鹿児島藩の
琉球王国侵攻
一元化
島津義久の尚寧王宛上洛要請書簡と使節派遣遅延・島津忠恒の朝鮮出兵負担金要求と琉球の半額借金未返済・徳川家康宛9条の琉球侵攻願い出・大慈寺僧龍雲派遣と謝名利山の罵辱・山川港3,000名100隻集結と樺山久高総大将平田増宗副大将出港・奄美大島笠利湾全面協力・徳之島湾屋島民1,000名棍棒竹槍抵抗と鹿児島藩鉄砲50名殺害・加計呂麻島秋徳上陸と佐武良兼射殺・徳之島平等所守備隊砲撃と与那原朝智捕縛・運天港到着・菊隠宗意船上講和交渉と那覇進軍・今帰仁城落城・読谷攻略・首里城占拠と尚寧王和睦申し入れ開城接収・崇元寺面会と薩摩出頭要求・那覇港100余名使節団出発と薩摩到着・徳川家康による琉球下賜と検地開始・駿府城徳川家康面会と直衣上座迎接・具志頭朝盛死去と清見寺埋葬・江戸城徳川秀忠謁見と琉球国家存続命令・薩摩帰着・検地終了・113,041石分割と89,086石宛行50,000石蔵入地と23,955石道之島鹿児島藩領・芭蕉布3,000反等9種貢納・掟十五条発令・忠恒宛起請文への謝名利山久米村署名拒否と島津義弘命川上泰助斬首・読谷山盛韶第3代丑日番法司就任・島津宛起請文6名署名・尚寧王一行琉球帰国──
「琉球は古来島津氏の附庸国であり」──書簡の遅延を口実に始まり起請文の歴史改竄で結ばれた21年余りを一冊に。
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本書について
西暦1590年9月19日、島津義久が第7代琉球王国第二尚氏王統尚寧王に対して上洛と豊臣秀吉の関東平定を祝する書簡を送った日から、西暦1611年11月23日、薩摩での仕置を受けた尚寧王一行が琉球王国へ帰国した日まで。本書は、鹿児島藩が琉球王国に侵攻し、第二尚氏王統を島津家の附庸国として組み込むまでの全工程を、義久の上洛要請から尚寧王の帰国まで月日単位で時系列に一元化した電子書籍です。本書の核となるのは、1609年3月11日の山川港集結から同年8月6日の徳川家康による琉球下賜まで僅か5ヶ月の侵攻本体と、1610年4月11日から12月24日までの尚寧王の駿府・江戸謁見、そして1611年10月24日に発令された琉球領地113,041石の分割・掟十五条・「琉球は古来島津氏の附庸国であり」と史実と異なる主旨を書き込ませた島津忠恒宛起請文を中心とする一連の事件群——です。1590年の上洛要請の遅延を口実に立て、1605年の侵攻願い出で9条の理由を並べ、1611年の起請文で歴史を書き換えた21年余りを一冊に束ねます。
西暦1590年9月19日、島津義久は尚寧王に対して上洛と豊臣秀吉の関東平定を祝する言葉、公式儀礼船である綾舟と管弦楽団を贈る様促す主旨の書簡を送りましたが、琉球使節派遣は遅延し、後の1609年に島津家の琉球侵攻を正当化する要因となりました。1591年、初代鹿児島藩主島津忠恒は豊臣秀吉の命令と称し琉球王国に①朝鮮侵略の軍役②兵糧米③名護屋城建築の負担金を要求しましたが、琉球は要求の半分だけを調達して送り、残り半分は島津家から借りて納め、其の返済をしませんでした。1605年、鹿児島藩は徳川家康に対し琉球侵攻を願い出ます——①関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に加担した背景から徳川幕府の信頼を得て自藩の立場を有利にする、②度重なる戦乱で行き詰まった財政を琉球貿易で立て直し南西諸島を自分の領土にする、③琉球を通じて明と貿易を行う、④自藩の領地を拡張する、⑤分散していた島津氏の権力を藩主島津忠恒の下に纏める、⑥1590年に因幡の亀井茲矩が豊臣秀吉の許可を得て3,500名の兵で琉球征伐を企てた際に島津が中止させた事への恩を忘れている、⑦秀吉の朝鮮出兵で薩摩が肩代わりした負担金を返済しなかった、⑧創立当初の徳川幕府への献上を勧めても応じなかった、⑨1602年の伊達政宗領内に琉球船が漂着した件で乗員を保護し薩摩を通じて帰国させたが礼を欠いた——以上9条を理由として並べました。1608年9月、島津忠恒は徳川家康・徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞き、大慈寺の僧龍雲を遣わせて尚寧王・謝名利山・初代巳日番の法司浦添朝師・第4代酉日番の法司名護良豊の4名に対し必ず朝聘するよう求めましたが、謝名は聴従せず龍雲を罵り辱めました。
西暦1609年3月11日、琉球征伐の為、樺山久高を総大将・平田増宗を副大将とする鹿児島藩士3,000名・藩船100隻が山川港に集結し、4月8日に島津忠恒一行が山川港を出港、4月11日に奄美大島の笠利湾に到着しました——奄美大島の首脳は鹿児島藩に全面協力する意向を示し戦闘は起きませんでした。4月20日、軍船13隻が徳之島に到着し其の内8隻が湾屋に入港すると島民1,000名が棍棒や竹槍で戦闘を挑み、鹿児島藩は鉄砲を用い島民50名を殺害するも無傷では済みませんでした。4月24日、加計呂麻島秋徳に上陸した3隻に対し東之主の息子で掟役の佐武良兼と弟思呉良兼が竹槍や煮え滾った粥で戦う島民を率いて抵抗するも、佐武良兼は射殺され加計呂麻島側は6名の死者を出して制圧されました。4月26日、徳之島の在徳之島平等所にいた琉球守備隊が鹿児島藩兵を砲撃するも応戦され山中に逃げ込み、鹿児島藩の山狩りで名護良豊の甥で守備隊のトップ番衆主取与那原朝智が捕らえられました。4月29日夕方、島津忠恒一行は運天港に到着、4月30日に尚寧王が和睦の使者として第18代円覚寺住職菊隠宗意を指名し、菊隠は名護良豊・喜安と共に船上で講和交渉に当たるも鹿児島藩は其の儘那覇へ進軍、5月1日に第一目標の今帰仁城を落城させ、5月3日に読谷を攻略、5月4日に首里城を占拠、5月8日に尚寧王の和睦申し入れにより首里城が開城・接収されました。5月19日、尚寧王は歴代国王を祀った崇元寺で樺山久高・平田増宗と面会し自ら薩摩に来る様求められ、6月16日に具志頭朝盛・菊隠宗意・第22代円覚寺住職恩叔宗沢・喜安を含む100名余りの使節団を連れて那覇港を発ち、6月23日に薩摩に到着、8月6日には徳川家康が琉球征服の軍功として琉球王国を島津忠恒に与え仕置を命じ、其の後鹿児島藩による琉球領地への検地が始まりました。
西暦1610年4月11日、尚寧王一行は島津忠恒に伴われ江戸へ向け出発、薩摩から大坂までは海路、大坂から京へは川を上り東海道を陸路で進みました。8月16日、尚寧王は駿府城に登り徳川家康と対面、家康は公家の平服である直衣を着用して大広間の上座で尚寧王を迎え、食籠5個・芭蕉布50反・唐盤20枚・石硯屏1個・焼酎3壺の進物が贈られました。8月20日、家康は能や舞を披露して尚寧王を持て成しましたが、其の後尚寧王一行は病床にあった具志頭朝盛を残して江戸へ出発、8月21日に具志頭は死去し、家康はその死を哀れみ自身の馴染みの寺である清見寺に葬る事にし、8月24日に葬儀が行われました。8月28日、島津忠恒と尚寧王は江戸城に登城して徳川秀忠に謁見、徳川は「琉球は代々中山王の国であるから他姓の人を立て国王としてはいけない」とし改易を禁じて琉球国家の存続を命じ、又島津家には琉球の貢納物を受け取る事を認めました——此れ以降琉球王国は征夷大将軍の代替わり毎に慶賀使を、琉球国王の代替わり毎に謝恩使を江戸に派遣するのが習わしとなりました。9月13日、尚寧王一行は具志頭朝盛の訃報を聞き、最大の理解者であった弟の死に大きく嘆くも、帰路は中山道だった為弟の墓に手を合わせる事は叶わず、12月24日に薩摩へ戻りました。1611年4月に検地が終了し、10月24日に鹿児島藩は仕置を発令——①琉球領地113,041石の内89,086石(沖縄本島・慶良間諸島・伊平屋島・伊是名島・伊江島・渡名喜島・粟国島・久米島・八重山諸島・宮古島)を国王に宛てがい内50,000石を蔵入地・残りを家臣団の知行地とし、残り23,955石の道之島(奄美群島)を鹿児島藩領、②芭蕉布3,000反・上布6,000反・下布10,000反等9種の毎年貢納、③「鹿児島藩の命令無しに唐への誂物の禁止」「琉球から他領へ貿易船を出す事の禁止」「日本の桝以外を用いる事の禁止」等の掟十五条——を施行しました。同日、尚寧王・第7代摂政菊隠宗意・謝名利山・第2代巳日番の法司池城安頼・名護良豊・勝連良継の6名に「琉球は古来島津氏の附庸国であり、島津の殿様が交代する際にはお祝いに駆け付け、贈り物を届けていました」との史実と異なる主旨の忠恒宛起請文に署名させようとしましたが、謝名利山は拠点の久米村で署名を拒否、抵抗した為に島津義弘の命により川上泰助が首を打ちました——此れにより読谷山盛韶が第3代丑日番の法司となり、最終的に此の日は尚寧王のみが署名、翌25日に勝連良継・恵祖重政・読谷山盛韶・豊見城盛続・池城安頼・菊隠宗意の6名が島津宛起請文に署名し、11月23日に尚寧王一行は琉球王国へ帰国しました——書簡の遅延を口実に始まった侵攻が、起請文での歴史改竄まで辿り着いた21年余りの全貌を一冊に束ねた書です。
主要登場人物
- 尚寧王 第7代琉球王国第二尚氏王統国王。1590年9月19日に島津義久から上洛と豊臣秀吉の関東平定祝賀を促す書簡を受領するも使節派遣を遅延させ、後の侵攻正当化の口実を与えた。1609年4月30日に鹿児島藩との和睦使者に第18代円覚寺住職菊隠宗意を指名、5月8日に首里城を開城し、5月19日に崇元寺で樺山久高・平田増宗から薩摩出頭を求められ、6月16日に100名余りの使節団を連れて那覇港を発った。1610年8月16日に駿府城で徳川家康と対面、8月28日に江戸城で徳川秀忠から琉球国家存続を命じられ、1611年10月24日に「琉球は古来島津氏の附庸国であり」との史実と異なる起請文に唯一署名した、本書の主役にして使節派遣を遅延させた事を口実に琉球王国を島津家附庸国へと組み込まれた琉球国王。
- 島津義久 島津家当主。1590年9月19日に尚寧王に対して上洛と豊臣秀吉の関東平定を祝する言葉と綾舟・管弦楽団を贈る様促す書簡を送り、後の侵攻正当化の口実を蒔いた。第18代円覚寺住職菊隠宗意とは、菊隠が日本に渡り京都南禅寺等で修業した経緯から親交があった、本書の冒頭で書簡を送り21年余りに亙る侵攻準備の起点となった島津家当主。
- 島津忠恒 初代鹿児島藩主。1591年に豊臣秀吉の命令と称し琉球王国に朝鮮侵略の軍役・兵糧米・名護屋城建築の負担金を要求するも琉球は半額のみ調達し残半は島津から借りて返済せず、後の侵攻口実となった。1608年9月に大慈寺の僧龍雲を派遣して尚寧王・謝名利山ら4名に朝聘を求め、1609年3月11日に山川港3,000名100隻の出陣に書簡で和睦応諾・7-8月中の決着・人質取得・尚寧王籠城時の焼き払いを指示。4月8日に山川港を出港し4月29日に運天港へ到着、5月4日に首里城を占拠、6月23日に薩摩で尚寧王と面会、1610年4月11日に尚寧王を江戸へ伴い、8月28日に江戸城で徳川秀忠から琉球貢納物受取を認められた、本書の侵攻主体にして「島津忠恒公は哀れに思い、過分の知行を与えて下さり」と起請文に書かせた初代藩主。
- 島津義弘 島津家の重鎮。1611年10月24日に「琉球は古来島津氏の附庸国であり」との史実と異なる主旨の島津忠恒宛起請文への署名を拒否し抵抗した謝名利山を打つ命を所司に下せず、自ら川上泰助に命じて謝名の首を打たせた、本書の終盤で抵抗者の処断命令を下した重鎮。
- 謝名利山 琉球王国の重臣。1608年9月に島津忠恒が遣わせた大慈寺の僧龍雲に対し聴従せず罵り辱めた。1611年10月24日、「琉球は古来島津氏の附庸国であり」との史実と異なる主旨の島津忠恒宛起請文への署名を拠点の久米村で拒否、忠恒が遣わせた所司にも抵抗した為、島津義弘の命を受けた川上泰助に首を打たれた、本書で唯一島津家への屈服と歴史改竄を拒み続け命を以て応えた琉球の重臣。
- 菊隠宗意 第18代円覚寺住職にして第7代琉球王国摂政。円覚寺で得度した後に日本へ渡り京都南禅寺等で修業し、琉球帰国後は島津義久・島津義弘・島津忠恒との外交に携わった。1609年4月30日に尚寧王から和睦使者に指名され、高齢を理由に一度断るも重ねての要請を受けて名護良豊・喜安と共に船上で鹿児島藩との講和交渉に当たった。其の後5月8日の首里城開城交渉、6月16日の薩摩使節団同行、1611年10月25日の島津宛起請文署名へと一貫して関与した、本書を通じて島津家との外交折衝を一身に担った高齢の摂政。
- 具志頭朝盛 尚寧王の弟にして第二尚氏王統摂政。1609年5月8日の首里城開城交渉に補佐役の菊隠宗意と共に当たり、6月16日の薩摩使節団に同行、其の間琉球王国を経由して明へ渡り琉球が薩摩に攻め入られたが大丈夫であるという報告を行い再度薩摩へ戻った。1610年4月11日に尚寧王の江戸行きに同行するも8月20日に病床のまま駿府に残され、8月21日に死去、徳川家康は哀れんで自身の馴染みの寺である清見寺に葬る事を決め8月24日に葬儀が行われた。9月13日に訃報を聞いた尚寧王は嘆きが大きく、帰路は中山道であった為弟の墓に手を合わせる事が叶わなかった、本書で家康に哀れまれて清見寺に葬られた尚寧王最大の理解者。
- 名護良豊 第4代酉日番の法司。1608年9月に島津忠恒の使僧龍雲から朝聘を求められた4名の一人。1609年4月26日には甥の番衆主取与那原朝智が徳之島平等所守備隊のトップとして鹿児島藩兵を砲撃するも捕縛された。4月30日には菊隠宗意・喜安と共に船上で鹿児島藩との講和交渉に当たり、1611年10月24日には島津忠恒宛起請文への署名を求められた6名の一人となった、本書で甥の捕縛と講和交渉に向き合い続けた酉日番の法司。
- 浦添朝師 初代巳日番の法司。1608年9月に島津忠恒の使僧龍雲から朝聘を求められた4名の一人。其の後の場面で名前は登場しないが、1611年10月24日に第2代巳日番の法司池城安頼が起請文への署名を求められる事から代替わりが推察される、本書の冒頭で朝聘を求められた初代巳日番の法司。
- 与那原朝智 名護良豊の甥にして在徳之島平等所の番衆主取。1609年4月26日、鹿児島藩兵が徳之島へ上陸した際に琉球守備隊のトップとして砲撃を加えるも応戦され、進軍してきた為山中に逃げ込み、鹿児島藩の山狩りで捕らえられた、本書で侵攻初期に琉球守備隊として捕縛された名護良豊の甥。
- 佐武良兼 加計呂麻島東之主の息子で掟役。1609年4月24日朝、鹿児島藩の軍船3隻が秋徳に上陸した際、弟思呉良兼と共に棍棒・竹槍・煮え滾った粥で戦う島民を率いて抵抗するも射殺され、加計呂麻島側は6名の死者を出して制圧された、本書で侵攻路上の島民抵抗の象徴となり射殺された掟役。
- 樺山久高 鹿児島藩士。1609年3月11日の山川港集結に総大将として参加し、藩船100隻と藩士3,000名を率いた。島津忠恒からは和睦応諾・7-8月中の決着・人質取得・尚寧王籠城時の焼き払い等を指示する書簡を受領。4月25日に加計呂麻島から沖永良部島へ向けて出港、5月19日に崇元寺で平田増宗と共に尚寧王と面会し自ら薩摩に来る様求めた、本書の侵攻実行を陣頭で指揮した総大将。
- 平田増宗 鹿児島藩士。1609年3月11日の山川港集結に副大将として参加。5月19日に崇元寺で樺山久高と共に尚寧王と面会し自ら薩摩に来る様求めた、本書の侵攻を樺山と並んで率いた副大将。
- 龍雲 大慈寺(現在の鹿児島県志布志市志布志町志布志)の僧。1608年9月に島津忠恒の使者として琉球に派遣され、尚寧王・謝名利山・浦添朝師・名護良豊の4名に対し必ず朝聘するよう求めたが、謝名は聴従せず罵り辱めた、本書で謝名利山に罵辱されて朝聘要請が失敗に終わった大慈寺の使僧。
- 以文 天龍寺の僧。1609年4月14日に琉球王国が鹿児島藩の軍が奄美大島に到着した事を聞きつけ、降伏する為に派遣された使者であったが、鹿児島藩との接触を避け途中で行方を眩まし、後日尚寧王の怒りを買った、本書で和睦使者の任を放棄して姿を消した天龍寺の僧。
- 川上泰助 島津家の家臣。1611年10月24日、忠恒宛起請文への署名を拒否し久米村で抵抗を続けた謝名利山に対し、島津義弘の命を受けて首を打った、本書で歴史改竄に応じなかった琉球の重臣を斬った執行者。
- 読谷山盛韶 琉球王国の重臣。1611年10月24日、忠恒宛起請文への署名を拒否した謝名利山が川上泰助に斬られた事を受けて第3代丑日番の法司となり、翌25日には勝連良継・恵祖重政・豊見城盛続・池城安頼・菊隠宗意と共に島津宛起請文に署名した、本書で謝名の死を契機に法司に昇格し島津宛起請文へ署名した琉球の重臣。
- 徳川家康 徳川家当主。1605年に鹿児島藩から9条の理由を並べた琉球侵攻の願い出を受け、1609年8月6日には琉球征服の軍功として琉球王国を島津忠恒に与え仕置を命じた。1610年8月16日に駿府城で尚寧王と対面し、公家の平服である直衣を着用して大広間の上座で迎接、食籠・芭蕉布・唐盤・石硯屏・焼酎の進物を受領、8月20日には能や舞で持て成した。8月21日に具志頭朝盛が死去すると哀れみ自身の馴染みの寺である清見寺に葬る事を決めた、本書で侵攻を許可しつつ尚寧王には公家の平服で迎え弟の死を哀れんだ徳川家当主。
- 徳川秀忠 第2代征夷大将軍。1610年8月28日に江戸城で島津忠恒・尚寧王の謁見を受け「琉球は代々中山王の国であるから他姓の人を立て国王としてはいけない」とし改易を禁じて琉球国家の存続を命じ、又島津家には琉球の貢納物を受け取る事を認めた——此れ以降琉球王国は征夷大将軍代替わり毎の慶賀使と琉球国王代替わり毎の謝恩使を江戸に派遣するのが習わしとなった、本書で琉球の独立王国としての存続と慶賀使謝恩使派遣の制度を定めた将軍。
島津義久の尚寧王宛上洛要請書簡と使節派遣遅延・島津忠恒の朝鮮出兵負担金要求と琉球の半額借金未返済・徳川家康宛9条の琉球侵攻願い出・大慈寺僧龍雲派遣と謝名利山の罵辱・山川港3,000名100隻集結と樺山久高総大将平田増宗副大将出港・奄美大島笠利湾全面協力・徳之島湾屋島民1,000名棍棒竹槍抵抗と鹿児島藩鉄砲50名殺害・加計呂麻島秋徳上陸と佐武良兼射殺・徳之島平等所守備隊砲撃と与那原朝智捕縛・運天港到着・菊隠宗意船上講和交渉と那覇進軍・今帰仁城落城・読谷攻略・首里城占拠と尚寧王和睦申し入れ開城接収・崇元寺面会と薩摩出頭要求・那覇港100余名使節団出発と薩摩到着・徳川家康による琉球下賜と検地開始・駿府城徳川家康面会と直衣上座迎接・具志頭朝盛死去と清見寺埋葬・江戸城徳川秀忠謁見と琉球国家存続命令・薩摩帰着・検地終了・113,041石分割と89,086石宛行50,000石蔵入地と23,955石道之島鹿児島藩領・芭蕉布3,000反等9種貢納・掟十五条発令・忠恒宛起請文への謝名利山久米村署名拒否と島津義弘命川上泰助斬首・読谷山盛韶第3代丑日番法司就任・島津宛起請文6名署名・尚寧王一行琉球帰国──
「琉球は古来島津氏の附庸国であり」──書簡の遅延を口実に始まり起請文の歴史改竄で結ばれた21年余りを一冊に。
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