電子書籍「都落ちした源義経の逃亡劇一元化」の表紙

都落ちした
源義経の逃亡劇一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,185年5月16日〜1,189年3月10日
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
8ページ
最新更新日
西暦2,026年8月6日

腰越の門は開かれず、大物浦の船は沈んだ──
源義経が都を落ちてから消える迄の四年を一元化。

JPY 200(税込)

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本書について

西暦1,185年5月16日、源頼朝は自由任官の禁止令に違反し、内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東の武士に対して、朝廷での勤仕を罵り、墨俣川(現在の長良川)以東への東下を禁じる命令書を下した。破った者は本領を没収し斬罪に処する、とまで言う。頼朝の異母弟である源義経も任官を受けていたが、名指しでの批判は無かった——只、6日後の5月22日、頼朝は侍所所司梶原景時から「源義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」という弾劾の書簡を受け取っている。本書は、此処から西暦1,189年3月10日、鎌倉方が藤原泰衡征伐の宣旨を要請する迄の四年を、年月日単位で一元化した記録である。

6月6日、義経は壇ノ浦(現在の山口県下関市みもすそ川町)で捕縛した平宗盛・平清宗を護送して鎌倉へ向かうが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛・清宗のみを鎌倉に入れ、義経は山内荘の満福寺(現在の神奈川県鎌倉市腰越)に留め置かれた。頼朝の怒りの要因は3つ——内挙を得ずに官職に就いた事、軍監として仕えていた梶原景時の意見を聞かず独断専行した事、そして壇ノ浦の後に源範頼の管轄である九州へ越権行為をし、配下の東国武士達の僅かな過ちも咎め立てして勝手に成敗した事である。西国武士を率いて平家を滅ぼした多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従う東国武士達から戦功の機会を奪い、鎌倉政権の基盤である東国御家人達の不満を噴出させていた。6月23日、義経は満福寺で叛意の無い事を示す書簡を書き、頼朝の腹心大江広元に託す。下書きは武蔵坊弁慶が書き、義経が筆入れを行った。だが7月3日の除目で頼朝が推薦した7名の中に義経の名は無く、7月7日には帰洛を命じられる。鎌倉を発つに当たり、義経は「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。

9月11日の小除目では、頼朝の申し入れにより義経も伊予守に叙位任官される。しかし9月27日の時点で義経は平時忠の娘蕨姫を側室としており、其の縁で時忠が京都に滞在している事が頼朝の怒りを買っていた。同じ9月27日、梶原景季と小野成尋が上洛する。目的の1つは、義経が源行家を支援しているという情報の真偽の確認と、行家追討の命を伝える事であった。景季は病を理由に面会を断られ、9月29日に漸く会えた義経は憔悴した姿で現れ、病である事と、行家が叔父に当たる同じ源氏である事を理由に追討を拒否した。10月30日に鎌倉へ帰参した景季の報告を聞いた父景時は「面会を2日待たせたのは不審である。食を断って衰弱して見せたのに相違なく、義経と行家は既に同心している」と言上する。

11月2日、頼朝等は義経征伐の評議を行い、土佐坊昌俊の京都派遣を決定した。周囲が辞退する中、土佐坊は進んで引き受けて頼朝から褒詞を賜り、9日で上洛する様指示を受ける。同日、弟三上家季・錦織三郎・門真太郎・藍澤二郎を含む83騎が鎌倉を発った。11月6日、義経は後白河上皇に拝謁して頼朝征伐の院宣を求める。そして11月10日の夜、土佐坊は60数騎を率いて六条室町の義経邸を襲撃した。義経の侍達は西河辺(現在の京都府京都市南区東九条西河辺町)の遊郭へ遊びに行っており警固は手薄であったが、義経側は自ら門を開け、佐藤忠信等の残っていた少ない部下と共に応戦する。騒ぎを聞き付けた源行家も駆け付けて後ろから加勢し、土佐坊達は挟み撃ちにされて退散した。義経は直ちに仙洞御所へ赴いて一部始終を報告し、鞍馬山(現在の京都府京都市左京区)に逃げ込んだ土佐坊達も、後に義経の郎党に捕えられた。

11月11日、義経は九国地頭、行家は四国地頭に補任され、共に後白河上皇から頼朝征伐の院宣を受ける。だが義経が挙兵しても、賛同する者は殆どいなかった。11月15日に土佐坊の失敗と院宣の件を知った頼朝は、11月18日に先遣隊の御家人を、11月22日には自ら千葉常胤・土肥実平を従えて京都へ向けて鎌倉を発つ。11月26日早朝、義経は甲冑を身に纏い、源行家・緒方惟栄・平時実・一条能成・源有綱・堀景光・佐藤忠信・伊勢義盛・片岡常春・武蔵坊弁慶と共に、200騎を率いて鎮西へ向けて京都を脱出した。翌27日、摂津国河尻(神崎川河口・現在の兵庫県尼崎市)で多田行綱が一行を発見し、摂津国太田城主太田頼基等と共に襲撃するが、義経達は駆け破って之を撃退する。

11月28日の夜、義経の船団は摂津国大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から出航した。しかし暴風に遭い、大半の船が転覆する。義経の船は住吉浜に打ち上げられたが従者は逃げ去り、残ったのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前の4名のみであった。一行は其の日、天王寺周辺に宿泊している。29日には遭難の噂が京都に広まり、九条兼実は「可哀相だが、天下にとって大慶」という主旨の発言をした。11月30日、義経は検非違使と伊予守の官職を罷免される。12月1日、黄瀬川で都落ちの報告を受けた頼朝は上洛を中止し、藤原重弘と昌寛を京都へ派遣して鎌倉へ引き返した。12月4日、後白河上皇は11月11日の院宣を撤回し、逆に義経・行家征伐の院宣を下す。12月8日には高階泰経の使者が鎌倉に至り、院宣は自殺すると脅されての其の場凌ぎであったと弁明したが、頼朝は書簡を投げ捨て「よって日本第一の大天狗が他の者で無いなどという事があろうか」と言い放った。12月19日、泰経と長男の高階経仲は解官・蟄居となる。そして12月22日、義経は多武峰の南院藤室の僧十字坊の手配により、遠津河(現在の奈良県五條市)へ逃れた。

西暦1,186年1月22日、義経の探索と鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に、天野遠景が補任される。6月頃、義経は比叡山に入った。6月24日には母常盤御前が異父妹と共に感応寺で捕縛され、義経は岩倉に居ると証言する。梶原朝景・後藤基清等が岩倉や仁和寺を捜索するも見付からず、比叡山に居るという情報を掴んだ。6月25日、頼朝は神祇官大中臣公宣から、義経が伊勢神宮に参拝し奈良付近に潜伏中である事、第44代伊勢神宮祭主大中臣能隆が内通して祈祷を行った事を報せる書簡を受け取るが、公宣と能隆が祭主の座を巡って争った経緯から、内通の件には懐疑的であった。義経は7月10日頃に比叡山を出発しており、8月26日には雑用を務めていた五郎丸の白状によって、僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受けて潜伏していた事が露見する。9月1日、後白河上皇の命で延暦寺東塔・西塔・横川に捕縛が命じられ、僧兵3名が差し出されたが行方は掴めなかった。11月2日、堀景光が糟屋有季・比企朝宗に捕縛され、義経が興福寺で聖弘に匿われている事を白状する。翌3日に比企が聖弘の屋敷を訪れたが義経は見付からず、聖弘のみが捕縛された。12月には、義経を匿ったとして藤原範季が解官されている。

西暦1,187年4月18日、聖弘は鎌倉に召し出され、頼朝から尋問を受けた。天下の人々が皆義経に従わないでいるのに何故祈祷を行うのか——其の問いに聖弘は、師弟の誼みで迎え入れたのであり、祈祷は義経を諫めて逆心を宥めるものである、と答える。更に、今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言によって其の奉公を忘れ恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然で、義経を召し返して水魚之交をする事こそ国を治める方法である、と述べた。此の態度に感心した頼朝は、聖弘に勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じている。そして西暦1,189年3月3日、藤原泰衡が義経を支持していた藤原秀衡の六男藤原頼衡を殺害し、3月10日、鎌倉方は泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、藤原泰衡征伐の宣旨を要請した——本書は、逃げ場が奥州ただ一つに絞られる其の日までを、一冊に束ねている。


登場人物

  • 源義経 本書の中心人物。源頼朝の異母弟。壇ノ浦で平家を滅ぼした戦功の一方、内挙を得ぬ任官・梶原景時の意見を退けた独断専行・九州への越権行為等により頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを拒まれて満福寺に留め置かれた。後白河上皇から頼朝征伐の院宣を得るも賛同者は殆ど無く、西暦1,185年11月26日に200騎を率いて京都を脱出。大物浦で遭難した後は、遠津河・比叡山・興福寺と潜伏を重ねた。
  • 源頼朝 鎌倉方の首魁。自由任官の禁止令を発し、義経を除目から外し、土佐坊昌俊を刺客として送り、自ら追討の軍を率いて鎌倉を発った。高階泰経の弁明の書簡を投げ捨てて「日本第一の大天狗」と言い放った事でも知られる。一方、聖弘の弁論には感心して勝長寿院の供僧職を与えている。
  • 源行家 義経の叔父。頼朝から追討を命じられた対象であり、義経は叔父かつ同じ源氏である事を理由に其の追討を拒んだ。土佐坊昌俊の夜襲では駆け付けて後ろから加勢し、挟み撃ちを成立させた。西暦1,185年11月11日、四国地頭に補任され義経と共に頼朝征伐の院宣を受けた。
  • 武蔵坊弁慶 義経の郎党。満福寺で頼朝に宛てた書簡の下書きを担当し、義経が其れに筆入れを行った。京都脱出にも同行し、大物浦の遭難の後に残った僅か4名の従者の1人となった。
  • 佐藤忠信 義経の郎党。西暦1,185年11月10日夜の土佐坊昌俊による六条室町屋敷襲撃の際、警固が手薄な中で残っていた少ない部下と共に応戦した。京都脱出にも同行した。
  • 伊勢義盛 義経の郎党。土肥実平と共に平宗盛等の捕虜を警護して京都へ護送した。西暦1,185年11月26日の京都脱出にも同行している。
  • 源有綱 義経に同行した武将。京都脱出に加わり、大物浦の遭難で船が住吉浜に打ち上げられた後も逃げ去らず、残った4名の従者の1人となった。
  • 堀景光 義経の側近。京都脱出に同行し、大物浦の遭難後も残った4名の1人。西暦1,186年11月2日に糟屋有季・比企朝宗に捕縛され、義経が興福寺で聖弘に匿われている事と、自身が使者として藤原範季と度々連絡を取っていた事を白状した。
  • 静御前 義経に従った女性。大物浦の遭難で大半の船が転覆し従者の多くが逃げ去った後、住吉浜に残った4名の1人として名を連ねている。
  • 蕨姫 平時忠の娘。西暦1,185年9月27日の時点で義経の側室であった。此の縁で時忠が京都に滞在していた事が、頼朝の怒りを買う一因となった。
  • 常盤御前 義経の母。西暦1,186年6月24日、義経の異父妹と共に感応寺で頼朝の配下に捕縛された。義経は岩倉に居ると証言したが、捜索は空振りに終わり、実際には比叡山に居るという情報が後に掴まれた。
  • 梶原景時 侍所所司。平家追討に当たり軍監として頼朝に仕えたが、義経は其の意見を聞かなかった。西暦1,185年5月22日、義経が追討の功を独占しているとする弾劾の書簡を頼朝に送る。息子景季の報告に対しては、面会を2日待たせた不審を挙げ、義経は食を断って衰弱を装ったに相違なく行家と既に同心していると言上した。
  • 梶原景季 梶原景時の子。西暦1,185年9月27日に小野成尋と共に上洛し、勝長寿院の供養の道具の入手、平氏残党の配流の促進、義経と行家の関係の確認、行家追討の命の伝達を担った。9月29日に義経と面会したが追討を拒否され、10月30日に鎌倉へ帰参して報告した。
  • 土佐坊昌俊 頼朝が義経征伐の為に京都へ派遣した武士。周囲が辞退する中を進んで引き受け、9日での上洛を指示された。西暦1,185年11月10日夜に60数騎で六条室町の義経邸を襲撃したが、行家の加勢による挟み撃ちに遭って退散し、鞍馬山に逃げ込んだ後、義経の郎党に捕えられた。
  • 大江広元 頼朝の腹心。西暦1,185年6月23日、満福寺に留め置かれた義経が叛意の無い事を示して書いた書簡を託された人物。
  • 多田行綱 西暦1,185年11月27日、摂津国河尻で京都を脱出した義経一行を発見し、摂津国太田城主太田頼基等と共に襲撃した武将。行手を阻んで矢を射たが、義経達に駆け破られて撃退された。
  • 平宗盛 壇ノ浦で義経に捕縛された平家の総帥。長男清宗と共に京都へ護送された後、鎌倉へ送られたが、義経の鎌倉入りが許されぬ中で宗盛・清宗のみが鎌倉に入った。西暦1,185年7月7日、義経等と共に帰洛を命じられ、橘公長・宇佐美実政に護送された。
  • 平時忠 壇ノ浦で捕縛され京都へ護送された捕虜の1人。娘の蕨姫が義経の側室であった縁で京都に滞在し、其の事が頼朝の怒りを買った。
  • 後白河上皇 西暦1,185年11月11日、義経を九国地頭、行家を四国地頭に補任して頼朝征伐の院宣を下した。だが12月4日には其の院宣を撤回し、逆に義経・行家征伐の院宣を下している。西暦1,186年9月1日には公卿に義経捕縛を協議させ、比叡山の末寺・荘園に捕縛を命じた。
  • 高階泰経 院近臣。西暦1,185年12月8日、頼朝征伐の院宣は義経・行家に脅されての其の場凌ぎであったと弁明する書簡を鎌倉へ送ったが、頼朝は之を投げ捨てた。12月19日、長男で右馬頭の高階経仲と共に解官・蟄居となった。
  • 十字坊 多武峰の寺院の1つで、談山神社の真向かいに所在する南院藤室の僧。西暦1,185年12月22日、義経が遠津河へ逃れる手配をした人物。
  • 俊章・承意・仲教 比叡山の僧兵。西暦1,186年7月10日頃まで、比叡山に潜伏する義経を庇護していた。五郎丸の白状によって其の事実が露見した。
  • 聖弘 興福寺の僧。西暦1,186年、義経を匿っていた事が堀景光の白状で発覚し捕縛され、結城朝光の下に預けられた。西暦1,187年4月18日の頼朝の尋問には、師弟の誼みによる庇護であり、祈祷は義経の逆心を宥めるものであると答え、更に義経を召し返して水魚之交をする事こそ国を治める方法であると説いた。頼朝は感心し、勝長寿院の供僧職を与えた。
  • 藤原範季 公家。堀景光が使者として度々連絡を取っていた相手。西暦1,186年12月、義経を匿ったという理由により、頼朝の要請で解官された。
  • 一条能保 頼朝が除目で推薦した1人(讃岐守)。高階泰経の使者が鎌倉に到着した際には、其の書簡を頼朝へ取り次いだ。西暦1,186年8月26日に鎌倉へ到着し、五郎丸の白状によって明らかとなった義経の比叡山潜伏の経緯を報告している。
  • 大中臣公宣 神祇官。西暦1,186年6月25日、義経が伊勢神宮に参拝した事、奈良付近に潜伏中である事、第44代伊勢神宮祭主大中臣能隆が内通して祈祷を行った事を頼朝に報せた。もっとも頼朝は、公宣と能隆が祭主の座を巡って争った経緯から内通の件には懐疑的であった。
  • 藤原泰衡 奥州藤原氏の当主。西暦1,189年3月3日、義経を支持していた藤原秀衡の六男藤原頼衡を殺害した。3月10日、鎌倉方は泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、泰衡征伐の宣旨を要請した。
  • 藤原頼衡 藤原秀衡の六男。義経を支持していた為、西暦1,189年3月3日に藤原泰衡に殺害された。
  • 天野遠景 西暦1,186年1月22日、義経の探索と鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に補任された御家人。

主要な地名・拠点

  • 満福寺 山内荘に在る寺(現在の神奈川県鎌倉市腰越)。鎌倉入りを許されなかった義経が留め置かれた地であり、西暦1,185年6月23日、頼朝への叛意が無い事を示す書簡が此処で書かれた。
  • 六条室町屋敷 義経の京都の屋敷。西暦1,185年11月10日夜、土佐坊昌俊が60数騎を率いて襲撃した場所。侍達が遊郭に出払って警固は手薄だったが、義経側は自ら門を開けて応戦した。
  • 西河辺の遊郭 現在の京都府京都市南区東九条西河辺町。土佐坊昌俊の襲撃の夜、義経の侍達が遊びに行っていた場所。屋敷の警固が手薄になる原因となった。
  • 仙洞御所 二条河原(現在の京都府京都市中京区)に在る後白河上皇の御所。土佐坊の襲撃を撃退した義経が直ちに赴き、一部始終を報告した場所。
  • 摂津国河尻 神崎川河口(現在の兵庫県尼崎市)。西暦1,185年11月27日、多田行綱が京都を脱出した義経一行を発見し、太田頼基等と共に襲撃した地。義経達は之を駆け破って撃退した。
  • 摂津国大物浦 現在の兵庫県尼崎市。西暦1,185年11月28日の夜、義経の船団が鎮西を目指して出航した港。出航後に暴風へ遭遇し、大半の船が転覆した。
  • 住吉浜 大物浦を出航した義経の船が、暴風の末に打ち上げられた浜。従者の多くは此処で逃げ去り、残ったのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前の4名のみであった。
  • 多武峰 南院藤室の僧十字坊が居た地。談山神社の真向かいに所在する此の寺院の手配により、西暦1,185年12月22日、義経は遠津河へ逃れた。
  • 遠津河 現在の奈良県五條市。西暦1,185年12月22日、十字坊の手配によって義経が逃れた先。都落ち後の潜伏の最初の地となった。
  • 比叡山 現在の滋賀県大津市・京都府京都市左京区。西暦1,186年6月頃に義経が入り、僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受けて7月10日頃まで潜伏した地。9月1日には後白河上皇の命で延暦寺東塔・西塔・横川に捕縛が命じられた。
  • 岩倉 現在の京都府京都市左京区。捕縛された常盤御前が、義経の居場所として証言した地。梶原朝景・後藤基清等が仁和寺と共に捜索したが、義経は見付からなかった。
  • 伊勢神宮 西暦1,186年6月25日、神祇官大中臣公宣の書簡により、義経が参拝した事が頼朝に報された地。第44代祭主大中臣能隆が義経に内通して祈祷を行ったとも伝えられたが、頼朝は之に懐疑的であった。
  • 興福寺 現在の奈良県奈良市登大路町。堀景光の白状により、義経が聖弘に匿われている事が明らかとなった寺。西暦1,186年11月3日に比企朝宗が聖弘の屋敷を訪れたが、義経を見付ける事は出来なかった。
  • 感応寺 現在の京都府京都市上京区梶井町。西暦1,186年6月24日、義経の母常盤御前が義経の異父妹と共に頼朝の配下に捕縛された寺。

主要な事件・出来事

  • 自由任官の禁止令 西暦1,185年5月16日、頼朝が内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東の武士へ下した命令書。朝廷での勤仕を罵り、墨俣川以東への東下を禁じ、破った者は本領没収・斬罪とした。義経も任官を受けていたが、名指しでの批判は無かった。
  • 梶原景時の義経弾劾書簡 西暦1,185年5月22日、侍所所司梶原景時が頼朝に送った書簡。義経が追討の功を自身一人の物としていると弾劾した。頼朝と義経の関係が公に軋み始める起点。
  • 満福寺留置と書簡 西暦1,185年6月6日、平宗盛・平清宗を護送した義経は鎌倉入りを許されず満福寺に留め置かれた。6月23日、叛意が無い事を示す書簡を書き、大江広元に託した。下書きは武蔵坊弁慶が書き、義経が筆入れを行った。
  • 頼朝の怒りの3要因 内挙を得ぬ任官、軍監梶原景時の意見を聞かぬ独断専行、そして壇ノ浦の後に源範頼の管轄である九州へ越権し東国武士達を勝手に成敗した専横。義経の戦功は東国武士達から恩賞の機会を奪い、鎌倉政権の基盤である東国御家人の不満を噴出させた。
  • 除目からの排除 西暦1,185年7月3日の除目で、頼朝が推薦したのは平頼盛・平光盛・平保業・一条能保・源範頼・源広綱・大内義信の7名であり、義経は外された。7月7日には帰洛を命じられ、鎌倉を発つに当たり「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と発言した。
  • 小除目での伊予守任官 西暦1,185年9月11日、頼朝の申し入れにより義経を含む6名が叙位任官を受けた。義経は伊予守。しかし11月30日には検非違使と共に此の官職も罷免される事となる。
  • 義経の行家追討拒絶 西暦1,185年9月29日、梶原景季の要請に対し、義経は病である事と、行家が叔父に当たる同じ源氏である事の2点を理由に追討を拒否した。憔悴した姿で現れた事について、景時は後に「食を断って衰弱して見せたのに相違ない」と言上している。
  • 土佐坊昌俊襲撃事件 西暦1,185年11月10日夜、土佐坊昌俊が60数騎で六条室町の義経邸を襲撃した事件。義経側は自ら門を開けて応戦し、駆け付けた源行家の加勢で挟み撃ちにして撃退した。土佐坊達は鞍馬山に逃げ込んだが、後に義経の郎党に捕えられた。
  • 頼朝征伐の院宣 西暦1,185年11月11日、義経が九国地頭、行家が四国地頭に補任され、共に後白河上皇から頼朝征伐の院宣を受けた。しかし義経が挙兵しても賛同する者は殆どおらず、11月15日に之を知った頼朝は追討軍を発した。
  • 京都脱出 西暦1,185年11月26日早朝、甲冑を身に纏った義経が、源行家・緒方惟栄・平時実・一条能成・源有綱・堀景光・佐藤忠信・伊勢義盛・片岡常春・武蔵坊弁慶と共に200騎を率い、鎮西へ向けて京都を脱出した。
  • 大物浦の遭難 西暦1,185年11月28日夜、摂津国大物浦を出航した義経の船団が暴風に遭い、大半の船が転覆した。義経の船は住吉浜に打ち上げられ、従者の多くは逃げ去り、残ったのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前の4名。一行は天王寺周辺に宿泊した。
  • 官職罷免と院宣の撤回 西暦1,185年11月30日、義経は検非違使と伊予守の官職を罷免された。12月4日には後白河上皇が11月11日の頼朝征伐の院宣を撤回し、逆に義経・行家征伐の院宣を下した。
  • 日本第一の大天狗発言 西暦1,185年12月8日、高階泰経の使者が「院宣は脅されての其の場凌ぎであった」と弁明する書簡を鎌倉へ届けた。頼朝は之を投げ捨て、天魔の仕業とするのは根拠が無いと退けた上で「よって日本第一の大天狗が他の者で無いなどという事があろうか」と発言した。
  • 九州惣追捕使の設置 西暦1,186年1月22日、義経の探索と鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に創設された職。天野遠景が補任された。逃亡者の捜索が、そのまま鎌倉の支配を西へ伸ばす手段となった。
  • 常盤御前の捕縛 西暦1,186年6月24日、義経の母常盤御前が異父妹と共に感応寺で捕縛された。義経は岩倉に居ると証言したが、梶原朝景・後藤基清等の捜索は空振りに終わり、比叡山に居るという情報が掴まれた。
  • 比叡山潜伏の露見 西暦1,186年8月26日、義経の雑用を務めていた五郎丸の白状により、義経が僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受け、7月10日頃まで比叡山に潜伏していた事が明らかとなった。9月1日には延暦寺東塔・西塔・横川に捕縛が命じられたが、行方は掴めなかった。
  • 堀景光の捕縛と聖弘の尋問 西暦1,186年11月2日、堀景光が捕縛され、義経が興福寺で聖弘に匿われている事を白状した。翌年4月18日、鎌倉に召し出された聖弘は、義経を召し返して水魚之交をする事こそ国を治める方法であると説き、頼朝は其の態度に感心して勝長寿院の供僧職を与えた。

遠津河から比叡山、そして興福寺へ──
源義経が身を隠し続けた四年の全過程を一元化。

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石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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