電子書籍「都落ちした源義経の逃亡劇一元化」の表紙

都落ちした源義経の逃亡劇一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,185年5月16日〜1,189年3月10日
※旧暦は全て西暦に変換しています
最新更新日
西暦2,025年12月16日

腰越状・土佐坊昌俊襲撃・頼朝追討院宣・大物浦遭難・比叡山潜伏・奥州下向──
平家追討の英雄から朝敵へ、源義経の4年間の逃亡劇を一本の時系列に貫く。

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本書について

西暦1185年5月、源頼朝が自由任官の禁止令を発し、源義経への名指しこそ避けつつも関東武士の朝廷官職就任を戒めた日から、西暦1189年3月、藤原泰衡が義経を支持していた六男藤原頼衡を殺害、鎌倉方が藤原泰衡征伐の宣旨を要請する迄。本書は、平家追討の最大の功労者から一転して朝敵と化した源義経の、約4年間に亙る逃亡劇を一本の時系列に貫き、一元化した一冊である。

西暦1185年5月、平宗盛・平清宗・平時忠を護送して鎌倉入りを目指した義経は、頼朝から満福寺に留め置かれた。6月23日、義経は満福寺で叛意の無い事を示す書簡を武蔵坊弁慶の下書きで書き、大江広元に託した(腰越状)。然し頼朝の怒りは解けず、7月3日の除目でも義経は外された。9月11日、小除目で伊予守に任官するが、側室として平時忠の娘蕨姫を迎えた事で更に頼朝の怒りを買った。9月27日、梶原景季が源行家追討命令を携えて上洛したが、義経は病気を理由に2日間の面会拒否の後、叔父行家は同じ源氏であるとして拒絶した。

西暦1185年11月2日、頼朝は義経征伐を評議し、土佐坊昌俊を周囲が辞退する中自ら引き受けさせ、9日での上洛を命じた。11月6日、義経は後白河上皇に拝謁し頼朝追討の院宣を求めた。11月10日夜、土佐坊率いる60数騎が義経の六条室町屋敷を襲撃するが、義経は自ら門を開けて応戦、駆け付けた源行家と挟み撃ちにして土佐坊を退散させた。翌11日、義経と行家は後白河上皇から頼朝征伐の院宣を受けたが、挙兵に賛同する者は殆ど無かった。11月26日、義経は200騎を率い鎮西へ向け京都を脱出。11月28日夜、摂津国大物浦から出航した船団は暴風に遭い大半が転覆、義経の船は住吉浜に打ち上げられ、残った従者は源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前の4名のみとなった。11月30日、検非違使と伊予守を罷免。12月4日、後白河上皇は頼朝征伐の院宣を撤回し、義経・行家征伐の院宣を下した。12月8日、頼朝は高階泰経の弁明書簡を投げ捨て「日本第一の大天狗が他の者で無いなどという事があろうか」と後白河上皇を糾弾、12月19日、泰経は解官・蟄居となった。12月22日、義経は南院藤室の十字坊の手配で多武峰から遠津河へ逃れた。

西暦1186年6月、義経は比叡山に入り、僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受けた。6月24日、母常盤御前と異父妹が感応寺で捕縛され、岩倉に居ると証言した。義経は6月25日頃伊勢神宮に参拝した記録も残る。7月10日頃、義経は比叡山を離れた。8月26日、五郎丸の白状により比叡山潜伏が発覚。11月2日、堀景光の捕縛により、義経が興福寺の聖弘に匿われている事が発覚、11月3日に比企朝宗が興福寺に向かうが見つけられず、聖弘は捕縛された。12月、藤原範季が義経を匿った罪で解官された。西暦1187年4月18日、聖弘は鎌倉に召し出され、頼朝との尋問で「抑今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言により其の奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、義経を召し返して水魚之交をする事が、国を治める方法というものである」と述べて頼朝を感心させ、勝長寿院の供僧職を与えられた。西暦1189年3月3日、藤原泰衡が義経支持派の六男藤原頼衡を殺害、同月10日、鎌倉方が藤原泰衡征伐の宣旨を要請した。


登場人物

  • 源義経 本書の主人公。源頼朝の異母弟。平家追討の最大の功労者でありながら、独断専行・越権行為・無断任官により頼朝の怒りを買い、西暦1185年11月に京都を脱出、以後約4年間に亙る逃亡生活を送った。大物浦の遭難、多武峰・遠津河・比叡山・興福寺への潜伏を経て、最終的に奥州平泉へ向かった。
  • 源頼朝 鎌倉幕府初代征夷大将軍。義経の異母兄。西暦1185年5月の自由任官禁止令、満福寺留置、腰越状無視、梶原景時の讒言の採用、土佐坊昌俊派遣、高階泰経書簡投げ捨てと「日本第一の大天狗」発言等、義経排除の当事者。
  • 源行家 源義経の叔父。西暦1185年9月29日、義経が梶原景季からの行家追討命令を「叔父に当たる行家は同じ源氏である」と理由の1つとして拒絶した人物。11月10日の土佐坊襲撃では駆け付けて挟み撃ちに加勢、11月11日に四国地頭に補任される院宣を受けた。
  • 武蔵坊弁慶 源義経の郎党。西暦1185年6月23日、満福寺での腰越状の下書きを書いた。11月28日の大物浦遭難後、最後まで義経の傍に残った4名の1人。
  • 佐藤忠信 源義経の郎党。西暦1185年11月10日の土佐坊昌俊による六条室町屋敷襲撃時、少ない残留部下の一人として応戦した。
  • 伊勢義盛 源義経の郎党。西暦1185年5月27日、土肥実平と共に平宗盛・平清宗・平時忠を京都へ護送。11月26日の京都脱出にも義経200騎の一員として参加した。
  • 源有綱 源義経の郎党。西暦1185年11月26日の京都脱出に参加、11月28日の大物浦遭難後、最後まで義経の傍に残った4名の1人。
  • 堀景光 源義経の郎党。西暦1185年11月26日の京都脱出に参加、11月28日の大物浦遭難後、最後まで義経の傍に残った4名の1人。西暦1186年11月2日、糟屋有季・比企朝宗により京都で捕縛され、義経が興福寺の聖弘に匿われている事と、藤原範季と度々連絡を取っていた事を白状した。
  • 静御前 源義経の妾。西暦1185年11月28日の大物浦遭難後、最後まで義経の傍に残った4名の1人。義経の逃亡劇を象徴する女性。
  • 蕨姫 平時忠の娘。源義経の側室。西暦1185年9月27日時点で既に義経の側室となっており、平家の血筋と義経の結び付きが頼朝の怒りを更に深める要因となった。
  • 常盤御前 源義経の母。西暦1186年6月24日、義経の異父妹と共に感応寺にて源頼朝の配下に捕縛され、義経は岩倉に居ると証言した。
  • 梶原景時 鎌倉幕府侍所所司。西暦1185年5月22日、義経を弾劾する書簡を頼朝に送り、10月30日には「面会を2日待たせたのは不審で、義経と行家は既に同心している」と言上。義経と頼朝の不和の中核を形成した讒言者。
  • 梶原景季 梶原景時の息子。西暦1185年9月27日、源行家追討命令を携えて上洛し、義経に面会を2日間断られ、29日に再訪で面会が実現した。
  • 土佐坊昌俊 鎌倉幕府御家人。西暦1185年11月2日、周囲が辞退する中自ら源義経討伐を引き受け、11月10日に60数騎で六条室町の義経屋敷を襲撃したが、挟み撃ちに遭い失敗、鞍馬山に逃げ込んだ後に義経の郎党に捕えられた。
  • 大江広元 源頼朝の腹心。西暦1185年6月23日、満福寺の義経から叛意の無い事を示す書簡(腰越状)を託された人物。
  • 多田行綱 摂津国の武将。西暦1185年11月27日、摂津国河尻(神崎川河口)にて源義経一行を発見し、太田頼基等と共に襲撃したが、義経達に撃退された。
  • 平宗盛 平清盛の参男。平家の事実上の最後の当主。西暦1185年5月27日、捕虜として京都の義経邸に入り、6月6日に義経により鎌倉へ護送されたが、義経の鎌倉入り拒絶後に京都に戻された。
  • 平時忠 平清盛の義弟。西暦1185年5月27日に京都の義経邸に入った捕虜の1人。娘蕨姫を義経の側室としていた為、平時忠は京都に滞在し、頼朝の怒りを買っていた。
  • 後白河上皇 治天の君。西暦1185年11月11日、源義経・源行家に対し源頼朝征伐の院宣を下したが、12月4日に此れを撤回し、逆に義経・行家征伐の院宣を下した。頼朝から「日本第一の大天狗」と糾弾された。
  • 高階泰経 後白河上皇の側近。西暦1185年12月8日、頼朝に「源義経・源行家の謀反は天魔の為す事で、其の場凌ぎで院宣を出しただけ」との弁明書簡を伝えたが、頼朝に書簡を投げ捨てられた。12月19日、長男高階経仲と共に解官・蟄居となった。
  • 十字坊 多武峰の寺院の1つ南院藤室の僧。西暦1185年12月22日、源義経を遠津河(現在の奈良県五條市)に逃す手配を行った、逃亡初期の義経庇護者。
  • 俊章・承意・仲教 比叡山の僧兵達。西暦1186年6月から7月10日頃まで源義経を比叡山にて庇護した。後に一条能保経由で、此の庇護の事実が第59代天台座主全玄と天台宗の僧慈円に報告された。
  • 聖弘 興福寺の僧。源義経の師弟の誼みを持ち、義経を興福寺に匿った人物。西暦1186年11月2日の堀景光の白状で発覚、11月3日に結城朝光の預かりとなった。西暦1187年4月18日、鎌倉で頼朝に「義経を召し返して水魚之交をする事が、国を治める方法」と述べて感心させ、勝長寿院の供僧職を与えられた。
  • 藤原範季 朝廷の公卿。源義経を匿った罪で、堀景光の白状により発覚、西暦1186年12月に源頼朝の要請で解官された。
  • 一条能保 源頼朝の義兄弟。西暦1186年8月26日に鎌倉に到着し、源義経の雑用を務めていた五郎丸が捕縛され、義経の比叡山潜伏が白状された事を報告した。
  • 大中臣公宣 神祇官。西暦1186年6月25日、源頼朝に「源義経が伊勢神宮に参拝し、現在奈良付近に潜伏中で、第44代伊勢神宮祭主大中臣能隆が義経に内通して祈祷を行った」との書簡を送った。
  • 藤原泰衡 奥州藤原氏第4代当主。藤原秀衡の弐男。西暦1189年3月3日、源義経を支持していた六男藤原頼衡を殺害、鎌倉方の義経追及の圧力に屈し、奥州藤原氏の崩壊へと向かう転機を作った人物。
  • 藤原頼衡 藤原秀衡の六男。源義経を支持していた為、西暦1189年3月3日に兄藤原泰衡に殺害された。奥州藤原氏内部の義経支持派の象徴。
  • 天野遠景 鎌倉幕府御家人。西暦1186年1月22日、源義経の探索と、鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に補任された。

主要な地名・拠点

  • 満福寺 現在の神奈川県鎌倉市腰越に所在する山内荘の寺院。西暦1185年6月6日、源義経が平宗盛・清宗を鎌倉に護送するも鎌倉入りを拒絶され留め置かれた地。6月23日、此処で武蔵坊弁慶の下書きにより叛意無き事を示す腰越状が書かれた。
  • 六条室町屋敷 源義経の京都における邸宅。西暦1185年5月27日、平宗盛等の捕虜が入った地。11月10日夜、土佐坊昌俊率いる60数騎に襲撃されたが、義経は自ら門を開け、佐藤忠信等と応戦、駆け付けた源行家と挟み撃ちで撃退した。
  • 西河辺の遊郭 現在の京都府京都市南区東九条西河辺町。西暦1185年11月10日の土佐坊昌俊襲撃時、義経の侍達が遊びに行っており警固が手薄となっていた場所。
  • 仙洞御所 二条河原(現在の京都府京都市中京区)に所在した後白河上皇の御所。西暦1185年11月6日に義経が拝謁して頼朝征伐の院宣を求め、11月11日に此の院宣を受けた地。
  • 摂津国河尻 神崎川河口(現在の兵庫県尼崎市)。西暦1185年11月27日、多田行綱・太田頼基等が源義経一行を発見し襲撃した地。義経達は駆け破って撃退した。
  • 摂津国大物浦 現在の兵庫県尼崎市。西暦1185年11月28日夜、源義経の船団が鎮西へ向けて出航した地。暴風に遭遇して大半の船が転覆、義経の逃亡劇の最大の転機となった遭難の場所。
  • 住吉浜 大物浦を出航した源義経の船が暴風に遭い打ち上げられた地。此処で義経の従者は逃げ去り、源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前の4名のみが残った、義経逃亡劇の最低点を象徴する場所。
  • 多武峰 現在の奈良県桜井市の霊場。談山神社の真向かいに所在する南院藤室の僧十字坊の手配で、西暦1185年12月22日、源義経が遠津河へ逃れる手配がなされた地。大物浦遭難後の最初の潜伏地。
  • 遠津河 現在の奈良県五條市。西暦1185年12月22日、十字坊の手配で源義経が逃れた地。
  • 比叡山 現在の滋賀県大津市・京都府京都市左京区。西暦1186年6月、源義経が入山し、僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受けた。7月10日頃に離れたが、此の潜伏は後に8月26日の一条能保の報告で発覚、比叡山全体が鎌倉方から追及を受ける事となった。
  • 岩倉 現在の京都府京都市左京区。西暦1186年6月24日、常盤御前が感応寺で捕縛された際、源義経が居ると証言した地。梶原朝景・後藤基清の捜索が行われた。
  • 伊勢神宮 西暦1186年6月25日頃、源義経が参拝したとされる地。第44代伊勢神宮祭主大中臣能隆の内通疑惑の舞台ともなった。
  • 興福寺 現在の奈良県奈良市登大路町。僧聖弘が源義経を匿った地。西暦1186年11月2日の堀景光の白状で発覚、翌3日に比企朝宗が捜索に向かったが義経は発見できず、聖弘が捕縛された。
  • 感応寺 現在の京都府京都市上京区梶井町。西暦1186年6月24日、源義経の母常盤御前と異父妹が源頼朝の配下に捕縛された地。

主要な事件・出来事

  • 自由任官禁止令 西暦1185年5月16日、源頼朝が内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東武士に対し、墨俣川以東への東下を禁じ、違反者は本領没収・斬罪とする命令書を下した。義経への名指し批判は無かったが、此の令が頼朝と義経の関係悪化の起点となった。
  • 梶原景時の義経弾劾書簡 西暦1185年5月22日、梶原景時が源頼朝に「源義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と義経を弾劾する書簡を送った。義経と頼朝の不和に決定的影響を与えた讒言の開始。
  • 満福寺留置と腰越状 西暦1185年6月6日、源義経が平宗盛・清宗を護送して鎌倉入りを目指したが頼朝に拒絶され、満福寺に留め置かれた。6月23日、武蔵坊弁慶の下書きにより叛意無き事を示す書簡を書き、大江広元に託した。此れが後世「腰越状」として知られる有名な嘆願書。
  • 頼朝の怒りの要因の明文化 義経が頼朝の怒りを買った要因は、①内挙を得ずに朝廷の官職に就いた事、②軍監梶原景時の意見を聞かず独断専行で事を進めた事、③源範頼の管轄である九州への越権行為、配下の東国武士に対する専横的振る舞い──の3点であった。西国武士を率いての平家滅亡の戦功が、頼朝に従う東国武士達の戦功の機会を奪う結果となった事も、東国御家人達の不満を噴出させた。
  • 除目からの排除 西暦1185年7月3日、朝廷の除目で源頼朝が推薦した7名の中に源義経は入っていなかった。9月11日の小除目で伊予守に任官するが、其の時期には既に蕨姫との関係もあり、頼朝の怒りは解けなかった。
  • 義経の行家追討拒絶 西暦1185年9月27日〜29日、梶原景季・小野成尋が源行家追討命令を携えて上洛、義経は2日間の面会拒否の後、①病である②叔父行家は同じ源氏である──との2点を理由に拒否した。10月30日、鎌倉へ帰参した梶原景季の報告を受けた父景時が「義経と行家は既に同心している」と言上、義経征伐の決定的要因となった。
  • 土佐坊昌俊襲撃事件 西暦1185年11月2日、頼朝の評議で義経征伐が決定、土佐坊昌俊が周囲辞退の中自ら引き受けて9日で上洛を指示された。11月10日夜、60数騎で六条室町屋敷を襲撃。然し義経側は自ら門を開け、佐藤忠信等と応戦、駆け付けた源行家と挟み撃ちで撃退した。土佐坊達は鞍馬山に逃げ込んだ後、義経の郎党に捕えられた。
  • 頼朝追討院宣 西暦1185年11月11日、源義経(九国地頭に補任)と源行家(四国地頭に補任)が後白河上皇から源頼朝征伐の院宣を受けた。但し義経は挙兵したものの、賛同する者は殆ど無かった。
  • 京都脱出 西暦1185年11月26日早朝、源義経が甲冑を身に纏い、源行家・緒方惟栄・平時実・一条能成・源有綱・堀景光・佐藤忠信・伊勢義盛・片岡常春・武蔵坊弁慶と共に200騎を率い鎮西へ向け京都を脱出した。逃亡劇の公式な開始。
  • 大物浦の遭難 西暦1185年11月28日夜、源義経の船団が摂津国大物浦から鎮西へ向け出航したが、暴風に遭遇し大半の船が転覆。義経の船は住吉浜に打ち上げられ、従者は逃げ去り、残ったのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前の4名のみ。義経一行は此の日天王寺周辺に宿泊した。義経の逃亡劇の最大の転機であり、以後は本格的な潜伏生活が始まる。
  • 官職罷免と院宣撤回 西暦1185年11月30日、源義経が検非違使と伊予守の官職を罷免された。12月4日、後白河上皇が11月11日の源頼朝征伐の院宣を撤回し、逆に源義経・源行家征伐の院宣を下した。朝敵としての地位の確定。
  • 日本第一の大天狗発言 西暦1185年12月8日、高階泰経の使者が源頼朝に「源義経・源行家の謀反は天魔の為す事で、其の場凌ぎで院宣を出しただけ」との弁明書簡を届けたが、頼朝は書簡を投げ捨て「日本第一の大天狗が他の者で無いなどという事があろうか」と後白河上皇自身を糾弾した。12月19日、泰経は長男高階経仲と共に解官・蟄居。
  • 多武峰・遠津河への逃亡 西暦1185年12月22日、多武峰の寺院の1つ南院藤室の僧十字坊の手配により、源義経が遠津河へ逃れた。大物浦遭難後の具体的な潜伏経路の始まり。
  • 九州惣追捕使の設置 西暦1186年1月22日、源義経の探索と、鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に九州惣追捕使が創設され、天野遠景が補任された。義経の西国逃亡路を塞ぐ組織的措置。
  • 比叡山潜伏 西暦1186年6月、源義経が比叡山に入り、僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受けた。7月10日頃に離れたが、8月26日の一条能保の報告により発覚、9月1日には後白河上皇が延暦寺東塔・西塔・横川に対し直ちに捕縛する様命じた。3名の僧兵が差し出されたが、義経の行方は掴めなかった。
  • 常盤御前の捕縛 西暦1186年6月24日、源義経の母常盤御前が、義経の異父妹と共に感応寺にて源頼朝の配下に捕縛された。常盤御前は義経は岩倉に居ると証言した。逃亡中の義経への人質的圧力の象徴的事件。
  • 堀景光の捕縛と聖弘の発覚 西暦1186年11月2日、堀景光が京都にて糟屋有季・比企朝宗により捕縛され、①源義経が興福寺にて聖弘によって匿われている、②自身が使者として藤原範季と度々連絡を取っていた──の2点を白状した。11月3日、比企朝宗が興福寺を捜索したが義経は見付けられず、聖弘は捕縛され結城朝光の預かりとなった。
  • 藤原範季の解官 西暦1186年12月、藤原範季が源義経を匿った罪で源頼朝の要請により解官された。朝廷内部の義経支援者への粛清の実例。
  • 聖弘の尋問と赦免 西暦1187年4月18日、聖弘が鎌倉に召し出され、頼朝から源義経を匿った事に関する尋問を受けた。聖弘は「抑今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言により其の奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、義経を召し返して水魚之交をする事が、国を治める方法というものである」と答え、頼朝を感心させ、勝長寿院の供僧職を与えられ関東繁栄の祈祷を行う様命じられた。義経庇護者への異例の寛大処置。
  • 奥州下向と藤原頼衡殺害 西暦1189年3月3日、藤原泰衡が源義経を支持していた藤原秀衡の六男藤原頼衡を殺害した。同月10日、鎌倉方が、藤原泰衡が源義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、藤原泰衡征伐の宣旨を要請した。本書の末尾は、奥州藤原氏崩壊の序章と、義経の最後の逃亡地となる奥州平泉への道程を示唆する形で閉じられる。

腰越状・土佐坊昌俊襲撃・頼朝追討院宣・大物浦遭難・比叡山潜伏・奥州下向──
平家追討の英雄から朝敵へ、源義経の4年間の逃亡劇を一冊に。

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石田晋一

歴史データベース「一元化」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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