後鳥羽天皇一元化
西暦1,183年、三種の神器の無い玉座から始まった──
治天の君から流人へ、後鳥羽天皇の56年間を一元化。
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本書について
西暦1,183年9月8日、後鳥羽天皇は第82代天皇として践祚した。三種の神器の無い儘での践祚であった。安徳天皇が神器を携えて西国へ去り、位に即いた儘であった為、此の国に2名の天皇が併存するという前代未聞の状況から、其の治世は始まっている。翌西暦1,184年9月4日の即位式でも、天叢雲剣が無かった為、日御座の御剣が代用として用いられた。本書は、此の欠けた玉座を起点として、西暦1,239年3月31日、隠岐国の源福寺の裏山で火葬され、遺灰が埋納される迄の56年間を、年月日単位で一元化した記録である。
神器を欠いたという事実は、生涯にわたって後鳥羽天皇に付き纏った。西暦1,190年2月9日の元服の儀では、九条兼実が加冠役を務めたものの、紛失していた天叢雲剣は遂に見つからず、第16・18代関白を務めた近衛基通が豊後国の刀工紀新大夫行平に作らせた日御座の御剣が再び代用された。式次第すら当日迄決まらず、八尺瓊勾玉が先、天叢雲剣が後という、従来とは逆の順序での挙行となった。西暦1,212年6月には藤原秀能を壇ノ浦へ遣わし、海中に没した天叢雲剣を捜させている。西暦1,210年12月12日、順徳天皇の践祚に際して漸く天叢雲剣が先・八尺瓊勾玉が後という従来の形に戻された事は、此の執着の裏返しであった。
武家との距離は、始めから緊張を孕んでいた。西暦1,190年12月7日16時、源頼朝は三浦義澄・小山朝政以下の大行列を率いて仙洞御所に入り、後白河上皇と1対1で長時間話し合った後、後鳥羽天皇と接触する。同日夜、閑院内裏の鬼間で九条兼実と初めて対面した源頼朝は「今は後白河上皇が政務を担い、後鳥羽天皇は皇太子と大差無い状態です。後白河上皇崩御後は後鳥羽天皇が政務を執るべきです」という主旨の発言を残した。西暦1,192年4月18日、雨の中を六条殿へ見舞いに行幸した後鳥羽天皇の笛に合わせ、後白河上皇は今様を歌う。其の日の内に高階栄子を使者として遺詔が伝えられ、法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿が後鳥羽天皇へ譲られた。同年8月21日、後鳥羽天皇は源頼朝に初代鎌倉幕府征夷大将軍を宣下する。惣官・征東大将軍は頼朝征伐の為に用いられた官職であり不吉として、上将軍は中国の官職として、それぞれ却下され、坂上田村麻呂の征夷大将軍が選ばれた。
一方で、後鳥羽天皇は文化と宗教の頂点にも立ち続けた。西暦1,185年、京都が厳しい旱魃に見舞われた際、明菴栄西の著書を読んでいた後鳥羽天皇は栄西を招いて雨乞いの祈祷を行わせ、雨が降った事から「葉上」の僧号を下賜する。然し西暦1,194年7月24日には、延暦寺の僧徒や筑前国筥崎の僧良弁の訴えを背景に、其の栄西と大日房能忍へ禅宗の布教を禁ずる宣旨を下した。西暦1,195年4月23日、再建された東大寺大仏殿の落慶供養には自ら行幸し、神輿で西の回廊から壇上に登って大床子に着座、供養僧1,324名の読経と大雨と春雷の中で万灯会が催された。西暦1,207年3月には専修念仏の停止を決め、尊長の裁断で法然の弟子4名が死罪となり、3月28日、法然は土佐国幡多へ、親鸞は越後国国府へ流された。親鸞が自ら「禿」の字を姓とし「愚禿親鸞」と署名する様になったのは、此の処分が契機である。西暦1,208年3月11日には水無瀬離宮の鞠会で2,000回余りという記録を作り、飛鳥井雅経から「鞠道の長者」の称号を贈られた。西暦1,220年3月19日、内裏歌会に官途への不満を詠み込んだ藤原定家は、勅勘を受けて宮中への出仕と公の詠出を禁じられている。
西暦1,198年2月18日の土御門天皇への譲位以後、後鳥羽上皇は治天の君として院政を敷いた。西暦1,219年2月18日、源実朝暗殺の報が京都に届いた事で、朝廷と鎌倉幕府の関係は決定的に傾く。二階堂行光が奏上した雅成親王・頼仁親王の東下要求に対し、後鳥羽上皇は「天皇と征夷大将軍が兄弟となったら国家の統一が出来なくなる」として拒み、九条道家の参男藤原頼経を鎌倉殿とする妥協が成立した。同年4月には、無断で西面武士となった仁科盛遠の所領を北条義時が没収し、返還を命じた院宣が反故にされる。妾の亀菊に下賜されていた摂津国長江荘・倉橋荘の地頭職改補要求も、御家人の所領安堵で成り立つ鎌倉幕府に拒絶された。同年8月24日には、最勝四天院での鎌倉幕府調伏の加持祈祷を知られた源頼茂が口封じの為に襲撃され、仁寿殿に火を放って自害、大内裏と応神天皇の御輿・御装束・霊物が灰燼に帰した。西暦1,220年8月頃から、後鳥羽上皇は北条義時征伐へと傾いてゆく。
そして西暦1,221年、承久の乱が起こる。6月5日、鎌倉幕府と親しい西園寺公経・西園寺実氏が幽閉され、翌6日明け方、京極高辻の宿所を800騎余に囲まれた京都守護の伊賀光季は、長男光綱と共に討死した。同日、葉室光親の筆による北条義時追討の院宣が発せられ、翌7日4時、藤原秀康の従者押松丸が院宣7通を携えて鎌倉へ発つ。然し6月27日、摩免戸で朝廷軍は大敗し、29日4時に其の報が届くと仙洞御所は騒動となり、後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王と共に比叡山へ御幸するも、延暦寺の僧兵は援軍要請を拒んだ。7月6日、東寺に籠った三浦胤義等は殲滅され、同日8時、勅使が「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く謀臣が行ったものである」と伝えて全面恭順を表明する。7月14日、鎌倉で隠岐国配流が決定。7月28日、鳥羽殿にて出家。8月2日に京都を発ち、8月23日、隠岐諸島中ノ島に着いた後鳥羽上皇は「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠み、三穂神社の参篭舎で一夜を明かした。翌24日、村上氏に迎えられ、源福寺に行在所が設けられる。読書・写経・神事・将棋に勤しみ、村上家へ通ってお茶を楽しみ、牛突きで持て成される日々の中、帰京を願う書簡を送り続けたが叶わず、西暦1,239年3月28日、崩御した。
登場人物
- 後鳥羽天皇 本書の中心人物。第82代天皇。西暦1,183年9月8日、三種の神器の無い儘で践祚し、西暦1,198年2月18日に土御門天皇へ譲位して院政を開始した。西暦1,221年の承久の乱に敗れて隠岐国へ配流され、西暦1,239年3月28日に崩御。武芸・和歌・蹴鞠・刀剣に秀でた治天の君であり、武家政権と正面から対峙した最後の専制君主。
- 後白河上皇 後鳥羽天皇の祖父で治天の君。西暦1,190年12月7日、仙洞御所で源頼朝と1対1で長時間話し合った。西暦1,192年4月18日、六条殿へ見舞いに訪れた後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌い、其の後高階栄子を使者として遺領処分を認めた遺詔を伝えて崩御した。
- 土御門天皇 後鳥羽天皇の第壱皇子。第83代天皇。西暦1,196年1月3日、源在子から誕生し、西暦1,198年2月18日に践祚した。幼齢である事から鎌倉幕府は即位に難色を示し、守貞親王・惟明親王が対抗候補に挙がっていたが、後鳥羽天皇が押し切った。
- 順徳天皇 後鳥羽上皇の第参皇子。第84代天皇。西暦1,210年12月12日、後鳥羽上皇の強い意向により践祚した。西暦1,221年5月13日、彗星の出現を理由に譲位。承久の乱では父と共に比叡山へ御幸した。
- 仲恭天皇 順徳天皇の第参皇子。第85代天皇。西暦1,221年5月13日に践祚したが、承久の乱後の7月29日、鎌倉幕府によって廃位され、後鳥羽上皇の系統では無い後堀河天皇が践祚した。
- 源在子 後鳥羽天皇の妃で、土御門天皇の生母。源通親の養女。西暦1,196年1月3日に第壱皇子土御門天皇を出産し、養父源通親が将来の外祖父として権勢を振るう事が確定した。
- 九条任子 後鳥羽天皇の中宮で、九条兼実の娘。西暦1,195年9月18日、第1皇女昇子内親王を出産した。兼実は男児が産まれる様祈祷を繰り返していたが実らず、九条家の運命を左右する事となった。
- 亀菊 後鳥羽上皇の妾で白拍子。元は後鳥羽上皇領であった摂津国長江荘・倉橋荘を下賜されていた。此の2ヶ所の地頭職改補要求が、承久の乱へ至る直接の争点となった。
- 大姫 源頼朝と北条政子の長女。西暦1,195年、頼朝は東大寺大仏殿落慶供養への参列と併せ、大姫を後鳥羽天皇の皇后として入内させる工作を行ったが、西暦1,197年8月28日に病で死去した。
- 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。西暦1,190年12月7日、大行列を率いて仙洞御所に入り後白河上皇と会談、其の後後鳥羽天皇と接触し、夜には閑院内裏の鬼間で九条兼実と初対面した。西暦1,192年8月21日、後鳥羽天皇から征夷大将軍を宣下された。
- 源実朝 鎌倉幕府第3代征夷大将軍。西暦1,204年、後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼を正室に迎えた。西暦1,213年6月には「山は裂け海は褪せなむ世なりとも君にふた心我があらめやも」と詠んで後鳥羽上皇への忠誠を表した。西暦1,219年2月に暗殺され、其の報が朝幕関係を大きく傾けた。
- 北条義時 鎌倉幕府第2代執権。西暦1,219年4月、仁科盛遠の所領2ヶ所を没収し、返還を命じた後鳥羽上皇の院宣を事実上反故にした。西暦1,221年6月、北条義時追討の院宣で名指しの討伐対象となる。乱後、大江広元と共に後鳥羽上皇の隠岐国配流を決定した。
- 北条泰時 北条義時の嫡男。承久の乱では先陣を切って上洛し、西暦1,221年7月6日10時に六波羅へ入った。翌7日から朝廷監視・京都守護に当たり、鎌倉へ4点の問い合わせを送って戦後処理を仰いだ。勢多伽丸の助命では、佐々木信綱の強硬な主張を断腸の思いで容れている。
- 北条時房 北条義時の弟。西暦1,219年4月30日、1,000騎を率いて上洛し、亀菊の地頭職廃止の拒絶と親王東下の要望を朝廷に伝えた。承久の乱では泰時と共に六波羅へ入り、戦後処理の評議にも加わった。
- 北条政子 源頼朝の正室。西暦1,218年5月、藤原兼子と面会し、皇族から次期征夷大将軍を迎える事の可否を相談した。承久の乱では一条頼氏の報告を受け、大江広元・三善康信の意見を容れて北条泰時の先陣出発を決定した。
- 九条兼実 摂政・関白を歴任した公卿。西暦1,190年2月9日の後鳥羽天皇の元服で加冠役を務め、同年12月には閑院内裏の鬼間で源頼朝と初めて対面した。後白河上皇の遺詔による遺領処分を「誠に穏当な処分である」と評している。
- 西園寺公経 鎌倉幕府と親しくしていた公卿。西暦1,221年6月5日、西園寺実氏と共に後鳥羽上皇に幽閉されたが、其の直前に伊賀光季へ討幕計画を伝え、三善長衡を経て鎌倉へ知らされる端緒を作った。
- 藤原兼子 後鳥羽上皇の乳母。西八条禅尼を源実朝の正室に推薦し、鎌倉幕府内での発言権を強めようとした。頼仁親王の養育を任され絶大な権力を持ち、西暦1,218年5月には北条政子との度重なる面会の末、頼仁親王を次期征夷大将軍に推薦した。
- 藤原定家 歌人。西暦1,220年3月19日、内裏歌会に提出した「道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎の煙くらべに」という官途への不満の歌が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、勅勘を受けて宮中への出仕と公の詠出を禁じられた。
- 明菴栄西 日本臨済宗の開祖。西暦1,185年の旱魃に際して後鳥羽天皇に招かれ、雨乞いの祈祷を行った後に「葉上」の僧号を下賜された。西暦1,194年7月24日には大日房能忍と共に禅宗布教禁止の宣旨を受け、延暦寺の弾圧を逃れて博多へ向かった。
- 法然 浄土宗の開祖。西暦1,207年3月の専修念仏停止を受け、3月28日に土佐国幡多へ配流された。罪人としての名は藤井元彦男。弟子7名も同時に処分を受けた。
- 親鸞 法然の弟子。西暦1,207年3月28日、越後国国府へ配流された。罪人としての名は藤井善信。僧でも俗人でも無い立場となった事から、自ら「禿」の字を姓として朝廷に奏上し、以後「愚禿親鸞」と署名する様になった。
- 飛鳥井雅経 公卿・歌人であり蹴鞠の名手。西暦1,208年3月11日、水無瀬離宮の鞠会で2,000回余りという記録を作った後鳥羽上皇に「鞠道の長者」の称号を贈った。
- 紀行景 蹴鞠の名手で北面武士。蹴鞠に熱中していた源頼家が後鳥羽上皇の許可を得て京都から招き、西暦1,201年10月5日に鎌倉へ到着した。
- 雅成親王 後鳥羽上皇の皇子。西暦1,219年3月、二階堂行光の奏上により頼仁親王と共に次期征夷大将軍の候補として挙げられたが実現せず、承久の乱後に流罪となった。
- 頼仁親王 後鳥羽上皇の皇子で、西八条禅尼の甥。藤原兼子の養育を受けた。西暦1,218年5月、北条政子との面会で次期征夷大将軍として推薦されたが実現せず、承久の乱後に流罪となった。
- 道助入道親王 後鳥羽上皇の第弐皇子で第8世仁和寺門跡。西暦1,221年7月28日、父後鳥羽上皇の出家の戒師を務めた。連座して捕らえられた佐々木広綱の四男勢多伽丸の為に、必死の助命嘆願を繰り返した。
- 伊賀光季 京都守護。西園寺公経から討幕計画を知らされ、藤原秀康の招聘に応じなかった。西暦1,221年6月6日明け方、京極高辻の宿所を800騎余に包囲され、長男光綱と共に奮戦。北条義時の武運長久を祈願して3度拝礼した後、割腹して果てた。
- 伊賀光綱 伊賀光季の長男。父からの逃亡の勧めを断り、共に討死する道を選んだ。烏帽子親であった佐々木高重に矢を返す様に射掛け、高重を感涙させて退かせた。最期は自刃出来ず、父の手によって斬首された。
- 三浦胤義 三浦義村の弟。後鳥羽上皇に仕え、兄が味方に付くと見込んで挙兵を促した。西暦1,221年7月6日、東寺に籠って三浦義村率いる軍と戦い、兄に恨みを言い捨てた後、太秦の幼子に会おうと向かう途中、木嶋で息子2名と共に自害した。
- 三浦義村 鎌倉幕府の有力御家人。弟胤義からの誘いに応じず「愚か者の相手をするのは無意味だ」として退けた。東寺の戦いでは鎌倉幕府軍を率い、胤義の首級を奪って北条泰時の下へ持参した。藤原頼経を鎌倉殿に迎える案を提出した人物でもある。
- 葉室光親 後鳥羽上皇の側近。西暦1,221年6月6日、北条義時の執権職停止を命じ、従わねば命を落とすが良いと宣する、北条義時追討の院宣の執筆を担当した。
- 藤原秀康 後鳥羽上皇軍の中核を担った武将。西暦1,219年9月には北陸道・山陽道の国務と大内裏再建を任された。西暦1,221年6月6日の伊賀光季襲撃を率い、御家人への院宣の発送も差配したが、摩免戸の敗戦を報告した後、7月6日に逃亡した。
- 尊長 後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行。西暦1,207年3月の専修念仏停止では、住蓮房・安楽房等法然の弟子4名の死罪を裁断した。西暦1,221年1月6日に出羽国羽黒山総長吏に任命され、乱では甲冑を着けて比叡山へ随行し、敗戦後は逃亡した。
- 源頼茂 源頼兼の長男。西暦1,219年8月24日、征夷大将軍になろうとしたという名目で昭陽舎にて西面武士に襲撃された。真相は、最勝四天院での鎌倉幕府調伏の加持祈祷を知られた事による口封じであった。仁寿殿に籠って火を放ち自害し、大内裏が灰燼に帰した。
- 佐々木信綱 北条義時の娘婿。承久の乱の宇治川で戦功を挙げた。西暦1,221年7月31日、佐々木広綱の四男勢多伽丸の助命を、自らの武功の取り消しと自害までも申し出て阻み、斬首・梟首させた。
- 佐々木経高 淡路国・阿波国・土佐国の守護。西暦1,200年8月20日、三ヶ国から兵を京都に招集して洛中を騒動に陥れ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた。翌9月には鎌倉幕府から其の暴挙を問い質す書簡が送られている。
- 村上氏 隠岐国の有力豪族で、海上貿易を通じて蓄財した実力者。西暦1,221年8月24日、後鳥羽上皇を迎え入れ、村上家の近くの源福寺に行在所を設けた。後鳥羽上皇は毎日行在所から村上家へ通い詰め、お茶を楽しみ、牛突きで持て成された。
主要な地名・拠点
- 仙洞御所 上皇の御所。西暦1,190年12月7日に源頼朝が入って後白河上皇と会談し、西暦1,201年2月27日には城長茂が源頼家追討の宣旨を要求して押し掛けた。西暦1,221年6月29日、摩免戸の敗報が届いて騒動に陥ったのも此処である。
- 水無瀬離宮 現在の大阪府三島郡島本町東大寺に所在した後鳥羽上皇の離宮。西暦1,208年3月11日、此処での鞠会で2,000回余りという記録が生まれ、飛鳥井雅経から「鞠道の長者」の称号が贈られた。西暦1,219年2月には源実朝暗殺の報も此処で受けている。
- 城南寺 現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町。西暦1,220年11月頃から後鳥羽上皇が滞在し、西暦1,221年2月20日には笠懸が行われた。隣接する城南宮の仏事守護を口実として、5月14日に諸国の兵が招集された。
- 閑院内裏 平安京の里内裏の一つ。西暦1,190年12月7日夜、源頼朝が鬼間で九条兼実と初めて対面し、後鳥羽天皇の親政への期待を語った場所。
- 東大寺 華厳宗大本山。西暦1,195年4月23日、再建された大仏殿の落慶供養に後鳥羽天皇が行幸し、神輿で西の回廊から壇上に登って大床子に着座した。西暦1,204年1月3日には重源が後鳥羽上皇の行幸を仰いで総供養を営んでいる。
- 熊野三山 紀伊国の霊場。後鳥羽上皇が繰り返し参詣した地であり、西暦1,221年2月27日には29回目の参詣が行われた。仁科盛遠が後鳥羽上皇の知遇を得たのも、息子2名を伴った熊野参詣の折であった。
- 高陽院 現在の京都府京都市中京区小川通丸太町。西暦1,221年5月21日、流鏑馬揃えの名目で北面武士・西面武士・近国の武士・大番役の武士1,700騎が招集された。承久の乱後の7月29日、後堀河天皇が践祚したのも此の地である。
- 京極高辻 現在の京都府京都市下京区茶磨屋町付近。西暦1,221年6月6日明け方、伊賀光季の宿所が800騎余に包囲され、光季・光綱父子が奮戦の末に自害した、承久の乱の実質的な開戦の地。
- 摩免戸 濃尾国境の渡河地。西暦1,221年6月27日、朝廷軍が鎌倉幕府軍に敗れ、承久の乱の帰趨が事実上決した。29日4時、負傷した藤原秀康・五条有長が後鳥羽上皇に此の敗報を伝えている。
- 東寺 京都の真言宗の寺院。西暦1,221年7月6日、仙洞御所への入場を拒まれた三浦胤義・山田重忠・渡辺翔等30騎が最後の拠点として籠り、三浦義村率いる軍と交戦した。
- 木嶋 現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社。西暦1,221年7月6日8時、幼子に一目会おうと太秦へ向かった三浦胤義が鎌倉幕府軍に包囲され、息子2名と共に自害した地。
- 比叡山 延暦寺の所在地。西暦1,221年6月29日、後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王等と共に御幸し、僧兵に援軍を要請した。翌30日、僧兵は東国の武士には太刀打ち出来ないとして此れを拒否した。
- 鳥羽殿 現在の京都府京都市伏見区中島前山町。後白河上皇の遺詔で後鳥羽天皇に譲られた御所。西暦1,221年7月26日に四辻殿から移送され、28日に出家、30日には北条時氏が武装した儘上がり込んで流罪を告げた。
- 出雲国大浜湊 現在の島根県松江市美保関町。西暦1,221年8月16日、京都を発った後鳥羽上皇一行が到着し、23日に隠岐国へ向けて船出する迄滞在した、本土最後の地。
- 隠岐諸島中ノ島 現在の島根県隠岐郡海士町。西暦1,221年8月23日、後鳥羽上皇一行が到着した。宿を求めて戸を叩いても村人は皆固辞し、一行は三穂神社の参篭舎で一夜を明かした。此処で「我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け」と詠まれた。
- 源福寺 現在の島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前。西暦1,221年8月24日以降、村上家の近くに行在所が設けられ、後鳥羽上皇の配流生活の中心となった。西暦1,239年3月31日、裏山にて火葬され、遺灰を埋納して火葬塚が営まれた終焉の地。
主要な事績・事件
- 三種の神器無き践祚 西暦1,183年9月8日、第82代天皇として践祚。安徳天皇が即位した儘であった為、2名の天皇が併存する状況となった。翌西暦1,184年9月4日の即位式でも、天叢雲剣が無かった為に日御座の御剣が代用された。
- 明菴栄西への葉上号下賜 西暦1,185年、京都が厳しい旱魃に見舞われた際、明菴栄西の著書を読んでいた後鳥羽天皇が栄西を招いて雨乞いの祈祷を行わせた。其の後雨が降った事から「葉上」という僧号が下賜された。
- 元服の儀 西暦1,190年2月9日、九条兼実が加冠役を務めた。紛失していた天叢雲剣は見つからず、近衛基通が豊後国の刀工紀新大夫行平に作らせた日御座の御剣で代用。式次第は当日迄決まらず、八尺瓊勾玉が先・天叢雲剣が後という従来とは逆の順序となった。
- 源頼朝との接触 西暦1,190年12月7日16時、源頼朝が三浦義澄・小山朝政以下の行列を率いて仙洞御所に入り、後白河上皇と1対1で長時間話し合った後、後鳥羽天皇と接触した。夜には閑院内裏の鬼間で九条兼実と初めて対面し、天皇親政への期待を語った。
- 後白河上皇の遺詔 西暦1,192年4月18日、六条殿へ見舞いに行幸した後鳥羽天皇の笛に合わせ、後白河上皇が今様を歌った。其の日、高階栄子を使者として遺詔が伝えられ、法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿が後鳥羽天皇へ譲られた。
- 征夷大将軍宣下 西暦1,192年8月21日、源頼朝に初代鎌倉幕府征夷大将軍を宣下した。惣官・征東大将軍は頼朝征伐に用いられた官職として不吉とされ、上将軍は中国の官職として除外され、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が選定された。
- 禅宗布教禁止宣旨 西暦1,194年7月24日、明菴栄西・大日房能忍に禅宗の布教を禁じる宣旨を下した。延暦寺の僧徒や筑前国筥崎の僧良弁の訴えが背景に有った。栄西は最澄も達磨の禅を紹介していると抗弁し、弾圧を逃れて博多へ向かった。
- 東大寺大仏殿落慶供養行幸 西暦1,195年4月23日8時、乱声と笛の響く中、神輿で西の回廊から壇上に登り大床子に着座した。京都・南都の供養僧1,324名が入場し、12時過ぎからの大雨と春雷、14時の地震を経て、宵には四面の回廊に灯が灯り万灯会が催された。
- 土御門天皇への譲位・院政開始 西暦1,198年2月18日、第壱皇子土御門天皇に譲位した。鎌倉幕府は幼齢を理由に難色を示し、守貞親王・惟明親王が候補に挙がっていたが押し切った形となった。此処から治天の君としての院政が始まる。
- 源頼家追討宣旨の拒絶 西暦1,201年2月27日夜、城長茂率いる軍が小山朝政の宿所を包囲した後、仙洞御所へ押し掛けて四方の門を閉ざし、源頼家追討の宣旨を要求した。後鳥羽上皇は此れを拒否し、3月9日には逆に城長茂追討の宣旨を下した。
- 専修念仏停止と法然・親鸞流罪 西暦1,207年3月、女房の出家や不在中の男性の宿泊を知って激怒した後鳥羽上皇が専修念仏の停止を決定。尊長の裁断で住蓮房・安楽房等4名が死罪となり、3月28日、法然は土佐国幡多、親鸞は越後国国府へ配流された。
- 鞠道の長者の称号 西暦1,208年3月11日、水無瀬離宮で行われた鞠会で2,000回余りという記録を作った。其の後、飛鳥井雅経から「鞠道の長者」の称号が贈られた。
- 順徳天皇践祚 西暦1,210年12月12日、後鳥羽上皇の強い意向により第参皇子順徳天皇が践祚した。此の時、天叢雲剣が先・八尺瓊勾玉が後という従来の形に戻された。
- 天叢雲剣の捜索 西暦1,212年6月、藤原秀能を壇ノ浦へ遣わし、天叢雲剣の捜索を行わせた。践祚・即位式・元服を通じて日御座の御剣で代用し続けた、神器を欠く玉座への執着の表れ。
- 藤原定家の勅勘 西暦1,220年3月19日、内裏歌会に提出された「道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎の煙くらべに」という官途への不満の歌が逆鱗に触れ、藤原定家は宮中への出仕と公の詠出を禁じられた。
- 親王東下の交渉 西暦1,219年、源実朝暗殺を受けて鎌倉幕府が雅成親王か頼仁親王の東下を奏上したが、後鳥羽上皇は「天皇と征夷大将軍が兄弟となったら国家の統一が出来なくなる」として拒み、九条道家の参男藤原頼経を鎌倉殿に迎える形で妥協が成立した。
- 亀菊の地頭職改補要求 西暦1,219年4月24日、藤原忠綱を通じて、亀菊の所領である摂津国長江荘・倉橋荘の地頭職改補と仁科盛遠への処分撤回を要求した。鎌倉幕府は27日、北条義時・時房・泰時・大江広元の評議により拒絶を決定した。
- 源頼茂討伐と大内裏焼失 西暦1,219年8月24日、最勝四天院での鎌倉幕府調伏の加持祈祷を知られた口封じとして、源頼茂が昭陽舎で西面武士に襲撃された。頼茂は仁寿殿に籠って火を放ち自害し、大内裏・仁寿殿の観音像・応神天皇の御輿・御装束・霊物が灰燼に帰した。
- 大内裏再建の頓挫 西暦1,219年11月、大内裏再建の院宣を下し、藤原秀康に北陸道・山陽道の国務を担当させた。然し国司・領家・地頭の造内裏役の拒否が相次ぎ、鎌倉幕府に訴えても無視された事が、北条義時征伐へ傾く一因となった。
- 北条義時追討院宣 西暦1,221年6月6日、葉室光親の執筆により北条義時追討の院宣を発した。翌7日4時、藤原秀康の従者押松丸が、御家人7名宛の院宣7通と伊賀光季の死を伝える密書を携えて鎌倉へ向けて出発した。
- 伊賀光季父子の最期 西暦1,221年6月6日明け方、京極高辻の宿所を800騎余に囲まれた伊賀光季は、逃亡を勧めた家臣の言を退けた長男光綱と共に戦い、館が炎上する中で光綱を斬首、北条義時の武運長久を祈願して3度拝礼した後、割腹して光綱の遺体に覆い被さった。
- 摩免戸の敗戦と比叡山御幸 西暦1,221年6月29日4時、負傷した藤原秀康・五条有長が、2日前の摩免戸での敗北を報告し、仙洞御所は騒動となった。後鳥羽上皇は土御門上皇・順徳上皇・仲恭天皇・雅成親王・頼仁親王等と比叡山へ御幸したが、翌30日、延暦寺の僧兵は援軍要請を拒否した。
- 東寺の戦いと胤義の最期 西暦1,221年7月6日、仙洞御所への入場を拒まれた三浦胤義・山田重忠・渡辺翔等30騎が東寺に籠り、三浦義村率いる軍を迎え撃った。山田は般若寺で自害し、胤義は8時、太秦へ向かう途中の木嶋で息子2名と共に自害した。
- 降伏と出家 西暦1,221年7月6日8時、勅使が「今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く謀臣が行ったものである」と伝え、北条泰時追討宣旨の撤回と全面恭順を表明した。7月28日、鳥羽殿にて出家。戒師は第参皇子道助入道親王が務め、藤原信実が御影を描いた。
- 隠岐国配流 西暦1,221年7月14日、鎌倉に届いた戦勝報告を受け、北条義時と大江広元が隠岐国への配流を決定した。8月2日に佐々木義清・藤原秀能等と京都を発ち、16日に出雲国大浜湊、23日に隠岐諸島中ノ島へ到着した。
- 隠岐での日々と崩御 西暦1,221年8月24日、村上氏に迎えられて源福寺に行在所が設けられた。読書・写経・神事・将棋に勤しみ、毎日村上家へ通ってお茶を楽しみ、牛突きで持て成される日々の中、帰京を願う書簡を送り続けたが叶わず、西暦1,239年3月28日に崩御。31日、源福寺の裏山にて火葬された。
神器無き践祚・源頼朝との対面・鞠道の長者・承久の乱・隠岐配流──
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