣の捜索 西暦1212年6月、藤原秀能を壇ノ浦に遣わせ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海中に没した天叢雲剣の捜索を行わせた。三種の神器無き践祚の引け目を解消する為の執念。
  • 藤原定家の勅勘 西暦1220年3月19日、内裏歌会で「道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎の煙くらべに」と詠んだ藤原定家の官途不満の歌が逆鱗に触れ、宮中出仕と公の詠出が禁止された。和歌の帝王の統治権力の行使。
  • 親王東下の交渉 西暦1219年2月の源実朝暗殺を受け、鎌倉幕府が雅成親王か頼仁親王の東下を奏上。然し後鳥羽上皇は最終的に拒絶し「天皇と征夷大将軍が兄弟となったら国家の統一が出来なくなる」と述べ、九条道家の参男藤原頼経を鎌倉殿に送る事で妥協が成立した。
  • 亀菊の地頭職改補要求 西暦1219年4月24日、藤原忠綱を使者として、妾亀菊所領の摂津国長江荘・倉橋荘の地頭職改補と仁科盛遠への処分撤回を要求した。鎌倉幕府は北条義時・時房・泰時・大江広元の評議で拒絶、承久の乱の直接的導火線となった。
  • 源頼茂討伐と大内裏焼失 西暦1219年8月24日、後鳥羽上皇が最勝四天院で鎌倉幕府調伏の加持祈祷を行っていた事を知った源頼茂の口封じの為、西面武士に襲撃させた。頼茂は仁寿殿に籠り自害、大内裏・応神天皇の御輿・御装束・霊物等が灰燼に帰した。
  • 北条義時追討院宣 西暦1221年6月6日、葉室光親の執筆により北条義時追討の院宣を発した。7名の御家人宛てに院宣7通と伊賀光季の死を伝える密書が翌7日、藤原秀康の従者押松丸によって鎌倉へ運ばれた。承久の乱の正式開戦宣言。
  • 摩免戸の敗戦と比叡山御幸 西暦1221年6月29日4時、摩免戸での朝廷軍敗北報告が届き、仙洞御所は騒動となった。後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王と共に比叡山へ御幸、延暦寺の僧兵に援軍を要請したが拒否された。
  • 東寺の戦いと胤義の最期 西暦1221年7月6日、三浦胤義・山田重忠・渡辺翔等30騎が東寺に籠り、三浦義村率いる鎌倉幕府軍と交戦。山田は般若寺で自害、胤義は義村に遺言を吐き捨てた後、太秦の幼子に一目会おうと向かう途中、木嶋で息子2名と共に自害した。
  • 降伏と出家 西暦1221年7月6日8時、後鳥羽上皇の勅使が「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く謀臣が行った」との弁明と北条泰時追討宣旨撤回を伝え、皇室存続を図った。7月28日、鳥羽殿にて出家、道助入道親王が戒師、藤原信実が御影を描いた。母藤原殖子との悲しき別れの場面。
  • 隠岐国配流 西暦1221年8月2日、佐々木義清・藤原秀能等7名と共に京都を出発。8月16日に出雲国大浜湊到着、8月23日に船で隠岐諸島中ノ島へ到着。三穂神社参篭舎で一夜を明かした際「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠んだ。8月24日以降、村上家による行在所で18年間を過ごした。
  • 隠岐での日々と崩御 後鳥羽上皇は隠岐で規則正しい生活を送り、読書・写経・神事・将棋に勤しみ、毎日行在所から村上家まで通い詰めお茶を楽しみ、牛突きで持て成された。帰京の書簡を朝廷経由で鎌倉幕府に届け続けたが、終に叶わず、西暦1239年3月28日に崩御。3月31日、源福寺の裏山にて火葬され、遺灰が埋納され火葬塚が営まれた。

三種の神器無き践祚・源頼朝との謁見・蹴鞠の鞠道長者・法然流罪・承久の乱・隠岐配流──
治天の君から流人へ、後鳥羽天皇の56年の生涯を一冊に。

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石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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