電子書籍「鹿児島藩の琉球王国侵攻一元化」の表紙

鹿児島藩の琉球王国侵攻一元化

著者:石田晋一

掲載範囲
西暦1,590年9月19日〜1,611年11月23日頃
※旧暦は全て西暦に変換しています
ページ数
10ページ
最新更新日
西暦2,026年8月4日

西暦1,609年、3,000名の兵が山川港を発った──
琉球王国が薩摩の下に置かれる迄の二十一年を一元化。

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本書について

西暦1,590年9月19日、島津義久は第7代琉球王国第二尚氏王統尚寧王に宛てて一通の書簡を送った。上洛して豊臣秀吉の関東平定を祝する言葉を述べ、公式儀礼船である綾舟と管弦楽団を贈る様促す、という主旨である。しかし琉球の使節派遣は遅れ、此の遅延が、十九年後に島津家が琉球へ攻め入る事を正当化する要因の一つとなった。本書は、其の一通を起点として、西暦1,611年に尚寧王が起請文へ署名し、琉球へ帰り着く迄の二十一年を、年月日単位で一元化した記録である。

次に積み上げられたのは、負債であった。西暦1,591年、初代鹿児島藩主島津忠恒は豊臣秀吉の命令と称し、朝鮮侵略の軍役・兵糧米・名護屋城の建築に係る負担金を琉球王国へ要求する。琉球は要求の半分だけを調達して送り、残りの半分は島津家から借りて納め、其の返済をしなかった。そして西暦1,605年、鹿児島藩は徳川家康へ琉球侵攻を願い出る。関ヶ原の戦いで西軍に加担した背景から幕府の信頼を得たい事、度重なる戦乱で行き詰まった財政を琉球貿易で立て直したい事、琉球を通じて明と貿易したい事、領地を広げたい事、分散していた島津氏の権力を藩主の下に纏めたい事——そして、因幡の亀井茲矩が西暦1,590年に3,500名の兵で企てた琉球征伐を島津が中止させた恩を忘れている事、負担金を返さない事、幕府への献上を勧めても応じなかった事、西暦1,602年に伊達政宗の領内へ漂着した琉球船の乗員を帰国させたのに礼を欠いた事。「非礼」は、後から幾らでも数え上げる事が出来た。

西暦1,608年9月、忠恒は徳川家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞き、大慈寺(現在の鹿児島県志布志市志布志町志布志)の僧龍雲を遣わして、尚寧王・謝名利山・初代巳日番の法司浦添朝師・第4代酉日番の法司名護良豊に必ず朝聘する様求めた。しかし謝名は聴き従わず、龍雲を罵り辱めた。翌西暦1,609年3月11日、総大将樺山久高・副大将平田増宗を中心とする鹿児島藩士3,000名と藩船100隻が山川港(現在の鹿児島県指宿市山川金生町)に集結する。待機する樺山の下へ届いた忠恒の書簡には、和睦の申し立てが有れば異議無く談合に応じる事、7・8月中に片を付けて帰還する事、琉球王国の歴々や島々の頭々まで人質に取る事、尚寧王が首里城に長く籠城する様子が見えたら焼き払う事、奄美諸島への兵糧米の徴発は琉球王国より軽くする事が記されていた。

4月8日、3,000名を乗せた75隻が山川港を発つ。口永良部島(現在の鹿児島県熊毛郡屋久島町)を経て11日に奄美大島の笠利湾(現在の鹿児島県奄美市)へ入ったが、島の首脳が全面協力の意向を示した為、戦闘は起きなかった。山林へ逃げ隠れた島民にも「抵抗なくば安堵して良い」と伝えられ、事は収まっている。しかし南へ下る程、抵抗は現れた。20日、徳之島の湾屋(現在の鹿児島県大島郡天城町)へ入った8隻を島民1,000名が棍棒や竹槍で取り囲み、鹿児島藩は鉄砲で50名を殺害したが、無傷では済まなかった。24日の朝、加計呂麻島の秋徳(現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町)では、東之主の息子で掟役の佐武良兼と弟の思呉良兼が、棍棒・竹槍・煮え滾った粥で戦う島民を率いる。佐武良兼は射殺され、島側は6名の死者を出して制圧された。26日には徳之島の在徳之島平等所に居た琉球守備隊が砲撃したものの山中へ逃げ込み、山狩りによって番衆主取与那原朝智が捕らえられている。

4月29日の夕方、船団は運天港(現在の沖縄県国頭郡今帰仁村)へ着いた。翌30日、尚寧王は和睦の使者に隠居していた第18代円覚寺住職菊隠宗意を指名する。菊隠は一度は高齢を理由に断ったが、重ねての要請を受けて名護良豊・喜安と共に船上で講和交渉に当たった。それでも鹿児島藩は其の儘那覇へ進軍する。5月1日、第一目標であった今帰仁城(現在の沖縄県国頭郡今帰仁村)は既に放棄されて誰も居らず、所々に火が放たれた。3日に読谷(現在の沖縄県中頭郡)を攻略した軍は陸路と海路に分かれて那覇を目指し、4日に首里城(現在の沖縄県那覇市)を占拠する。8日、尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城し、接収された。19日、尚寧王は歴代の国王を祀る崇元寺(現在の沖縄県那覇市泊)で樺山久高・平田増宗と面会し、自ら薩摩へ来る様求められる。

6月16日、尚寧王は摂政具志頭朝盛・菊隠宗意・第22代円覚寺住職恩叔宗沢・喜安を含む総勢100名余りの使節団を連れて那覇港を発ち、23日に薩摩へ着いた。8月6日、徳川家康は琉球征服の軍功として琉球王国を島津忠恒に与え、仕置を命じる。翌西暦1,610年4月11日、尚寧王一行は忠恒に伴われて江戸へ向かった。8月16日、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)で家康と対面——家康は公家の平服である直衣を着用して大広間の上座に座り、尚寧王は食籠5個・芭蕉布50反・唐盤20枚・石硯屏1個・焼酎3壺を献じた。20日には能や舞で持て成されたが、一行は病床に在った弟の具志頭朝盛を残して江戸へ発ち、朝盛は翌21日に世を去る。家康は其の死を哀れみ、馴染みの清見寺(現在の静岡県静岡市清水区興津)に葬らせた。

8月28日、島津忠恒と尚寧王は江戸城に登り、徳川秀忠に謁見する。秀忠は、琉球は代々中山王の国であるから他姓の人を立てて国王としてはならないとして改易を禁じ、琉球国家の存続を命じた。併せて島津家には琉球の貢納物を受け取る事が認められる。此れ以降、征夷大将軍の代替わりには慶賀使が、琉球国王の代替わりには謝恩使が江戸へ送られる習わしとなった。尚寧王が弟の訃報を聞いたのは9月13日で、最大の理解者を失った嘆きは大きく、供の者も皆涙を流した。往路は東海道であったが帰路は中山道であった為、弟の墓に手を合わせる事は叶わなかった。一行が薩摩へ戻ったのは、12月24日頃であった。

西暦1,611年4月頃、鹿児島藩による琉球王国の領地の検地が終わる。10月24日、仕置が下された。領地113,041石の内、沖縄本島・慶良間諸島・八重山諸島・宮古島等の89,086石を国王に宛てがい、内50,000石を蔵入地、残りを家臣団の知行地とする。残る23,955石の道之島(奄美群島)は、鹿児島藩の領地となった。毎年の貢納として芭蕉布3,000反・上布6,000反・下布10,000反・唐苧2,100斤等が課され、唐への誂物や他領への貿易船を禁ずる「掟十五条」が発令される。同じ日、尚寧王等は「琉球は古来島津氏の附庸国であった」という史実と異なる文面の起請文への署名を求められた。謝名利山は拠点の久米村(現在の沖縄県那覇市)で署名を拒み、抵抗した末、島津義弘の命を受けた川上泰助に首を打たれる。此の日署名したのは、最終的に尚寧王ただ一人であった。翌25日には勝連良継等6名が島津宛の起請文を書かされ、尚寧王一行が琉球へ帰り着いたのは、11月23日頃の事である。


登場人物

  • 尚寧王 第7代琉球王国第二尚氏王統の国王。西暦1,590年9月19日の島津義久の書簡に始まり、西暦1,609年5月8日に和睦を申し入れて首里城を開城、19日には崇元寺で自ら薩摩へ来る様求められた。6月16日に総勢100名余りの使節団を率いて那覇港を発ち、駿府城で徳川家康と、江戸城で徳川秀忠と対面。西暦1,611年10月24日の起請文には、署名を拒んだ謝名利山を除いて唯一人署名し、11月23日頃に琉球へ帰り着いた本書の中心人物。
  • 島津忠恒 初代鹿児島藩主。西暦1,591年に豊臣秀吉の命令と称して朝鮮侵略の軍役・兵糧米・名護屋城建築の負担金を琉球へ要求し、西暦1,608年9月には僧龍雲を遣わして朝聘を促した。西暦1,609年の出兵に際しては、和睦への対応・期限・人質・首里城の焼き払いを指示する書簡を樺山久高へ送っている。同年8月6日、徳川家康から琉球王国を与えられ、仕置を命じられた。
  • 島津義久 西暦1,590年9月19日、尚寧王に対して上洛と豊臣秀吉の関東平定を祝する言葉、綾舟と管弦楽団の贈呈を促す書簡を送った人物。此の書簡に対する琉球の使節派遣の遅延が、後の琉球侵攻を正当化する要因となった。円覚寺住職菊隠宗意とも親交が有った。
  • 樺山久高 琉球侵攻の総大将。西暦1,609年3月11日に山川港へ集結した3,000名を率い、島津忠恒からの指示を受けて出港した。4月25日には10隻を率いて加計呂麻島から沖永良部島へ向かい、28日に本隊と合流して沖縄本島を目指す。5月19日、崇元寺で平田増宗と共に尚寧王と面会し、薩摩へ来る様求めた。
  • 平田増宗 琉球侵攻の副大将。樺山久高と共に3,000名の軍を率い、西暦1,609年5月19日には崇元寺で尚寧王と面会して、尚寧王自ら薩摩へ来る様求めた。
  • 謝名利山 琉球王国の三司官。西暦1,608年9月、島津忠恒が朝聘を求めて遣わした僧龍雲に聴き従わず、罵り辱めた。西暦1,611年10月24日には「琉球は古来島津氏の附庸国であった」という史実と異なる起請文への署名を拒み、拠点の久米村で抵抗した末、島津義弘の命を受けた川上泰助に首を打たれた。
  • 菊隠宗意 第18代円覚寺住職。西暦1,609年4月30日、尚寧王から和睦の使者に指名され、高齢を理由に一度は断ったが、重ねての要請を受けて名護良豊・喜安と共に船上で講和交渉に当たった。5月8日の開城の際にも交渉に加わり、尚寧王に従って薩摩・江戸へ同行。後に第7代琉球王国摂政となり、西暦1,611年10月25日の島津宛の起請文にも名を連ねた。日本へ渡って京都南禅寺等で修業し、島津義久・島津義弘・島津忠恒と親交が有った。
  • 具志頭朝盛 尚寧王の弟で第二尚氏王統摂政。首里城開城の講和交渉に当たり、薩摩では琉球王国を経由して明へ渡り、琉球が攻め入られたが大丈夫であると報告して再び戻った。西暦1,610年8月、駿府で病床に就いて一行から遅れ、20日に一行が江戸へ発った翌21日に死去。徳川家康は其の死を哀れみ、馴染みの清見寺に葬らせた。
  • 名護良豊 第4代酉日番の法司。西暦1,608年9月、島津忠恒が僧龍雲を通じて朝聘を求めた四人の一人であり、翌西暦1,609年4月30日には菊隠宗意・喜安と共に船上での講和交渉に加わった。徳之島で捕らえられた琉球守備隊の番衆主取与那原朝智は、其の甥に当たる。
  • 佐武良兼 加計呂麻島の東之主の息子で掟役。西暦1,609年4月24日の朝、秋徳へ上陸した鹿児島藩の軍船3隻に対し、弟の思呉良兼と共に、棍棒・竹槍・煮え滾った粥で戦う島民達を率いた。射殺され、加計呂麻島側は6名の死者を出して制圧されたが、鹿児島藩も数名の死者を出している。
  • 与那原朝智 琉球王国の在徳之島平等所に置かれた守備隊のトップである番衆主取で、名護良豊の甥。西暦1,609年4月26日、上陸した鹿児島藩兵を砲撃したが、応戦されて山中へ逃げ込み、山狩りによって捕らえられた。
  • 龍雲 大慈寺の僧。西暦1,608年9月、島津忠恒の命を受けて琉球へ渡り、尚寧王・謝名利山・浦添朝師・名護良豊に必ず朝聘する様求めたが、謝名に罵られ辱められた。
  • 以文 天龍寺の僧。西暦1,609年4月14日、鹿児島藩の軍が奄美大島へ到着した事を知った琉球王国が、降伏の為に遣わした使者。しかし鹿児島藩との接触を避け、途中で行方を眩ました為、後日尚寧王の怒りを買う事となった。
  • 徳川家康 西暦1,605年に鹿児島藩から琉球侵攻の願い出を受け、西暦1,609年8月6日には琉球征服の軍功として琉球王国を島津忠恒に与えて仕置を命じた。西暦1,610年8月16日、駿府城で公家の平服である直衣を着用し、大広間の上座で尚寧王を迎えている。20日には能や舞で持て成し、21日に死去した具志頭朝盛を清見寺に葬らせた。
  • 徳川秀忠 西暦1,610年8月28日、江戸城で島津忠恒と尚寧王の謁見を受けた。琉球は代々中山王の国であるから他姓の人を立てて国王としてはならないとして改易を禁じ、琉球国家の存続を命じる一方、島津家には琉球の貢納物を受け取る事を認めた。此れ以降、慶賀使と謝恩使が江戸へ送られる習わしとなった。

本書が記録する出来事

  • 島津義久の書簡と使節派遣の遅延 西暦1,590年9月19日、上洛して豊臣秀吉の関東平定を祝し、綾舟と管弦楽団を贈る様促した書簡。琉球の使節派遣が遅れた事が、十九年後の琉球侵攻を正当化する要因となった、本書の起点。
  • 朝鮮侵略の負担金 西暦1,591年、島津忠恒が豊臣秀吉の命令と称して要求した、朝鮮侵略の軍役・兵糧米・名護屋城建築の負担金。琉球王国は半分だけを調達し、残りは島津家から借りて納め、其の返済をしなかった。此の未返済が、後の侵攻の口実の一つに数えられる事となる。
  • 徳川家康への琉球侵攻の願い出 西暦1,605年、鹿児島藩が九つの理由を並べて願い出た琉球侵攻。幕府の信頼の獲得、財政の立て直し、明との貿易、領地の拡張、島津氏の権力の集中に加え、亀井茲矩の琉球征伐を中止させた恩、負担金の未返済、幕府への献上の拒否、伊達政宗領内への漂着船を巡る非礼が挙げられた。
  • 僧龍雲の派遣 西暦1,608年9月、徳川家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津忠恒が、大慈寺の僧龍雲を遣わし、尚寧王・謝名利山・浦添朝師・名護良豊に必ず朝聘する様求めた一件。謝名は聴き従わず、龍雲を罵り辱めた。
  • 山川港への集結 西暦1,609年3月11日、樺山久高と平田増宗を中心とする鹿児島藩士3,000名と藩船100隻が山川港へ集まった。島津忠恒の書簡は、和睦への応対、7・8月中の帰還、歴々と島々の頭々の人質、首里城の焼き払い、奄美諸島への兵糧米の徴発の加減を指示していた。4月8日、75隻が出港する。
  • 奄美大島の無血通過 西暦1,609年4月11日、笠利湾へ入った船団に対し、奄美大島の首脳が全面協力の意向を示した為、戦闘は起きなかった。12日には笠利へ島民が集結しているとの報で巡察が行われたが、島民は山林に隠れており、「抵抗なくば安堵して良い」と伝えられて事は収まった。
  • 徳之島湾屋の戦い 西暦1,609年4月20日、徳之島へ来た軍船13隻の内8隻が湾屋へ入港した所、島民1,000名が棍棒や竹槍を手に取り囲んで戦いを挑んだ。鹿児島藩は鉄砲を用いて島民50名を殺害したが、無傷では済まなかった。
  • 加計呂麻島秋徳の戦い 西暦1,609年4月24日の朝、軍船3隻が上陸した秋徳での戦闘。東之主の息子で掟役の佐武良兼と弟の思呉良兼が、棍棒・竹槍・煮え滾った粥で戦う島民を率いたが、佐武良兼は射殺され、島側は6名の死者を出して制圧された。鹿児島藩も数名の死者を出している。
  • 徳之島の琉球守備隊 西暦1,609年4月26日、上陸した鹿児島藩兵を在徳之島平等所の琉球守備隊が砲撃したが、応戦を受けて山中へ逃げ込んだ。山狩りにより、名護良豊の甥で守備隊のトップである番衆主取与那原朝智が捕らえられた。
  • 菊隠宗意の講和交渉 西暦1,609年4月30日、運天港へ到着した船団に対し、尚寧王が隠居していた第18代円覚寺住職菊隠宗意を和睦の使者に指名した一件。菊隠は高齢を理由に一度断ったが、重ねての要請を受けて名護良豊・喜安と共に船上で交渉に当たった。しかし鹿児島藩は其の儘那覇へ進軍した。
  • 今帰仁城から首里城へ 西暦1,609年5月1日、第一目標であった今帰仁城は既に放棄されて無人であり、所々に火が放たれた。3日に読谷を攻略した軍は陸路と海路に分かれて那覇を目指し、4日に首里城を占拠。8日、尚寧王の和睦の申し入れにより首里城は開城し、接収された。
  • 尚寧王の薩摩・江戸への旅 西暦1,609年5月19日に崇元寺で薩摩行きを求められた尚寧王が、6月16日に総勢100名余りの使節団を連れて那覇港を発ち、23日に薩摩へ到着。西暦1,610年4月11日には島津忠恒に伴われて江戸へ向かい、薩摩から大坂は海路、大坂から京は川、其の先は東海道を陸路で進んだ。
  • 駿府城での対面と江戸城での謁見 西暦1,610年8月16日、徳川家康が直衣を着用して大広間の上座で尚寧王を迎え、食籠5個・芭蕉布50反・唐盤20枚・石硯屏1個・焼酎3壺が献じられた。28日には江戸城で徳川秀忠が改易を禁じて琉球国家の存続を命じ、島津家に貢納物の受け取りを認めた。以後、慶賀使と謝恩使が江戸へ送られる事となる。
  • 具志頭朝盛の死と清見寺 西暦1,610年8月20日、一行が病床の具志頭朝盛を駿府に残して江戸へ発った翌21日、朝盛は死去した。徳川家康は其の死を哀れみ、24日、馴染みの清見寺で葬儀が行われた。尚寧王が訃報を聞いたのは9月13日であり、帰路が中山道であった為、弟の墓に手を合わせる事は叶わなかった。
  • 琉球仕置と掟十五条 西暦1,611年10月24日、検地を経て下された処分。領地113,041石の内89,086石を国王に宛てがい、残る23,955石の道之島(奄美群島)を鹿児島藩の領地とした。芭蕉布3,000反・上布6,000反・下布10,000反等の毎年の貢納が課され、唐への誂物や他領への貿易船を禁ずる掟十五条が発令された。
  • 起請文と謝名利山の処刑 西暦1,611年10月24日・25日、「琉球は古来島津氏の附庸国であった」という史実と異なる文面で書かされた忠恒宛・島津宛の起請文。謝名利山は久米村で署名を拒んで抵抗し、島津義弘の命を受けた川上泰助に首を打たれた。24日に署名したのは最終的に尚寧王のみで、25日には勝連良継等6名が名を連ねた。

島津義久の一通の書簡から掟十五条へ──
鹿児島藩の琉球王国侵攻と其の仕置の全過程を一元化。

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AUTHOR

石田晋一

歴史データベース「トキジク」管理人。
万物の系譜の編纂者であり、電子書籍の著者。
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