都落ちした
源義経の逃亡劇一元化
平家を滅ぼした弟は、兄に鎌倉の門を閉ざされた──
都落ちした源義経の逃亡劇を一元化。
208円(税込)
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本書について
西暦1,185年5月16日、源頼朝は、内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東の武士達を罵り、墨俣川(現在の長良川)以東への東下を禁じて、破った者は本領没収の上斬罪とする命令書を下した。異母弟の源義経も任官を受けていたが、名指しの批判は無かった。然し6日後、侍所所司梶原景時から、義経は追討の功を自分一人の物としているという弾劾の書簡が届く。5月27日には平宗盛・平清宗・平時忠らの捕虜が京都の義経邸に入り、頼朝は西海の田代信綱や景時に、義経は全て自分の手柄と思い込んで恨む者が多い、今後は其の命令に従う必要は無いと書き送った。本書は、此の兄弟の亀裂から、1,189年に藤原泰衡征伐の宣旨が求められる迄を一元化した記録である。
6月6日、義経は壇ノ浦(現在の山口県下関市みもすそ川町)で捕えた宗盛・清宗を護送して京都を発ったが、頼朝は鎌倉入りを許さず、義経は山内荘の満福寺(現在の神奈川県鎌倉市腰越)に留め置かれた。内挙を得ない任官、軍監梶原景時の意見を聞かぬ独断専行、源範頼の管轄である九州への越権と東国武士への咎め立て——西国武士を率いた多大な戦功が、恩賞を求める東国御家人の機会を奪い、不満を噴出させていたのである。義経は叛意が無い事を示す書簡を武蔵坊弁慶に下書きさせ、頼朝の腹心大江広元に託したが、7月3日の除目からは外される。帰洛を命じられた義経は、鎌倉を発つに当たり「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。
9月11日の小除目で伊予守に任じられた義経は、平時忠の娘蕨姫を側室としており、其の縁で京都に留まる時忠共々頼朝の怒りを買っていた。源行家追討の命を伝えに上洛した梶原景季は、病を理由に面会を2日待たされ、憔悴した姿で現れた義経から、病である事と叔父行家は同じ源氏である事を理由に拒まれる。父景時は、食を断って衰弱して見せたに相違無い、義経と行家は既に同心していると言上した。11月2日、土佐坊昌俊が京都への派遣を自ら引き受け、83騎と共に鎌倉を発つ。義経は後白河上皇に頼朝征伐の院宣を求め、11月10日の夜、60数騎で六条室町の屋敷を襲った土佐坊を、手薄な中で自ら門を開いて迎え撃ち、駆け付けた行家と挟み撃ちにして退けた。翌日、義経と行家は頼朝征伐の院宣を受けたが、賛同する者は殆ど居なかった。
頼朝は自ら義経と行家の追討に鎌倉を発つ。11月26日早朝、義経は甲冑を纏い、行家・佐藤忠信・伊勢義盛・弁慶らと200騎を率いて鎮西へ向けて京都を脱出した。摂津国河尻(神崎川河口(現在の兵庫県尼崎市))で多田行綱らの襲撃を撃退し、28日の夜に大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から船出したが、暴風で船の大半が転覆する。住吉浜に打ち上げられた義経に残った従者は、源有綱・堀景光・弁慶・静御前の4名だけであった。九条兼実は、可哀相だが天下にとっては大慶だと記す。義経は検非違使と伊予守を罷免され、12月4日、後白河上皇は頼朝征伐の院宣を撤回して、義経と行家の追討を命じた。院宣は天魔の為す事だったと弁明する高階泰経の書簡を投げ捨てた頼朝は、日本第一の大天狗が他の者で無い事があろうかと言い放ち、泰経は解官・蟄居となる。義経は多武峰の僧十字坊の手配で遠津河(現在の奈良県五條市)へ逃れた。
1,186年1月、義経の探索と鎮西での鎌倉勢力の確立の為に九州惣追捕使が置かれ、天野遠景が補任された。6月、比叡山(現在の滋賀県大津市・京都府京都市左京区)に入った義経を追い、感応寺(現在の京都府京都市上京区梶井町)では母常盤御前が捕えられ、岩倉や仁和寺が捜索されたが、義経は見付からない。伊勢神宮への参拝や奈良付近への潜伏も伝えられた。雑用を務めた五郎丸の自白で、比叡山の僧兵俊章・承意・仲教らの庇護が露見し、後白河上皇は延暦寺の東塔・西塔・横川に捕縛を命じたが、行方は掴めなかった。11月には堀景光が京都で捕えられ、興福寺(現在の奈良県奈良市登大路町)の聖弘に匿われている事と、藤原範季との連絡を白状する。聖弘の屋敷に義経の姿は無く、範季は匿った咎で解官された。
1,187年4月18日、鎌倉に召し出された聖弘は、頼朝の尋問に対し、師弟の誼で迎え入れたのであり、祈祷は義経の逆心を宥める為のもので罪ではないと答えた。今の関東の安全は義経の武功による物であり、讒言で奉公を忘れ恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然、義経を召し返して水魚之交をする事こそ国を治める道である——天下静謐を求めての言葉に感心した頼朝は、聖弘に勝長寿院の供僧職を与えた。そして1,189年3月3日、藤原泰衡は、義経を支持していた藤原秀衡の六男頼衡を殺害する。3月10日、鎌倉方は泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、泰衡征伐の宣旨を朝廷に求めた——其の全過程を、本書は一冊に束ねている。
登場人物
- 源義経 本書の中心人物。源頼朝の異母弟。壇ノ浦で平家を滅ぼしたが、内挙の無い任官や独断専行、東国武士の恨みを買う振る舞いで頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを拒まれた。土佐坊昌俊の襲撃を退けて頼朝征伐の院宣を得たが、賛同者は集まらず、京都を脱出して大物浦で遭難する。院宣が覆って追討される身となり、多武峰・比叡山・興福寺へと逃れ続けた。
- 源頼朝 義経の異母兄。自由任官の禁止令を下し、義経の鎌倉入りを拒んで満福寺に留め置いた。除目から義経を外し、土佐坊昌俊を差し向け、自ら追討に鎌倉を発った。高階泰経の弁明に対し、日本第一の大天狗と言い放った。
- 源行家 義経の叔父。頼朝から追討を命じられたが、義経は同じ源氏である事を理由に拒んだ。土佐坊の襲撃で義経に加勢し、共に頼朝征伐の院宣を受け、京都脱出にも同行した。
- 武蔵坊弁慶 義経の従者。満福寺で頼朝に宛てた書簡の下書きを書いた。京都脱出に従い、大物浦の遭難後も残った4名の従者の1人となった。
- 静御前 義経に従った女性。大物浦の遭難で船が転覆した後、住吉浜に残った4名の従者の1人。
- 佐藤忠信 義経の郎党。土佐坊昌俊が六条室町の屋敷を襲撃した夜、残っていた少ない部下の1人として応戦し、京都脱出にも加わった。
- 堀景光 義経の郎党。大物浦の遭難後に残った4名の1人。1,186年に京都で捕えられ、義経が興福寺の聖弘に匿われている事と、藤原範季との連絡を白状した。
- 梶原景時 侍所所司で、頼朝の軍監を務めた。義経は追討の功を自分一人の物としていると弾劾する書簡を送り、義経と行家は既に同心していると言上した。
- 梶原景季 梶原景時の息子。源行家追討の命を伝える為に上洛し、病を理由に面会を2日待たされた末、義経に追討を拒まれた。
- 土佐坊昌俊 周囲が辞退する中、自ら京都派遣を引き受けた御家人。60数騎で六条室町の屋敷を襲撃したが、義経と行家の反撃で退散し、鞍馬山に逃げ込んだ後に捕えられた。
- 大江広元 頼朝の腹心。満福寺の義経から、叛意が無い事を示す書簡を託された。
- 平宗盛 平家の棟梁。壇ノ浦で捕えられ、浄衣を着て車で大路を渡り、義経に護送されて鎌倉へ入った。後に帰洛を命じられた。
- 平時忠 平家の公卿。捕虜として京都の義経邸に入った。娘の蕨姫が義経の側室となり、其の縁で京都に留まって頼朝の怒りを買った。
- 蕨姫 平時忠の娘。義経の側室となった。
- 後白河上皇 義経と行家に頼朝征伐の院宣を下したが、義経の都落ちの後に撤回し、二人の追討を命じた。延暦寺の東塔・西塔・横川にも義経の捕縛を命じた。
- 多田行綱 摂津国河尻で義経一行を発見し、太田頼基らと共に襲撃したが、駆け破られて撃退された。
- 九条兼実 公卿。義経遭難の噂に、可哀相だが天下にとっては大慶だと記した。後白河上皇の下で義経捕縛の協議にも加わった。
- 高階泰経 後白河上皇の近臣。院宣は天魔の為す事だったとする弁明の書簡を頼朝に送ったが投げ捨てられ、関与を疑われて解官・蟄居となった。
- 十字坊 多武峰の南院藤室の僧。義経が遠津河へ逃れる手配をした。
- 常盤御前 義経の母。感応寺で義経の異父妹と共に捕えられ、義経は岩倉に居ると証言した。
- 天野遠景 義経の探索と鎮西での鎌倉勢力の確立を目的に創設された、九州惣追捕使に補任された。
- 聖弘 興福寺の僧。師弟の誼で義経を匿い、鎌倉で頼朝の尋問を受けた。義経を召し返す事こそ国を治める道だと答え、感心した頼朝から勝長寿院の供僧職を与えられた。
- 藤原範季 堀景光を通じて義経と連絡を取っていた人物。義経を匿ったという理由で、頼朝の要請により解官された。
- 一条能保 鎌倉と朝廷を繋いだ人物。比叡山の僧兵による義経の庇護が露見した経緯を鎌倉に伝えた。
- 藤原泰衡 奥州藤原氏。義経を支持していた藤原秀衡の六男頼衡を殺害したが、鎌倉方からは義経の叛逆に同心していると見做され、征伐の宣旨が求められた。
主要な地名・拠点
- 壇ノ浦 現在の山口県下関市みもすそ川町。義経が平宗盛・平清宗を捕縛した地。
- 満福寺 現在の神奈川県鎌倉市腰越。鎌倉入りを拒まれた義経が留め置かれ、叛意の無い事を示す書簡を書いた山内荘の寺。
- 六条室町の屋敷 京都の義経の屋敷。1,185年11月10日の夜、土佐坊昌俊の襲撃を受けたが、義経は自ら門を開けて応戦した。
- 仙洞御所 二条河原(現在の京都府京都市中京区)。土佐坊の襲撃を退けた義経が直ちに赴き、後白河上皇に一部始終を報告した。
- 鞍馬山 現在の京都府京都市左京区。襲撃に失敗した土佐坊昌俊達が逃げ込んだ山。
- 摂津国河尻 神崎川河口(現在の兵庫県尼崎市)。京都を脱出した義経一行が、多田行綱らの襲撃を撃退した地。
- 大物浦 現在の兵庫県尼崎市。義経の船団が出航したが、暴風に遭って大半の船が転覆した浦。
- 住吉浜 遭難した義経の船が打ち上げられた浜。残った従者は4名だけであった。
- 遠津河 現在の奈良県五條市。多武峰の僧十字坊の手配で、義経が逃れた地。
- 比叡山 現在の滋賀県大津市・京都府京都市左京区。義経が1,186年6月から7月10日頃まで潜伏し、僧兵俊章・承意・仲教らの庇護を受けた。
- 延暦寺 現在の滋賀県大津市坂本本町。後白河上皇が東塔・西塔・横川に義経の捕縛を命じたが、行方は掴めなかった。
- 感応寺 現在の京都府京都市上京区梶井町。義経の母常盤御前が、異父妹と共に捕えられた寺。
- 岩倉 現在の京都府京都市左京区。常盤御前が義経の居場所として証言し、捜索が行われた地。
- 興福寺 現在の奈良県奈良市登大路町。義経が聖弘に匿われていると白状された寺。捜索では義経の姿は見付からなかった。
主要な事件・出来事
- 自由任官の禁止令(1,185年5月16日) 頼朝が、内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東の武士の東下を禁じる。義経も任官していたが、名指しの批判は無かった。
- 梶原景時の弾劾(1,185年5月22日) 侍所所司梶原景時が、義経は追討の功を自分一人の物としていると弾劾する書簡を頼朝に送る。
- 鎌倉入りの拒否(1,185年6月6日) 宗盛・清宗を護送した義経が鎌倉入りを許されず、満福寺に留め置かれる。
- 満福寺からの書簡(1,185年6月23日) 義経が叛意の無い事を示す書簡を、弁慶の下書きに筆入れして大江広元に託す。
- 除目からの排除(1,185年7月3日) 頼朝の推薦で平頼盛・源範頼らが任官する一方、義経は外される。
- 伊予守任官(1,185年9月11日) 小除目で、頼朝の申し入れにより義経が伊予守に任じられる。
- 行家追討の拒否(1,185年9月29日) 面会した梶原景季に対し、義経が病と同じ源氏である事を理由に源行家追討を拒む。
- 土佐坊昌俊の襲撃(1,185年11月10日) 六条室町の屋敷を夜襲した土佐坊を、義経と行家が挟み撃ちにして退ける。
- 頼朝征伐の院宣(1,185年11月11日) 義経と行家が後白河上皇から頼朝征伐の院宣を受けるが、賛同する者は殆ど居なかった。
- 京都脱出と大物浦の遭難(1,185年11月26日〜28日) 義経が200騎で鎮西へ向かうが、大物浦から出航した船団が暴風で転覆し、従者は4名となる。
- 院宣の撤回(1,185年12月4日) 後白河上皇が頼朝征伐の院宣を撤回し、義経と行家の追討を命じる。
- 日本第一の大天狗(1,185年12月8日) 高階泰経の弁明の書簡を投げ捨てた頼朝が、日本第一の大天狗が他の者で無い事があろうかと言い放つ。
- 九州惣追捕使の設置(1,186年1月頃) 義経の探索と鎮西での鎌倉勢力の確立の為、天野遠景が九州惣追捕使に補任される。
- 常盤御前の捕縛(1,186年6月24日) 感応寺で義経の母常盤御前が捕えられ、岩倉・仁和寺が捜索される。
- 比叡山・興福寺への潜伏の露見(1,186年) 五郎丸と堀景光の自白で、比叡山の僧兵と興福寺の聖弘が義経を庇護していた事が明らかになる。
- 聖弘の尋問(1,187年4月18日) 鎌倉で尋問された聖弘が義経を召し返すべきと説き、頼朝は感心して勝長寿院の供僧職を与える。
- 藤原泰衡征伐の宣旨要請(1,189年3月10日) 泰衡が藤原頼衡を殺害した後、鎌倉方が泰衡は義経の叛逆に同心しているとして、征伐の宣旨を求める。
大物浦の嵐、比叡山、興福寺──
頼朝に追われた源義経の足取りを一元化。
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