電子書籍「日本臨済宗の開祖栄西一元化」の表紙

日本臨済宗の開祖
栄西一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,141年5月27日〜1,215年8月1日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
27ページ
最新更新日
西暦2,026年8月6日

二度海を渡り、禁令を浴び、そして茶を伝えた──
明菴栄西の生涯74年を一元化。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,141年5月27日、明菴栄西は備中国の吉備津宮(現在の岡山県岡山市北区吉備津)の神官の息子として生まれた。父から神官と仏教に関する指導を受け、次第に仏の道へ惹かれていったという。西暦1,152年頃に出家すると、父と三井寺で縁の有った安養寺(現在の岡山県岡山市北区日近)の天台宗の僧静心に師事し、天台密教の基礎を教え込まれる。本書は、此の一人の神官の子が、二度海を渡り、禁令を浴び、日本初の禅宗寺院を開き、そして茶を伝えて西暦1,215年8月1日に入滅する迄の74年を、年月日単位で一元化した記録である。

西暦1,154年頃、栄西は比叡山に登って落髪し、正式に僧となった。比叡山と安養寺を往復しつつ修行に励んだが、仏法よりも地位を求める僧が多い延暦寺に落胆して下山する。西暦1,158年頃には師の静心が入滅し、栄西は静心の法兄千命から天台密教や虚空蔵求聞持法を学び、同じ頃、改めて比叡山で学び始めた。落胆と回帰を繰り返す此の時期が、後の入宋の動機を形作ってゆく。

西暦1,168年、栄西は天台山(現在の中国浙江省台州市天台県和合街)に登って仏教の根本を学ぶ事と、腐敗した日本の天台宗を立て直す事の2点を意図し、博多から宋へ向かった。3週間後に明州(現在の中国浙江省寧波市)へ到着した栄西が目の当たりにしたのは、禅宗の隆盛である。天台山へ向かう途上で重源と出会い、帰国迄の半年間行動を共にした。天台山に着くと智者大師の肉身塔に拝礼し、次いで阿育王寺(現在の中国浙江省寧波市鄞州区五郷鎮五郷東路)で禅を学ぶ。重源と共に帰国した後は比叡山へ赴いて第5代天台座主明雲に天台章疏60巻を進呈し、両親の下へ帰郷して備前国・備中国を中心に布教し、思索実践に努めた。

西暦1,175年、大檀那大法師寛智によって誓願寺(現在の福岡県福岡市西区今津)が建立され、栄西は其の年のうちに導師として招かれる。西暦1,185年、京都は厳しい旱魃に見舞われた。栄西の著書を読んでいた後鳥羽天皇は栄西を招いて雨乞いの祈祷を行わせ、其の後雨が降った事から「葉上」という僧号を下賜した。

西暦1,187年5月頃、栄西は釈迦の遺跡をめぐって仏教の正法を会得する事を目的に、天竺を目指して再び宋に入る。しかし天竺へのどのルートも蒙古の勢力下であった為に断念し、天台山へ向かった。其処で虚庵懐敞に師事して禅の修行に没頭し、其の間、天台山の修理費を出したりもしている。そして西暦1,191年8月頃、虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の法を継いで帰国し、鎮西で布教活動を行った。同年8月29日には、戸部侍郎清貫に招かれて冨春庵(現在の長崎県平戸市木引町)にて日本初の禅規を行い、多くの帰依者を集めている。

だが西暦1,194年7月24日、後鳥羽天皇は栄西と大日房能忍等の禅宗の布教を禁じる宣旨を下す。背景には天台宗の延暦寺の僧徒や筑前国筥崎(現在の福岡県福岡市東区箱崎)の僧良弁の訴えが有り、浄土宗や臨済宗が弾圧された。栄西は、最澄は達磨の禅を紹介しており、禅宗が非なるものなら最澄も天台宗も否定される筈だ、と抗弁した上で、延暦寺の弾圧から逃れる為に博多へ向かう。翌西暦1,195年、源頼朝公を開基、栄西を開山として、日本初の禅宗寺院である聖福寺(現在の福岡県福岡市博多区御供所町)が創建された。栄西は「興禅護国論」を執筆し、旧仏教や朝廷からの疑問・論難に答え、旧仏教を否定するつもりが無い事を弁明した上で、禅宗を広める必要性を説いている。

やがて栄西は鎌倉と深く結ばれてゆく。西暦1,199年10月17日には鎌倉幕府の不動明王像供養の導師を務め、西暦1,200年1月30日には法華堂(現在の神奈川県鎌倉市西御門)で源頼朝の一周忌の導師を務めた。3月28日、北条政子は頼朝の菩提を弔う意味を込めて源義朝から伝わる亀ケ谷の地を栄西に寄進し、翌29日には政子を施主として寿福寺造営の事始が執り行われ、栄西が開山に迎えられる。西暦1,202年3月24日には、源頼家が源義朝の居館であった沼浜城(現在の神奈川県逗子市沼間の法勝寺付近)を解体して寿福寺へ寄進した。同年7月頃には建仁寺(現在の京都府京都市東山区小松町)が延暦寺の別院として栄西を開山に創建される。栄西は之を真言宗・天台宗・禅宗の兼学道場として発展させ、天台宗からの弾圧を逃れようとした。9月2日には微妙が父の後世を弔う為に栄西の禅房で出家し、其れを知った古郡保忠が亀ケ谷に押し掛けて弟子祖達房を怯えさせるという一幕もあった。

西暦1,206年10月21日、栄西は重源の後任として第2代東大寺大勧進職に就任する。西暦1,209年9月頃には法勝寺の八角九重塔再建の大勧進職に任じられた。西暦1,211年には著作「喫茶養生記」を発表し、茶の栽培・喫茶の方法・喫茶による養生を記して日本に茶を広める。西暦1,212年7月19日には寿福寺を訪れた源実朝に仏舎利3粒を譲った。西暦1,213年6月頃、八角九重塔の再建を果たした功績により権僧正の位を与えられ紫衣を授けられるが、栄西は此の位を得る為に朝廷へ多額の賄賂を渡しており、慈円や藤原定家から非難されている。西暦1,214年1月15日には前年の合戦の戦没者供養の仏事を寿福寺で執り行い、3月16日には二日酔いの実朝に「喫茶養生記」を献上、7月11日には祈雨の為に法華経を転読し、9月3日には大慈寺の落慶法要の導師を、供の僧20名を引き連れて務めた。そして西暦1,215年8月1日、明菴栄西は建仁寺にて入滅する——本書は、其の一日までを一冊に束ねている。


登場人物

  • 明菴栄西 本書の中心人物。日本臨済宗の開祖。西暦1,141年5月27日、備中国吉備津宮の神官の息子として生誕した。二度にわたって宋へ渡り、虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の法を継いで帰国。禅宗布教禁止の宣旨を受けながら「興禅護国論」で弁明し、聖福寺・建仁寺を開き、鎌倉では寿福寺の開山として源氏・北条氏の法要を数多く担った。「喫茶養生記」を著して日本に茶を広め、西暦1,215年8月1日に建仁寺で入滅した。
  • 静心 安養寺の天台宗の僧。栄西の父と三井寺で縁が有り、西暦1,152年頃に出家した栄西の最初の師となって天台密教の基礎を教え込んだ。西暦1,158年頃に入滅した。
  • 千命 静心の法兄。静心の入滅後、栄西に天台密教や虚空蔵求聞持法を教えた僧。
  • 重源 西暦1,168年、栄西が天台山へ向かう途上の宋で出会い、帰国迄の半年間行動を共にした僧。帰国も共にした。後に東大寺大勧進職を務め、西暦1,206年に栄西が其の後任として第2代大勧進職に就任している。
  • 明雲 第5代天台座主。西暦1,168年の帰国後、比叡山へ赴いた栄西から天台章疏60巻を進呈された。
  • 虚庵懐敞 宋の禅僧。西暦1,187年5月頃に再入宋し天台山へ向かった栄西が師事した相手。栄西は其の下で禅の修行に没頭し、西暦1,191年8月頃、虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の法を継いで帰国した。
  • 寛智 大檀那大法師。西暦1,175年に誓願寺を建立し、其の年のうちに栄西を導師として招いた。
  • 後鳥羽天皇 西暦1,185年の旱魃に際し、栄西の著書を読んでいた縁から栄西を招いて雨乞いの祈祷を行わせ、雨が降った事から「葉上」の僧号を下賜した。一方で西暦1,194年7月24日には、栄西と大日房能忍等の禅宗の布教を禁じる宣旨を下している。
  • 清貫 戸部侍郎。西暦1,191年8月29日、栄西を冨春庵に招き、日本初の禅規が行われる場を作った人物。
  • 大日房能忍 禅僧。西暦1,194年7月24日、栄西と共に禅宗の布教を禁じる宣旨の対象とされた。
  • 良弁 筑前国筥崎の僧。天台宗の延暦寺の僧徒と共に訴えを起こし、禅宗布教禁止の宣旨が下される背景を作った。
  • 源頼朝 西暦1,195年、日本初の禅宗寺院である聖福寺の開基となった人物。西暦1,200年1月30日には、法華堂で栄西を導師としてその一周忌が営まれ、3月28日には菩提を弔う為に北条政子が亀ケ谷の地を栄西へ寄進した。
  • 北条政子 源頼朝の菩提を弔う意味を込め、源義朝から伝わる亀ケ谷の地を栄西に寄進して寿福寺建立計画を掲げた。造営の事始では施主を務め、十六羅漢図の開眼供養にも参列。南都で描かせた「七観音図」の供養も栄西に依頼した。微妙に居所を与え、栄実の出家を指示したのも政子である。
  • 源頼家 西暦1,202年3月24日、源義朝の居館であった沼浜城を解体して栄西が住職を務める寿福寺に寄進した。永福寺の多宝塔供養にも参列し、乳母の冥福を祈っている。微妙の出家に際しては、北条政子の意図を推し量る言葉を残した。
  • 源実朝 栄西が鎌倉に下向した際に「喫茶養生記」を献上された相手。持仏堂での文殊供養の導師を栄西に依頼し、西暦1,212年7月19日には寿福寺を訪れて仏舎利3粒を譲られた。西暦1,214年3月16日には二日酔いの折に改めて「喫茶養生記」を献上され、9月3日の大慈寺落慶法要にも参列している。
  • 三善康信 寿福寺造営の事始で二階堂行光と共に奉行を務めた。源頼家が語った北条政子の夢の内容を書き記したのも康信である。
  • 大江広元 沼浜城の寿福寺への移築に際し、北条政子の夢に現れた源義朝の言葉「六楽」について、六根の楽の事ではないかと述べた。大慈寺の落慶法要にも後騎として参列している。
  • 微妙 西暦1,202年9月2日の夜、父の後世を弔う為に栄西の禅房で出家した女性。北条政子は之を哀れみ、深沢の里に居所を与えて持仏堂へ参る様言い付けた。古郡保忠と通じていたが、古郡は当時甲斐国に下向していた。
  • 古郡保忠 西暦1,202年9月11日の夜に甲斐国から鎌倉へ帰還し、微妙が栄西の弟子祖達房に頼んで出家した事を知って亀ケ谷に押し掛けた。従僧達を殴るなど怒りが収まらず、北条政子が結城朝光を遣わせて宥めさせた。
  • 祖達房 栄西の弟子。微妙の出家を取り持った為に古郡保忠が押し掛け、恐怖して大倉御所の門前へ逃亡した。
  • 栄実 西暦1,213年12月23日の夜、北条政子の指示により出家して栄西の弟子となった人物。
  • 伊賀朝光 西暦1,211年11月28日、永福寺の傍らに一宇を建て、其の供養の導師を栄西に依頼した。大慈寺の落慶法要にも後騎として参列している。
  • 北条時政 西暦1,203年10月8日、名越殿にて薬師如来の開眼供養を執り行った。導師は栄西が務めた。
  • 慈円 西暦1,213年6月頃、栄西が権僧正の位を得る為に朝廷へ多額の賄賂を渡した事を、藤原定家と共に非難した。
  • 藤原定家 慈円と共に、権僧正の位を巡る栄西の行動を非難した人物。

主要な地名・拠点

  • 吉備津宮 現在の岡山県岡山市北区吉備津。西暦1,141年5月27日、栄西が神官の息子として生誕した地。父から神官と仏教に関する指導を受けた出発点である。
  • 安養寺 現在の岡山県岡山市北区日近。栄西の父と三井寺で縁の有った天台宗の僧静心が居た寺。西暦1,152年頃に出家した栄西は此処で天台密教の基礎を学び、比叡山と往復しつつ修行に励んだ。
  • 比叡山 西暦1,154年頃、栄西が登って落髪し正式に僧となった山。仏法よりも地位を求める僧が多い延暦寺に落胆して一度は下山したが、西暦1,158年頃に改めて学び始めた。後の禅宗弾圧では、延暦寺の僧徒の訴えが宣旨の背景となる。
  • 明州 現在の中国浙江省寧波市。西暦1,168年、博多を発った栄西が3週間後に到着した港。此処で禅宗の隆盛を目の当たりにした。
  • 天台山 現在の中国浙江省台州市天台県和合街。西暦1,168年の入宋で仏教の根本を学ぶ目的地とされ、智者大師の肉身塔に拝礼した地。西暦1,187年の再入宋でも天竺行きを断念した栄西が向かい、虚庵懐敞に師事して禅の修行に没頭した。栄西は其の修理費も出している。
  • 阿育王寺 現在の中国浙江省寧波市鄞州区五郷鎮五郷東路。西暦1,168年の入宋の折、栄西が禅を学んだ寺。
  • 誓願寺 現在の福岡県福岡市西区今津。西暦1,175年、大檀那大法師寛智によって建立され、栄西が其の年のうちに導師として招かれた寺。
  • 冨春庵 現在の長崎県平戸市木引町。西暦1,191年8月29日、戸部侍郎清貫に招かれた栄西が日本初の禅規を行い、多くの帰依者を集めた地。
  • 聖福寺 現在の福岡県福岡市博多区御供所町。西暦1,195年、源頼朝公を開基、栄西を開山として創建された日本初の禅宗寺院。禅宗布教禁止の宣旨を受けて博多へ向かった栄西の、新たな拠点となった。
  • 建仁寺 現在の京都府京都市東山区小松町。西暦1,202年7月頃、延暦寺の別院として栄西を開山に創建された。栄西は之を真言宗・天台宗・禅宗の兼学道場として発展させ、天台宗からの弾圧を逃れようとした。西暦1,215年8月1日、栄西が入滅した地でもある。
  • 寿福寺 北条政子が源頼朝の菩提を弔う為に寄進した亀ケ谷の地に建てられ、栄西が開山に迎えられた寺。十六羅漢図の開眼供養、源義朝の居館沼浜城の移築、戦没者供養の仏事、源実朝への仏舎利3粒の授与など、鎌倉における栄西の活動の中心となった。
  • 法華堂 現在の神奈川県鎌倉市西御門。西暦1,200年1月30日、栄西が源頼朝の一周忌の導師を務めた堂。
  • 永福寺 源頼家が多宝塔供養に参列し、栄西が導師を務めた寺。西暦1,211年11月25日には「宋本一切経五千余巻」の供養が、11月28日には伊賀朝光が傍らに建てた一宇の供養が、いずれも栄西を導師として執り行われた。
  • 大慈寺 西暦1,214年8月8日に栄西が供養の導師に任命され、9月3日の落慶法要では供の僧20名を引き連れて導師を務めた寺。北条政子・源実朝が参列し、被り物30枚・馬20頭の布施が与えられた。11月18日には仏舎利を供養する為の法会も執り行われた。
  • 東大寺 西暦1,206年10月21日、栄西が重源の後任として第2代大勧進職に就任した寺。其の後、備前国は東大寺造営料国から外され、向けの瓦は伊良子(現在の愛知県田原市伊良湖町)の瓦窯で生産される事となった。丸瓦への名入れは万富から引き続き行われた。
  • 法勝寺 西暦1,209年9月頃、栄西が八角九重塔再建の大勧進職に任じられた寺。西暦1,213年6月頃、其の再建を果たした功績により栄西は権僧正の位と紫衣を得る事となる。

主要な著作

  • 興禅護国論 西暦1,195年、聖福寺の創建と同じ年に栄西が執筆した著作。天台宗等の旧仏教や朝廷からの疑問・論難に答え、旧仏教を否定するつもりが無い事を弁明した上で、禅宗を広める必要性を説いた。前年の禅宗布教禁止の宣旨に対する、書物としての応答である。
  • 喫茶養生記 西暦1,211年に発表された著作。茶の栽培・喫茶の方法・喫茶による養生の3点について記し、日本に茶を広めた。鎌倉に下向した際に源実朝へ献上され、西暦1,214年3月16日には二日酔いの実朝へ改めて献上されている。

本書が記録する出来事

  • 第1回入宋 西暦1,168年、天台山に登って仏教の根本を学ぶ事と、腐敗した日本の天台宗を立て直す事の2点を意図した渡航。博多を発って3週間後に明州へ到着し、禅宗の隆盛を目の当たりにした。途上で重源と出会って半年間行動を共にし、阿育王寺で禅を学んで帰国した。
  • 天台章疏60巻の進呈 第1回入宋からの帰国後、栄西が比叡山へ赴き、第5代天台座主明雲に進呈した典籍。其の後は郷里へ帰り、備前国・備中国を中心に布教して思索実践に努めた。
  • 雨乞いの祈祷と「葉上」の僧号 西暦1,185年、厳しい旱魃に見舞われた京都で、栄西の著書を読んでいた後鳥羽天皇が栄西を招いて祈祷を行わせた。其の後雨が降った事から、後鳥羽天皇より「葉上」という僧号が下賜された。
  • 第2回入宋と天竺行きの断念 西暦1,187年5月頃、釈迦の遺跡をめぐって仏教の正法を会得する為に天竺を目指して宋へ入ったが、どのルートも蒙古の勢力下であった事から断念した。代わりに天台山へ向かい、虚庵懐敞に師事して禅の修行に没頭する事となる。
  • 臨済宗黄龍派の法の継承 西暦1,191年8月頃、栄西が虚庵懐敞から法を継いで帰国した出来事。日本臨済宗の開祖と呼ばれる所以であり、帰国後は鎮西で布教活動を行った。
  • 日本初の禅規 西暦1,191年8月29日、戸部侍郎清貫に招かれた栄西が冨春庵にて行った、日本で最初の禅規。多くの帰依者を集めた。
  • 禅宗布教禁止の宣旨 西暦1,194年7月24日、後鳥羽天皇が栄西と大日房能忍等の禅宗の布教を禁じた宣旨。延暦寺の僧徒や筑前国筥崎の僧良弁の訴えが背景に有り、浄土宗や臨済宗が弾圧された。栄西は、最澄は達磨の禅を紹介しており禅宗が非なるものなら最澄も天台宗も否定される筈だと抗弁し、博多へ向かった。
  • 聖福寺の創建 西暦1,195年、源頼朝公を開基、栄西を開山として創建された、日本初の禅宗寺院。同じ年に栄西は「興禅護国論」を執筆している。
  • 寿福寺の造営と開山 西暦1,200年3月28日に北条政子が亀ケ谷の地を寄進して建立計画を掲げ、翌29日の12時、政子を施主として造営の事始が執り行われた。三善康信・二階堂行光が奉行を務め、同日栄西が開山に迎えられた。8月26日には十六羅漢図の開眼供養も行われている。
  • 沼浜城の移築寄進 西暦1,202年3月24日、源頼家が源義朝の居館であった沼浜城を解体して寿福寺へ寄進した。北条政子の夢に義朝が現れ、海辺に居ると漁師の漁の業を見るのが辛いから寺の中に移築して六楽を得たいと告げたという。大江広元は「六楽と言うのは六根の楽の事ではないか」と述べた。
  • 建仁寺の創建 西暦1,202年7月頃、延暦寺の別院として栄西を開山に創建された寺。栄西は真言宗・天台宗・禅宗の兼学道場として発展させ、天台宗からの弾圧を逃れようとした。
  • 第2代東大寺大勧進職への就任 西暦1,206年10月21日、栄西が重源の後任として就いた職。其の後、備前国は東大寺造営料国から外され、東大寺向けの瓦は伊良子の瓦窯で生産される事となった。丸瓦への名入れは万富から引き続き行われた。
  • 権僧正の位と紫衣 西暦1,213年6月頃、法勝寺の八角九重塔の再建を果たした功績により栄西へ与えられた位と衣。もっとも栄西は此の位を得る為に朝廷へ多額の賄賂を渡しており、其の行動は慈円や藤原定家から非難された。
  • 大慈寺の落慶法要 西暦1,214年9月3日に執り行われた法要。10時に北条政子が、12時に源実朝が向かい、前駈・殿上人・御車・御劔役・調度懸・後騎・随兵・検非違使から成る大行列が組まれた。実朝が御堂に上がると、導師を務める栄西が供の僧20名を引き連れて入り、法要の後、被り物30枚と馬20頭の布施が与えられた。

吉備津宮の生誕から、建仁寺の入滅まで──
日本臨済宗の開祖明菴栄西の生涯の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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